かしまし娘・正司花江さん 撮影/齋藤周造

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 お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアと表現で人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く集中連載。新シリーズ、かしまし娘・正司花江さんの第1回。

【写真】ストリップ劇場に出ていた、デビューしたてのかしまし娘

初舞台は大阪のストリップ劇場

 ♪ウチら陽気なかしまし娘♪と始まるオープニングテーマを美しいハーモニーで歌って登場していた、姉妹のトリオ漫才師・かしまし娘。

 長女の正司歌江さんは着物姿で三味線を、次女の照枝さん、三女の花江さんはおそろいの洋服姿でギターを奏で、華やかで楽しいステージを繰り広げる。昭和の中期から後半にかけて活躍。今も「かしまし娘は、芸達者で面白かった」と評価は高く、お笑い界のレジェンド的存在だ。

 昭和の女性芸人は、お笑い界においてどう道を切り開いてきたのか。87歳にして、今も元気に活動する三女の花江さんに、語ってもらった。

「かしまし娘を結成したのは昭和31(1956)年。もう67年もたつんやね。今では長女の歌江姉ちゃんが93歳。次女の照枝姉ちゃんが89歳。私は87歳。えらい年齢になってしもた。でも、私はまだまだやる気十分の現役ですよ」

 相変わらず背筋はピンと伸び、肌も声もつややかな花江さん。かしまし娘の結成当時は19歳だった。

「3人で漫才を始めた、かしまし娘としての初舞台は大阪の『南街劇場』というストリップ劇場でした。ウチらは裸にならないわよ。なっても迷惑やからね(笑)。ストリップの合間の出番です。3人で漫才するのは初めてやったのに、それがうまいこといったのよ」

 寄席や劇場で活動をスタートし、3人はたちまち人気者に。民間放送が始まったばかりの時代に、ラジオやテレビでも活躍するようになる。

「それまで、寄席で浪曲をやったり、ジャズを歌ったりする人もいたけど、みんな専門分野だけで、私たちみたいにどのジャンルも弾いて歌っては珍しかったの。しかも、若い女の子が、3人で華やかな衣装を着て、漫才として舞台に立つというのは、他におらんかったからね。だから、ええ線まで行けたんと違いますかね」

 歌江さんは民謡、照枝さんはジャズ、花江さんは演歌が得意だった。3人でいろんな曲を演奏し、そこからハーモニーになったり、替え歌になったり。

 そして、姉妹ならではの丁々発止のやりとりで笑いをとる。3人のテーマソングの中に「お笑い、おしゃべり、ミュージック」という歌詞が出てくるように、かしまし娘の漫才は、歌あり笑いありの、総合エンターテインメントだった。

「実を言うと、ウチは漫才が好きやなかったの」

 かしまし娘として上方漫才大賞の初代大賞受賞者でもある花江さんは、意外なことを口にした。

天才少女歌手としてトリを務める

 花江さんは、昭和11(1936)年生まれ。父は旅まわりの一座を率いる興行師、母は歌や芝居を披露していた、一座の看板芸人だった。

「当時は、劇場の楽屋で座員みんなで寝泊まりをして、旅まわりをしていたので。うちは姉妹全員、巡業先の劇場の楽屋で生まれているんです。歌江姉ちゃんは北海道の歌志内、照枝姉ちゃんは小樽、私は秋田の劇場の中で生まれたと聞いてます」

 定住の家はなく、一家で巡業先に行き、劇場で興行しながら楽屋で生活。そこで生まれた子どもたちも、一緒に次の劇場へ移動し興行する、という暮らしがずっと続く。

 姉ふたりがそうだったように、花江さんも3歳のときにはもう舞台に立っていた。

「初舞台がどこだったかも覚えてない。もう80年以上も昔のことやもんね。たぶんそのころの流行歌を歌ってたんやと思うけど。一座にはバンドの人もいたんでね。元は交響楽団にいたバイオリン担当の人が、譜面の読み方や、ギターの弾き方を教えてくれたんです。私、小さいころから、音楽が好きやったんで、楽屋にあるギターも勝手に弾いて練習してたし。舞台に立って歌うのは楽しかった」

