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【ガラスの仮面】についてなら、三日三晩は語れる男が書いてみた。


はじめに


 
 
どうも、こんにちは。
これからマンガ【ガラスの仮面】(通称ガラかめ)について、超個人的にいろいろ語りつくそうと思っているワタクシ自身について、初めに断っておきますが。
ハッキリ云ってワタクシ、世間的な立ち位置としては、ただのガラかめの一ファンのそれ以上でも以下でもない、しがないオッサンです(苦笑)。
まあ、ガラかめを初めて知った時は、イタイケな中2病(14歳)の頃。
ガラかめファンの人たちは、無論、皆さん思っていることでしょうけれど、すでに50年近くも続くこのマンガ、マヤか亜弓さんのどちらにあの紅天女の軍配が上がるのか、未だに見当もつかないという状況。
2023年現在の時点で一番の最新刊49巻から、もう10年。
この10年で、あの『進撃の巨人』が始まって終わって(-_-)
とにかく、次の50巻がいつ出るのか。
いや、作者の美内すずえ先生は、そもそも【ガラスの仮面】を終わらせる気はあるのか。
いまのところ、ザックリとではあるけれど、失礼を承知で、でも、ガラかめファンであれば、その誰もが気を揉んでいる胸の内をとことん代弁するような内容をぶちまけてみたいという“情熱”で、これから記してみようと思うのです。
 
ああ、もう少しワタクシのことについて述べさせてもらうなら。
いわゆるマンガを常日頃読んでいるかといえば、そうでもなく。
そして先にも言ったように、別になにかで有名になっているわけでもない、ただの一般人であり。
ただ最近、ひょんなこと?がきっかけで本を書いて出版するという機会を持ち(どんなことがきっかけかは、その本の題名を見れば一目瞭然なので、物好きな方はワタクシの名前で検索してみてくだされ *´Д`)。
そして、次に本を書くなら、どんなテーマがいいかな、と思ったところ。
【ガラスの仮面】についての、一ファンの想い、これだ!と思った次第(笑)
 
でも、ある意味、ワタクシを侮りなさんな。
ガラかめを語るにおいては、他の誰よりも……いや、そういうことではないな。
この10年、ファンの皆さんは、何をしていたんですか?
無言で待っているだけですか?
ワタクシは、ただ待っているというのが、どうにもダメですね、やっぱり。
本当は、他の、もっと熱烈なファンが、それも業界に精通しているような方が先頭に立って、【ガラスの仮面】に対する募る想いを一冊の本なりにしてくれれば、ワタクシはその本を買うのです。
でも、そんな本は、この10年で一冊も出ていないですね。
だからそんな感じの内容を、自分みたいなのが書きました。
そして願わくば、また、何かしらの渦がまきおこってくれたらいいな、という想いが、おこがましくもアリます。
【ガラスの仮面】は、日本漫画の歴史の中においての名作の一つであることは、もう間違いありません。
でも、まだまだ、より多くの人たちが、もっとこのマンガを手にするには、ガラかめファンの方たちのさらなる“情熱”が必要です。
というわけで。
題名のごとく、三日三晩寝ずに語りつくしてみる思いで、これから【ガラスの仮面】について、記してみましょうか。
 
 
 
 
  

ガラかめとの出会い~ワタクシの家庭環境と時代背景


 
 
まずはワタクシが【ガラスの仮面】に出会う前のことを(正直、読んでもらうのは恐縮ですが)ザックリ記します。
世代としては、いわゆる1980年代、高度経済成長期といわれる時代。
ウチのオヤジは典型的なサラリーマンだったので、良くも悪くも一億総中流(今となっては死語)と数えられる、一般家庭でした。
ただ、若干他と違うことを挙げれば、オヤジの仕事柄、転校が多かったですね。
小学生で何度も転校するのは子供心に正直キツかった。
なんというか、地に足がいつも着いていない感じ。
高学年になれば、転校生というだけでいじめにあう確率は高くなるし。
そんな諸々が影響していたのか、とにかく当時は内向的で主体性がなかったですね。
中学に入ってからはオヤジが分譲マンションを購入して落ち着き。
で、落ち着いた場所は、時代もあって、当時、校内暴力で荒れ狂っていた某地域……というほど、個人的には感じなかったけれど。
まあ、トイレのドアは壊されていたよね(笑)
もちろん中学特有の理不尽なこともいっぱいあったけれど、その時代は割とそれなりに楽しかったのではないかな。
 
自分の当時の悩みは、学校というよりは、実は家庭環境。
ウチは、はた目から見たらごく普通の家庭だと思うけれど、親は二人とも中卒で、それがどうやらコンプレックスに思っていたらしく。
子供達(ワタクシには二つ下の妹が一人います)に対し、結構な教育熱心。
具体的には習い事(ピアノ等)、高学年になってからは学習塾。
それに輪をかけ、勉強(いわゆる受験勉強)に関係のない、あらゆるものを親の立場で割と排除するようになっていき。
ワタクシ、私立中学受験の経験があって。
どちらかというと親がものすごく行かせたがり、自分も一応了承はしたけれど、理由が、転校したばかりの小学校にあまりなじめなかったから、という(苦笑)
そんなことだから、もちろん?受からなかったけれど。
でも、おそらくそのことがきっかけで、学校の勉強にだんだん拒否反応を示すようになり、主体性のなさにどんどん拍車がかかっていきます。
とりあえず中学時代、中学受験の時の惰性?もあって、そんなに成績は悪くなかったけれど、そう、主体性はなかった。
そんな中学時代に、【ガラスの仮面】と出会います。
 
 
 
 
 
 

妹が持ってきた【ガラスの仮面】


 
 
もう昔のことだからウロ覚えだけれど、確かウチは、マンガ本を買うほどのお小遣いは貰えなかったし、そもそもマンガを読むこと自体、特にオヤジが良く思っていなかったので、よく友達からマンガを内緒で借りました。
妹も当時、同じく友達からマンガを借りていたらしく、そんな本がテーブルの上に置いてあれば、ワタクシもよく手に取っていました。
だから、少女マンガも、すごく好きでしたよ。
特に中学になってからは、いわゆる恋愛をテーマにしたものが多い少女マンガは、個人的にそれまで読んできたギャグもの(当時だとダントツ、マカロニホウレン荘)とは全く違うから新鮮だったんですよ、絵柄は絵柄なんですけれどね……。
そんなこんなで、妹が借りてきたマンガの一つとして【ガラスの仮面】と出会います。
その時の巻数なのですが。
単行本で何巻だったかは忘れたけれど、第9章、100万の虹(文庫本化では11巻)。
マヤが通っている学園で一人芝居「女海賊ビアンカ」を演じる章、ファンにとっては言わずもがな、という内容です。
ワタクシは、同じ【ガラスの仮面】に出会うにしても、この「100万の虹」の章から読み始められたことが、他の人とは違う視点?が出来ていると自負したいところなのです(妹はとうの昔に忘れているだろうけれど)。
 
最近、久方ぶりに読み返しました。
「あれからビアンカがどうなったか~地中海の海は何も答えてはくれません」というマヤの劇中のセリフで終わり、そして体育倉庫にどよめく歓声。
そのページは、ワタクシの、ガラかめの中における、数多ある涙腺ポイントの一つであります。
あの中2の、まだ世間知らずで何事にも主体性のない、今の自分から見て壊滅的としか思えないくらいオメデタイ子供と、今の自分が流す涙の場面が一緒。
そういうことが、何十年も経て確認できるということは、単なる安堵とは違う、何か不思議な感覚で、でもきっと大切なものであるに違いないと思っています。
で、この章の端々に、過去、マヤが芸能界まで上り詰めゆく途中、理不尽な出来事や不幸に見舞われ、大いなる挫折を味わった後、ライバルである姫川亜弓(この章から読み始めても、亜弓さんの、マヤに対する立ち位置が十二分に見て取れるのだから素晴らしい)との約束を果たすべく、立ち上がる様が質実に見て取れる。
これすなわち、初見ではあっても、ちゃんと再生の章、と読めるところが素晴らしいのです。
また、今の自分の歳で改めて驚嘆したのが、作中劇ビアンカの生い立ちですね。
中世ヨーロッパの、当時の国々の間で行われる権謀術数や争いに、生まれや血筋というだけで巻き込まれるしかない運命の中で、絶えず自由を望んでいた女性の戦いと悲哀の人生。
そして、そんな物語を、元々こよなく読みふけっている草木さんと、脚本で巻き込まれる吉澤くん(ものすごく成熟している、マンガ内での脇役)。
こんな生徒たちがこれからの社会を担うようになれば、日本の未来は明るい……と思いたいところの数十年後の現在、アフガニスタンの混乱やロシアのウクライナ進攻は、現代に形を変えたビアンカの物語が未だに続いている現状を尻目に、今となっては外交的にも国内的にもいろいろな意味で右往左往するしかない日本。
現在のあらゆる事象をいたずらに悲観的に懐くことは極力したくはないのですが、それでもたまに【ガラスの仮面】を読み返すことは、ワタクシにとっては、いろいろな感情を呼び起こすにしても、それが螺旋状に昇っていく(成長)のか、下がっていく(退行)のか。
あらためて【ガラスの仮面】と出会って40年、そのバロメータを図る上での格好の読み物であることは事実なのです。
その最もたる章が、この第9章、100万の虹。
ワタクシにとってこの章は、まだまだこれからも、その時々で読んでいくことになりそうです。




一人芝居「通り雨」

 

 

100万の虹、の中では、「女海賊ビアンカ」と並ぶ一人芝居の作中劇「通り雨」があります。

この「通り雨」もワタクシ、読んでいるうちに涙腺が緩みます、とにかく素晴らしい。

内容は、個人的にはテレビドラマ『岸辺のアルバム』のテイスト?を、なんか連想してしまうんですよね。

一見、幸せな家庭を築いた父親の不倫を題材としたこの芝居、今あらためて読んでみると、この内容を学校で催してしまうのは、もうコンプライアンス的にどうよ、と突っ込んでしまいますが。

まあ、とにかく、お父さんの不倫疑惑を持つあたりから、娘・佐藤ひろみ(作中の主人公)の心の機微の一連は、その物語だけで秀逸のサスペンスであるのに、そこに輪をかけ、それをマヤが演じ、それを観客が観ているという構図。

この多重な構造を持つ物語の深みが、【ガラスの仮面】の持つ、他の漫画にはない面白さである、と、まあ、ガラかめ究極の本質論としてはどこかで聞いたことがあるような寸評ではありますが、それは一ファンのワタクシとしましても声を大にして言いたいところであります(笑)。

 

ここを当時、子供として読んだときは、全然ピンとこなかったけれど(経験ないのだから当たり前です)。

個人としても、その後、結婚、離婚などを経験し(笑)恋愛の形、結婚における価値観は、その時々において目まぐるしく変わりました。

世間だってあれから数十年も経つと、そこにバブル崩壊、さらに失われた20年、アベノミクスといった社会経済現象が深く絡んでしまい、今となっては、少子化、おひとり様、不倫は文化、文春砲?等。

結婚観というか、愛の形も随分認識が変わってきたのではないでしょうか。

とエラそうに語ったところで、あらためて「通り雨」を読むと。

不倫にのめり込んでいたとはいえ、お父さんのキャラクターは、割と善良な感じです。

もっとリアリティに描くなら、お父さん、不倫に走った時点ですでに家族からは軽蔑されてしまうような存在ではないかと。

ステテコ姿であっても、見た目はカッコ悪くとも、それ以上に父親としての魅力を娘が感じているならば、その魅力は、他の女性をも引き付けるものであるのは必定かもしれません。

イケメンとされる見た目ですら、それに惹かれる女性は、けっこう限定的なワケで。

そういった考え?を基に、「通り雨」のストーリーを納得いく形で終わらせたいのなら、なんといっても家族自体が、とても魅力溢れる場所へと常に成長し続けないといけないことでしょう。

佐藤ひろみは、お父さんの不倫をきっかけに、悩みに悩みぬいた末に、ある種の大胆な行動に出たことで、結果、成長という名の魅力をさらに身に着け、お父さんを家族に繋ぎ止めたのだ、と、今は理解しています。

そして、その戦いはその後も続くから、男女の仲、そして家族関係というものは、いつだって不安定なのでしょうね。

 

すなわち相手に魅力を感じているなら、自分もさらなる魅力を、より一層身につけなければいけない、という戦い。

これはある意味、人生のテーマなのかもしれません。

それも死ぬまで(泣)

ところで。

その成長体験を基にした「通り雨」のその後も、あらためてマヤの一人芝居で観てみたいと思うのは、もしかしてワタクシだけ?

 

 

 

ガラかめ登場人物たちの、ある種の不思議な構図

 

 

いわゆる男女の仲として考えた場合。

少女マンガとして、あらためてこの【ガラスの仮面】を見た場合。

とても不思議な成り立ちであることに気付きませんか?

実は登場人物の大半が、相思相愛の仲になっていない(例外としては一角獣の団長と沢渡美奈さん)。

マヤには芸能界時代に里見茂という恋人がいましたが、里見くんはカウントに入れない方が、ガラかめファンとしても納得のはずです(笑)

ということで、主要人物での相思相愛が一つとしてない。

というよりもなによりも、一人の人に恋い焦がれるという、ある種の偏狭な恋心を、それも長年にわたって懐くという人が、あまりにも多すぎるワケです。

とにかく、いわゆる片思い(考えたら、マヤに恋心を抱く人間は結構いるんです)から脱し切れていないうちに、それが蒸しながら熟成してしまって、さらなる暗黒ステージへ突入してしまった桜小路くん(ファンの人がいたらごめんなさい)のような登場人物を、いつまでたっても入寂させてあげられないことが、実はこの物語が未だに終わらない原因の一つであるといっても過言ではないでしょう。

 

ここで下世話なリアル問題として。

一時、ガラかめの某コミュニティで勃発したんですが、ズバリ、速水さんは童貞か否か問題(笑)。

当時のコミュ内の結論としては、速水さんは、そこそこの大人であるという設定、しかも有能な女性秘書もたくさん抱えているという立場上、方法は謎(笑)だが、脱童貞ではある、ということに落ち着いていましたね。

で、そこから数年たって、今、ワタクシの考えとしましては、そこは速水さん含め、一途な想いを抱えている人は皆、やはり歳は重ねても純潔であるのだろうと(性的観念でのモノ言いはヤボ、ということで)。

 

この物語は一種のファンタジーであります。

速水さんのような“デキる”男が童貞なワケがないというヤボな主張を、押しとどめて無論、考えることもしないという、この一点に尽きるファンタジー。

まあ、とにかく長くなってしまった物語ですからね、イタイケな少女少年も年を重ねるにつれ、ツッコミをついついしてしまいたくなるような時期も経たわけでありますが、そこはそれ、この物語を読み進めていくには。

ワタクシたちは永遠に少女少年でなければいけないのです、かね……。

 

 


 

学園生活というものは“青春”なのか

 

先にもいいましたが、個人的には、この100万の虹という章、主にマヤが紫のバラの人の援助でもって高校生活を送りながら、再び演劇への情熱を取り戻す(でいいんだよな)ところを、ワタクシはワタクシで、それを中学から高校に至る中で読み始めました。

そういう意味では、図らずも自分とマヤは同じ時代の空気を吸っていたと思います。

でも学園生活の中身はまるっきり正反対でした。

一応、この章の前に、マヤは芸能界の経験を淡くかじってはいるのですが、ワタクシとしましては、その辺は知る由もなく。

ただワタクシは、このマヤの学園生活を描いたところも涙無くしては読めません。

思えば自分の場合、高校生活はハッキリいって自分の人生の中においても暗黒期そのものでした。

まず、共学ではなかったということは、とても重大ですが……ある意味どうでもいいです。

実はマヤと同じく、当時の自分にも情熱をかけて取り組みたいものがそれとなくあったのですが、それ以上に、主体性がなく何事も中途半端という性格が、まるで暗雲のように当時の自分に覆い被さっていました。

先にワタクシ、親のことで悩んでいたことを少し明かしましたが、いわゆる家庭の問題として片づけるほど、そう短絡的ではなかったのです。

マヤと自分との違いを、この際ハッキリぶちまけるならば。

マヤは、とにかく自分の気持ちに、ある意味素直で無茶で貪欲。

その具体的シーンは、椿姫のチケットのためなら冬の海にも飛び込む、というやつ。

そのあたりの心象風景については、後ほどまた、あらためて書き連ねたいテーマとして留め置きます。

 

とにかく。

自分の将来を見据えていろいろな夢や希望、そして不安を過ごすはずであろう高校生活を、全く有意義にすることができない、とても幼稚で自信の欠片もなかったワタクシ。

対して(対することかは、よくわからないけれど)マヤは、学園生活と並行して芸能界という荒波に既に揉まれたことにより築かれた成熟度が半端なく。

体育倉庫での一人芝居、はたまた学園の演劇部での客演を経ることによって再び演劇への歩みを再開し、高校卒業の頃には、月影先生による荒治療という名の紅天女候補の資格を賭けた2年間の主戦場を与えられます。

それがどんなに過酷なことか想像は絶しても、亜弓さんもそれを “命を懸けて”待つ、というような意気込み。

それはそれで大変仰々しいことなのですが、同時に、青春という2文字をこれほど清々しく表せているマンガも、そうあるものではありません。

 

とりあえずワタクシ、この100万の虹の章のみを当時の10代で接しただけで後々文庫化されるまで、【ガラスの仮面】からは一旦足が遠のきます。

でもその後、自分の日常の主体性のなさから、少しずつでもあがき続けてみようという気になったきっかけには、ガラかめとの出会いである、あの章に涙を流したことも一つあったな、と。

それはそれは、苦い経験もいっぱいしたのですが、同じ経験をするにも、常に100万の虹に励まされているような感覚になり、何者でもない自分に主体性という微々たる成長の糧を与えてくれたのは、まぎれもなくあの当時、ガラかめに出会えたことによるもの、と、今その影響下にいたことに想いを馳せられることがとても感慨深いです。

 

 

単行本第一巻

 

【ガラスの仮面】の単行本第一巻について、どこから、なにから書いていいものでしょう。

ワタクシ自身が直接この内容を読むことが出来るようになったのは、白泉社で文庫として出るようになった以降です。

この文庫化の初版をあらためて目にすると、1994年となっていて。

もうずいぶん前だからうろ覚えだけれど、その時期はまだ手に取ってなかった気がします。

でも、自分にとってすでに【ガラスの仮面】は、最初に読んだ時の衝撃がとても忘れ難かったはずだから、一番始めの話が読めるようになったと知れば、すぐさま書店に駆け付けた、とも思いまして(自分の記憶の中では、おそらく2000年以降ぐらい、でしたね)。

手にしてからは、ファンの皆さんと同じく、むさぼるように読みました。

この単行本第一巻~中学生のマヤがカバンを持って駆け抜けるプロローグから、学校劇のビビ役を通して、マヤの胸の中に演劇への情火が灯されるまで、は。

 

結論からいうとこの第一巻は、小さい子供を持つ親であれば、そのすべてが読まなければいけない必定の書、と個人的に思っています。

最近は、いわゆる毒親問題とか、いろいろと取りざたされているみたいですが。

もちろん、親になる人すべてがそうというワケではないだろうけれど、それでもこちらが直に目にする大半の親たちは、自分も昔は子供であったはずなのに、どうして子供の気持ちがわからないのでしょう。

それは、いい方を変えれば、親になり切れない子供のままの親である、ということなのでしょうか。

印象的なシーンがあります。

「みたいな(観たいな)……ああテレビみたいな……!」

そのセリフに囲まれるようにして描かれるマヤの震える横顔。

マンガの中の配置としてはページの中間辺り、マヤの気持ちの中を表わしているということで、構図としては若干小さめにしてあります、が。

ワタクシにとってこのシーン、ハッキリ申し上げて【ガラスの仮面】の指五本に入る名場面と思っています。

美内先生は、その描かれる絵の中に、本当に狂熱たる魂を宿されることが出来、それがワタクシたち凡人にもたやすく見て取れるようになっているところが驚異的に素晴らしいのであります。

 

