江戸前ずし　松乃鮨　日本の“ファストフード”世界へ

　「これから秋（あき）になると、サバは脂（あぶら）がのってきます。サケは産卵（さんらん）が始（はじ）まるのでイクラがおいしくなる。マグロも冬（ふゆ）の味（あじ）になってきます」

　こう言（い）って、江戸前（えどまえ）のすし職人（しょくにん）、手塚（てづか）良則（よしのり）さん（４１）が、脂（あぶら）ののったマグロを握（にぎ）ってくれました。

　「魚（さかな）はどれにも旬（しゅん）があります。ぜひ、魚（さかな）で季節感（きせつかん）を味（あじ）わってほしいですね」

　食（た）べるのがもったいなくなるほど、淡（あわ）いピンクの身（み）がしっとりと輝（かがや）いています。

　東京都品川区（とうきょうとしながわく）の大森海岸（おおもりかいがん）にある「松乃（まつの）鮨（ずし）」は創業（そうぎょう）１１０年（ねん）の老舗（しにせ）。１９１０（明治（めいじ）４３）年（ねん）に東京（とうきょう）の芝（しば）神明（しんめい）（現在（げんざい）の浜松町（はままつちょう）あたり）で江戸時代（えどじだい）の雰囲気（ふんいき）を残（のこ）す屋台（やたい）のすし屋（や）としてスタートしました。江戸（えど）後期（こうき）に始（はじ）まったとされる当時（とうじ）のすし屋（や）は、今（いま）のようなカウンターがある（もちろんお皿（さら）が回転（かいてん）するような）お店（みせ）ではなく、移動（いどう）式（しき）の屋台（やたい）でした。そこに、今（いま）のすしの２～３倍（ばい）も大（おお）きい握（にぎ）りずしが並（なら）び、庶民（しょみん）の胃袋（いぶくろ）を満（み）たしていたのです。

　「当時（とうじ）のファストフードですね。せっかちな江戸（えど）っ子（こ）には、片手（かたて）でちょいとつまんで気軽（きがる）に食（た）べられたのが受（う）けたようです」と手塚（てづか）さん。

江戸前（えどまえ）で旬（しゅん）の魚（さかな）を地産地消（ちさんちしょう）

　酢飯（すめし）の上（うえ）に具（ぐ）が乗（の）った「すし」には、大（おお）きく二（ふた）つのタイプがあります。古（ふる）い伝統（でんとう）を持（も）つ関西（かんさい）の「押（お）しずし」と、いわゆる「江戸前（えどまえ）ずし」と呼（よ）ばれる「握（にぎ）りずし」です。江戸前（えどまえ）とは「江戸（えど）の前（まえ）の海（うみ）（今（いま）の東京湾（とうきょうわん））でとれた魚（さかな）を使（つか）った」という意味（いみ）です。今風（いまふう）に言（い）えば「地産地消（ちさんちしょう）」ですね。

　「コハダや穴子（あなご）、タコ、赤貝（あかがい）、ハマグリ、車（くるま）エビ、キス、墨（すみ）イカ……など、江戸（えど）の海（うみ）では四季（しき）折々（おりおり）に新鮮（しんせん）な魚（さかな）がとれました。生（なま）で食（た）べるための処理（しょり）をするほか、酢（す）で締（し）めたり、しょうゆ漬（づ）けにしたり、蒸（む）したり、煮（に）たり、ネタそれぞれに一（ひと）手間（てま）かけたものを握（にぎ）るのが江戸前（えどまえ）のすし。すしには、旬（しゅん）を味（あじ）わう日本（にっぽん）の食文化（しょくぶんか）が集約（しゅうやく）されています」

