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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと 29

この二月、私は父の住む家の隣へと引っ越ししました。もともとは父が営んでいたハンドバッグ製造会社の建物で、木造モルタルの築五十年超の家をリフォームして住んでいます。

五十数年前、ここに移ってきた時は、私は幼稚園の年長さんでした。それまで自宅と父の仕事場は歩いて十分ほどの距離があり、引越しにより職住超接近となりました。同じ葛飾区の、鎌倉町から柴又へ徒歩圏内の引っ越しでした。

住宅は平屋で、会社の建物は二階建て。というのも、引越し前の鎌倉町の家で、私は階段から十回以上も落ちていたため、母が二階建てを反対して、幼い私も同調して反対したらしいのです。二階から一直線に滑り落ち、軽い脳震盪を起こして畳の上でしばらく半気絶状態、ふと気づいたら西の空が赤かった映像が今も頭の中にうっすらと残っています。ぼーっとしているくせにせっかちで、その二つが噛み合わない。これは生来の性質のようです。あれから幾星霜、二階屋暮らしになりました。大人になってからも何度か階段落ちをしていますが、近年、階段落ちは命に関わるので、用心深くなりました。

引っ越しした当初、家の前は田んぼと畑でした。梅雨になるとアマガエルがサッシの窓にびっしり貼り付いて大合唱で驚きましたが、昭和の高度成長期、年々土地は造成され、田畑は急激に減っていきました。父も土地を買い広げ、会社の建物も増築、増棟し、それは世の中の動きを体現しているような姿でしたが、その途中、神奈川県に移転する計画があったことは、父が尾崎一雄さんの一年祭(神道の一周忌)で読んだ『思い出の記』に目を通すまで知りませんでした。その一節を引用します。

その後、なんとか仕事のほうも軌道に乗って、昭和四十二(一九六七)年の春、法人組織に改めました。その折ももちろん、おじさんから出資を仰ぎ、以来今日までおばさんが私どもの社外重役になっています。そして年の暮れには配当金を持って下曽我にうかがいました。

ここで、仕事に関連したエピソードをひとつ報告します。

昭和四十三、四年頃(一九六八ー九)、東京を引き上げて小田原で千坪くらいの土地を求めて工場を建てるという話が持ち上がり、土地の物色が始まりました。なぜ小田原かといえば、家内の父がその十年ほど前から小田原で仕事をするようになっていたからです。

土地の価格と広さの折り合いがつかず、だんだんと小田原の市部から遠ざかり、なんとか折り合いのついた場所が、下曽我の隣町、千代小学校の南西七〜八百メートルくらいのところでした。購入の下話をしての帰路、報告かたがた下曽我に立ち寄りました。するとおじさんは、「地所を買うのなら、少しでも広いほうがよいだろうから、僕が地続きを百坪分買い足すから、君が自由に使いなさい」と、資金を出してくれることに決まりました。

日を改めて家内の父と一緒に車でうかがい、おじさんを連れて、その地所を見てもらうことになりました。

おじさんは、到着しても土地にはたいして目もくれず、みかん畑の畔にあざみの花を見つけ、ボウの切れ端を探し出して、その株を無心に掘りはじめました。私たちが帰ろうとすると、そのあざみを根っこごと掘り出し、車に積んであった新聞紙で根っこを大事そうに包んで家に持って帰りました。

その土地は、当時厳しくなる一方の不動産投機と環境破壊を抑えるためにできた法律で、調整区域に指定され、所有権の移転が不可能となり、しばらくごたごたした後に、手付け金を相手側から返済してもらい、元の木阿弥になりました。

おじさんの手付金も相手方に渡してあったので、迷惑を掛けてしまったのですが、そんなときもおじさんは「二十歳くらいの時、この辺の土地をそれこそ今のお金にしたら何億にもなる物を売り払ってしまったくらいだから、そのくらいのことは何とも思ってないから気にしないように」と、勇気づけるのでした。

近くへ引っ越せるという望みも、その後、仕事の方が少しずつ難しくなって果せなくなり、今に至っています。

うまくいかなかったけれど、この時期の父はきっと希望に満ち溢れていたのだと感じます。会社が軌道に乗り、拡大していく中での移転計画、しかも大好きな小父さんの近くに行けるかもしれない。そんな父の気持ちを受け止めた尾崎さんの親身な対応にも驚かされます。それにしても、買う土地の視察をしながら、あざみの移植に夢中になるのは、草木樹を題材とする作品の多い尾崎さんならではの風流で、もしかしたらその日のことを俳句に詠んでいたかもしれません。というのも、尾崎さんは若い頃から俳句を嗜んでいて、代表的な句は色紙や贈呈本に記してもいました。実家の応接間にも、そんな尾崎さんの色紙が飾られていたため、以下二つの俳句は、芭蕉や一茶の俳句より身近に感じてきました。

