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ドロヌーバの憂鬱

35歳を過ぎた今、大切にしないといけないのは苦言です。確実に。
苦言とどう向き合うかで、10年先の未来が、劇的に変わるような気さえする。


悲しいことにおじさんは、1人では変わりにくい。
その場に留まることが不幸だと分かっていても、どこに一歩踏み出せば良いのかわからない。
同性愛者が幸せへ向かう標は少なく、規定演技よりも、自由演技を求められる。
「私は何が出来るんだっけ?何がしたいんだっけ?」
ぼんやりその場に佇んでいると、地面はぬかるみ、いつの間にか泥に浸かっていく。
眼前に広がるのが望んでいない景色だとしても、「変化がない」という一点のみにおいて安心感を得て、視点がどんどん低くなっていることにも気づかない。
そして一番ヤバいのが、その泥浸りの状態に愛着を感じ始めていること。
不幸に愛着って何。


不幸な状態、望んでいない状態からは、一刻も早く逃げ出す方が良い。
でもこの時、引き摺り出してもらおうと他者に縋ったら、多分失敗する。
泥だらけの自分も受け止めて欲しいという思いが、差し伸べられた手を強くひくから。
引き摺り込まれそうになった人は、危険を感じて逃げていく。
ここでようやく自分がドロヌーバになっていることに気づく。
この泥は何由来なのか、何故この泥に愛着を感じているのかを、客観的に見つめた上で決別をしないと、いつまでもたってもドロヌーバのまま。

そこで頼りになるのが、他者からの苦言。
苦言は客観。
苦言は宝物。
苦言は一生物。
私が広告屋さんなら苦言に「真摯に受け止めて、明るい未来!」ってコピーつける。(パクるなよシゲサト)


さて私が最近受け取った宝物は「プライドが高い」「欲求不満」の2つ。





具合が悪過ぎる。
なんだ、それ。
あたしの35年を否定しないでよ!!
ていうか、この性質の組み合わせ終わってるだろ。
怖すぎ。よく閃いたな。





やだー😫





でも、心当たりがないこともなく、ドロヌーバからニンゲンに戻るためには、避けては通れない懸案事項ということも自覚してます。

何にプライドを感じてるかを考えてみたら「自分でいること」っていうクソデカキラキラエゴにぶち当たったので、まずは欲求の部分からぼちぼち考えてます。


皆さんは人生に何を求めてますか?
そして、それはどれくらい満たされていますか?

※実際には聞かないので安心してね

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