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ジョルジュ・セバスティアン〜縁の下の力持ちのワーグナー〜

先日、ドイツ出身で日本のオペラ芸術に発展に大きく寄与し、日本で亡くなった指揮者、マンフレート・グルリットについて綴り、彼がドイツ時代に録音したワーグナー『タンホイザー』序曲をご紹介した。

ドイツ時代、グルリットはエーリヒ・クライバー総監督の下、ベルリン国立歌劇場音楽監督を務めていた、とそこに書いたが、ヨーロッパの歌劇場の役職名を原語から日本語に訳す際、様々な齟齬が生じる。その劇場によって、各役職名の意味するポジションが微妙に違ったりするからだ。

歌劇場のポジション〜ウィーン国立歌劇場を例に〜


例えばウィーン国立歌劇場ヒエラルキーの頂点は「総監督」であるが、総監督が指揮者とは限らない。実際、現在(2020-21のシーズンから)の総監督はボグダン・ロシュチッチで、彼はレコード・レーベル、ソニー・クラシカルの最高責任者だった人、音楽ビジネス・マンだ。
時を同じくして指揮者フィリップ・ジョルダンが就任したのは「音楽監督」で、序列2位。その権限も限られている。
先代のフランツ・ウェルザー=メストも、その前の小澤征爾も、その更に前のクラウディオ・アバドも総監督ではなく音楽監督だった。
直近で指揮者が総監督を兼務(と言うか、総監督が指揮者も)していたのは、アバドの前、1982年から84年までその任にあったロリン・マゼールだ。
マゼールは指揮の天才でありながら、良くも悪くもビジネス・マンであった。どちらかと言えば「名誉」とか「金」に拘る人だった(かと言って、そんなキャラクターと彼が作る音楽をごちゃ混ぜにしては絶対いけない)。彼が2シーズンという短いタームでその任を辞さなくてはならなかったのも、音楽以外の部分、歌劇場経営の点で、管轄官庁である文部省の大臣と揉めて泥沼化したからに他ならない。
同じく総監督だったカール・ベーム然り、ヘルベルト・フォン・カラヤン然りだ。

1897年に総監督に就任し、当時の腐り食ったウィーン・オペラを改革し、さらには現代の歌劇場の在り方の礎を築いたグスタフ・マーラーも帝国政府とは喧喧諤諤だった(そのマーラーの下で「カペルマイスター(楽長、第一指揮者、現在でいう音楽監督)」を務めていたのがブルーノ・ヴァルター)。
マーラー の時代からウィーンのオペラ界は権謀術数渦巻くところだ。

「歌劇場経営は芸術家ではなく、ビジネスマンに任せた方がいい」というのが、現在、世界各国のオペラハウスを管轄する人々の偽らざる思いだろう。「分業化」だ。

ところで皆さんは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーが自主運営するオーケストラが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ということはもちろんご存知だろう。
そして、そのウィーン・フィルの年間数少ないコンサートの中でも、最もチケットが取りにくい「ニューイヤー・コンサート」を衛星生中継でご覧になったり、元日から1ヶ月も経たないうちにリリースされるCDやDVDを買い求められる方もいるだろう。
さぁ、そのパッケージはこのところ、どこのレーベルからリリースされているだろうか? 
答えは、ソニー・クラシカル、である。 
要はそういうことだ。

話が脇道から入り過ぎた感があるが、今回綴りたいのは、マンフレート・グルリット同様、オペラハウス・ヒエラルキーの頂点ではなく、序列2位でありながら、恐らく彼がその任になかったら、その歌劇場の在り様も大分違っていたのではないだろうか? と思う指揮者、ジョルジュ・セバスティアンのことだ。
そして彼の音楽も併せて是非お聴き聴いていただきたい。

ジョルジュ・セバスティアン

ジョルジュ・セバスティアン(Georges Sébastian,1903年8月17日 - 1989年4月12日)は、ハンガリー出身のフランス人指揮者。

ブダペストでピアノとヴァイオリンを学んだ後、作曲も学んでおり、コダーイやバルトークにも師事している。
そしてセバスティアンは、1921年にミュンヘン宮廷歌劇場(現バイエルン国立歌劇場)コレペティートルに採用されている。
コレペティートルとは「練習指揮者」の意で、その名の通りピアノを弾きながら歌手や合唱団の練習を指導するコーチ役のこと。実際にその演目を指揮する指揮者が総合リハーサルに登場するまでのベースを作る担当者だ。
そのキャリア・スタートのきっかけが指揮者コンクールでの入賞、といった現代とは異なり、少なくとも第二次大戦前に指揮者を目指そうと思う若者の最初の関門は、このコレペティートルに採用されることだった。
フルトヴェングラーもカラヤンもそうだった。

