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え? あのウサギ耳のかわいいのは明智左馬之助の甲冑じゃないって⁉︎

世の中には色んな伝説があるものですよね。「平家の落人」伝説は日本全国にありますし、源義経は北海道や遠く中国大陸へ渡り、馬賊となった……というものもあります。

かくいう私の家系も、山形県出身ですが、遠くは平家の落人だったという話を、小学生の頃に、叔父から聞かされました。

ところで、東京国立博物館には「伝・明智光春所用」と解説文に記されていた甲冑『南蛮胴具足なんばんどうぐそく』があります。

『南蛮胴具足』(東京国立博物館より)

明智光春の別名は秀満ひでみつ、または左馬之助さまのすけと言い、明智光秀の重臣の一人として有名です。明智光秀が京都の織田信長を討ち取り、山崎の合戦で敗れたのちは、明智光春は本拠地の坂本城へ帰還して籠城しました。その帰城時に、琵琶湖の湖水を騎馬で渡ったという「湖水渡り」は、伝説となっています。

そんな明智光春と言えば、兎の耳と月の形をした前立てが、エモいポイント。彼を描くアニメや漫画でも、このウサちゃんの兜をかぶっているものが多いです。

「兜は堅牢な鉄の打出し鉢で,前面に兎耳形と抉り半月の立物を付ける」

ところが!

先日、YouTubeでトーハク公式チャンネルを見ていたら、甲冑担当の学芸員さんが、次のように言ったのです!

かつては明智光秀の一族の明智光春の甲冑と紹介していましたが、何の証拠もないので、今はやめています。

YouTube トーハク公式チャンネル

あまりにもサラッと言うので、驚いてしまいました。前述の通り、明智光春(左馬之助)と言えば、この甲冑をイメージする人も多いのに……それはあんまりだよ……と。

西洋甲冑を模して日本で製作された和製南蛮胴の具足です。胴の正面に「天」字、右胸に髑髏(どくろ)を飾り、背面には富士山を表しています。兜は兎の耳のような飾りをつけた変わり兜です。兎は動きが素早く、多産(=子孫繁栄)であることから、戦国武将に好まれた意匠です。

解説パネルより

以前の解説パネルの最終行に、明智光春について記されていたのに、現在は外されてしまったようです。

胴の正面に「天」字、右胸に髑髏(どくろ)を飾る
背面には富士山を表している

ただ、この具足を見ても、確かに明智光春っぽさがないんですよね。例えば、明智家の桔梗紋が無いどころか、目立つような家紋が見られません。あるとすれば、胴の上部に平家の代表紋である「丸に揚羽蝶あげはちょう」です。ただ、明智家は清和源氏の土岐氏の支流を名乗っているので、蝶紋ちょうもんは不自然な気がします(蝶紋は人気の紋なので蝶紋=平家とも言い切れない)。

小さく、丸に揚羽蝶あげはちょうの蝶紋が見られる

また残念なことですが、なぜ「伝・明智光春所用」と、今まで言ってきたのか……その根拠もないようです。せめてこの甲冑を、東博はいつ誰から手に入れたのか、分かればよいのですが……。東博にある甲冑刀剣は、明治維新後に、旧大名家から買い取ったか贈与されたものが多いです。誰が寄贈したのかくらいは記録に残されていそうですが、今のところ分からないようです(判明していたら、解説パネルに記されているはずなので)。

そもそも滅亡した明智光秀や秀満(光春)の甲冑刀剣が伝来する?

今回東博では、所蔵の『南蛮胴具足』が、明智光春のものではないとは言っていません。根拠がないから「伝・明智光春所用」とは、記さないことにしたというだけのことです。絶対に明智光春のものではない……とも言い切れません。

明智光秀は山崎の合戦後に京都の東側の小栗栖おぐるす付近の竹やぶで討ち取られたとされています。また、明智光秀の本拠地である琵琶湖畔の坂本城は、明智光春が籠城し、最期は城に火を放って敗れました。

素直に考えると、本拠地が焼かれたのに、明智家伝来のものが後世に残るものか? と考えるのが普通でしょう。

ただし……明智光春は、城に火を放つ直前に明智家の家宝を、敵方の堀秀政側に渡していたのです。

堀秀政は明智光秀の援護にきた明智秀満(光春)を坂本城に追い込み、敗北を悟った明智秀満(光春)は先祖代々の家宝を堀秀政の家老・堀直政に譲る旨を告げた後に、城に火を放ち自害した。

Wikipedia『堀秀政』より

明智光春から堀直政へ、どんなものが渡されたのか、その記録は残されていないようです。その後の堀直政の家系も、主君の堀秀政の家系も、ごたごたと引っ越しの続いた家系なので、その際に紛失したのかもしれませんね。

とはいえ、この時に『南蛮胴具足』も堀直政に託されていた可能性も捨てきれませんね。

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