「日本古代史像の再構築ー論争に触れながら 」
第六講 四世紀の英雄時代は史実か創作か

日本古代史像の再構築

第七講,倭の五王の時代ー覇王・聖王・悪王

文責 やすいゆたか

1、応神天皇はどこから来たか?

「『直木孝次郎古代を語る5大和王権と河内王権』」の画像検索結果永山裕子:昨年満百歳でなくなられた戦後史学泰斗直木孝次郎先生(一九一九年1月30日 ~二〇一九年2月2日)は『直木孝次郎古代を語る5大和王権と河内王権』121頁で次のように述べています。
「河内政権が四世紀の大和政権とは別系統の勢力であるとすると、その新勢力はどこから出現したのであろうか。」とされ次のように分類します。
(A)新勢力は大阪平野以外の地から大阪平野に侵入してきたとする説
(1)江上波夫の狩猟騎馬民族説
ー初代王御間城入彦(崇神天皇)四世紀初めに任那から筑紫に侵入して建国(天孫降臨説話)、半世紀あまり後に畿内に進出して建国(神武東征伝説)、初代王が誉田別命(応神天皇)
ー主要な論拠:中期古墳馬具出現、前期古墳が呪術的副葬品ー鏡・鍬形石、中期古墳が戦闘的副葬品ー鉄製武器・甲冑(かっちゅう)などが多い
弱点ー半世紀以上北九州にいたのに北九州で馬具類の出土がない。日本には牛馬の去勢の技術、刑罰としての宮刑、宦官の制がない。
(2)新勢力九州起源説ー水野祐・狗奴(くぬ)国の後裔、4世紀後半に九州から東進して統一国家形成、仲哀天皇を射殺して、攻勢に転じ、畿内に東征ー神武東征のモデル
疑問点ー当時の狗奴国あるいは熊襲に東進して大和政権を倒すだけの力があったか疑問。
井上光貞などー応神は九州に起こった豪族だった。
仁徳の皇后磐之媛(いわのひめ)の父葛城襲津彦(かつらぎそつびこ)は「襲の男」を意味し、熊襲出身or葛城出身で熊襲平定で勲功、仁徳の妃に日向の諸県君髪長媛がいる。ー応神が九州出身の根拠
弱点ー筑紫とのつながりは認められても、それだけで筑紫出身とは言えない。
記紀ー応神の筑紫出生説。しかし直木によれば河内政権の始祖を神秘化するための物語。あるいは筑紫支配をやりやすくするために応神を筑紫出身としたのでは。
八十嶋祭ー海の彼方から大八洲の霊がくる。ーここから応神筑紫出生説が生まれた。

(B)大阪平野またはその周辺に基盤を持つとする説ー直木説

やすい:(B)説の検討は置いといて、(A)についてはいずれも記紀の四世紀英雄時代の景行天皇から神功皇后にいたる歴史を後世の創作だったとした上で、成り立つ議論ですね。その前提がそもそも間違っていれば、成り立たないわけです。しかしそのことは前回大いに論じたので、読み直していただくとして、江上波夫さんの騎馬民族説から検討しましょう。

永山:御間城入彦(みまきいりひこ)という名前が任那の城に入った貴人(まろうど)という意味に江上説による騎馬民族南下想定図解釈したわけですね。その任那を固めて、対馬・壱岐さらには筑紫北岸に進出して半島南端部から筑紫にいたる国家を建国したわけですね。ただ矛盾していると思うのが、その範囲だとほとんど海洋国家になってしまうので、騎馬民族説と調和が難しいですね。

やすい:やはり当時の船で大量の馬や馬具類を大八洲に送れたか疑問だという指摘が多いですね。九州の古墳に馬具類の出土がないのも致命的です。

永山:それに崇神天皇が日本海を渡海して筑紫に渡ってきたのが天孫降臨のモデルで、応神天皇が東征したのが神武東征のモデルだったということですね。ということは大和には饒速日王国が四世紀末まで存在したことになってしまいますね。

「江上波夫 騎馬民族説」の画像検索結果やすい:ええ、記紀の記述から合理的に推論すれば実際の邇邇藝命の時代は紀元前後で磐余彦東征は二世紀初めですが、江上解釈では、それは四世紀初めの御間城入彦伝承を歴史を古く見せるために遡らせたという理屈になるようです。応神東征は四世紀末だけれどそれをモデルにした神武東征は二世紀初めですね。でも記紀では更に辛酉革命論を用いて紀元前660年にまで遡らせています。

