7世紀頃に描かれたインドのアジャンタ洞窟の壁画に、絣織物らしき布を身にまとっている人々の様子の絵が残っており、絣織物の技術はかなり古くからあったと思われます。
やがて、その絣織物の技術がアジアの国々をはじめ世界の各地に伝播していったと考えられています。
絣織物の技術は特にアジアの地域に定着し、各地域の独自の模様などが生み出されてきました。
沖縄へは14〜15世紀頃に伝えられたといわれています。
琉球王府時代になると、織物は沖縄の各地で盛んに織られるようになりました。
特に首里、那覇をはじめ、宮古・八重山や久米島の島々では王府に納める貢納布として織られていました。
そのころの貢納布は、首里王府の絵師が描いた絣デザイン集の「御絵図帳」を基に、島の女性達が厳しい製造工程に従事して織物にしていました。
この頃、絣デザインや染色技術の織物技術は高度に発達しました。
王府時代に、一般の人たちが着用できる着物の柄は、無地か縞柄に限られていました。
明治に入ってからは、商品として市場に出るようになり絣柄の着用も許されました。
その頃の織物産地は、那覇の小禄や泊、豊見城などが盛んでした。
南風原では、これらの産地との交流を通して、しだいに技術が向上していきました。
南風原で織物の生産が本格的になったのは、大正から昭和はじめのころです。
沖縄県では、明治の頃から小禄や島尻の女子工業徒弟学校で多くの織り子を養成し、大正に入ると南風原でも村立女子補習学校で織物指導が行われていました。
また、那覇の泊から絣織物の技術者が南風原に移り住み、地元の人達と技術の交流がさかんに行われました。
大正3年、南風原の女子補習学校に、熊本県から金森市六氏が招かれ、主にヤシラミ花織、紗紋織、絽織、ロートン織、八枚花織などの組織織を指導し、南風原産地に特筆すべき功績を残しました。南風原では、織物技術者が増えるにしたがい、いよいよ織物の産地として基盤を固めていきました。
昭和5年(1930)には、織物検査を強化し品質の統一を図るとともに、原料購入の一括化、生産・販売を強化するため、南風原織物組合が結成されました。
また、規模の大きな組合工場が照屋と本部に設立され、宮平には金森工場、山川には秋山工場と民間の工場も設立されて、県内最大の絣産地に発展しました。
ところが、第二次世界大戦がおこり、織物資材の供給が止ると、織物工場も閉鎖されました。
南風原は激戦地と化し、戦争によって多くの織物技術者と生産設備を失うことになったのです。