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作曲家としての高中正義

 高中はここ最近は「Blue Lagoon40周年ライブ」とか「デビュー50周年ライブ」とかイベントチックなツアーが多い。今年は「70歳記念ライブ」って古希までタイトルにしちゃうのね。こりゃ米寿くらいまでいってくれ、歌わないからなんとかできそうでしょ…なんてな。大好きな高中を書いてます。


 1976年くらいからクロスオーバーという新しい音楽ジャンルが生まれ、後にフュージョンという名前に変わっていく。海の向こうでは、スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンがシンガーのバックではなく、自分の音を主張し始めていた。スタジオやジャズクラブでプレイしていたリー・リトナー、ラリー・カールトンといったプレイヤーはこぞってリーダーアルバムを発表。また、ジェフ・ポーカロやスティーブ・ルカサーといったLAのスタジオミュージシャンはボズ・スキャッグスのバックバンドを経て、TOTOを結成した。空前のスタジオミュージシャンブームが起きる。日本でもショーグンやパラシュートなど裏方がクローズアップされてきた。

 スタジオミュージシャンで満足している人っているのだろうか。少なからずも人前で演奏したことがある人であれば、その注目を得てリーダーアルバムを出すことができるなら、みんなそうしたくなるだろう。
 日本のスタジオミュージシャン。歌謡曲や演歌全盛の60年代から70年代初頭は戦後のジャズマンがその役を担っていたが、スタジオミュージシャンという言葉が出てきてからでは、キャラメルママ組(林立夫、鈴木茂、細野晴臣、松任谷正隆、坂本龍一、)と関西組(村上秀一、大村憲司、佐藤博、田中章弘)に大別される。そしてシティポップなキャラメルママとジャージーな関西組はその当時の日本のポップスを席巻した。
 それまでのフォークブームが終わると、新しく出てきたミュージシャンがニューミュージックというブームに乗ってTVにどんどん出演していた。「テレビに出ない」は70年代初頭のフォークシンガーのことで、70年後期のニューミュージックはいかにテレビと共存していくか、に賭けられたと思う。そんな中にフォークでもニューミュージックでもない男がテレビで脚光を浴びた。それまでシンガーのバックで弾いていた男が表舞台に躍り出た。こんな出方をしたミュージシャンはあとにも先にもこの男しかいない。
 パイオニアのステレオのCMから流れる音は、時代を代表する音だった。ちょび髭を生やし、目は針のように細く、アロハシャツ。一見、大陸ぽい風貌(実は父親が中国人なので納得)。ギターを弾く姿はギター少年の憧れであった。高中正義。スタジオの仕事をこなしながら、フライドエッグ(ベース担当)、サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスを経てソロになった。1978年から1979年にかけて、フュージョンブームに王手をかけたアルバム『ジョリー・ジャイブ』(1979)はテレビCM効果もあり、大ヒットした。1曲目に収録された「ブルーラグーン」は本人登場のパイオニアステレオのCMソングであり、当時の楽器屋に行けば必ず聴けるフレーズであった。

 高中は品川の生まれで下町の中でも小学校から私立(小野学園)に通う裕福な出である。60年代後半のエレキブームのときにすでにエレキギターを持っていたことからもこのことが証明できる。
 ビートルズの映画を見て「これだ!」と音楽に開眼し、ベンチャーズのノーキーエドワーズにエレキの洗礼を受ける、当時の典型的な音楽少年である。18歳の時、アマチュアバンドでギターを弾いているところを成毛滋とつのだひろに声をかけられ、フライドエッグを結成。成毛は当時飛ぶ鳥を落とす勢いのギタリストであり、そのバンドで高中はベーシストとしてプロの第一歩を歩んだ。同時期にスタジオミュージシャンとして数多くのフォークアルバムに名を連ね、特に井上陽水のアルバムではギターとベース両方で参加している。そのスタジオワークに目をつけたのが、またもや、つのだひろ。新しく加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンドを結成する時、高中はギタリストとしてラインアップされた。高中の名前が全国区になる第一歩である。

七色の髪、ど派手なスーツはこの頃からトレードマークだったようだ。余談だが、よしだたくろうの1973年のツアーで全国を廻ったときのことである。地味なフォーク畑のミュージシャンに異端児が紛れ込んだ形になり(とにかくどこでも目立つ)、夜の街でも高中はいつもチンピラに絡まれていたらしい。たくろうや柳田ヒロは肩を組み、あさっての方向に逃げて行ったらしい。

 高中はギタリストであると同時に、重要な作曲家である。サディスティック・ミカ・バンドの「黒船」、よしだたくろうの「落陽」のフレーズ、井上陽水の「氷の世界」のスタジオワーク・・・ソロになる前にすでに後世にまで残る楽曲に絡んでいる。当時のスタジオはキメのフレーズ以外は各ミュージシャンに頼るところが大きく、作曲能力も求められていたようだ。
また、吉田拓郎は高中について
「とにかく間違えないんだよ。ちゃんと弾く。リハからちゃんと100点の演奏をする。これ、意外といないんだよ」
加藤和彦は、
「難しいフレーズがあるとするでしょ?次の日には普通の顔で弾いてるのよ。陰での努力なんだろうね」
ミュージシャンに好まれる所以である。
そしてインタビューでも物おじしない風格。デビューが高校の時(1971年)だからか、殆どが歳上のミュージシャンであるにも関わらずほぼタメ口。きっと生意気に見えていたかもしれないが、スタジオワークで説得力があったのだと思う。拓郎や陽水なんか約10歳も上だけど呼び捨てだからね…。

 高中のギターテクニックは、目を見張るほど達者というわけではない。サンタナに影響されたお決まりのフレーズもあるし、早弾きをすればアルビン・リー(テン・イヤーズ・アフター)のごとく弦をかきむしる。突拍子もないフレーズや超高速早弾きを好む「浅はかなアマチュアギタリスト達」や「ルックス重視の女性」からは過小評価されている感もある。くすん。
 しかし、ここで思い出さなければならない。どんなにがんばってもスタジオミュージシャンはスタジオミュージシャンでしかないわけだが、高中は類まれなる感性と作曲能力で浮上したギタリストだ。彼よりテクニックがあるギタリストはごまんといるだろうが、そのギタリストのフレーズが高中の作曲したフレーズほど人々の頭に残っているだろうか。
 1年前、「クロスオーバー'03」というイベントがあった。そのイベントにはカシオペアやT-スクエア、パラシュートなど日本のそうそうたるミュージシャンが結集した。高中正義はトリをつとめた。約1時間のステージだったが、イベントということもあり代表曲ばかりを演奏した。圧巻はほとんどの客がみんな彼のフレーズを口ずさんでいたということである。ギターのフレーズをみんなで口ずさむなんて、何て素敵なんだろうと思った。

 ジャズミュージシャンには、わざとフレーズを難解にして、自分を誇示する人もいる。高中と同様にテレビCMに出演しても、高中ほど商業的成功を収めなかった渡辺香津美はテクニック重視で、メロディーラインが難解になってしまう。しかし高中は臆面も無くわかりやすく、憶えやすいメロディーを作る。そこが彼の魅力だと思う。高中の視点は別世界にあるのだろう。歌もののバックから始まっているためか、詞を活かすフレージングを作ってきたせいか、親しみやすさが感じられる。加藤和彦、吉田拓郎、井上陽水、矢沢永吉、中森明菜、松任谷由実・・・彼がバックを務めた一握りのアーチスト達である。歌心がわからないと良いフレーズなんて出てきやしない。

作曲家として高中正義を最初から聞きなおしてみると結構驚くよ。

2004年12月16日
花形

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