2019年4月30日に幕を下ろす「平成」。マイナビニュースでは、「平成」の中で生み出されたエンタメの軌跡をさまざまなテーマからたどる。この「平成テレビ対談」は、「バラエティ」「クイズ」「ドラマ」「ドキュメンタリー」「音楽番組」「アナウンサー」という6ジャンルで平成に活躍したテレビマンたちが登場。平成のテレビを振り返りながら、次の令和時代への期待を語り合っていく。

「アナウンサー」からは、フジテレビで『タイム3』『スーパーニュース』などに出演し、3月で同局を離職した須田哲夫氏と、TBSで『ニュースの森』『みのもんたの朝ズバッ!』などに出演し、現在は『全力!脱力タイムズ』(フジ)などのバラエティ番組でも活躍する吉川美代子氏。前編では、東日本大震災、オウム真理教、東西ドイツ統一など、平成に起きた大災害・大事件・歴史的出来事を報じてきた2人に、当時を振り返ってもらった――。

  • 須田哲夫氏(左)と吉川美代子氏

    須田哲夫氏(左)と吉川美代子氏

■『脱力タイムズ』は居心地がいい

――意外にもお2人は今回が初対面なんですよね。

吉川:そうなんです。でも、今の皇太子さまのご成婚特番で、須田さんはフジテレビの中継を担当していましたよね。TBSは私だったんですよ。

須田:そうでしたか!

――お互いの印象は、どう見ていたんですか?

吉川:私は学生時代から須田さんを拝見していました。『3時のあなた』をおやりになっていましたが、あの番組はメインのMCが女性で、アシスタントが若い男性で新鮮でした。

須田:スクリーンに出ていた女優さんを引っ張り出してきたんですよね。私は高峰三枝子さんに、アナウンサーの先輩が教えてくれないことをいっぱい学びました。「須田君、テレビ局に入ったら違う世界の人と付き合わなきゃダメよ」って。でも、吉川さんと言えば報道一筋のエキスパートというイメージしかなかったので、今のご活躍が信じられないです(笑)

――『全力!脱力タイムズ』ですね(笑)

須田:すごいですよねぇ。長い間やってるとやっぱり得手不得手あるじゃないですか。私もバラエティをやったんですけど、どうも情報番組や報道番組のレギュラーをやっていると、ノリが悪いんですよね。タモリさんとも(ビート)たけしさんとも、(明石家)さんまさんとも一緒にやりましたが、どうしていいのか分からないんですよ。

――吉川さんは長年報道をやられていた中で、バラエティに出たときはどんな心境だったんですか?

吉川:報道で総理や日銀総裁にインタビューするときは、相手に飲まれないように堂々と聞くべきことを聞かなければなりません。その経験があったので、たけしさんやさんまさんといった超が付くビッグスターを前にしても、そんなにドキドキすることはないんですよ。それと私は、新人アナの頃は、大沢悠里さんがパーソナリティーを務めていたラジオのワイド番組(『大沢悠里ののんびりワイド』)のアシスタントをしていたので、かなりの下ネタに免疫ができましたから。バラエティの下地はこの頃にできたと思います。だから、当時一緒にやってた人からは「昔のラジオのときの美代ちゃんを見てるみたい」って言われます。

――でも『脱力タイムズ』は普通のバラエティとは違う役割を求められますよね。

吉川:あれは“解説員・吉川”になりきってやってるんです。素の吉川美代子だったら、恥ずかしくてできませんから(笑)

須田:居心地はどうなんですか?

吉川:いいですね。本当に面白くて、有田(哲平)さんって天才だと思います。

須田:昔、毒蝮三太夫さんが「芸人は上手いか下手かじゃないんだ。その行き先々の水に合うか合わないか」だとおっしゃっていたのを思い出しました。居心地がいいというのは、水に合ってるんですよ。

吉川:収録の間、なんとなく自分が浮いてるなって感じる番組もありますもんね。

  • 『全力!脱力タイムズ』(フジテレビ系、毎週金曜23:00~)
    最新ニュースや社会問題を、有識者たちが独自の視点から解説していくニュースバラエティ。4月26日の放送では、“新時代に残したい匠の技”を特集するが、解説員の齋藤孝が“覚醒”して…。
    (写真左から)岸博幸氏、吉川美代子氏、齋藤孝氏 (C)フジテレビ

■アナウンサーもすごい戦いをしていた

――さて、本題に入っていきたいと思うのですが、長年の間、報道・情報番組でご活躍されてきたお2人にとって、平成の中で印象に残っている取材はなんですか?

