2月4日、トヨタ自動車は「2016 TOYOTA GAZOO Racing プレスカンファレンス」を開催し、
日産やホンダに先駆けて今季のモータースポーツ活動・参戦体制を発表しました。
スーパーGTのGT500クラスでは、2年連続で日産陣営にシリーズタイトルを奪われ、さぞかし胸くそ悪いことでしょう。
o(`ω´*)o
打倒NISMO!打倒GT-R!を目標に、6チーム中4チームのドライバーを入れ替えてきました。
そして…、GT500クラスの覇権奪還の為にトヨタ自動車が行った人事異動が…
レーシングドライバー 脇阪寿一選手を、6号車 LEXUS TEAM LEMANS WAKO'Sの監督に任命したことです。
…同時に、脇阪寿一選手がスーパーGTのレーシングドライバーから引退することが決まってしまいました(T^T)
いつかこの日が来ると覚悟はしてました。
でも、こうして花束という鈴を着けられてる姿をみるのは…、ファンとしてはツラいッス( ノω-、)
私がこうしてスーパーGTにドップリのめり込むキッカケになったのも、2001年の開幕戦 TIサーキット英田で脇阪寿一選手の激走をナマで観て、頭文字Dみたいに身体に電気がビリビリ~って走ったからなんです。
決勝レースは下位からのスタートではありましたが、私もただ直感で白とブルーのスープラのカラーリングがカッコいいなぁ~って思いながら、グランドスタンドで毎周毎周帰ってくる姿を観てました。
エッソウルトラフロースープラがグランドスタンドに帰ってくる度に、前を走るマシンとの距離を詰め、翌周には追い抜き、また翌周には前のマシンに追いつき…と、闘争心むき出しの超アグレッシブなドライブで、グランドスタンドのお客さんをドッカーンと盛り上げてくれました。
結局、勢い余ってコースアウトしてしまいそのままリタイヤとなりましたが、コースアウトしたエッソウルトラフロースープラを回収している映像を大型ビジョンで観ながら私は…
「こんな破天荒なドライバーは誰だ?」
「こんなに観ているこっちがワクワクするドライバーは誰だ?」
「またこのドライバーの走りが観たい!」
そんな一目惚れしたドライバーが脇阪寿一選手でした(*^^*)
脇阪寿一選手もホンダから移籍して1年目のシーズンで、ショートホイールベースのスープラを振り回している印象でしたね。
そして2002年シーズン。
私もスカパー!に加入し、本格的にレース観戦を始めました。
この頃から脇阪寿一=トヨタのイケイケドライバーというイメージが定着しつつありましたが、
さらに脇阪寿一選手のパートナーにホンダのエースドライバー 飯田章選手が加わり、エッソウルトラフロースープラはダブルエース体制になりました。
ミッドシップのNSXから移籍してきた飯田章選手は、開幕戦こそフロントエンジンの3S-GTEから発せられる熱で右足の裏をヤケドしてましたが、その後はダブルエース体制でいつもレースの中心となって支配し、見事シリーズタイトルを獲得しましたね。
GTを闘うにはダブルエース体制が本命という時代が到来し、全日本GT選手権の人気もテレビの露出が増えたせいでググーンと上昇しました。
私もGTを脇阪寿一選手を中心にいつも観てました。
脇阪寿一選手より年下は若手、年上はベテラン。
トヨタは地球連邦軍、日産はジオン軍って感じに捉えてました(^^)
そしてゼッケン1を背負って迎えた2003年シーズン。
エッソウルトラフロースープラも昨年までの2リッターターボから一気に5.2リッターV8にスープアップし、速さに強さが加わった脇阪寿一/飯田章ペアはチャンピオン間違いないだろうと、私も思ってましたしこの頃のGTファンもそう思っていたと思います。
しかーし!
