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伊勢神宮にあった国宝級大仏(廃寺を行く3)

伊勢神宮が成立したのは、神話は別として、史実としては5世紀から7世紀ごろという見方が多いようです。「続日本記」によれば、天平神護2年(766)に朝廷が伊勢大神宮寺のために丈六仏像を造立させたという記述があり、「太神宮諸雑事記」によればその翌年の神護景雲1年(767)に称徳天皇が”逢鹿瀬寺(おうかせでら)を大神宮寺とする”宣旨を下されたという記述も見えます。
この話は、奈良時代の皇室の仏教への崇敬は深く、神仏隔離だった伊勢神宮にも仏教の影響が及んできた証左として有名です。

その後、逢鹿瀬寺は伊勢神宮側の巻き返しによって遠方に移転させられますが、歴史が下り、幾多の変遷を経て、結局、伊勢神宮寺はこの場所に至ったと信じられていたのが、明治時代に廃寺となり今は全く跡形もなく破却された菩提山神宮寺というお寺でした。

菩提山神宮寺の跡地は、三重県陸上競技場から歩いて5分ほどの五十鈴川右岸の山麓にあります。伊勢神宮・内宮にお参りするときに宇治橋を渡りますが、その五十鈴川の約1㎞下流に当たります。

陸上尾競技場から大神宮廃寺方面を望む
中央に見えるのは下水道浄化センター

現在は完全に山林に戻っており、旧境内地に立ち入ることもできません。

小橋を渡ったすぐ左に、伊勢市教育委員会が建てた石碑があり、これが唯一、当時をしのばせる遺構とのことです。

しかし、少なくとも明治になるまでは神宮寺は大きなお寺でした。江戸時代中期の寛永年間に出版された「伊勢参宮名所図会」には絵入りで大きく取り上げられており、鎌倉時代の坂士佛や西行がここを訪れたことも書かれています。

本堂には座高が3メートルもある丈六の阿弥陀如来が祀られていました。
この像内には発願の経緯が詳しく書かれており、良仁上人という方が平安時代の長承3年(1134)に造立に着手し、保延2年(1136)に完成しました。長承3年の前年は伊勢神宮の式年遷宮であったことから、遷宮と大仏建立にはやはり何らか関係があったと考えられています。

ところが、鎌倉時代の弘長2年(1262)に神宮寺は全焼してしまいます。幸いこの時に本尊は焼失を免れたものの、その後寺勢は衰え、本尊は長らく粗末なお堂に祀られていたようです。江戸時代初期に神宮寺を訪れた松尾芭蕉が詠んだ「この山のかなしさ告よ野老掘 (ところほり)」という句が往時を偲ばせます。

その後、宝暦10年(1766)に尊隆上人という方がお寺を再興したそうなので、伊勢参宮名所図会に描かれているのはこの再興後の伽藍なのでしょう。
再興から100年後、明治維新に至り、仏教施設は神都伊勢の地を汚すものとして明治政府が宇治山田のすべての寺院に廃寺を命令。ついに神宮寺も破却されたのでした。

ただ、天皇の厚い崇敬も受けた寺院さえも排除する狂気の命令に、民衆が必ずしも従わなかったのは銘記されるべきと思います。
伊勢参宮名所図会にも境内にあったと書かれている「曼荼羅石」は、空海の作とされ人々の信仰を集めていたため、地域の墓地に引き取られ、現在でも貴重な仏教遺跡として伝えられています。

本尊の丈六阿弥陀仏も破却の危機が迫っていましたが、伊勢松坂(現在の松阪市)の心ある商人が買い取り、浄土宗の信仰が厚かった伊勢の対岸の三河大浜(現在の愛知県碧南市)にある海徳寺に引き受けられることになりました。現在も海徳寺のご本尊として大切にお祀りされています。

こうした菩提山神宮寺の変転は、脈々と続く伊勢神宮や阿弥陀仏への信仰の深さと共に、政治と神道がゆがんで結びついた、廃仏毀釈による日本の伝統と歴史への破壊の罪深さをしみじみ感じさせます。

冒頭の写真は、海徳寺のご本尊を紹介する碧南市役所のホームページです。

せっかく伊勢に来られたら、こうしたあまり有名ではないけど伊勢神宮や日本の歴史の素晴らしさがわかる場所にも訪れていただければと思います。
場所はグーグルマップでも検索できますが、わかりにくい場合はお気軽にお問い合わせください。

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