「死想」特別編

「死想」特別編
 
心霊と文学  三浦清宏論             陽羅義光
 
 一般には芥川賞作家であり、アカデミズムにとっては英米文学者であり、特殊な専門筋にとっては心霊研究家である三浦清宏とは、いったいどういう存在なのか。
「ウィキペディア」の本人紹介では「1930年生まれ、室蘭市出身、小説家、心霊研究者、代表作『長男の出家』『海洞』、デビュー作『黒い海水着』」とあるが、とうぜんながら「ウィキペディア」なんぞで三浦清宏の実態が解るはずもない。
 近代以降の日本文学史の範疇において、これほど謎めいて、一筋縄でいかない存在はおそらくいないであろう。
 いままでも謎めいた存在はいるにはいたが、「自然主義」「白樺派」「新感覚派」「第一次戦後派」「第三の新人」「内向の世代」などのくくりに納まったり、人口に膾炙された作品や文章があったり、ひいては教科者にまで載ったり、さらには作品が映画化されたり、あるいは多くの文芸評論家などによって作家論やその「人と作品」が書かれたりして、その全体像や存在感が一般に認識されたものだが、三浦清宏はそこにもあてはまらない。
 映画化のはなしはあったらしいし、今後教科書にも載るかもしれないが、どうにも映画とか教科書とかには似合わない作家であり作品群であり人格ではある。
 そういう存在に照明を当てるべく、この一文を書き始めるのだが、正直そうとうの困難が予想される。
 けれども四苦八苦の末に、稀有で独特の魅力をはなつ「三浦清宏の世界」の、一端でも垣間見てもらえることができたなら幸甚である。
 そうして一人でも多く、三浦清宏作品に触れる人がでてきたなら望外の悦びである。
 評論あるいは評論ふうエッセイを書くのは初めてではない。
『太宰治新論』『私小説私論』『吉永小百合論』『思い出映画論』『ルノワール論(美的人間)』等々、少々長いものは本になっているし、『文学百年論』『ゲーテ論』『トルストイ論』『幸徳秋水論』『北一輝論』等々、短いものなら学生時代から数えてすくなくとも五百篇以上は書いてきた。
 もちろん達人ではないが素人でもない。
 書く前は「どう書くか」を思案したものであった。古今東西の先人の評論をいくつか念頭に置いたりもした。
 けれどもサント・ブーヴふうの伝記批評も、ひいてはルカーチの歴史主義的批評も、ひるがえってドライデン式の技術批評も、どうにもしっくりこない。
 そして結果的に無手勝流になっている。
 それはそれがじぶんにとって最も自然であり、評論も一種の創作と考えるので、何よりも文体に注意を払わなければならないと思われた結果であろう。
 とはいえボルシャルトの創造的批評も、とうぜんその気にならない。
 したがってあれこれ試行錯誤はしても、創作だと居直ってみても、やはり結果的に無手勝流になっているのである。
 そのために、対象作家である三浦清宏や関係する人たちに失礼にあたることが出てくるかもしれない。
 無手勝流には失礼という発想があらかじめ含まれないからである。
 そのことをはじめに告白し詫びておきたい。
 労作『三浦清宏文学への誘い』(北海道文学館2019年刊行)のなかで、著者の浅野清は、【三浦さんには四つの顔がある】と書いている。
 一、英米文学者としての顔、
 二、作家としての顔、
 三、禅宗研究家としての顔、
 四、心霊研究家としての顔。
 たしかにこの四つを組み合さなければ、「三浦清宏文学の精髄」を論じることはできないと、だれであってもそう考えるほかはない。
 だが一言ではいえない、五つめの顔があると考えてもいる。(それは周りの人たちに敬愛される顔である)それはどういうものか、のちに述べるとして、三浦清宏作品を再読しつつ六つめの顔を想った。
 それは詩人としての顔である。
 小説「カリフォルニアの歌」と「さよならカリフォルニア」に挿入されている詩を列記して、寸感を付記する。
 
【大空は悲しきまでに青く澄めり
 蔦葛覆へる塔に
 星々を祝ふ旗ひるがへり
 ココナツの樹高く空に浮びて
 穏やかに葉をゆする 夕暮の鐘、  
 塔に鳴れば
 イスパニアの僧院に似たる
 廻廊を歩む女学生らの
 髪は黄金にきらめきゆけり】
 
 伊東静雄のトーンに似た、優しさと凛とした何か。
 
【町外れの野原の隅に
 小さい花が一輪咲いていました。
 あまり町から遠いので、
 小さく目立たないので、
 見に来る人はありませんでした。
 それでも花はいっしょうけんめい
 空を見上げて咲き続けました。
 「神様だけがわたしを見ている」
 秋が来て花が散った時、
 花の魂は喜び勇んで、
 天に上ってゆきました
 「今こそ神様にお会い出来る」
 来る日も、また来る日も、
 花の魂は駆けめぐりましたが、
 空はからっぽ。
 今日も、どこかの 星の後ろを走っています】
 
 神の存在への疑問と、神に憧れ裏切られる小さきもの。
 
【爆撃で破壊された
 ドームの中の
 新品の空。
 幸せとは
 小さいやさしい手で
 摘むものではないでしょうか】
 
 これは原爆ドームではないが、爆撃された建物に対する鎮魂歌。
 
【どうしてそんなに急ぐの
 どこへ行こうというの
 潮風が敲きつづける窓の中で
 お喋りし
 編物し
 ガムを噛み
 ラジオに合せて歌いながら
 時速七〇マイル】
 
 時代と文明の先走りに対する疑問とアンビバレンツな焦り。
 
【幸せは努力して手にいれるもの
 幸せ目指して
 ハイウェイをのばし
 橋を連ね
 ジェット機を放つ
 ああ
 高層ビルの奏でる天の音楽
 紺碧のきわみに炸裂する閃光の束こそ
 創造主に捧げるわたしたちの
 花束】
 
 文明讃歌なのか、どこかに皮肉が感じられやしないか。
 もしこのまま三浦清宏が詩を書き続けていたなら、超自然の感覚によって多くの詩人に影響を与えた、コールリッジに似た存在になっていたであろうと思われる。
 知るかぎり三浦清宏は詩集を出版してはいないが、エッセイのなかで、「若いころは詩人になりたかった」と告白している。
 青年の純粋な志向として、文学の最高のジャンルが詩であることは不思議でも何でもない。
 格別英米では、文学理論の中心となるのは詩である。
 三浦清宏がT・S・エリオットから受けた影響は小さくはなかったと思われる。
 それはさておき日本では、島崎藤村や室生犀星など、詩人として出発し、そののち優れた小説家に変貌した文学者はすくなくはない。
 それは人それぞれの理由があるが、三浦清宏のばあいは、(三浦清宏にとって大きな存在であった)小島信夫の進言である。
 当時の三浦清宏が小島信夫をどう観ていたかはともかくとして、ごぞんじのように小島信夫はそののち(『別れる理由』発表以降)日本の若い作家のなかでカリスマ的存在になっていった。
 おそらく小島信夫は、詩と小説の違いを云々したのであろう。 
 古今東西多くの評論家や学者が、詩と小説の違いを縷々と述べているが、それを逐一解説していたのではきりがないし、拙文の本意でもない。
 想像するに小島信夫は、小説でなければ書けないものがあることを三浦清宏にインプットしたのであろうが、ここでは、小説に詩は要るが詩には小説は要らない、ということだけはいっておきたい。
 さらに小島信夫は、「あなたの詩は大正か昭和初期の詩風である」といったらしい。
 当時の詩の潮流は、「荒地」派や「列島」派である。詩壇が三浦清宏の詩風を受容するはずがないと断じたのであろう。
 それは世俗的にはまともな意見と思われる。
 世俗的といった理由はこうである。
 どんな詩風であれ、百年後には昭和の初期だとか戦後だとかは関係がなくなる。
「詩壇」とか「文壇」なんてものはくそくらえである。
 いつの時代であれ、あなたがどう感じるか、それのみが重要になる。
 けれども、詩は生活の手段にはならない。
 そこを小島信夫は力説したと思われるが、純粋な詩人が詩で食えないのと同様に、純粋な小説家だって小説で食えるはずもない。
 そのことも知りつつ小島信夫は三浦清宏に大学教師の座をつくってあげた。
 三浦清宏にとってはここでも、ちいさくはない逡巡や迷いがとうぜんあったはずだが、そこで支えにしたのが禅であったと思われる。
 それでは三浦清宏が禅に興味を持つきっかけは何であったろうか。
 むろん一つの行為のための原因が一つであるとはいい得ないものだが、まずはサリンジャーの影響だと考える。
 サリンジャーの『九つの物語』のプロローグ(序詞といったほうが近いか)には、禅の公案が記されている。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」
『三浦清宏文学への誘い』は、綿密な考証や的確な引用に裏打ちされた、非の打ちどころのない研究書である。
 もしこの大作をひとくちで批判するなら、「非の打ちどころがないのが非である」というしかあるまい。
 当の本人の感想は、いささか照れもまじっていると思われるが、こんな具合いである。
 
【ところで、此処に書かれた当人として、この本を読んだ感想を一言。「おれって、こんな人間だったのか」という驚き、ですかね。別人の話のようだ。自分の迷いとか、生き方の矛盾撞着、試行錯誤など、余計なことが省かれていて、人生行路が、あらかじめ決められていたかのように、すっきり纏まっている。本当は、その日暮らしで、先のことが皆目分からず、毎日精一杯に暮らしていた筈である。こんなに一生がわかっていたら、若い頃は苦労しなかったろうに、なぞと思う】
 
(ああ三浦清宏もやっぱり「無頼派」だったのか)、とあらためて思う。
 この労作への感謝と評価を持ちつつ、戸惑いや不満も含まれている。
 さっきいった、五つめの顔、六つめの顔のことも、あらためて想う。
 省かれている「自分の迷いとか、生き方の矛盾撞着、試行錯誤など」は、はたして余計なことなのか。
 三浦清宏ほどの英才でも、いや、夏目漱石を想えば、英才だからこそ、悩むのである。
 もしかすると三浦清宏には、片岡千恵蔵じゃないが、七つ目の顔があるのかもしれない。
 ところで『三浦清宏文学への誘い』の上梓を記念して、三浦清宏は2019年北海道立文学館において、『私の文学人生』と題する講演を行なっている。
 これは本人いわく、「浅野さんが書き足りなかった部分を補うつもりで」話したものである。
(ちなみにこの講演の面白いところは、堀きよ美という女優に作品の朗読をしてもらっているところである)
 このことは浅野清にとってはちょっとソンであり、これから三浦清宏の世界を研究するものにとってはかなりトクである。
 何しろ大作『三浦清宏文学への誘い』と貴重な『私の文学人生』の講演記録の両方を読めるのであるから。
 尤も浅野清は三浦清宏文学研究の草分けであり現在第一人者でもある。
 このことは浅野清の名誉のためにもここで付記しておきたい。
 浅野清のこの本には、とうぜんながら、『私の文学人生』に対する言及はもちろん、どういうわけか、三浦清宏ファンにとっては垂涎もののエッセイ集『文学修行(アメリカと私)』(福武書店1988年刊行)の内容についての記述が少ない。
 このエッセイ集に書かれた、「迷いとか、生き方の矛盾撞着、試行錯誤など」が省かれていることで、だから逆に、「非の打ちどころがなくなる」のだ。
 むろん非の打ちどころがない作物ということは、誉め言葉ではない。
『文学修行(アメリカと私)』は、作家・学者を問わず、文学をやるものにとって、深く大きな示唆に富んだなかみである。
 なかでも興味深いのは、兄貴分である小島信夫のことが書いてある章(「自分」を書け)と、サリンジャー論(バナナ魚の予言・知性作家の矛盾・サリンジャーと漱石)である。
 小島信夫はのちに三浦清宏本人いわく文学の師となるが、その出会いはアメリカである。
 具体的には1957年、アメリカ・アイオワ洲のポール・イングル教授の自宅のパーティで初めて会ったのである。
 小島信夫は、ロックフェラー財団の招きで訪米していたのである。
『とうもろこし畑の詩人たち』の主要登場人物である木下敬介こそ、小島信夫である。
 章題の「『自分』を書け」の要点を、こういうところに観る。
 木下(小島)はいつも「『自分』を書け」というが、小島信夫から紹介されたМ氏(おそらく、まだ「月山」で芥川賞をとる前の森敦)は、三浦清宏にこう諭す。
 
【「『自分』を書こうなどと思ってはいけない。そんなことを書こうとした作家がいままでいましたか。他人を書きなさい。他者によって自己を演繹するしかない。自分というのは他者の中に自ら表れるものなのです。何よりも他者を生かそうと考えなければいけない。他者を生かす論理を立てなければいけないんです」】
 
 そんなことを書こうとした作家はいままでに沢山いたと思われるが、文学の範疇ではМ氏の考えこそ妥当である。
 ものを書こうとする人は、すぐに「自分」を書こうとする癖があるから、文学的という名の、名だけの、ドツボに嵌る。
 それを危惧する人は「歴史小説」を書き始めたりするのだ。
 捨ててこそ浮かぶ瀬もあれではないが、「自己」を捨てても、「他者」を生かせば、却って自然と「私」は滲みでるものだ。
 けれども、あえて小島信夫は「自分を書け」を三浦清宏に求め、三浦清宏は(努力はしても徹底的には)「自分を書け」ないことに忸怩たる思いをしている。
 このことは三浦清宏のエッセイなどにもたびたび出てくる。
 自分を書けということが私小説的な意味なら(小島信夫はそういう意味で使っているとしか思われないが)、それは文学にとって旧態依然の発想でしかない。
 丹羽文男は「自分の問題を書け」とよくいったものだが、このほうがまだ納得できる。
 あるいはジッドのかの有名なコトバ、「君の内部以外のどこにも見出されぬもの、それだけをつかまえよ」
 日本近代小説は「自分」つまり「私」(「僕」とか「俺」でもいいが)の問題に苦しんできた歴史であるといってもいい。
「私」が「私」を書く、「私」を演じる、あるいは「三人称」によって「私」をかくす、あるいは「私」が「あなた」に憑依する、あるいは小説を書く「私」すなわちメタ・ノベルの方式、さらには「私たち」をつくる。
 けれどもそのことによって、どれだけの傑作が誕生したかというと、世界文学に較べてどうにもこころもとない。
 逆に「私」をまったく意識しないで書いても、「私」が書くものには自然に「私」が表出するんだから、「私」になどこだわらなくていいんだ、という発想にどうしてならなかったのか。
 日本近代小説がはまった陥穽から、日本現代小説はぬけださなければならないのではないか。
 日本の私小説作家(格別近松秋江、葛西善蔵、嘉村礒多の、「私小説三兄弟」)を偏愛している現代作家や文芸評論家はすくなからずいると思われるが、私小説は戦前でおしまい、それからは私小説のアウフヘーベンが大切であるとする意見の方が、文学ファンには納得できるコトバであろう。
 けれども、それを成し得たのは大江健三郎と古井由吉のみで、相変わらず旧態依然とした私小説を書く作家がいて、それを過大評価する素っ頓狂で頭の旧い文芸評論家もすくなくはない。
 小島信夫は頭の旧い作家ではないのだが、それでもこう力説する。
 
【「日常生活を相手にするのが文学というものなんだ。身の廻りのつまらないこと、あの人はいくらもらっているのに自分はいくらしかもらっていないとか、あの人はそばまで来たのに声をかけないで行ってしまったとか、そんなつまらないことと付き合ってゆくのが文学なんだ。そういうことしか手がかりになることはない。いきなり空高く飛び上ろうとしたってダメだ」】
 