ある友達のことを話します。

その友達が小学生の時に、映画『スターウォーズ』がやってきました。

当時は映画自体、映画館で観るということは年に一回あるかないか、といった感じらしく。

それは彼の家が貧乏だったからではなく、単に彼の親がケチ臭く、それに輪をかけて偏見?も凄まじかったらしく(よく彼はボヤいていたんですよね)。

それが、近所の子供と家族ぐるみで『スターウォーズ』を観るか、他の映画(要するに彼が興味を示さない映画)を観るかで多数決になり。

当然、『スターウォーズ』を観たい彼、でも多数決にはかなわない。

『スターウォーズ』は周知のとおり、平成・令和のこの時代においても未だに連作が続いているにも関わらず、彼にとっては、当時のしこり?が尾を引いていることもあり、未だに『スターウォーズ』のどの作品もちゃんと観たことがない、と言っていました。

子供というのは、さようにして興味を持つ生き物であるか。

その、どんなことにでも興味を持つという灯が、子供の才能の入り口であり、やがては財産になっていく。

損得勘定ではなく、親が、興味を持て、と子供に押し付けるのでもなく。

ただ自然に備わっている興味という“狂熱”を、親は、ただ見守るだけでいいのです。

もっとさかのぼること、幼稚園に通っていた時の記憶ですが。

いわゆる、おゆうぎで使う、鹿のお面を家で描いてきて、と先生に言われます。

ある同級の女の子は、彼女自身で書きたかった鹿の絵を、あろうことか彼女のお父さんが却下し、そのお父さんが自ら絵を描き、それを持っていけ、と言ったのだそうです。

その子は、ちょっと不服そうに、あきらかに子供が描いた絵ではない、うまく描かれた鹿のお面を付けて踊っていたのがとても印象的で、ワタクシ、なんか覚えているんですね。

あの子は今、どうしているのかな。

 

子供は、本当はなんにでも興味を持つ生き物。

たまにたわいのないことで子供同士でけんかをするとして。

でもそんなことだって、興味の主張の干渉の表れに過ぎない。

もし、それを大人が、それも力づくでその興味たる“狂熱”を取り上げたなら。

一度消された灯というものは、実はもう一生、灯されないものとなってしまう。

それはすなわち、子供を殺すこと、といっても過言ではないでしょう。

マヤを絶えず罵る母親、「あんたには観劇なんてぜいたく」と吐き捨てた杉子さん、演劇に自分の価値観を押し付ける学校の先生、等々。

マヤの戦いは、図らずも、マヤ自身の演ずるという才能の灯を、無神経にでも根絶やしにしようとする者たちとの戦い、であります。

マヤの才能は絶大であり、そしてその意思の“狂熱”もすさまじい。

 

本来なら、そういったものは、まわりが暖かく見守らなくてはいけないのです。

でも現実は、そんな興味を持つ才能を根絶やしにされた子供たちが、やがて大人になってしまう、という。

今の社会の実相を見て。

皆さんはどうお思いでしょうか。

この第一巻は、マヤの小さな胸の中に灯された、でも力強い灯が、まずは身近な心無い大人たちをいとも簡単?に蹴散らし、その灯が火の鳥となるまでを描いています。

マヤは確かに驚異的なのですが、同時にこの第一巻は、子供のもつ、まずは興味という灯と、そしてそれがいかに崇高で、やがて、自分たち未来へのかけがえない財産へとつながっていくのだという、美内先生の痛烈なるメッセージに他ならないと感じますが……いかがでしょう。

 

 

 

 

言葉を大切にすること

 

 

ちょっとした紆余曲折を経て、晴れて劇団つきかげに入団するマヤ。

この段階で、もうすでに高度な演劇論が展開されています。

入団したばかりのマヤが「あの子……ただ者じゃないわ……」と周りから恐れられる最初のきっかけは。

言葉に対する反応がとても素直である、という、シロウト目からすると割と地味な出来事からでした。

演技で“釘を踏む”という表現を、普通なら足が痛くって飛び跳ねるところを、ただ違和感を感じて足裏を見る、というマヤの表現。

これを、同じく、ただモノではない麗たちが見抜くわけです(笑)。

 

ちょっと話が逸れるかもですが。

このご時世で、よく言われるところのネトウヨ・サヨクな人たち。

そんなレッテル?を張られる人たちの、ある意味共通しているところを挙げるとするならば。

自分の持つ考え方のバイアスとか、偏見に振り回されているところ。

要は人の話を聞かない(笑)

同じ言葉でも、それを深く掘り下げていくなら、それが信じられるのかどうか。

この人はこう言っている、ではあの人は?

そう言っていることは、ちゃんと検証できるのか?

誰も検証出来ないことを、いたずらに決めつけてはいないか?

というわけで。

言葉一つとっても、その真実を見極めるには、実はとても手間がかかるのですよね。

それ以前に、人の話を聞かない、という人が蔓延っている現実。

それが、この世間に、ネトウヨ・サヨク・陰謀論?が蔓延っている原因と思います。

それだけ皆、言葉に対する感覚の受け止め方が安易なのです。

社会で比較的、権力を持つ者は、シモジモに対して、あまり優しくはないです(笑)

だから、言葉に対する感覚の受け止め方が安易、な連中は、とても扱いやすい。

……このくらいにしときますか(苦笑)

 

さて、言葉に対する感覚が非常に研ぎ澄まされているマヤ。

それを遠目でニヤリと見守る月影先生。

そして強引に?亜弓さんと、言葉への反応に特化した、最初のバトルが展開されます。

……完璧です!

 

余談ですが、マヤは、もし女優以外の職業に就くとしたら。

弁護士なんか、案外いいかもしれません。

無論、そこまで行きつくには、さらに半世紀ぐらいの歳月を費やすのでしょうが(汗)

まあ、弁護士になった暁には、あの某コメンテーター弁護士ぐらいなら、いとも簡単にひねりつぶすことが出来るでしょう(-_-;)

 

 

 

表現の多様性

 

 

先の、言葉に対する反応が素直、ということは、そのまま同一人物の演技に対する多様性に結び付けている当たり、さすが美内先生であります。

場面は劇団つきかげの記念すべき第一回公演から、亜弓さんとの同一人物、美登利役の演技対決となる、因縁の「たけくらべ」。

最初は、亜弓さんの“美登利”に翻弄されるマヤだけれど、そこは紆余曲折を経て、ついにマヤの“美登利”をつかむ。

そのプロセスは、同じ言葉(セリフ)でも、その表現を変える、という。

結果、亜弓さんとは違う“美登利”を演じることに成功します。

どう違うかって。

阿弓さんが泣く場面、マヤは笑うのです(笑)

 

最近観た韓国某ドラマ、個人的にこの一年で観た韓ドラの中で一番素晴らしい、と思ったドラマでした。

それを、よせばいいのに?日本でもリメイクすることになりました。

結果は、案の定?ただトレースしただけの感じで。

そりゃ、もちろん脚本はいいから日本でもそれなりに評価はあったと思います。

でも、日韓で観比べた場合、どうなんでしょうか。

断っておきますがワタクシ、韓国びいき人間ではありません。

ただ、純粋に比べてみれば、どう考えても韓国でやったものを日本はひねりもなくトレースしただけ、という。

結局、日本は、そのドラマ作りにおいて、あまりにも安易に考えていたとしか思えないのです。

いや、実はもっと辛辣に云わせてもらえれば、演技に対する実力の差までもが、韓国と日本ではあまりにも違い過ぎるという実情が露呈してしまったのではないかと。

あくまでも地政学的に見て、日本よりも圧倒的に人口も少なく、今でこそ遜色はそれほどないのかもしれないけれど、それでも経済発展は日本よりも遅かった韓国が、いかようにして、いつの間にかエンタメといった分野で世界発信するぐらいの力を身につけられるようになったのか、個人的には推測のレベルでしかそれは図れませんが。

本来、どちらかというと、日本のドラマや映画を、韓国がリメイクしている方が圧倒的に多いのです。

そしてそれらの全てがうまくいっているわけではないけれど、少なくとも韓国は、日本とはまた違うモノを表現しようとする意気込みが感じられて。

あの坂元裕二氏脚本の『mother』韓国版は、日本とも引けを取らない、素晴らしいドラマとして名を馳せました。

演技の多様性、というか、マヤと同じく?結局自分たちが自然に演じてしっくりくるものがすなわち一番、と信じている感じが。

とても好感持てるのです。

 

【ガラスの仮面】では、新しいタイプの美登利、と月影先生がおっしゃりますぐらい、とてつもなく極端な“美登利”像を演じることになるマヤですが。

まあ、それが、彼女にとっての、とてつもなくしっくりくる“美登利”との解釈でいいのだと思います。

その後、亜弓さんとのバトルも苛烈さを増し、亜弓さんとの表現の違いを、これでもかこれでもか、と見せられ。

ガラかめも物語の中の時を経て、最終に差し掛かる段階で、マヤがあの狼少女役をやるにあたり、その演出を、自らの演技とは別のものになる、しかも演者全員が、という、なんともアクロバット的展開が控えているワケですが。

紅天女の前にそんなことがあるとは、この当時のマヤにとっては、つゆ知らず。

もちろんドラマ化は不可能(?)。

おそらく美内先生は。

ご自身の作品がドラマ化になることに、案外、興味ないのかもしれません(笑)

 それはそれとして、でも、表現の多様性を拒まない姿勢は、それがそのままそれぞれの個性を育む、すなわち、先にも述べた、元々の自身に備わった“狂熱”の灯を根絶やしにしないことに繋がるのではないかと。

 ということで、日本のドラマにも、もちろん頑張ってもらいたいのですが……。

 

 

 

 

憑依型がいいのか悪いのか

 

 

俗に、なりきる、といいますが。

ガラかめを読んでいくにつれ、マヤの役へのなりきり方が誰しも半端ないと思うことでしょう。

で、その、なりきり方がとても顕著に表れるようになった最初の場面は、劇団つきかげの記念すべき第一回公演、若草物語で描かれます。

もうツッコミどころ満載の場面ばかり(笑)

役作りのためとはいえ、高熱に侵される始末(詳細は、読んだことない人は、もう読んでください!)。

とにかくマヤの演技の、なにがすごいかって。

本人が“ベス”と思い込んでいるだけではなく、周りの劇団員も思わず“ベス”と呼んでしまうという。

マヤが、演技に打ち込む中で、だんだん別人格(憑依)になるという場面は、これ以降も惜しみなく描かれます、が。

かつて、いろいろな経験を経ることが、やがては“千の仮面”を身に着けることに繋がっていく、といった趣旨を月影先生はマヤに語ります。

これは深いですよ。

自分たちのような凡人が、この言葉を聞いたならば、ヘタすると矛盾を論うだけで終わってしまいますから。

一見、矛盾に感じてしまうし、そんなこと、実は誰しもがそれぞれの人生を歩んでいく中で、身に着けていく、“千の仮面”……?

いえいえ、誰しもが皆、仮に多少の“仮面”を身に着けることが出来るにしても、マヤの身に着ける“千の仮面”とは、圧倒的に別物である、と解釈することによって、月影先生の言葉に初めて説得力が生まれます。

ガラかめがよく読まれるようになってから、ファンの間で、マヤを今の女優に当てはめるならダレソレ、といったことが、ちょっと流行りましたよね。

自分も当時、ダレソレに当てはめたりしたことはありましたが。

浅はかであります(苦笑)

ワタクシ達は、マヤの演技を、美内先生の描くマンガを通して、その一端を垣間見ることは出来ても、現実にマヤの演技については、第一回目の若草物語(いや、その前のビビ役も含め)から、“現実”にマヤの演技を観たものは、誰もいないのです。

それを唯一観れるのは、美内先生(の脳内)だけ。

これは衝撃です。

ファンであるワタクシたちは、【ガラスの仮面】を読むにあたり、心しなければいけないことは、マヤや亜弓さん、そして真澄様をはじめ、物語の登場人物たちの人生をつまびらかに追うことは出来ても、マヤの実のところの演技の物凄さ、というものが現実に知ることが出来ない、という現実認識です。

 

映画『響(ひびき)』で欅坂なんとかに所属していた女の子が好演しました。

文学界の最高権威ある賞に、ある風変わりな女子高生が書いた作品が選ばれる物語、ということで、その女子高生が描いた作品自体は、その映画の観客には全くもって分かりっこないけれど、その映画を観ることで、その作品がいかにすごいのかがよくわかる?という。

まさに【ガラスの仮面】です。

ということで、ワタクシたちは、北島マヤの演技がどんなに凄まじいものなのか、というか素晴らしいものなのか、ということを実は知らない。

 

ちなみに最近、アメリカの演技メッソッドなるものについて語っている町山智浩氏の番組を観まして。

なりきる(憑依する)、そして、なりきらないで演じる、というそれぞれの選択もあるそうです。

どちらにするかは、その物語の趣向も関係することで、どの選択にも正解はない。

ただアメリカでは、憑依型の役者さんには、あまりガチガチなセリフは用意しないで、その場面の要所で、なり切った人物の感情で表現させるという監督も、けっこう多いらしい、とのことです。

最近の役者さんは、同じ映画の中でも二役を演じる、なんてことも沢山あるみたいですからね、それはシロウト目からしても十分興味あることではあります。

そして、これは個人的になんとなく思っていたことですが、やはり、憑依型、というのは危険らしい。

特に悪役、それも残虐非道な役をやる場合、役者さんの精神がかなり参るとかで、そういった役ほど修練を重ねた役者さんが行うらしく。

一種のスタント、ですね。

悪役商会(古いですね)の役者さんたちはプロ中のプロだったんですね。

ちなみに「羊たちの沈黙」で名を馳せた、アンソニー・ホプキンスさんは、あまり役にのめり込まないそうです。

もし、役にのめり込む事態に陥ることになってしまったら。

一度時間を置き、その役を抜くそうです。

とまあ、そんな事情もあってか、役者というものは、いろいろ大変です。

 

その延長線で語るなら、最近カルトとしての呼び声の高い、某宗教の教祖などは、インチキとわかってやっているのか、信じ込んでやっているものなのか。

もし、本当に信じ込んでやっているのであれば、その世界観は“本物”となってしまうから。

本物と信じて疑わない人たちに、それを偽物とわからせるためには、その人自身の命に係わる価値観をまるごと書き換えるようなものなので。

それはイコール命に係わるぐらいの危険さを伴う困難さがあるという点に置いて、本当に怖いのですが。

 なんかサラっと危ないこと、言っちゃってます?(-_-;)

 

 

 

 

ガラかめフォーマットの基本原型「ジーナと五つの青い壺」

 

 

ガラかめがこんなに長編になった理由を、一ファンの目で考察、というか、妄想するに。

最近のドラマや映画でいうところの伏線回収、という概念がないまま、一つの見どころと言える基本原型(ガラかめで言うなら舞台で演じるマヤと亜弓さんの戦い)を延々と繰り返していることではないかと。

それはもちろん手を変え品を変え、それがぐるぐる螺旋状のように回りながら、行き着く先は、「紅天女」という。

昔の……70~80年代頃のマンガは、けっこう、こういう手法が多かったのではないでしょうか。

仮面ライダーがどんどん敵を倒してコンプリートしていく、というやつ。

伏線回収のあるものだと、ある程度間延びしないうちに終わらせなければならないので、それがないマンガは、ある意味潔い?のだけれど、作者がそのことに無頓着であると、どんどん長尺になってしまう、という(笑)

そして、ガラかめの場合、その基本原型となりうるフォーマットが完成した場面は、第4章、春の嵐で行われる公演「ジーナと五つの青い壺」であります。

とにかくファンなら、この場面におけるマヤの追い込まれ感が、いかにぶっ飛んでいるかが理解できるでしょう。

もう、現実ではありえないことが、次から次へと展開されるのですから。

これが描かれた時期から察するに、当時のテレビドラマ、赤いシリーズや堀ちえみのスチュワーデス物語、スクールウォーズとか、要するに熱く、ツッコミどころ満載テイストが全盛の時代というのも、少なからず影響があるのではないかと。

とにかく不思議ですね、ワタクシたちはいつ読んでも手に汗握れます(^^)/

 

ということで、この「ジーナと五つの青い壺」の舞台背景で、必ずマヤが、外部からの妨害で過酷なハンデやら被害に見舞われ、それでも無謀に舞台に立ってしまう、という。

そこには必ず紫のバラの人が見守り、また、亜弓さんも、マヤの裏事情?を何故か知っていて、そんなマヤの演技を驚愕の眼差しで見入る、という。

それでもって、そんなアクシデントに見舞われた舞台が、終わってみればそのアクシデントがかえってマヤの才能を一段と輝かせることになり。

で、まわりから物凄い称賛を浴びるのに、そのことにいつも気後れするマヤ(笑)

そして、ここからが大事なんですが。

この「ジーナと五つの青い壺」から、いままでマヤに対し一目は置いても常に上から目線?であった亜弓さんが、初めてマヤに負けた、と自覚するのです。

そう、まずは亜弓さんがマヤのことを正式にライバル視し始める、最初のバトルとなる場面がこの「ジーナと五つの青い壺」。

ガラかめは、この「ジーナと五つの青い壺」で展開される舞台背景を一つのフォーマットとして、以後、これを繰り返していきます。

 

ところで……さあここで突っ込んでみますか。

この「ジーナと五つの青い壺」って、ガラかめの中で、唯一マヤに対し、月影先生からの演技指導がなかった(正確にはマンガでその描写がなかった)劇なんです。

そして、これがなんのアクシデントもなく劇団つきかげとしてのコンクール出場となっていれば、案外、それほどマヤの才能も目立つことなく、かえって普通に入賞を逃したりなんかして……。

いけないいけない。

これだからガラかめファンはヤボなんだよなあ(^_^;)

 

 

 

なんやかや、マヤの成長期が一番面白い

 

 

一時期、マヤは麗たち劇団つきかげのメンバー、そして月影先生とオンボロアパート暮らしをする時期がありますね。

冷静に考えて、これは、すごいシュチュエーション(^_^;)

で、この時期にマヤは、いままで培った演劇スキルでもってバイトという名の武者修行を始めます。

映画のチョイ役、中学演劇部での通行人役(と思いきや、アクシデントで急遽代役の女王様!そして、これはバイトじゃないや)、栄進座の子守役、幼稚園での小道具がかり(と思いきや、急遽、白雪姫の一人芝居)そして「嵐が丘」のキャサリン役、等々。

いたって天然のマヤは、身近で感じる周りの反応に一喜一憂、ヘタするとすぐ自己嫌悪に陥るのですが。

どうしてどうして、世間の評価は、子供から大人、そして名の知れたディレクター、評論家による絶賛の嵐。

彼女のネームバリューを一段と押し上げていきます。

栄進座の女座長さんに至っては、彼女を“舞台あらし”と名付け、それはそのまま、彼女の成長過渡期をあらわす表現でもあるのですが。

でもこの時期に描かれているマヤは、本当に短いものの、ガラかめ物語の中で、何モノをも突破しうる勢いを彼女の中に感じ、またワタクシたちは、それを見守るような感覚になります。

“狂熱”を取り込んだ子供は、その興味からいろいろなものを身に着け、悪戦苦闘していきますが。

その、まだ未完成ではあってもそこから脱皮していこうとする、そのもがく感じが、とてつもなく愛おしいのであります。

当事者?であるときには気付かずとも、時間が経って以前の自分たちのようにもがいている後輩たちを見ると、かえってそれはとてもうらやましく感じる、という。

まさにマヤを想う速水真澄氏のような心境。

前にも述べたと思いますが、とにかく自分が一途になれるものに出会えて、そしてそれを一生懸命身に着けようと努力する姿は、それだけでとても眩いのです。

マヤの名セリフその2として。

「(芝居をすることに対し)ああ、あたしは生きているんだなって気がするの。

わかっているのはそれだけなの……。」

まるで新芽がぐんぐん天に向かって枝を増やしていくように、人間の成長期のそれは、はた目から見てもとても希望を感じるものであります。

山本太郎氏が街頭演説で言ってましたが、今の日本の年間自殺者数は2万人以上、そして自殺未遂者数はなんと22万人にも上ると。

で、そのうちの若者に当たる年代(20~30代ぐらいまで)だけ、特に令和に入ってからその率、数、共に増加傾向にある、と。

※自殺者数年次推移:厚生労働省

原因は非正規雇用か?賃金格差か?実際、若くしてホームレスになってしまう人も昔よりべらぼうに多くなっていると。

これは本当に単純な話ではないですね。

まだそんな年端もいかない若者が、なんの希望も見いだせないということになっているのだとすれば、そんな若者たちの希望を根こそぎ根絶やしにする大人たちが、かつての希望と感じる眩い光を、どこか遠くに追いやってしまったが故の自業自得、とも思えるのであり、なんともいたたまれないのであります、が。

