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マルセル・デュシャン 世界の見方を変えた男 4

前回までのお話

さて、無審査で誰もが出品できる展覧会に提出された男性用小便器が、理事会の多数決によって「芸術品ではない」と出品を退けられたのち、人々がやっとその作品を目にしたのはマルセルの作った雑誌「盲人(Blind man)」上のことでした。


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その後、オリジナルのこの小便器は紛失していますので、後にも先にもアンデパンダン展に提出された(とされる)リチャード・マットの小便器がはっきりと確認できるのは、このスティーグリッツが撮影した一枚の写真のみです。

雑誌には小便器の写真の隣に「リチャード・マット事件」と題された文章が掲載されています。無審査展覧会における理事会の検閲に対する抗議文でした。そしてこの雑誌「盲人」は今号にて、まるで役目を終えたかのように廃刊します。


この男性用小便器についてはこれまでに世界中でありとあらゆる仮説が推敲され、論証が提出され、論駁が繰り返され、それはいまだに続いています。ですので、ここではその小便器ではなく、あまり語られることのない、もうひとつの作品についてみてみましょう。

実はマルセル、このアンデパンダン展にもう一つの作品を不出品しています。

そしてそれが、作品「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング Tulip Hysteria Co-ordinating」でした。


チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング。いったいなんでしょう、、チューリップは花でしょう。ヒステリックなチューリップたちをなだめてまとめているのでしょうか。真相はわかりませんが、欧米にはチューリップにまつわる比較的有名な話がひとつあります。

1600年代初頭にオスマン帝国から輸入されたチューリップはオランダにて爆発的な人気となります。そして珍しいチューリップ株を求める投資家によって球根の価格は沸騰し、異常なピークを迎えた直後に大暴落。歴史上で初めての投機バブルと言われ、「チューリップ・マニア(チューリップ狂)」という語を生み出しました。(ピーク時には、球根一つと5ヘクタールの土地が交換されたそうです。)

先にも少しふれたとおり、当時、マルセルはパリからやってきて、アンデパンダン展はアメリカ移住後はじめての展示。あのアメリカ中で話題となった「階段を降りるヌード」のその次に、あのマルセル・デュシャンが今度はいったいどんな作品を展示するのか、と噂が噂を呼んでいました。

そして一部の人たちは言い出しました。「ある筋の確かな情報によると、どうやらマルセルは「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という新しいキュビスム絵画を描いているらしいぞ。そしてそれをアンデパンダン展に出品するようだ」。噂は瞬く間に人から人へと駆け巡ります。結果、アンデパンダン展にはマルセルの「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」を一目見ようと人々が詰めかけました。

しかし結局マルセルはこの作品「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」をアンデパンダン展に出品していません。それどころか、本当にそういった作品を作っていたのかどうかもわかりません。幾人かの証言者は、これはマルセル自身が意図的に流した噂であったと語っています。

つまり、この作品チューリップ・ヒステリー・コーディネーティングは、噂話の中でしか存在しない作品でした。もっと言ってしまえば、この噂それ自体が「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」という作品であったとも言えます。


「噴水」と「チューリップ・ヒステリー・コーディネーティング」は、異なる作品ではありますが、同時期におけるマルセルの強い関心を共有しています。

それはひとえに「芸術作品は存在するのか?」という問いです。

そして、この問いは端的にマルセルの興味の確信を突いています。


芸術とはなにか、を考えたとき、人はその芸術作品を思い浮かべます。例えば世界で一番有名な芸術作品と言われる「モナ・リザ」は数百年にもわたって、芸術の象徴として在り続けています。

しかし、本当にその作品それ自体が「芸術」なのでしょうか?


アンデパンダンの理事たちによって、男性用小便器は「下品で、不道徳である」と言われ、展示を拒否されました。しかし男性用小便器が街の配管屋の店先にディスプレイされているのを見て、下品で不道徳だ、と言って怒り出す人はいません。

マルセルが描き、スキャンダルとなった絵画「階段を降りるヌード」は、ある専門家からそのスキャンダラスであった理由として「ヌードは階段を降りるものではない!」と大真面目な批判を受けています。大変に興味深い一言です。ヌード、は、階段を、降りるものでは、ない??