　そう語（かた）る松乃（まつの）鮨（ずし）の４代目（だいめ）、手塚（てづか）さんは、出張（しゅっちょう）してすしを握（にぎ）り、すしの魅力（みりょく）を多（おお）くの人（ひと）に伝（つた）えることもしています。若（わか）いころにヨーロッパや北（きた）アメリカなどで４年（ねん）間（かん）、スキーのツアーガイドをした経験（けいけん）を生（い）かして、海外（かいがい）への発信（はっしん）にも積極（せっきょく）的（てき）に取（と）り組（く）んできました。昨（さく）年（ねん）、大阪市（おおさかし）で開（ひら）かれた主要（しゅよう）２０か国（こく）・地域（ちいき）（Ｇ２０）首脳会議（しゅのうかいぎ）の時（とき）は、各国（かっこく）首脳（しゅのう）の配偶者（はいぐうしゃ）の前（まえ）ですしを握（にぎ）り、その神髄（しんずい）を英語（えいご）で伝（つた）えました。小学校（しょうがっこう）など学校（がっこう）での食育（しょくいく）授業（じゅぎょう）にも取（と）り組（く）んでいます。

海（うみ）の豊（ゆた）かさを守（まも）りながら

　この日（ひ）、握（にぎ）ってくれたマグロは、大西洋（たいせいよう）でとれた重（おも）さ約（やく）１５０キログラムのクロマグロです。貴重（きちょう）な海洋資源（かいようしげん）であるマグロを長（なが）く維持（いじ）していくための海洋管理協議会（かいようかんりきょうぎかい）（ＭＳＣ）の認証（にんしょう）を、世界（せかい）で初（はじ）めて受（う）けたものでした。

　「限（かぎ）られた資源（しげん）をいかに大切（たいせつ）に味（あじ）わうか。海（うみ）に囲（かこ）まれた島国（しまぐに）の日本（にっぽん）には、季節（きせつ）ごとに新鮮（しんせん）な魚（さかな）を生（なま）で食（た）べることができるという、素晴（すば）らしい環境（かんきょう）があります。貴重（きちょう）な食材（しょくざい）を大切（たいせつ）に使（つか）ってきた昔（むかし）の人（ひと）たちの知恵（ちえ）に学（まな）びながら、江戸前（えどまえ）の味（あじ）を楽（たの）しみたいですね」

　そこには江戸（えど）から続（つづ）く、すし職人（しょくにん）としての味（あじ）へのこだわりと、この食文化（しょくぶんか）を次世代（じせだい）へつなげていこうというあつい思（おも）いがあふれていました。【文（ぶん）・森（もり）忠彦（ただひこ）、写真（しゃしん）・内藤（ないとう）絵美（えみ）】

のり養殖発祥（ようしょくはっしょう）の地（ち）、大森（おおもり）

　大森（おおもり）は江戸時代（えどじだい）から東海道（とうかいどう）の宿場町（しゅくばまち）として栄（さか）え、１９８０年（ねん）代（だい）まで料亭（りょうてい）文化（ぶんか）が残（のこ）っていました。今（いま）でこそ埋（う）め立（た）てが進（すす）み、高速道路（こうそくどうろ）やマンション群（ぐん）が視界（しかい）をさえぎっていますが、昭和（しょうわ）３０（１９５５）年（ねん）ごろまでは松乃（まつの）鮨（ずし）のすぐそこまで海岸（かいがん）が迫（せま）っていたそうです。遠浅（とおあさ）の海（うみ）が広（ひろ）がるこの立地（りっち）を生（い）かして江戸（えど）中期（ちゅうき）から一大（いちだい）産業（さんぎょう）となったのが「のり」の養殖（ようしょく）です。現在（げんざい）、江戸前（えどまえ）のりは佐賀県（さがけん）などに産地（さんち）が移（うつ）っていますが、養殖（ようしょく）技術（ぎじゅつ）は大森（おおもり）で始（はじ）まり、今（いま）でも多（おお）くののり問屋（どんや）がこの一帯（いったい）に集中（しゅうちゅう）しています。

青森（あおもり）・大間（おおま）のマグロ

　人気（にんき）のネタである「マグロ」は、日本（にほん）周辺（しゅうへん）の海（うみ）を回遊（かいゆう）しているため、各地（かくち）で水揚（みずあ）げされますが、手塚（てづか）さんによると「取（と）れる場所（ばしょ）によって味（あじ）が違（ちが）い、取（と）り方（かた）によって香（かお）りが違（ちが）い、取（と）る人（ひと）によって質（しつ）が違（ちが）う」というほど個性（こせい）豊（ゆた）か。太平洋（たいへいよう）でサンマやイワシを食（た）べて筋肉質（きんにくしつ）になり、寒（さむ）い海（うみ）でスルメを食（た）べて脂（あぶら）が乗（の）り、流（なが）れが速（はや）い津軽海峡（つがるかいきょう）を泳（およ）ぐことで身（み）が締（し）まって最高（さいこう）の状態（じょうたい）になります。青森（あおもり）の「大間（おおま）のマグロ」が最（さい）高級（こうきゅう）とされるのは、そういう理由（りゆう）があるのです。

