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笹島康仁

海の向こうは北朝鮮 ――砲撃された韓国・延坪島の“日常と平和”

2018/10/05(金) 06:39 配信

オリジナル

もしも北朝鮮から攻撃を受けたら、どうなるのだろうか――。それが現実になった島がある。韓国北西部に浮かぶ延坪島(ヨンピョンド)。8年前の2010年11月、北朝鮮から砲撃を受け、民間人に死者も出た。その後、島には新たな軍事施設ができ、兵士の数も増えた。そんな島に人が住み続けるのは、なぜだろう。南北や米朝の首脳会談が続いていたこの夏、島に足を運ぶと、北朝鮮に故郷を持つ島民もたくさんいた。郷里を思いながら海辺の町で穏やかに過ごす人々、兵役中の息子との再会を喜び合う家族、北朝鮮の見える砂浜で海水浴を楽しむ子どもたち……。「脅威」「圧力」だけでは語り尽くせない、日本からは見えない「国境」の姿があった。(文・写真=笹島康仁、動画=大矢英代/Yahoo!ニュース 特集編集部)

8月18日 「死ぬ前に、もう一度故郷を」

延坪島取材はこの8月18日から5日間だった。

その初日、土曜日の午前9時。仁川(インチョン)港を出た高速船は、家族連れや観光客、軍服姿の若者たちでごった返していた。空席はほとんどない。釣り道具を抱えた人も目立ち、子どもたちのにぎやかな声が響く。

「北朝鮮との境界線まで最短で1.5キロ」の島に行く船とはとても思えない。

約2時間半の船旅。はしゃいでいた子どもも、島が近づく頃にはぐっすり眠っていた(撮影:笹島康仁)

延坪島は大小二つの島からなり、人口は2000人ほど。「大延坪島」が砲撃を受けた。仁川から島へ向かう船は1日1往復

船室で左隣に座った男性は今年80歳になったという。

今は「北朝鮮」となった土地で生まれ、日本の植民地支配も経験した。1950年、朝鮮戦争が勃発すると、砲弾から逃れるために南へ。当時11歳。いつか帰れると思っていたが、すでに70年近くが過ぎた。

朝鮮半島を南北に引き裂いた戦争は、今も「休戦」のまま続いている。それでも今年、南北関係は急展開した。4月、11年ぶりの南北首脳会談が板門店で行われると、年内の終戦宣言を目指すことで合意。9月には今年3回目の首脳会談が平壌であった。関係改善に向けた一連の動きの中で、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「これ以上半島で戦争は起きない」と宣言した。

高速船の男性はこうした関係改善の動きを見て、初めての延坪島行きを思い立った。延坪島からは故郷の土地が見えるという。

「今までは怖くて来られなかった。けれど、南北関係がよくなったから行くことにしました。死ぬ前にもう一度、ふるさとを見たかったんです」

延坪島の港に降り立つ乗客たち。観光客だけでなく、兵士も多い。左手前は「死ぬ前にもう一度、ふるさとを見たかった」という80歳の男性(撮影:笹島康仁)

「まさか砲撃されるなんて」

この男性が「怖くて来られなかった」と言う背景には、もっともな理由がある。延坪島周辺の海では、両国軍の衝突が繰り返されてきたからだ。特に1999年と2002年の軍事衝突は「延坪海戦」と呼ばれ、両国軍に死傷者を出した。島の目と鼻の先で戦闘は起きたのだ。

それでも、多くの島民は「島は安全」と信じていたという。民宿を営むキム・ヨンシクさん(68)も「まさか町内に砲弾が落ちるなんて、想像もしていませんでした。それに、生活の基盤はこの島にあり、簡単には離れられません」と話した。

海の向こうの北朝鮮を指すキム・ヨンシクさん。テレビ局の市民記者でもある(撮影:笹島康仁)