自分の手で作ったものではないことが問題なのでしょうか。しかし少なくとも印象派以降の画家たちの描いている絵は、誰かが織った布の上に、絵の具会社の製造した既製品の絵の具を画材屋で買ってきて、それらを並べています。では、その絵の作者は、絵の具会社なのでしょうか?それともそれらを選んで並べた画家なのでしょうか?

全く無名の芸術家リチャード・マットの作品「噴水」は芸術作品ではないと理事会に拒否されたのちに、20世紀初頭のアメリカのアートシーンの最重要人物であったアルフレッド・スティーグリッツによって撮影され、一枚の写真として美術史に名を残します。これは無名リチャード・マットの作品、それとも巨匠アルフレッド・スティーグリッツの作品なのでしょうか?


ここで、具体的なマルセルの作品をもう一つ挙げてみましょう。

1919年の作品「L.H.O.O.Q」です。


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現在だけでなく当時でも、モナリザは世界で一番有名と言っても過言ではない絵画でした。マルセルはその絵ハガキのモナリザにひげを足して、「L.H.O.O.Q」というタイトルを付けています。これは目で見ると、単なるアルファベットの羅列ですが、フランス語読みで口にすると「Elle a chaud au cul(彼女のお尻はホットだぜ)」という意味になります。

(お時間ある方はぜひ自動翻訳に入力して音声を聞き比べてみてください。「L.H.O.O.Q」「Elle a chaud au cul.」)

ここでは、アルファベットというただの意味のない記号の羅列が、それを読む人にある種の意味を与え、刺激を引き起こしています。そして後に、この作品はマルセルによって違ったかたちの別バージョンとして再制作されます。

それがこちらの「ひげを剃ったL.H.O.O.Q」です。


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この図版はいわゆるモナリザであって、なんら描き足されたものはありません。



モナリザの複製に「L.H.O.O.Q」というタイトルを与え、ひげを加え、そしてその後で「ひげを剃った」とするとき、そこにあるのはただのモナリザの複製でした。

L.H.O.O.Qでは、芸術の象徴としての気高い女性モナリザと娼婦扱いを受けたような下品な発言が交錯し、高い貴重性を持つ唯一無二の油絵と簡単に落書きをされてしまう複製の大量生産品が交錯し、ただの視覚記号であるアルファベットとそれが音となって発音されるときにもたらされるその意味が交錯し、女性であるモナリザとそれに加えられた男性の象徴である口ひげが交錯しています。

貴重?低俗?女性?複製?ひげ?記号?オリジナル?お尻?

そして最終的に「ひげを剃った」モナリザが何事もなかったように微笑んでいます。実際に、そのモナリザには何事もなかったのです。



これら一連の作品によってマルセルが示したのは、芸術とは、単に作品それ自体を指すのではなく、作品を見る者の想像力によって生まれるものなのだ、ということです。



前項で、青年期にマルセルが大きな刺激を受けた先人の一人に数学者のポアンカレがいたことを書きました。ポアンカレは同時代のピカソやアインシュタインなどにも影響を与えた数学者でしたが、彼自身も多くの先人たちから影響を受けていました。

そのうちの一人がドイツの哲学者イマニュエル・カントです。ポアンカレは自他ともに認めるカントの愛読者でしたが、マルセルもポアンカレを通して、カントの思考を受け継いでいると思われます。

カントは、人が物を認識する際に「目の前に物があるから、人はそれを認識できる」とする従来の常識を疑い、「人が見るから、物がそこにある」として、対象への認識を180度変えたことから、(天動説から地動説を主張したコペルニクスになぞらえて)それをコペルニクス的転回と呼びました。

平たく言うと「人が物を認識するから、物は認識される」のであって、物が目の前にあったからって、人がそれを見ているとは限らないよね、というか、むしろ見えるもののことを物って呼んでるだけだよね、というような意味です。

ここで重要なのは、その認識の中心が物ではなく、人に移った、ということです。

マルセルが行ったのも、仕組みとしてはこれと同じものでした。つまり、芸術作品があるから芸術があるのではなく、それを見る人の想像力が芸術を作っているのだ、と言うコペルニクス的転回です。


つづく

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