永山:問題は、英雄時代の景行天皇から神功皇后を架空だとして消してしまった穴埋めに、騎馬民族征服説が唱えられたということですが、それなら景行天皇から神功皇后と比較して騎馬民族の征服というストーリーの方がいかにもありそうならまあ納得するでしょうが、どちらかと言うと景行天皇から神功皇后の話の方が色々粉飾や改変があるにしてもリアリティがありますね。つまり記紀批判をしてもその代替に用意される学説がトンデモでは困りますね。

「水野祐さんの三王朝交替説」の画像検索結果やすい:そりゃあそうですね。ただ当人は自説の方が説得力があると信じているから発表しているのでしょうね。水野祐さんの三王朝交替説では、崇神天皇が大和を統一して建国したが、南九州にあった狗奴(くぬ)王国の仁徳天皇が河内地方に新王朝を開き、さらに、越前国から継体天皇がやってきて現在の皇室が始まったという説をとなえました。応神天皇は架空の人物とされる神功皇后の息子なので、創作された英雄時代と河内王朝がつながるように潤色されているというのです。つまり河内王朝の建国者を東征王と治国王に分けて東征王を誉田別命としたという解釈のようです。

「水野祐さんの三王朝交替説」の画像検索結果永山:ややこしいのが記紀では誉田別命は仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた王子ですね。ところが水野説では狗奴国王だったというわけです。つまり仲哀天皇は実在したけれど神功皇后は架空だったということでしょうね。それで沙庭で神に逆らったので死んだというのはなかったことになり、仲哀は熊襲との戦争で戦死したことになります。それで実は熊襲王だった誉田別命が東征して仲哀天皇の遺児たちを退けて、河内政権を作り、大和政権を滅ぼしたという解釈ですね。

やすい:それは三王朝交替説ですから崇神天皇に始まる呪教王朝と応神天皇に始まる征服王朝は血統が切れていないといけないわけです。だから景行から神功までの英雄時代を架空の物語として捨てる必要があるわけです。逆に言えば英雄時代の物語は王朝断絶を隠すためのペンキだったということですね。

永山:王朝交替を説いたり、応神の東征で河内政権の大八洲統合を説くところは江上説と水野説は共通していますが、崇神王朝が騎馬民族で倭韓連合王国ないし九州王朝だったというのが江上説で、大和政権だったというのが水野説です。そこは大きく違いますね。

やすい:記紀神話では天照大神以来の万世一系ということで、同じ王朝が続いていたから天皇の統治権は永遠不滅だということで、戦前はそれを国家神道という宗教として国民に押し付けていたわけです。それが軍国主義化に道を開くことになったのです。だから戦後は万世一系を否定するような王朝交替説は啓蒙的な意義は大いにあったと言えます。しかしそのことと実際の歴史において王統は断絶していたか、王朝の交替はあったかは別問題です。いかに啓蒙的な意義があっても、その説が正しいかどうかは個々のケースについてしっかり検証する必要があります。

永山:前回に景行天皇や神功皇后の実在について検証し、実在していたという結論が出ていますから、騎馬民族征服説も三王朝交替説も成り立たないということになりますが、その議論を蒸し返さないで、議論は進められますか?

やすい:騎馬民族征服説は日本海の制海権を持っていた海原倭国の協力なしでは大量の馬や馬具の輸送は不可能なので、成り立ちません。それに神功皇后の新羅侵攻なしに、倭国の再統合や伽倻の属領化などはあり得ないので、その時期崇神天皇を始祖とするイリ王朝が筑紫にあったということはありえないわけです。

永山:それに崇神天皇の説話は三輪山の神が祟って人口の過半が死ぬようなことが在り、祭祀を整えて、祟り神をなだめて祟りを収め、国内を鎮めることが中心ですから、それと騎馬民族の王として倭に侵入したというイメージとはかけ離れすぎています。

やすい:ええ、そうですね。ただし「ハツクニシラススメラミコト」という読みが同じ神武天皇と崇神天皇は同一人物だという解釈を正しいとすると、東征王の面が神武天皇として、治世王の面が崇神天皇として記紀に書き分けられたということになりますね。

神功皇后母子と武内宿禰
神功皇后・誉田別命・武内宿禰

永山:その論理を水野さんは応神ー仁徳関係にも応用していますね。ただし実際には誉田別命の東征というのは記紀では赤ちゃんの時の話で、成長した誉田別命が軍功を挙げたという話は記紀からは窺えません。

やすい:そして治世の話は仁徳天皇を聖王として描いていますね。その意味ではやはり東征王と治世王という王者の2面を二人の人格に振り分けているように読み取れますね。

永山:ということは応神天皇と仁徳天皇(大雀命)は同一人物だったということですか?

