英国にある世界遺産「ロンドン塔」とは、いったいどんな場所で、どんな歴史をたどってきたのだろうか。
正式名称「国王(女王)陛下のロンドン塔の宮殿および要塞」が、この建造物の役割を的確に表している。
長い歴史の中で改築、拡大を繰り返してきたロンドン塔は、要塞であり、牢獄であり、宮殿であった。王立造幣局が置かれたり、異国の珍しい動物が展示されたりしたこともあった。戴冠宝器(王室の儀式に用いる王冠などの宝器)の保管場所となり、さらには王室が所有する6羽のワタリガラスのすみかでもある。その起源から振り返ってみよう。
テムズ川の要塞
ロンドン塔の起源は1066年のノルマン征服にさかのぼる。ヘイスティングズの戦いでサクソン王ハロルド2世を破ったノルマンディー公は、ウィリアム1世(ウィリアム征服王)として、新たな王国の支配基盤を固める必要に迫られた。彼は征服した土地の管理権限を、自分がひいきにしている貴族たちに分け与えていった。これは、ノルマンディーやその他の地域における戦争で成功を収めていた手法であった。
貴族たちはもらった土地に砦(とりで)を築いた。堀を巡らせ、土を積み上げて丘を作る。その上に木製の塔や兵舎を建てて、兵隊のほか武器や馬、食料、貴重品などを収容する。こうした兵舎は、外側の防御が破られたときの避難所となった。
丘の周囲に柵を巡らし、その内側で井戸を掘り、作物を育て、家畜に餌をやり、戦闘訓練を行い、武器の手入れをした。ノルマン人はこの作業に熟達しており、1週間あれば砦を1つ作ることができた。
ヘイスティングズの戦いから12年後、ウィリアム1世はテムズ川の湾曲部にあった砦を、城として改築することにした。サクソン人の土地に対する領有権を確固たるものとし、敵対する国民を威圧するためだ。設計を任されたのは、フランスで城や教会の設計を手掛けていた聖職者ガンダルフだった。
後にホワイトタワーと呼ばれるようになるこの城は、幅と奥行きが約33メートル×約36メートル、高さが約27メートルと、ロンドンのほぼ全域からその姿を望むことができた。地下は倉庫で、1階は居住区画や大食堂、ロマネスク様式の聖ヨハネ礼拝堂などがあった。2階は、宴会や国家行事のための大広間、礼拝堂の回廊、そして残りのスペースは寝室、会議室、居室として使われた。このスペースにはまた、王や重要な客人が滞在し、政治犯も収容された。
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