「栄養費問題」を経て2004年、楽天ドラ1で入団した一場靖弘

 2020年のドラフト会議では、支配下選手74人・育成選手49人、合わせて123人の新人選手が指名された。そのなかで、栄光の “ドラ1” は12人。

 2020年の目玉として注目された、近畿大学の佐藤輝明(21)は、4球団から1位指名を受け、阪神タイガースが交渉権を獲得。一方、早稲田大学の早川隆久(22)も4球団が競合したすえ、東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉権を獲得した。

 現在、ドラ1(大卒以上)は、契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円程度が “相場” となっているが、かつては青天井の時代もあった。10億円超の大金が飛び交ったこともあったという。そこで今回、かつてのドラ1選手たちに、入団交渉の舞台裏を聞いた。

 まずは「コンプライアンス」という言葉すらなかった昭和時代。1980年、当時のドラ1高校生では最高額となる、契約金4800万円、年俸450万円でロッテオリオンズ(当時)に入団したのが、愛甲猛氏(58)だ。同期のドラ1には、巨人の原辰徳監督もいた。

「大学出身だった原さんの契約金は8000万円。本人は、『手取りね』って言ってたけど(笑)。マジかよって思ったよ。計算したら額面で2億円ぐらいある。そりゃ、ビルも建つよ」

 当時から、ドラ1での入団には “裏特約” があったという。

「僕の場合、『3年間は、どんな成績でも年俸が下がらない』という契約だったんですよ。あとは、『自分からロッテを出て行かない限りは、終身雇用』という約束でした。

 その後、ロッテに15年間在籍して、引退を打診されたとき、球団は約束を守ってくれて、千葉県内の巡回コーチ就任を打診されました。でも、現役をやめたくなかったので、中日に無償トレードしてもらって、ロッテとの縁は切れました」(愛甲氏)

 やはり、ドラ1は特別なのだ。1987年に、巨人にドラ1で入団した橋本清氏(51)にも話を聞いた。

「僕は契約金6000万円、年俸は480万円と、高卒ドラ1としては最高の評価をしてもらいました。ただ入団交渉の席で、『契約金を下げてもかまわないので、年俸を少し上げてもらえませんか?』とお願いしたことを覚えています。

 昔から知っていた伊良部秀輝(当時ロッテ)の年俸が、僕よりも少し高かったので、対抗心でした。球団からは却下されましたけどね(笑)」

 橋本氏は、巨人で12年間プレーしたが、現役時代に “ドラ1の特権” を、さまざまな場面で感じたという。

「ドラフト8位の選手と比べたら、チャンスを与えてもらえる回数は、オーバーじゃなく100倍くらいはあったと思います。僕は、一軍で結果を出すのに6年かかりましたが、辛抱強く使ってくれました。

 結果を出したあとも、トミー・ジョン手術を含め、肘に2度メスを入れたのですが、その手術代は球団持ちで、完治するまでクビにせずに待ってくれました。それこそが、巨人ドラ1の特権で、入団したときから退団するまで本当に大事にしてもらいました」

 2人の話を聞くと、かつて愛甲氏や橋本氏と同じく、甲子園を沸かせた日本ハムの斎藤佑樹(32)が、2020年シーズンで入団以来初となる一軍登板ゼロながらクビにならないのも、入団時に “裏特約” があったのではと勘繰ってしまうが……。

●巨人のある選手は、実家に高級車が届いた

 平成の時代、さらにドラ1が特別だった時期があった。1993年から2006年まで採用された、希望入団枠制度(逆指名制度・自由獲得枠制度)である。球団による選手の囲い込みが問題視されたため、導入された制度だった。

 それまでは、ドラフト候補の選手本人や両親、野球部監督などの関係者へ多額の裏金を渡したり、いったん関連企業に入社させたあとに、あらためて入団させるなどの “裏工作” をおこなうチームがあったのだ。じつは愛甲氏も、この手法で西武への入団を目論んでいたという。

「当時、西武の球団管理部長だった根本(陸夫)さんと、プリンスホテルの総支配人だった幅(敏弘)さんにお世話になっていました。

 あの年のドラフトは、西武は石毛(宏典)さんの1位指名が決まっていて、原さんが複数球団の競合になることがわかっていた。だから、『愛甲は外れ1位で指名されるから、2位で獲れるわけがない。いったん(社会人チームの)プリンスに入ってから西武に来てくれ』と。

