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来日100年・タタール人の軌跡

日本にイスラムとの本格的な出会いをもたらしたタタール人の渡来が始まってから100年。その軌跡をたどります。

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来日100年・タタール人の軌跡

/6 服部四郎が残した民族の新聞

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島根県立大学に保管されているタタール語新聞「ミッリー・バイラク」=田中洋之撮影
島根県立大学に保管されているタタール語新聞「ミッリー・バイラク」=田中洋之撮影

 ロシアから極東に逃れたタタール人は、タタール語の週刊新聞を発行していた。名称はタタール語で「民族の旗」を意味する「ミッリー・バイラク」。1935年に有力指導者のガヤズ・イスハキー(1878~1954年)が同胞の組織化や啓蒙(けいもう)活動のため旧満州・奉天(現中国東北部・瀋陽)で創刊し、終戦までの10年間に約400号が出された。その大部分が現在、島根県立大の浜田キャンパス図書館(島根県浜田市)に保管されている。

 当時タタール語の表記に使われていたアラビア文字で、通常4ページに政治や世界のニュース、論説などの記事を掲載し、タタール人コミュニティーで広く読まれていた。40年11月1日付の紙面には柳田元三ハルビン特務機関長が創刊5周年の祝辞を日本語で寄稿。「反ソ連」でタタール人と連携を図ろうとした日本軍部の思惑がうかがえる。

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