 

そんな全ての人たちにこそ今一度、ガラかめの、特にこういったマヤの成長期を読んでほしい、かな。

これを読むことで、そんな現実を受け入れながら、その上で、いかに自分をポジティブに、そしてあわよくば自身の自業自得を蹴散らし、さらに世間にそれなりの爪痕を残していこうといった意志をみなぎらせてくれるのではないかと。

ワタクシ自身、いつも励まされてきたから。

そう、今でも。

 

 

教育者、とは①

 

ガラかめの劇中劇「奇跡の人」は、いわずもがな世間でも知られている、事実を基とした名作。

で、美内先生は、これ以降、劇中劇のストーリーにも深みを増すことにおいては手を抜かないという、本当にしんどいのではないのかと思われる3、4重構造を持つストーリー展開を、あくまで読む感じとしてはさらっとしたテイストで紡ぎだしたマンガを描かれます。

そんなご苦労を尻目に?ツトツトと述べていきますと。

サリバン先生の、ヘレンに言葉を身につけさせたい上での名セリフ、「言葉の光に照らせば五千年も昔を見ることが出来る」。

自分たちはあらためて人間であるわけですが、まさに人間が人間たる所以は言葉を持つ、本当にそれに尽きます。

その言葉を、世界のあらゆる場所でそれぞれがもつ力を、ただただ誠実に現在から未来へと繋いでいくならば、例えば究極、戦争など起こる余地はないことでしょう。

せっかく言葉というものを持ちながら、未だに争いの絶えない現状に甘んじているならば、それは言葉を持たない野蛮人であることと同義です。

約束を破るということも野蛮、公文書偽造も野蛮、せっかく言葉として表した人の気持ちを無視するという行為も野蛮、世間の不確かな情報で物価や株が乱高下するのも野蛮。

そして、なによりも人間がいままで紡ぎだした歴史書が、もし心無い人間による偏見バイアスのかかった記述であるならば、とうてい五千年も昔をみるなんてことは出来ない。

実は、ワタクシたちは目が見えているにも関わらず、言葉を正しく使えていないがゆえに野蛮人で盲目でもあります。

してからに、このサリバン先生のセリフは、一つの普遍的な真実を語ると同時に、現在への痛烈な批判を帯びたものとも見ることが出来ます。

う~ん、これを記した美内先生、恐ろしい方……。

 

それをさらに深堀りし、あらためてワタクシが主張したいことは。

その言葉の端々に、サリバン先生のエレンに対する、とてつもない痛烈な愛があることであります。

先の、言葉を人に対して誠実に正しく使うためには、そこに愛がなければいけない、ということです。

だから教育って、実はとても単純で。

そこに愛があるか、ってこと。

ちなみに躾けるという言葉、どういうときに使いますか?

だいたい真っ先に思い浮かぶのは、親が子供に行うこと、とか、他には犬猫等にトイレの場所をうながす、とか。

さて、その躾ける方法について。

数年前、2~3歳の幼児をその親が体罰で死にいたらしめた事件が発生、その際、親が放った一言が「躾けのため」と暴力を肯定。

大半の人は、その幼児虐待を行った親を、人間のクズ、と蔑んだことでしょう。

さて、そこで。

躾けの方法に暴力は含まれるのか。

その暴力の程度は、如何に?

先ほどのクズ親の擁護をするわけではありませんが、確かに、自分たちは第三者として、そのクズ親の教育現場をつぶさに見ていたわけではありません。

もしかしたら、幼児とはいえ、とても聞き分けのない子で、親はその子を躾けるたびに、尋常ではない反発をくらっていたのかもしれません。

まあどちらにしても。

殺してしまっては、それは結果論として処理されます、そこまでに至る経緯はどうでもいい。

つまるところ、暴力が、躾される子供の命を脅かすレベルであった場合、もう親は、親として失格です。 

最近の「躾ける」という言葉は、「暴力」という言葉をオブラートで包み込むようなワードといっても差支えないのではないでしょうか。

極端に殺すところまではいかなくても、躾けと称して、犬猫等をひっぱたく飼い主もいるでしょうし、中高等の教育現場では、未だに表面化していない体罰など、まだまだある気がします。

さて、そこで行われる、躾る立場における心理状態とは、いったいどんなものなのでしょう。 

なにも小難しく考える必要はありません。

その躾ける側に、その躾けようとする対象に、愛があるのかどうか。 

もしそこに愛がないのなら。

愛がなくて、躾ける、という行為は。

実は、そこで、躾けようとする人間の、目的とする事柄が180度変わってくるのではないでしょうか。

あえて極端なことをいえば。

かつてアメリカ人(白人)が黒人を奴隷としてこき使う、という状況と、何ら変わりない気がします。

アメリカ人が、黒人を躾けて(鞭でひっぱたいて)それで喚こうが死のうがお構いなし。

そして、そのアメリカ人の理に叶った黒人は、奴隷としてこき使われる。

その際、途中で病気になろうが老いぼれようが、理由はどうあれ、使い物にならなければ捨てられる。

とまあ、愛のない指導者は、躾けられる側を奴隷としかみない、のではないでしょうか。

 

ということで。

作画上でも暴力沙汰?が見て取れる、サリバン先生とヘレンのやり取り(というかバトル)。

ここではあえてマヤと亜弓さんとの演技の違いを取りざたすることはないのですが。

てか、実はマンガ上では感電より風船破裂に軍配が挙がるって無理あるんじゃないの?ってツッコミはさておき。

それよりは、この「奇跡の人」、劇中劇で描かれる方に読者はウェイトを置いて読むのが良い気がします、って、余計なお世話か。

とにもかくにも美内先生は、読者であるワタクシたちに、物語を読み進めていく中でいろいろな思索を、絶えずに想起させ続けることを怠らないのであります。
う~む、やっぱり難しいのかな……。

 

 

 

 

ガラかめはスポ根、なのか

 

 

ワタクシ、このテキストを書くにあたり、もちろんあらためてガラかめを一通り読み返しているのですが、その他の、ガラかめについて論じているメディアは極力目にしていません。

あの山田玲司先生のYouTubeは観ましたが、参考にするというよりは、単に山田先生の一ファンとして、山田先生たちが語る【ガラスの仮面】論を聞きたかった、という。

ガラかめが文庫化されてから、その巻末には様々な著名人がこの物語について語っていますが、それは意識的に読んでいません。

たぶんその方々の論調に引っ張られるような気がして。

ただ、林真理子さんの解説(文庫版8巻の巻末)は、うっかり読んでしまいました。

そして愕然としました。

巻末だから、ほんの5ページほどの内容ですが、自分なんか、どうにも太刀打ちできません(苦笑)

気を取り直して、ところで。

林真理子さんは、ガラかめはスポ根ドラマ、という主張に異を唱える(趣意)とおっしゃっています。

これにはワタクシも激しく同意するものであります。

星飛馬真っ青のなんとかギブスをつける下りもあったり、盲目、はたまた狼!を演じるにあたり、もう、そのモノと同じような境遇、条件で生活するという、これまた無謀な描写が見受けられるところから、割と多くのファンが、このマンガはスポ根、とお思いなのでしょうが、ワタクシとしましても、そう短絡的には決めつけられない、と思っています。

林真理子さんは、それは“発想”と定義付けられています。

ワタクシは、その意について、それはまさに仮面を身に着けることによって得ることが出来る、と解釈しているのであります。

 

ガラかめの物語、比較的後半において、まさに月影先生による紅天女が演じられるに当たり。

文字通り、月影先生は、“仮面”を付けて演じます。

日本には、元々、能、という文化があります。

ネットでひっぱれば、能については、日本の代表的な古典芸能であり、同時に現代に生きる世界の演劇の一つである、などといった文言がたやすく出てくることでしょう。

ワタクシ、能、についてはそれほど詳しくありません。

それでも、これはもしかして、無意識にでも同じ日本人として、能との親和性を如実に感じることの出来る作品が、現代によみがえっているのを感じませんか?

そうです、ウルトラマンや仮面ライダーです!

特に近年のそれらの作品には、制作側の意図があるのかないのか、全く表情のない仮面を通してその人物の悲哀を感じることが出来る作品群のなっていて、興味深いです。

アマゾンプライムで観られる『仮面ライダーアマゾンズ』は、仮面を付けた、その形相で、人肉を食らったりする描写がありますが、おそらく海外のスプラッターものでは、そんな“発想”はないのでは?これが、とても日本的、ということなのでしょうか。

ウルトラマンも、あれはれっきとした仮面なのに、仮面ではない?設定です。

近年上映された『シン・ウルトラマン』に至っては、視聴者の大半が、おそらく仮面という概念をかなぐり捨てて、ウルトラマン(異星人)という表情として、きっと見入ったのではないでしょうか。

観る側も、演じる側のレベルに応じて、そのイマジネーションの掻き立てられ方が半端ではなくなってくる、という。

そういう意味で、日本の古来からある能という文化は、本来の芸能というものの本質をうまく突いた表現方法、と言えるのかもしれません。

すばらしい能であればあるほど、その仮面が表情を持つ、という。

その上で、ますます【ガラスの仮面】という題名が、言い得て妙、であります。

 

主人公のマヤ、そして亜弓さんが、それぞれ血のにじむ様な特訓・努力を重ねることによって獲得できる仮面、そしてその仮面は、ちょっとした油断やアクシデントに見舞われることによってガラスのように脆くも崩れ去ってしまう、という。

あえて物理的に被ることのない仮面を付けるという設定、そして“発想”は、ただただ斬新であり、いわゆるスポ根ドラマとは、一線を画するものと思います。

マヤが芸能界という世界に踏み入れてから、いままでとはケタ違いの怨嫉・妨害に遭うことにより、とうとうその仮面がかぶれなくなる、という事態に。

マヤにとっての、仮面をかぶれる、かぶれないという表現は、それがそのまま、才能、自信の現れの象徴であります。

そして、この物語の後半は、ライバルである亜弓さんにまで、【ガラスの仮面】をかぶれなくする事態が発生するので、とてつもなくとんでもない物語であります。

あの冷静な?亜弓さんが、【ガラスの仮面】がかぶれなくなるあまり、梅の谷で思い余ってマヤを○してしまいそうになる下り。

でも、そこで図らずも亜弓さんはマヤよりも貴重な体験(それはおそらくマヤが一生経験することのない感情)をすることになるので、そんな亜弓さんに、ワタクシを含めた多くの読者はあらためて感情移入することになります。

 

最近の韓国映画で、ある意味【ガラスの仮面】みたいな映画があります。

いや、そのシュチュエーションやら設定やら、主人公の性格もまるで違うので、知っている人はどこが?と思われるかもしれませんが。

『the witch魔女』(キムダミ主演)という映画。

ザックリ、近未来バイオレンスアクションモノ、という以外、詳細に触れることはしませんが、蓋を開けたら圧倒的すぎてお話にならない、という点で【ガラスの仮面】なのです(気になった方はぜひ『the witch魔女』ご覧あれ)。

ガラかめで、マヤが圧倒的すぎてお話にならない、という場面はもちろん随所にあるのですが、なんといっても「二人の王女」のオーデション、ですね。

もう観ていられません(笑)

その場面については、また後々じっくり語りたいと思いますので。

とにかく、圧倒的すぎてお話にならない、という点においても、このガラかめはスポ根ではない、と思うのですがどうでしょう。

スポ根かどうかよりも、ここまで書けば、林真理子さんとの主張とも違う面を自分なりに語ることが出来たと思っているのですが、そういう意味でも、どうでしょう(-_-)

 

 

 

 

芸能界とはそうしたところだ

 

 

これはお話の中の、速水真澄氏のセリフ。

どんな場面で語ったかはここでは触れません。

日本の芸能界、まずはその金銭感覚が一般常識とはケタ違い?らしいので、それにつられたその界隈における、そこだけのしきたり、というか慣習が、これまた世間的な感覚では理解できない、という感じが、自分たちのような芸能界とは縁のない人間が考える、おぼろげながらの印象、といったところでしょうか。

ただ、今はネットなどにより、その手の暴露するような輩もいろいろ湧いてくるようになり、一昔前に比べて、いわゆる芸能界というものも多面的にも浮き彫りされやすくなっているのかもしれません。

個人的には興味のある無しは事によって分かれるところ、まあ、だれそれが恋愛でくっつくとか、トラブルを見聞きしたところで全く印象に上らないのですが。

とにかくそんな世界に関わる上で、個人の資質というものが、その世界での居心地を左右する条件になるようです。

即ち、カネを儲けると割り切って望むならば、割と居心地の良い世界なのかもしれません。

才能はあるけれど、人間関係にそんなに器用ではなく、比較的?人間性が善良であるなら、かえってそれが仇となって、奈落の底に突き落とされるような羽目に陥るかもしれません。

実際、未だに自殺に至るような、心の闇を抱える芸能人も後を絶ちません。

一見、華やかな芸能界は、その芸能を重視する上で、人間性などは残念ながら二の次三の次、という世界、なのでしょうか。

 

あの東京オリンピックの時に、その催しに関わるアーチストやらコメディアンが、過去のいじめやら差別発言やらで、さすがにバッシングを受けたりしましたが、それが露呈するまでは平然とその世界で何年も居座っていたわけで、逆を返せば、その世界に居座る条件に、人間らしい人間性というものは、意外と皆無なのでは、とその時は思ったりしました。

 

ガラかめが好き、という人の中に、いわゆる人間性というものを蔑ろにする人がいないと信じてこれを記すのですが。

第8章、華やかな迷路、は、マヤがこの世界で一生懸命やっているにも関わらず、無残にも地獄のような状況に突き落とされてしまう、という点で、一番読者がつらい気持ちになる章ではないかと思います。

それもこれも、マヤの人間性が穢れのない純粋無垢であるからこそ、です。

まあ、多くの読者さんが感じているように、マヤの目的は、別に芸能界で生きることそれ自体ではないので、月影先生にとっても想定内(いやいや、アンタの持病は想定外、というツッコミは置いといて)。

冒頭の速水氏のセリフは、それまでの彼の生き方を肯定するものであるのに対し、その考えがマヤを結果として地獄へ突き落すことになってしまい、苦悩するのです。

そんなこんなで、マヤは復活をしたのちも芸能界というものに関わる(関わらざるを得ない)のですが、そこはマヤが学習したというよりも、真澄氏の、芸能に対する価値観が変わり、それでもってマヤをどんなことをしても守る、という風に変わっていっている、そんな気がします。

それにつけても、この歳?で読み返してつくづく思ったのは、もうボロボロになってとうとう芸能界で最後と思われる舞台、それも端役の村娘として、しかも泥まんじゅうを食わされる手前の、速水氏がマヤを送る出すシーン。

「これが最後だな、チビちゃん。」

このセリフを速水氏が言う、一旦はマヤの女優としての再起不能を受け入れる、その覚悟と心境に思いを馳せるだけで、本当に身につまされるものであります。

そして、美内先生のすごいところは、もうズタボロになったマヤの演劇に対する情熱や、速水氏との関係の修復を、その後も見事に書き連ねたところにあります。

もう、こんな章を、もし凡人が描いたならば、もうここでガラスの仮面は終わってしまいます。

ということで、芸能界で生きる、それでもって心ある方にとっても、このガラかめは必読の書ではないでしょうか(あまり無責任なことは言えないのかな)。

 

 

 

 

乙部のりえはサイコパス?

 

 

ガラかめが始まった頃は、サイコパス、という言葉とその意味は、あまり世間に浸透していなかったように思います。

それは当時の自分たちがまだ子供だったからなのでしょうか?

サイコパスの意味をザックリ、人の気持ちがわからない、とか、残虐非道、というのであれば、子供の感覚でも、俗に「知らない人にはついていってはいけません」というセリフで十分理解出来たでしょう。

でも同時に、子供って、そういう人はめったにいない、いわば性善説を信奉する生き物ではないでしょうか。

かくいう自分が、わりとオメデタイ子供だったので(笑)でも、それ以上に当時の時代までもが、いわゆる性善説で覆いつくされていたように思います。

でも、よく考えれば、あのヒッチコックの映画『サイコ』は、ガラかめが始まる十数年前から認識されるに至ると語るまでもなく。

そもそもの人類の歴史は、もうサイコパス同士の野蛮な殺し合いの歴史、と結論付ければ話は終わってしまうのですが(劇中劇「二人の王女」は、実はそういうお話です)。

さて、この日本、そんなサイコパス、という概念が、なぜかすっぽっり抜け落ちている時代に【ガラスの仮面】が始まります。

 

当時のマンガ、それからテレビドラマ(その代表は、水戸黄門ですな)にしても、いわゆる悪役、というものは必ず最終的に滅びる・天罰が下る、みたいな感じになっていたし、実際にそういう因果応報的なもの、との考えが、ワタクシだけではなく、より世間の多くの人が持っていた価値観だったと思います。

乙部のりえが登場した時は、彼女、当時の時代も相まって、割と典型的な悪の人物像として描かれています。

これが時代を経て現在、今はあの映画『joker』もあれば『羊たちの沈黙』も、あの『サイコ』以上に日本に浸透、それにも増して、この失われた30年と云われるデフレ不況下で自分たちは数々の猟奇殺人事件等を目撃することになります。

そんな経験を経た今、あらためて、乙部のりえ、という人物像に思いを巡らすとき、個人的にはとても心配するのであります。

その後、彼女はまっとうな人生を歩んでいるのだろうかと。

マヤにあれだけのことをし、そして亜弓さんにあれだけコテンパンにされて、当時の読者なら、ただ読むままに溜飲を下げればいいのですが、もうこれだけ長いこと連載が続き、しかもまだ終わらないせいで、乙部のりえは、ガラかめファンの間で、ある意味すっかり人気?キャラクターに躍り出てしまいました。

そうなると、彼女にはもっと深みを持たせたい、と思うようになるファンは、きっとワタクシだけではないはず(笑)。

サイコパス度で語るならば、もうその後に出てくる詩織さまや速水英介氏(真澄氏の義父)にすっかり劣るのであります。

そう、サイコパスでも、小物のサイコパス(~_~)

だから、今ではすっかり乙部のりえの一ファンになってしまった自分のような人間にしてみれば、彼女の“その後”についても、ついつい思いを馳せてしまうのであります。

美内先生は、当時、どのくらいのレベルまで位置づけをして、乙部のりえというキャラクターを物語に投入したのかはわかりませんが、当時の性善説的な時代背景を考えれば(遡ること戦前、5.15事件で暗殺直前の首相・犬養毅の「話せばわかる」という逸話にしても、日本の性善説が一定層に浸透していた一例)もちろんマヤを芸能界から引きずり下ろすアイコンとして、そのしたたかさと非情さは凄まじいまでに持たせているのですが、最後の、あの何とも言えない打ちひしがれた感(笑)をみると、彼女がサイコパスかどうかまでは、はっきりさせていないという“余地”を見出さずにはいられないのです。

 

そこでここからは単なる妄想です。

乙部のりえ、もし彼女がサイコパスなら、まあ、レベルは小物なので。

もっとハードルを下げた獲物を狙って、詐欺などを働き……まあ、ドジ踏んでお縄になって人生オワタ\(^o^)/という感じで。

そして、ファンとしては、彼女がサイコパスではないことを祈りたいので。

ご自身の芸能界ノシ上がり作戦の失敗を糧に、当分は何に対しても意欲がわくことなく、精神的なダメージで体も壊してもらって(笑)でも、こんな卑しい自分ではだめだ、ということを悟ってもらって……地元(福岡?)に戻ってローカルな劇団にでも入って一からやり直し。

