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詩人・室生犀星と冬の龍安寺の石庭|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第7回は今年で没後60周年を迎える詩人・室生犀星です。不遇な出生を乗り越えて描かれた彼の作品は、常に自然や小さな命への慈愛に満ちています。多くの人々が魅せられる京都・龍安寺の石庭ですが、犀星ならではの視点をお楽しみください。

 小説家や俳人としても知られる詩人・室生犀星(1889~1962)は、大正期から戦後にかけて、文壇の中心で活躍していた人気作家でした。40代で個人全集が発刊されるなど旺盛な創作活動の幅は広く、詩・小説・俳句・童話・随筆等に数多くの優れた作品を残しています。

写真館⑦ 犬のクックと 馬込自宅にて 修正済みクレジット挿入

室生犀星 馬込自宅にて犬のクックと

 その犀星が1934(昭和9)年に上梓した随筆集の中に、洛西・龍安寺を訪れた際の紀行文がありました。犀星44歳。ほぼ20年ぶりの京都旅行です。当時、趣味として庭造りに興味を持っていた彼は、精力的に京都の庭園を廻り、龍安寺にも足を伸ばしたのです。

龍安寺の山内にはいると、町の女房が一人風呂敷包をげていて、結び目から杉の枯枝が一杯に覗いていた。薪拾いをするのにも風呂敷を用意する、この古女房の心がけが頼もしかった。これは京女がこういうつつましやかな風俗を持っているのかも知れない。

 季節は冬。昭和の初め頃の龍安寺の周辺は、今よりもずっと静謐で、訪れる人影も少なかったのではないでしょうか。寺の境内に一人で枯れ木を拾っている女性の姿が目に浮ぶようです。

町の中で降らなかったのに、石庭をかこうている土塀の六枚下ろしにいた瓦の上に、程よろしく新しい雪が鱗形に残っていた。

 京都市内には見られなかった雪が、標高の少し高い龍安寺では残っていました。龍安寺の土塀どべいは油土塀と呼ばれ、菜種油を混ぜて練り合わせた特別な土で作られています。通常の土塀よりも堅牢で、長い風雪にも耐えられるようになっています。

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龍安寺の石庭 写真:中田昭

石庭の王者であるこの庭の石と石の静まり返っている光景は、二度三度と見直すごとに深められてゆく。六十坪に十五の石が沈み切っているだけである。

 よく知られているように、龍安寺の石庭は白い砂にわずか15個の石が配置されているだけの実にシンプルな構造です。極端なまでに簡素化、抽象化された石庭は、庭という一般的な概念を超えるものとなっています。これが何を意味しているのか。見る者に問いかけてくるようです。ちなみに、犀星は60坪と書いていますが実際は75坪あるそうです。

しかし無理に私どもに何かを考えさせようとする圧迫感があって、それがこの庭の中にいる間じゅう邪魔になって仕方がなかった。

 石庭が築造されたのは、室町時代の1499(明応8)年頃と伝えられています。作者の意図はもはや歴史の闇の彼方。我々は残された庭から、答えを推測するしかありません。犀星は石庭の持つ謎の深さに圧迫感を感じ、鑑賞の邪魔にすら感じたと記しています。

宿にかえって燈下で考えるとこの石庭がよくこなれて頭にはいって来るようである。固いじじむさい鯱張しゃちほこばった感じがうすれて、十五の石のあたまをそれぞれに撫でてやりたいくらいの静かさであった。

 とはいえ、夜になり宿に戻って思い返してみると、石庭の印象が大きく変わってきました。15個の石の一つずつを「撫でてやりたい」という、不思議な温かな気持ちが生まれてきたのです。

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龍安寺のミニ石庭。目の不自由な人でも、15の石に触れてその配置を知ることができる

相阿弥そうあみの晩年の作であるという志賀直哉氏の説は正しい。ただ、爺むさく説法や謎を聞かされるのはいやであるが、相阿弥のこの行方は初めはもっと石をつかっていてそれを漸次に拔いて行ったものかもっと少なく石を置きそれに加えて行ったものか、盤景ばんけいをあつかうような簡単な訳に行かなかったに違いない、相阿弥が苦しんでいるのが固苦しい感じになって今も漂うているのであろう。

 その気持ちは、石庭の作者と推定されている、絵師の相阿弥の創造の苦闘を考えたことで生まれたのでしょう。あの石の庭はどのようにして作られたのか。苦しみながら作庭に取り組んだ相阿弥の思いが、犀星の感じた圧迫感につながっていたというわけです。

