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映画評論家・淀川長治、その人となり〜孤独ながらも誰より映画を愛し映画に愛された時代の申し子〜

偶然図書館で淀川長治についての雑誌があったので読んでみたけど、本当にこの人は知れば知るほど魅力的で面白い人だなあと思う。
映画を愛し映画に愛された、蓮實重彦や山田宏一らと並ぶ偉大な映画評論家であり、雑誌の中でも言われているように一台の映写機ではなかろうか。
この人の語りって感性に訴えるような感じだけど、でもしっかりその映画のエッセンスというか肝を的確に言語化する能力に長けていた。
しかし、蓮實がいうように、この人は映画評論家の中でも突然変異の天才であり、継承は決して不可能だし今後彼に匹敵する評論家が生まれるとも思えない。

本当にいろんな映画人が彼を愛し、彼もまた映画人の色んな人を愛してきた人であり、間違いなく日本映画評論の今日においてなお影響を与え続ける語り部だと思う。
どの項目も面白かったんだけど、特に個人的に刺さったのは北野武との対談と「自由に生きて自由に死にたい」という項目で、久々に理論・理屈ではなく感性で共感できる文章を見た。
私は基本的に作品を見るときも評価するときも感性を持ち込まないようにしているし、あらゆる思想・哲学・批評の本を読んでもそのほとんどが表面上の理解で終わってしまう。
けれど、淀川さんの映画に対する考えや「孤独」との向き合い方というこの一点においては私自身も正に同じ考えであり、特にこの部分がめちゃくちゃ刺さった。

それに、さらに深く考えると、僕の立場というのは男と女のまんなかにいるのね。男とは何か、女とはどういうものか、両方がわかる。結婚していないがゆえに、夫婦の映画を観るときでも、夫と妻、どちらの気持ちにも偏ることなく冷静にみることができるんです。結婚していれば、妻の視点か夫の視点か、どちらかになりますからね。(P.26)

ひとりでいることは、まわりの人が考えるほど不幸なことじゃない。結婚生活をおくっていても、子供がいても、孤独で不幸な人はたくさんいます。むしろ、映画という大好きなものに専念できること、誰にも気がねせずに、自分の好きなまま自由に人生をおくっていける喜びのほうが、僕にとっては幸せ。(P.27)

『増補新版-淀川長治-カムバック、映画の語り部-文藝別冊-KAWADE夢ムック』

淀川長治は自身の生を全て映画評論に捧げた、それが許されるほどの圧倒的な語り部としての才能と厳しくも優しく温かいお人柄、映画に自分のエネルギーの全てを注いできたからこそあれだけ熱のある映画評論ができる。
何が素敵といって生涯独身を貫いていながら決してそれを悪いことと思わず、むしろ独身だからこそできる生き方があるといい方向に捉えて孤独を慈しみ愛した人であり、そこが私はとても共感したところだ。
まあ強いて言えば淀川長治は「映画」と結婚したわけであり、映画の神様に愛された人だからこそその生き方が成り立っていたし、また独身貴族に向いている人であったと思う。
もちろん、決して無計画にその生き方を選んだわけではなく、ひとり暮らしを自由にできるだけの経済力や貯金などの金銭管理がしっかりしていたとも本人は語っていたわけであるが。

また、北野武との対談で出てくる「男の孤独」というワードがとても心に刺さり、私はこの「男の孤独」が画面に貼り付いている(それでていて決して教条主義的ではない)からこそ北野映画に惚れ込んだというのがある。
今でこそ独身貴族というのは男女問わず1つの生き方・価値観として認められているが、それでもこの間の「奢り奢られ論争」を見るに、まだそれがスタンダードになっていないのだなあと思う。
それこそ彼の言葉を借りるのであれば、奢り奢られ論争に関しては「そもそも最初からデートをしなければ発生しない問題じゃね?」でおしまいなのだが、何でそんな簡単なことがわからないのか?
自分が打ち込める趣味や生き甲斐となるものがあれば、別にわざわざ女とデートなんかしなくたって充実した生き方は可能であるし、ひとりの方が自分のことにエネルギーも時間もお金も100%使えるのだ

