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(左からジョージ1世、ジョージ2世、キャロライン王妃)

お断り:本稿は第5回ヘンデル・フェスティバル・ジャパン「英国王室とヘンデル」(2007~2008年)へのプログラム解説「英国王室とヘンデル」の一部を補筆・修正の上、ここに転載しています。


英国王室とヘンデル


 ヘンデルはイギリスに渡ってから息を引き取るまで、英国王室と親密な関係を保ち続けた。その発端は、渡英以前、ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任した1710年まで溯る。以下、ヘンデルと関わった王族たちを時系列で紹介する。
なお、ハノーファー選帝侯はのちにジョージ1世となるが、便宜上、ハノーファー選帝侯とジョージ1世と、それぞれ別々に扱うことにする。

ハノーファー選帝侯(1660~1727)(のちのジョージ1世)


1709年末、ヘンデルは約3年半にわたるイタリア滞在の最後に、ヴェネツィアで初演したオペラ《アグリッピーナ》が27回という異例のロングランを記録するほどの大成功を収めると、聴衆に交じっていた多くの外国要人はこぞってヘンデルを自国宮廷に招こうとした。いくつかの選択肢の中からヘンデルが最終的に選んだのはハノーファー選帝侯の宮廷楽長の職であった。ハノーファーの宮廷ではかつて宮廷オペラが行われていたが、ヘンデルの楽長就任時、オペラ上演は行われていなかった。オペラ活動を望んでいたヘンデルがオペラのないこの宮廷に就職したのは、おそらくハノーファーの先にロンドンを見据えていたからに違いない。

ヘンデルはイタリア滞在中から、ロンドンにおいてイタリア・オペラ待望熱が高まっていることを聞き知っており、いずれはロンドンでの活動を望んでいたと思われる。ハノーファー選帝侯はイギリスの王位継承法により、アン女王の後継者として早晩イギリス王となることは周知の事実であり、その雇用に入ることは、ロンドンでのオペラ活動に確かな道筋を拓くことを意味した。一方、選帝侯はヘンデルに対して、音楽家としてだけではなく、外交官としての役割も期待していた節がある。ヘンデルが楽長職に就任しながら、即座に休暇をとり、ロンドンに行くことができたのは、外交官、もっと言えば諜報員としての役割も期待されたためであったろう。そもそも、イタリア滞在中にメディチ家のフェルディナンドがヘンデルのために認めた推薦状は、ヘンデルの音楽的能力より、外交官としての資質をアピールするものであり、「何ヶ国語も話すことができ、身のこなしも上品」としながら、音楽については「そこそこ」としか触れていないのである。

こうしてヘンデルは楽長就任後、即座に1年の休暇旅行の許可を得、ドイツ各地を巡りながら、1710年11月末、もしくは12月初めにはロンドンに渡った。

 

アン女王(1665~1714:在位1702~1714) 


ロンドンに渡ったヘンデルの噂は即座にアン女王の耳に届き、早くも1711年2月6日、女王の誕生日にヘンデルは宮殿に招かれ、女王に謁見している。その直後、2月24日にはロンドン・デビュー作となったオペラ《リナルド》を初演し、大成功を収める。同年6月、一旦ハノーファーに戻るが、約1年半後の1712年秋、2度目のロンドン旅行に出掛ける。この2度目のロンドン訪問後、ヘンデルは選帝侯と約束した帰国時期を無視してロンドンに居座った。その間、ヘンデルはアン女王のための礼拝用アンセム《鹿が冷たい谷川の水を求めるように》(HWV251a)や、ユトレヒトの和約を祝う《ユトレヒト・テ・デウム》(HWV278)や《同ユビラーテ》(HWV279)を作曲しているし、1714年2月6日のアン女王の誕生日用にはオード(HWV74)を作曲している(これは実際には演奏されなかった模様)。その間、ヘンデルが宮殿で見聞きした情報はハノーファーの重臣達を通じて本国に筒抜けになっていた。本人が自覚していたかどうかは別として、結果としてヘンデルが諜報役を担っていたことは確実と思われる。

 