 プリンスの入団条件はすごかったです。支度金2000万円と、僕の地元近くにあった西武が開発する、高級分譲地に家を提供するって言われました。

 だけど、ロッテが予想外に僕を単独1位で指名してきた。ドラフト当日のあの顔は、嫌がったんじゃなくて驚いただけ(笑)。ロッテに西武との “家提供” の密約の話をしたら、ショボい物件を提示してきたんで断わりましたけどね」

 当時、巨人と西武は露骨な新人獲得工作をおこなっていた。逆指名制度開始以前に入団した橋本氏も、うらやましく思ったことがあるという。

「契約金以外にお金をもらったり、高価なプレゼントをされたりは、僕の時代にはなかったですから。逆指名制度が始まってからでしょうね。上限の契約金以外に、5億円とかもらった選手がいると報じられましたよね。

 実際に誰とは言えませんが、巨人のある選手から聞いたことがあります。知らないあいだに実家に高級車が届いていたり、帰省したら家がきれいにリフォームされていたりとか(笑)。父親が経営する会社に仕事を斡旋するといったこともあったようです。『僕も、あと10年遅く生まれていたら』と、本気で思いましたよ」

 自由枠制度が始まってから、今度は「栄養費問題」が持ち上がった。渦中の人だった、一場靖弘氏(38・楽天→ヤクルト)が、当時を振り返る。

「明治大4年時に、もう巨人入りは決まっていたんですが、栄養費問題で全部白紙になってしまいました。巨人から明治の監督さんに、『もう、うちは指名しない』と連絡が来ましたよ。

 同じく関与していた横浜も、『指名は難しい』ということで、そちらの話もなかったことになってしまいました。自分でやったことなので仕方ないんですが、まさかこんな事態になるとは、想像もしていませんでした」

 栄養費問題とは2004年、ドラフト自由枠で一場氏の獲得を目論んでいた複数の球団が、日本学生野球憲章に反して現金を渡していたことが発覚したというものだ。

 巨人が食事代や交通費・小遣いなどの名目で数回にわたり総額約200万円、横浜が約60万円、阪神が約25万円を渡していた。広島は交通費2000円。すったもんだの末、一場氏は新規参入球団だった楽天ゴールデンイーグルスから、自由獲得枠指名を受けて入団することになった。

「逆指名の形でしたけど、いろいろ問題を起こしたこともあって、金額や待遇に関しては、表で提示されたもの以外は、なんにもなかったですね。契約金1億円と出来高5000万円、年俸1500万円。終身雇用とか一軍確約とか、特別待遇はいっさいなかったです。『自力で頑張ってくれ』と」

●裏金全盛期は5億円なんか安い方で……

 そして、同年のドラフトで、横浜ベイスターズが自由獲得枠で指名したのが那須野巧氏(38・横浜→ロッテ)。横浜は一場氏から那須野氏獲得へと方針転換したわけだ。だが、ここでも「裏金が動いていた」と、那須野氏が明かす。

「球団が裏金を出すって言うから、もらっただけなんですけどね。一場が入るときに、ああいうことになって、僕は入って3年めに内部告発で、裏金問題が発覚したんですけど、僕らが入る前の先輩方や、当時の巨人はもっとエグかったという話を聞きました。

『どこの球団も、裏ではやってるんだな』と、みんなわかっていたと思いますけどね。でも、僕は横浜のスカウトにお世話になってましたから、恩返しで入ったんですよ。横浜も、あのころは弱くてずっと最下位だったんで、けっしてお金だけで選んだわけじゃないんです」

 那須野氏が手にした契約金は5億3000万円。破格の契約金ではあるが……。

「もし、一場が巨人に入団していたら7億円とか8億円とか、もらったんじゃないですか。当時の巨人なら、それくらい出していたと思いますよ。

 巨人は当時、4巡めで僕を指名すると言ってくれました。一場と野間口(貴彦、2012年に契約金7億円で巨人に入団したと報道された)が決まっていて、自由枠 “3人め” の扱いで、僕が候補だと。

 栄養費問題が発覚して、一場を獲れなくなって枠が空いたときも、巨人から連絡が来ました。でも、横浜で決まっていたし、自分の(逆指名の)権利を使いたかった。しかも、巨人はあんまり好きじゃなかったんで断わったんです」

 愛甲氏も、あのころは異常だったと指摘する。当時、派手に “実弾” を飛ばしていたと噂されていたのは、巨人とダイエーホークス(当時)だったが、「各球団とも裏金が常態化していた」と明かす。

