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9歳の時、豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう)に入門して竹本綱子太夫と名乗り、1966年に大阪・朝日座と、東京・国立劇場開場の文楽公演で初代豊竹咲太夫を襲名した。披露狂言は「菊畑」。咲太夫は虎蔵で、鬼一は父の八世竹本綱太夫が語った。当時は先輩の太夫が大勢いたが、咲太夫は同年配の五世豊竹呂太夫と共に若手のホープと呼ばれ、「夏祭浪花鑑・長町裏」の団七、「妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)・山の段」の背山など大きな役に抜擢(ばってき)された。
69年から自主公演「咲太夫の会」を始めている。その前後から父をはじめ戦後の文楽を支えてきた人々が次々に逝き、やがて呂太夫まで急逝し、太夫陣は急速に手薄になった。そんな状況の中で咲太夫は四世竹本越路太夫、七世竹本住太夫、九世竹本綱太夫に次ぐ太夫としてさまざまな作品に挑戦した。興行面でいうと、文楽は平成時代に最盛期を迎えるが文楽人気を支えた太夫の一人だった。
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