ジョージ1世(1660~1727:在位1714~1727)=ハノーファー選帝侯


さて、1714年8月1日アン女王が没すると、ハノーファー選帝侯はジョージ1世としてイギリスに渡って来る。9月20日(月)、まずジョージ1世とウェールズ皇太子(のちのジョージ2世)がロンドンに到着すると、9月26日(日)、王室礼拝堂で感謝礼拝が行われた。皇太子妃キャロラインと王女達は約1ヶ月遅れてロンドンに到着し、10月17日(日)に感謝礼拝が行われた。それらの礼拝ではともにテ・デウムが演奏されているが、少なくともそのどちらかが今日《キャロライン・テ・デウム》(HWV 280)と呼ばれている作品である。

ジョージ1世
(無断使用禁止)

ジョージ1世はイギリス国民に不人気であった。彼はハノーファー選帝侯の身分のままイギリス国王になったのであり、ハノーファーとイギリスはこの同君連合の関係を1837年まで維持している。英語をまったく話さないジョージ1世は居心地の良いハノーファーに頻繁に帰りしていた。妻(王妃ゾフィア・ドロテア)の不義密通を咎めて離婚し、彼女が死ぬまで、32年間もアールデン城に幽閉しながら、自分は愛妾を伴ってイギリス入りしたことや、好戦的な性格なども不人気の一因であった。《水上の音楽》が初演された1717年7月17日のテムズ川の舟遊びはこのような国王を国民の前にお披露目し、人気回復をねらったものとも考えられている。

 ジョージ1世が頻繁にハノーファーに戻り、イギリスに無事帰還すると、その都度、感謝礼拝が行われた。ヘンデルが作曲した王室礼拝堂用アンセムはほとんどそのような機会のために作曲された。

1723年2月25日、ヘンデルはジョージ1世から「王室礼拝堂作曲家」に任命された。王室には王室付き音楽家と、王室礼拝堂付きの音楽家とが組織されていた。当時の王室礼拝堂の最高位「王室礼拝堂オルガニスト兼作曲家」に就いていたのはウィリアム・クロフト(1678~1727)であり、ヘンデルの地位はそれより低く、ほとんど名誉職であった。


ジョージ2世(1683~1760:在位1727~60):ジョージ1世長男


1727年6月11日、ジョージ1世がハノーファーからイギリスへの帰途、急死すると、ウェールズ皇太子フレデリックが即座に王位を継ぎ、6月15日、ジョージ2世を宣する。

その2ヵ月後の8月、「王室礼拝堂オルガニスト兼作曲家」ウィリアム・クロフトが死去する。ヘンデルはその後任の地位を得ようとしてモーリス・グリーン(1696~1755)と争い、結局敗れている。

当時、ヘンデルにとって、この地位は十分獲得可能な状況であった。王室内には、当然ながら、王室音楽家の主要な地位にはイギリス人が就くという方針があったと思われる。しかし、この年の2月20日、ヘンデルは帰化し、正式にイギリス人になっている(おそらくこの時、宗派もルター派から英国国教会へと宗旨変えしている)。さらに、新国王ジョージ2世はその妃キャロラインともども、ヘンデルと年齢も近く、ハノーファー宮廷以来、極めて親密な関係にあった。おそらく、ジョージ2世自身はクロフトの後任にヘンデルを任命したかったものと推測されるが、王の側近達(特にウォルポール内閣の閣僚ニューカッスル公)が生粋のイギリス人であるグリーンを推したとされる。グリーンはその後1735年には王室付き楽団の「楽長」にも任命され、王室内の音楽組織の両方の最高位に就いている。

ところで、晩年のヘンデルは貴族の支援に頼らない独立の興行主として劇場活動を展開し、大成功を収めた。晩年に示される強靭な自主独立の精神と、1727年、王室の職業音楽家の地位に固執する彼の姿とは相容れないもののように見える。しかし、当時のヘンデルを取り巻く状況を考えると、それも無理からぬことと思える。この年の2月、ヘンデルはイギリス人としてこの地に骨を埋める覚悟を固めたばかりであった。しかも、当時、ヘンデルを雇っていたオペラ企業「ロイヤル・アカデミー・オヴ・ミュージック」は経営破綻の兆しを見せ始めていた。音楽家が教会、宮廷、劇場のいずれかからの雇用でしか生活の安定を確保することのできなかった時代にあって、この国に誰一人身寄りのないヘンデルが、王室に安定した将来を求めたとしても不思議はない。