そして、セバスティアンがコンペティートルになった時、ミュンヘン宮廷歌劇場音楽総監督を務めていたのがブルーノ・ヴァルター(在任:1913–1922)であった。

セバスティアンが指揮者としての道を歩み始めるにあたって、上司がヴァルターだっとというのは、その後の彼の指揮者人生にプラスに働いた違いない。
また、ヴァルターがベルリン市立歌劇場オペラ(現ベルリン・ドイツ・オペラ)の音楽総監督(在任:1925-1929)だった1927年、セバスティアンはこの歌劇場のカペルマイスター(第一指揮者)に就任し、1930年までその任にあった。ヴァルターからの信任が厚かった証だろう。
その後はロシアにも転じ、1935年にはムソルグスキー歌劇『ボリス・ボリス・ゴドゥノフ』オリジナル版初演を指揮もしている。
戦後はフランスに定住し、1946年にパリ・オペラ座管弦楽団首席指揮者に就任。パリ・コミック座やフランス国立放送管弦楽団なども指揮している。

セバスティアン、来日

そしてセバスティアンは、1966年フランス国立放送管弦楽団と来日もしている。
この時のメイン・コンダクターはシャルル・ミュンシュであったが、セバスティアンは以下のプログラムで3回指揮台に上がった。

10月9日:東京文化会館/10月13日:フェスティバルホール(大阪)
ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕前奏曲
オーリック『フェードル』
R.シュトラウス『ばらの騎士』組曲
チャイコフスキー『交響曲第5番』

10月16日:京都会館
ベートーヴェン『交響曲第3番《英雄》』
ブラームス『交響曲第2番』

京都のプログラムは相当ヘヴィーだ・・・。
フランス音楽中心のプログラムは、ミュンシュと、もう一人同行したモーリス・ル・ルーが指揮したことと関係しているが、セバスティアンのプログラムはドイツ音楽が中心だ。

セバスティアンのワーグナー

しかし、それはただの巡り会わせではなく、セバスティアンがドイツ音楽、特に後期ドイツ・ロマン派の作品を得意にしていたこととも関係している。
ミュンヘン、ベルリンでヴァルターの下、活動していたセバスティアンならでは、というところか。

実際、数多いとは言えないセバスティアンのレコード録音に占めるワーグナーの比率は高い。
1952年には、ベルリンRIAS交響楽団(アメリカ占領時のベルリン放送交響楽団、現ベルリン・ドイツ交響楽団)とLP2枚分のワーグナーの序曲・前奏曲集、1950年代終盤にはパリ音楽院管弦楽団(現パリ管弦楽団)と1枚、南西ドイツ放送交響楽団と1枚、ワーグナー・アルバムを制作している。
また、不世出のワーグナー・ソプラノ、キルステン・フラグスタットを起用し、1951年に録音された楽劇『ジークフリート』第3幕抜粋の指揮もセバスティアンが担当している。

【ターンテーブル動画】

ということで、今回はその1952年リリースの2枚のアルバムから、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』より『第一幕前奏曲』『第3幕前奏曲・徒弟たちの踊り・同業者組合の行進』、この2つのトラックを【ターンテーブル動画】にしてお届けする。

これらのLPは当時アメリカのレーベル「レミントン」からリリースされている。レミントンの盤は今となってはコンディションの悪いものが多く、残念なことが多いが、幸いにして手元にある2枚はコンデション上々。
セバスティアンの引き締まった、拍節感に重きを置きながら、しかし無味乾燥にならず、盛り上げるところはテンポを遅くし盛り上げる表現、その工夫が何気なく、自然に施されているあたりに、歌劇場で培った至芸が発揮されているように思う。

マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ

ジョルジュ・セバスティアンを最も身近に、そして容易に知ることができる映像作品が残されている。
20世紀最高のソプラノと称されたオペラ歌手マリア・カラスが、キャリア絶頂期の1958年12月19日に行なったパリ・オペラ座デビュー公演のコンプリート映像だ。

世界中から注目を浴びていたカラスのオペラ座初公演であり、時のフランス大統領ルネ・コティブリジット・バルドーエリーザベト・シュヴァルツコプイブ・モンタンチャールズ・チャップリンジャン・コクトーなどのらセレブが列席していた。
第二部はティト・ゴッビらが共演するプッチーニ歌劇『トスカ』第2幕の上演で、これはカラスのオペラ映像としては唯一のものである。
このコンサートで演奏するオーケストラは、もちろんパリ・オペラ座管弦楽団。
そして、これを指揮し、この豪華絢爛のコンサートを支えたのがジョルジュ・セバスティアンであった。
まさに縁の下の力持ちだ。

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