やすい:いやそこまでは分かりません。景行天皇から神功皇后まで虚構としてしまうと、誉田別命は筑紫の勢力だったことになりますが、そうではないとすると、倭国東西分裂があって、倭国東朝が自壊して、倭国西朝による統合がなされたわけです。その際に神功皇后は新羅侵攻の勢いをかりて自分の腹を痛めた誉田別命を世継と決めていたので、誉田別命の血統を疑っていた腹違いの兄籠坂王・忍熊王が神功皇后・誉田別命の凱旋を阻止しようとしたのです。

永山:記紀だと仲哀天皇は元々畿内で即位したけれど熊襲が背いたということで筑紫に来ていたわけで、神功皇后の凱旋も畿内に戻っているわけで、東征ではないわけですね。兄王たちとの内戦はあくまでも世継争いです。ところが江上説だと応神は崇神が開いた渡来王朝の東遷ということです。また水野説だと狗奴国の東遷ということになります。邪馬台国東遷説ではなくて狗奴国東遷説ですね。

やすい:ただ狗奴国東遷の論拠は弱いですね。応神狗奴国王だったのは、仁徳の皇后磐之媛の父葛城襲津彦は『襲の男』を意味していること。仁徳の妃に日向の諸県君髪長媛がいることを挙げていますが、「襲」一字で熊襲の男と決定するのは無理がありますし、仁徳の妃に日向の諸県君髪長媛がいても日向が大和政権の支配下に入れば、大王に日向から妃が差し出されても不自然ではありません。必ずしも筑紫勢力が東遷して河内王権を建てた根拠にはなりませんね。

永山:それで直木さんは筑紫からの東征は想定せずに、四世紀には大和中心の政権だったのが、五世紀には河内の勢力が圧倒するようになり、河内王権に代わったとされています。つまり四世紀の大和王権が河内に中心を移したのではなくて、河内の勢力に王権を奪われたわけですね。ただしその河内の勢力が筑紫からやってきたという想定はしないでも良いということですね。

やすい:直木さんは崇神天皇が開いた呪教王朝(イリ王朝)と応神天皇が開いた征服王朝(ワケ王朝)は断絶しているということを言いたいわけです。その間タラシ王朝は七世紀を四世紀に投影して創作したものだという解釈です。この解釈が説得力がないことは前回テーマにしましたね。

イリ王朝

永山:入彦、帯彦、~別という呼び名で王朝が変わるというのならもっとたくさんないと説得力がないですね。イリ王朝は二代だし、タラシ王朝は三代、ワケ王朝は四代で允恭天皇からは王朝は代わっていない筈なのに別という称号は使っていません。
それにタラシ王朝に至っては直木さんの解釈では七世紀の称号を使って、架空の大王の称号にしたという説明です。前回も取り上げましたが、四世紀と七世紀にタラシがあれば、七世紀が四世紀の称号を復古的に使った可能性もあるわけで、四世紀が架空だという前提で成り立つ議論でしかありませんね。

やすい:応神天皇を覇王として捉える見方は古代からあったわけです。実際は新羅侵攻をしたのは息長帯比売命(神功皇后)ですが、妊婦は神秘的な力があると思われていたのか、誉田別命が胎内から指揮をとったみたいな信仰になって、朝鮮から渡ってきた八幡信仰と習合して誉田別命が八幡神という軍神になります。571年(欽明天皇の時代)宇佐の地に示顕したという伝承があります。だから誉田別命の場合は覇王と言っても宗教的な覇王であり、軍神ですね。

永山:スメラミコトという言い方が何時からかが分かりませんが、「スメラ」の意味は「澄んでいる」という意味は穢れがないということですね。特に穢れとしては死の穢れが最も厭がられたので、戦で血にまみれて軍功を上げるというのはスメラミコトに相応しくないといわれますね。