日産陣営も2002年からスカイラインGT-Rの代名詞でもあるRB26DETTを切り捨て、コンパクトなV6エンジンと低いボンネットという魔改造を施し、
22号車•23号車それぞれダブルエースの2台体制で、エッソウルトラフロースープラの前に立ちふさがりました(▼∀▼)
結果、ニスモの赤いGT-R2台に対して、トヨタはエッソウルトラフロースープラ1台で闘う図式となり、最終戦まで争った結果2003年のシリーズタイトルは、日産 ザナヴィニスモ GT-Rの手に渡りました。
今あらためて振り返りますと、脇阪/飯田組のエッソウルトラフロースープラは、いつもファンの注目を集める人気のコンビで全日本GT選手権の看板を背負う存在ではありましたが、
2003年の第3戦 SUGOのファイナルラップ大逆転劇以降、2005年のGT500スープラ引退にいたるまでの2年半の間、優勝してないんですよね~(x_x)
ファンの注目を集める中、2004年シーズンもなかなか結果が出ませんでした。
ですが、この年の十勝のレースでようやく2位に入ったときに、脇阪寿一選手は顔を紅潮させながら「俺たちの実力はこんなもんじゃない!」ってインタビューに答えていたのを覚えています。
その飽くなき向上心こそ、脇阪寿一の真骨頂だと私は感じました(^O^)
走っても走っても、なかなか歯車が噛み合わない2004年シーズン。
変な言い方ですけど負けた姿もカッコいいんですよね~
脇阪寿一選手って…
私はこの姿に惚れたんでしょうね(o^^o)
2005年シーズンになるとGTレースの流行も変わりはじめ、それまでのダブルエース体制から、エースドライバーとレースを組み立てるドライバーというコンビが強いという風潮になってきました。
具体的にはZENTセルモ スープラの立川裕路/高木虎之介コンビですね(^^)
クレバーな走りでレースを組み立て、ドライバー交替後はエースドライバーが美味しいところを全部持って行く…
全日本GT選手権からスーパーGTに名称が変わったと同時に、日本のGTレースもこの頃からレベルアップしたとも言えます。
そんな時代の変化に脇阪寿一/飯田章ペアは対応しきれなかったのかなと、私は感じました。
そしてこの年を最後に脇阪寿一選手は6号車 Team LeMansから離れ、トヨタのエースナンバー36号車のTEAM TOM'Sへ移籍しました。
2006年の脇阪寿一選手はTEAM TOM'Sからのエントリー。
マシンはスープラからレクサスSC430へと変わり、コンビを組む相方は後のル・マン王者のアンドレ•ロッテラー選手となりました。
2003年に来日し、ナカジマレーシングでNSXを3シーズンドライブしてきたアンドレ•ロッテラー選手も、負けん気の強いキレッキレの若手外国人ドライバー。
一方で、トヨタのエースとしての強さを関谷監督に買われた脇阪寿一選手。
…コンビ結成した最初の頃はお互いにさぐり合いながら牽制し合ってたと聞きました。
そんな血の気の多いドライバーを束ねる関谷監督も大変だったことだろうと思います。
互いにまだ信頼も無く寄り合い所帯のような雰囲気のチームが一つになれたキッカケは…、
何より結果でした☆☆
2006年の開幕戦 鈴鹿で好調ホンダNSXが横風に苦しむ中、スルッとかすめ取ったNewマシン・Newコンビでの初勝利!
2シーズン半もの間、ほぼ勝ち方を忘れかけていた脇阪寿一選手にとって、この勝利は特別だったことでしょう。
エッソウルトラフロースープラに乗っかっていた頃は、俺が俺が…とエースドライバーらしくチームを引っ張らないといけない責任感でいっぱいでしたが、
強い監督・強いエンジニア・強いメカニックの元、チームの力を結集することで強いレースが出来ることに気づいた瞬間だと私は思いました。
(アンドレのスペシウム光線がテレコってるのはご愛嬌www)
TEAM TOM'Sとしてもドライバーを二人とも入れ替えることはギャンブルだったと思います。
それもこれも全てひっくるめて、この勝利がチームの結束をグッと固め、2006年シーズンは見事GT500シリーズチャンピオンに輝きました。
脇阪寿一選手にとっても2002年シーズン以来のシリーズタイトル獲得。
ダブルエース体制というパッケージで奪い取った2002年とは違い、強い勝ち方で掴んだシリーズチャンピオンは脇阪寿一選手にとって新たな刺激になったのだと思います。
2007年シーズンはチャンピオンナンバーを背負い、昨年と同じ体制でシーズンに臨みました。
変わったことといったら、SC430のカラーリングが焼酎のボトルっぽくなったくらいですね(^^;)
今でも語り継がれる名レースが2007年の第6戦 鈴鹿1000km。
173周のレースで160周を経過してから最後に大逆転した脇阪寿一/アンドレ•ロッテラー組は、まさしく強いチームが引き寄せた完全勝利でしたね。
週末の天気予報を予測して、概ね雨の予報だったにも関わらず、決勝レースで雨が小降りになった時に必ず必要になると読んで、金曜か土曜日の段階で一皮むいたスリックタイヤを用意していたTEAM TOM'Sの頭脳プレーとも言えます。
しかし、この後また脇阪寿一選手は壁にぶち当たります。
年々実力をつけてくるアンドレ•ロッテラー選手に対し、同じマシンを共有する脇阪寿一選手にはハッキリと速さの差が伝わってきてたのです。
そしてその速さの差は責任感の強い脇阪寿一選手を追い込み、苦しみます。
TVカメラを向けられたり雑誌の取材に答えるときは、脇阪寿一選手はいつも相方のアンドレ•ロッテラー選手のことを「世界一のドライバー」と褒め称えます。
そうやって言えば言うほど、逆に自分を追い込んでるんですよね~
アンドレを生かせないのは俺のせいだと抱え込んだ脇阪寿一選手。
その間もTEAM TOM'Sは、この鈴鹿1000kmの勝利から丸2年も優勝から遠ざかってました…
2009年の秋、外野からは「脇阪は終わった…」なんてヒソヒソ言われだした頃、仙台ハイランドでタイヤテストがありました。
そのタイヤテストには、アンドレ•ロッテラー選手は別の仕事で参加できなかったので、脇阪寿一選手1人でタイヤテストのメニューをこなすことになりました。
外野の雑音を振り払いながらひたすら仙台ハイランドを走り込む…
TEAM TOM'Sの狙いはタイヤテストのメニューを消化することと、リーマン•ショックでGTマシンの走行テストの機会が減る中、脇阪寿一選手に走り込んでもらって自信と輝きを取り戻してもらうことでした。
後に脇阪寿一選手は、このタイヤテストが大きかったと言ってます。
タイヤテスト直後の2009年第8戦 オートポリスでは、見事2年2ヶ月ぶりに優勝しました!
