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平安時代の感染症対策をルーツとする御霊会(2)疫病を祓い敗者の霊を鎮めた2つの御霊神社

文・ウェッジ書籍編集室

 5月下旬に緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。人間と疫病(感染症)の戦いは今に始まったものではなく、文献によれば、平安時代の日本人も幾度となく苦しめられていました。また、富士山の噴火や貞観大地震など、さまざまな災害にも苦しめられてきました。
 これらの疫病や災害は、当時、無実を訴えながら死んでいった人が、御霊となって引き起こしていると考えられました。そこで御霊を鎮め災厄を祓うために執り行われたのが、現在の祇園祭のルーツともされる御霊会(ごりょうえ)です。
 ここでは、9月発売予定の『京都異界に秘められた古社寺の謎』(民俗学者・新谷尚紀 編、ウェッジ刊)の中から、前回の連載に引き続き、御霊会と関係の深い京都の2つの御霊神社についてみていきます。

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神泉苑以外で執り行われるようになった御霊会

 前回の記事のように御霊会は神泉苑(しんせんえん)で開かれましたが、のちに平安京周縁の場所で執り行われるようになりました。そのひとつが、祇園社(ぎおんしゃ)つまり現在の八坂(やさか)神社で、祇園祭の源流のひとつがこの御霊会とされています。

 また、たんに御霊会が行われるだけでなく、崇道(すどう)天皇(早良親王)をはじめとする御霊が祭神として祀られるようになった神社もあります。その代表格が、上京区の北端の、賀茂川の河原近くに鎮座する上御霊(かみごりょう)神社です(正式には「御靈神社」と書かれます)。

①上御霊

御靈神社(上御霊神社)は御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車など皇室ゆかりの品が所蔵されている(『都名所図会』)

 上御霊神社の草創は不詳の点も多いのですが、通説に従うと、その前身は平安遷都以前からこの場所にあった出雲寺(上出雲寺)の鎮守社であるといい、当初は上出雲(寺)御霊堂などと呼ばれていたとされます。当時は神仏混淆の時代でもあったので、出雲寺と御霊神社が一体になっていたとみることもできます。

 古代にはこのあたりは出雲国の人たちの移住地であり、出雲郷と呼ばれ、上下に分かれ、それぞれに出雲氏の氏寺として上出雲寺と下出雲寺がありました。現在でも賀茂川の西岸には「出雲路」という地名が残っています。

 また、平安遷都の際に大和国宇智(うち)郡(奈良県五條市とその周辺)から遷座したものとする説もあります(『京都・山城寺院神社大事典』)。宇智郡には、光仁天皇皇后・井上(いのうえ)内親王の霊を弔うために桓武天皇が建てたと伝わる霊安寺(りょうあんじ)と御霊神社があったので、それを遷したのだとされます。

御霊会を営むのに最適な場であった上御霊神社

 井上内親王は皇太子・他戸(おさべ)親王の母でしたが、宝亀(ほうき)3年(772)、天皇を呪詛(じゅそ)していたとされて廃后され、翌年、他戸親王とともに宇智郡に幽閉され、1年半後の同じ日に2人は亡くなりました。毒殺もしくは自殺だろうとされています。

 事件は桓武天皇の皇位継承を確立するために画策された、光仁天皇の側近・藤原百川(ももかわ)らが中心となった陰謀とみられ、井上母子の没後、天災が起こったり、百川が急死したりするなど変事が続いたため、母子は桓武天皇をはじめ多くの人びとに怨霊として恐れられるようになったのです。

 つまり、上御霊神社は、京都に古くからあった出雲氏の氏寺に、原初の御霊信仰がミックスされることで成立した、神仏習合的な霊場ということになります。御霊会を営むにはうってつけの場所だったともいえます。

②上御霊CIMG3542

863年(貞観5年)、勅命により悪疫退散の御霊会が御靈神社(上御霊神社)で催された。境内は室町時代に「応仁の乱」発端の舞台ともなった(京都市上京区)

 また、上御霊神社が御霊会の場所に選ばれたもうひとつ理由を挙げるとすれば、それは、そこが平安京の内部ではなく外側で、しかも川の近くであったことです。怨霊や疫神は、京内に流入する手前で押しとどめ、河川などを使って遠く外部へ追い払わなければなりません。

 事実、平安時代に御霊会が営まれた場所は、神泉苑以外は、平安京の外縁や外側で、また河原にも近いところばかりでした。疫病によって生じるケガレを京外へ締め出そうという発想のあらわれでもあったと考えられます。

祀る御霊が少し異なるもう2つの「御霊神社」

 現在、上御霊神社の本殿は「八所御霊(はっしょごりょう)」を祀っていますが、その八所神霊の内訳は、崇道天皇(早良親王)、井上内親王、他戸親王、藤原夫人(吉子)、橘逸勢、文室宮田麻呂、火雷神(からいしん)、吉備真備(きびのまきび)となっています。火雷神は死後に怨霊と化し、火雷天神になったと恐れられた菅原道真(すがわらのみちざね)とされています。

 吉備真備(695~775年)が祀られているのは、九州で反乱を起こすも敗死した藤原広嗣(ひろつぐ)(?~740年)の怨霊を陰陽道(おんみょうどう)の達人であった真備が鎮めたという伝説があるので(『今昔物語集』巻第11)、そのことと関係していると考えられます。つまり、他の七所御霊を鎮める役割を担っていたのでしょう。

④吉備真備

吉備真備(『前賢故実』)。唐から帰国した真備は玄昉とともに朝廷で重用されたが、藤原広嗣は2人を除かんとして大宰府で反乱を起こした

 出雲郷には下出雲寺もあり、その鎮守社が下御霊神社で、やはり御霊を祀っていました。下御霊神社は、現在は京都御所の南東に鎮座していますが、当初は「一条の北、京極の東」に所在していたとされています。つまり、平安京の北東辺の地で、現在の上御霊神社の南側あたりです。現在の祭神は上御霊と同じく「八所神霊」ですが、その内訳が若干違っていて、井上内親王・他戸親王がなく、その代わりに伊予親王と、先述した藤原広嗣が入っています。

③下御霊CIMG3301

下御霊神社の場所は転々とし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により現在の地に遷座した(京都市中京区)

――2つの御霊神社については、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(9月刊予定、ウェッジ刊)の中で京都の他の古社寺とともに詳しく触れており、ただいまネット書店で予約受付中です。ご予約はこちらから。


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