やすい:しかしそういう捉え方だと軍功を挙げた大王がスメラミコトに相応しくないということですが、記紀では磐余彦大王(神武天皇)、大帯彦大王(景行天皇)などは大いに血にまみれ軍功を挙げています。特に建国にあたっては覇権を樹立するわけですから、武の側面があるのです。ただし治世にあたってはやたらに武力で押さえつけるのではなく、恵みを与え、人民を豊かにすることで国を栄えさせることが望まれるので、聖王である必要があります。

2,仁徳天皇の聖王伝承

やすい:大雀命(おほささぎのみこと)が仁徳天皇になるわけですが、父応神天皇が弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を太子にしていたので、互いに譲り合って3年間も空位が続き、結局菟道稚郎子が自殺して仁徳天皇になったという話がありますね。

永山:これはいかにも仁徳天皇が聖王であったことにするための作り話のような印象をうけますね。それにもし東海姫氏の国という意識があったのなら、呉の太伯が父の気持を忖度して弟に父のあとを継がせるために、入れ墨までして身を引いた話を真似ていますね。

やすい:それは記紀編纂期に呉の太伯の故事にならった話を聖王の美談として入れようとしたのか、本当に五世紀前半において河内政権の中に後の太伯の伝承が尊ばれていたということなのか、これは容易には決めかねますね。ただ呉の太伯の場合と決定的に違っているのは、仁徳は結局帝位についたわけで、呉の太伯の場合は弟が父の後を継いでいます。大雀命が呉の太伯を真似るのなら、入れ墨でもして船乗りになるなどしていた筈ですね。

永山:美談にしてあるけれど、真相は大王位の継承のかけひきで、父王に「長男と末子ではどちらが可愛いか」という話をさせて、兄を退け、弟に対して何かと面倒をみたり、指導をして敬服させておいて、身を引かざるを得ないようにしていたとも受け取れますね。『古事記』の該当箇所を引用します。

「こにおいて天皇、大山守命と大雀命に問ひて詔はく「汝等は、兄子(えみこ)と弟子(おとみこ)の孰れ愛(うつくしみ)す」と。天皇のこの問を発す所以は、宇遲能和紀郎子(うじのわきいらつこ)に天の下治めしむるの心あるなり。ここに大山守命白す「兄子を愛す」と。次に大雀命、天皇問ひ賜ふ所の大御情(おほみこころ)を知りて白すに「兄子は、既に人と成りたるに、これ悒(うれ)うるなし。弟子は、未だ人とならず、これ愛す」と。ここに天皇詔りたまふに「佐邪岐(ささぎ)、吾君(あぎ)の言(こと)、我が思ふゆる如し」と。卽ち詔別けたまひしは「大山守命は、山海(やまうみ)の政(まつりごと)爲せ。大雀命は、食國(をすくに)の政を執れ、以ちて白(まを)し賜(たま)へ。宇遅能和紀郎子こそ所知(しらしける)天津日継(あまつひつぎ)なれ。」と。故(かれ)、大雀命は天皇之命(おほせごと)に違(たが)ふこと勿(なし)。

やすい:そういう知略を巡らして大王になったら、自分が権力を振るいたいわけで、要するに自分のために大王になろうとするわけですね。だからそういう人が権力の座についたら、やはり私利私欲のために権力を使いがちになりますね。ところが次の有名な記述があります。

ここに天皇、高山に登り、四方の國を見てこれ詔りたまふに「國中に烟り發たず、國皆貧窮す。故今より三年に至り、悉く人民の課伇を除け」と。こを以ちて、大殿破壞(こぼ)ち悉(つく)して雨漏ると雖も、都て脩理(をさ)むること勿(な)くて、椷(はこ)を以ちて其の漏れたる雨を受けて、漏れざる処に遷り避けたまひき。後に国の中を見(め)せば、国に烟り満つ。故(かれ)人民(たみ)富めりと為(おもほ)して、今課伇(えつき)を科(おほ)す。これ百姓(おほみたから)の栄ゆることを以ちて、伇(え)使(つかひ)に苦しまず。故、其の御世を称へて聖帝(ひじりのみかど)の世(みよ)と謂ふ

