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国宝『信貴山縁起絵巻』を、ざっくり解説!【中巻:延喜加持巻の巻】

どうじゃ? 前回のnoteでしてやったワシについての噂話はおもしろかったじゃろ(笑) あんなふうにな、ワシの噂……良い噂というか、良すぎる噂がどんどん広がっていっておった。それでじゃ……村のもんが広げた「神通力を操る信貴山の坊主」の噂が、思った以上に広がってしまってのぅ……。とうとう京の朝廷にも知られることとなってしもうたんじゃ。ちとやり過ぎだったのぉ(笑)

そいで、時の醍醐だいご天皇……延喜えんぎ御門みかどのことじゃがの……その御門みかどが、まだ40半ばじゃったが、病に臥せってしまわれた時じゃ。お公家さんたちは、たいへんじゃたいへんじゃと大騒ぎをしておったんじゃ。大騒ぎするだけで、公家衆に何もできることはないでのぅ。ただしじゃ……何もできんという意味では、当時はのぉ、重病患者については、だれも治療などはできんかったんじゃ。そいでもどうにかしたいっていうことじゃで、ワシらのような僧侶が、快癒を祈願しておったのじゃ。

それはもう延長八年だったじゃろうか……西暦でいうと930年の夏ごろじゃ。比叡山や高野山など、多くの寺院で、御門みかどの快癒を祈願しておったが、なかなか醍醐天皇の容体が良くならなんでのぉ……まぁ祈っているだけじゃで、当たり前ではあるのだがのぅ。それで、「河内の信貴山(しぎさん)に、神通力を操る僧がおりまする。その僧に、快癒祈願をしてもらえるようお願いに参りましょう」と言い出した公卿がいたそうじゃ。

それからしばらくして、信貴山のワシの庵に、朝廷から使者として蔵人くろうどが来たんじゃ。これは嘘ではなく、本当の話じゃ。

  

ついにワシのところにも来たっちゅうことは、かなり病状は悪いのだろうなとワシは察した。それもあってのぅ……「京の内裏で祈願いただきたい」という蔵人くろうどに、「ワシは信貴山を下りる気などさらさらない」と言い放ったことになっておる……フォッフォッフォッ(笑) おもしろいのぉ。

ワシがそう言うと、蔵人くろうどは「それでは、御門みかどの病が癒えた時に、貴僧のご祈祷によるものと、判然とせぬのではないか?」と問われるのじゃ。その時にワシは「御門みかどの病が癒える時には、『剣の護法』という童子を遣わしましょうぞ。剣を編み綴って衣のようにまとった童子じゃ」と、答えたそうじゃ(笑) 

とにかくワシがそう言うと、使者の蔵人も納得して、京へ帰ってそのまま報告したことになっておる。

蔵人が京へ帰って報告する……それを聞いた側近が、御門みかどに「信貴山で祈祷されれば、病は癒えまする。癒えた時には、『剣の護法』という童子が現れまするぞ」と、何度も耳打ちしたはずじゃ。

なぜそんなことを言ったかと? それはのぉ、病というのは……病に限らず森羅万象がそうじゃが、波があるものじゃて。悪くなったり良くなったりを繰り返すものじゃろ? 御門みかどの病も同じよのぉ。

そうしてじゃ、蔵人くろうどが帰って3日が経った時に、ちょうど御門みかどの病が少し軽くなったのじゃ。そいで御門みかどが少し元気になられてのぉ。「『剣の護法』の童子が現れたぞよ」とおっしゃられたそうじゃ。「南西の方角から、きらりと光るものがやってきた。そして剣を編み綴った衣をまとった童子が、雲に乗って清涼殿せいりょうでんの庭先に降り立った」とな……。

だが実はのぉ……本当は、ワシは内裏で加持祈祷を行なったのじゃ。もちろん断ったりなどはしておらん。そして「『剣の護法』の童子が現れると、御門みかどにお伝えしてほしい」と言ったのも本当じゃ。

病はのぉ、意識がしっかりとして少し良くなった時が、意外と苦しいものじゃて。その時に、少しでも気が楽になられ、心穏やかになられたならと思ったのじゃ。御門みかどが本当に、童子をご覧になったかは分かりゃせん。じゃが、ご覧になったというのじゃから、そうなのだろうよ。

そのあとワシは、この信貴山しぎさんに戻っておったのじゃが、朝廷からの使いが来よったよ。これも本当じゃ。

「貴僧のご祈祷のおかげで、御門みかどの病が癒えました」と言っておったのぉ。御門みかどはとてもお喜びだったそうで、「貴僧を、僧都や僧正の位を与え、荘園も寄進したい」とおっしゃられていたそうじゃ。

じゃがのぉ……ワシは僧正などになって、比叡山や高野山の僧たちと張り合いたいとは思わなんだよ。荘園ものぉ……たしかに当山の台所事情には助かるお申し出じゃが、そんなものがあると争いのもとになるじゃろ。その荘園を誰かから守らねばならなくなる。

僧正や荘園の話を受けるとのぉ、当山や拙僧が、どんどん俗世に引きずり込まれることになりそうでのぉ。それが恐ろしゅうてのぉ、ありがたいお話じゃが、辞退させていただきたいと、丁重にお断りしたのじゃ。

そんな使者との話を、弟子なのか村のだれかが聞いたようでの……また尾びれがついて広まってしもうた(笑) まるでワシが、清廉潔白な聖者であるからして、高位も荘園も断ったっちゅう話になっておるのじゃ。が……本当は、面倒なことにしか思えなかったのじゃよ。

それに……実際には、醍醐天皇のご病気は、完全にご快癒されたわけではなかったのじゃ。先にも言ったがのぉ……ワシが祈祷を行なった時は、ちょうど良くなる波が来ていただけなのじゃよ。結局、ここに使いが来て帰った頃には、内裏の御門みかどのご病状は、悪化されてしまっていたはずじゃ。その年の秋の気配がしてきた頃……延長八年の9月29日には、崩御ほうぎょされてしもうたのじゃ。

とはいえのぉ、ワシが加持祈祷した時に、一時は本当に御門みかどがご快癒されたのじゃ……そのことだけが噂として独り歩きしてのぉ、ワシの評判だけはうなぎ上りに上がっていったのじゃよ……その頃は、うなぎは食べんかったがのぉ……フォーッフォッフォ(笑)

それに僧正と荘園の話といっしょに、ここ信貴山を「朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所とする」とも、御門みかどがおっしゃられたのじゃ。そんで、この寺を朝護孫寺と名付けられた。そのおかげで信貴山しぎさんには、どんどん人が集まってきたのじゃよ。

どうじゃった、今回の話は? 少し寂しい終わり方をしてしまったがのぉ。次は、もっと楽しい話が聞かせられればいいのじゃがのぉ。

<参考文献>
・百橋明穂『信貴山縁起再考』(PDF)
・Wikipedia『信貴山縁起
『信貴山縁起』の詞書

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