 2つ下に四女が生まれ、状況が変わった。

「妹は足が不自由でね。世話をしないといけない状態だったし。お母さんはそれから病気がちになってしまって。私がもの心ついたとき、母はもう舞台に立っていなかったんです」

 少女漫才として評判を呼ぶようになっていた姉ふたりが、神戸の興行師からスカウトを受け、関西を中心に活動をするようになった。それを機に一家は旅まわりをやめ、大阪で定住。しかし、少女歌手として稼ぎ手でもあった花江さんはひとり別の一座に預けられ、家族と離れて巡業に出るようになった。まだ5歳のときである。

「“天才少女歌手”……なんて自分で言うのもなんですが(笑)、一座の座長として、トリ(出番の最後)で歌ってたんです。“鼻低いけど、声高い”ってキャッチフレーズで、どんな流行歌でも歌ってました。親はそばにいないし、まわりは大人ばっかりで、いじめられたこともありましたけど。母の妹である叔母がずっと一緒に巡業についてくれてましてね。自分の子どものように可愛がってくれたんで、寂しい思いはそんなにしてないですね」

 児童福祉法もない時代。親元を離れ学校にも行かず、舞台に立つ毎日を送っていた。

「舞台に立つのは好きやったから、楽しかったけど。学校は行きたかった。勉強して女性弁護士になるのが夢やったの。それで、7つになったら大阪の学校に行こうと思っていたのに、お父さんにまた“旅公演に行きなさい”って言われて。

 親に口答えできる時代と違うからね。私も稼がなあかんと思ったし。逆らわずに、“はい”って、また巡業に行ったんです。でも、あのときの経験があるから今の私があるんやと思うの」

  学校に行けないかわりに、勉強を教えてくれる家庭教師をつけてくれた。

「ところが、その人が、一座についてまわってたら漫才が好きになりはって。全然勉強教えてくれんと、漫才を教えてくれて、一緒に漫才しようってなった。だから、私の初めての漫才は、家庭教師が相手やったんです。歌うし、漫才もするし、当時は踊ってもいましたね」

 太平洋戦争に突入してからも、巡業に出ていた。

「私は大阪が空襲を受けたときは、巡業に出てたし、巡業先でも爆撃にあったことはないんです。姉たちは、大阪の劇場が焼けて、亡くなった人を見ながら家に帰ったって言ってましたね」

歌江姉ちゃんがバンドマンと恋仲に

 昭和20(1945)年、母が結核で亡くなった。

「なんとか死に目にはあえましたけど、実の母とはあまり一緒に暮らしてこれなかったので、思い出があまりなくて……。それからずっと私を世話してくれてた叔母が父の後添いに来て、新しいお母さんになってくれたんです。ウチは小さいころからなじんでるし大事にしてもらったので、幸せでした。歌江姉ちゃんは複雑な気持ちやったみたいですけどね」

 その年の8月に終戦。花江さんは呼び戻され、歌江さん照枝さんの少女漫才と花江さんの歌の二枚看板で、一緒に公演を打つようになった。

 ところが、昭和23(1948)年、歌江さんが突然離脱。

「歌江姉ちゃんはバンドマンと恋仲になって。お父さんに大反対されたんですけどね。勘当同然で結婚しはって。一座を出ていくことになってしもたんです」

 歌江さんの著書によると、当時は合法だった「ヒロポン」の中毒にかかっていて、その療養もしなければならない状態だったようだ。

 歌江さんと照枝さんとの漫才コンビは解散。そこで妹の花江さんが代わりに、照枝さんと漫才をすることになった。

「私、漫才嫌いやったんです。なのにやらなあかんようになったから、悲しくて。当時は、漫才はややこしい顔の人が見た目をネタに笑いをとるもんと思ってたし(笑)、私は歌のほうが好きやったから。けど、断れない性分やしね」

 すでに漫才師として人気だった照枝さん、歌の上手な花江さんの新コンビ。これがさっぱり売れなかった─。

構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など