大雀大王(仁徳天皇)は高い山に昇って見渡せば、民の竈から煙が立っていないのを見て、人民が困窮しているのを実感して、三年間課税・課役を停止したところまた民の竈から煙が立つようになったということですね。その代わり、財政収入がほとんど無くなるので、粗衣粗食で宮殿は修理ができないので荒れ放題になったわけですが、『日本書紀』では、それでもなお3年間課税停止を続け、やっと6年目に課役を課したら大王の慈しみに感謝した人民が大勢押し寄せて喜んで宮殿を修理したので、すぐに偉容を取り戻した言う話があるわけです。

永山:それは美談ですが、人民が困窮していた原因が課役や貢納にあったということがわかってしまい、かえって人民の反乱を招かないか心配ですね。

やすい:史実としたらすごいですね。六年も税をかけないで、宮殿や王室の生活を節約したという話ですが、役所や役人も当然自給自足しなければいけません。まだまだ当時は氏族連合国家的な性格がつよくて、公の仕事に対して各氏族が負担することで賄えたのかもしれませんね。それにこの話は現代にも大きな教訓を与えています。現在だと課税をやめれば財政赤字が余計に膨らむようにいわれるでしょうが、不況の原因が省力化の技術革新による雇用所得の減少からくるデフレならばインフレに2%に成るぐらいまで、通貨を増刷して国債を賄い、その分をマイナス所得税として国民に給付すれば景気が回復して、所得税収が増えるので、国債も償還できるのです。平成30年間の大不況はこの認識が欠如していたからだということです。

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永山:しかし人民が富むためには減税だけではだめですね。生産力を伸ばしてこそ豊かになれるわけですから。6年間課役を停止したというのは確かにすごいことだけれど、やはり生産力を上げるために大規模な土木工事を行ったことが仁徳天皇が聖帝と言われる所以でしょうね。

やすい:昔は淀川も大和川も河内湖に流れ込んでいて、雨が多いと河内湖は氾濫しやすかったのです。それで干拓もあまり進まず河内平野は湿地帯が多かったのです。それで難波の堀江を作って、河内湖の水を茅渟の海つまり大阪湾に抜く大土木工事が行われて、河内地方の農業が一気に発達したのです。

永山:その土木事業の規模が大きかったから、仁徳天皇の陵墓もきっと一番大きいだろうということで大仙古墳が仁徳天皇陵に指定されているのでしょう。

やすい:仁徳天皇の時期に行われたとされているものも、難波の堀江や茨田堤(まんたのつつみ)は問題ないと思いますが、考古学的な調査で必ずしもそうは言えないことが分かります。ただ伝承がはっきりしないものも、仁徳天皇を聖王、治水王というイメージにしたので、仁徳天皇の事績としてまとめて書いたことも考えられますね。考古学によると大仙陵は履中陵より新しいというので、やはり大土木工事の印象から間違って指定されたようですね。

大仙陵古墳
大仙陵古墳

永山:それにしても聖王なら人民にとって大変な課役になる世界一の面積の陵墓を自分のために作らせるのか疑問ですね。

やすい:聖武天皇が奈良の大仏に拘ったのと同じで、あくまでも本人の心情は国を繁栄させ、人民を守るためです。というのは前方後円墳というのは後世の解釈で、あれは壺型なのです。壺の中に大王の遺体を安置することで、大王霊の不思議な霊力がパワーアップするのです。大きければ大きいほど霊力が増すと単純に考えていたのでしょう。それで倭の国全体を守ろうというのですから、出来る限り巨大な方が効果的なのです。

永山:ということは大王や地方豪族が巨大古墳を作っているので、彼らは首長霊を神として信仰していたことになりますね。大王が天皇に称号が変わったりするのを神格化とみなす研究者がいて、倭の五王の時代はそれほど神格化されていなかったという人も多いですね。

やすい:~命(みこと)あるいは~尊(みこと)という言い方は現人神ということですから、その言い方が天皇という称号が導入される七世紀以降になって始まったという証拠でもあれば別ですが、大王や有力豪族の首長は現人神として信仰されていたから、巨大古墳に葬られたということでしょう。仏教が導入され、寺院建築がさかんになりますと、古墳時代が終わりますね。

永山:東海姫氏の国というのが元々の祖先伝承だったとしたら、三貴神などを祖先神と考えるのは七世紀末からでもおかしくないという気がしませんか?