そして勢いそのまま第9戦 もてぎで、5ポイント差を逆転してシリーズチャンピオンに輝きました!!
脇阪寿一選手にとっては2002年・2006年に続く3回目のシリーズタイトル獲得です。
「ミスタースーパーGT」の肩書きが似合う日本を代表するスタードライバーに成長しました。
そんな脇阪寿一選手とTEAM TOM'Sとの関係は2010年シーズンで終了しました。
このタイミングで再び6号車 Team LeMansに戻るのかと思いましたが、2011年シーズンは空中分解しかかった35号車 Team Kraftに移籍し、震災で沈む日本に元気を与えよう必死にがんばりました。
しかし名門TOM'Sと比べるとチーム力は遠く及ばず、一年中細かいミスを繰り返していた印象でした。
結局、Team Kraftには一年間しか在籍してませんでしたが、ここでの経験はいずれチームをまとめる立場になったときに重要になってくると思いました。
その後の脇阪寿一選手は…
名門39号車 TEAM SARDに移籍し、石浦宏明選手とタッグを組んでGT500チャンピオンを狙うものの、丸2シーズンで1勝したのみでした。
どうしてもクレバーな選手同士のコンビになっちゃったので、2012年チャンピオンのロニー•クインタレッリ選手や2013年チャンピオンの立川裕路選手のような尖った要素が足りなかったように見えました。
2014年からは横浜タイヤユーザーのLEXUS TEAM WedsSport BANDOHへ移籍。
マシンも丸8年親しんだSC430から左ハンドルのRC Fへとスイッチしました。
コンビを組むパートナーは15歳年下の関口雄飛選手です。
速さはあるけど荒っぽい関口選手の姿に、若い頃何度もコントロールタワーに呼ばれて怒られてた自分と重ね、現役引退までのラスト2シーズンは関口選手の才能を伸ばすように後押ししていたように見えました。
現役最後のレースとなった3ヶ月前のツインリンクもてぎ戦の写真ですね(;_;)
年々速くなっていくGT500マシンに対し、シーズンオフから徹底的に体をイジメぬいても、それでも追いつかないほど速くなっていくGT500マシン達…。
同僚の関口選手がメキメキと速くなって予選Q1を突破した後、予選Q2でバトンをもらった脇阪寿一選手が頑張りすぎて大スピンをかましたこともありました。
それでも脇阪寿一選手と関口雄飛選手のコンビは、荒れた2015年シーズンにおいてクラス唯一、全戦でポイント獲得を果たしました☆
これが脇阪寿一選手の最後の功績になっちゃいました…(/_;)
ありがとう!脇阪寿一選手
こうして振り返ると、脇阪寿一選手は監督をするために必要なスキルはもうすでに身についていそうですね(^-^)
スポーツは違いますが、今シーズンから監督業をつとめる巨人の高橋由伸新監督や、阪神の金本知憲新監督のようなワクワク感があります。
11年ぶりに帰ってきた6号車 Team LeMansで、現役時代の勘を生かしてどのような戦略を立てて采配を振るうのか、今からとても楽しみです。
青山学院大学の原晋監督のようなミラクルも期待しちゃいますね(^.^)
中堅から徐々にベテランに向けてステップアップする時期に来た大嶋和也選手と、
レクサスチームでスーパーGTを丸4年闘い抜き、今後どこまで成長するのか楽しみな25歳イタリア人ドライバーのアンドレア•カルダレッリ選手という2人のコンビは、二連覇中のGT-Rを叩くには十分の実力だと言えますね。
特に年上のドライバーを欲していた大嶋和也選手にとって、脇阪寿一選手が同じチームで帯同することはとても大きいんじゃないのでしょうか。
今シーズンの開幕が一気に待ち遠しくなりました♬
でも、ミスタースーパーGT 脇阪寿一選手の引退は……
ファンと一緒に盛大に祝って送ってあげたかったなぁ~…(´;ω;`)