この石庭の裏山に大抵の人が見逃すらしい、素晴らしい宝篋印塔ほうきょういんとうのあることを発見したが、室町時代のものらしい宝篋印塔の清瘠せいせきなやつれが、灰を見るようなさびれを感じさせた。

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裏山・朱山の山道 写真:筆者提供

相輪そうりんを埋めている石苔が笠台の上から基礎まで、ぺっとりと灰に薄い緑色をまぜた花のように蒸しついていた。笠にあるたるき模樣の美しさは類いないほど、五基相叫びながらその美と美にうずいていた。なかんずく、基礎を二重にした一番高い相輪をいただいているのが、とりわけ逸品であつた。

 宝篋印塔とは墓塔や供養塔などの仏塔の一種。方形の階段状の基礎に塔身と笠台を載せ、その上に棒状の相輪が載っています。上部の双輪から基礎まで全体が苔に覆われ、「灰に薄い緑色をまぜた」ような美しい色合いに犀星は感嘆します。

その他に小さい五輪塔が茸のように立っていて、どれにも風化のまるみが行われ、石苔を帯びて恍惚せざるを得なかった。宝篋にせよ輪塔にせよ肝心なものは深いやつれの行き亙っているものほど、寂莫の羽ばたきがよりよく私には聞えるのである。

 あまり知られてはいないのですが、龍安寺の裏山には朱山しゅやま七陵と呼ばれる陵墓群があります。一条天皇や堀河天皇など7人の皇族の陵墓が点在している場所です。犀星が見た石塔は、この山のどこにあったのか。はっきりしたことはわかりませんが、樹木の生い茂った荘厳な雰囲気の林中に、それらはひっそりと佇んでいたのに違いありません。

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朱山からの光景 写真:筆者提供

かえりに石庭が土塀の額ぶちにはめ込められていて、どの石も動かないようになっていることを感じた。これは額の中の庭であってそのように大切にしまって置かなければならないものであった。

石塀のきわにあるえい山苔のようなものが生えていたが、これはこの額ぶちを彩る一つの下草である。これは気をつけないと忘れてしまうが、重い役目を持っていて下草というものがどういう時にもいるものだと切に感じた。

 龍安寺の石庭の美を演出しているのは、石と白砂だけではありません。多くの人が賞賛しているように、土塀の効果は大きなものがあります。犀星はそれを「額の中の庭」と評しました。そして、その土塀の際にある苔の役割にも言及します。詩人らしい繊細な観察力でしょう。

山内の松と落葉樹とが冬ざれの中に立っていて、池を抱きこんでいる姿がそのままに筋ばかりの美しさを見せていた。

 山門を入るとすぐに広がる池が鏡容池きょうようちです。冬の硬質な空気の中で、落葉した木々と松が池を抱くように立ち並ぶ。詩人はここにも美を感じています。

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木々が鏡容池を囲むように立ち並ぶ雪景色 写真:中田昭

龍安寺の解説のなかに昔書いた私の文章が引用されているのに気がついて、きまりの悪い思いがした。それをしらずに五銭出してもとめた私は、知らずにいただけに自分の解説を買うたのは可愛い男であると思った。知っていてわずに帰ったらそれは神経に少しくらい応えるにちがいない。

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写真:中田昭

 金沢に生まれた犀星は、生後まもなく生みの親と別れ、真言宗高野山派の寺院にもらわれて、養父母のもとで育ちました。高等小学校を中退して12歳で働き始めた犀星は文学者を志し、生活苦にあえぐなかで数々の詩を作りました。『抒情小曲集』などの抒情詩は大正期の詩壇で高く評価を受けています。

 昭和期以降は小説家としても地位を確立し、1962(昭和37)年に72歳で亡くなるまで第一線で執筆活動を続けました。一時期は詩作から遠ざかると宣言した犀星でしたが、実際は生涯を通じて詩作を行い、24冊の詩集を発行し、発表された詩は2000編以上に達しています。彼の創作活動の根底には、詩人としての感性が強く脈打っていたのでしょう。犀星は金沢市の野田山墓地に眠っています。

出典:室生犀星『隨筆集 文藝林泉』「京洛日記

龍安寺
*石庭(方丈庭園)の油土塀屋根の葺替工事のため、2022年3月18日まで拝観できません。
☎075-463-2216 
京都市右京区龍安寺御陵下町13 
(時)8時30分〜16時30分(12月〜2月)
8時〜17時(3月1日〜11月30日)
(料)500円
http://www.ryoanji.jp/smph/index.html

文・写真:藤岡比左志 
写真提供:中田 昭、室生犀星記念館

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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