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清水みなとの贅沢な彩り|村松友視(作家)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイ「あの街、この街」。第16回は、作家の村松友視さんです。終戦直後に移住された静岡県の清水についてお書きくださいました。

 昭和二〇年の終戦直後に疎開先から清水へ移住し、小学校へ入学してから高校卒業まで……これが、祖母との二人暮らしによる私の清水体験の時間的ベクトルである。清水はその当時の清水市であり、のちに静岡市に合併されて清水区となった。私は岡小学校を卒業すると、静岡鉄道で静岡の市立城内中学から、県立静岡高校へ通ったのだったが、この期間にほぼ自分の”根本”が形成されたという自覚がある。静岡市の中学や高校へも、清水という学区外から通う生徒であり、故郷はといえばやはり、たった十二年だけのあいだ祖母と住んだ清水ということになる。

 ふり返ってみると、“清水”はきわめて彩りにみちたまちだった。
 まずは、戦後早々に復活した貿易港であり、波止場には進駐軍用の酒場やミルクホールなどがあり、縞の半袖シャツの米兵に口笛で合図される派手なスカート姿の女性が立っていたりして、幼児には近寄りがたい雰囲気だった。

 それでも夏休みには清水港から連絡船で三保の海水浴場へ行ったりもしたが、羽衣伝説に染まる三保岬から打ちながめる富士山ばかりでなく、港の桟橋でのアジ釣りの途中でちらりと見る富士山もやはり絶景だった。沖の右側へ視線を移すと、うっすらと伊豆半島をのぞむことができた。影のような伊豆半島もまた神秘的な謎を秘めたけしきだった。

 港から家へ帰る途中の港橋でともえ川を渡り、左手にある商店街の真ん中あたりに、「次郎長生家」があったが、清水の次郎長という存在も、羽衣伝説と対照的な清水の彩りのひとつだった。〽旅行けば 駿河のみちに茶の香り、中に知られる羽衣の 松とならんでその名を残す 海道一の親分は 清水みなとの次郎長……二世広沢虎造の「次郎長伝」の名調子は数々の映画化をも生み出し、虎造節は浪曲界を超えた全国区的人気を誇ったものだった。

 巴川には、その上を三保へ行く列車が走る開閉式の羽衣橋から上流へ港橋、不二見橋、八千代橋、万世橋、千歳橋、大正橋あたりまでが、“岡清水”と呼ばれる地域の少年たちの遊びのテリトリーだった。八千代橋近くの貯木場ちょぼくじょうには丸く太い材木が浮いていて、子供たちはその丸太の上を因幡いなば素兎しろうさぎよろしく渡る度胸だめし的遊びをしていたが、やがて禁止された。橋の上からの飛び込みも禁止されたから、子供たちは道頓堀における阪神ファンみたいに屈託なく飛び込んでいたのだろう。いかにも次郎長ゆかりの清水みなとらしい遊びだった。

 八千代橋の脇にある“お水神さん”の祭は花火が大人気で、巴川の中央に浮く舟上での仕掛け花火に向けられる、橋の上や川辺りからわき起こる歓声や拍手が記憶に焼きついている。

 私が育った家は、万世橋から上手へ上った岡上にあるカトリック清水教会のわきを左へ入ったところだったが、八幡神社の裏手にあたる場所でもあった。カトリック清水教会は個性的な建造物で、よくぞ空襲をまぬがれたものだという思いがわくが、最近この教会の建造物としての寿命が尽きかけていて、取り壊しとほかの場所への移築とに意見が分かれ、市民の感情は移築にかたむいてはいるものの、移築費がかなりかかるために、区民にとっての悩ましいテーマとなっているという実情であるらしい。

 祖母と暮らす家の私の勉強部屋は二階の三畳間で、机に腰を下ろすとこの教会が正面に見えた。教会の二層の建物の屋根には二つの十字架があり、そのうしろ側に富士山が見える。富士山は雨や曇りの日には見えないが、教会の二つの十字架はどんな天候でもくっきりと目にとらえられた。私は、教会の聖堂へ入ったことなど一度もなかったが、あれは教会にただよう静謐な空気に気圧され、子供ごころに敬遠していたせいであったかもしれなかった。

 ただ、祖母に叱られたあとなどに二階の勉強部屋へ上がり、机に頬杖をついて教会の十字架をぼんやりながめていると、妙に心がしずまった。しかしそれは投げやりな気分で八幡神社の狛犬こまいぬにまたがり、当時はうっすらと見ることができた三保岬の彼方へ目を投げているときも同じだったのだから、神や仏と自分をつなぐ糸などかけらもよみがえることはない。

 私が小学生の頃は、道に落ちている防弾ガラスの破片を拾い、ズボンでこすって大事にポケットにしまい込み、大切な宝物としていたが、ズボンでこすって鼻先へ持ってゆくとき発するかすかな甘い匂いが、宝物たるゆえんだった。あかや鉄を拾ってバタ屋へ持って行き、何がしかの小遣い銭を稼いだりもしていたし、今から思えば貧しい暮らしになるだろうし、洒落たオヤツなどとは無縁の少年時代ではあったが、不満感や不足感などはまるでなかった。日本のあらゆる土地の人々が戦争のダメージによる零地点からスタートし、ようやく復興が始まろうとする時期だったことを、子供心に納得していたのだろう。

 やがて、日本はおどろくべき復興を果たしていったが、東京に住む身になってたまに訪れても、清水という故郷のけしきにさしたる変わりはないように思えるのだ。景気に超のつくいきおいがおとずれぬままの、時代の風とどこかそり・・が合わぬまちということかもしれない。ただ、カトリック清水教会はぎりぎり形を残しており、八幡神社の森も、波止場からながめる三保岬もその先の富士山も、帰ればそのままのかおで迎えてくれる故郷のけしきなのであって、もともとそなえていた贅沢な彩りは、現在いまもそこなわれていないとも言えるのである。

文・村松友視

『ゆれる階(きざはし)』(河出書房新社、2022年) 装画 《映・春の風》部分 北村さゆり

村松友視(むらまつ・ともみ)
1940年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。82年『時代屋の女房』で直木賞、97年『鎌倉のおばさん』で泉鏡花文学賞を受賞。著書に『私、プロレスの味方です』『上海ララバイ』『夢の始末書』『作家装い』『百合子さんは何色』『アブサン物語』『贋日記』『幸田文のマッチ箱』『淳之介流』『俵屋の不思議』『帝国ホテルの不思議』『金沢の不思議』『老人の極意』『大人の極意』『老人のライセンス』『老人流』『アリと猪木のものがたり』等多数。最新刊は『ゆれる階』(河出書房新社、2022年)

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