その「まさか」は2010年11月23日、現実になった。

北朝鮮が突如、砲撃を始め、発射された砲弾約170発のうち約80発が島に着弾した。兵士2人に加え、軍の施設で働いていた民間人2人が死亡。着弾は住宅地にも及び、民間人3人を含む19人がけがをした。民間人の死者が出たのは、1953年の朝鮮戦争休戦以来、初めてだった。

あの日、キムさんは自宅でキムチを漬けていた。爆音に驚いて外に出ると、すでにあちこちで火の手が上がっており、砲弾は住宅地の南から北へと次々に落ちていったという。

砲撃を受け、火の手の上がる延坪島。多くの人が家にいない時間だったため、死傷者は少なかったという(提供:キム・ヨンシクさん)

キムさんは言う。

「数日前、韓国軍が砲撃演習の予定を公表すると、北朝鮮は『延坪島は私たちの土地だ。もし演習を行えば報復する』と言ってきました。韓国はそれを無視したのです。自分たちの領海で訓練するのに、まさか北朝鮮が撃つはずがない、と。砲撃演習を始めてしばらくすると、北朝鮮から砲弾が飛んできた。そんなふうに事件は起きたんです」

北朝鮮軍の直撃弾を受けた兵士の遺体はバラバラになり、胸のバッジが近くの木に突き刺さっていたという。そのバッジは今も木に保存されている(撮影:笹島康仁)

砲撃後、兵士は増えたけれど……

砲撃事件をきっかけに島の日常は一変した。

政府は新たな軍事施設に加え、これまでの軍事衝突や砲撃事件について学ぶ「安保教育センター」もつくった。さらに島内8カ所にシェルターができ、住民は警報が鳴るたび避難した。

砲撃後に整備された避難所。南北首脳会談以降は避難することがなくなったという(撮影:笹島康仁)

砲撃事件のとき、ある女性は砲撃で崩れた屋根で腕にけがを負い、入院した。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と見られる症状が出て、大きな音でパニックになるようになったという。

彼女のほかにも、砲撃後、不眠や高血圧に悩まされるようになったと訴える島民に何人も出会った。

腕にけがをしたという女性。PTSDを発症した。「今でも薬を飲んでいます。でも、この苦しみを誰が分かってくれますか」(撮影:笹島康仁)

延坪島の役場によれば、砲撃後、島に駐留する兵士とその家族は約600人増えた。兵士の数は非公表だが、役場などへの取材を総合すると、住民約2000人のうち半数以上になる。

しかし、この夏に訪れた延坪島は驚くほどのどかだった。

特産のワタリガニの漁期を前に、漁師たちはカニかごの準備に追われていた。グラウンドでは住民たちがウォーキングを楽しみ、子どもたちはサッカーに夢中だ。

漁を前に仕掛けの点検をする漁師たち(撮影:笹島康仁)

学校の校庭でサッカーを楽しむ休日の兵士とそれを見る子どもたち(撮影:笹島康仁)

兵士たちも休日はサッカーやテニスを楽しんでいる。

夜のコンビニ前で後輩と談笑していた若い男性兵士は、日本のドラマや俳優の新垣結衣さんが大好きだと言い、「日本の女性と結婚するのが夢です」とはにかんだ。迷彩服を着ていることと、先輩とすれ違うたびに「必勝(ピルスン)」と声を上げて敬礼することを除けば、ほかの島民と差はない。

8月19日 「予想よりずっと『平和』」

韓国には徴兵制があり、若い男性は兵役に就かなければならない。だから、基地のある延坪島に向かう船には、面会に訪れる恋人や家族もたくさん乗っている。

再会を喜び合う2人。高速船から下りた女性を、兵士が出迎えた(撮影:笹島康仁)

日曜だった19日の昼、港に現れたコン・ソンデさん(60)もその一人。三男が島の海軍に入っており、長男と次男を連れて面会に訪れた。日本で働いた経験もあるといい、「一度は面会に来ないと、後で根に持たれるけん」と流暢な日本語で話してくれた。

仁川行きの船に乗る別れ際、コンさんは島の部隊に戻る息子を抱き締めた。その後、待合室に戻ったコンさんは何度も目元をこすり、涙をぬぐっている。

兵役の続く息子を心配するコンさん(撮影:笹島康仁)