ああ、実家は裕福そうだから割と早く立ち直ってもらいたいですね。

そして、マヤか亜弓さん、どちらかがいずれ紅天女を演じる時、懺悔の想いで無記名のバラの花(もちろん紫以外)を贈るのです。

そんな感じでの再登場は、まあないか(^_^;)

 

ところで先ほどもちょっと触れましたが、乙部のりえよりも一段と酷い?キャラとして、その後、詩織さまと速水英介氏が登場します。

このお二人は、自分の利する目的に違いはあれど、社会貢献度で述べるならばそれは全くゼロ、という点で、もう最悪です。

そして割とガラかめは、当時の社会風刺ドラマなどで見られる一連の典型的な作品でもあるので、容易に「あ、こういう人、本当にいそう」との想起も出来るのです。

ただ、当時の世間では、一般人があまり踏み入れない世界(政界やら芸能界、はたまたヤクザな世界)でこそ暗躍するサイコパス人間は、一般社会、さらに身近な個人のコミュニティでは稀、というような感じだったのではないか、と思います。

でも、今はモノの見方も随分様変わりし、おそらくネットなども浸透し、同時にサイコパスも割と身近にいるものだ、との認識に変わってきていると思います(最近は、外人に向かって日本語である「最高~」って言葉がうっかり言えない、と聞きます)。

ということで長いこと連載してしまったことにより、サイコパスがその意味を世間的にも深度をもったこの2020年代、詩織さまと速水英介氏のお二人は、この物語を大きく動かすキーマン(おそらくこのお二人は最後まで死なない)であることは間違いありません。

といった話は、おそらく皆さんも出来るに違いない。

 

ワタクシが述べたいのは、ここからです。

実はサイコパスの定義って、けっこうあやふや、らしいです。

最新の学術研究が、アメリカで大昔からやられてはいますが、未だにその原因となるものが謎のようです。

脳の病気、とも言われるサイコパス。

でも、それが正真正銘の疾患からくるものなのか、その人自身が“演技”で、そう振舞っているだけなのか。

最近取りざたされている、宗教の高額献金問題。

壺を買わせる人間が、壺に力があると自ら信じ切って勧めるのであれば、それを非難するのはなかなか難しい。

それでなくても、詐欺を働くような人の中にも、それが悪いと思ってやっていないという人がいる?とのことで、ただただ驚きです。

そんなレベルにまでなると、ある意味才能ですよね。

でも所詮、第三者に証明できない事柄は、それが嘘で語ってなかったとしても、こちらは信じてあげられないのであります。

ターミネーターが、劇中であっても、あれが未来からやってきた、って信じられないのと同じで。

話をサイコパスに戻しますと、結局、治療でそれが治る(治る、とは善良になる、ということか?)かもしれないし、治らないかもしれない。

そんな不可解なサイコパス談義ではありますが。

 

ワタクシ、サイコパスとかいう以前に、そもそも人間には大まかに二通りあるのでは、との思いがあります。

成長する人間としない人間、の二つ。

未だに人間的成長がおぼつかないワタクシが言うので間違いないんじゃないかと(-_-)

詩織さまや速水英介氏の、人間的成長って?

まず、このお二人の価値観って、何ぞや?

詩織様は、真澄様を我がものにしたい、という価値観。

そして速水英介氏は、紅天女の上映権を我がものにしたい、という価値観。

この、それぞれの価値を自らのものにしたい、とされるその凄まじいまでの心根は、またマヤとは違うベクトルをもつ情熱そのもので。

今のところ、特に詩織さまは、それ(真澄氏)が手に入らないのであれば自殺もいとわない、といった手段を講じていますが。

まあ何のことはない、少し訂正して差し上げればこのお二人、それを手に入れるためならば地球が滅んでも構わない、ぐらいの意気込みであります(笑)

それは言葉を変えれば、成長が止まった人間、であると。

思考停止、なんて言葉もありますが。

誤解を恐れずに言えば、サイコパスとされる?人物であっても、敗北感を味わうことによって、少なくともそれまでの価値観を拭い去れるのであれば、人間的成長が見込めるのではないかと思います。

例え誤りであっても、それまで培っていた価値観を捨てるという行為は、ともすると今までの自分自身をも否定する行為だろうから、それがとてもつらいであることは想像に難くないでしょう。

あの太平洋戦争を経験した人たちの中には、神風が吹くはずだった日本が負けて、いいようのない虚無感で苦しむ人が多かったそうです。

だから、それを勇気をもって選択した以降も、ノイローゼになるような苦しみを味わうのかもしれません。

でも同時に、そんな価値観を変える行為こそが、人間的成長を遂げる唯一の鍵なのかもしれません。

ということで、乙部のりえには、その人間的成長?でもって、また復帰してもらいたいものでありますが……どうかな(笑)

 

 

 

教育者とは②

 

自分たちのような凡人からすれば、月影先生、それから物語の後半で登場する黒沼龍三先生、このお二人のマヤに対するとんでもない?指導ぶりには、時に目を覆うような感覚に陥ります。

なにせ容赦ない。

高熱で肺炎一歩手前のマヤにバケツで水をかぶせるは、冷凍庫に閉じ込めるは(亜弓さんもついでに犠牲になった)、黒沼先生も負けじと、マヤに窒息寸前まで息を止めさせる。

ハイ、ヘタすりゃ死んじゃいますよってツッコミも入ります。

「それもこれも芸(マヤに役の心情をつかませる)のためや、酒もってこい!!」

……そういえばマヤは酒癖悪かったんだな。

 

高校での一人芝居で月影先生がマヤに少しアドバイスするシーンがあります。

個人的に印象にあるセリフが「一度しか言わないからよくきいていなさい。」

ワタクシみたいな人間なら、とてもじゃないけれど一回コッキリ言われただけでは覚えられない……。

①では、教育者には愛が必要、といっぱしに語ってしまいましたが、自分みたいな凡人には、月影先生たちのような偉大な教育者の、愛情を注がれる対象としてのお眼鏡にはとうてい叶わないことでしょう。

でもご安心を。

月影先生にしろ、黒沼先生にしろ、自分の教育方針を変えられない、ということが判っているからこそ、ご自身が教えようとする人材の資質をとことん見抜く力もまた、備わっているのであります。

 

自分の話でまたまた恐縮ですが、過去、勉強なり仕事なりでいろいろな先生、上司にお世話になりましたが。

中には月影先生のように、「一回しか言わないから」みたく言う人もいました。

おいおい、あなたが相手をしている人間は、このワタクシだぞ(笑)

案の定、そういう人は、教えられる者たちにとって、すこぶる評判が悪かったですね。

無論、教えられる立場だって、メモを取るなど、それなりに努力はしないといけませんし、最終的に教えられることを身に着けるのは自分自身ですからね。

でも、日本の公立学校の現場は、今も昔も生徒の資質格差なんて、天と地ほどの差はいつの時代も普遍的にあるに決まっています。

そんなところには、最初から月影先生も黒沼先生も寄り付かない、ということです。

まあ、何が言いたいかというと、人には向き不向きもある、という点で、教育者にはやっぱり愛情は不可欠、ということなんですね。

月影先生とはお友達という設定の、栄進座の原田菊子氏は、マヤを“舞台荒らし”との異名を付けましたが、何のことはない、マヤの才能を見せつけることで結果、自分のところの役者達の成長を願うのでした。

名選手は必ずしも名指導者にあらず、って、本当はどうなんでしょうね。

結局ここにも、今後においての人間的成長が見込めるか否か、という気がします。

 

とかく中途半端?に才能がある人ほど、ある程度、社会性があり人間関係をそつなくこなせるからこそ、それ以上の成長をする必要性に気付かない、のかもしれません。

そんな人たちに対し、最後に思うことはいつも、元々優れたところがあるのに、なんでそれを生かそうとしないんだろう、もったいない、ですかね。

それを考えると、やはり亜弓さんはすごいですね。

元々の資質が、映画監督の父親と女優の母親からの血を分けた“サラブレット”じゃないですか。

ガラかめという物語の都合ではあっても、とにかく亜弓さんは、常に自分の置かれた現実から目を背けません。

もし亜弓さんが、今以上の人間的成長を放棄した、でも業界では由緒ある出自の天才、というだけならば、やはりこれだけ物語も続かなかったのでしょう。

願うところにも教育者あり、です。

どちらかというと、マヤに愛情をとことん注ぎ、時には容赦なく?育て上げた月影先生、というイメージがありますが。

数少ない場面で見受けられますが、実は月影先生、亜弓さんにもマヤと同等の愛情を注いでいます。

それはやはり、亜弓さんも自身の成長を願うからこその月影先生による呼応、なのです。

 

 

 

 

 

みんな大好き、“圧倒的”な妖精パック

 

 

世界中のガラかめファンに対し。

もしガラかめの物語の中で、一番好きな時期を問うたら、皆、きっと妖精パックの頃、と答えるに違いありません(^^)/

この時期(あの学園での一人舞台で復帰~パックを演じた「真夏の夜の夢」、そして「二人の女王」のオーデションあたりまで)は、この壮大な物語の中で、ある意味、マヤにとっての安定期であります。

もう演技者としては、演劇界若手の中でもおそらく中堅以上の実力を兼ね備え、月影先生からは2年リミットで日本演劇界における最優秀演技賞を取れ、などとプレッシャーをかけられるも、マヤ自身は、割とそんな状況をなんでもないかのように、ヘタすると楽しむかのように、さまざまな演技メッソッドをこれまた驚異的に我がモノにしていきます。

妖精パックは、ホント、良いですね。

本人は、それ以降も、ダンスはやったことない、体を音楽に合わせるだけ、なんて言ってますが、ヘタなダンスよりよっぽど難しい、体をリズムに合わせるという“技”を身に着けているみたいです。

その後の狼少女役や、もちろん紅天女を演じる上でも必要不可欠な技量なので、おそらく美内先生としてもこの妖精パックをマヤに演じさせることは必要不可欠だったことでしょう。

それに輪をかけて、周りの反応のすこぶる良いこと。

一地域の野外公演という設定ではあっても、大手メディアもこぞって取材に訪れ、徐々にマヤの女優復帰の足掛かりを、また着実に描いていく美内先生の手腕には本当に脱帽です。

それでもって、なんといってもこの時期は、マヤと真澄氏の関係も、ある意味安定期なのであります。

単なる毒舌の応酬が安定期って(笑)

でも、なんかこう、ほほえましく見れる感じが、この期間の安定路線?をとても彩っているんですよね。

これ以降、マヤと真澄氏の関係が、これもある意味ふり幅の大きい展開になってしまい、もう二度とそれまでの毒突き安定期?な場面が見られなくなり、読者としても落ち着かなくなってしまうのであります。

 

さて、この時期の見どころとしては、やっぱりマヤの、新たな挑戦による結果としての演技における成長なのですが。

とにかく何度でも言いますが、その演技を読者は直に見ることは叶わないのであります。

パントマイム一つとっても、どれほどのレベルをマヤは身に着けているのか。

……おそらくですよ。

いままで人類が目にしたパントマイムの中でも最高峰、いや、それ以上のレベルかも知れず。

あとパックの演技を身に着ける訓練の一つでボールを投げつけられる、というのがありますね。

あれ読んでいてワタクシ、パックを演じられるようになるのと同時に、草野球レベルの選手としても、マヤって十分に通用するんじゃないかと(笑)

「地球一巡りがパックにはたったの40分」と言ってオーベロン王から立ち去る下り、一応マンガでは美内先生が言葉で説明されていますが、読者にはそのイメージ情景の描写はやはり不可能です(-_-;)

 

そんなマヤの演技?ですが、珍しく、そんな彼女の演技を比較対象かつ読者目線で楽しませてくれる場面がやってきます。

そう、「二人の王女」のオーディションです。

ワタクシ、メインの「二人の王女」における亜弓さんとのバトルより、その前段階に当たるオーデションの方が好きです(笑)。

なんといってもうれしいのは、マヤが女優として、その時点でどれだけのものを身に着けているのか、また女優界の中におけるヒエラルキーがどれほどのものかを結構具体的に知ることが出来るのであります。

このオーディション場面の中における“キモ”となる事柄は、役者のエンターテイメント性、ということですが。

とかく役者に限らず、表現者というものは、周りを差し置いてでも自分が注目を得たい、ということであらかた合っている、と思います。

 

ワタクシ、昔、趣味で音楽イベントを催していたことがありまして。

コチラとしては趣味であっても、出てもらうバンドやアーチストは、レベルはそれ相応に高い人たちではありました。

中にはメジャーを少しかじった人もいましたし。

でもその大半はプロとしてやっていけませんでした。

その理由として、それなりに経験を培った?自分みたいなのが言いますと。

もちろん運というのもあるのかもしれません。

でもそれ以上に、というかそれ以前に、自分の曲でもって、演奏でもって、周りに楽しんでもらおう、という発想がない人が大半なのです。

そういう発想がある人とない人では、もう曲作りの段階で歴然と違ってしまうように感じます。

ステージも独りよがりが多かったですね。

昔のフォークシンガーの中には演奏時間よりMCの時間が長いとか、よく聞きますが、要するに人気があるということは、それだけ周りのファンの動向に寄り添っている表れでもあり、それがちゃんとハマっているならばMCの方が長くなってしまっても何も問題はない、ということで。

例え、技量が人をそれなりに魅了するレベルであっても、演者・アーチスト側の動機が自己満足の域を出ないと、やはりその人気は続かない、という。

自分の好きなことをやって、それが周りにも受け入れてもらえれば本望ですが、なかなか難しいのであります。

 

ということで、マヤの、オーデションではあっても、そこにおける審査員を楽しませようとする発想は、普通の “感覚”の人には持ちえない、そんな余裕はない、という点で、とても説得力があるのです。

オーデションの後半、とめどなく圧倒的にマヤの“千の仮面”が発揮されますが、もちろんそれまでの演技力が裏打ちされてはいるものの、その秘めた心の中にある根っからのエンターテイメント性が、他の演技者を大いに突き放した勝因なのです。

しかしまあ、最後の審査で失恋レストランを歌った雪村さんに不思議と同感するのは、ワタクシだけではないはず(苦笑)

 

 

 

 

マヤと亜弓さんの才能の違い

 

 

こんな、勝手にガラかめについて語りつくそうと思っている人間にとって、なんといってもマヤと亜弓さんの才能をトクトクと分析することは、とっても筆舌に尽くしがたいものであります。ではいきましょうか(笑)

個人的に、もう結論から述べると、マヤと亜弓さんとの実力、それから兼ねそろえている才能に、実はそれほど差はないのでは、と思っています。

二人とも互いを。

恐ろしい子、こわい子、わたしはただの一度もあなたに勝ったことはないわ、それがどんなにみじめなことかあなたにわかって……?

ああ、あの人には勝てない、どうしても勝てない……!

(亜弓さんが紅天女を演ることになってしまったら)わたしは正気でいられるかしら。

そんなセリフの応酬の中、ときたまマヤは。

実力では……負けないつもりです。そうよ!負けないわ!

亜弓さんは。

負けたくないわ、あの子にはどんなことがあっても。

いいこと、あなたは必ず私と紅天女を競うのよ!

……まあ、ぶっちゃけていえば、ガラかめ全巻通して、この物語は、このセリフの応酬だけで成り立つという(笑)

 

マヤと亜弓さんの違いは、全読者も解りきっている通り、互いの出自とそれにまつわる環境です。

後は彼女たちに備わっている才能と、それを自覚する上に置いての情熱はほぼ互角(細かいことを付け加えるならマヤにとっての紫のバラの人が出現以降、経済的にも互角)ではないかと踏んでいます。

先にある程度、女優として大成した亜弓さんが一歩リードする形なのでどうしても亜弓さんの方が上から目線?なのですが、それを踏まえて亜弓さんの優れたところは、マヤの才能を初期の段階で月影先生と同等ぐらいのレベルで見抜いていることで。

それはどういうことかというならば、やはり将来、亜弓さんが紅天女を演じる資質を兼ね備えているに他ならない、というワケです。

ザックリな検証であれば、大体の人が、マヤは天才、よって演じようとする対象の本質(心)になりきることは出来る、対する亜弓さんは努力の人、そして演じる上でのスキル(バレエや日舞)はそれだけをとってもプロ並みのレベル、といった感じで論評するものと思われます、が、しかし。

亜弓さんもわりかし随所で天才、とあがめられています。

対してマヤも天才ではあってもそれに技量が追い付いていない場合、これまた随所で涙ぐましい努力の場面を目撃します。

要するに二人とも天才だし努力家です(笑)

月影先生も紅天女候補の二人に対してそれぞれ天才、という言葉を投げかけています。

そして、この物語はどうしても北島マヤを主人公としている関係上、亜弓さんよりもマヤにスポットを当てる場面が多いし、そもそもストーリーが、ある種のサクセス的なものを纏ってしまうため、やはり中途半端?に、恵まれた環境に置かれている亜弓さんよりもマヤの方に分があり。

そのためかどうかはわからないけれども、どうしてもマヤは、他はなんのとりえもない、でも演劇に対する才能はとてつもないものが亜弓さんよりもある、というようなミスリードに読者は陥るのではないでしょうかね。

そういえばもう一つ、二人の違いを挙げるならば、やっぱり性格でしょうね。

マヤが天然ということは、うすうすわかっていたことですが、比較的物語も後半、紅天女の里での二人の修行で、思いっ切り、それが露になりました。

具体的なことはここでは差し控えましょう。

とにかく亜弓さんはマメでしっかり者、マヤはとてつもなくだらしがない……。

まあ、それも出自から来る、または環境の違いからくるものかもしれませんが。

その辺は美内先生にとっても二人が競う上での条件ではなさそうで、御愛嬌です(笑)

 

そんな二人のライバル心を初期から何気に暖かく見守っているのが亜弓さんの御両親であります。

そんな両親の元で育ったからこその、亜弓さんの一途で気高い性格。

本当に良いですね。

そんな亜弓さん、構図としてはマヤにいつまでも追っかけられるような立場だから、一段とマヤを意識するあまり、必要以上に自身のコンプレックスに苛まれているようです。

もともと亜弓さんのアイデンティティーは、親の七光からの異常なまでの脱却ですから。

マヤという存在を意識し始めてからの亜弓さんは、ヘタすると身も心もマヤになりたがっているとしか思えない感じです。

でもね亜弓さん、冷静になりましょうよ。

そもそもの“育ち”から自分を切り離せない以上、自らの出自は素直に受け入れるべきではないでしょうかね。

マヤはどんなに難儀な役どころであってもワクワクしちゃう、という天然ぶりは、確かに亜弓さんにとっては羨ましいものなのかもしれませんが、それは誰が見ても才能ではなく性格の違い、いやデリカシーの問題かも。

フランス料理店でカレーライス大盛って注文するのは嫌でしょう(笑)

やっぱりクイーンメリーをこよなく愛し、恋愛(まあ今後はどうなるのでしょう)なんて演技の邪魔、といったツンデレ感こそが亜弓さんの真骨頂であります。

とにかくそんな違いはあれども、マヤと亜弓さんは互いが類まれな才能を持ち、それでもって人一倍の情熱も宿しているのだから、どちらがどうではない、ただただ互角なのです。

 

せっかくなのでマヤの才能と思われる憑依について、もう少し。

もう初期からマヤはその劇の役になりきる、という場面を目にします。

そしてそれがどんな感じなのかと言えば、身も心もそれになりきっているあまり、観客もそれが演技に見えない、と錯覚するほどです。

でもそこは舞台、あくまでも舞台限定でその役に憑依することが出来るという、なんとも都合のいい?才能であります。

もしそこが舞台ではない、現実社会であっても別人になりきることが出来るとしたら、そんな特殊能力を介して、某宗教の教祖……やめときましょう(-_-;)。

例えばプロファイリング捜査などはどうでしょうか?

