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トレードマークの長いもみあげは白くなり、あごひげとつながっていた。「あっという間の50年でした」と切り出したのは、大相撲の元関脇・高見山の渡辺大五郎さん(78)だ。米ハワイから来日し、外国出身力士初の幕内優勝を成し遂げてから、7月で半世紀になる。
「稽古も2倍、2倍ね」
東京オリンピックの開催を約半年後に控えた1964年3月の春場所で、19歳にして初土俵を踏んだ。しかし伝統的な相撲の稽古(けいこ)に戸惑いを隠せなかった。特に柔軟性を高めるために開脚する股割りには苦労した。「どうしても、できなかった。今でも腰が痛い。でも、パワーはすごかったよ」と腰をさすりながら懐かしそうに話した。
「1年目は苦しかった。2年目はやっと相撲のことが分かってきた。3年目からは慣れて、自信もついてきた」。番付を上げるにつれ、ユーモアあふれる力士は土俵外でも人気を集めた。寝具メーカーのテレビCMに出演し、下に敷く2層構造パッドの効果をアピールした「2倍、2倍」のせりふは流行語のようになった。
一方で、所属していた高砂部屋では厳しい稽古に励んだ。「朝5時から昼の12時まで。(他の力士より)稽古も2倍、2倍ね」。CMのせりふを引用しつつ笑いを取るサービス精神は、今も変わらない。周囲から泣いていると指摘されて「目から汗が出た」と答えたこともあるほど過酷な稽古は、やがて大きな成果につながった。
大相撲の歴史を変えた外国出身初優勝
ハイライトは72年7月の名古屋場所だ。一人横綱の北の富士が全休し、大麒麟、清国、琴桜の3大関は初日から全員が敗れた。振るわない上位陣をよそに、東前頭4枚目で臨んだ渡辺さんは身長約190センチ、150キロを超える大柄な体格が生み出すパワーを前面に出した突き押し、つり出しなど豪快な相撲で白星を重ね、優勝争いの先頭に立った。
インターネットはもちろん、テレビの国際中継もなかなかない時代だったが、家族らを通じて出身地であるハワイの盛り上がりを知った。それでも「ハワイのために、とは考えていなかった。自分のために頑張ろうと思っていた。優勝すれば、ハワイのためにもなる」と、必要以上に大きなものを背負うことはなかった。
ジェシーの愛称で親しまれた力士は最後まで自分の相撲を貫き、大相撲の歴史に新たな風を吹き込んだ。初めて賜杯を抱き「最高の瞬間でした」と感慨に浸った渡辺さんの元には、リチャード・ニクソン米大統領(当時)から祝電も届いた。
小錦、曙らを育てた温かい人柄
現役当時、日本では「ガイジン」と呼ばれることが多かった。「バカにしているのかなと感じた」こともあったが、「反発するの…
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