さて、ジョージ2世はおそらく側近達に譲歩し、グリーンを任命した。しかし、実際には王室の重要な慶事、弔事においては、グリーンの頭越しに、ことごとくヘンデルを重用していく。その贔屓ぶりは先王ジョージ1世とは比較にならない。1727年6月、ジョージ2世の即位後、早速、ヘンデルに最初の大仕事の機会が訪れる。ジョージ2世は10月11日に行われる戴冠式の音楽をヘンデルに依頼したのである(《戴冠式アンセム》HWV258-261)。戴冠式の1ヶ月後、ヘンデルは劇場でもオペラ《イングランド王リッカルド・プリモ》(HWV 23)を上演し、重ねて祝意を表している。

ジョージ2世
(無断使用禁止)

 ジョージ2世は1740年から始まったオーストリア継承戦争に参戦し、1743年にはイギリス=ハノーファー連合軍を率いてドイツ西部のデッティンゲンでフランス軍を打ち破った。この戦いはイギリス国王自らが戦線で指揮を執った最後の戦いと言われる。国王の戦功を称え、無事の帰還を感謝する礼拝が1743年11月27日、王室礼拝堂で行われ、ここでもヘンデルの音楽が演奏された:《デッティンゲン・テ・デウム》(HWV 283)と《デッティンゲン・アンセム》(HWV 265)。

 この継承戦争は1748年10月のアーヘンの和約をもって終結する。翌1749年4月25日、この和約に感謝して王室礼拝堂でヘンデルの和約アンセム《福音を述べ伝える者の足は美しきかな》(HWV 266)が演奏された。この和約の中身は実はそれほどイギリスを利するものではなかったが、王室は和約の成果を国民に誇大にアピールするため、大掛かりな花火のショーを計画する。この前代未聞の計画の音楽もヘンデルが担当した。1749年4月27日(木)、グリーン・パークには花火を打ち上げるための巨大な木造建築が整えられ、花火と共にヘンデルの音楽《王宮の花火の音楽》(HWV 351)が演奏された。


キャロライン王妃(1683~1737):ジョージ2世妃=ヘンデルの「不滅の恋人」



キャロライン王妃(ジョージ2世の妻)
(無断使用禁止)

キャロラインは夫のジョージ2世ともども、ハノーファー時代からヘンデルと極めて親しかった。聡明な彼女はその頃から英語を学習し、来るイギリス王室入りに備えていた。また、夫(ジョージ2世)と義父(ジョージ1世)の不仲、夫と長男(ウェールズ皇太子フレデリック)の不仲の間をとりなし、王室内の平安を保っていた。さらに王室と議会との間の重要なパイプ役を務め、政治的にも重要な役割を果たしていた。そのキャロライン王妃が1737年11月20日、持病のヘルニアの手術が原因で死去する。ジョージ2世はヘンデルに王妃のための葬送アンセム《シオンに上る道は嘆く》(HWV 264)の作曲を依頼し、その感動的な音楽は12月17日のウェストミンスター寺院における葬儀において演奏された。

生涯独身を貫いたヘンデルに、もし密かに意中の女性(不滅の恋人)がいたとしたなら、それはキャロライン王妃であったと、私は確信している。この葬送アンセムからはヘンデル個人の深い悲しみと慟哭を聴きとることができのである。

キャロラインへの思いを直接的に表現することは憚られたヘンデルは、代わりに王女たちを猫可愛がりしている。後述のとおり、特に長女アンを。ヘンデルは速筆のため自筆譜は乱雑なものであるが、アンのチェンバロ練習のためには別人のように丁寧できれいな楽譜を書いている。

