敗戦直前、将校を速成する特甲幹に「志願」
毎日新聞
2021/9/15 14:00(最終更新 9/15 14:00)
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戦争末期、沖縄から台湾への疎開が始まった。
サイパンが米軍の攻撃で陥落した1944年7月、政府は沖縄県などから高齢者や女性、子どもの疎開を決定した。沖縄が次の侵攻目標になる恐れがあった。兵力10万人が沖縄に配備されつつある中、軍への食糧確保や防衛の「足手まとい」になる住民を県外に出そうという意図もあった。
沖縄県には7月中に本土へ8万人、台湾へ2万人と計10万人を疎開させるよう命令が出された。その後、集団疎開や親戚らを頼った「縁故疎開」により1万人余が台湾に向かった。
疎開船は米軍潜水艦などの襲撃を受けた。多くの犠牲者を出したのが「尖閣列島戦時遭難事件」だ。石垣島を出港した疎開船2隻が45年7月、尖閣諸島付近で米軍機の攻撃を受け、1隻は沈没、もう1隻は尖閣の魚釣島に漂着した。死者は80人を超すともいわれる。
台北で暮らしていた沖縄出身の川平(かびら)家。四男の朝清(ちょうせい)さん(94)は多くの親戚が沖縄から疎開してきたことを覚えている。母・ツルさんの妹2人が息子たちを連れて避難してきた。遠戚の森永祐弘さんは、宮古島から台北の中学校に転校した。
集団疎開の避難民たちは、台湾に着いても困難が続いた。工場や学校などで暮らしたが、空襲で工場などが爆撃を受け、何度も避難先を移転した人もいた。食糧の配給は次第に滞り、空襲やマラリアによる犠牲者も出た。石垣島から住民を引率してきた警察官は、避難民から「これでは死にに来たようなもので、何のために苦労して疎開した(のか)が分からない」と苦情を言われた。
朝清さんは「私は台北の街中で集団疎開の人たちを見かけませんでした。…
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