 いきなり空高く飛び上ろうとするなというのは、作家なら同感するところだが、もはや昔風の日常生活だけを相手にしてはいられなくなったのが、現代の文学ではないか。
 つまりテレビの普及あたりからはじまり、いまやパソコンとスマホなくして、日常生活どころか社会生活もできない(すくなくともできにくい)状況である。
 日常生活に特化した感のある徳田秋声の文学は、現代人とってその見事な文章以上の興味や面白みはない。
 つまり、「どうして」自分はいくらしかもらっていないのかとか、「どうして」あの人は声をかけずに行ってしまたのかとか、あの「どうして」もこの「どうして」も、(わざわざ探偵に依頼しなくっても)パソコンやスマホを頼りにすれば、簡単に(あるいはそれほど苦心せずに)解明してしまう。
 じっさい小島信夫は、『徳田秋声伝』を書いているが、その文学的な価値よりも、その生活(生計といったほうがよいか)や周りの作家たちとの交流が中心となる。
 私小説作家を好んでいた読者には、こういう「のぞき見趣味」があり、こういう文章を探し歩いているものである。
 けれども、趣味は趣味としても、こういう文章が、物書きの端くれであるひとたちに、浸透してくることはまずないであろう。
 そして、(対象が私小説作家であっても)作家に対するこういう姿勢をだんだん好まなくなってくるであろう。
 くだらなく思われてくるであろう。
 こういう姿勢から生まれたとしか思われない、お互い贔屓の引き倒しといった、保坂保志との関係など、(いくばくかのコモンセンスがあれば)醜く感じられてくるであろう。
 こういう姿勢の作家が、三浦清宏に対してどれほどの示唆を与えられるのか。
 文芸評論家江藤淳が大きく問題化した、小島信夫の代表作というべき『抱擁家族』だって、過大評価としか思われないが、ここに登場する青年「山岸」のモデルが三浦清宏であることを考えると、小島信夫信奉者のみならず三浦清宏ファンにとっても、覗き見趣味は満足させられる。
 また昨今では、一種のブームが続く「自分探し」に対する弊害が云々されている。
 たとえば、『〈心〉はからだの外にある』の著者河野哲也は、自分探しは、【本来は社会的・政治的であるはずの問題を、その人たち個人の問題へとすり替えて、問題を「個人化」することは政治的なプロパガンダの典型的な手法である】といっている。
 この観点からすれば、自分を書くことは問題(テーマ)の矮小化につながる。
 ここでわれわれは小林秀雄の『私小説論』を想い起こすであろう。
 だがそうした思惑はさておいて、三浦清宏は小島信夫のコトバを実践した。
 結句、芥川賞受賞作、『長男の出家』を書き、(師であり兄である小島信夫に捧げる)『海洞・アフンルパロの物語』を書く。
 1300枚に及ぶこのライフワークは、血族の変遷のなかで、主人公(小島信夫いわく「自分」)の葛藤や苦悩を描いた傑作である。
「室蘭民報」朝刊に長く連載され、「文藝春秋」から出版された。
 試行錯誤や疑問・葛藤はすくなからずあったであろうが、結句、三浦清宏は小島信夫のアドバイスによって、二つの大きな文学賞を受賞したといっても過言ではあるまい。
 日本文学という観点からしてこれは困ったことではあっても、もしかすると、三浦清宏は自分を書いた最後の作家になるかもしれない。
 そしてそうなってほしいとの思いもないではない。
 尤も、三浦清宏自身は、繰り返しになるが、「自分を書く」ことに全うできていないおのれを、いささか自嘲も含めて吐露する。(自分の問題を書くという意味において)充分自分を書いていると三浦清宏作品を愛読する読者がそう伝えても、本人は納得していないと思われる。
 小泉八雲は、幽霊をめぐる古風な物語やその理屈づけを信じないとしても、【なお今日われわれ自身が一個の幽霊にほかならず、およそ不可思議な存在であることを認めないわけにはいかない】と語っている。(『東大講義録』)
 このことはのちに書くが、小泉八雲のこの思想は、三浦清宏が到達した思想に酷似している。
 とうぜんながら小泉八雲には、スピリチュアリムズに関するコトバがすくなからずある。
 なかでも多くの人たちの琴線に触れるにちがいないのは、この『東大講義録』のなかの『文学における超自然的なものの価値』である。
 人生の過程のどこかで、自分自身の不確かさや不安定感や頼りなさを感じた人は、稀なひとではあるまい。
 この【一個の幽霊】も自分なら、自分を書くということは【一個の幽霊】を書くということに等しい。
 すくなくとも小島信夫の晩年もしくは晩年に書かれた、「保阪さんがこう言ったああ言った」などという作品よりも高度で面白くはなる。
 2021年三浦清宏は、『運命の謎・小島信夫と私』というタイトルの、小島信夫との関係をまとめた本を水声社から出版した。
 いままで小島信夫について講演で語ったものをまとめたものだが、これはある意味では「小島信夫論」にもなっている。
 内容はおおきく「運命の出会い」と「小文」とのわかれ、前者の見どころは、第三章の「小島家に下宿してから出るまで(小島さんの再婚、私の結婚)」であり、後者の見どころは「小島さん、済みませんでした」である。
 これはすこし説明が必要だろう。
 発端は、三浦清宏が短篇のなかで、「小島信夫さんは本を借りても返さない。あるいは返すのを忘れた」と書いたことで、そのことを小島信夫は或る場で、三浦清宏に対して顔を真っ赤にして怒った。
 そこにいた詩人の木島始が間にはいって、「小島さんだって小説のなかで、実名でたくさんの人物を登場させているではないか。それで迷惑しているひともいる。三浦さんがあなたの真似をしたからって、怒ることはない」といった。
 すると小島信夫は泣きだして、「ぼくは悪い人間です」といった。
 のちに三浦清宏は、ふと気がついて本棚を調べてみると、自分も借りたまま返さない本が何冊も見つかった。
 そして本の貸借に関して、三浦清宏はこう結論づける。
 
【私など、小島さんに対しては借りてもらうのが嬉しいくらいだった。彼が本に対して人並外れた関心を示し、私のつまらぬ意見にも相槌を打ってくれたからだ。どうぞ、どうぞ、と言って貸してから、後で、しまった、また返してくれないのではないか、と思っても、もう遅かった。
 本が返ってこないのは貸す方にも問題がある。貸す方も喜んでいるようでは、返す、返さないは、はじめから問題視すべきことではないかもしれない】
 
 それで、「小島さん、済みませんでした」である。
 いずれにしても、三浦清宏と小島信夫の関係をより詳しく知りたいひとにはお勧めの本である。
 ちなみに早大教授の尾崎真理子はこの本について、【あまりの面白さに圧倒され、何度もページを閉じた。弟子に憑依してよみがえった小島が、飽かず小説論を説き続けていた】と読売新聞で早速評している。
 とはいえこの本は、小島信夫を理解するためには、【あまりの面白さ】であっても、三浦清宏を理解するためには、【あまりのややこしさ】であることを、ひとこと添えておきたい。
 自分を書いても他人を書いても、文学になるものもあれば、文学にならないものもある。
 なぜなら、何を書こうと、文学そのものがどうにかなるものではないからである。
 ただ、小島信夫にしても森敦にしても、人間を書けということであって、犬猫を書けとか自然を書けとか夢や希望を書けとか、そんなことはいっていない。
『運命の謎・小島信夫と私』には、小島信夫のこんな言葉が紹介されている。
 
【「私」というものが客観的にあるわけではない。捕まえていかなければならないもので、どちらかというと向こうから近づいてきてくれる方が望ましい】
 
 これは「私」にかぎらない。
 この「私」のところに、「主人公」でも「テーマ」でも「物語」でも、文学(小説)にとって大切なものを入れることができる。
 それなら文学とは何か、文学の永遠のテーマとは何か。
 むかしの文学者はあれこれ頭をかかえたり智恵を絞ったりしてきたが、そんなおおげさに思考する問題でもない。
 つまり、永遠に解決できない人間の問題を書くのが文学であり、だからこそそれが永遠のテーマになり得る。
 要するに、ひとは「どうして」生まれ、「どうして」死ぬのか。ひとは「どうして」異性(なかには同性もある)に求愛し、失恋すると「どうして」自殺まで考えるのか。
 そう、ひとは「どうして」自殺をするのかという永遠のテーマもある。
 日常生活の「どうして」ではなく、どんなに日常生活が変化変貌しても、けっして解決することのない「どうして」。
 だからこそ文学は、いつからか哲学的になってきている。
 そうして優れた文学は、どんなに大むかしに書かれたものであっても、そこに(いわゆる「人生哲学」も含めた)哲学があるのである。
 三浦清宏の文学エッセイ、『知性作家の矛盾・サリンジャーと漱石』の冒頭にはこうある。
 
【「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」と言えば、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドが、エルクトン・ヒルズの校長のハアスや、葬儀屋でボロ儲けをして学校に寮を寄附したオッセンバーガーや、その寮で同室のストラドレーターなどに投げつけても、いっこうおかしくない台詞である。だが、これはホールデンの台詞ではない。漱石の『坊っちゃん』の台詞である。坊っちゃんが教頭の赤シャツや校長の狸を罵った言葉だ】
 
 英語に堪能な三浦清宏は、坊っちゃんの放つ単語とホールデンの放つ単語との、微妙なちがいを解説してくれている。
 それはそれとして、『坊っちゃん』と『ライ麦畑でつかまえて』の相似を云々するとは炯眼である。
 なにしろ禅や俳句に強い影響を受けたサリンジャーである。
 漱石に影響を受けても違和感はない。
 もちろんサリンジャーが漱石の『坊っちゃん』を読んだという確証はないかもしれないし、サリンジャーが書き始めた太平洋戦争中に、漱石の英訳本がアメリカに出まわっていたとも思われない。
 しかし、東洋文学や東洋哲学の友人たちから、漱石や『坊っちゃん』の話を聞いていた可能性は充分にある。
 ただホールデンはまさしく現代っ子なのに、坊っちゃんは旧道徳の申し子的なところがある。
 そのことは、書いたときに、サリンジャーはまだ青年(原型を書いたのは二十代前半)だったのに、漱石は中年(すでに四十歳前後)だったことに関係があろう。
 
【『ライ麦畑でつかまえて』のような、主人公が思うさま周囲に悪態をついて歩く爽快な小説をもう二度と書くことができないのは、漱石が『坊っちゃん』を一度しか書けなかったのと同様である。子供は社会に反抗するが、大人は自分と戦わねばならない。他人を裁くために使った論理を、今度は自分の内で裁かねばならぬとき、ホールデンはどのような大人に成長するだろうか】
 
 だが三浦清宏の揚げ足を取るふうになってしまうが、ホールデンは「成長」しないと考える。
 子供は大人に成長するのではなく、「変貌」するのだ。
 それともう一つ。
『ライ麦畑でつかまえて』と『坊っちゃん』は、サリンジャーにとっても漱石にとっても、一種のエンターテインメントであって、両作家の本質的なテーマとは、いささか違和があるかズレがあるかしている。
 したがって、二度と書くことができなかったのではなく、書かなかったのである。
 このあたりの三浦清宏の文章にはまだ苦味が足りない。
 サリンジャーの、『九つの物語』について、三浦清宏はサリンジャーにとって「九」という数字の重要性を云々しているが、それはさておいて、またこの九の短篇中、完璧な短篇は『笑い男』であるが、それもさておいて、最大の問題作は『バナナフィッシュにうってつけの日』である。
 旅行先での若い夫婦を描いたもので、この有閑マダムふうのセレブな育ちの妻は、ホテルの部屋で、爪にマニキュアを塗ったり、ママとの長電話で暇つぶしをしているが、その電話の内容から、軍隊帰りの夫の精神状態が普通ではないことが解る。
 その夫は、浜辺で小さな女の子とたわむれている。
 そこで夫が女の子相手に話すのが、不思議な魚「バナナフィッシュ」だ。
 この魚は、バナナがどっさり入っている穴に入ってバナナを食べ尽くす。
 すると太ってしまって、穴から出られず、バナナ熱にかかって死んでしまう。
 ここで賢明な読者は井伏鱒二の有名な、『山椒魚』を想起するはずだが、サリンジャーがはたして読んでいたかどうか。
 漱石の『坊っちゃん』をもし読んでいたなら、『山椒魚』も読んでいた可能性は高い。
 むろんそんな魚はいやしない。
 でも女の子は「バナナフィッシュを見た」という。
 それもむろん嘘だ。
 評論家や翻訳者の何人かは、この女の子の嘘を問題にして、それに夫が失望して自殺するのだなどと、妙な解説をしているが、それは明らかに読み違いである。
 たしかに夫は、女の子が帰ると、ホテルの部屋に戻り、仮眠する妻の傍らで拳銃自殺する。
 
【五階で降りると彼は廊下を歩き、キーを使って五〇七号室の扉を開けて入った。部屋には、子牛皮の新しいトランク類や、マニキュアの除光液においが漂っていた。
 ツイン・ベッドの片方に身を横たえて眠っている女を、彼は一瞥した。そしていくつかのトランクのひとつに近寄り、それを開けて、重なったシャツやパンツの下から、七・六五ミリ口径のオルトギース自動拳銃を取り出した。
 それから弾倉を取り出し、それを眺め、また元通りに嵌め込んだ。つづいて撃鉄を起こした。そうして、ツイン・ベッドのふさがっていない方の位置へ歩んで、腰を下ろすと、女を見遣り、拳銃の狙いを定め、じぶんの右のこめかみを、撃ち抜いた】
 
 夫が失望したとするなら、とっくに失望していて、それは妻に失望しているのだ。
 おのれのこめかみに撃ち込むのに、狙いを定める必要なんかない。
 いったん狙いを定めたのは、妻(主人公の視点では「女」「大人の女」)の身体である。
 それがこの文章の「呼吸」というものである。
 むろん、女の子の将来に妻の姿を重ね合わせたということはあるかもしれない。
 すっかり「子供心」を喪った「大人の女」である妻に。
 夫が語る「バナナフィッシュ」とは、実は妻のことであると考えている。
 だから、女の子が「バナナフィッシュを見た」といったのは、嘘ではなく、夫の隠喩を解って答えたのだと考えている。
 この女の子、つまりシビルは、(のちに、まだ幼い二人の子を残して、オーブンに頭を突っ込んで自殺した)若く美しく才能ある詩人で作家、シルヴィア・プラス(1932~1963)を想わせる。
 すでに自殺未遂癖があったこのナイーブで純な感性の持ち主を、サリンジャーが知らなかったという確証はない。
 それはともかく、サリンジャーの作品や生活を垣間見ると、「アスペルガー症候群」のきらいがある。
 この特徴は、医学書などからの引用ではなく、あくまでも同病の私の息子の性向を鑑みていっている。
 この特徴を単純に列記すると、「被害妄想」「短気」「神経過敏」「潔癖性」「正義感」「馬鹿正直」「反俗性」などであり、その特徴が「禅」に近づかせたと思われる。
 まっとうな禅者は「雑念の結果」であるところの小説なぞに重きをおかない。
 サリンジャーの後半生の「只管打坐」の道は、まさにそのことを裏づけるものである。
 同じ禅者としても、ここにサリンジャーと三浦清宏とのちがいがある。
 ただ三浦清宏の側からいうなら、サリンジャー体験が、(むろん紆余曲折を経て)禅体験となり、禅を体感したことが、〈長男の出家〉への対応となったことはたしかである。
 先に「英才だからこそ、悩む」と書いたが、三浦清宏にとって夏目漱石は、「偉大な他人」ではなかった。
 一般の人は特に、英米文学者の三浦清宏は、英米文学のみに造詣が深いと思いがちなのだが、じっさいはどうなのか。
 イギリスとアメリカと国はちがっても、小さくはない失望と惨めな境遇を味わったふたりである。
 それでも夏目漱石がイギリスから何かを享受し得たし、三浦清宏もアメリカから何かを享受し得た。
 三浦清宏が夏目漱石を語る、その言葉は、結局、自分を語っていることになっていはしまいか、と感受するのである。
 
【われわれがすでに観察したように、『坊っちゃん』にはすでに知識階級への批判の萌芽がある。それは、『吾輩は猫である』において、独特な社会批判を生み出すにいたったが、まだ明治の知識人という一般的な問題に留まって、漱石自身の独自な問題とは言いがたい。「理智」が漱石内部の問題として明瞭にあらわれるのは、『行人』においてである。ここでは、一郎の狂気の根源である近代知性に鋭いメスが入れられるのだが、それは前述したとおりだ。「智に働けば角が立っ。情に棹させば流される」という知情二元の世界を、漱石はここで乗り越えたようにみえる。『道草』ではもはや、自分の「理智」にこだわってはいない。「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ、ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」という健三の言葉を別解すれば、自分の理屈だけでは世の中のことは始末できないということであろう。「理智」は『明暗』において再びとり上げられるが、それはまったく相対的なものとして(すなわち、人にはそれぞれ理屈があり、その対立相剋が世間というものだ、というふうな意味で)扱われる。漱石自身は、その対立相剋の上にいるのである。自分の「理智」からモノを喋るような視点は、ここでは完全に転換されている】
 
