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「『笑点』の最初の頃は、はっきり言ってお荷物でした」失敗続きから国民的スターになるまで|林家木久扇×萩本欽一

林家木久扇×萩本欽一[特別対談]2回目/全4回

レジェンドに歴史あり!テレビの世界をどう生き抜いてきたか!?

 林家木久扇(86歳)と萩本欽一(82歳)ーー。  奇しくも、今年で芸歴64年目を迎える“同期”だ。同じ時代を駆け抜け、テレビというメディアを通じて日本中に笑いを届けてきた。お互いに相手を意識してきたお笑い界のレジェンド同士の初対談は、ますますヒートアップ。今回も、この二人にしかできない貴重な話が満載である。 【全4回の1回目はこちら】⇒林家木久扇が”欽ちゃん”に明かした「笑点卒業」を決めた、妻のひと言 【全4回の一覧を見る】⇒林家木久扇×萩本欽一[特別対談] ――木久扇さんが「笑点」で大喜利のレギュラーメンバーになったのは、1969(昭和44)年のこと。萩本さんが坂上二郎さんとコンビを組んだコント55号が大ブレイクしたのも、ほぼ同じ頃でした。 萩本:私が浅草の劇場でコメディアンの修業を始めた頃に、テレビがどんどん普及してきた。コント55号を結成する何年か前に、公開番組でCMのコーナーをやらせてやるって話があったの。でも、NGを19回出して、すぐクビになっちゃった。そのときは「自分はテレビには向いてない。もういいや」と思ったんだよね。 木久扇:のちの「視聴率100%男」にも、そんなことがあったんですね。ぼくも、「笑点」の最初の頃は、よくプロデューサーに注意されました。「キクちゃんねえ、どうしてすぐにしゃべってくれないの」って。カメラの上の赤いランプが点くのを待ってたから、ヘンな間があいちゃう。自分の特色も出せないし、はっきり言ってお荷物でした。 ――その後、お二人はテレビの特性を最大限に生かし、テレビの笑いを切り開いて、日本中を楽しませてくれました。 萩本:コント55号でテレビに出してもらえるようになったときに、二郎さんと「好きにやろう」って決めたの。もう、一回失敗してるんだから、ダメならまた浅草の劇場に戻ればいい。ディレクターに「カメラからはみ出さないように、この四角い枠の中でやってください」って言われたけど、「映んなくてもいいや」と思って動き回ってた。そしたら、そのうちカメラのほうが追っかけてくれるようになったんだよね。 木久扇:ぼくも、いつ番組を降ろされるかわからない状況で、どうせなら自分の好きなものをネタにしようと思って、鞍馬天狗や忠臣蔵のモノマネをやり始めました。大喜利でモノマネしたり歌ったりする人はそれまでいなかったこともあって、ウケましたね。 萩本:軽演劇で育った自分にとって、落語家の人たちは近いようで遠い存在っていうか、当時からあんまりつき合いがなかった。尊敬はしてたけど、落語の世界はちょっと敷居が高いと感じていたかもしれない。だけどテレビの中では、いわゆる名人芸よりも、モノマネや歌を盛り込んでワーッと盛り上げてくれる木久扇師匠の芸風のほうが輝くし、見てる人に喜ばれるんだよね。 木久扇:そこが高座とテレビの違いかもしれません。もともと「笑点」という番組は、私がレギュラーになる3年ぐらい前に、立川談志さんが作りました。欽ちゃんが言うように、その頃、落語という芸が少し敷居が高いものになりかけていて、談志さんは入りやすい入口が必要だと考えたんです。それから60年近く、誰もが入ってこられる入口の役割を果たし続けています。「あんなのは噺家のやることじゃない」なんて批判もずいぶんあったみたいですけど、あの番組がなかったら、落語は今ごろどうなっていたことか。 萩本:そのなかでも、木久扇さんは「ほらほら、落語って面白いよー」って、ひときわ大きな声で呼び込み役をしてきましたね。 木久扇:欽ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいですね。自分で言うのも何ですけど、古典落語もできるんですよ。師匠の八代目林家正蔵(のちの林家彦六)に、しっかり仕込まれましたから。NHKの「日本の話芸」で「名人」と言ってもらったこともあります。だけど、寄席のお客さんと違って、テレビの視聴者はじっくり落ち着いて聴いてくれるわけじゃありません。まずは何より、楽しんでもらうことがいちばん大事ですから。

漫画家になるはずが、いつのまにか落語の道に

――木久扇さんは、大喜利の概念を打ち破っただけでなく、「全国ラーメン党」を結成して自らもラーメンを売り出すなど、落語家の概念も打ち破りました。萩本さんも、笑いの素人さんを活用するなど、それまでにないスタイルの番組を多く作ってきました。その原動力はどこにあったんでしょうか。