なんて妄想はさておき。

 

ある昔の政治家さん曰く、男は誰でもヤクザのようなゴロツキを演じられ、女は誰でも娼婦を演じられる、との名言?を宣わっておられました。

それが本当かどうかはわかりません(自分が演れと言われて出来るとはとりあえず思えないし)。

でも、ヤクザにしろ娼婦にしろ、その生きざまがもしかして人間の根源的なもの?であると仮定した場合、誤解を恐れずにいえば、経験しないでも唯一理解できるカテゴリーになるのかもしれません。

それと同様に、人間にはいろいろな面があります。

才能においても、例えばIQの高い人の心象風景は凡人にはどのように見えるのだろう、その逆もしかり。

ワタクシ、測ったことはないけれど、まあ、そんなにIQは高くないと思われますが、それでも今までの経験から踏まえると、IQが高いからと言って、では、その人があらゆる面において頭がいいかというならば、案外そうでもないと。

これはワタクシ自身の究極的持論ですが、本当に頭が良いという人は、現在の世の中にいないと思っています。

そして将来そういう人が出てきたとしましょう。

そんな人が出てきたとき、世の中はどうなるか。

この世の中から“戦争”というものが一切無くなる、と思っています。

なんてね(相変わらずの戯言です、ごめんなさい)。

 

話を戻すと、現実的にマヤの憑依は、出来たとしてもその人物像はとても限定的なものに過ぎず、それは今後も女優をやるにあたりあらゆる人生経験を踏んでいく中で、より多様の人生を演じられるようになっていく、のかもしれませんが。

この【ガラスの仮面】という、紅天女を演じるまでにおけるエピソードの数々は、マヤの憑依という能力を凄まじく過大評価していると思われます。

これは先にも述べましたが、自分たち読者は、直にマヤ(と亜弓さん)の演技を観ることは出来ないから。

そして亜弓さんも、憑依に関してはマヤに劣っている、それを類まれな技術でカバーしている、ということなのでしょうが。

そんな亜弓さんも中盤で憑依開眼?します。

それもまた、具体的に述べられないぐらい、とんでもないです。

まあ、それはそれとして、マヤから一歩遅れる形で亜弓さんも憑依というものを体験するわけです。

もうここまでくれば二人のやっていることはやっぱりファンタジーで現実的な計測が不可能、ということで。

これは裏を返すというか180度回ってやっぱり二人の才能は互角、ということではないでしょうか。

やっぱり賛否に湧いてしまうかなあ、あくまでも個人の見解、ということにしてもらっていいですかね。

 

 


 

いろいろな意味で物凄い、忘れられた荒野と狼少女

 

 

ファンタジーで現実的な計測が不可能、これこそがガラかめのストーリー展開の真骨頂、といった趣旨でワタクシ、いままで述べさせていただきました。

一見すれば、別に幽霊は出ないし宇宙人も出ない、超常現象も起こらない、と思わせておいて、とうてい人間業ではない事柄を演劇というカテゴリーの中において随所にちりばめらせているので、このガラかめ、本当はファンタジーホラーのカテゴリーです!   
……と、一人息巻いてもしょうがない(-_-;)

でも、何度も読んでいるはずの「忘れられた荒野」、最初のころは気付かなかったけれど、これ、あらゆる意味でファンタジーホラーを地で行くお話なのです。

今の自分が読むと、もう年季?が入ったからなのか、マヤが狼少女となって駆け回る姿を想像するにつけ、その手と足が、舌を出して吐く息の白さとその息遣いの擦れる音までも、何ならその生臭そうな匂いまでもが、もう狼そのものとでしか感じられなくなっています。

だから、ある場面で観客の隣の席にいきなり狼少女が居座ったシーンがあるけれど、本当にとんでもない、放送禁止ならぬ放画禁止場面です。

場面中、観客となる演劇協会理事の面々が放つセリフ、「これは本当に人間がやっているのかね?」

このセリフを嚙みしめた時、マヤの演技は狼少女を通り越してもう、狼そのもの、ということでしょう。

これをホラーといわずしてなんというのでしょう。

それから黒沼先生、マヤを発掘するきっかけがその前に演じた「二人の王女」の撮影ビデオの画面越しだったんですが、いわゆる絶世の美女を“演じた”マヤの演技力を見抜いた、ということで。

これもよくよく考えたらとんでもありません。

マヤが絶世の美女を“演じた”ということは、現実のマヤと、その彼女の演技による絶世の美女には大きな隔たりがあるということで。

その落差が即ち、マヤと狼少女(いやもうこの際、狼でよい気がしますが)との落差、ともいえるので。

マヤはあまり気付いていない様ですが、まあ、そういうことです(笑)

ここはどちらかといえば、黒沼先生に見る目があるということを前面に、あまり野暮なことは控えた方がよさそうです。

そんな黒沼先生、真澄氏にほだされて、豚もおだてりゃ木に登るごとく、演出における“恐ろしい子”現象を引き起こします。

これも初見の時は、そんなものかと見送ったけれど、よくよく考えてみたならば現実ではどう考えても不可能、いやここでもファンタジーホラーを醸し出しているのです。

おそらく「忘れられた荒野」のストーリーにおける基本原型は、悲哀と感動を社会風刺の中に見立てること、みたいです(三重苦ヘレンケラーに似てると思うのはワタクシだけ?)が。

セリフはそのままに、演技だけ変えるとあら不思議、コメディーになったりラブロマンス、はたまた悲劇になったり。

ハイ、これをもファンタジーホラーと言わずしてなんといいますか?

もう、マヤも黒沼先生も、人間業ではないことをやってのけるのですから、すなわち人間ではありません(笑)

人間ではないから亜弓さんの言うように?いとも簡単に??月影先生の指令から2年までに全日本……賞を獲得、晴れていよいよ亜弓さんと紅天女を競うという土俵に立てるのでした(^^)/

でも、このように分析?したものの、おそらくは全読者の方々にとっても、この展開への違和感は全く感じないことに、きっと異議はないでしょう。

これは、ファンタジーホラーをぶっこんでいるにも関わらず、読者には全くそのことを気付かせない?美内先生の手腕のたまものであります。

ついでにいうならば、おそらく昔の読者でガラかめと随分ご無沙汰されている諸氏にとっては、ともすると、マヤが紅天女を亜弓さんと競うことになる決定打となった演目は、その前の「二人の女王」じゃなかったっけ?とお思いの方もちらほらいるのでは。

なんとなくマヤが絶世の美女を演じたからこその紅天女のラウンド到達と思い込んでいたのは、最近まで、外ならぬワタクシだったもので(笑)

しかし、ここで紅天女とはほど遠い?狼少女を演じたからこその、マヤの演技における凄まじいまでのフトコロの深さを描かれたことで、逆に彼女の演劇に対する覚悟と才能をあらためて著される美内先生の手腕を、こちら読者はツッコミなどすることなく、ただただ身をゆだねればよいのであります(苦笑)

 

この項目、ちょっとしたオマケですが。

物語もここまでくると、マヤに多かれ少なかれ関わった俳優たちの実態が、まるでマヤの演技がリトマス試験紙のようにアラワになります。

円城寺まどかさん、女優としても人間としても、これからの成長は、あまり望めないと思われますが、いかがでしょう(-_-)

 

 

 

月影先生の生い立ち~この世に生きるということは

 

 

物語も比較的後半、月影先生の生い立ちについて深く描かれる場面があります。

これを初めて読んだ頃は、内容をそれなりに理解していたつもりだったけれど、まだまだワタクシ、全然子供だったと思います、まあ逆にそんな子供であってもそれなりに理解させる美内先生の手腕は大したものですが。

時を経て改めて読むと、この月影先生の回顧録、とても微細にわたって丁寧に描かれているものだ、と今更ながら気付かされます。

そして、こちらとしてもそれなりに世の中の如何ともしがたい現実に身につまされ、そして迫るものがあります。

その時代背景は、戦後、焼け野原から幼くして親を亡くした月影先生が、それはもう底辺の生活を余儀なくされるところから始まるわけでありますが。

こちらとしても現在、日本経済のいわゆる失われた30年を経験した一人として、形は違えども理不尽というものの普遍さを体感しているという意味で非常にリアルに描かれている、と感じます。

紅天女(その物語についてはまた後程)が尾崎一蓮の手によって生まれ、そして月影千草が演じるその邂逅は、美内先生が描かれるがごとく天地一切の万物がわたしと同じもの、というセリフそのもので。

それなのに。

そんな紅天女が一人の権力者(後の章にて後述しましょう)に喰いつくされんとする下り。

個人的に特に印象深く感じた場面は。

その権力者の策略により、沈みかけた月光座を何とか立て直さんと月影千草が奔走、幸い何人かの協力者、昔の仲間も集まり再び再起をかけて公演をするも客足は悪く、結果、盛り返すには至らず、また客演の役者たちと座員との間に何度も摩擦が生じ、それがもとで辞めていく者も頻発するという。

これらの場面は現代においても時を超えて恐ろしいぐらいにリアリティを感じます。

 

所詮、社会の営み全般に対し、人間というものは、なかなかマクロ視点に立つことが出来ない生き物のような気がします。

社会、ひいては国を良くするであろうという使命を帯びているはずの政治家でさえも、ご自身の出世と利権維持のことで精いっぱい。

いわんや一般人にとって、そのコミュニティ(近所の井戸端会議のレベルから、会社やもちろん月光座も含む)の発展や未来よりも、自分の稼ぎ、立場を安泰にすることばかりに目が行くという状況には悲しくもよく出くわすのであります。

そしてそんなちっぽけなものに固執するあまり権謀術数を弄する連中ばかり増えるとなれば、そのコミュニティのみならず、ゆくゆくは土台となる社会をも破壊することに繋がるという、本末転倒と言う地獄絵図を描くのであれば、そもそもの紅天女というテーマからの逸脱甚だしい皮肉を感じざるを得ず。

もうかなり人生の手あかにまみれた自分なんかは、ある意味鈍感になっていることもあるのだけれど。

それにしても国会で恥知らずな答弁に終始する議員連中を見るがごとく、身近なところにおいてもあからさまにフェアという概念がどんどん蝕まれていく、もう単なる自分の我欲を貫くためだけに他人を平気で蹴落とすことに何の躊躇もない連中がバッコする様を日常的に目にする現実、昔も今もそれがこの世の実相であるとするならば、そんな世の中は、いずれ変えていけるものなのでしょうか。

 

とりあえずこれは、月影千草という人生の物語であり、回顧録を通して今(紅天女の器となるマヤと亜弓さんを発掘したところ)、まさに本末転倒の地獄絵図たる現実に果敢に抗うがごとく、もしやこれが最後になるかもしれない力を振り絞ろうという場面までようやく来たのであります。

ワタクシは常々、マンガのみならずエンタメ全般の使命は、そんな現実に抗う石垣の一つ一つと思っております(そう思う人はもちろんワタクシだけではないと思います)。

尾崎一蓮はあんな“終わり方”でも確実にバトンを月影千草に渡された、ということで、未だにその戦いは続くのでしょうが、ガラかめに限っていうのであれば、その現実に抗う果ての希望である紅天女を後世にいつまでも語り継ぐ、という“結末”は決まっている以上、やはりそれにふさわしい演者は今のこの時、マヤか亜弓さんのどちらかなのでしょう。

あらためて、こんなお話を噛みしめられること自体、【ガラスの仮面】と出会って、本当にすごいし、良かったな、と思うわけでありますが……。

 


 

 

昨今の映像技術の進化と希望

 

 

ガラかめが連載され始めた当初である1970~80年代。

ワタクシなどがいまさら言うまでもなく、いわゆるアニメ全盛で。

当時の子供たちはこぞってアニメを観るためにテレビにくぎ付けになった、最初の世代であります。

他の国の事情はあまりわからないけれど、まあせいぜいディズニー(個人的にはトムとジェリーが好きだった)があり、いわゆる当時のアニメ技術も、その当時のものとしてある程度確立されたものだったと思います。

当たり前のことを今更ながら語りますが、やはり絵が動くわけですよね、アニメって。

その制作工程は、とても手間のかかる大変なものという認識を、当時の自分たち子供だって容易に感じ取っていたはずです。

そしてガラかめもそれなりに人気が出るようになって、アニメ化されます。

一回目の時(OPでマヤがレオタードで不思議な踊り?をやっている作品)は、連載の方もまだまだ途中だったからもちろん全話描き切れないし、そもそもワタクシ、全然観ていないに等しいです。

二回目のアニメ化は、おそらくワタクシをはじめ、それなりにガラかめファンを自任する人であれば皆、観たんではないですかね。

連載もほぼ終盤に差し掛かっているところへ持ってきて、アニメの方も紅天女の梅の谷あたりまでは描かれていたような。

とにかくそれももう、ヘタすると20年くらい前になってしまうという。

で、アニメの方は、今もネットで観れるようですが、ワタクシはもう観る気はないです。

また余談をブッコミますが。

2回目のアニメ化での亜弓さんの声優さんは、クレヨンしんちゃんをやっている人なんですよね。

下世話なワタクシとしましては、亜弓さんが演じるクレヨンしんちゃんをぜひ見てみたい!亜弓さんならきっと完璧なクレヨンしんちゃんを演じて見せますわ、なんて言い放ちそうで……失礼しました(^_^;)

 

最近のアニメ技術は、比較的そんな事情に疎い自分みたいな者から見ても、凄まじく素晴らしいと思っています。

それもここ近年、数少ないワタクシのアニメ経験からしても、まあ、まず『隣のトトロ』の衝撃は凄まじかった記憶があります。

それまでのテレビアニメに比べ、人間を含めたモノの動きに対する躍動感がとても新鮮に感じた、正に初期アニメ世代の最初の衝撃ではなかったか、と。

以降、ジブリ作品はその独自の活動画テイストを展開することで人気を不動のものとするわけです。

他にも2000年以降のディズニー作品としては『アナと雪の女王』『ズートピア』を筆頭に、すっかり3D技術を駆使する中で、物語の展開もまるで実写顔負けの演出や言い回しを取り入れ、サスペンス、コミカル等の表現における親和性も一級品。

まさに大人にとっても十二分に楽しめるレベルに昇華されたものが目白押しの昨今で。

日本においてもあの高畑勲氏による『かぐや姫』、片淵須直氏による『この世界の片隅に』。

これらは、また日本の今までの既存のアニメ表現からとてつもなく進化したものとして、アニメーション自体の地位の確立を、また一段と高く不動のものとしました。

そして最近観た中で衝撃を受けたのが『ザ・ファーストスラムダンク』。

もう観た人は、このアニメについてすでにあらゆるメディアで語られコメントも凄まじいので、自分もいちいちその感動を詳細に述べることはしませんが、それでも一言発するなら。

もう、アニメが実写を超えています。

このスラムダンクの映画化について一つ補足するなら、なんでも原作者自ら監修監督を行なったと。

そこに作品に対する説得力があるのはもちろんですが、その背景たる昨今の映像技術が初期アニメファンにとっても想像に及ばないような状況にいつのまにかなっていることにただただ驚嘆するものであります。

 

それに比べ、過去のガラかめアニメ作品は。

あの2作品とも、時期が時期とはいえ、本来の【ガラスの仮面】という物語を表現するにおいて、とてつもなく不十分であったのではないかと。

(拝見した当時はワタクシもそれなりに楽しんだし、なによりもその当時の制作に携わった方々にガラかめに対するある種の敬虔なる想いがあったればこそのアニメ作品、と、もちろん思っていますから、そのような作品を、図らずもいまさら貶すような主張になってしまうことは申し訳ありません。)

でも、だからこそ、もし今後、【ガラスの仮面】が再びアニメ化されるならば、ファンの期待は今までに増してそれは凄まじいものだろうし、とにかく生半可な想いで制作されることには誰もが納得しないでしょう。

そんな覚悟?のある方々に、なんとしてもアニメ化に挑戦していただきたい、との想い、これもワタクシだけではないはずです(ヒトゴトになってしまいごめんなさい)。

「舞台では本物の狼少女を見ているとしか思えなかった……!」

そしてマヤの演じる紅天女を目の当たりにして。

「これは精霊なんかの登場なんかじゃない……か、神の登場だぜ……。」

とのセリフに、それも一文一句、リアルに心底心酔することが出来るアニメーション作品に、はたしてワタクシ達ファンはお目にかかることができるのでしょうか。

 

 

 

 

湧き上がる、かつてない“醜い”感情

 

 

いまさら言うまでもないですが、人間には様々な面があります。

10人揃えば10人ともそれぞれ違う性格を持っている、なんて一見ありきたりな物言いなのですが、本当にそうでしょうか?

ただ短絡的に、あの人はああだこうだと決めつけることを、けっこう簡単にワタクシたちはしてしまうかもしれません。

10人揃えば違う性格、という場合、それは個々人の、あえて表面的に突出しているものなのでしょうか?

乙部のりえは最初は見た目のダサい、ちょっとデリカシーがなく馴れ馴れしい、でもまあ、そんなに悪い人ではない、といったキャラクターではなかったかと思います、最初は。

それが一皮めくれば、全くもってトンデモないサイコパス?というワケで。

乙部さんのあれは、どうなんでしょうね、要するに詐欺師のごとくのねこっかぶりなワケで、マヤ達が演技する場合における、役そのものになるのとは、ちょっと違和感が。

その人の心の底を覗いた場合、その表面的な行動と乖離することがあるとして、そこにその人の本質を見誤るなんてことも、普段の実生活においてもありがちとは思います。

そういうことをわきまえていないと、悪いケースでいうならば、人を舐めるとか馬鹿にするといった感じの人がいますが、そういう人ほど足元をすくわれるのではないでしょうか。

手負いの獣ほど怖いものはない。

子供を平気で虐待する親がいたとして、いずれその子供が大人になる、そして自分自身が老いることを想像しないものでしょうか。

とにかく人間同士の付き合いにおいて、表面的に見える部分のみでその人の人柄を決めつけることは、とても浅はかに思います。

だから、とりあえず?関わる全ての人に、基本、敬意を表したいものです。

 

さて亜弓さん、彼女がついに絶望の淵に立たされんとする場面がやってきます。

彼女の良さは、どこまでも自分に正直であるがゆえにマヤの存在に苦悩し、そして常にそれに打ち勝つ努力をする、そのフェア精神です。

が、ついに、もう歯が立たない。

自分の努力など、マヤの才能(それはどうやら紅天女そのものになる、ということらしいのですが)の前ではどうにも歯が立たない。

で、そこで諦めるという感情以上に、あるシュチュエーションがきっかけで、ついに亜弓さんの中に、マヤへの殺意が芽生えます。

そのシュチュエーションさえ起らなければ、亜弓さんの中に、まあ、マヤが憎いという感情はしょうがないとしても、殺意までは芽生えなかったことでしょう。

ついでに速水真澄氏も、義父である英介氏の存在が、結局のところ、彼本来の優しいであろう人間性の中から、ある種の露悪的感情が引き出されたとの解釈が出来ます。

ただ彼の場合、その感情でもって紅天女をどうしたいのか、義父・英介氏をどうしたいのか、さらにマヤとの関係も、ある意味ぐちゃぐちゃで、頭の中がどうにかなってし まいそうな感情が、マヤの登場以来ずっと苛まれている状態であるので、このガラかめ、マヤと亜弓さんの決着以上に、真澄氏の露悪的感情の結末に終止符を打つことこそが、この物語の一大テーマだったりして。

 

というわけで、絶望感に引きずり込むその時々のシュチュエーションは、人それぞれではありますが、一たびそれが引き起こされたら最後、人が人でなくなってしまうという、いわば感情のブラックホールに陥ることになります。

ああ、人間はかくも弱いもの。

それでも、とにかく亜弓さんの良いところは、そんな醜い、実は亜弓さん自身が役者としての風上にも置けない、要は乙部のりえレベルだったという現実(笑)に愕然とし、でもそれを潔く、本当に潔く認めて再び立ち上がるところなのです……!

だからある意味、マヤより亜弓さんの方が抜きん出ていますよね、なんといっても亜弓さんに対してマヤは、殺意という感情はないだろうから(軽く流してもらえると幸いです)。

とにもかくにも真面目な話、人はもし、なんらかの絶望の淵に立たされるようなことになった場合、湧き上がる“その”感情を、亜弓さんのように昇華出来るものなのでしょうか?