 池波正太郎は、「日本語の読み書きはろくにできないで、そのくせ英語だけは喋れる、そういう奇怪な日本人が増えた」といっていたが、三浦清宏もその「奇怪な日本人」の一人、いや代表であった。
 アメリカにいたときの三浦清宏は、自分自身アメリカ人のつもりになっていたかもしれない。
 けれども、帰国後、三浦清宏は英米文学を専門としつつも、日本文学を懸命に勉強した。
 夏目漱石を語る三浦清宏に、その証拠の一端が垣間見られるではないか。
 だからこそ三浦清宏も自身の「理智」にこだわり、そのこだわりに振り回された時期があったと想像される。
 夏目漱石はそのこだわりを抱えたまま創作活動に入ったが、三浦清宏の場合はそのこだわりを捨てきったところから出発した。
 鈴木大拙によると、「西洋的なるもの」の代表は「理智」であり、「東洋的なるもの」の代表は「禅」である。
 サリンジャーも三浦清宏も、「西洋的なるもの」から「東洋的なるもの」への完全転向を為した作家である。
 すくなくとも三浦清宏の存在が一般にも知られることとなった、1988年第九十八回芥川賞受賞作『長男の出家』は、そういう作品なのであり、選考委員にかぎらず、この平明な文章で書かれた短編が、あんがい難解な作品に映るのは、まずはその点にある。
 くわえて、かなり外国語が得意なひとは、一般人もむろん翻訳家も、日本語が上手なほうではない。
 作家についても、鴎外・漱石から大江健三郎、村上春樹まで、いわば自己流の日本語で読者を惹きつけてきた。
 そのことは、(かなり外国語が得意でない)徳田秋声や志賀直哉の日本語を読めば自然と解る。
 小島信夫も三浦清宏も例外ではない。
 蓮實重彦は「日本語のなかで、それをどの程度外国語化するかというのが小説である」といっている。
 ドゥルーズは「母国語をどもることが文学だ」といっている。
 残念ながら、どちらの見解にも賛成はできない。
 しかも、小島信夫・三浦清宏の師弟は、作家としての根柢に、「アメリカ」というテーマをかかえている。
 そこが問題であると同時に解りにくさを生んでもいる。
 それでは、『長男の出家』が受賞したさいの、芥川賞選考委員のコトバを抜粋して引用してみよう。
 完全な否定意見というものはないが、いささか途方に暮れている意見はある。
 ちなみに十三年前に『赤い帆』で芥川賞候補になっているのだが、そのことはだれも覚えていないらしい。
 
【全体のどこにも葛藤らしい葛藤が起こらないのでそれが不満と不安をつくりだす】(開高健)
 
【いささか騒然として混沌の気味がある】(黒井千次)
 
 本人はいささか批判的なつもりで書いたのであろうが、不満と不安をつくりだしたり、騒然として混沌の気味を感じさせたりしたなら、成功である。
 
【書きあらわされたかぎり、経緯がほんとうに経緯になっているか、なりゆきに主人公の葛藤がほんとうに伴っているか、微妙である】(古井由吉)
 
 これはのちに引用する日野啓三の意見に負ける。
 
【平明な言いまわしで流しているように見えるが、その実、かなりわかりにくい不気味さをかかえている作品である】(大庭みな子)
 
 たしかに読後感の第一印象は、平明なのに不気味、である。
 作家の端くれならばこういう作品を書きたいと思われるはずである。
 ちなみに三浦清宏はこれまでに評論やエッセイを多く書いてきて、初めて商業雑誌に載ったのが『変貌の中の声』であり、これは大庭みな子の『三匹の蟹』を中心に論じたもので、当然大庭みな子も読んでいる。
 つまり大庭みな子は三浦清宏の世界の一端をあらかじめ知っていたことになり、この選考委員会では強い味方になったのではないか。
 
【要するに、作者がしたたかな腕力で作品世界をつくりおおせたのか(それは、成功すれば慶賀すべきことだ)、つくっているうちにところどころ破れ目ができたのか、あるいはもっと素直な作品なのか、とうとう読み切れなかった】(吉行淳之介)
 
 吉行淳之介ほどの炯眼の作家が、読み切れなかったとはなさけない。
 読み切れなくったっていい、結句、どう感じたかということである。
 
【この子の喪失と再会の物語は、禅の世界を離れても、現代にひろく棘と訴えの力を持つに違いない】(田久保英夫)
 
 これはいささか好意的すぎる見方である。
 あえていうなら、「贔屓の引き倒し」という言葉を思い浮かべる。
 こういうことは、どういうわけか芥川賞の選考文には多い。
 
【これまでの親子、家庭小説は、断絶と崩壊におろおろと驚き、じくじくと嘆くものが多かったのに対して、この作品ではそれはすでに自明の前提であって、そこから前向きの方向(非情な方向だ)が見すえられている】(日野啓三)
 
 この意見は秀逸で、古由吉井の意見の微妙さへの解答にもなっている。
 肯定的な意見、というよりも、ポイントを剔抉できた意見である。
 ただこれは実話的に、たまたま前向きの方向だったのであって、批評という観点から考えると、実話的に後ろ向きの現実だったらという、発想が必要である。
 つまりこういうことがいえないか。
 それはいささか私小説的な発想ではあるけれど、たとえば大江健三郎の息子が障害を持って生まれてこなければ、三浦清宏の息子が出家をしなければ、大江文学も三浦文学も、現在とはかなり変わっていたはずである。
 
【この作品は行間に奥深いものを秘めている。それはこの作家の泉だが、その泉をどんな器で汲み上げて、どう文章に定着させるかがこれからの課題だろう】(三浦哲郎)
 
 三浦哲郎は、行間を読んだ。
 つまり三浦哲郎が、行間を書いた作家だったからだ。
 しかし三浦清宏が行間を書く作家とは思われない。
 
【私はその豊かさ、強さに圧倒された。呆然となったくらいである。……何か大きな成り行きとでも言うべきものに、めいめいに、時には共同で深く呼応してゆく。しかもその呼応ぶりそのものが、時には大きな成り行きをあたかも見返しているような凄味をぎらりと放つ。これほど自然に、明らかに、毒を孕んだ新人の作品は稀であろう】(河野多恵子)
 
 ほとんど絶賛である。
 自然に、明らかに、毒を孕んだ。
 こういわれたら作者としては最高の気分であるが、河野多恵子の選評は、おしなべて眉に唾する必要がある。
 だいたい自然に、明らかにということは、作者自身が毒を孕んだ人間であるといわれているのに近い。
 
【ある委員は現代の「子捨物語」といい、あるいは「親捨て」だといったりして議論が湧いた。三浦さんの毒気が効いたといえる。「子捨て」「親捨て」といったって、もともと生まれりゃ単独旅行者だ。「この子もそろそろ修行に出すか」と娘にまで細君とならんで手を振る男親の思いで筆を置くあたり、絶妙と思った】(水上勉)
 
 禅に造詣の深い水上は、『長男の出家』の世界を、「アメリカ流の禅」と評したそうだ。
 これは内容から考えていいやすい言い方である。
 しかしそれで禅の公案が解けたおもいになった選考委員がいる。
 やはり専門分野の人の意見は強い。
 現代の「子捨物語」というのは、読後感としてかなり的を射ている。
 けれども、問題はその捨て方であって、現代は『楢山節考』の時代とはちがう。
 それに「子捨て」「親捨て」といったって、作者がそういう問題意識を持って書いたわけではない。
 あえて一言でいうなら、『長男の出家』はノンフィクション・ノベルの傑作であると考えている。
 あれこれ選評の批評まで書いてみたのは、『長男の出家』という小説の、そこはかとない魅力を紹介したいからに他ならない。
 私小説ならずとも自分の体験を基にした小説には、基本的に謎はすくない。
 謎めいたことは作中でみんな告白してしまっているのだから。
 けれども『長男の出家』には謎が多い。
 選考委員たちが困惑したのも素直にうなずけるのである。
 この困惑を解消するには、三浦清宏の全体像を探索する必要がある。
 ちなみに三浦清宏は2011年に『長男の出家』の再販(芸文社刊行)にあたって、『長男の出家・その後』というエッセイ(正確には小説的エッセイとするのが妥当であろう)を発表している。
 これは三浦清宏や『長男の出家』に関心のあるひとたちにとっては、とても興味深い文章である。
 これは「はじめに」があって一から六までの項目に別れているが、引用するとしたら全篇引用しなければならないくらい、どの部分も興味深いのである。
 しかたないからとにかく粗筋を。
 ……『長男の出家』を書いた木村は、芥川賞を貰ったために坐禅の師である禅海寺の愚海和尚(尼僧である)に知られるところとなり、良海(木村の息子で愚海和尚の養子)の修行の妨げになるからと、愚海和尚から勘当された。それからほぼ十年経って、愚海和尚から電話があって木村の家までやってきた。良海が行方不明とのことだった。唯我独尊的な愚海和尚に反発して飛び出し、すったもんだの末に、良海は他の寺で修行をすることになり、その間約半年木村の家で過ごすことになった。良海は家事などを進んでやって、寺での修行が効いていることが解る。良海が北陸の古刹に向かうと、木村は二度会いに行ったが、二度とも良海に会うことはできず、そのうち良海は禅海寺にもどってきた。托鉢中に交通事故に遭い足を骨折、一ヶ月近くリハビリをして歩けるようになったが、坐禅や作務ができなくなったので帰ってきたのだ。しかも入院中看護婦と仲良くなり結婚の約束までしてきたのである。その後愚海和尚は亡くなり、数年経って良海は禅海寺の住職となった。三人の子の親となった良海は、生き生きとした顔で子供たちの面倒を見ながら、寺のために熱心に働いている。……
 もはやここには「子捨て」「親捨て」のイメージは微塵もない。
 親が考える以上に子はドライにたくましく生きていく。
 おそらく愚海和尚の思想の枠外であろう結婚をし、新しい禅僧としての生活を構築するはずである。
 木村は旧い禅を代表し、良海は新しい禅を代表しているふうに思われる。
 さすがの芥川賞の選考委員たちも、ここまでは深読みできなかった。
 なかでも、「子捨て」「親捨て」を力説した芥川賞選考委員たちが読んだら、鼻白むにちがいない。
 或る作家は或る禅僧から「こだわるな、こだわるな」と何度も諭されたことがあったと書いている。
 禅的思想からすると、拘りは最もいけないことらしい。
 だが結局その教えを守れず、文学に拘り文章に拘ってきて半世紀以上、はたして自分は充足し且つ何かをなしえたのか。
 だれであれ、多くの作家はそのことに忸怩たる思いをしているであろう。
 良海は拘らない生き方をしている。
 その生き方に木村は太刀打ちできない。
 だいたいが、『道元の風』を著したとはいえ、「禅とは何か」と問われても、明確で簡潔な答を出すことができない者がいるくらいだから。
 ただいえるのは、「只管打坐」ということくらいか。
 余談がひとつある。
 三浦清宏と芥川賞を同時受賞したのは、池澤夏樹の『スティルライフ』である。
 それから三十年ほど経って、池澤夏樹がこんな言葉を漏らしている。
 
【「三浦さんて、面白いひとですね。小説はあんまり好きじゃない、っていうんですから」】(『運命の謎・小島信夫と私』より)
 
 そんなことを面白がっているとは、作家らしくもない。
 というのは、この言葉の裏には「変わったひとだ」という認識があるから。
 そしてその内実をつきとめていないから。
「小説は好きじゃない」ということが、「小説を書くことが好きじゃない」のか「小説を読むことが好きじゃない」のか、あるいは「読むことも書くことも含めて小説というジャンルが好きじゃない」のか、この言葉を聞いたひとも、いった池澤夏樹も解っていない。
 小説を書くものが、小説を書くことを好きではないということはよくあることである。
 また小説を書くものも若い頃は小説を好きでよく読んだかもしれないが、中年以降になって小説を読むことが好きではなくなるということもよくあることである。
 むろん、小説を書くものが、小説というジャンルにやりきれなさやむなしさを感じて、好きでなくなるということだってすくなくはない。
 逆にいうなら、小説を書くもので、小説を書くことも読むことも、小説というジャンルも大いに好きだとしたなら、そのオプチミックな脳味噌のほうが面白いのではないだろうか。
 いずれにしても、芥川賞選考委員たちも、池澤夏樹も、三浦清宏の不思議な人間性に面食らっている感がある。
 たしかに個人的にも三浦清宏との短くはないつきあいのなかで、不思議感を味わったことがすくなからずある。
 或る日或る夜の、三浦清宏との対話。
 
──いいにくいけれど、三浦さんには、文学や心霊に関して、不用意な発言が、いささかありはしませんか。
──不用意とは。
──たとえば、文学と心霊のどちらかを選ぶとしたら、心霊を選ぶとか。小説はあまり好きじゃないとか。あるいは講演などでの発言とかで、失礼ながら、(これほんまかいな)と感じることがあります。
──それは、まさしく不用意な発言でしてね。ひとに何か本質的なことを問われると、準備もなく、とっさに、相手の信条や気持を逆撫でしたくなります。あるいは問われたわけでもないのに、自分の発言が核心に近づいたりすると、あたまで考えていることと、口から出ることがちがったりすることが、よくあります。
──それは、つまり、客観的真実など、不透明なものだという。
──ひとことではいえませんが、あえてひとことでいうなら、天邪鬼。
──ドストエフスキーの『地下室の手記』の語り手が、あたまでは「イエス」とか「A」なのに、ことばでは「ノー」とか「B」といってしまう、あれですかね。
──あれに近いですが、ぼくの場合は、猜疑心が強すぎるのかもしれません。ひとに何かいわれると、その反対もありではないかとか。あるいは自分で考えていることが、口に出す段になって、自分で「これほんまかいな」と。
──三浦さんというと、私なぞは、誠実なひとという認識なので。天邪鬼というものは、ずいぶんイメージ的に遠いかなと。
──それはありがたいような、おもはゆいような。ただ僕のとって、都合のいい解釈をするなら、もしかすると、誠実と天邪鬼とが重なっているのかもしれません。
──なるほど、といいたいところですが、また三浦さんの謎、というか、不思議感がひとつ増えた気がします。梅原猛は自分のルーツはアイヌだといっています。アイヌの人びとは嘘はいわないという道徳があるという。己についている心霊があるから、嘘をついても、心霊はその嘘を知っているからとのことです。もしかすると、三浦さんは、嘘をいいたくない。だから、相手が師匠だろうと、親友だろうと、ついきついこともいってしまうのではありませんか。普通の人びとは、若干の遠慮や忖度はするものでしょう。それがないところに、他人は三浦さんの不思議を感じているのではありませんか。
──それはまだ自分では解りません。ただ、僕の不思議というよりも、文学にしろ心霊にしろ、不思議が多い。不思議ばかりといっても過言ではありません。つまり、「絶対」がないのだと思われます。その意味では、文学も心霊も人間と無関係ではないのですから、人間が不思議だらけなのに、どうして文学や心霊に「絶対」があるのでしょう。
──それはそうですが、三浦さんの口調をお聞きすると、「不思議こそ絶対」という感がないでもないですが。
 
 だがその不思議感の内実の大半は、小島信夫いわく「三浦清宏は新しい人間である」ということなのかもしれない。
 いや、新しい人間なんて言い方はよそう。
 人間に新しいも古いもないからである。
 つまり三浦清宏は、新しいとかではなく、当時(あるいは現在も)滅多にいない人間のタイプなのだ。
 それは面白いとかつまらないとかではなく、珍しいといったほうが、客観性はある。
 さて話を『文学修行』にもどすと、ひとつ気になるエッセイがあって、それは「サローヤンのアメリカ」である。
 サローヤンのことを知っている日本の読者もすくなくなった。
 名前と代表作(『我が名はアラム』)ていどであろうが、そういうひとたちでも、この三浦清宏の文章にはすこぶる興味が湧くにちがいない。
 サローヤンはいう。
 