補足:
序曲だけですが、感動的な「キャロライン王妃のための葬送アンセム」《シオンに上る道は嘆く》をお聴きください。
2019年6月、私の主宰するヘンデル・フェスティバル・ジャパンの大切なメンバー、ヴァイオリニスト渡邉さとみさんが若くして天に召されました。
団員一同で渡邉さとみさんを追悼するため、2020年1月、第17回ヘンデル・フェスティバル・ジャパンの冒頭、本編のオラトリオ《ヨシュア》の開始前に、葬送アンセムの序曲を演奏しました(約3分)。(詳細はYouTubeの説明を参照)。


 

ウェールズ皇太子フレデリック(1707~51):ジョージ2世長男


 ヘンデルは1736年4月の皇太子とザクセン=ゴータのアウグスタ王女との結婚式の音楽も担当している。前日(4月26日)はテムズ川での舟遊びのために《水上の音楽》を演奏し、結婚式当日(4月27日)は王室礼拝堂で結婚アンセム《神に向かって歌え》(HWV 263)を演奏している。さらに、5月には個人的な結婚祝いとしてオペラ《アタランタ》(HWV 35)を劇場上演している。

 

カンバーランド公爵ウィリアム(1721~65):ジョージ2世3男


ウィリアムは1745年に勃発したジャコバイト党の反乱を鎮圧した人物である。しかし、敗走する敵軍への残虐行為のためbutcherと綽名を付けられた。ヘンデルはその戦勝を祈念して、また終戦時には戦勝を記念して、オラトリオ《機会オラトリオ》(HWV 62)や《ユダス・マカベスス》(HWV 63)を作曲している。特に、タイミングの良かった《ユダス・マカベスス》は大成功を収め、晩年は《メサイア》、《サムソン》と並ぶ三大人気オラトリオとなった。
《ユダス・マカベスス》の中の「見よ、勇者は還る!」は誰もが耳馴染みの曲で、甲子園始め、スポーツの表彰時に演奏されて親しまれている。しかし、実はこの曲は本来、別のオラトリオ《ヨシュア》のために作曲されたもの。それを《ユダス・マカベスス》の中に組み込んで再利用したのである。

(2021年1月のヘンデル・フェスティバル・ジャパンによる《ヨシュア》公演より、「見よ、勇者は還る!」をお聴きください)



ジョージ2世の王女達:


長女アン(1709~59)、二女アメリア(1711~86)

三女キャロライン(1713~57)、四女メアリー(1723~72)

五女ルイーザ(1724~51)

ジョージ2世とキャロライン王妃は王位を継ぐ以前から王女達の音楽教育をヘンデルに委ねていた。ヘンデルが王女達の「音楽教師」を務めていたことが文書で正式に確認できるのは1724年8月であるが、それ以前にもすでに1718年ごろから教えていた可能性があり、ヘンデルの有名なハープシコード組曲第1集(1720年刊)にはそれらの教材となった楽章が含まれている可能性がある。明確に王女のための組曲とされているのは五女ルイーザのための2曲である(HWV 447、452)。

ヘンデルは王女達の中でも長女アンを「王女の中の華」と呼んで特別に可愛がっていた。おそらくヘンデルは彼女が10歳にもならない頃から音楽を教えていた。アンはヘンデルの指導により、極めて優秀な通奏低音奏者に育っていた。ある時、有名なカストラート、ファリネッリが王室を訪問した際、アンとファリネッリがヘンデルのアリアを初見で演奏した。ファリネッリは途中で挫折したが、アンは最後まで見事な即興でハープシコードを弾き通したとのことである。

1734年、アンがオレンジ公ウィリアムと結婚する折、ヘンデルはその前夜(3月13日)には劇場でセレナータ《パルナッソ山の祭礼》(HWV 73)を、翌日の王室内礼拝堂での結婚式(3月14日)においては結婚アンセム《今日この日こそ》(HWV 262)を演奏し、彼女の門出を祝った。元々、結婚式は前年11月に予定されており、「王室礼拝堂オルガニスト兼作曲家」であるグリーンがすでに音楽も作曲していた。しかし、オレンジ公の病気のため、結婚式が4ヶ月延期されると、結婚式用の音楽は新たにヘンデルに依頼された。おそらく、延期を好機にアンが自ら希望したのではないだろうか。結婚後も、ヘンデルは書簡によりアンへのレッスンを継続するほどであった。ともに1759年に没するまで、二人は仲の良い友人であった。

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