やすい:東海姫氏の国は日本海に浮かぶ姫氏つまり周の王室の子孫の国という意味です。それに対して三貴神の建国は姫氏の子孫かどうかは別にして、倭人が大八洲に植民して支配国家を形成する際に現人神として支配したということですから、次元が違います。つまり三貴神の誕生を七世紀末にもってくる人は、倭人が先住民を支配するという問題意識が欠如しているということで、無意識の内に単一民族説に与しているのです。まあ麻生太郎さんと五十歩百歩ですね。

3、河内王朝の内紛と男女のもつれ

永山:応神天皇が覇王で、仁徳天皇が聖王なのですが、もう一つ悪王というのがあって、それは雄略天皇とか武烈天皇を指しているのでしょう。

第25代武烈天皇やすい:武烈天皇(画像)の場合、『古事記』には悪逆無道の記事は一切ないのに、『日本書紀』はくどいほどでてきます。

①二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
②三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
③四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
④五年の夏六月に、人を塘(とう)の樋(とい)に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
⑤七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
⑥八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊(ゆう)牝(ひん)せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

天皇系図15-26

□それで悪行を行った報いに子がなかったことにし、遠縁の応神天皇の五世の孫継体天皇への継承を正当化するための粉飾ではないかという解釈が有力です。

永山:そうなると、歴史を王朝交代史として捉え、王に徳が高いうちは続くけれど、徳がなくなり、権力を私物化し、しまいに悪逆非道を行うようになると、天命が別の血統に下って、王朝が変わるという易姓革命論で中国の王朝史は綴られるわけですが、その倭国版ですね。ただし、記紀の立場は皇室は天照大神以来の万世一系というのが、大前提なので、遠縁でつながっているわけですが。

やすい:履中天皇までは直系相続です。ただし第一皇子はなくて、第二皇子が多いですね。ともかく急に兄弟相続制になります。仁徳の場合は弟に譲ろうとしたわけですが、どうしても背後に母親の出身豪族が異腹の兄弟に渡したくないので、皇后が嫉妬で牽制したり、相続争いが起こりがちですね。

永山:仁徳天皇は『古事記』によると黒日売という美人が妃として宮中に召されたが、皇后磐之姫の嫉妬を受け実家の吉備に逃げ帰った。
□女官の桑田玖賀媛を召し上げようとしたが皇后の反対でできず、異母妹の八田皇女を妃にしようとして皇后は怒って実家の葛城家に帰ってしまいます。そして結局別居五年で皇后が崩御し、八田皇女が皇后になります。
□そして仁徳天皇40年には隼別皇子が天皇に頼まれて雌鳥皇女を妃に迎えにいったのに、雌鳥皇女は隼別皇子と出来てしまい、反乱をそそのかしたので二人とも殺されてしまいます。ともかく聖帝にしては女性問題では随分てこずっていますね。

やすい:神崎勝さんは、「皇極(斉明)天皇の出自について」で衣通姫(そとおりひめ)伝説について触れています。
「また同母兄妹婚についても、従来しばしば木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)の話(允恭紀)に拠って、漠然と、同母兄妹婚が忌避(きひ)されていたと考えられてきたが、『古事記』には安康天皇が同母姉の長田大郎女(ながたのおほいらつめ)(名形大郎女)を皇后に迎えた話がある。
たしかに同母の兄弟姉妹の婚姻の例は少ないが、それは特定の倫理観によったものではなく、主として兄弟姉妹が母の家でともに暮らすという当時の生活習慣上の理由によるとみられる。」(「皇極(斉明)天皇の出自について」より)

神崎勝3
神崎勝

 つまり神埼勝(画像)さんによるともし木梨軽皇子が同母兄妹婚タブーに抵触したために失脚したのなら、木梨軽皇子を追い落とした安康天皇が同母姉の長田大郎女を皇后に迎える筈がないわけで、木梨軽皇子は同母兄妹婚タブーで失脚したのではないということになります。

 それに神埼さんによると田村皇子(舒明天皇)と寶皇女(皇極天皇)も同母兄妹婚だったのです。もしその子供である中大兄皇子と間人皇女が肉体関係にあったらなら二代続けてということになりますね。もっとも神崎さんは中大兄皇子と間人皇后の不倫は認めておられませんが。

 