【いったい、この世の中に書きたいものがいくつあるのか。せいぜい二つだ。「生」と「死」と、この二つしかないではないか】
 
 これはさっき述べた、「文学の永遠のテーマ」に符合する。
「生と死」、これをひとつの問題としてまとめてしまうなら、あとひとつは、「愛」か。
「愛」というコトバは、いつもなら私は使わない。
 あまりにも漠然としているし、観念的であるから。
 それに、ひとによって「愛の概念」がちがいすぎる。
 たとえば、クリスチャンの「愛」は、キリストと天にまします我らが父に対する「愛」、あるいはその教えを「愛」として感受し、人びとに「愛」をそそぐ。
 若い恋人同志が、「愛してる」としょっちゅうメールしたり、くりかえし囁いたりするのとはおおきくちがう。
 あるいは下手な作家や鈍感な作家が、「彼は彼女を愛していた」なんて書きまくるのも、おおきくちがう。
 だから「愛」というコトバを、もし使うなら、きみの「愛の概念」を解説してからでないと、使っても意味がないということになる。
 なんてこともアタマの隅におきながら、やはり「愛」は「文学の永遠のテーマ」のひとつにちがいあるまい。
 三浦清宏が簡潔に書く、サローヤンの人間性は、もしかするとその作品よりも興味深いのではないか。
 たとえば、サローヤンを主人公にした伝記は、おそらく『我が名はアラム』よりも読者を惹き付けるにちがいない。
 そういうことなら三浦清宏もそういうことなのかもしれないが。
 
【(用心なんてまっぴらだ)というのは、また、サローヤン自身の人生に対する覚悟ではなかったか。十七歳の時にニューヨークに飛び出し、水を飲んで飢えを凌ぎ、ホテルの便箋をカッパラッては小説を書き、「河に飛び込んだらすぐ泳ぐほかにテはない」という書き方を発明し、タイプライターで二、三時間に一篇のスピードで短篇をたたき出し、もうけた金をもってラスベガスへ行き、一晩で五千ドル失い、「人間喜劇」(*ちなみにこれは小島信夫が翻訳している)を書いて二十五万ドルもうけ、またラスベガスへ行き、五万ドル負け、「トレーシーの虎」、「ロック・ワグラム」、「笑いごと」などを書き、馬に賭け、気前よく人に金を貸し、同郷人を助け、収税吏に追いかけられ、世界中を旅行して歩き、シドニーや、モスコーで大金を失い、パリの屋根裏部屋に閉じこもって、明日の生活の資金と税金を稼ぎ出す。
 彼の小説のスタイルが八方破れなら、彼自身の生活も八方破れだ。著者の生活の方が、その作品よりも面白い、或いは同じように面白い、という作家は少なくなった。現代の若手作家たちはたしかに用心深くなってきている。たとえばニューハンプシャーの川に沿った十万余坪の田園を買い、その林の中に人目を避けて住み、きちんと税金を払い(これは想像だが)禅僧のように毎日同じ日課に従って暮しているサリンジャーを考えてみるといい。サローヤンのような生き方を、一時代古いボヘミアン・タイプと片付けるのは簡単である】
 
 サローヤンの生き方こそ、「人間の理想」だと考える。
 いや、そんなことを公言すると、「ただのやぶれかぶれじゃないの」とかなんとか、家内はもちろん世間の奥様方の顰蹙を買うから、「男性の理想」といい換えよう。
 いや、それでも「そういうの男女差別だわ」とかなんとか文句が出そうだから、さらに「作家の理想」としようか。
 いや、そうすると、「作家ごときの特権意識」なぞと、おぞましいものでも見る目をされそうだから、しかたない、最後の手段、「個人的な理想」といい換えよう。
 しつこくいうならサローヤンは「はっぽうやぶれ」だけれど、「やぶれかぶれ」ではない。
 別のコトバにすれば、「隙間だらけ」だけれど、「自暴自棄」ではない。
 おそらくサローヤンは、他人に騙されてばかりの人生であった。
 けれども他人を騙して生を処してきたことなんかない。
 サローヤンの作品よりもサリンジャーの作品のほうが、はるかに面白いけれど、サリンジャーの生き方よりもサローヤンの生き方のほうが、はるかに面白い。
 おそらく三浦清宏もそうだったのではないか。
 サリンジャーの作品に魅せられながらも、生き方としてはサローヤンを理想にしたのではないか。
「無頼派」とよくいわれる作家は現在でもいるが、それが、「無法者」という意味ではなく、「他人に頼らない」という意味なら(「他人に頼れない」という意味でも)甘んじて受けてよかろう。
 だがそういう意味なら、サローヤンもサリンジャーも、「無頼派」である。
 ついでにいうなら、サリンジャーは「用心深い生き方」をしているのではなくて、「信心深い生き方」をしているのだろう。
 何に信心しているのかをあえていうなら、東洋思想、さらに具体的にいうなら、老子の思想、さらに道元の思想であろう。
 信心のしかたが合っているかそうでないかは、サリンジャーにとっては余計なお世話である。
「用心深い生き方」というのは、世界中に蔓延している。
 こんなつまらない生き方に人びとは固執している。
 逆に視ると、ちょいとつまずいたり足を踏み外したりすると、バッシングに見舞われるからで、いつも「いいね」をいってもらうためには、多数派の人びとに好かれなければならない。
 だいたい、好かれたくないと思っているものがいるだろうか。
 作家はむかしほど有名でないから苛められることはすくないが、芸能人になると「用心深い生き方」が身を守る唯一の方法である。
 けれども、ちょいとつまずいたり足を踏み外したものが、(用心なんかまっぴらだ)と日ごろから思っているかというとそうではなくて、「用心深い生き方」をしているんだが、ついボロが出るのである。
 なぜなら、人間は本来ボロボロだからで、つまり「用心深い生き方」というのは、人間の自然の生き方に反するのである。
 サローヤンに負けないくらい、(もちろん羽振りのよかった時代に)他人によく金を貸すひとを知っている。
 そして、その額がいくら高かろうと、貸すことは、すなわち差し上げることだと考えているらしい。
「気前良い」というのは、そして「助ける」というのも、畢竟そういうことであり、そこで借用書なんかを書かせるのは、「人間のクズ」、「醜い守銭奴」だと信じてもよい。
 貧者や弱者に金を貸さない奴は、「人間のクズ」の親分であり、「醜い守銭奴」の大将なのである。
 三浦清宏はサローヤンに似たところがある。
 クールな作品を書きつつ、そうではない心情を持つ。
 いささか余談になるかもしれないが、どういうわけかそれはフローベールにも似ている。
 これは影響というよりも、本質的なものにちがいない。
 文学愛好家ならだれでも、フローベールの文章精度を知っている。
 何度も何度も磨き抜いたその文章は、磨き抜いたゆえに、冷静、冷徹、冷酷にさえ感じられる。
 だからフローベール自身をそういう性格かと思うのは大まちがいで、文学愛好家でもあまり知られていない事実がある。
 親代わりに慈しんできた姪の夫が破産し、その家族の生活を救うために、フローベールは自身の不動産を手放し、こんどは自身が窮乏してしまったのである。
 クールな作家といわれてきた文豪フローベールの、そういう事実を知ると、かの有名な「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉の、裏の裏、文学的謎というものが、解けるのではないか。
 ここではそこまで突っ込まないけれども。
 三浦清宏は何度もいうとおり英米文学が専門だが、三浦清宏の文章精度にかぎっては、英米作家のそれよりも、仏作家のフローベールのそれを想わせるものがある。
 人間的にも作家的にも、自分に厳しく他人に優しいところも、とてもよく似ている。
 ほぼ同じ意味では独作家のカフカにもよく似ている。
 ユゴーの世界的傑作『レ・ミゼラブル』に関するフローベールの意見は相当に厳しい。
 
【『レ・ミゼラブル』の悪口を言うことはだれにも許されない。密告者のように見られてしまうからだ。作者の立ち位地は難攻不落、攻撃不可能だが……私はこの本のなかに真実も、偉大さも見いだせない。文体は意図的に不正確で低俗だと思える。これは大衆にこびるやり方だ。後世は柄にもなく思想家たらんとしたあの男を許すことはないだろう】
 
『レ・ミゼラブル』の圧倒的な饒舌に賛否はあっても、フローベールの意見を妥当なものとしてしまってはユゴーに気の毒である。
 尤もエンターテインメント志向のまったくない三浦清宏の作品は、地球がひっくり返ってもフローベールにこういうことを決していわれないはずだ。
 なおユゴーは亡命中交霊術にふけり、その前にあらわれたのは、不慮の溺死をとげた自分の娘であったという。
『レ・ミゼラブル』のなかで、【目に見える自己からだけ判断して、潜在的な自己を否定することは、どんな方法にもせよ、思想家にゆるされるものではない】といっている、文豪らしい興味深いエピソードではあることを付記しておきたい。
 余談はともかく、三浦清宏はとうぜん、フォークナーやヘミングウェイを勉強したにちがいないが、三浦清宏に影響を与えたアメリカ作家は、一にサリンジャー、二にサローヤンである。
 いや、もしかすると一にサローヤン、二にサリンジャーである。
 サリンジャーにはその作品からの影響を、サローヤンにはその生きざまからの影響を。
 だからもし三浦清宏と外国の作家との比較文学論を書くとしたなら、常識的にはやはりサローヤンかサリンジャーであろう。
 別の角度からはフローベルかカフカということになるだろうが。
 それが三浦清宏の五つ目の顔である。
 三浦清宏の(『長男の出家』を除く)短篇で、かくべつ興味深いものは、そしておそらく研究家にとって重要な作品でもあるのは、『黒い海水着』(1966年発表)『地下室のアメリカ』(1988年発表)『摩天楼のインディアン』(1991年発表)の三作である。
 三浦清宏の処女作といっていいかどうか、「20世紀文学」に発表された『黒い海水着』は、いずれにしても初めて活字になった短篇で、このとき三浦清宏は三十六歳になっていた。
 はじめ五十枚くらいだったが、小島信夫の助言を得て、たったの十三枚になった。
 それなら短篇というより小品だが、そうとはとても思われぬほど、深いところがあって、その深さは暗さに繋がる。
 アメリカの友人夫妻が来日し、ついでに三浦清宏の淡路島の実家に寄ったときのことが書かれている。
 はじめ三浦清宏はこのアメリカ人を書くつもりだったらしいが、小島信夫にアメリカ人を書いても自分と関わりがない、自分の妻のことに絞れといわれた。
 だから、黒い海水着は妻が着ているのである。
 妻がおそるおそる海に入る、その様子を微細に観察しているのだが、その視線はなんとも冷ややかで奇妙なほどである。
 けれどもその奇妙さが自分たちのこれからの生活に対する、暗いとしかいいようのない不安感、閉塞感を表出している。
 妻の後ろ姿を、【かたい甲虫のような妻の背中】と形容しているが、そこを読んで身震いした記憶がある。
 先にちょっと触れたが、夏目漱石のイギリス留学以上に、もしくは同等に、一九五二年の三浦清宏のアメリカ第一歩はアメリカ生活での幻滅を味合わせた。
『私の文学人生』にあるとおり「何よりもアメリカに行ってみたかった、今から七十年ほど前の日本では、世界で一番輝いて見えたのがアメリカ」だったから。
 戦前生まれの若い日本人が、戦争でコテンパンにやられた敵国アメリカに憧れを持つのは、何ら不思議ではない。
 すくなくともアメリカ兵に家族を殺されてでもいないかぎりは。
 そして「鬼畜米英」なんて標語に洗脳でもされていないかぎりは。
 それはちょっと、日本のプロ野球選手がメジャー・リーガーに憧れるのと似ている。
 ああそれなのに、である。
 なぜなら招待主が転勤してしまったために、大学教授の家に預けられハウスボーイとして働くことになったからである。
 しかも与えられた部屋はボイラー室を想わせる地下室であった。
『地下室のアメリカ』は、そのときの体験が基になっている短篇で、貴重な記録でもある。
 
【洗濯機と乾燥機の騒音と蒸気の中で、壁の上の穴から差し込む僅かばかりの外の光を眺めながら仕事をするのは、ガレー船の底で奴隷達が櫂を出した穴から洩れる光を眺めながら働くのと同じ感じだろうと思った】
 
 この一節を読んだときは、一瞬目を疑ったが、戦後のアメリカ人の日本人に対する見方はこんなものなんだとも思われた。
 またここには、アメリカ文化というものやアメリカ人のライフスタイルなどもよく描かれていて、公私を問わず戦後アメリカに行った文化人や芸術家などが感じたであろう、カルチャー・ショックも垣間見ることができた。
 アメリカ合衆国にとって、インディアンの存在は、日本にとってのアイヌに似ていると、かねがね私は考えている。
 インディアンやアイヌの歴史は専門家にまかせて、ここではそのインディアンを表題に使った、短篇『摩天楼のインディアン』である。
 喜代志(作者の分身)は、あるビルの頂上に据えられた、空の果てを睨むインディアンの酋長の人形を視る。
 そしてこう感じる。
 
【星の遠くに光る無限の夜空の下に、酋長はやはり槍と楯を構え、遠くを睨んで立っているかと思うと、何となく懐かしく、また気の毒になる。そういう時、喜代志は、自分もまた誰もいない宇宙の中にいるような気がするのだ】
 
 喜代志の視たインディアンの象徴するところはそれに尽きるとしても、ここには尽きることのない凄まじい世界がある。
 前衛画家マーサ(草間彌生がモデル)の生態であり、マーサと喜代志との関係性である。
 この短篇あるいは中篇は、マーサの登場によって長編に匹敵する濃密度を醸し出した。
 ヒッピー、ホモ、レズ、ヌーディスト、クスリ、乱交パーティ、パフォーマンス、ハプニング、ボディペインティング、ETC。六〇年代のアメリカの風俗をたっぷり盛り込んで展開する景色は、さしずめインディアンもビックリである。
 この時代にかぎらず、アメリカ人もしくはアメリカの生活においては、薬物が日常化していて、よってアメリカでの心霊体験ほど当てにならないものはない。
 それが常識的な判断であろう。
 心霊研究家としての三浦清宏の実績としては、『近代スピリチュアリズムの歴史・心霊研究から超心理学へ』(講談社2008年刊行)という労作があり、また、それよりはるか以前に、『イギリスの霧の中へ・心霊体験紀行』という、実体験でありながら、その文章力にオリジナル性の高い傑作がある。
 三浦清宏は、いくつかのエッセイで「心霊」に興味を持ったきっかけは、スウェーデンボルグだと述べている。
 ここでは、『現代英国心霊模様』という題がついたインタビューの言葉を引用する。
 
【いちばん最初はやはりスウェーデンボルグですね。今村光一という方がスウェーデンボルグの『天界と地獄』を抄訳した『私は霊界を見て来た』(叢文社)という本を読みまして、大変面白かった。それからスウェーデンボルグを読んでみようと思って、鈴木大拙による翻訳が大拙全集のなかに入っているのを読んだり、柳瀬芳意という方が静思社から個人全訳しているのを知って読んだりして、非常に面白かったんです。それまで霊界なんて、曖昧模糊としてよく分からなかったんですけどね、スウェーデンボルグは、まるでその場にいるように具体的に、とても明瞭に人物の様子なんかを書いてますので、そういうところに強く魅かれて、少し読んでみようという気になったんです。そうしたらたまたま、在外研究といって外国で勉強してもいいという大学の許可が出たものですから、それで英国を選んで、ロンドンへ行ったわけです】
 
 ここにある今村光一訳の『私は霊界を見て来た』(叢文社)は、手に入れるのが簡単ではなかった。
 BOOKOFFにはもちろん無かったし、練馬区の全図書館にも置いていなかった。
 そこで、遠くの図書館から送ってもらうことにしたが、結局未だに届いていない。
 一ヶ月経って同内容の本は手に入ったが、それは新訳であって出版社も異なる。
 いずれにしてもそこにあるスウェーデンボルグの言葉のなかで、(むろん信じこんだという意味ではなく、また三浦清宏がこれらの言葉に示唆を受けたという確証でもなく)ただ個人的に印象に残ったものをいくつか挙げてみる。
 
【死は、霊にとっては霊界への旅立ちにすぎないのである】
 
【簡単に言えば、人間の本性、心そのもののうちもっとも内面的なもの、本当の智恵、理性、知性、内心の要求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらはすべて霊の働きなのだ】
 
