愉快的陳家@倫敦

ロンドンで、ちょっと雑だが愉快な暮らし。

ブダペスト紀行2:ドハーニ街のシナゴーグ

今回泊まった宿は、ブダペストユダヤ地区にあった。パーティーエリアでもあるらしく、周囲からはこのあたりのおすすめのバーなど教えてもらったりしたが、私達が泊まった通り、ドハーニ街にはとても大きなシナゴーグがある。

大きすぎて全容が撮れない。ヨーロッパ最大のシナゴーグであるらしい。ムーア式のデザインが美しい。

その昔ブダペストの人口の2割ほどがユダヤ人だったそう。技術やビジネスなどの分野で活躍し、いわば国内の中産階級層を作ることに貢献したともいえるらしい。

この地域の歴史のお約束通り、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国、そしてハンガリー独立運動など時代に応じてユダヤ人コミュニティは自由だったり締め付けられたりを繰り返し、そして最後はホロコーストである。

このエリアも、私達が泊まったアパートのある通りからぐるっと壁が作られ、ユダヤ人ゲットーが作られたという。ブダペストユダヤ人はそこに押し込まれ、多くが飢えや病気で亡くなったのだそう。

中庭にはそうやって亡くなった人たちの墓石がおかれている。まさにこの場所に死体が山積みで、名前がわからない人も多かったという。今は綺麗に整備され、観光客がわらわらやってくる場所になっているが、昔はそんな凄惨な光景が広がった場所だと思うと何とも言えない。

私達が泊まっているアパートも、そんな光景のど真ん中に建っていた訳だ。もしかしたらこの部屋にたくさんのユダヤ人が重なり合って暮らしていたかもしれない。うわあ。

と同時に今地域で起こっていることを考えると、さらに複雑な気持ちになる。昔々イスラエルに行ったときに見た、アラブ側とイスラエル側の現実。昔の職場で双方の視点からの話し合いをした時に感じた、お互いの経験、感情に基づくこれまた何とも言えない無限ループのジレンマ。うぐぐぐぐ。すべて全部リセットできたらどんなに良いのだろう。

シナゴーグの中は多少教会風な造りになっていた。各国の旗が置いてあるが、その旗がある場所に座ると、その国の言語でガイドさんが説明をしてくれるようになっている。英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ヘブライ語などに分かれていて、非常に物静かに、でも効率よく案内がされている。

男性はシナゴーグに入るときに帽子をかぶるか、配られる白い紙のヤマカを頭頂につける必要がある。つけなれていない人も多いので、何か河童の皿のようになっている人や、なぜか後頭部にくっつけている人もいてくすっと笑ってしまった。

このシナゴーグにはパイプオルガンがある。教会っぽいのは、このシナゴーグがリベラル派的なユダヤ教に属するかららしい。このエリアではこれ以外にも、いくつかのシナゴーグが隣り合うようにいくつもあったのだけれど、ハプスブルグ時代のハンガリーでは、よりハンガリーに同化しようとする一派、オーソドックスなユダヤ教を守ろうとする一派、その中間的な一派などが生まれ、それぞれの宗派ごとのシナゴーグができたらしい。

近辺にはシオニズムの父であるテオドール・ヘルツルの生家もあったことから、シナゴーグにはユダヤ教に関する博物館もついている。

さらにエリアにはコーシャーのスーパーや、ユダヤ料理を出すお店などもちらほらあった。時々ヘブライ語の看板が出ている店もある。思えば空港でも独特の恰好をしたハシディックの人をよく見かけたりした。

あとアメリカから旅行なり何なりで来ているユダヤ系っぽい人も結構見かけた(なんとなく話し方や見た目でわかる)。もともと家族のルーツがここだという人もいるだろうし、とにかくアメリカ人観光客がそれなりにいたのが印象的だった。