「裏金全盛期は、逆指名制度が始まって以降ですよ。那須野の5億円なんか安いほう。高橋由伸や阿部慎之助、小久保裕紀のときは、もっと大きい金額が動いたって話ですから。

 阿部は本当は西武に決まっていたけど、巨人が引っ繰り返した。お父さんを説得して落としたって話だそうです。由伸も、本命はヤクルトだったのを、巨人が引っ繰り返しましたからね」

●大学に進学していれば “栄養費” をもらえたのに……

 一方で、逆指名の “恩恵” を受け損なったドラ1もいる。1998年に、横浜ベイスターズから1位指名(松坂大輔の外れ1位)を受けた古木克明氏(40・横浜→オリックス)だ。じつは古木氏は、ダイエーホークスに入団する予定だったという。

「高校生(愛知・豊田大谷高)のころから、ダイエーのスカウトが来てくれていました。高校2年時には、ドラフトで上位指名したいと打診があり、自分はダイエー以外は行かないつもりでした。

 だけどこの年、たまたま九州の高校生でほかにも活躍した選手が多くて、『地元優先だから申し訳ないけど、4位で獲るから』と。それでもドラ1と同じ評価で、契約金1億円と年俸800万円で話がついていました。

 そこにあとから横浜からも話が来て、『松坂(大輔)を外したら1位でいくから』と言われ、実際にそうなりました」

 古木氏の場合、高校生だったので逆指名扱いではなく、裏金もなかったという。

「契約金9000万円を提示されて、実際は8800万円でした。でも年俸は、800万円提示で880万円。120万円をケチられた感じですね(笑)。ダイエーとのあいだで決まっていた条件を伝えたので、多少上げざるを得なかったんだと思います。それがなければ、もっと安かったんじゃないかな」

 高卒で入団した古木氏は、大学から遅れて入団してきた同年代の選手たちの契約金の額が気になったという。

「僕も、大学経由でダイエーを逆指名してプロ入りする選択肢もあったんです。ミールマネー(栄養費)の話もありました。結局、高卒で横浜に行きましたが、那須野とかの話を聞くと、『大学に行って逆指名すればよかったな』と。

 村田(修一)も、年俸1500万円で入団しましたが、実際は2000万円ぐらいもらっていたんじゃないかな。僕はけっこう活躍しても、最高到達年俸は2800万円でしたから、『なんで、まだ何もやってない新人が、そんなにもらってんだよ』と思ってました(笑)。

 横浜にドラ1で入ったからって、特別なことなんか何もなかったですよ。給料も上がらなかったし(笑)。選手や裏方さんは、いい人ばかりでしたが、フロントには不信感しかない。ただでさえ、小学校の卒業文集で『絶対に行きたくない球団はロッテと大洋』って書いてたのに(笑)」

 現在もドラフトでは、裏金が飛び交っているのだろうか。

「さすがに逆指名制度のころみたいなことは、もうないんじゃないですか」(那須野氏)

 コンプライアンス遵守が叫ばれる昨今、球界の意識改革も進んできたという。“東大に入るより難しい” といわれる、2020年のエリート12人は、己の実力だけで開幕一軍を勝ち獲れるか。

愛甲猛(あいこうたけし)1980年・ロッテ1位
横浜高で、1980年の夏の甲子園優勝。投手として入団し、1年めから8試合に登板するも、3年間で勝利はなし。1984年に打者へと転向

橋本清(はしもときよし)1987年・巨人1位
PL学園で立浪和義らと、1987年の甲子園春夏連覇。入団1年めにジュニアオールスターに選ばれたが、一軍定着に6年かかった

古木克明(ふるきかつあき)1998年・横浜1位
1年めにフレッシュオールスターでMVP獲得。4年めから一軍に定着し、翌年22本塁打を放つ。引退後、格闘家に転身して話題に

那須野巧(なすのたくみ)2004年・横浜1位
192cmの長身を生かし、日大時代に才能が開花。大学No.1左腕の評価で、即戦力と期待されながらも、プロ1年めはわずか1勝に終わった

一場靖弘(いちばやすひろ)2004年・楽天1位
新人ながら一軍で先発ローテ入りを果たすが、1年めは2勝9敗1S。翌年は開幕投手を務めるも、プロ生活8年間で通算16勝だった

(週刊FLASH 2020年12月1日号)