コンさんも、延坪島は初めてだった。

島は「考えていたよりもずっと平和」だったという。それでも不安はある。その心情を日本語でこう明かす。

「(北朝鮮とは)仲良くやっていきたいんやけど、(朝鮮戦争から)もう70年ほどになっても、まだこういう状態やけん。自分が小さい時と変わっていないわけやから。勤務は緊張の中でしょう? 爆弾がいつ飛んでくるかも分からない。(息子には)最後まで無事であってほしいです」

別れ際に息子を抱きしめるコン・ソンデさん。「常に安全第一で、落ちている石一つにも気をつけて」と声を掛けた(撮影:笹島康仁)

コンさんは続けた。

「これからも首脳会談をやると聞いている。うまくやってほしいです。やっぱり平和がいいですから。仲良くならないと……。感情的にならずにね」

8月20日  始業式の日に学校で

8月20日、月曜日。夏休みが終わり、子どもたちが学校に戻ってくる日だった。午前8時半。徒歩や親の車で続々と子どもたちが学校にやってくる。自転車で出勤する兵士の姿もそこに交じっていた。

算数の授業を受ける小学生。島唯一の学校には園児から高校生まで164人が通っている(撮影:笹島康仁)

「子どもたちは都会の子と違ってよく遊ぶし、よくしゃべる。島はいいですよ」と言うのは、学校長のアン・クァンギさん。島の大学進学率は90%を超えていて、日本への留学を希望する子どもたちもいるという。

北朝鮮のことは、どう教えているのだろうか。

「核やミサイルのことよりも、私たちのほうでできることをやり、少しずつ関係を変えていこうと教えています」

学校長のアン・クァンギさん。若いときは徴兵で海兵隊員となり、延坪島より北側の白翎島(ペニョンド)で勤務したこともある(撮影:笹島康仁)

同席した男性教員はこう補足した。

「日本にとって北朝鮮は『主敵』ですよね。それは韓国にとっても同じです。でも、それだけではない、というところが違います。『平和』に向けた手も打ちます。ここは国境ですから、全てを『敵』にしてしまえば生活が成り立ちません。100パーセント信じることはできないけれど、時には助けの手を出すことも必要なんです」

首長「島民は融和を歓迎」

学校のすぐ隣に延坪島の役場があり、首長のジョン・ジェホさんに会うことができた。その話によると、多くの島民は「平穏な生活を送れるようになった」と言い、最近の「緊張緩和」を歓迎しているという。

「北朝鮮は海岸に砲台をずらりと設置しています。砲門が開くと、退避放送が流され、住民たちは避難しなければなりません。そこで生活が止まるわけです。しかし、(4月の)首脳会談以降は海岸砲の砲門が開かれることはほとんどなくなりました」

首長のジョン・ジェホさん。島で生まれ育ったという(撮影:笹島康仁)

関係改善は島の産業にも恩恵をもたらす、とジョンさんは続ける。

延坪島は古くから漁業が盛んだが、軍事境界線が目の前にあるため、操業範囲が狭く限られている。夜間の操業もできない。

「首脳会談がうまくいけば、漁民たちは夜間操業が可能となり、所得が上がります。共同漁場・市場をつくる話もあり、住民は期待しています」

島特産の魚「チョギ(イシモチ)」(撮影:笹島康仁)

首長のジョンさんは「国連などを通じて制裁を加えればいいというものではない」とも言った。

「島の住民たちは平和統一を願っています。望んでいることは、『安保の壁』であるよりも、平和に、生活に支障なく、心安らかに自分の仕事に専念できる日々なのです」

島の高台に登ると、北朝鮮の漁船が見えた。100隻を超えていた(撮影:笹島康仁)

8月21日 「帰りたい。けど、故郷に恋しいものはない」

島を案内してくれたキム・ヨンシクさんによれば、島民のほとんどが北側から避難してきた人やその子孫である。だから、故郷に近く、目にすることができるこの島を離れられない。