ガラかめファンとしては、そこにも希望を持ちたい、と思うのでありますが。

これも人間としての大事なテーマの一つ、なのでした。

……また月影先生とは違うモノの見方をしてしまったかな。

 

 

 

 

長い年月での作風の変化~シンデレラか、自力で勝ち取るか

 

 

最近、ラジオのCM(クリエイティブ系)で面白いものがありました。

あの桃太郎の話を、今の編集者が見直したら、どういう感じになるか。

昔々、おじいさんとおばあさんが……。

おじいさん、を先に持ってきたら男尊女卑を疑われるから(順不同)を付け加えて。

SDGS的に洗剤は使っていません、も付け加えて、とか。

かくして今風の桃太郎話は。

昔々、おじいさんとおばあさん(順不同)がいて、洗剤は使わずに洗濯をしていたおばあさんは、ある日、川から桃が流れてそれを拾い上げたとたん、「窃盗だろ!」非難され……元のお話しからとてもかけ離れたモノになりましたとさ(ACジャパンとの合作)。

 

でも、これはガラかめにおいては至極当然、受け入れられています。

第一巻、当時、少女マンガは女の子が読むもの、という偏見が未だ拭えず、本当は自分みたいな男の子が手を出すにはまだちょっと憚れていた時代。

みそっかすのマヤが演劇にあこがれ、やがて、マヤにとって今後多大な影響を及ぼしていくであろう、月影先生や速水真澄氏との出会い。

その頃のタッチは、あきらかに少女マンガのそれでありました。

それが物語も紅天女の試演を控える最終段階において、印象あるシーンとして代表的なものを。

速水英介氏と真澄氏が、紅天女の里より下界へ戻って改めてマヤと亜弓さんの力量を鋭く語り合う場面、「北島マヤを潰せ」と言う英介氏。

はい、もうゴルゴ13(ちょっと違うか)。

要は、もう少女マンガのテイストからすでにかけ離れているのです。

 

これは解釈が難しいのですが、かつて美内先生は、少女マンガという以前に、確か子供が読んでも理解出来るものを描くとおっしゃっていたと思われますが、何十年も続けていくにつれ、最初はすらすら読めたものが、だんだん理解がおぼつかなくなってくるという、いや、お話が面白くないということではなく、どうしても物語の進行上、複雑にならざる負えないのは必定で。

例えるなら、桃太郎のお話が途中からエクソシストになるみたいな、やっぱりこれも違うか(笑)

 

まあ、最近は本当にそんなマンガやら映画が大頭してきていて、驚かないということもありますが、過去、他に10年程のスパンで続いたマンガとしては、個人的に大ファンの、吉田秋生先生『バナナフィッシュ』、皆川亮二先生『スプリガン』などは、後半、微妙に作画が同人物でも変化はしたものの、それぞれのテーマは違えど、作風は一貫していて、まあ、それが当たり前と言われればそうなんですが。

それがガラかめは、もう50年も続いてしまったおかげで、当初の少年少女(順不同)が、ヘタするともう初老に足を突っ込んだおじさんおばさん(これも順不同)となってしまったがために、その同じ読者に寄り添う?作品として、かくも作風まで変わってしまった、という。

でも美内先生、気にしなくていいと思います。

以前、ワタクシの姪っ子(当時5歳)が映画『名探偵コナン 業火の向日葵』を観たいというので連れていったのです。

一緒に観てビックリ。

アニメとはいえストーリーがとても複雑。こちらも結構、理解できなかった個所が多々あったので、これは彼女もつまらなかっただろう、と思いきや、感想を聞いてみると「うん、面白かった」(笑)

とにかく子供さんは、ガラかめに関しては、その時々において、何度でも読めばいいのです。

 

そんな【ガラスの仮面】、マヤ自身においても作風、というか、人物像においての大胆な違いが見て取れます(個人的にそう分析している、というか)。

物語最初のマヤは、演劇が異常に好きな女の子といっても、ツラはよくない、なんのとりえもない、繰り返しますがみそっかす(byマヤの母)。

なによりも自分に自信のない子(というよりも自分の才能に全く気付いていない子)として描かれています。

これは誤解と偏見を承知で語るのであれば、いつか王子様が、という、いったって受け身のシンデレラ像として描かれ、まさにそれこそが当時の70年代の少女マンガの典型?と思うのであります。

それがこのガラかめ、もう初期段階でマヤの脱皮が図られます。

劇団つきかげへの入団場面にて、月影先生とマヤが激しくやり取りをする中で、ついに「女優になります!」との決意表明をしてヘタヘタと崩れ落ちる。

その瞬間にマヤの命は能動的な一人の女性に切り替わるのです。

あらためて語りますが、ワタクシも含め、ガラかめは非常に男のファンも多いと思います。

その訳の一つ、そしてかなり大きい理由としては、この当時の少女マンガには珍しく、女性自身が、自分自身の力でなんでも叶えていこうとする、その能動的な描かれ方がとてつもなく現実味を帯びていることではないでしょうか。

そして、さらにここに亜弓さんを登場させ、マヤは再び自信を失い?でも才能は独り歩きして亜弓さんを凌駕するという、なんともアンビバレントな状態の彼女で何十巻、数十年費やし、ついに梅の谷での亜弓さんとの文字通りのケンカによって「絶対に亜弓さんなんかに負けないから!」との啖呵にて、ようやくマヤは、亜弓さんと、能動的な女性という意味でも互角となります。

ああ、マヤ達の時間軸では数年か(^_^;)

 

かくして、ここ最近は女性作家が描こうが男性作家が描こうが、マンガそれ自体が面白ければ良い、という時代がやっと到来、したのでしょう。

それはそれで、とてもよいことと思います……なんて自分みたいなのがそう言っていいのかわかりませんが(~_~)

 ガラかめは、とにかくそのカテゴリーにおいても、作風が流動的、いや、老若男女の壁を取っ払って図らずも大衆マンガとしての地位を確立せしめたことが今更ながら画期的、ということなのでした。

 

 

 

 

 

出会いやきっかけに運命的、はない?

 

 

多くの物語は、それはそれは運命的出会いがオンパレードです。

それは尺の都合か、予算の都合か、技術の限界、という都合か。

ガラかめに限って言うならば、だいたい横浜で月影先生とマヤが出会うとか。

マヤと亜弓さんが同い年ということも……後々、文字通りケンカをしたあとのワッハッハ、とはなりません。

どっちかが死にます(笑)

ところで桜小路くん、マヤとはもう初期からの付き合いで紅天女でもマヤの相方をやる実力なのに、なぜにパッとしない?

とにかくマヤにおける、その女優人生を歩む上での出会いのおぜん立てが半端ありません。

彼女のレベルに応じて原田菊子先生、一角獣、黒沼先生、乙部のりえ(笑)

とにかく敵でさえも、マヤの成長や飛躍に、ここぞというタイミングで出会います。

かくしてこれは、物語を愛してやまないワタクシたちの現実にもあてはまることでしょうか。

 

思えばワタクシ個人を振り返ってみた時、運命的な事柄はことごとくその後の未来につながることはありませんでした。

恋愛なんてその最もたるものでしょう。

勘違いの恋を何度したことか(笑)

だからそんなものは個人的にはあまり信じていないのですが、そこはひとそれぞれ。

究極的にいえば、人が人として生まれること自体が運命的で。

どういう環境で生きるのか、また自分自身が持ち合わせているもの(容姿や性格、才能)とか。

草木は生まれて根を生やし、枯れるまでそこに居続けるけれども、割と自分たちもそんな感じかもしれません。

今のところ、宇宙には行けないし、過去にも遡れない、未来にもいけない。

人間は、他の生き物と違って万能、と思われているかもだけれど、鳥のようには飛べないし、魚のように泳げないし、フクロウやコウモリのように闇を見ることは出来ないし、で、部分においては劣っている。

マヤが今まで辿ってきた演技メッソッドに想いを馳せるとついそんなことばかり考えてしまいます(笑)

 

それでもガラかめを読む中で、たまに思います。

特に劇中劇における、マヤの判断に、運命的なものについての何たるかを自分たち読者に悟らせているような気がしてならないことを。

最初の最初、学芸会にお母さんが来なかったからこその、その感情に支配されてのマヤの演技。

全てはそこから始まっています。

ある時は停電になっても狼少女の演技を辞めず、ついには紅天女の里での演技にて、ただ純粋に紅天女としての演技に徹しようとしたマヤに、とうとう紅天女たる梅の樹と一体になる瞬間が訪れました。

これすなわち、マヤのいつまでもひたむきな情熱でブレずに数々の演技に打ち込んでいったからこその、役の体得という“運命的”出会いをモノに出来た、ということではないのでしょうか。

ここまで述べてみて。

ただただ余韻が……(~_~)

 

どうせこの世に生まれ出でたなら、それぞれの場面にて結果にはとらわれず、情熱をかけられるものであるならばそれに十二分に抗うがごとく、真剣に取り組んでいく中に、もしかすれば運命的出会いも実感できるものとのメッセージ、しかと受け取り。

また、なにかしら頑張ってみようという気になれるのが、とても良いです。

数あるマンガといえども、このような、劇中劇にこそ運命論を語らせるという構造的手法は、美内先生の手腕のたまもの、絶句です。

だから。

くどいですが、マヤがもともと住み込みしていた中華屋さんの近くに月影先生の屋敷があったという安易?な設定、そもそも北島マヤの“北島”が、たまたま執筆中にラジオでかかっていた北島三郎から、これでいいやと命名したことも、ファンは大いに納得出来るのではありませんか(突っ込むのに疲れた、ともいえますが)。

 

 

 

マヤへの投資は正しいか

 

 

ファンの皆様は、ガラかめが非常にツッコミどころの多いマンガ、との認識でもあられると思います。

そんな事柄も20選ぐらい(笑)かいつまんで取り上げようと思ったのですが、さすがにヤボ(まあこのテキスト自体がヤボですが)の上塗りで炎上に拍車がかかると思われますので、それは止めることにします。

あの永井豪先生の『ゲッターロボ』だって、ゲッター1、2、3、同じ3機の変則合体にも関わらず、それぞれの重量が違うのです。
※当時の子供雑誌のゲッターロボ特集の図解表記に拠ります、たしか。

でもまあ、いいじゃないですか(~_~)。

 

ただ、ガラかめに関し、この物語の最大のツッコミどころを一つだけ挙げるとすれば。

そう、紫のバラの存在です。

マヤは月影先生と出会い、速水真澄氏(紫のバラの人)との出会いもあって演劇の世界に思う存分飛び込むわけですが。

視点を変えると、月影先生、マヤというダイヤの原石を見つけたものの、彼女を経済面で援助していくことに関しては全くの想定外であられたのではないかと。

恐れながら月影先生の経済力では、マヤを養うどころか、劇団つきかげの他のメンバーにさえも声をかけておきながら、道半ば、路頭に迷わせていたことでしょう、速水真澄氏が存在していなければ。

結局、マヤは真澄氏のおかげで生活面だけでなく高校にも進学でき、また数々の舞台で壁にぶち当たった時、特に経済面での悩みは全て彼が“紫のバラの人”としてマヤに助力しまくるという。

ついでに麗たち、つきかげのメンバーも、「真夏の夜の夢」の実績を買われ大都芸能がお買い上げ。

マヤが、経済面であらゆる援助を謎の人物?からされているという現状を、月影先生は、まるで平然と受け入れている感じですが、もしその人物が速水真澄氏と判れば、月 影先生、きっと卒倒しますよね。

まあ、速水真澄氏からしてみれば、演劇に対し、とんでもない情熱を秘めた少女と遭遇してしまったことにより、彼の人生で初めてファンとなる存在を素直に受け入れた、というだけのこと。

そんな人間が、たまたま財力も持ち合わせていたので、その後の彼の、マヤに対する役割は、一種の投資ですね。

 

ただ、速水真澄という人間がいままで冷血仕事虫としてしてきた投資とマヤへの投資の違いは。

いわゆるデイトレーダーのごとく、この株が上がりそうだといって大枚をハタくのと違い、どこそこのラーメン店が好きだからお店に押しかけよう、ついでにそこの株も買って優待を受けよう、という感じ(笑)。

実際、真澄氏はマヤ本人からことごとくチケット(優待?)を受け取っていますしね。

だから真澄氏は、マヤへの足長おじさん“紫のバラの人”となって以降は、今までの敏腕トレーダーから、真逆の人となってしまった、ともいえますね。

これは彼の立場上、やっぱり非常に問題なのですね。

昔から、いわゆるヤクザ、もしくは真澄氏のような、そつなく物事をこなす冷徹非人間?が、恋でも愛でも、とにかく人間性に目覚めてまっとう??になる過程で、でもその道のりは不安定で不条理が覆い被さるがゆえに道半ば息絶える、というパターン、そんなドラマはもう星の数ほどあるのですが。

そもそも人間は“人間的”なものを追い求めてやまない、ということでもあるのでしょうか。

そんな真澄氏も例にもれず、マヤと出会ってしまったばっかりに、きわめて結果が未知数と思われるマヤへの投資にのめり込むことになって。

魅力はあっても結果は未知数、という投資は、やがてだんだん自制が効かなくなるようですね。

最初は良かったのです。

「奇跡の人」の成功や劇団つきかげが窮地に追いやられてもマヤが高校に進学できたことは全て紫のバラの人の援助、結果マヤは女優としての成長を着実に遂げていくことになります。

多くの才能を埋れさせたくない、という真澄氏のセリフは、それがそのままマヤへの投資行動につながるのですが、それも徐々に規模が大きくなっていきます。

一人の女の子を学校へ通わせるというのは、一芸能プロダクションでもありそうな話ではありますが、「忘れられた荒野」ではその会場となるボロ演芸場を全改築してしまいます。

結果、それがマヤの紅天女候補への資格に繋がった、ということで、ここまではとてつもない大金をはたいてもリターンがあったわけですね。

ここでまたマヤの視点へ戻しますと。

マヤはとにかく通常モードは単なる自身のない女の子。

そんな彼女があらゆる壁や逆境に苛まれる時、もし紫のバラの人の存在がなければ、文字通り世間に埋もれ忘れられていく存在となったわけですが、紫のバラの励ましを感じられた時のマヤは勇気百倍、もうどんなことにも怖気ない、へこたれない、諦めないという3拍子(というか同じ意味?)でもってその都度、奇跡を起こします。

これこそが、実は投資という醍醐味の、本来の意味なのかもしれませんね。

いわゆる人間の力を信じる、というやつです。

こういうものに出会えた人間は、その物語がたとえ道半ばで終わろうとも、幸せなのかもしれません。

現実はきっと出会えない人がほとんど。

疑心暗鬼で陥り、日々の無味な生活に追われて行く(生前のマヤのお母さんか?)うちに、本来の人間に持ち合わせているであろう情熱を見分ける嗅覚、またそういったものを持ち合わせている人間との出会いにも気付かず、その一生を終えるのであるなら、速水真澄氏の不器用な生き方も、それはそれで羨ましいのかもしれません。

 

ガラかめも最終段階は、真澄氏にとっても壮絶です。

マヤへの投資(それは彼の人間性を取り戻す戦いでもあるのか)に傾倒するあまり、まあ、義父の教育の影響かもしれませんが、彼の最大の欠点とも言える優柔不断な態度がこの物語にさらなる渦を巻き起こします。

詩織さんといい、鷹通グループとの関わりといい、ヘタすれば真澄氏の命にもかかわる話になってきました。

とまあ、どんな結末になろうとも、真澄氏にとって、マヤとの出会いに気付けたことはとても幸せであったのだけれど。

とにもかくにも、読者目線では、この落としどころや、如何に。

 

 

 

マヤは実際、美人なの?

 

 

姫川亜弓さんは、この物語では一応、物凄い美人さんとして描かれています。

そんな亜弓さんが、とにかくマヤに嫉妬しまくります。

下世話な言い方になりますが、マヤが演技の天才ではあっても容姿がことごとくイケていない場合は、やっぱりそれほど嫉妬に狂うことはないのでは、とワタクシは考えます。

マヤに対する評価で、普段は目立たない、とか、自信なさげで上目遣いで人のことを見る(真澄氏は別)、それでもって卑屈、といったモノ言いは、よく考えたら容姿ではなく、彼女の普段の性格についてのものなので。

そして、物語当初から、彼女が意外とモテる?ことからも、男心をくすぐる容姿であることは想像に難くありません、と。

 

では実際にマヤはどんな容姿なのか。

ガラかめが実写化や舞台化した時、安達祐実さん、大和田美帆さん(実際ワタクシ、観に行きました)はじめ、数々の女優さんがマヤを演じたのですが、どうもしっくりきていないと感じるのはワタクシだけではないはず(いやいや、そんなことは超ヤボ、という前提でお話を進めます)。

みなさん、とにかくまぎれもない美人さんですから。

おっと、大竹しのぶさんの舞台を観ていないのにそんなことをいっぱしに語るのは、ファン失格か。

でもその時のお相手、桜小路優の役は別所哲也さんですからね。

ワタクシ、彼のラジオ番組のヘビーリスナーとして、どうしても桜小路優の役どころ、別所さんがやるなんて想像できません、彼がイイ男過ぎて(~_~)。

 

やっとお茶を濁せたところで本題です。

実はここ近年、韓国のドラマや映画にハマっているワタクシ、この女優さんならマヤの容姿そのものといっても間違いない、という方々を目にすることになります。

そう、複数。

ずばり、キムダミ、キムゴウン、パクソダム、以上全員、目が一重です(笑)

でも素晴らしい女の子たち、女優さんです。

おそらく韓国でも、彼女たちは見た目ではそれほど美人とは思われていないはず(ホントごめんなさい)。

それが彼女たち、一たび映画等で役を得た瞬間、その輝き方が半端ないのです。

キムダミは言わずと知れた『梨泰院クラス』における茶髪のクリエーター。

個人的にはその前に演じた『the witch魔女』、遺伝子操作されまくりの人間兵器としての非情な役どころに打ちのめされました(先の項でも述べましたが、観ていない方は是非!)。

キムゴウンは『その怪物』で、まさにマヤでいうところの“ビビ役”を怪演、『トッケビ』ではヒースクリフを想うキャサリン顔負けの演技、『ユミの細胞』は通り雨の佐藤ひろみ、ちょっと違うかな(^_^;)。

パクソダムは『パラサイト』で、世の中を冷め切った目で俯瞰する娘役でブレイク、『パーフェクトドライバー』等、この女優さんは脱北者で陰のある役どころがお得意、という(^_^;)

今ざっと挙げさせていただいた映画やドラマは、ワタクシが、というよりは、すでに韓国エンタメに通じている方々にとっては周知のことと思いますので、いまさら感はあります、が。

もしご覧になっていない方がいらっしゃるのでしたら、あらためて、ぜひ観ていただけるとよいかと思います。

そして、そんな女優さんたちをもってしても、紅天女そのものに関しては、やっぱり想像の範疇にもない、という点で、マヤの人物像に正確に迫れることはないのであります。

でも、少なくともそのリアリティーの追求ということにおいては、マヤの容姿を思い浮かべる上で、先の韓国女優お三方はワタクシにとってしっくりくるところでございます。

さて、キムゴウンが上目遣いで梅の里で泣き出したりなんかしたら、きっと亜弓さんはムカつきます(笑)

あらためて、あのケンカ、良いですよね。

互いのライバル同士、ついに腹の中まで分かち合うことが出来て。

現実はそうはいきません、マヤの容姿が心底残念であるのであれば、もうかなり早い段階で亜弓さんに一方的にケチョンケチョンにされておしまい。

割と亜弓さん、そういったキャラだと思いますけどね。

その辺もみなさん、どう思いますか(というか、相変わらずこちらの主観全開の話をチョイチョイ突っ込む形にしてしまって、ごめんなさい)。

 

 

 

 

紅天女①~その世界観

 

 

いよいよ劇中劇「紅天女」について語ってみたいと思います。

といっても、そのストーリー自体を語るということはいたしません。

まだ読んでいない方は、ホント、ぜひ読んでみてほしいですね。

紅天女の里にて、マヤと亜弓さんの試演(この物語の、最後の対決)を前に、月影先生が、ご自身にとっても最後となる、紅天女を演じる下りで初めてその詳細が語られます。

 

