愛称は「黄門様」 ユーモアあふれるご意見番 渡部恒三さん死去

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贈られた印籠(いんろう)を手にする渡部恒三民主党国対委員長(当時)=衆院第2議員会館で2006年6月16日午後4時45分、藤井太郎撮影
贈られた印籠(いんろう)を手にする渡部恒三民主党国対委員長(当時)=衆院第2議員会館で2006年6月16日午後4時45分、藤井太郎撮影

 23日に死去した渡部恒三元衆院副議長は、ご意見番として旧民主党政権で存在感を示した。会津なまりのユーモアあふれる語り口で親しまれた。2006年に「偽メール事件」で野田佳彦国対委員長(後に首相)が辞任した際、後任で事態を収拾した。当時73歳。平野博文、川端達夫両氏が「助さん、格さん」と称して補佐し、「水戸黄門みたいですね」と冷やかされると、「由美かおるがいなきゃダミだなア」と笑い飛ばした。意気消沈した党を活気づけた。

 それ以上に、渡部氏の存在感の背景には、保守政治の本流にいた政治キャリアがあった。1993年に自民党を離党する前、小沢一郎衆院議員らとともに竹下派「七奉行」に名を連ねた。竹下派の主導権争いに端を発する分裂が、細川政権誕生につながった。

 旧民主党の発足後は保守系の後見役となり、人材育成に努めた。野田氏や岡田克也前副総理、前原誠司、玄葉光一郎両元外相、枝野幸男・立憲民主党代表らを民主党「七奉行」と命名した。09年に旧民主党政権が実現したのは、リベラル系から保守系まで幅広い勢力が結集した結果だった。

 旧民主党の政権獲得前夜から下野まで担当した私は、議員会館の事務所をよく訪れた。好々爺(こうこうや)然として、とぼけた様子で政局談議に応じるのが常だったが、ある日、いつもは寝癖のついた髪を整髪料できちんと整え、口数が少なく、眼光だけが鋭かった。11年4月のこ…

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