【霊界とこの世は、一枚の金貨の裏表のように切り離しがたく結びついているのではなくて、もともと一枚の金貨の裏表なのだ】
 
 ちなみに『天界と地獄』というタイトルのものは鈴木大拙が訳した本(1910年刊行)で、今村光一が実際に訳した本のタイトルは『私は霊界を見て来た』(叢文社1975年刊行)である。
 新訳のタイトルは、『スウェデンボルグの霊界・死後の世界は実在する』(中央アート出版社2000年刊行)である。
 また、スウェーデンボルグを、柳瀬芳意が静思社から個人全訳して刊行したのは、1980年のことである。
 なお新興宗教界のカリスマだった出口王仁三郎(1871~1948)が、鈴木大拙訳の『天界と地獄』を読みこなし、大量の書き込みを付し、新たな聖典『霊界物語』を書き上げたことは、夙に有名である。
 日本心霊研究の第一人者たる浅野和三郎(1874~1937)の著作も何とか手に入った。
 浅野和三郎は「心霊科学研究会」の設立者で、機関誌「心霊と人生」の発行者である。
 三浦清宏と同じ英米文学者として令名の高い人であった。
 浅野和三郎に関しては、『近代スピリチュアリズムの歴史・心霊研究から超心理学へ』に印象的な逸話が紹介されているので、それを引用する。
 
【大正四(一九一五)年、和三郎四十一歳の春に彼の三男が原因不明の病にかかり、発熱、衰弱が続くということがあった。いろいろ手を尽したが治らない。和三郎夫妻の心労は増すばかりだったが、十月のある日に妻の多慶子が夫に、三男を女行者のところに連れて行った話をした。祈ってもらったところ十一月の四日に治ると言われたという。これを聞いた和三郎は脇の下から汗が流れ落ちるほどの屈辱感を味わったそうである。これほどの激しさがあった人間だからこそ、一年後に人生の百八十度の転換を遂げることが出来たのかもしれない。彼は妻の行為を単なる迷信として退けなかった。妻が相談した「三峰山」と言われた女行者をまず調べてみようと思ったというところが、後年心霊研究に赴いた彼らしい。何回か女行者の許に通って、財布の中身を当てられたり、其処に通ってくる人たちと話をしたりしているうちに、彼は書斎では分からない人生があることに気づくに至るのである。そうしてついに、約束の十一月四日になって息子の病が完全に治ったのを知る】
 
 どうしてこの文章を引用したかというと、英米文学者が心霊研究家になる、大きな転機が書かれているからで、三浦清宏はこの一節を書きながら、自分はどうであったろうかと想ったはずである。
 それはここには書いていないが、『三浦清宏文学への誘い』の跋文にこう意味深なことを書いている。
 ここは重要な部分なので、再度引用する。
 
【自分の迷いとか、生き方の矛盾撞着、試行錯誤など、余計なことが省かれていて、人生行路が、あらかじめ決められていたかのように、すっきり纏まっている】
 
 浅野清の労作に、もしくはその営為に驚きつつ、かつ浅野清の尽力に感謝しつつも、一抹の不満を述べているとも感じられるのと同時に、「余計なこと」のなかにこそ、(若い頃の)自分とやらが存在したということなのだろう。
『イギリスの霧の中へ・心霊体験紀行』(南雲堂1983年刊行)は、六年後に「中公文庫」となった。
 その「あとがき」で、三浦清宏はこう書いている。
 
【私が心霊問題に興味を持ったのは、この本の初めに書いたように、スエーデンボルグを読んだからだが、私の勤めている大学の先輩教授であった後藤以紀先生の引退記念講演に感銘を受けたからでもある。後藤先生は電気学会の方では著名な学者で、同時に日本の心霊研究では草分け的な存在である。
 記念講演は専門の電気工学ではなく、心霊研究のさまざまな成果についての写真投映も交えたお話であった。エクトプラズムや浮遊する物体、クルックス博士が研究した幽霊、ケイティ・キングの写真などを初めて見た。英国に研究留学するに当り、後藤先生のアドバイスを求めたところ、日本心霊科学協会の会長吉田寛氏を紹介して下さった】
 
 なるほど、具体的なモノを見せられての話には、惹きこまれたであろう。
 尤も、その前にスウェーデンボルグを読んでいなければ、後藤以紀の講演にこれほど興味を持ったかどうかは不明である。
 ただこの講演が、イギリスへの心霊研究留学のきっかけもしくは後押しになったことは確かである。
 そして、日本心霊科学協会の会長吉田寛を紹介されたことは、のちに三浦清宏が日本心霊科学協会の理事の任に就いたり、『心霊研究』に何度かエッセイを発表したり、日本心霊科学協会に於いて何度か講演をすることに繋がっていく。
『イギリスの霧の中へ・心霊体験紀行』を一読して、特に興味深かったのは、ジョー・ベンジャミンに関する話であった。
 ベンジャミンは、「デモンストレーション」なるものをする。
 それは多くの聴衆を前に、雄弁で語り、そのうちの何人かを指定して透視したり、未来を予知したり、過去を当てたりするのだが、三浦清宏によると、易々とやっているように見えて【実は並々ならぬ努力を払っているらしい。その真剣さは、いちばんよく眼にあらわれている。冗談を言いながらも、眼は真剣である】ということである。
 イギリス留学中、三浦清宏は、何度かベンジャミンを訪問する。
 するとベンジャミンは、(亡くなった)「お母さんが来ている」とか「お父さんが来ている」とかいう。
 こういう話が苦手なひとでも、自分がそういわれれば平常心ではいられないものである。
 よって、こういう話に興味があるひとにとっては、その感情が推測できるというものである。
 バカバカしいと感じるひともいるだろうが、そういうひとは善良で堅実な大衆である。
 すっかりあるいはほとんど、ベンジャミンの「トリコ」になっている三浦清宏は、このとき小説を書く自分に疑問を持っている。
 小説を書きはじめた動機のなかの大きなひとつが、文学的成功にあこがれた虚栄心であったことに、強く反省していた。
 これ以上青くさい告白で読者をわずらわせたくはなかった。
 しかも或る小説家から「善良すぎるから小説を書くのに向いていない」なんてこともいわれていた。
 そしてこんなふうに熟考していた。
 
【作品の上では、客観化が出来にくい、ということになって表れる。最近私は、自分の眼が、執拗に外へ、遠くへ、向きたがることと関係があるのではないか、と思うようになってきた。その眼は理想を求める「善良すぎる」眼であって、外に向いているから、足許の「空白」には頓着しないところがある。小説化としては失格の眼かもしれない】
 
 だがベンジャミンの答は「どんどん書け」だった。
「家に帰ったらすぐ書きなさい」だった。
 
【おもしろいものを書きなさいよ。だれも読まないようなものを書くんじゃない。みんなが楽しむものを書くんだ。そうすれば金がじゃんじゃん入る。……そんなこと(金のことはどうでもいい)を言うんじゃない。入るものは入るんだ。欲しくなくたって、入ってくる。入ってきたら、使ったらいい。……どんどん、いろいろなものを書くんだ。立派な作家は何でも書く。小説ばかりじゃない。伝記、旅行記、童話、芝居、歴史、教科書。ぼくの伝記を書いたっていいよ。……スピリチュアリズムに関する本なんかもいい。これはきみに打ってつけだ。これは売れるよ。きみが書く本の中では、いちばん売れる】
 
 三浦清宏は、ややうんざりして、ベンジャミンの家を出る。
 ベンジャミンのいったことに、ある真実が含まれていると思うようになったのは、だいぶ経ってからだった。
 もちろん三浦清宏が芥川賞を受賞するのも、『近代スピリチュアリズムの歴史』を刊行するのも、ベンジャミンに会ってだいぶ経ってからだった。 ベンジャミンの著作はいくつか読んだことがあるが、一般的な意味で善良ではないが、真面目な人格であることがよく解る。
 結局、一旦は眉唾的と思ってはみても、心霊研究に時間も精力も費やしているひとたちは、スウェーデンボルグでもベンジャミンでも、あるいは鈴木大拙でも(『近代スピリチュアリズムの歴史』の中に登場する印象的な名前である)福来友吉でも、浅野和三郎でも、後藤以紀でも、そして三浦清宏でも、真面目なインテリゲンチャである。
 凡人が(という言い方に語弊があるなら普通の人びとが)幽霊談を語ったり、心霊スポット体験をしたりするのとは「何となく」(浅学の私はそういうしかない)違うのである。
 ただその違いが、そういうものを信じるひとを増やし、またそういうものを信じないひとに不思議な思いをさせる。
 ここで一旦『近代スピリチュアリズムの歴史』にもどって、その第八章「日本の事情」の冒頭に、三浦清宏はいささか不満気にこう書いている。
 
【世界の心霊研究史の中で言えば日本は後発国で、クルックスによる心霊研究が始まってから四十年後、やっと二十世紀初頭に福来友吉の登場によって歴史の脚光を浴びるのである】
 
 福来友吉についてはあらためてのちに書くが、続けて三浦清宏はいささか戸惑いがちにこう書いている。
 
【人によっては、十八世紀後半から十九世紀にかけて活躍した国学者の平田篤胤を日本の心霊研究の先駆者だと言うが、彼の著書『仙境異聞』は霊界探訪の貴重な資料だとしても、「仙童寅吉」からの聞き書きであり、十九世紀心霊研究の特色である科学的厳密性に近づこうとする努力からは遠いものである】
 
【明治に入ってからは、第三章で触れたように、哲学館(のちの東洋大学)の創始者井上円了が明治十七年に「妖怪学研究」に興味を持ち、その二年後に会員を集めて「不思議研究会」を始めたり、事例を収集して『妖怪学講義』を著したりしたのが日本における心霊研究のはじめだとされる】
 
 けれども「妖怪」と「心霊」は似て非なるものであり、三浦清宏自身は、ここに自信を持って、【近代科学精神に基いた心霊研究を最初に行ったのは、間違いなく福来友吉である】と断言している。
 さらに個人的興味としては、(前東京帝国大学総長)の山川健次郎の逸話に触れた部分である。
 山川健次郎といえば、元会津白虎隊隊員であったひととしても高名。
 この山川健次郎を主賓として、(千里眼の持ち主として有名だった)長尾郁子の念写実験があったのである。
 これは説明するとややこしいくらい(だから詳しく知りたいひとは『近代スピリチュアリズムの歴史』第八章を読んでもらったほうがいい)のすったもんだがあって、最終的に山川健次郎はこう結論づけている。
 
【最近千里眼がもてはやされるようになってから、それまで影を潜めていた迷信熱が再燃しているのは寒心に堪えない。自分はこれまで国定教科書、修身書の編纂に関わり、迷信にまつわる事業を極力排除してきた。したがって千里眼の問題は国民教育上見逃すことは出来ない】
 
「寒心」とは、『広辞苑』によると、「心に恐れを抱いてぞっとすること」であるから、山川健次郎の千里眼批判、迷信熱批判は相当に強固なもので、教育者としては実に健全な発言といえる。 
 さてスウェーデンボルグは、1688年スウェーデン・ストックホルム生まれ。
 科学者・哲学者・神学者。
 1772年イギリス・ロンドンで死去。
 今村光一にいわせると、【ノーベル賞を五つも六つも貰っていたに違いない科学者】であり、【人類の歴史上最大の天才といわれる人物】である。
 厖大な著作がある。
 なかでも「霊界著述」は日本語版にして数千頁となる。
 その「はじめのことば」は、衝撃的であり、眉唾的でもある。
 
【私は過去二十数年間にわたり、肉体をこの世に置いたまま、霊となって人間死後の世界、霊の世界に出入りしてきた。そして、そこで多くの霊たちの間に立交わり、数々のことを見聞きしてきた。
 私がこれから記すのは、私自身が人間死後の世界、霊の世界で、この身をもって見聞きし、体験してきたことの全てである。
 私が霊の世界で見聞きしてきたことは数多い。だから、この手記は厖大なものとなろう。その膨大さを考えるとき、私はこの世における残された時間は少ない。というのは、私は来年の三月二十九日には、この世を捨て霊の世界へ二度と帰らぬ最後の旅立ちをせねばならぬことになっているからだ】
 
 じっさい予告通り、三月二十九日に、「この世を捨て霊の世界へ二度と帰らぬ最後の旅立ち」をした。
 とのことだが、もしこれがホントなら驚愕だが、本人の言述のほかに、何か証明できるものはあるのか。
 いずれにしろ、スウェーデン王立学士院の希望により、国王は、スウェーデンボルグの残した科学、哲学、また政治的な功績に対し、同王国の軍艦を派遣して、その遺骸をイギリスからスウェーデンに移し、ウプサラ大聖堂に納められた。
 スウェーデンボルグが初めて日本で知られたのがいつなのか、具体的には知らないが、薩摩藩士の五男として生まれた森有礼は、幕末の青年期に西洋での三年間の留学を体験している。
 この留学生活中に、スウェーデンボルグ派の宗教団体を主宰し、社会改良主義的キリスト教徒ともいわれたアメリカ人のトーマス・ハリスと出会い、その思想と人格と強烈な個性に魅せられたとのことで、薩摩藩からの留学費の送金が滞りがちになったこともあって、ハリスの主宰するアメリカの「新生社」に入ることになったそうだから、帰国後もスウェーデンボルグに関して云々していることは間違いないであろう。
 文学の世界においては、芥川龍之介の『侏儒の言葉』の補輯(これは一旦雑誌に発表したが単行本にまとめる際に著者が削除したもの)の冒頭の小題「神秘主義」のなかに、スウェーデンボルグの名が見られる。
 またスウェーデンボルグをよく読んだという、カリスマ的人気を誇った美術家の横尾忠則は、「死後生」を信じると公言している。
 生のときよりも、まるかに長い死のときが、人間の本番であると。
「死後生」を信じる者にとっては、死は終わりではなく、始まりなのである。
 スウェーデンボルグの総てを知らなければ、三浦清宏の心霊研究もしくはそれに対する執心が解らないということならば、ここにスウェーデンボルグ論を開陳するという大事業を並行させねばならないのだが、評者にとって幸運にも、スウェーデンボルグの思想あるいは霊界研究にはキリスト教が深く関わっている、というよりも(肯定するにしろ否定するにしろ)キリスト教なくしてスウェーデンボルグの「心霊著述」はありえない。
 だいたいが「スピリチュアル」という言葉そのものが、キリスト教と密接につながっていると考えられる。
 おそらく日本で最も有名なクリスチャンである内村鑑三は、「スピリチュアリズム」という言葉を発している。
 これは「心霊」とか「心霊主義」とか「心霊研究」とかの意味とは異なり、「精神主義」とか「信仰主義」とかの意味であるが、すくなくとも日本でもスピリチュアルがキリスト教と密接につながっている証拠ともなる。
 スウェーデンボルグの遺稿である、『霊界日記(全十巻)』(柳瀬芳意訳・静思社1956年~刊行)の数巻を一読したが、この霊界は、現世の一種の解釈であると思われた。
 しかもキリスト教的解釈。
 もしくは反キリスト教的解釈。
 いや、こんなふうに割り切った言い方は不遜であり、また反論されれば徹底抗戦すらできないのであるが、これは浅学のもしくは浅読みの寸感としておけば赦されるはずだ。
 それならクリスチャンではない(あるいは反クリスチャンではない)三浦清宏が、どうしてスウェーデンボルグに共鳴したかという問題が浮上する。
 あえて一言でいって、その問題の解明はそう難しいことではなく、禅を世界に広めた、梅原猛いわく「近代日本最大の仏教学者」である鈴木大拙の存在がある。
 鈴木大拙(1870~1966)は、キリスト教と仏教にある種の共通点を感知し、スウェーデンボルグの「心霊著述」に共鳴したのである。
 1910年スウェーデンボルグの『天界と地獄』を翻訳した鈴木大拙は、三年後の1913年、スウェーデンボルグに関する一冊の概説書『スエデンボルグ』を著わした。
 その「緒言」で、「一体なぜスウェーデンボルグなのか」について、三つの理由をあげている。
 