すし屋（や）の一日（にち）

　松乃（まつの）鮨（ずし）の場合（ばあい）、毎朝（まいあさ）午前（ごぜん）７時半（じはん）には東京（とうきょう）の新（あたら）しい台所（だいどころ）である「豊洲市場（とよすしじょう）」（江東区（こうとうく））で全国各地（ぜんこくかくち）から集（あつ）められた新鮮（しんせん）な食材（しょくざい）を仕入（しい）れ、一日（いちにち）がスタート。「予約（よやく）が入（はい）っている場合（ばあい）は、お客様（きゃくさま）の好（この）みに合（あ）わせてネタを仕入（しい）れます」（手塚（てづか）さん）。店（みせ）に戻（もど）って仕込（しこ）みをし、昼（ひる）の営業（えいぎょう）。午後（ごご）も仕込（しこ）みをして、本格（ほんかく）的（てき）な夜（よる）の営業（えいぎょう）へと移（うつ）ります。閉店（へいてん）は午後（ごご）１０時（じ）すぎ。一人前（いちにんまえ）になるには時間（じかん）がかかりますが、今（いま）も若（わか）い職人（しょくにん）が日々（ひび）、修業（しゅぎょう）を続（つづ）けています。

４代目（だいめ）の挑戦（ちょうせん）

　国際（こくさい）的（てき）な経験（けいけん）を生（い）かして、手塚（てづか）さんは海外（かいがい）からのゲスト向（む）けの握（にぎ）り体験（たいけん）や、築地場外市場（つきじじょうがいしじょう）のツアーなども行（おこな）っています。おすしのネタにも工夫（くふう）がたくさん。外国人（がいこくじん）の中（なか）には、宗教（しゅうきょう）上（じょう）などの理由（りゆう）で、魚（さかな）や貝（かい）などの動物（どうぶつ）系（けい）食材（しょくざい）が食（た）べられない人（ひと）がいます。こうした人（ひと）たちにも楽（たの）しんでもらおうと開発（かいはつ）したのが「野菜（やさい）ずし」。トマトやほうれん草（そう）、シイタケなどを使（つか）ったおすしは、魚介類（ぎょかいるい）にはない色合（いろあ）いでも人気（にんき）です。

　●「松乃鮨（まつのずし）」

ｈｔｔｐｓ：／／ｍａｔｓｕｎｏｚｕｓｈｉ．ｃｏｍ

〒１４０－００１３　東京都品川区（とうきょうとしながわく）南大井（みなみおおい）３の３１の１４

電話（でんわ）：０３・３７６１・５６２２

　大森海岸（おおもりかいがん）に移（うつ）ってきたのは２代目（だいめ）の時（とき）の１９３６（昭和（しょうわ）１１）年（ねん）。現在（げんざい）の店舗（てんぽ）は、１階（かい）にカウンター、２階（かい）に座敷（ざしき）があり、離（はな）れ座敷（ざしき）も。料亭（りょうてい）文化（ぶんか）のなごりで、今（いま）でも芸者（げいしゃ）さんが踊（おど）ることもあるそうです。

　味（あじ）の良（よ）さに加（くわ）え、国際感覚（こくさいかんかく）に対応（たいおう）した新（しん）ネタの開発（かいはつ）などでも注目（ちゅうもく）されています。

　次回（じかい）の「江戸東京（えどとうきょう）見本帳（みほんちょう）」は１０月（がつ）２７日（にち）（一部地域（いちぶちいき）は２８日（にち））に掲載（けいさい）します。

　協力（きょうりょく）：江戸東京（えどとうきょう）きらりプロジェクト