吉川:平成元年はベルリンの壁の崩壊があった年。翌年、東西ドイツ統一直前にベルリンで1週間以上取材して、ブランデンブルク門から生中継特番を担当したんです。ヨーロッパと言えば、東西冷戦をテーマにしたスパイ映画とかスパイ小説の舞台だったのに。冷戦時代が終わる過程とその歴史的瞬間を自分の目で見られたことですね。

須田:あれは100年・200年サイクルでも大きな変革ですよね。

吉川:そうですね。世界中から報道陣が集まり、私たちはホテルが取れなくて、結局スタッフがバラバラに西ベルリン側と東ベルリン側のホテルや下宿に泊まっての取材でした。

――西側のほうが全然施設がいいんですよね。

吉川:壁はなくなっていて、東西を自由に行き来できるんですけど、車で走って道がガタガタなったら東側に入ったんだなって分かるくらいです。トイレットペーパーの質も違いましたね。西ドイツは威信をかけて、ヨーロッパで一番大きいデパートを西ベルリンに作ってましたし。私は運良く西側のアパートを借りて寝泊まりました。それで、東ドイツの放送局の人たちにも協力してもらいながら、統一を伝える特番をやったんです。

――須田さんはいかがですか?

須田:いろんな事件・事故をずいぶん取材しましたが、平成時代はやはり災害ですね。東日本大震災を筆頭に豪雨被害など、いろんな被災地に行きました。ただ、災害は平成での大きな不幸でしたが、そこで生まれたものは大事にしなくてはいけないと思うんです。日本は高度経済成長の波に乗ってグングン伸びて、こうすればお金が稼げるんだ、勉強すればいいんだってやってきたのが、災害がこれだけあると、人への優しさとかいたわりとか寛容というものが、やはり大切なことなんだという考えが出てきたと思うんです。そういう意味で、日本人が世界に誇れる本質的な大事なものを、初めて身にしみて感じた30年だったのではないでしょうか。

――吉川さんにとって、災害との向き合いはいかがでしたか?

吉川:東日本大震災では、東北各地のアナウンサーたちが取材の過程で、放送で流すことのできない酷い状態の遺体をたくさん見たんです。あまりの惨状に、それがトラウマになってしまったアナウンサーが何人か出ました。地方局なのでアナウンサーの数も少なくて代わりの人がいないから、トラウマを抱えたまま、その後もずっとレポートを続けなくてはなりませんでした。局内で待つ側も、取材から戻ってきたアナウンサーたちになんて声をかけてよいのか分からないという悩みもあったようです。そこで、1回ラジオでご一緒したことがあった、阪神大震災のときからジャーナリストの災害報道でのトラウマを研究してる学者の方が作られた、取材中のトラウマ対応の冊子をすぐ東北各県の放送局に送ったところ、大変役に立ったと反響が大きかったんです。あらためて、東日本大震災では、アナウンサーたちもすごい戦いをしていたんだなと思いましたね。

――そんな知られざる事実があったんですね…。

吉川:今でも仕事は続けているけれど、トラウマから完全に立ち直っていない方もいると伺っています。

■オウム取材…上九一色村は異様だった

――平成と言えば、一連のオウム真理教にまつわる事件も大きな出来事でした。

須田:特番は毎日やりましたし、(出家信者の収容施設「サティアン」が建てられた)上九一色村にもずいぶん行きましたし、中の道場も取材しました。今思えば、異様な体験をしましたね。

吉川:私も“Xデー”(麻原彰晃逮捕)が近いと言われたときに、上九一色村に行きました。あの上九一色村は異様でしたよね。TBSは坂本弁護士一家事件のきっかけとなってしまったことがあったので、触れたくない過去でもありましたけど、その後のサリン事件も含め、オウムがここまでやるとは誰も思わなかったですね。