    4、悪王と呼ばれた雄略天皇

永山裕子:同母兄妹婚タブーに触れたのが木梨軽皇子失脚の原因でなかったとしたら、よほど木梨軽皇子が粗暴で臣下に評判が悪かったのか、穴穂皇子が密かに多数派工作を進めていたのかでしょうね。でもそれにしては穴穂皇子も大王(安康天皇)になっても長続きしないで皇后の連れ子の眉輪王に殺されてしまいます。

眉輪王、安康天皇を刺殺やすい:かなり錯綜していますが、この事件が悪王雄略天皇を産み出すきっかけになってしまいます。安康天皇は、即位元年に弟大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃にと、叔父である仁徳天皇の皇子大草香皇子の妹草香幡梭姫皇女(くさかはたびひめのひめみこ)を指名し、根使主(ねのおみ)を大草香皇子のもとに使者として遣ったのです。大草香皇子は大変喜んで承知しました。そして宝石と金をあしらった冠を根使主に託したのです。ところがこの宝物に目がくらんだ根使主は冠をネコババするだけでなく、大草香皇子が帝の申し出を断ったばかりか、怒って刀を抜いたと帝に誣告(嘘の告発)したのです。根使主の言葉を信じた帝は大草香皇子を殺し、妃の中蒂姫命(なかしのひめのみこと)(長田大郎女(ながたのおほいらつめ))を引き取って、皇后にします。先程も言いましたが彼女は帝の同母姉なのです。

永山:しかもその長田大郎女には大草香皇子との間に眉輪王(まゆわのおほきみ)がいたわけですね。それで帝が眉輪王が成長して自分を親の仇と知ったら、敵討ちをしたくなるのではという話を長田大郎女としていたら、456年8月まだ七歳だった眉輪王(目弱王)がその話を盗み聞きしていて、熟睡中の帝を刺殺した、世にいう「眉輪王の変」ですね。(漫画は次のブログより転載れきしぱうち)

画像は「描いておぼえる古事記」より転載
https://ameblo.jp/kaiteoboeru/entry-12417692551.html

やすい:『古事記』より引用します。
「ここに、大長谷王子(おほはつせのみこ)当時(そのとき)童男(わらは)にて、即ち此の事を聞きて以ちて慷愾(なげき)忿怒(いか)れり。すなはちその兄黒日子王(くろひこのみこ)の許(もと)に到りて曰はく、「人(ひと)天皇(すめらみこと)を取りて、いかにかしまつらむ」といひて、然(しか)れどもその黒日子王驚かざりて、怠れる心にて有り。 ここに、大長谷王その兄を詈(ののし)りて言はく 「一に天皇の為、一に兄弟(はらから)の為、何(いか)に心を恃(たの)むこと無きや、 其の兄を殺せしこと聞きて驚(おどろか)ずして怠るは」といひて、 即ち其の衿を握りて控(ひ)き出だして、刀(たち)を抜きて打ち殺せり。

永山:「大長谷王子当時童男」と言いますが、安康三年は457年で大長谷王子が生まれた允恭七年は418年ですから、39歳でそれほど若いとは言えませんね。

やすい:ここでは明末の思想家李卓吾の言った「童心」を失わない男を童男と呼んでいるのでしょう。純真な捉え方をしますと、少なくとも皇子たるもの、天皇をもり立て、天皇のために心から尽くすところに存在する意味があるわけです。また皇子たちは互いに助け合って兄弟のために尽くすから朝廷は成り立つわけですね。これが一に天皇の為、一に兄弟(はらから)の為、何(いか)に心を恃(たの)むこと無きや、」の意味です。皇子たちがそうして心を一つにしていると信じて頼りにしているからこそ、皇子として生きる意義があるのです。それが今天皇が殺されたというのに、全く驚かないし、信じて頼りにされている期待に応えようとしないのは全く許しがたいということです。

「童心(どうしん)とは真心のことであり、少しも虚仮(こけ)を許さぬ純真そのもので、もっとも本然たるありのままの心である。もし童心を失えば真心を失うことになり、真心を失えば真人を失うことになる。人として真でなければもはや人間の本質を持つとはいえないであろう。」(李卓吾『焚書(ふんしょ)』巻三 童心説)

永山:そんな純情なふりをして、この機会に皇位継承権のあるライバルの皇子たちを皆殺しにして大王に成り上がろうとしたのではないのですか?

