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映画「ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~」 栄光の陰にドラマ 物語モデルの原田雅彦さん・西方仁也さん、公開目前対談

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「夢見ることも、ジャンプをしていたからこそ」と話す元スキージャンプ日本代表の原田さん(左)と西方さん=東京都千代田区で2021年4月5日、宮間俊樹撮影
「夢見ることも、ジャンプをしていたからこそ」と話す元スキージャンプ日本代表の原田さん(左)と西方さん=東京都千代田区で2021年4月5日、宮間俊樹撮影

 1998年の長野オリンピック、スキージャンプ・ラージヒル団体金メダルの大逆転劇に隠された実話を描いた映画「ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~」(毎日新聞社など製作委員会)が、近く全国公開される。裏方として競技を支えたテストジャンパーに焦点を当てた感動作だ。物語の当事者であり、長年日本ジャンプ界をけん引し、ライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)してきた西方仁也さん、原田雅彦さんが94年リレハンメル、長野両五輪当時の思いや、ジャンプ競技の醍醐味(だいごみ)などについて語ってくれた。【鈴木隆】

 ――長野のジャンプ金メダルは日本の五輪史に残る場面。原田さんの「俺じゃないよ、みんななんだよ」も名言だった。

 原田 多くの人に支えられて飛べたという思いがあったから出た言葉。とにかくホッとした、というのが正直な気持ちだった。(リレハンメルからの)プレッシャーが蓄積されていたからそれを超えられた感じだった。

 西方 金メダルの瞬間は「ああ、よかったなあ」と率直に感じた。代表選手4人とも金メダル獲得直後は忙しかったと思うけど、斉藤浩哉がテストジャンパーに電話をくれ、岡部孝信は僕らの宿舎に「ありがとう」と金メダルを持ってきてくれた。自分がそこにいたかもしれない立場だったから心からおめでとうと言うのは難しかったけど、ほかのテストジャンパーを見て素直に喜ぶべきだと思った。

 原田 西方は同じ年齢で合宿とかでも同じ部屋、海外遠征もずっと一緒。起きたら何をするかとか、どうなったら怒り出すかとかお互いわかっている。でも、ずっとライバル。不思議な関係ですね。

 西方 (天候など)条件が悪い時とか、チームだから情報は教え合う。どっちかが勝てばいいという時もあったなあ。

 ――リレハンメルの後、原田さんへの批判やプレッシャーは相当あった。

 西方 原田はアンカーだったからね。技術も心の強さもあったし、93年の世界選手権ノーマルヒルで優勝したり好調だった。最終目標は金だったが、銀だからよかったって考えた。あの時としては最高の成果だった。

 原田 自分に力を付けてプレッシャーを減らしていくしかなかった。飛ぶことだけ考えるのが一番のクスリだった。

 ――ご家族の存在は大きかった。

 原田 妻は一番近くで励ましてくれた。(リレハンメルでの失敗は)僕のせいなのに、家族が悪いみたいに言われ、街中でも指をさされたりとつらい思いをさせてしまった。焦って試行錯誤したこともあったが「自分らしく飛べば」と言われたのを機に吹っ切れて、戦績も良くなった。

 西方 うちの妻はサバサバしていた。悩んでいる時は後ろ向きに考えがちだが、「けがが治ってからでないと話にならないでしょう」とさっぱりというか、強気。「自分のやりたいようにやればいいんじゃない。家庭は私がやっておくから」と言ってくれた。

テストジャンパー、誰かのために

 ――2人とも子供の時からジャンプ中心の人生を生きてきた。その魅力とは。

 原田 最初は10歳で5メートルぐらいからのジャンプ。そのときの高揚感は今も覚えている。距離が出る時ってすごく気持ちいいんです。飛び出した時にいいジャンプかわかる。体が浮いていく時の感覚。飛んだ人にしかわからないかもしれないけど(西方さんもうなずいて満足そうな笑み)。一番遠くに飛ぶことは子供のころからの目標でした。

 西方 中学2年の時、原田がすごく飛んでいるのを見てカルチャーショックを受けた。高校生の時は一緒に海外遠征に行き、気がついたら同じ会社で競技を続けてきた。K点を越え、さらに限界を超えていくドキドキ感は何とも言えない。

 ――映画を見てどう思いましたか。

 西方 飯塚健監督が何回も足を運んで話を聞いてくれた。僕の心の声、関係した人の気持ちを代弁してくれている。二つの五輪の間の雪辱と応援する立場が重なって金メダルにつながった。

 原田 俳優さんが人間味あふれる部分をうまく再現してくれた。多くの人のドラマがジャンプを通じて描かれていて心から感動した。

 ――西方さんは一流選手になってからテストジャンパーを引き受けた。

 西方 僕は高校、原田は中学の時に経験している。長野五輪の時は、頼まれて断るのはかっこ悪いし、調子がよすぎると考えた。何年か前に札幌のW杯で船木がテストジャンパーをやっていて、「長野の時にある先輩がテストジャンパーをしていた。それに励まされた。誰かの役に立てるなら、頼まれたらやろうと思っていた」という記事を見た。わかってくれる人がいてうれしかった。

 ――ジャンプを本当に愛しているんですね。

 原田 いろいろな意味で自分を成長させてくれた。競技とは関係ない経験も山のようにあって、ジャンプをしていたからこその財産だ。

 西方 僕は長野の野沢温泉、原田は北海道上川町の生まれ。それが世界中を回って結果も名前も残して、原田は特にすごい。夢見ることも、大きな視野でものを見ることもでき、知人も増えた。長野五輪では成果も得た。感謝しかない。

日本代表チームの軌跡―あらすじ―

 スキージャンプ選手の西方は、1994年のリレハンメル五輪団体戦で日本代表をけん引するが、原田の失敗ジャンプで日本チームは金メダルを逃し銀メダル。長野五輪での雪辱を誓った。しかし、腰の故障で代表から落選。失意の中、競技前にジャンプ台の状態を確認するテストジャンパーとしての参加を依頼され、屈辱を感じながらも裏方を受け入れる。そして、長野五輪ラージヒル団体戦本番。日本代表は1本目で4位になり、猛吹雪で競技は中断。審判員の再開の条件は「テストジャンパー25人が全員無事に飛べること」だった……。


企画プロデュース 平野隆

監督 飯塚健

脚本 杉原憲明、鈴木謙一

撮影 川島周、山崎裕典

照明 本間大海

美術 佐久嶋依里

録音 反町憲人

音楽 海田庄吾

主題歌 MISIA「想いはらはらと」(作詞・作曲 川谷絵音)

挿入歌 MAN WITH A MISSION「Perfect Clarity」

出演 田中圭、土屋太鳳、山田裕貴、眞栄田郷敦、小坂菜緒(日向坂46)、濱津隆之、古田新太


 ■人物略歴

原田雅彦(はらだ・まさひこ)さん

 1968年5月、北海道生まれ。94年リレハンメル五輪のラージヒル団体戦で銀メダル。98年の長野では、ラージヒル個人戦銅メダル、同団体戦で金メダルを獲得。2006年に現役引退後、指導者・解説者として活躍。現在、雪印メグミルクスキー部総監督。


 ■人物略歴

西方仁也(にしかた・じんや)さん

 1968年12月、長野県生まれ。94年リレハンメル五輪のラージヒル団体戦で銀メダル。98年の長野では、腰の故障から代表に選出されなかったが、テストジャンパーとして団体戦の金メダルに貢献。2001年に現役を引退後、指導者として後輩の育成に携わる。

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