【まず彼は天界と地獄とを遍歴して、人間死後の状態を悉く実地に見たりと云うが、その云うところの如何にも真摯にして、少許も誇張せるところなく、また之を常識に考えて見ても、大に真理に称へりと思うところあり。是れスエデンボルグの面白味ある第一点なり。
 此世界には、五官にて感ずる外、別に心霊界なるものあるに似たり、而して或る一種の心理状態に入るときは、われらも此世界の消息に接し得るが如し。此別世界の消息は現世界と何等道徳上の交渉なしとするも、科学的・哲学的には十分に興味あり、是れス氏研究の第二点なり。
 スエデンボルグが神学上の所説は大に仏教に似たり。我(プロプリアム)を捨てて神性の動くままに進退すべきことを説くところ、真の救済は信と行との融和一致にあること、神性は智(ウイズダム)と愛(ラブ)との仮現なること、而して愛は智よりも高くして深きこと、神慮(ディヴァイン・プロヴィデンス)はすべての上に行き渉りて細大洩らすことなきこと、世の中には偶然の事物と云ふもの一点も是れあることなく、筆の一運びにも深く神慮の籠れるありて、此処に神智と神愛との発言を認め得ること、此の如きは何れも、宗教学者、殊に仏教徒の一方ならぬ興味を惹き起すべきところならん。是れスエデンボルグの研究すべき第三点なりとす】
 
 キリスト教と仏教徒の本質的かつ表層的な差異は、それぞれの専門家の云々するところであり、当然鈴木大拙にもその観念は在ったに違いないのだが、スウェーデンボルグに出会って、開明したというか、目の鱗がとれてしまった。
 あれれ、一脈(もしかすると十脈も百脈も)通ずるところがあるではないか、というわけだ。
 したがって、鈴木大拙いうところの「神性」は「仏性」といいかえてもよいわけである。
 これこそが、鈴木大拙がスエデンボルグに執心した理由である。
(尤も執心に理由が一つしかないということはないのだが)
 したがって約三十年後に、『日本的霊性』を書かねばならなかった。
 その「緒言」に、鈴木大拙は、「精神」(あるいは「精」と「神」)「心」「魂」などの言葉の難解さを云々している。
 これが刊行されたのは1944年であり、おそらく書き始められたのは太平洋戦争に突入するあたりであったろうから、1940年代であったろうから、「日本精神」とか「大和魂」とかが連発された時代であり、そういう言葉の氾濫に対する警告もあったにちがいない。
 しかしここで突っ込んで研究しても、『鈴木大拙論』を書くわけでもなし、またそれは専門家がいくつも書いていることなので、ここではこのあたりまででやめておくのが、浅学菲才の者としては賢明であろう。
 ちなみに最近出版社の依頼で釈宗演の本を現代語訳にして出版したが、この釈宗演は鈴木大拙の師であったとのことで、この事実を出版したのちに知ったくらいだから、どうにもこの筋のことに関しては、かほどに無知なのである。
 ただ霊的世界論の観点からは、鈴木大拙とほぼ同時代の大きな存在として、『先祖の話』などの柳田国男や『死者の書』などの折口信夫があり、その先駆者として『霊能真柱』などの平田篤胤が在る。
 さらにあえていうなら、「目に見えないものたちが顫動している不可思議の世界にまで踏み込まなければ真の人間界は解らない」と、密教の神髄を説いた空海にまで遡ることができる。
 折角だから、福来友吉(1869~1952)についてすこしだけ記しておきたい。
 東京帝国大学文科大学助教授文学博士だった福来友吉は、心霊問題に強い興味を持ち、多くの超霊能者の心霊実験に触れ、【「透視」も「念写」も事実である】という認識を持ち、学生だった芥川龍之介も待ち望んだという著作『透視と念写』を1913年に出版。
 けれども、アカデミズムから激烈な批判にあい、ついに休職を命じられ、二年後には自動的に退職処分となった。
 孤立無援の福来友吉は自宅で研究しつつ、幾人かの心霊能力者とも出会い、精神的活路を求めて、高野山にて修行する。
 心霊現象の研究のために、空海の密教の研究が必要と思い詰めた結果にちがいない。
 ただ空海は、日本の歴史上じつに稀有な天才であって、果たして空海の宇宙に辿りつけたかどうかは、不明としかいいようがない。
『空海の風景』の作者でもある司馬遼太郎は、空海の著作に関連して、こんなふうな興味深いことを書いている。
 
【(宗教的)主題を言語というきずなによってつなぎとめるには、修辞のなかで魔性をこめねばならず、つい表現が華麗にならざるをえなくなるのではないかと思ったりする】
 
 ここで、華麗な修辞表現とは無縁の三浦清宏の文章を思い浮べる。
 三浦清宏が福来友吉と同じ道を行かなかったのは、ある意味では日本における最初で最大の神秘家である空海に惹き寄せられなかったのは、禅を学んでいたことと無関係ではないと思われる。
 いずれにしても、空海や真言宗のことをあるいは密教や曼陀羅のことを、多少でもかじったひとなら、福来友吉が高野山に登った理由がよく解ると思われる。
 弘法は筆を選ばず。弘法大師の尊称である「五筆和尚」がその筆で行なったいくつかの奇蹟(信じられない人にとっては逸話)は、また心霊研究の教材でもあろう。
 また空海は、幼少のころから晩年に至るまで、たくさんの奇蹟的伝説を残している。
 ここは「空海論」の場ではないので、詳述は避けるが、空海が日本におけるスピリチュアリズムの開拓者であるとする学者もいることだから、福来友吉の行動に何ら異常なものはないということだけは述べておこう。
 宗教とスピリチュアリズムの相似性もしくは関連性を云々している書物は多くあるが、ここではひとつだけ挙げておこう。
 法華経によれば、仏陀は化け物の姿をして導くことがふさわしいものには、化け物の姿をして説法をする、とある。
 また浄土宗の僧侶でもある文筆家鵜飼秀徳は、『「霊魂」を探して』という自著の「巻末付録」として、僧侶1335人への霊魂に関するアンケート調査を行ない、「霊魂を信じる」と答えた僧侶が64、8%にのぼるとしている。
 たしかに心霊研究のためには、スウェーデンボルグやベンジャミンのみならず、思想的に突出した空海のことや、あるいは深層心理の顕学ユングのことなどは、学ばざるを得ないであろう。
「たましい」や「あの世」の存在を信じたユングは、【UFОにまつわる怪異談や神聖視は、現代人の無意識の投影である】とした。
 UFОが異星人の乗物だとしたなら、地球に到達するのに十万年以上かかるはずなので現実的ではないとしても、この「UFО」のところに、いろんなものが入りそうである。
 ほかにもユングには興味深いコトバがいくつも残されていて、こういうものもある。
 
【イエスは人間の代わりに罪を背負うために地上に来たのではなく、人間の苦しみを神自身が味わうために来たのだ】
 
 さて鈴木大拙が「禅」と「心霊」に執心したのと同様に、紆余曲折という点では差異があっても、鈴木大拙に倣って、三浦清宏も「禅」と「心霊」に執心したのである。
 たしかにスウェーデンボルグとの出会いのきっかけは今村光一の一文であったが、発見や興味が研究や実感となったのは鈴木大拙の存在であった。
 鈴木大拙の著作によって「禅」にのめりこむひとはいても、「心霊」にのめりこむとは、一般的に考えてもやはり驚きである。
 ただもしかすると、のめりこむという言い方はちがっていて、吸い込まれたという言い方のほうが近いかもしれない。
 それでも鈴木大拙訳でもスウェーデンボルグを読んだという三浦清宏が、もし禅をやっていなかったなら、心霊に関心を持たなかったかもしれない。
 ちなみにスウェーデンボルグに興味を抱いた文学者は、三浦清宏が最初ではない。
 ヨーロッパでは、ブレイクやバルザックやボードレール。日本では、谷崎潤一郎や三島由紀夫が知られている。
(尤も後にも触れるだろうが、三浦清宏との差異ははっきりしている)
 まったく、どの文学者を観ても高い知性と深い見識を内包するひとたちばかりである。
(もとより、スウェーデンボルグも鈴木大拙も、高い知性と深い見識を内包する人物といってもよい)
 ただ彼らは文学的にもしくは美的にスウェーデンボルグを取り入れたのであって、だからといって三浦清宏と同じく「心霊研究」に突入したわけではない。
 つまり文学者であると同時に心霊研究家であるということは、どういうことなのか。
 しかも、三浦清宏自身、「もし小説を書くことはやめても、心霊を研究することはやめない」とまでいっているのだ。
 そこに三浦清宏文学の謎がある。
 もし「謎」を「顔」といいかえたとしたなら、作家(いちおう浅野清流の分類に合わせるが、小説家といったほうがより意を尽していると思われる)でありながら心霊研究家であるという、いよいよ三浦清宏の七つ目の顔である。
 つまり、作家でありながら一つ目の顔である英米文学者であるという顔は謎でも何でもない。
 また、作家でありながら三つ目の顔である禅研究者というのもあり得る。
 けれども、繰り返すが、文学者でありながら心霊研究家であるという、いよいよ三浦清宏の七つ目の顔である。
 こういうひとを、他にあまりよく知らないが、日本にかぎっていうならば、三浦清宏の先輩は土井晩翠である。
 土井晩翠(1871~1952)は、明治時代には島崎藤村と並び称された、『天地有情』の詩人であり、ごぞんじの『荒城の月』の作詞者である。
 また、霊魂の存在を信じた心霊研究家でもあり、日本心霊科学協会の顧問をつとめていたこともあった。
 晩年には、ときおり霊媒者を招いて「招霊会」をおこなって、亡き子供たちの霊を呼び寄せてもらい、涙ながらに霊と語らっていたという。
 ただ福来友吉は、土井晩翠の交霊現象を、強迫観念から生じる幻視・幻聴だと考えていた。
 亡父は晩年、英霊の姿を見たが、これは薬剤による幻視だと考えている。
 ただ大声でいえないのは、頭のスミにユングのこういうコトバが在るからである。
 
【私は自分で説明できないもの全てをインチキと見なすという、昨今の愚かしい風潮に与することはしない】 
                                  
 浅野清の『三浦清宏文学への誘い』によると、『近代スピリチュアリズムの歴史・心霊研究から超心理学へ』の読後感の「はじめに」に、本書を読む前に本書の心霊世界を理解する準備として、『幽霊を捕まえようとした科学者たち』(デボラ・ブラム著・2007年文藝春秋刊行)を通読したと書いている。
 心霊に関する本は他にも沢山出ているけれども、要はまずとにかく何か一冊読んでみること。
 よって、浅野清のこの選択は間違ってはいないと思われる。
 つまり浅野清も、三浦清宏に限らず古今東西のインテリゲンチャがどうしてかくまで大勢、心霊に興味を持ったか、その疑問というか不思議を感じていたのだろう。
 ただ正直にいうなら、心霊の本はすくなくとも二、三十冊読まないと、心霊の幅や深さが解らないはずである。
『広辞苑』で「心霊」を引くと「精神、心魂」とあり、また「神霊」は「たましい、霊魂」とある。
 そのちがいが不明瞭である。
 辞書としておそまつといわれてもしかたがない。
 これなら、意味とかではなく、漢字そのままに「心の霊」「神の霊」としたほうがまだマシであろう。
 ついでにいうなら「霊」のイメージするところは何となく解っても「心」とは何ぞやと、まともに考えるとこれはまた至極難解である。
 大むかしのひとたちは心臓に心があったと思っていたらしいが、科学が発達すると心は頭、つまり脳だということになる。
 けれども心が霊と合体すると、果たして心=脳と断言してよいものかどうか。
 だいたいにおいてふつうわれわれは、「心」と口に出していうとき、いったい脳を連想しているであろうか。
 そうでない人のほうが現代でも圧倒的に多いのではないか。
 ただひとこと添えておかなければならないのは、文学にかぎらず芸術創作というものは、心の産物であるということである。
 したがって芸術創作をする人間は、つねに心のことを考えているといっても過言ではない。
 その心のイメージがたとえ人それぞれであったとしても。
 人間は死ぬと、直後に体重が数g減るという。
 かの野口体操の創始者野口三十三は、この現象を【死がエアゾールとなって霧を噴出させた】といったらしいし、かのイグ・ノーベル賞受賞者レン・フィッシャーは、多くのテストの結果【魂がパン一切れほどの重量であることを実証した】と発表したらしい。
 となると、その数gがレン・フイフィッシャーいうところの魂=心霊かもしれない。
 他にもエリザベス・キューブラー・ロスやマイクル・B・セイボムといった医学博士が霊性の存在を主唱し、ローレン・グロフとかルドルフ・シュタイナーなどの心理学や哲学の権威も、魂の存在の実証研究をやっている。
 ロスは具体的に、人間は「肉体」と「感情」と「知性」と「霊的」な四つの部分からできているといっている。
 加えて、人間は四千七百万年のあいだ生きてきて、人間らしくなってからも七百万年経つ、人間が月まで行って無事に帰ってこられる世の中だというのに、人間の死に関する最新の包括的な定義の研究には、これまでこれっぽっちのエネルギーも注いでこなかったのはおかしいという。
 そういわれればそうで、国家にとって霊や死は禁止条項なのだろうか。
 ともかくも、以上あれこれいわれると、霊を信じないひとでも反論しにくいのではないか。
 じっさい霊を信じるひとたちはもちろん、信じないひとたちでも、霊とは密接につながっているはずの、「輪廻転生」には興味があるはずである。
 霊を題材にした映画はとても多く、『エクソシスト』『ポルターガイスト』『ゴーストバスターズ』『シックス・センス』『ソラリス』『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』『スリーピー・ホロウ』『ゴースト・ニューヨークの幻』『リング』等々、大ヒットしたものだけを挙げても、三十や五十はある。
 怖い映画がほとんどだが、笑えるものやロマンチックな映画もある。
 霊を信じるひとでも信じないひとでも、こういう映画が大好きなひとは多い。
 これにいわゆる「お化け」を加えると、とんでもない数になるわけだが、繰り返すと、お化け=心霊ではない。
 その傾向は、単純に現実逃避とばかりもいえない。
 これもまた研究の対象にはなりそうである。
 どちらにしても、こういう話をやりはじめたら止まりそうにないので、話をデボラ・ブラムの本にもどそう。
『幽霊を捕まえようとした科学者たち』の冒頭に、「ゴースト・ハンターズ」一覧が写真と略歴入りで載っているが、そのメンバーに圧倒される。
 一応ここに名前のみを列記すれば、ウィリアム・ジェイムズ、ヘンリー・シジウィック、フレデリック・マイヤーズ、エドマンド・ガーニー、エレナー・シジウィック、アルフレッド・ラッセル・ウォレス、ウィリアム・クルックス、レイリー・ジョン・ストラット、アーサー・コナン・ドイル、マーク・トウェイン、ウィリアム・バレット、リチャード・ホジソン、オリヴァー・ロッジ、シャルル・リシュ、マリー・キューリーといった、有数の哲学者、数学者、化学者、物理学者、文学者などである。
 かたや(この本の性格上だろうが)「アンチ・ゴースト・ハンターズ」は少なく、マイケル・ファラデー、チャールズ・ダーウィン、トマス・ヘンリー・ハクスリー、ジョン・ティンダル、トマス・エジソンである。もちろん、ユングではないが、「自分で説明できないもの全てをインチキと見なす」多数の学者がいたことは、福来友吉の苦難を垣間見るだけでも想像がつく。
 いずれにしてもこの本などを読んでいると、心霊に興味を持ったり心霊を研究してみようとしない学者のほうが、逆に不思議に思えてくるくらいで、したがって文学者三浦清宏の心霊研究を、一種の「謎」だと考えるひとのほうが奇妙な人間に思われてしまうくらいである。
 思えば古今東西の大文豪のほとんどが、心霊の問題とはいわないまでも、すくなくとも生死の問題を扱っている。
 それがメインのテーマでないにしろ、それがバックにある。
 ダンテしかりシェイクスピアしかりゲーテしかりトルストイしかりドストエフスキーしかりカフカしかりカミュしかり。
『近代スピリチュアリズムの歴史・心霊研究から超心理学へ』の「あとがき」に、三浦清宏はこう書いている。
 
【われわれ人間が現在知りうる物質世界は、原子、人間、星、銀河のすべてを含めても宇宙全体のわずか四パーセントで、残り九六パーセントは不明なのだそうである。不明な部分は宇宙全体の七三パーセントのエネルギー、二三パーセントの物質で、これを「暗黒エネルギー」及び「暗黒物質」というらしい。或る時から宇宙の膨張が加速されるようになったのを宇宙の微妙な温度差によって計ったところ、そのエネルギーと物質の量はわれわれの知りうる世界の総領を遥かに上回ったというのである。計算違いではないかと疑いたくなるような話で、それに比べれば心霊現象などは他愛もないことに思えるほどだ】
 