既に何度も読まれているファンの方々であれば十分承知されていると思われますが、日本史でいうところの鎌倉時代、特に南北朝時代に焦点を当てて、それをベースに仕立てたファンタジーと思われます。

個人的にあまり歴史に詳しくない自分みたいな者がいうのもナンですが、この時代の背景に、衆生の荒廃により飢饉、疫病が流行るという、いわゆる末法思想が幅を利かせているようで、興味深いです。

要するに神も仏もあるものか、というやつです。

国乱れる原因は、南北朝という、二つに国が別れたことによるのですが、現在のこの地球に生きる自分たちは、紅天女のお話を当てはめたなら、二つどころではない数多くの国が点在し、互いが私利私欲を貪り相争っている、ということになります。

石森章太郎先生の『サイボーグ009』は、そのメンバーが多国籍で構成されたコスモポリタン・チームであり、その目的も、国境のない世界の構築、であることから、おそらく人間の考える平和というものは、復活の日にしろアルマゲドンにしろ(なんか古いものしか思いつかない)最終的にはそこそこ普遍性を帯びたものなのでしょう。

さて、この南北朝という時代背景をベースにした紅天女ですが、神・仏という、人間が信じ奉ってきた対象物に対し、その神と仏との対立、はたまた神が人間を愛することによる代償(神が神たる力を失うこと)が述べられていることを想う時、外来扱いとなるであろう、ユダヤ・キリスト教的な思想まで網羅されている事にも注目に値します。

そしてこういったテーマを扱う物語は、古今東西、とてもたくさん作られているのではないでしょうか。

 

人間の悲哀、それにまつわる感動も、結局は生死、そして愛憎を基として語る中の、それ以上でも以下でもない、ということであります。

劇中の楠木氏のセリフのように、おそらく大半の人間は、「こんなわしだ、どうせロクな死に方はすまい、死んだとてどうせ地獄へ落ちるのだろう」と思っています(笑)

皆、子供の時分は学校で歴史を習う時、どうもきれいごとばかりが多くて。

でも、本来の人間の歴史は、国と国が相争い、虐殺惨殺は当たり前、常に弱小国は理不尽な扱いを受け、弱い人間は奴隷に成り下がり、昔に比べたら多少文明が発達した現代においても、それは形を変え品を変え存在しているのではないでしょうか。

また、人間は信じるということに対しても、同じく劇中劇にある通り、実はとても懐疑的であります。

これはとても当たり前で、でも大事なことですが、人間はどんなに思いを巡らそうにも、また証明を試みようにも、死んだ後のことは誰にもわからないのです。

まれに死後の世界を見た、なんて人が出てきて皆を驚かせますが。

でもその内容、前章でも述べましたが、ある意味とても説得力を感じるものがあったとしても、所詮は第三者に証明が出来ません。

ちなみに死後の世界は素晴らしい、などと言った人がいたとしましょうか。

でも、それは、どのくらいの素晴らしさなのでしょうか。

また、見た目で素晴らしいと思える人、モノを見たところで、その本性・本質はなんとやら、であります。

 

月影先生が愛した尾崎一蓮は、そんな死後の世界をどう思っていたかは定かではありませんが、とにかく現世において、紅天女という彼の御霊を月影千草に託してこの世を去ります。

人間が出来ることは、所詮ここまでです。

死後がどんな世界であるかは皆それぞれが想像力を働かせて考えればいいことでしょうが、とにかく未だ混沌としたこの世界で、自分が何を残せるかを考えることは、案外有意義だと思うのですが、どうでしょう。

 

かつての毛沢東や金正日、プーチンのウクライナ進攻等、なにせ自分がよかれと思ってやったことが、実はさらに世の中に悲劇を巻き起こす、といった事もある以上、今後の世界の発展のための、多大な力を持つ人の寄与増進は、よくよく考えないとえらい目を見ると思われます。

権力も地位もない、世の中の爪痕を残すとはいっても、おそらくは微々たるものしか残せない自分たちとしては、そんなささやかなものだからこそ、よくよく考えて生きる必要があるのではないか、そんなことも、紅天女~【ガラスの仮面】を読み進める中で、結構、思ったりします。

そしてクライマックスに当たる、仏師一真と紅天女(これを神と仏の対立、と置き換えた表現をされていますが、本当のところはどうなのでしょう)、互いが愛するものとしての対決が促されるシーン、ここは未来の紅天女の表現者たちに託されることになります、が。

ガラかめとしては、マヤと亜弓さん側の“最後の戦い”にて、それが明らかになると思われるワケですが、現代を生きる自分たちにとっても、それはとてつもなく大きなテーマです。

かつて手塚治虫先生の『火の鳥』でも同じようなシュチュエーションがありましたが、それよりもより深く掘り下げた感じがします。

なにせ戦争というものは、昔も今も、それぞれがその地に根差した愛着を持った文化や宗教による争い、といっても過言ではないのです。

その戦いにおいて、本来、愛をもってお互いを尊ばなければいけない存在が相争う、その最終的な落としどころは何なのか、というところまで行き着かなければならないのであれば。

今現在、誰しもがわかりきっているであろう、核という最悪な兵器がこの世の中に存在している以上、その対極にあたる“希望”とはなんなのか。

ここは大変興味をそそられるところであります。

紅天女の後日談として、それも源蔵さんの語り部によって描かれますが、それを読む自分たちは、その“希望”を、未だ形として見ることは出来ないにしても、十分にその想いを馳せることが出来るという点で、本当にただ唸るしかありません、が。

……これってもしかして、美内先生に必要以上にハードルを上げてしまうことになったりして(^_^;)

 

 

 

 

紅天女②~演者たち・関係者、それぞれの想い

 

 

紅天女の劇中劇としてのお話を読み進めるうちに、一つ個人的に大きな疑問が膨らんでいます。

あのゲジゲジ(一時、マヤが速水真澄氏をそう呼んでいた)の御大将、月影先生の宿敵たる大都芸能会長の速水英介氏は、紅天女の物語そのものを本当に理解しているのか?という点です。

紅天女を一言で言うのは難しいです。

でも、ある意味、思想信条としても速水英介氏のような超俗物男の考えと対局に当たる紅天女を、彼自身が生涯執念を持って上演権を手にしたい、と思うことがちょっと解せません。

内容はわからなくっても、その演技、また紅天女の美貌に対しての、単に表面的な価値で自らの執念を燃やしたのでしょうか。

あるいは当時のロングランヒットを目の当たりにしたことでの、単に金になるとの発想での執着でしょうか。

いずれにしても、尾崎一蓮を死に追いやったその手口、また月影先生の、あの英介氏に対する態度から察するに、紅天女の大テーマである愛・生死というものにまるで理解を示せる器ではないのではないか。

要は、ゲジゲジの御大将に、『この世界の片隅に』を観せても理解できないんじゃないかな(笑)

 

もう一つ似たような疑問として、オンディーヌの小野寺さん、この人も大丈夫ですか?

演出家としての技量は、まあ、昔からの登場人物として名を連ねていますので成り行き上、ということかもしれませんが、その時々において顔を出す心根は決してよいものではありません。

その後、亜弓さんが、心底シャレにならないアクシデントに見舞われることになりますが、そんな亜弓さんの心情を慮ることはない様子が小野寺氏のセリフにより、なんとなく察せられます。

ヘタすると試演直前になって彼自身がしり込みする可能性だってありそうです。

そんな亜弓さん、もし、試演を前にして変なトラブルが巻き起こってしまったなら。

それを救うのは姫川監督、そうです、亜弓さんの御父上!

映画監督である御父上が舞台演出を、それも急遽やることになるなんて、とんでもなくありえない筋立てではありますが、そこはそれ、巷を賑わす超話題の紅天女ですからね。

御父上もそれとなく亜弓さんのことは存分に気にかけているはずです。

そして仕事柄、紅天女の演出プランについても、歌子お母さまからそれとなく聞き出していたに違いありません。

そうして小野寺氏が行方をくらましたことにより(もうそれ前提で勝手にワタクシ、お話を進めていますが)晴れて名乗りを上げます。

そうです、紅天女の試演をかけた戦いは、マヤと姫川ファミリーとの一騎打ち……!

(すみません、さすがに妄想が過ぎました)

 

さて、肝心のマヤと亜弓さん、このお二人、こんな人類普遍のテーマ?をひっさげたお話、たとえそれまで経験してきた演技の数々を体得しているとはいえ、まだ20歳そこそこ(ですよね)で演じるのは時期尚早、のような気もします。

でも、案外、そんな彼女たちがこれから演じることに対しての違和感なるものを、不思議と感じさせないのは、その時間軸が彼女たちではなく、読者たるワタクシたちの方に拠っているからだと思います。

すなわち、連載から50年近く。

こちらの精神的成熟度?に合わせた形でのシンパシーが、マヤや亜弓さんたちにとっての6、7年に凝縮しているのです。

単行本50巻は、おそらく紅天女の試演、そして怒涛の最終回に向かうことになると思われますが、とにかく49巻終わりから次に描かれる試演、すなわち“最後の戦い”まで、実に一週間とないのです。

彼女たちにとっての一週間が、こちらにとっての10年以上。

 相対性理論も真っ青という。

 

【ガラスの仮面】は、そういう点でも、やはり凄まじいファンタジー大作ですね(~_~)

ついでに一真役の桜小路優くんについても。

かつて開慶先生に弟子入りしていた桜小路くん、梅ノ木が紅天女としての姿を現したい、という切実たる叫びを聞くことが出来た時、ただただその姿を掘り起こすことが、一真の紅天女との対決、というのであるのならば、おそらくこれは、桜小路くんのみならず、無論、魂のかたわれとなるマヤとの演技の呼吸も壮絶なものになるのでありましょう。

まさにマヤは、全身全霊で桜小路くんの演技を受け止めなければならないことでしょう。

そして、その狂演なる芝居をしかと見届けることになる速水真澄氏の今後は。

いやまあ、まだいつになるかわかりませんが……楽しみになってきました!

そして赤目先生、いろいろ大変?でしょうが、あなた様も頑張ってください(^_^;)

 

 

 

 

紅天女③~科学と宗教のはざまで、そして愛とは

 

 

紅天女について語っていくうちにだんだんノってきたので、もう少しお付き合いの程を(~_~)

この劇中劇は、先ほどから述べているように、舞台は日本の南北朝をベースにしたものと思われますが、一真のセリフの断片により、その意味をあらためて考察したいと思うのです。

すなわち、無情にも山に葬られる死者たちのことを想い、仏像で人は救えぬと言いながらも仏を彫る一真のセリフ、「坊主が読む経で人は救われるか?生きている人間が聞いてわからぬものを死者がわかると思うか?」。

これは当時の日本に生きる、正に衆生の代弁と思われます。

同じく、生と死の意味を激しく揺さぶりながらワタクシたちに問うた近年の名作、諌山創先生の『進撃の巨人』で、リヴァイのもとへ集った調査兵団、そのたぐいまれな戦闘能力を有した者たちであっても、その最期は見るも無残に散るという。

「私は……人類の役に立てた……でしょうか?」との言葉を残して死にゆく調査兵団たち。

死んでどこへ行くだとかどうなるかではなく、まさに現世での自分の存在の有無を見定めることこそが、生きることへの究極の意味と言わんばかりのセリフです。

 

現実の時代では、その後の戦国時代に突入、ますます衆生が、その生を受けて死と直面せざるを負えない時代を生きる中、ところを変えて西洋では、かのガリレオが地動説を提唱、よってキリスト教による弾圧を受けることになるのですが、それは同時に、洋の東西を問わず、それまでの人間によって培われた諸宗教が、その矛盾に満ちた実態が公になっていくことで衰退し、やがて科学・唯物的信仰にとって代わる、正に分岐点、と思われるものであります。

そう、まさに一真のセリフは、そんな宗教と現実の拮抗を言い表しているように思えてなりません。

そして、紅天女である阿古夜(神)と一真(仏)による、そんな分岐点における戦い、これこそが紅天女の真骨頂なのでありましょう。

神と仏の戦い、さて神とは何ぞや、仏とは?

一応、劇中劇に乗っ取って解釈するならば、神とは、いわゆる日本神話を基にする神となりますから、火水風土、地球上のあらゆるものに神が宿ることになるのですが、そう考えると仏も神が作ったものになってしまう?

そんな神と仏が戦う??

いえいえ、これは実はあり得る話です。

日本の某有名企業が作り出した子会社が、いずれ大きくなり親会社を凌ぐまでになるという光景は、いくつか目撃されていますが……いや、そういうことではないな(笑)

 

ここに、戦う、ということについての考察も加えていきたいと思います。

これを考えるに当たり、真澄氏の本来の情動というものに想いを巡らしてみましょう。

すなわちそれは、端的に言うなれば、夜空の星を眺める、です。

そこには、現実世界で己の身に縛られるあまり、戦いを余儀なくされている彼が、また、マヤを“紫のバラの人”として支え続ける、そうせざるを得ない彼が、星空を見ることによって、その意識が、魂が、一時でも、まるで天に揺蕩うことによって得られるような安らぎを得て、やがて現実に引き戻され、そしてまた戦い続ける、という。

そこには、実は無意識なれど、人類の役に立つ、などという仰々しいことは思わないでしょうが、少なくとも彼なりの生きる意味を問いただしているに違いありません。

俗に戦う、とはいっても、神と仏の、愛のある?戦いは、自分たちのような、未だに南北朝、戦国時代が続いていると思われるような現代、そんな中に生きる、ただただ未熟な人間たちの想像では、とうていその意味の理解が追いつかないかもしれません。

しかし、それでも生きるということにおいて、もし何らかの希望を見出したいと思うのであるならば、本来の神が、愚かな人間を今は捨て置く神が、その中から人々の安寧を願う“人間”が出現した時、正にその者と神が一体になることで生まれる、それこそが正に仏、ということなのでありましょう。

そこには本来の神の役割である無償、また無限の利を施し、また本来の人間の姿である感謝の心に反映し、そこに生きとし生きるものがまた無になって健やかに夜空の星となる、そんなローテーションが生死を経ながら、宇宙のさらなる糧となるのではないか。

 

……なんかだんだん自分も言うことが神掛かってきました(笑)

あくまでも個人の見解なのであしからず(-_-;)

 

さて、マヤ達の時間軸では、月影先生が最後の紅天女を演じてから数週間、そして自分たち現代を生きる者においては、遥か南北朝時代から数百年、未だ神と仏の“戦い”を見ることはありません。

現代は、まさに科学、唯物信仰が諸手を挙げて大頭している時代。

古来の信仰は、今では自分たちにとって、いわゆる墓檀家、あるいは形骸化した冠婚葬祭なる行事として、申し訳ない程度で存在しているに過ぎないのではないでしょうか。

皮肉にも、現在自分たちが標榜している、古くからあるとされている宗教は、そのほとんどが南北朝時代の前後に派生の目を見たモノばかり。

とにかく現代は、科学、唯物至上主義で、また、神の恩恵たるあらゆる資源を、我が物顔で喰い尽くしきる、その一歩手前へ到達してしまったかの様です。

 

そこへ来て、万能と思われている科学も、どうやら陰りを帯びてきました。

最近、個人的に知って興味深かったのは、ダーウィニズムの限界。

地球が誕生して数十億年、そこから生命が生まれて現在の人間の進化に至る時間が、ダーウィンの進化論では地球年齢以上の期間が必要になるという謎。

これは論理的(数学的)にも証明出来ないものが存在してしまうという証明、ゲーテルの“不完全性定理”に繋がっている一つ、という気がします。

また現在は、原子、素粒子などが解明されつつありますが、その量子論に拠るのであれば、この世に正しい物差しは存在しないという概念を決定づけたハイゼンベルクの“不確定性原理”、すなわち神(ここではユダヤ、キリスト教)の否定にも繋がる証明が、不覚?にも人類の手によって既になされてしまっているのです。

ということで、いたるところで今の人間にとっての常識と思われてきた科学(唯物信仰)の最先端も、どうやら限界に近づいている、ということかもしれず。

 

宗教も手詰まり、そして科学も手詰まり。

でも、冷静によく考えてみれば、それは当たり前な話なのかも、です。

繰り返しますが、未だに人は(もちろん命あるもの全てが)死んで、どうなってしまうのか、解らない。

 

でも、真澄氏は夜空を見上げます。

なぜかわからないけれど、そこには不思議な安堵、そしてなにかしらの希望が見て取れるのですよね。

神と仏の戦い(取り合えず便宜上、戦い、とします)は、そんな、些末な存在でしかない人間が、現実にぶち当たり、かといって祈ることもできない状況に追い込まれた時、まるで機が熟するがごとく行われる営み、と思われます。

戦いのことを営み、という表現はなんか変ですが(笑)

そしてその戦いが終わった後、世に仏が降り立ちます。

それは単に出現したということではなく、阿古夜と一真の、命を懸けた営みの末、ついに見出した愛の祈願により出現した仏の振る舞いにより、それまでの愚かな衆生たちをも同じ願いを持つに至らしめた、いわば人類規模での、より一段と高い頂きを見せるまでになった、ということなのでしょうか。

それは未だ現実の世には出現せず。

南北朝の時代よりもはるかに高度な文明を謳歌しているにもかかわらず、未だ人類同士が相争う世の中。

 

やはり紅天女が演劇界の幻の名作と謳われる所以は、阿古夜と一真の、その一途な恋の演技が、それがそのまま、いままで人類が見ることのない浄土の出現として、それもリアルに垣間見せたからなのではないでしょうか。

……そんな阿古夜と一真の、魂のかたわれ同士の戦い、というか、究極の愛の営み(こう表現するとちょっとエロくなりますね)、これが試演とはいえ、とうとう次の50巻で観ることが出来る、のでしょうか?

 

 

 

今後を占う、それぞれの思惑

 

 

49巻、最後のページで真澄氏の、とうとう覚悟に覚悟を重ねたうえでの、あの澄み切った横顔と、マヤがとうとう紫のバラの人として、速水真澄氏と対面できると告げられるところで話は終わりました(一応、別冊花とゆめではその続きが連載されているようですが、あいにくワタクシはそれは目にしていません)。

しかし最終段階で、かくも印象に残る人物は、ワタクシ個人としましては、あの速水英介氏のとことんな俗物さ加減ですね。

真澄氏は、詩織さんのことといい、紅天女上演権に対する大都芸能代表という立場といい、あらゆる問題が彼に襲い掛かろうとしている今、あえてその責任を全て放棄しようとしているのか?

それは本来の、人としてどうなのか、というツッコミはあるのですが、ある意味、真澄氏が養父に尽くし切っていた立場から反転、とてつもない、傍から見てもとんでもない“人でなし”になることは、実は英介氏に対し十二分な復讐にはなるのでしょうね。

もちろんそれは、真澄氏にとっても未来のある人生とは、なりえない。

それを見越したうえでの「おれはおれの人生を生きる……!」なのでしょうか?

しかしつくづく優柔不断な男です(笑)

美内先生は、真澄氏をそんな男にしてしまったがために、水城さんや聖さんのようなキャラが、それも二人がかりで登場させたのではないかと、いまでは勘繰っている次第です。

 

そしてマヤも、確実にそんな真澄氏の動向にモロに影響を受けた形で、紅天女の試演に臨むことでしょう。

こちら、あらためて一ファン読者として頭がこんがらがりますが、そんなマヤが、勝手ではありますがそんな二人の関係に振り回されていることに気付いてしまった桜小路クン扮する一真を、全身全霊で受け止めるワケです。

 

そして亜弓さん。

同じく試演を前にして、こちらも、とてつもないアクシデントに見舞われたわけですが、この49巻でかろうじてそれらを克服してきたようであります。

そして図らずも(美内先生は図っているのですが)この一件?で、ハミル氏と急接近。

どうもハミル氏は、登場当初は、取って付けた感のように亜弓さんにまとわりついていましたが、ここへきてすんなり、ヘタすると亜弓さんにとっての、かけがえのない人へと格上げされるのでしょうか?