キムさん自身も生後半月で母親に背負われ、延坪島に逃れてきた「失郷民(シリャンミン)」の一人だ。亡き父親は酒に酔うと、故郷を懐かしむ歌を歌っていた。その記憶は今も消えない。

キムさんの母親(92)にも話を聞いた。

延坪島へ逃れた時のことを振り返るキムさんの母親(撮影:笹島康仁)

「(北朝鮮に残った)両親が恋しいけれど、亡くなったから、もう会えない。もしも統一されたら、今からでも行ってみたい。けれど、故郷にはもう恋しいものがない。来年まで生きていられるかどうかも、分からないわね」

1950年に朝鮮戦争が始まった時、息子のキムさんはおなかの中だった。

「母が『産んでから行きなさい。南に行ったら、水ももらえやしないわよ』って。だから、しばらく(北側で)私一人で暮らしていて、この子を出産して半月後に夫が迎えに来たの」

北端の岬にある「望郷碑」。碑文には〈母が眠る故郷の地を 私の老来には踏めるだろうか〉とある(撮影:笹島康仁)

キムさんの父母は生まれたばかりの子どもを連れ、延坪島に向かう船を目指した。ところが、海まであと少しという場所で、行く手を川に遮られたという。母が続ける。

「その川を渡れば船に乗れたのよ。でも、その日は一晩中雨が降って……。傘を差して待っていたけれど、川の水が減らなかった。明るくなってきた頃にようやく雨がやんだの。川がちょっと落ち着いてきたから、夫が私たちをおぶって川を渡ったの」

母親の隣で話を聞くキムさん(撮影:笹島康仁)

周りには同じような避難民が19人いた。川を渡りきれずに死んだ人もいて、遺体を引き揚げて埋葬したという。

「夫が私と赤ちゃんを背負って川を渡りきった時、この子は泣かなかったのよ。動かないの」と母は言い、隣に座るキムさんの腕に触れる。

「夫に『赤ちゃんが死んじゃったみたい』と言ったの。けれど、夫がちょっとつねったら赤ちゃんがぴくっと動いて、『大丈夫。心配するな』って。そうして延坪島へ渡る船に乗って、島に着いてからお乳を飲ませたのよ。そんなふうに北朝鮮を出てきたの」

「憎いのは政治です」

キムさんによれば、島には時折、北朝鮮の住民や兵士の遺体が打ち上げられる。取材の2週間ほど前にも、女性の遺体を見つけたという。

「海に浮いていました。仰向けで。上半身は裸で、下は黒いズボン。腐敗が進んでいるようでした。脱北の途中かどうかは分かりません。北朝鮮の住民が着ている衣服がとてもみすぼらしくて……。かわいそうです」

「北朝鮮の人たちを助けたい」と話すキムさん(撮影:笹島康仁)

北朝鮮の見える岬で、キムさんは言った。

「北朝鮮の人々も同じ血筋、同胞です。ところが、政治のせいで私たちが彼らに砲撃されたんです。そうじゃないですか? 政治の争いのせいで、私たちが苦しむのです。これは普通のことではありません。北朝鮮が憎いのではありません。憎いのは、政治です」

取材最終日の8月22日。

延坪島から仁川に向かう船には、やはり大勢の人が乗っており、行きと同じようなにぎやかさだった。

取材を終えた8月22日早朝の延坪島。港に向かう道を歩く女性が小さく見えた(撮影:笹島康仁)

【文中と同じ動画】


笹島康仁(ささじま・やすひと)
高知新聞記者を経て、フリーランスジャーナリスト。

大矢英代(おおや・はなよ)
琉球朝日放送記者を経てフリーランスジャーナリスト、映画監督。ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」(共同監督)が劇場公開中。
https://hanayooya.themedia.jp/

[写真]撮影:笹島康仁、提供:キム・ヨンシクさん
[動画]撮影・編集:大矢英代、音楽:藤山拓善
[取材協力]李洪千・東京都市大学メディア情報学部准教授


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