 個人的には宇宙が膨張するかぎり、また宇宙の外側(それも宇宙と呼ぶことにして)が不明なかぎり、四パーセントどころか0.04%くらいのもんじゃないかと考えている。
 また生命の起源が海や海底火山から分子反応によって発生したものではなく、宇宙の果てから飛んできた生命体であるという説も出始めてきた。
 となると、やはり何百何千億光年の時間のハナシであるし、となると、心霊などというものも何百何千億光年の時間のハナシとなる。
 宇宙の真実の究明が不可能だと思われるのと同様に、常識的には心霊の真実の究明の研究も不可能だと思われる。
 けれども、ひとむかし前は最小の単位は原子だったが、それより微細な素粒子が究明され、現在はそれより微細なクオークがあるといい、さらにそれより微細なものが究明されるかもしれない。
 宇宙の真実の究明が不可能だという証拠もない。
 しかも将来AIが益々進歩して、AIが宇宙や心霊の謎を解明する時代がくるかもしれない、ということだけは付記しておこう。
 こうしているとき、周りのひとたちから、心霊の研究をやっているのかときかれた。
 残念ながらそんな素養はない。
 それに、不可能なことに挑戦する考えはない。
 個人的には長年生きてきたせいか万病に罹ってきたせいか、幽体離脱も臨死体験も体験しているし、UFОも幽霊も目撃したことがあるし、パワーストーンなるものに御利益を蒙ったこともある。
 尤も、UFОの正体を追いつめたら光るブーメランだったし、幽霊は瀕死の浮浪者だったし、幽体離脱に関しては当時仕事で一週間ほとんど眠っていなかったし、臨死体験においては、花々の咲き乱れる向こうから呼んでいる祖母はまだ生きていたのだから、よく考えてみると祖母が呼んでいるあちらが彼岸とか涅槃のはずがない。
 パワーストーンについては、表から観ても裏から観ても、ただの石ころにしか観えず、その石ころで暴漢を撃退した御利益は、もっとでっかい石ころだったら撃退どころか撲殺していただろうから、そういう意味での御利益でしかない。
 幽霊を信じる人は嫌いではないが、フィクションとノンフィクションを混同させるつもりはない。
 そのせいか心霊に興味を持たなかったし、したがって研究もしてこなかった。
 それどころか心霊と聞いただけで、即座に胡散臭いと思われたものである。
 ただフロイトやユングの著作を長年愛読してきたひとりとしてあえていうなら、心霊は夢や深層心理と深い関りを持つはずである。
 だからきかれると、心霊研究をしているのではなく、心霊研究家の研究をしているのだと答えたものである。
 それはまるで、宇宙研究をしているのではなく、宇宙研究家の研究をしていることに似ている。
「心霊と文学」の関わりの研究、「心霊研究家と文学者」との関わりの研究、いや研究なぞという大それたものではなく、自分の興味や疑問の解明をしたいというにほかならない。
 個人的には、スピリチュアリズムは、人間をいささか生かし人間をいささか殺す、と考えている。
 すくなくともスピリチュアリズムを研究する本人にとっては、重要なものだ。
 だが一般には、ほぼ必要性がないふうに見られる。
 そこは、文学と同じだ。
 ならば宗教はというと、人間を多量に救い人間を多量に殺戮してきた。
 これは私見というよりも、歴史的事実である。
 フロイトが眉を顰める宗教が必要悪なら、ユングが愁眉を開くスピリチュアリズムは不必要善といっていい。
 観方を変えれば不必要悪か。だからお化けも幽霊も文学になり得る。
 スピリチュアリズムに関心のあるものこそ、惑星科学者カール・セーガンの「疑いのあるところ常に自由がある」という姿勢に基いた論考を読んでほしい。
 いやそういう言い方をするとあちこちから叱られそうだ。
 スピリチュアリズムを知らないものの台詞だといわれそうだ。
 チベット密教を修行した中沢新一は、「神秘主義という言葉自体をポップにできるようになればいい」とつぶやいているし、日本の知性の第一人者立花隆は、臨死体験や神秘体験のことを世界中を巡って取材している。
 信頼できる作家の橋てつとは、「これからの日本はスピリチュアリズムの時代だ」といっているし、気鋭の宗教心理学者竹倉史人は、「いまや日本はスピリチュアティ文化の時代だ」といっている。
 そしてこんな統計(2008年現在)を出してきている。
 絶対にある、もしくは多分あると答えた日本人の回答結果である。
「祖先の霊的な力=47、3%」「死後の世界=43、9%」「輪廻転生=42、6%」「涅槃=36、8%」「天国=36、1%」「地獄=30、7%」
 嘘つきの私はアンケートなんてものは信じないが、それにしてもこの割合いは想像を超えている。
 繰り返すが、文学者三浦清宏の心霊研究を、一種の「謎」だと考えるひとのほうが、奇妙な人間に思われてしまうくらいである。
 それほど身構えることもない。ただここまで書いてきて、頭の隅に浮かぶのは、これまで多くの文章を書き多くの発言をしてきた、心霊研究家としての三浦清宏は、「日本スピリチュアリズム中興の祖」となるのではないかということである。
 そういうことはどうでもいいことだが、どうでもいいことから生れるものもある。
 すくなくとも日本人が、生とか死とか、この世とかあの世とか、祖先とか子孫とか、そういうことなどを、真剣に考える大きな布石となるのではないかと思われる。
 1960年代70年代の学生たちにとって、サルトルの『存在と無』の影響だけではなく、存在すなわち生、無すなわち死と考えるのが、世界を考える前提条件であった。
 けれども小泉八雲じゃないが、生すなわち幽霊、と実感してしまうと、あえて死すなわち幽霊、と推察するのも無理からぬことに思われてくる。
 三浦清宏も『私の文学人生』の末尾で、「私たちの居る場所が霊界なのです。私たち自身が霊界に住んでいる」と語っている。
 小泉八雲とほぼ同じことをいっている。
 生も死も同じ。
 やはりそれほど身構えることもない。
 したがってかれらならずとも、心霊研究家の研究らしきことをすることはできる。
 けれども心霊研究家になることは簡単ではない。
 たしかに、スウェーデンボルグやベンジャミンの存在は重要であるけれども、それ以前の(例えば浅野和三郎の息子の病の話など)いわゆる布石らしきものがないと、簡単に飛びつくはずもない。
 前に書いた、三浦清宏いうところの「余計なこと」に関連して、このあたりに、秘密がありはしないかと、(浅野清作成の)三浦清宏の年譜を漁ってみた。
 まずは1953年(三浦清宏二十三歳)アメリカ・サンノゼ州立大学で学んでいた際に、同学年で心理学専攻のジェームズ・ヒックスを知る。
 翌年にはヒックスと共にアパートに住む。
 1966年(三浦清宏三十六歳)胃病に悩まされるのを治すために、八日間断食する。
 1969年(三浦清宏三十九歳)近所の曹洞宗の寺で坐禅を始める。
 1975年日曜日には長男を連れて坐禅に行くようになる。
 1976年(三浦清宏四十五歳)ジェームズ・ヒックス急逝。急遽渡米する。
 そして1977年(三浦清宏四十七歳)今村光一抄訳の『私は霊界を見て来た』(スウェーデンボルグの霊界著述の抄訳)に偶然書店で見つける。
 それから鈴木大拙の『天界と地獄』やスウェーデンボルグの著作を読む。
 年譜を辿れば、スウェーデンボルグを知る1977年が、当然キーの年になるが、それ以前に断食や坐禅をしていたことも大きい。
 つまり断食や坐禅をしていなければ、今村光一の本のタイトルに惹かれたとは思われないからである。
 また気になるのは、ジェームズ・ヒックスというひとの存在である。
 急逝したとき、急遽渡米したことを考えれば、三浦清宏にとって大切な友人であることが解る。
 それではこのひとはどういうひとであったのか。
 心理学専攻というところから、何か心霊らしきものも研究していたのだろうか。
『カリフォルニアの歌』にジム・ビックスというルームメイトが出てくるが、この人がジェームズ・ヒックスである。
 彼は喜代志(三浦清宏)に当然影響を与えるが、具体的には喜代志の誕生日のお祝いとしてT・S・エリオットの詩集を贈り、それがきっかえで喜代志は詩作を始める。
 冒頭で紹介した三浦清宏の詩がそれである。
 心霊とは関係がなさそうなので、やはり、断食、坐禅あたりからであろう。
 ずっとそう考えていたものの、『海洞・アフンルパロの物語』にジェームズ・ハワード(通称ジム)という登場人物がいるが、このひとがジェームズ・ヒックスである。
 そしてどうやらこのジム・ハワードが、「土地には魂がある」という考えらしいのだ。
 やはりルームメイト、ジェームズ・ヒックスが、二十代半ばの三浦清宏に何らかの示唆を与えていたことは否めない。
 ふたたび『私の文学人生』からの引用であるが、なぜ二人の関係がこれほど深く、長く続いたのか。
 三浦清宏は「一つには、二人とも文学が大好きで、特に詩が好きだったということがあります」と述べている。
 けれどもそういうことだけでは大の仲良しにはなれない。
 それこそ「だれよりもウマが合う」ということだったのであろう。
 ジェームズ・ヒックスは三浦清宏の誕生日にT・S・エリオットの詩集をプレゼントしてくれたそうである。
 また小説ではスタインベックの『エデンの東』を読むように薦められ、ほかにもヘミングウェイやトーマス・ウルフなど、いろいろ読まされたそうである。
 となると、三浦清宏にとって小島信夫よりも早い師は、この大親友のルームメイトなのかもしれない。
 ただ未だ三浦清宏は覚醒してはいない。
 ここで、閑話休題というわけではないが、私にとっては大きな出来事があった。
 最近(つまり20022年初夏)『近代スピリチュアリズムの歴史・心霊研究から超心理学』の「新版」なるものが、国書刊行会から送られてきたのである。
 講談社版も豪華本であったが、あれから十八年後に復刊された国書刊行会版ではさらに豪華になっている。
「もくじ」を確認してみたが、第一章から第八章までの内容は変わりがない。
 ところが前版にはなかった(読者としては当然望んでいた)写真や図が、ふんだんに組み入れられている。
 なかでも、口や鼻や耳から出て来る、「エクトプラズム(霊の物質化現象の原因物質)」の数枚の写真は、衝撃的である。
 むろん「あとがき」は変わるとしても、写真や図以外で最も変わった点は、付録として「降霊会レポート」が載っていることで、これは1996年に行なわれたものであるとのこと。
 となると、旧版のさいには既に行なわれていたものであって、今回わざわざこれを収録したのは、三浦清宏の意向というよりも、(とはいえ三浦清宏にとっては我が意を得たりだろう)担当編集者の発案ということだが、さすがの炯眼といわざるを得ない。
 この付録が入ったことで、三浦清宏のスピリチュアリズムに対するのめりこみが、具体的に理解できるのであるから。
「新版」というよりは、「決定版」とか「完全版」という言い方が近いそしてこの一冊は、紛れもなく「令和の奇書」と呼んで差支えないと思われる。
 ちなみに「あとがき」で三浦清宏は、「この本のすべての権利を日本心霊科学協会に譲り渡すことにした」と書いている。
 その理由を三浦清宏は、余命云々としているが、この本に対する思い入れと自信とを感受したとしても、間違いではあるまい。
 話をもどすと、三浦清宏が悩まされた胃病は、おそらく神経性のものであろう。
 神経質から神経過敏となり神経衰弱となった。
 いや、神経衰弱という言い方は妥当とは思われない。
 神経が衰弱すれば、神経過敏から解放されそうだからで、ここは「超神経過敏」というべきであろう。
 三浦清宏も若いころ、超神経過敏であったと思われる。
 きっかけは今村光一抄訳のスウェーデンボルグとの出会いであり、その布石としての断食、坐禅であるが、内実面から考えれば、この超神経過敏こそが、心霊研究に結びついたと考える。
 年譜に基いてもう一度整理すると、三浦清宏が胃病に悩まされたのが1966年、三年後の1969年に坐禅を始め、八年後の1977年にスウェーデンボルグと出会うのである。
 となると、心霊研究家であり文学者であるという謎の究明は。三浦清宏の小説のなかに現われる心霊研究の影響を云々するよりも、小説のなかに現われる三浦清宏の超神経過敏を探ったほうがよさそうだ。
 超神経過敏作家の典型にも、いくつかのパターンがある。
 夏目漱石や内田百閒は、夢の話を書いた。泉鏡花や小泉八雲はお化けの話を書いた。
 身近な例では『ゲゲゲの鬼太郎』『妖怪大百科』の水木しげるや『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』の宮崎駿がいる。
 外国で超神経過敏作家というと、サドが代表的であるが、この作家はまた別の要素がある。
 個人的に大好きなガルシャ・マルケスの悪夢的小説群や、百鬼夜行の登場もあるアフリカ文学の傑作エイモス・チュツオーラの『椰子酒飲み』など、いや超神経過敏作家の筆頭にはやはりサリンジャーを挙げねばならないだろう。
 さらにこれが超神経過敏詩人となると、あんまり多すぎてあえて例は出さないが、知るところでは超神経過敏作家の少なくとも十倍はいる。
 ここで再び、或る日或る夜の、三浦清宏との対話。
 
──「心霊と文学」というコンセプトで考えますと、三浦さんのようなタイプは、日本では初めてですよね。一般のひとの多くは、心霊とお化けを区別なんかできませんから、どうしても、インテリゲンチャがお化けを信じているなぞとは思えない。そこらあたりにも、三浦さんに対する誤解が、一般のひとたちや、また読者の方々にもあるのではないかと思われますが。
──そうですね、仮に「心霊的な世界を持つ小説家、もしくは小説」としたときに、これはあんがい少なくはないですよね。 
──はい。作品的にいうなら、夏目漱石の『夢十夜』を筆頭に、『高野聖』の作家泉鏡花の多くの小説、『冥途』の作家内田百閒の多くの短篇。川端康成や室生犀星の晩年の小説もそうですね。或る文芸評論家は、「魔界に魅せられた」といってもおります。仏教に造詣が深い坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、霊界的というよりもメルヘンでしょうか。個人的には折口信夫の『死者の書』に衝撃を受けました。いわゆるエンターテインメント作品で数え上げると数限りないということになりますが、これらは、心霊的な世界を持つ小説家でなくとも、依頼されれば書くでしょう。
──ただ、外国の場合は、エンターテインメントの小説家であっても、コナン・ドイルのような例は、極めて稀というわけではありません。
──外国の場合は、キリスト教がバックボーンにあるからでしょうが、日本の場合のバックボーンは、仏教ということになりますか。
──僕の場合は、結果論としてそういうことになりましたが、日本にかぎっては、キリスト教仏教に拘らず、宗教と文学、とくに小説は、共存しにくいという先入観があります。 
──それでも、宮沢賢治から遠藤周作、三浦綾子、瀬戸内寂聴まで、宗教者であって文学者であるというひとは少なからずおります。
──それでも全体のなかでは稀でしょうね。なぜなら日本には「私小説」というものが根強くあって、「赤裸々な私」というものと、「私を超えた存在」というものとが、なかなか結びつかない。
──そういうことから考えても、三浦さんという存在は、失礼ながら「ややこしや」ですね。禅者であり、心霊研究家であり、詩人であり、小説家であり、評論家であり、英米文学者であるという……。
──ほかの肩書きは要りませんので、心霊研究家ということでよろしく。
 
 話をもどして、三浦清宏の小説のなかに現われる超神経過敏を探してみるのに最適なテキストは、やはり大作『海洞・アフンルパロの物語』(文藝春秋2006年刊行)ということになる。
 小説のタイトルにサブを付けるのを好まない作家もいるが、三浦清宏はこの「アフンルパロ」にこだわった。その理由は聞き慣れないこのコトバの意味にある。これはアイヌ語で「道への入り口」(正確には「入る・道の・口」)ということらしい。その「道」とは、あの世への道である。これを意味する「海洞」は、三浦清宏の造語。
 これらのことは著作の【あとがき】に記されている。
2006年『海洞・アフンルパロの物語』が第二十四回日本文芸大賞(日本文芸振興会)を受賞したときの選評(受賞作紹介)の一部は以下の通りである。
 
【「師であり兄である小島信夫氏に捧げる」本書は「室蘭民報」朝刊に連載中から話題となった。著者のライフワークともいえる1300枚の長編小説で、激動の時代を生きた一族の栄枯盛衰と、主人公清隆の精神的遍歴を描いている。浅野清氏によれば「郷土室蘭の地を中心にして、血族の変遷・葛藤や主人公の苦悩と聖女による魂の救済などを描いている作品であり、観音像物語として亡母の鎮魂歌になっている」大作であり傑作である】
 
