歴史を変えた、心揺さぶる子どもたちの写真

水死したシリア難民男児の最期の光景は、世界をどこまで動かせるのだろう

2015.09.08
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世界を動かした写真

 子どもの写真が過去に世界を変えた例はある。ベトナム戦争が最も激しかった1972年、まだ19歳のベトナム人、ニック・ウット氏はAP通信のカメラマンとして取材していた。いくつかの戦闘を写真に収め、荷物をまとめて支局に戻ろうとしたとき、南ベトナム軍機がナパーム弾を投下し始めた。泣き叫びながら彼の方へ走ってきた子どもたちの一群の中に、裸の少女がいた。

 2012年のインタビューで、ウット氏は当時をこう回想している。「少女は左腕に火傷を負い、背中の皮膚がめくれているのが見え、この子は助からないとすぐに思いました。…彼女はずっと泣き叫び続けていて、私は『ああ、神様』と思うばかりでした」

1972年、ナパーム弾を投下する軍用機におびえて逃げる子どもたち。中央は9歳のキム・フックさん。この写真はベトナム戦争の惨状を世界に伝え、反戦運動を巻き起こした。(Photograph by Nick Ut, Associated Press)
1972年、ナパーム弾を投下する軍用機におびえて逃げる子どもたち。中央は9歳のキム・フックさん。この写真はベトナム戦争の惨状を世界に伝え、反戦運動を巻き起こした。(Photograph by Nick Ut, Associated Press)
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 この写真を配信すべきか、編集者たちの意見は分かれた。少女が裸だったからだ。だが編集者の1人が「配信すべき」と主張。その結果、世界中の新聞がこの写真を掲載した。9歳の少女を、誰もが我が子のように思ったのだ。

「次の日」とウット氏は振り返った。「世界中で反戦運動が起こりました。日本、ロンドン、パリ…ワシントンD.C.のホワイトハウス前でも、人々は毎日のように抗議しました。『ナパーム弾の少女』に世界中が共感したのです」。この写真は一般に「ナパーム弾の少女」として知られるようになったが、ウット氏は「戦争の恐怖」と呼んでいる。

 ちなみに、少女は生き延びた。ウット氏が彼女を含む子どもたちを車で病院へ運び、あまりに重傷だからといって治療を拒否したら記事にするとすごんだのだ。現在50代となったキム・フックさんは、今も親しみを込めてウット氏を「ニックおじさん」と呼んでいる。(参考記事:【インタビュー】林典子「誘拐の場面に遭遇して」

「人々の目を開かせた」

 それから約20年後、1993年のスーダンで、南アフリカのフリーカメラマン、ケビン・カーター氏が飢餓の惨状を伝える写真を撮った。食糧配給を行う国連機が着陸したとき、カーター氏は地面にうずくまって泣く子どもたちを撮影していた。土を引っかいていた少女を見つめていたとき、大きなハゲワシがすぐ近くに降り立ち、カーター氏はとっさにシャッターを切った。その1枚は、飢えた人々を千人写した写真よりもずっと強くスーダンの飢餓を訴えることになった。(参考記事:「ハゲワシと少女」の写真はこちら

 だがこの写真は、論争を巻き起こした。被写体に干渉して救い出すことなく写真を撮れるか、というものだ。カーター氏は少女を抱き上げて母国に連れ帰ったりしなかった。本人によれば、ハゲワシを追い払ったという。

不安そうな目をしたアフガン難民の少女、シャーバート・グーラーさんのポートレート。1985年にナショナル ジオグラフィックの表紙を飾り、世界中の人々の心と記憶に刻まれた。(Photograph by Steve McCurry, National Geographic Creative)
不安そうな目をしたアフガン難民の少女、シャーバート・グーラーさんのポートレート。1985年にナショナル ジオグラフィックの表紙を飾り、世界中の人々の心と記憶に刻まれた。(Photograph by Steve McCurry, National Geographic Creative)
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 カーターはこの写真でピュリツァー賞を取ったが、その3カ月後に自殺した。遺書には、「鮮明な記憶が絶えずつきまとっている。殺りく、死体、怒り、痛み…飢え、傷を負った子どもたち…」と記されていた。

 2008年にハリケーンがハイチを襲ったときには、「マイアミ・ヘラルド」紙のカメラマン、パトリック・ファレル氏がやはり裸の子どもを写真に収めて賞賛を集めた。泥だらけのがれきの中から見つけたらしい、壊れて汚れたベビーカーを、1人の少年が押している。この写真もまた、少年の背景や今後について読者に考えさせ、自身の子どもと対比させるものだった。

 現在も同紙で働くファレル氏は3日、この写真はハイチを襲った最初の嵐の直後に掲載されたものの1つだと話した。これら一連の写真でファレル氏はピュリツァー賞を受賞した。「衝撃的で生々しく、見るのがつらいものです」とファレル氏は話す。「ですが、この写真は人々の目を開かせました。特に、ハイチから飛行機で2時間という近距離にいるマイアミ市民の関心が高まりました。安穏としていてはいけないと思わせたのです」

 ハイチ地震の後には50億ドルを超す寄付金や寄付の約束が寄せられた。ファレル氏は撮影した少年と話すことはなかったため、彼がその後どうなったのかは誰も知らない。ファレル氏は、この写真が説得力を持つ理由を「全てが破壊されたにもかかわらず、この子がわずかな物をベビーカーに乗せて、どこかへ向かって押しているからです。行き先は我々には分かりません」と話した。

 別の地で危険を逃れた難民の表情もまた、危機的状況をとらえ、見る者の目をくぎ付けにした。カメラマンのスティーブ・マッカリー氏がパキスタンの難民キャンプで撮影したアフガニスタン人少女の写真は、ナショナル ジオグラフィック1985年6月号の表紙となり、無数の人々の記憶に刻まれた。色あせた赤い上着の下でうねる乱れた髪、大きく見開かれた、燃えるような目。その理由は恐怖か、抵抗か、決意なのか。(参考記事:【インタビュー】スティーブ・マッカリー「緑の瞳が語るアフガニスタン」

 17年後、マッカリー氏はパキスタンを訪れ、やつれた様子の彼女と再会した。被写体だったシャーバート・グーラーさんは、象徴的となった自分の写真を一度も見ておらず、写真に撮られたのもそのときが最後だった。だが彼女の瞳は、無関心だった世界の心をこじ開けたものとして人々に記憶されている。(参考記事:「人生を決定付けた1枚の写真」

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