今ではすっかりサブスクの時代となりまして、昔の曲のように、イントロやAメロを経ての「触り(=サビ)」というスタイルが通用しなくなっていますね。イントロがどんどん短くなり、そもそも「触り」から始まる曲もあるほど。学生とカラオケに行って昔の名曲を歌っても「触り」以外は「何を歌っているのかわかりません」と言われる始末です。

大人の教養ことば (『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

ふとした言葉遣いに滲み出る「大人の教養」

最近、本を読む人が減っています。

本の文章には、編集者や校閲者などの目が通されていますから、比較的「正しい日本語」が書かれていることが多いのですが、インターネット上の文章は、誰でも書き込めるという気軽さがある一方で、編集者も校閲者もいませんから、かなり間違った言葉であふれているわけです。

したがって、ネットニュースなど、今私たちが頻繁に目にする文章には、それだけ日本語の間違いが多いということ。チェックもせずに垂れ流された日本語にばかり触れていれば、次第に私たちの日本語力も低くなっていくことでしょう。

そう、私たちが“間違えやすい日本語”で間違ってしまう背景には、本を読む人が少なくなっている「活字離れ」にこそ原因があるのです。

さらに言えば、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴などをはじめとする文豪の使う日本語には、いわゆる正しいか間違いかだけではない、奥深さや味わいがあるもの。

もともと日本語とは、漢字と大和言葉が出会って形成されていったものであり、かなり自由に漢字をあてていったという歴史も影響していることでしょう。たとえば「先刻」と書いて「さっき」、「一寸」と書いて「ちょっと」と読むといった類いです。

あるいは『古事記』などを例にとってみても、女性の名前に使われる「咲(さく)」という漢字を「えみ」と読むことも、あるいは「わらう」と読むこともある。なんとも風情がありますね。

――ふとした言葉遣いにこそ、その人の教養がにじみ出るもの。このような日本語本来の味わいを知ってこそ、本来的な意味で「教養のある人」といえるのかもしれません。

著者:齋藤 孝