私は男の立場にも女の立場にも、どちらにも寄らないからこそこの見方ができると思っていて、結局他者との付き合いや交際が多くなるとそっちの方に自分のリソースを割かないといけなくなる
人間関係なんてそれが仕事であれプライベートであれ、付き合う以上は何らかの摩擦が発生するものだし、ましてや大人の付き合いとなれば同性異性を問わずお金が発生するのだ。
保護者に守られている少年少女時代なら利害関係抜きでも付き合いは可能だが、社会に出ると利害が発生して学生の時と同じ感覚では付き合えなくなるし、一番大事なのは自分の生活になってくる。
原節子が『東京物語』(1953)でいっていたように、家族の絆をはじめとする人同士の繋がりなんて刹那的なものであり、結局最後はひとりだし自分だけの生活が一番だろう。

だから、私はそもそも奢り奢られ論争をはじめとする男女の諍いを見ていると本当に阿呆らしいというか、「でもその状況はあんたさん自身の選択の結果だろ?嫌ならその関係切ってしまえよ」で済む話だ。
私は小さい頃からそうだが、いわゆる「友達付き合い」なんてものをほとんしたことがなく、昼休みは図書室で本を読むか、もしくは本当に仲のいい親友と2人で秘密の遊びみたいなことをするのが大好きだった。
そして下校もひとりだったし、家に帰れば宿題を片付けた後はゲームと読書、時にまあテニスをやっていたくらいのごく普通の子供であったが、とにかく誰かと仲良くという考えが昔から欠落していたと思う。
みんなで遊んだこともないわけではないが、表面上遊びに混じりつつもそんな状況をどこか引いた目で俯瞰して「アホらしい、こんなことに夢中になってんの?」と冷めた自分も間違いなくいた。

だから、スーパー戦隊シリーズはその意味で私にとっては「憧れ」でもあり「驚き」でもあった、正にギンガレッド・リョウマに純粋な憧れを持ち戦いの世界に驚くように楽しんでいた青山勇太少年の気持ちそのものである。
私がなぜ昔から今までずっとスーパー戦隊シリーズを愛してきたのかというと一番の理由は自分が「孤独」だったからこそ、というのが一番にあったのかもしれない(物理的にではなく精神的に)。
現実にはスーパー戦隊シリーズのように肩を組んで1つの目的に向かって総力戦で何かを成し遂げられる理想のチームなんてそんなに存在するものじゃない、あってもそれはごく少数である。
そのごくごく少数のものを子供の憧れとして、しかも海外には決してない「5人の全く違うヒーローの夢の共演」という集団主義的文化の体現として美しいと感じたからこそだ。

それが同時にウルトラマンや仮面ライダーにそこまで強い思い入れがない理由にもなっていて、ウルトラマンや仮面ライダーは図らずも超越的な力を手にしてしまった者たちである。
最初から孤独な立場の人間であり、世の中の人たちや世間とは一線を画するところにいていつでも自由に戦えるという意味では共感もするのだが、「驚き」「憧れ」はあまりない
スーパー戦隊シリーズはその意味で私にとっては日常にあって私を誘ってくれた存在でありながら、同時に現実には全く存在し得ないからこその「驚き」「憧れ」があった
自分が孤独な生き方を半ば意図的に選んだからこそ、チームを組んで1つの物事を成し遂げる、しかも個々の価値観を決して否定せずにそれを維持するスーパー戦隊のあり方は好きなのである。

話がスーパー戦隊に脱線したのでもとに戻して、とにかく淀川長治は映画体験を誰よりも愛して、同時に映画の神様に愛された突然変異という時代の寵児であったのではなかろうか。
とても自由闊達に生き生きと映画を語る彼の様を見ていると本当に映画を見たくなるし、そういう語り部の存在を知るとやはりサブカルチャーにおける評論・批評は必要だなあと思う。
「もっと映画を見なさい」とのありがたいお言葉を胸に、是非これからももっともっといろんな映画を見て視野を広げ見聞を深め、もっともっと感性を豊かにしよう。

淀川さん、本当に映画を愛してくれて、多くの人々を映画に誘ってくれて、そして孤独を肯定してくれてありがとう。


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