やすい:そう取られても無理はないかもしれません。だって大長谷皇子自身も七歳の子の意志でやったと言われてもきっと安康天皇に取って代わろうと狙っていた兄たちの内のだれかがそそのかしたのだろうと疑っていたわけですから、自分の内心にそういう思いが潜んでいるから、それを兄たちに投射して疑うわけです。

永山: 黒日子王は自分には無関係だし、そんな血なまぐさいことに関わりたくないので、黙り込んで無関心を装ったら、余計に大長谷皇子の怒りを買って斬り殺されてしまったわけでしょう。やはりそういう感情というのは自分が帝位に就くために邪魔な者はみんな殺してしまうための口実だったという印象を受けます。兄白日子王(しらひこのみこ)も同様に残虐に殺されます。

「また、その兄白日子王に到りて、告げし状(さま)前(さき)の如くして、緩(おこた)りしことまた黒日子王の如し。 即ち、其の衿を握りて以ちて引率(ひき)ゐ来て小治田(おはるた)に到りて、穴を掘りて、立てる隨(まにま)に埋れば、腰を埋し時に至りて、両目(ふため)走り抜けて、死にせり。」

 やすい: 安康天皇は生前履中天皇の皇子、市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)に王位を継承させるつもりでした。10月に押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの)へ狩猟に誘い出し、皇位継承ライバルを猪がいると言って射殺したのです。こうなると明らかに皇位を狙って殺していますね。

永山:そうなると倭国というテリトリーを自分のものにしようとする野獣で、大和童男(やまとおぐな)というような瑞々しさは微塵もありませんね。世間の評判は最悪です。

「天皇、心を以て師と爲す、誤ちて人を殺すこと衆(おほ)し、天下誹謗(そしり)て言ふ「太(はなはだ)惡(あし)き天皇なり」と。唯愛寵(めで)たまひし人は、史部(ふみひとべ)身狭(むさ)の村主(すぐり)青(あお)、檜隈(ひのくま)の民使(たみのみつかひ)博徳(はかとこ)等なり

□これはやはり継体王朝に変わったので、王朝が変わったのは大王の徳が衰えていたからという中国の歴史書の書き方を踏襲しているということでしょうか?応神五世の孫ということにしていても世間は実質的な新王朝とみたでしょうから。

やすい:確かにここまでくると可愛げはまったくないのですが、「心を以て師と為す」を自分の心の赴くままに行動してしまうという意味に解釈しますと、だから「誤ちて人を殺すこと衆し」と繋がります。そこは童心の危うさ、未熟さに通じていて、雄略天皇の個性になっています。しかしそれで天皇になってブレーキがきかないと、多くの人が殺され、国が傾いてしまいます。だからそのことを記録するのも歴史の教訓を残す上で重要な役割だということですね。継体王朝との交替の正当性の印象づけのために書いたという以前に真実の歴史を残すということは、やはり悪王についても正直に書くことが大切だということです。後世の権力の圧力でいろいろ改竄とか改変とか粉飾、美化とかありますが、語部としてはありのままを描いて教訓を残したいという気持もあったでしょう。

永山:ただ、大王権力というのは、一つは覇王つまり覇者の権力だということですね。そして統治者として立派な政治をする責任があります。それは聖王というお手本が必要で、仁徳天皇を聖王に仕立てているわけです。それから現実には権力を維持しようと思えば、絶対性を発揮し、震え上がらせる必要があります。その見本が悪王で雄略天皇にその見本を形象した。どの大王も覇王・聖王・悪王の要素はあるのだけれど、歴史叙述としては応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇に振り分けて、強調されているということでしょう。

やすい:全く同感ですね。だから雄略天皇が倭王武だとすると、宋への上表文などでも覇王として倭国の領土拡大に努力していますし、感情にまかせてすぐに処刑するのも、妃にたしなめられて改めようとしています。それに産業の育成に力を入れ、新羅や宋からの渡来人に対して、腹を立てて殺そうとしも、その技術は宝なので、感情をこらえて反省していますね。そのあたりも描かれているわけです。紙幅の関係でこれ以上書けませんが、覇王・聖王・悪王という視点で歴史叙述がなされているというように読むことも記紀解釈にとって必要ではないでしょうか。

★アイキャッチの年表は『邪馬台国の会 第244回 倭王讃と応神天皇』より転載しました。

第八講 6世紀に二朝並立はあったか?