 木枯らしや 一本の道 はるかにて

 みかん熟るゝ香に包まれてふるさとへ

片や厳しく、片や柔らかく。そのまま尾崎一雄という文士の生き様を示す二句に思えます。

生涯親しんだ俳句ともう一つ、尾崎さんが生涯親しんでいたのは碁でした。中学生時代にいやいや父親の相手をさせられたのが最初だと『もぐら随筆』の中の「碁のはなし」にあります。昭和十四年(一九三九)には、文人囲碁会なるものが結成されていて、尾崎さんら文士(川端康成氏も!)、評論家、ジャーナリストなど約三十人が主メンバーでした。この碁友たちとの対戦や、碁にまつわる描写は小説や随筆に多くみられますが、実は私の祖父や父の碁の腕前に言及している作品もあります。

父の家族のことを描いた『山下一家』には、祖父の林平さんが訳あって尾崎さんに碁の指南を乞う一節があります。実力に差があり、尾崎さんの相手にならない林平さんでしたが、碁を口実に相談を持ちかけたのでした。

(前略)山下林平氏と私とは、五六子も手合いが違ふので、気の毒と思つてか或ひはつまらないせゐか、向ふから碁のことを申込むことは滅多になかつたのである。山下氏は殆ど毎晩といつていい位、近所の碁會所へ出かけ、自分に手頃の相手を探しては碁を楽しんでゐたのである。

一方、父の碁の腕前は『仲人について』にあります。尾崎さん不在中に新婚の私の両親が尾崎邸を訪ね、父が「碁が打てなくて残念」と言いつつ辞したと松枝さんが電話で伝えています。父は尾崎さんと再会後、しばしば尾崎邸を訪ねては、対局していたようなのです。

「俺が居たら碁を打って、嫁さんにいいところを見せるつもりだったろうよ」(中略)昌久君の碁は日本棋院三段である私に四子ぐらいだから、亡くなった親爺の林平さんよりはるかに有望だ。筋もいい。いつの間に覚えたのか知らん。

父は時折「僕の人生は碁に助けられたよ」と言います。父の碁は、尾崎さんのように父親の相手をさせられて覚えたのではなく、戦争孤児となり、親戚に引き取られた修善寺時代に大人たちが対局する様子を眺めるうち、打てるようになったといいます。芸は身を助く、ならぬ、碁は身を助く、で、父は、東京に戻ってからの人生で、大切な人たちと碁を通して信頼関係を深めました。尾崎さんとも碁という共通の趣味があったことは幸運で、父は対局後の休憩時に、雑談を通して尾崎さんから多くを学んだと回想します。

そんな尾崎さんの形見である碁盤が、父の手元にあります。これはちょっと曰く付きのものなのです。かいつまんで説明します。『人生劇場』で知られる作家の尾崎士郎、フジサンケイグループの土台を築いた実業家の水野成夫、そして尾崎一雄は三羽ガラス的な大親友であり、三人で『風報』という同人誌を発行していました。昭和三十年代半ばの話です。当時の水野成夫は産経新聞の社長で、昭和三十五年の六月には、産経新聞で尾崎士郎による『新・人生劇場』(『人生劇場』青春篇は昭和八年の都新聞連載で、没年は昭和三十九年ですから、ほぼ生涯かけての長編だったのです。登場人物はすっかり変わっていたようですが)の連載が始まるのですが、急性腸閉塞による緊急入院と手術のため六月で降板(全ての執筆をストップしたと、『尾崎士郎書簡集』に記載がありました)、水野成夫からのたっての願いで、尾崎一雄がピンチヒッターとして連載を執筆することになります。連載は、『とんでもない』というタイトルで、なんとうちの父が主人公。ただ、急な話だったことや、新聞小説というものが尾崎一雄流に合っていなかったのか、この作品は単行本にはならず、全集にも見当たりません。かろうじて年表に作品名だけが残っています。どんな筋だったのか、何がとんでもなかったのか、ちょっと読んでみたい気がします。ともあれ、新聞連載小説の穴埋めを快く請け負ったことへの感謝から、水野氏は尾崎さんに碁盤を贈呈。そんな事情を知る松枝さんが、形見分けとして父に託したのでした。

時間が空いてしまった上に、ちょっと脇道に逸れました。次回は、尾崎さんの文化勲章受章などに触れようと思います。

今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計、眠るに如かず ───おやすみなさい!

※トップの写真は、柴又の新居に尾崎夫妻が訪ねてくださった際のスナップ。夫妻の間ですまし顔なのが筆者で、母が縫った妹とお揃いの服でおめかし。この時も、尾崎さんの手には煙草。トレードマークそのものの板についた持ち方だ。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。