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清八と泥棒と馬

 金谷洞善院にはいくつもの不思議が伝わる。                                        昔、清八という百姓がいた。ある日のこと、一人の旅人が清八に一夜の宿を頼んだ。気のいい清八は彼を泊めた。しかし、この男は泥棒で、夜中に清八の家の布団を担いで逃げ出した。忍び足で馬小屋の前に来たところ、担いだ布団が何かに引っ張られる。驚いて振り向くと、清八の飼い馬が布団の端に喰いつき、そして、「おれは長らくこの家に飼われている馬だ。お前が主人のものを盗み出すのを見て見ぬ振りをすることはできん。…頼みがある。おれは今、死期が来て、間もなく死ぬが、お前はこのおれが畜生道から逃れて、来世は人間に生まれ変わるよう弔ってくれないか」(竹市光章『大井川物語』)と喋った。驚いた男は、一目散に元の部屋に逃げ帰り、夜明けを待って、清八に昨夜の出来事を話し許しを乞うた。馬小屋に行ってみると、馬はすでに息絶えていた。清八と泥棒は馬をねんごろに弔い、畜生道から逃れるように馬頭観音を造り、洞善院に寄進した。

馬頭観音様

 そもそも馬頭観音とは、ヒンドゥー教では、馬頭の冠をつけ、人の世の魔を睨みつける憤怒の表情をしていた。やがて、「六観音(聖、十一面、千手、如意輪、准、馬頭)」として仏教に取り入れられた。馬が濁水を飲み干し、雑草を喰い尽すように、衆生の煩悩を引き受ける観音様となった。その姿は「馬頭冠」の怒りの神から柔和な観音像へと変わっていった。人々は共に生活した馬の成仏を願うと同時に、自身の煩悩からの解放と、輪廻転生による畜生道からの離脱を「馬頭観音」に託したのだった。

画像_馬頭観音(1)

神か馬か

 旧約聖書の世界では、「馬は勝利に頼みとはならない。その大いなる力も人を助けることはできない」(詩篇33-17)と、馬に頼ることは、神への信頼を裏切るもの、とされた。その頃(BC950年頃)のイスラエル王国は栄華を誇り、ソロモン王は戦車用の馬の厩舎四万、騎兵一万を装備していた。預言者は、馬の圧倒的パワーが神に勝ることを怖れた。やがてアッシリアなど、より優れた馬に乗る戦隊によって王国は滅亡する。
 馬が飼育されたのは、BC6000年頃とされる。BC2000年頃には、メソポタミアや西アジアで騎馬戦士や馬による戦車が登場した。このことは古代の戦争の様を変えた。「それは、『速度』という概念であり、それを通じて世界の広がりを感知できた」(木村凌二『馬の世界史』)のだった。「馬」によって、古エジプト王国やローマ帝国など、大国が盛衰を繰り返す。

家族として

 日本において「馬」は家族の一員だった。江戸幕府は切支丹禁制のため、すべての家族に「人別帳」(現在の戸籍)の作成と寺院への「宗門改め」を命じた。たとえば大津村(島田市)尾川では「九郎左衛門、人数八人、内男三人、下人一人、子、女三人…馬壱疋」と記され、馬はまぎれもなく家族の一員であった。家畜であって、家畜ではなかった。馬への家族愛が、「馬頭観音」信仰を生んだのだった。
明治以降、再び戦争の時代に、馬は戦場へ送りだされ、外地の露と消えた。島田市新町通り公会堂前には『愛馬之碑』が残り、「昭和十四年 島田町長 高杉幸作」と記されている。戦地へ送る愛馬への愛惜が伝わる。馬は、今、「速さと美」の世界を駆け抜ける。

(地域情報誌cocogane 2021年9月号掲載)

画像_愛馬之碑

[関連リンク]

地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

金谷洞善院(静岡県島田市金谷緑町100)

愛馬之碑

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