また、お母さまの歌子さん、悲観から一転、母親であることを忘れるかのように、それこそ文字通りの全身全霊で亜弓さんの特訓に付き合います。

いや、真の母親だからこそ、その母親という立場を捨てる、ということなのでしょうか?

そんな母親の愛?を前にして、亜弓さんは、本当に親の七光から脱却できるのでしょうか?

 

さてさて、そんな二人を見守るであろう、月影先生。

とりあえずお元気に過ごされているようですが、たしかいつぞやの医者による診断では、命もあと持って半年、といっていたはず。

そんなご自身のことは尻目に、マヤに、もしかするとこれが最後かと思われるような絶妙なアドバイス。

ようやくこれでたどり着いたわけです。

おそらくもう、月影先生の今生での役目は終えられたことでしょう。

命を持って、また紅天女がよみがえる。

人類の役に立てるということは……とても幸せなことです。

 

……しかし、実は詩織さんの動向にも目が離せません。

普段は体がとても弱く、気も塞ぎがちですが、ここぞという場面での行動力がすさまじい(笑)

紅天女の試演にて、特にマヤ(黒沼組)たちの実演中に、もしなんらかの不穏な動きが起こるとするならば、確実にそれは詩織さんの仕業になると思われます。

その時、マヤは?

阿弓さんは?

桜小路クンは?

月影先生は?

そして真澄氏は?

ついでに乙部のりえは?(^_^;)

 

ファンの皆さんが今後を占うおぜん立て、不肖ワタクシがさせていただきました。

無論そのことで、いろいろな想像を膨らませているファンの方たちは、それは沢山いらっしゃることでしょう。

その結末が、もしかすると美内先生のお眼鏡にかなうことになるかもしれないし、ならないかもしれない。

でも、結末は決まっています。

この【ガラスの仮面】は、どのような終わり方になろうとも、後世にきっと、語り継がれます。

そのためにも人類はいつの日か、きっと紅梅がいつまでも枯れない世を謳歌する、そんな時代を迎えることになるのではないでしょうか。

 

 


 

マヤから学ぶ、才能というものの正しいあり方

 

 

最終段階が見えてきたであろうタイミングで、休載がこれだけ長く続いてしまっている未完のマンガ【ガラスの仮面】。

この長い連載の歴史を語るにおいて、それぞれのファンの方々にとっても想い入れの場面は沢山あることでしょう。

いままで本当に好き勝手に述べさせていただいた、このワタクシ個人としましても、その想い入れのある場面を最後の最後にトドメ刺しで語らせていただきます。

 

それはズバリ、というか、やはり、二人の王女、そのオーデションです!!

それ、いままでも随所で触れてるやん、というツッコミは置いといて(-_-)とにかくあのシーンは、この長いガラかめ物語の一大テーマの象徴として、その趣旨たるものをここで存分に表現したものであるとワタクシ、思っております。

もちろんお話としても、とてつもなく面白い流れになっていますしね、読み応え抜群。

さあ、そのテーマとは何なのか。

一言で言うなら、それはマヤの才能とは何なのか、ということです。

 

話はまたまた飛ぶんですが、皆さんはこの日本の国の政治というものを、どう思いますか?

別に何かの偏ったイデオロギー論を求めているわけではありません。

それ以前の問題として、例えばここ近年の歴代の総理大臣に就いた人たち(政党は問いません)の中には、あの三権分立を明らかに理解していないと思われるご発言を、選挙演説や国会の予算委員会でやらかす、また、過去の国の災害有事の際、自衛隊の最高指揮監督権を有していることを知らなかったり。

要は、日本の内閣総理大臣という立場の基本を知らずに、その職に就くという。

日本という国は、そんな政治の世界のみならず、けっこう、物事の基本を弁えずに成り立っている組織、団体が、もしかするとけっこう多いのではないか、とワタクシ、思っております。

今の日本は、総理大臣を選ぶのは厳密には、直接、日本国民ではないけれど、ぶっちゃけ、誰がなってもいいから(笑)総裁選に出るような人に対しては、せめて総理大臣に必要不可欠な知識を学び、なんなら試験のようなものを施して、それに通過しなければ総裁選に出ることは出来ない、といった感じのシステムを構築してもらいたいと思っているのであります。

高校や大学の裏口入学でそれが明るみになった場合、それは個人レベルのバッシング程度で済みますが、日本政界の息のかかった総理大臣で、そんな「ごっこ遊び」をやられた場合は、その損害は全国民にまで被ることになるので(-_-)

 

かたや芸能の世界では、ダンスや歌、曲の演奏ならば確実にその技術や能力が、素人目?でもわかりやすいので、その資格たる判別はたやすいと思われますが。

それでは演劇界はどうなんでしょう。

それについてはワタクシなんかよりも皆さんの方が圧倒的に詳しいと思われるので、でも控えめにズラズラと語りましょう(^_^;)

そしてまたまた韓国(好きなんですね)を引き合いに出します。

エンタメにおいて、現に世界を席巻していると思われる韓国芸能界、例えば一ドラマや映画のオーデションにしても、そこへ応募する人は、最低、何かしらの演劇専門の学校なり教育機関での学びを経ていなければ応募資格を満たさない、らしいです。

かたや日本の芸能界は、どうなんでしょう……。

その実体はワタクシ、あまりよくは知りません。

大都芸能がカネに任せて売り出し中の、でも演劇においてはシロウトな新人を、そのドラマの主役に押し込む、また旧態依然のこれまた金にモノを言わせる大御所作家、脚本家等が存在している、なんてことが実際にあるのかどうか、そんな噂レベルのことでしたらあまり声を大にして言うことではないでしょう。

もちろん、そんなことがあろうがなかろうが、日本にも才能があって優秀な俳優さんが要ることは無論承知であります。

でも、それを全体としてのレベルで観た時、各種動画配信サービスの、それもレビューやら五つ星、そして何よりもその話題のなり方が、一般大衆へ一目瞭然に、それも万全たる評価として映るわけです。

ガラかめ劇中劇「忘れられた荒野」では、思いっきりシロウト役者を起用してはいるという例外はありますが、そこはそれ、黒沼先生の脚本マジックということで、それを突き詰めていくならば例外も例外でなくなります。

であるからして、そんな演劇論もちゃんと戦わせるならば、ストーリーはもちろん、脚本そして演者、それらが三位一体としてそれぞれの技術がかみ合ってこその、世間にとって通用するエンタメとなるのではないでしょうか、はい、エラそうな物言いはここまでにします(~_~)

 

そんな日本演劇界の現実?に産み落とされたといえる(想定される)北島マヤ。

「二人の王女」のオーデションでは、マヤと一緒になって挑む俳優たちは、推薦された各劇団はえぬきの実力ある役者。

対してマヤも負けてはいません、月影先生のスパルタともいえる指導にいままで耐え(実はそれでもう、日本の一流演劇学校を首席で卒業したようなものだったりして)、そして失脚したとはいえ、一時は華やかな芸能界で一角をあらわすまでの存在になった実力を兼ね備えているのですから。

そのオーデションの結果たるや如何に。

結論は、マヤがもちろんそのオーディションに合格、晴れて役をつかみ取るのですが、ここではその結果よりも過程が大事なのです。

最初、その戦々恐々とした雰囲気に、いちおう天然(笑)のマヤは一瞬、たじろ……くことなく、同じ参加者の一人、江川ルリにのんきに語り掛けます。

とにもかくにもそんな場であったオーディション、最後の最後は、マヤの才能に接したことで、負けてしまった俳優たちが、負けてしまったとはいえ、皆、笑顔なのです。

もちろんマヤが、どんな才能をブチかまして?オーディションを勝ち取ったかというところも見どころなのですが、凡人たる自分みたいな人間にとっては、マヤに打ち負かされた俳優たちの心の機微こそが、このテーマの肝と思っています。

すなわち、その負けた俳優たちは、マヤの演技に触れて幸せになるのです。

草加みどりも江川ルリも雪村みちるも。

では、なぜ負けた彼女たちは、笑顔になれたのでしょう?

それは負けたとはいえ、すなわちマヤにその才能が及ばなかったとはいえ、本来の彼女たちの心根が、その自分たちの才能の有り方を信じているからに他ならないからでしょう。

そして彼女たちの未来は、マヤとは違った才能を、いずれ、またそれぞれが発揮し、花開かせる。

マヤの才能は、そんな彼女たちの今後の未来を後押しすることが出来るのです。

マヤの才能は、観るものに、それぞれにおいての、それまでの偏狭な価値観に囚われていた感覚から一変、自身にとっての本来あるべきとされる希望を抱かせることが出来るのです。

ONE先生のキョーレツ漫画『モブサイコ100』にて、超能力を有しているのにその才能で悩む?中二病の茂夫(しげお)は、自称霊能力者(要するに詐欺師)の師匠から「そんなものはたんなる特徴の一つに過ぎない。魅力の本質は人間味だ。いいヤツになれ!」と言われ、超能力を“個性”として受け入れて前向きに生きていくために、詐欺の片棒を担ぎます(笑)

要するに、超能力よりも“いいヤツ”であることに価値を見出すことで、茂夫も自分が変われる本当の術を見出すことになります。

まあ、マヤの場合は、元々なんのとりえもないみそっかす、であり、そんな彼女が自身の演劇の才能に気付き、そしてそれを磨き続けることでどんどん成長していく姿を見せていくことこそが、この【ガラスの仮面】という物語そのものでありますから、そんな成長を通して変わり続けるのは、実はマヤだけではなく、その周りの、そうそう、麗やさやかたち、劇団一角獣の面々、そして今までマヤの演技に触れ、対して自身の演技を通し、その人間性をあらためて見つめなおす者たちすべて、と思うのであります。

 

今、現実の世の中は、なにぶん後ろ向きなことが多いです。

日本という国に住むワタクシたちは、一応、戦後80年近くも、いわゆる戦争というものを体験せずに済んでいますが、今でも地球のどこかしらで、国同士の争いごとや内紛は絶えません。

皆が皆、それぞれの才能を、自分のためにしかつかわない「内向き」のベクトルで突き進んだ場合、そのなれの果てが、互いに疑心暗鬼に蝕まれ、いつまでたっても平和を築けない社会、とした場合、それを目の当たりにして、あまりにもワタクシたちは日々無力を感じるということこそが、今の現実に巻き起こる不幸の原因なのかもしれません。

でも、だからこそ、そもそもの人間の才能、というものを考える時、それは内向きではなく外、まずは身近な人間、そして社会へと“いいヤツ”となって発揮し続けることが本来の幸せと信じたいものです。

それをマヤは身をもって?教えてくれているように思います。

最近は、あまり具体的に言わない方がいいのでしょうか?性的マイノリティだの、障がい者だの、それでなくとも自分たちは、数えきれないぐらいのコンプレックスを容易く見出しては、絶えず絶望の淵に立つことが得意?です。

そして、ともするとそれらをあしざまに罵り、偏見を持ち、差別する輩も出没します。

政治家、世論、時にそれが身近な知人、友人、そして親であったり。

そんな変わらない人間たちを変えられるほどの力は、まだまだ自分たちに擁しているとは思えないのでありますが。

それでも、まずは、皆、それぞれの人に備わっているものと信じたい究極の才能、こんな自分自身にも生かせるものがあることに気付き、そしてそれを信じて育んでいくこと、すなわち自分の才能と「外向き」の成長をセットでしっかりイメージし続けられれば、きっとマヤと同じく、苦しみの中にも次第に手に手を取り合い、ライバルでも仲間でもいい、そんな自分にとってのかけがえのない人たちが、きっと、夢を携えて集ってくることになるのではないでしょうか。

 

最期に、マヤの成長とは?

それは紅天女の試演を前にして、もう答えは出ていますね。

単行本47巻、真澄氏に向かってのセリフです。

「あたし、早く大人になりますから……速水さん……!あたしのこと待ってて……!」

 

さあ、なんなら、また折に触れ、【ガラスの仮面】を読み返してみましょうか。

 

 



おわりに

 

 

これを執筆中に、YMOの高橋幸宏さんがお亡くなりになりました。

いつも突然、ガラかめ話から関係ない方向に逸れるのが、ホントに恐縮ですが。

実はワタクシ、中学時代に、マヤがテレビに夢中になるような感じでYMOに接していました。

当時のYMOの熱狂的ファンは、男女の関係なく、そうですね……全国の小中学校の、それも一クラスに一人、二人はいるみたいな感じではなかったか、と思います。

そんなブームも手伝い、とにかくワタクシ自身も熱狂的なファンでした。

そんな熱狂さ加減が、マヤと同じく、やはり家族に迷惑をかけまくりました。

家にあるステレオコンポを独占し、YMOのライブ番組がラジオで放送されると聞くやいなや、それをカセットテープで録音(エアチェック)するために、万全の態勢で臨みました。

それが、家族での食事やテレビの団らんにいつも重なり、それらをそっちのけでステレオ操作に没頭するため、いつも母やオヤジを怒らせました(笑)

今、すっかり大人になって思えば、ホントに子供だよな、と思いますし、もちろん逆の立場ならば、ワタクシもいい加減にしろ、と、当時の中二病のワタクシに怒ります。

それはそれとして。

高橋幸宏さん(YMO)にも、美内すずえ先生にも、その影響を存分に受けたワタクシ、

音楽とマンガ、ジャンルは違えど、同じ時代の空気を吸われ、価値ある作品を生み出し、そして次世代へ影響を与え続ける、そんなこっぱずかしいテンプレ表現(笑)が、でも、とてもしっくりくるお二人なんですよね。

 

その後の学業、また就いた数々の仕事(それはもちろん数々も失敗も込みで)、そして交友関係のバックボーンに、多かれ少なかれ、必ずそんな先人たちの影響が見え隠れしていたことに、今はとても感謝を覚えます。

そしてまた、自分たちの後に続く世代がいずれ大頭します。

そんな彼らもまた、自分たちには理解し難い?物事に、実は熱中し、周りの大人を困らせ続けます。

ワタクシ達もまた、過去、自分たちが辿った道であるのにも関わらず、そんな彼らに理解を示すことはないのか?

 

詩織さんは、その育てられ方が、ある意味かわいそう、という典型ですね。

祖父である鷹通グループ総裁は、まあ、そんなに悪い人ではない(あくまでも詩織さんにとって)と思われますが、男女としての違いからか、結局、カネで全て解決できるとの勘違いからか、とにかく彼女との関りは甘やかす一辺倒であったと。

甘やかすというのは一見、酷くはない感じだけれど、本当の意味での愛情を注ぐということがどういうことかを、おそらく舐めていたがために、取り返しがつかなくなったのでしょう。

真澄氏も、ある意味かわいそうです。

権力闘争に明け暮れる典型の速水英介氏に育てられ、というか、彼の後継者として立派に大都芸能の発展に寄与している真澄氏の存在そのものが、英介氏の世間的評価をさらに押し上げているということで、結局、真澄氏は、そんな英介氏の野望のコマの一つに過ぎないという悲しい現実。

ただ救いは、彼がある程度物心ついた上で英介氏の野望を悟り、あえて大人としてそれに乗っかっている、ということでしょうか。

義父である英介氏そのものの象徴である、紅天女の上映権。

そこに執念を燃やすことが、そのまま彼の原動力の全てであったのに。

そこへ、あのマヤが真澄氏の前に投入されることが、そのまま【ガラスの仮面】という物語でもあります。

桜小路クンの母上様は、ちょっと世間体に終始するきらいはありますが……まあ、いいんじゃないでしょうか(笑)

マヤは、ザ・昭和、という感じの娘そのものですね。

母親の春さんは、いつも叱ってばかり。

ワタクシの、当時の母親と同じ(-_-;)

そして、ごくフツーの母親であるがために、子供がもし大それたことを喚くのであれば、全く馬鹿なことばかり言って、となります。

ワタクシ、学生当時はバンドに熱中、同じ年ごろの連中とそんな活動にのめり込むようになると、自分のところだけではなく、どこの家の親も、ホントにいい顔はしなかった記憶があります。

そう、どこの家でも、です。

で、そんな子供が、なにかひょんなことで周りから何かしらの評価を受けることになったら、最初は反対していたことでも一転、物凄い喜び方をするし、近所の知人には全然黙っていられない、はしゃぎよう(笑)

こちらとしては終始うっとうしいのでありますが、でも憎めません。

願わくば、春さんのような後悔をすることなく、もっと早い段階でマヤに理解を示せるようになれたらいいなあ、と。

そして、ホント、亜弓さんはいいですよね。

両親とも芸能の世界に足を踏み入れていて、いわゆる典型的な田園調布族?という感じ。

そしてピアノ、日本舞踊等、あらゆる芸事を小さい時から習わされている感じですが、実はご両親は、それほど強制はしていない感じです。

どちらかと言えば、亜弓さんの生まれながらの自立心が、そのすべてを亜弓さんのアイデンティティーとして受け入れている気がします。

だから、本当は亜弓さん、親の七光りという妙なコンプレックスを抱かなくてもいいのですよね。

そりゃ、亜弓さんは持って生まれた美貌もあり、才能もあり、加えてたぐいまれな教養を身に着けてられるのも、すべて姫川監督、そして歌子さん両親のもとに生まれてきた、それに尽きるのですが、でも、お金は持っている、いわゆる上級国民的な身分ではあれど、鷹通グループの会長(そういえば詩織さんの両親って、どうしようもないね-_-;)とは違って、姫川御両親、きめ細かく彼女を見守り、いざという時のタヅナは引き締めている、のではないでしょうか。

出番の少ない姫川監督ですが、そんな中にも亜弓さんの現実とその立ち位置を、深く理解している様が見て取れます。

そして歌子さん、彼女の娘との関りが、またこれからのガラかめの見せ場に多大な影響を及ぼすと思われますが、とにかく亜弓さんに対する深い愛情が感じられます。

亜弓さんのきりりとした性格が先か、育つ環境が先か。

そして無論、描かれていない、それはこちらとしても理解が及ばない、姫川家のご苦労というものもあるとは思われますが。

どちらにしても、【ガラスの仮面】という物語における親子の関係としては、姫川家は唯一パーフェクトなものとして描かれています。

 

いまさら言うに及ばず、社会における、最小単位である、家庭という中で繰り広げられる親と子の関係。

先の前半でも述べていることの繰り返しになりますが、親は子に対して、愛を与えることこそがその必須科目です。

それさえ弁えているならば、たとえケンカになっても、誤解により溝が出来たとしても、そして年月がかかっても子供はそれを理解できると信じます。

そして子供は、親からの影響が何より一番だけれど、その人生を辿る中で、例えば美内先生の作品に出会うなどして、さらに愛というものを学ぶことにより、時には失敗や悲しみを沢山経験して、その多様性を培うしかないと思います。

そんな経験を、【ガラスの仮面】という物語に出会ったことも、その一つとして受け入れることが、いままでの、そして今後のワタクシにとっての幸せに他なりません。

 

最後に、美内先生はじめファンの皆様、あらためて自分のようなド素人の人間が、自覚はしていなかったけれど結果、いっぱしの評論家気取りで終始トンチンカンなのであろう持論を、好き勝手に展開しまくってしまってごめんなさい。

 

真澄氏の変顔とか、マヤの好物とか、聖さんの生い立ちとか、乙部のりえの役は佐伯日菜子さんしかありえない、とか、まだまだ語り足りないことがいっぱいあるんですが(~_~)

そして美内先生、おこがましくもこちらが望むことはただ一つ、今後も、美内先生ご自身のままで、いつまでもご健勝で、且つ楽しくあってください。

 

そんな中で、また【ガラスの仮面】の続き、いや、最終回までが出来されるのであれば……。

一ファンとして、それもまた、今生の幸いに思うのであります。

 

 

 

 

参考図書

 

 

サイコパス解剖学:春日武彦×平山夢明

国家の品格:藤原正彦

僕たちは愛されることを教わってきたはずだったのに:二村ヒトシ

死は存在しない:田坂広志

日本国記:百田尚樹

良心をもたない人たち:マーサ・スタウト

ガラスの仮面、文庫版1~24巻、単行本43~49巻

:美内すずえ

 

他、ワタクシがいままで読んできた敬愛するマンガたち






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