 全体としてはこれでほぼいい当てていると思われるが、ちょっと細部を観てみよう。
 第三部第一章は「地霊」という小題であり、第九章は「悪霊」という小題である。
 他にも心霊を想わす小題はあるし、内容的にも重要なものがあるが、「霊」と付いたものはこのふたつの章である。
 それなら「地霊」とは何か、「悪霊」とは何か。
「広辞苑」では、こう書かれている。地霊……大地に宿るとされる霊的な存在。
 悪霊……たたりをする死霊、もののけ、怨霊。
 それでは三浦清宏の描く、地霊や悪霊はどういうものであるか。
 
【清隆が近づくと墓石の傍の枯葉が動いて、中から一匹のひきがえるが出てきた。長年の枯葉の堆積がいいねぐらになっている。すこし清隆の方を窺っていたが、横に飛んで草の茂みに隠れた。清隆は、墓の中から広孝の霊が様子を見に出てきたような気がした。
 確かにこの湿った林間の暗がりの中にいると、広道が言ったように、この山には霊のようなものが潜んでいる気がしてくる。先代の広孝が、「鬼になった」という言葉が現実味を帯びて思い出された。彼がこの山を自分の分身のように思っていたことは間違いない】
 
【梓川の河原でチロル帽子をかぶったアメリカ人らしい若い男女を見かけた彼は、仲間を見つけたような気持で英語で話しかけた。二人はスウェーデンから来たと言い、雪を頂く槍や穂高岳の美しさ、木立の中を流れる川の澄んだ青さを讃え、九州からずっと旅してきたがこんなに美しい国は見たことがないと言った。周りの風景を批判的に眺めていた清隆は意外に思い、北欧の山々の美しさはこんなものではないだろうと言うと、土地によっていろいろ変化する美しさはヨーロッパにはないと、男も女も言い張った。清隆は、この国の自然にはスピリット(霊)が宿っていると言う者がいるが、どう思うかと訊くと、ヨーロッパでも美しい山野には妖精が棲んでいると答えた】
 
【「いけません」
 澄江は必死で身をもがいた。
「大浦さん。そんなことしちゃいけません。あなたはそんな人じゃありません」
 清隆は彼女の胸に顔を埋め乳房の香りを吸い込んだ。右手を伸ばして脚を拡げ、股の奥を探る。
「大浦さん」
 澄江は喘ぎながら言った。
「あなたは……あなたは……悪い神様に憑かれてます。悪霊が乗り移っています」
 そのうち澄江の様子がおかしくなった。アイヌ語らしい言葉で呪うような罵るような声を上げ、激しく身をよじる。澄んだ彼女の声とは違う切羽詰まった女の金切り声だ。体も固くなり、抵抗する力も強くなった】
 
 これで三浦清宏が考える地霊、悪霊のイメージが解ってきた。
 どんな霊も自然と無関係ではなく、どんな霊も人間と無関係ではない。
 無関係に、どこやらに浮遊揺動しているわけではない。
 だがまだ足りない。
 ここでさらに「ジム」に登場してもらう。
 ジムが死んだという電報をジムのパートナーのオードリーからもらった清隆は、急ぎ渡米する。
 サンフランシスコから遠く離れた山中のジムの家のジムの部屋に入ったときの描写。
 
【清隆はデスクに向かって坐ってみた。予定表、何かの建物の側面図、生徒の作文らしいものなどと一緒に、握り拳ほどの石が二個置いてある。手にとって見ると、一つには背を丸めて笛を吹いているように見える人の形と、もう一つには蛇がとぐろを巻いている姿が刻まれている。ジムの手紙の中にあった、爆破されたインディアンの遺蹟の一部だろう。右の棚には家族の写真と並んで清隆のひときわ大きい写真が飾られている。清隆がジムの母親の作ってくれたインディアン模様のシャツを着て右手の指に止まった鸚鵡を眺めているところを、ジムが撮った自慢の写真だ。その横には清隆が学生時代に書いた詩や文章、今までに送った手紙の類がファイルに入れて保存されている。ジムからの手紙では、時々取り出して読んでいるということだった。
 ふと写真の中の一つに清隆の目が留まった。夜撮ったものらしいが、木立の間が薄明るくなっていて人影らしいものが見える。少々薄気味悪い。心霊写真というものを清隆は見たことはないが、そうかもしれないし、悪戯好きのジムが合成したものかもしれない】
 
 年譜によると、ジム・ヒックスの急逝は1976年で、今村光一抄訳のスウェーデンボルグとの邂逅が翌1977年である。
 年譜では期日までは記されていないが、1976と1977という一数字ちがいの数字は、三浦清宏にとって単なる西暦年ではないと思われる。
 清隆が、「少々薄気味悪い」と感じた心霊写真もしくは合成写真、これを見たことが今村光一抄訳の本に惹かれたことと無関係ではなさそうである。
 三浦清宏はこの本を読んだことが心霊問題に興味を持つきっかけであると書いているが、その布石はジム・ヒックスの死であり、ジムが撮ったあるいは合成した写真であった。
 たしかに本を読んで興味を持つことはあっても、人に研究という行動をなさしめるためには、現実レベルの事件、三浦清宏にとっては親友の死というものが肝腎であった。
 別の言い方をするなら、親友の嗜好や関心を引継ぐという深層心理が三浦清宏になかったはずはない。
 しかもジム・ヒックスは三浦清宏にとって、おそらく一親友というレベルを超えた存在であったのだろう。
 たとえそれが推測の範疇だったとしても、推測に過ぎないと断捨離するわけにはいかない。
 さてこの大作のひとつの大きなキーワードは、まちがいなく「アフンルパロ」である。
 冒頭に出したウィキペディアには『海洞』となっているし、そうしたい理由も解らないではないが、「アフンルパロの物語」という副題ぬきに、この大作を紹介してはならない。
 このことは特に強調しておく必要がある。
 日本人にとってのアイヌは、アメリカ人にとってのインディアンによく似ている。
 アメリカの作家がインディアンを描く困難があると似た意味において、日本の作家がアイヌを描く困難がある。
 文学作品として成功した例を知らない。
 アイヌの若き部族長の和人との戦いとその死を格調高い文体で描いた、鶴田知也の芥川賞受賞作『コシャマイン記』は、珍しい成功例ではあるが、それでも読後不満が残るのは、アイヌの悲劇は感じられても和人の苛酷さがこんなものでいいのかと。
 また作者の立ち位置が客観的すぎるあまり、野次馬的な歴史小説の範疇を越えていないのではないかと。
 ただアメリカ人がインディアンから霊界を学ぶといわれるのと同じ次元の意味において、日本人はアイヌから霊界を学んできたのであろう。
『海洞・アフンルパロの物語』はアイヌの描き方、いやアイヌと日本人との関係性の描き方がほとんど完璧である。
 おそらく決め手は、ヒロインの澄江がアイヌの女性であるからだろう。
 この大作のなかでアイヌに関して濃厚に書かれるのは、第一部第三章の「海洞(アフンルパロ)」と、第三部第七章の「アイヌ青年同盟」においてである。
 まずは「アフンルパロの伝説」について、読者は興味深い話を知ることになる。
 
【昔、妻を失ったアイヌの男がいた。嘆き悲しんで毎日家に閉じこもっていたが、ある日仲のいい友達がやって来て磯魚を捕りに行こうと誘った。男もなんとなく行く気になり、それぞれ舟を出して海に出た。磯伝いに行くと岩場で女が一人昆布を採っている。その姿が男の死んだ女房に似ていた。男と友達は舟を岩に繋いで上陸し、近寄って行くと女が振り向いた。間違いない。妻だ。二人が近づこうとすると女は身を翻して逃げ出した。近くにあった洞穴の中に駆け込んだので、女の夫も彼女を追ってどこまでも穴の中に入っていった。ところがなんと、その先はあの世だった。男はそこで妻の父に出会い、あの世についていろいろ話を聞き、早く現世に帰るようにさとされて元の磯辺に戻って来たというのだ】
 
 それから、洞窟のより綿密な描写と相俟った、清隆のアイヌへの共鳴。
 
【清隆の頭に室蘭で見た海辺の洞窟、アフンルパロの光景が浮かんだ。昆布のうねる海から打ち寄せる波の音が響く洞窟の中の、蝙蝠でも棲んでいそうな底知れない暗がり。奥の岩に立てかけられた多くの神木、イナウ。岩の上での仮の宿りをしていた観音像。この世からあの世へ通じる道だという説明だった。アイヌの死者たちはその洞窟の道を通ってあの世へ行く。そういう風にアイヌたちは千年以上もの昔から北海道の土地に結びついていたのだ。今もアイヌたちがそれを信じているのかどうかはわからないが、あの洞窟にはたしかにアイヌの魂が宿っているようだった。そういう先祖伝来の土地を取り上げられた悲しみ、放浪の民の立場におかれた無念さは、アイヌでなければわからないことだろう】 
 
 アイヌへの共鳴がありつつも「アイヌでなければわからないことだろう」と結ぶところに、同じ北海道という地に生れ育った同胞性の確認という以上に、よりアイヌへの共感が感じられる。
 もちろんその共感の媒介はスピリチュアリズムにほかならない。
 三浦清宏にかぎらず、アイヌを解ったなどということは不遜になるだろうが、共感なら不遜にはなるまい。
「解る」のではなく、「感じる」のであるから。
 ちなみに先に取り上げた鵜飼秀徳の『「霊魂」を探して』には、〈アイヌのシャーマン、トゥスクル(トゥスクルとはアイヌ語で「トゥス=呪術・巫術」+「クル=をする人」の意味)〉という章があり、こう述べている。
 
【そもそものアイヌの他界観は一体、どのようなものなのか。
 北原(アイヌ研究家北原次郎太のこと)はこう説明する。
「この世の暮らしの続きを過ごす場所で、天地や季節などがこの世のものと逆になっています。その他は、生前と変わらぬ暮らしをするとされます。ただ、死者は自分達では食料の生産ができず、子孫からの供物に頼って暮らしているともいいます。このため先祖供養は絶対に欠かしてはならないことになります。他界で一定の期間を経た死者は記憶を失い、赤ん坊として再び生を受けます」
 つまり、この世の生活が終わって、あの世に行けば、またそこから新しい生活が始まるという考え方だ。日本仏教では生者が死者に対して時間をかけて供養を重ね、最終的に極楽に往くことを目的にする。そして極楽は苦のない世界であると説く。日本の仏教とアイヌの他界観は大きく異なる。
 したがって、アイヌの葬送儀礼も独特である。死後、「引導」の呪文(イヨイタッコテ)が唱えられると、埋葬するための遺体が家から出される。その時には通常の玄関口からは出さない。玄関の横の壁に穴をあけてそこから出す。そして、遺体が出されると再び穴を塞ぐ。それは死者が再び、この世に戻ってこないようにするためだという】
 
 哲学エッセイストの中島義道の講演記録にこういう言葉がある。
 それはまるでアイヌの思想に近い。
 
【私の死とは、私がこれまで習得してきた言葉の境界を越えることなのです。とはいえ、私の側からは完全な無ですが、境界の向こうに位地する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるのかもしれない。私が知っている言葉ではないその言葉によって、私の死を語り出すことができるのであれば、私の死にはまったく新しい意味が与えられるかもしれないのです】
 
「言霊」というコトバがある。
『広辞苑』では「言葉に宿っている不思議な霊威。
 古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられて」とあるが、文字通り言葉に霊が宿るのであり、言葉で霊を描くということではない。
 多くの作家は後者であって前者ではない。
 外国の文学は原語で読まなければ結論を出せないから除くとして、前者の稀少で代表的な作家は古井由吉である。
 あえてここでは引用はしないが古井由吉の愛読者なら納得してもらえるはずだ。
 それでは三浦清宏はどうであろうか。
 古井由吉は文体のなかに言霊を宿らせた。
 だが三浦清宏の文体に言霊はない。
 だが描写に言霊がある。
 別の言葉を使うなら、そこに「絶対文感」がある。
 初めて小説家三浦清宏と心霊研究家三浦清宏が合体したところの、「絶対文感」がある。
『海洞・アフンルパロの物語』を再読するとそのことがよく解る。
 ひとつふたつ霊を、ではない例をあげよう。
 たとえば冒頭は、主人公の大浦清隆が二十三年ぶりに室蘭に戻ってきたことから始まる。
 清隆が室蘭の町を歩き始めると、まずはずいぶんと犬の多いことに気づく。
 
【あちこちシャッターが下りたり、戸が閉まったりしている古い家並みの、ところどころに開いている入口の暗がりの中を、昔の遊び友達がいはしないかと子供に戻った弾んだ気持で覗きながら歩いてゆく。一緒に野良犬のように走り回った仲間たち。そう言えば、犬を殺して喰おうと相談したこともあった。八幡神社の境内でのことだ。子供たちに捕まえることができたのは、時々追いかけ回したりして遊んだ赤毛の小さな犬で、今度も遊んでもらえると思ったらしく、嬉しそうに愛想を振りまいていた。それを、体は大きいが気の弱い沖仲仕の息子が、親分だった食堂の子から命令され、しぶしぶ石を振り上げて、犬の後頭部に打ち下ろした。だが、手がふるえて殺すことが出来ず、犬はけたたましく鳴いて飛び回り、子供たちもどうしたらいいかわからない。結局、いつも出しゃばることの好きなそば屋の子が、おれがやってやる、と空元気を出して、また石で何度か殴ってやっと殺した。みんな食べようという気などなくなり、「神社で犬を殺すとたたりがあるぞ」とか「犬はアイヌの神様の使いだとよ」などとてんでに言いながら帰っていった】
 
 作者が、あるいは清隆が、犬の多いことに気づいたことから発した回想であるが、決して唐突ではなく、自然な展開でありながら、凡百の作家なら書かないことを書いているとしか思われない。
 そこにぎこちなさとか、奇妙さを感じる読者がいても不思議ではない。
 引用したい個所はいくつもあるがキリがない、いま冒頭近くから引用したので、こんどは末尾に近い部分から引用する。
 
【遠い雷の音で清隆は目を覚ました。自分は飛行機の中にいるのだと思いながら、今いる場所には見覚えがあった。傍には龍蔵が寝息を立てている。隣の部屋に誰かが入って来て、電灯のスイッチを捻ったらしく襖の隙間から光が洩れた。誰だろう。襖が開いて人影が滑り込んで来た。清隆は、あっ、と思った。澄江だった。逆光で顔は見えないが、姿、形はまぎれもない。清隆は胸がいっぱいになり、早く傍に来てくれと待った。澄江は、だが、清隆に背を向けて枕元に進み、暗闇に向かってなにか真剣に祈り始めた。暗くて見えないが彼女の前の棚には観音像が祀ってあるはずだ。清隆は思わず、
「澄江」
 と叫び、手を伸ばして彼女を抱こうとした。
 すると澄江はキッと振り向いた。優しいが、どこか近寄りがたい目、彼女が「龍を見た」と言った時の目だ。彼を一瞥すると、天井の暗闇に向かって身を翻した】
 
 一読不可解に思える描写だが、確乎たるリアリティがあるのは清隆の、いや作者の体験が基になっているからだ。
 むろん体験が基になっても、筆力がなければ確乎たるリアリティなど夢のまた夢。
 この一節は三浦清宏が渡米した二十一歳のときに、まさに地下室で視た夢のなかの母の幻影である。
 ここで澄江と母が、そして観音像が重なる。
 そういう描写に対して、真摯な読者なら眉に唾をつけるわけにはいかない。
 多くの文学者は作品中において〈心霊〉を〈素材〉として扱った。
 けれども三浦清宏にとって、〈心霊〉は〈素材〉ではない。
 さらにいうなら、〈心霊〉と〈文学〉とが渾然一体となっている。
 そこが特徴であり差異である。
 好むと好まざるとに拘らず、文学者三浦清宏を考えることは心霊を考えることであり、心霊を考えることは文学者三浦清宏を考えることである。
 かくて三浦清宏は「言霊の作家」となった。
 まさしく『海洞・アフンルパロの物語』こそ三浦清宏文学の神髄なのである。 
                   (以上、文中敬称略)

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