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1からまなべる! イスラエル・パレスチナ紛争の理由と歴史

1からまなべる! イスラエル・パレスチナ紛争の理由と歴史

2023(ねん)10(がつ)7日(なのか)中東(ちゅうとう)のイスラエルに(たい)して、パレスチナ自治区(じちく)ガザ地区(ちく)支配(しはい)するイスラム組織(そしき)ハマスが攻撃(こうげき)仕掛(しか)けました。これをきっかけに、イスラエルはガザ地区(ちく)(はげ)しい攻撃(こうげき)(はじ)め、市民(しみん)犠牲(ぎせい)()(つづ)けています。イスラエルとパレスチナは(なが)(あいだ)中東(ちゅうとう)土地(とち)をめぐって(あらそ)っていますが、その原因(げんいん)はどこにあるのでしょうか。中東(ちゅうとう)研究(けんきゅう)専門家(せんもんか)鈴木啓之(すずきひろゆき)さんに1から歴史(れきし)(おし)えてもらいました。

イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう) 現在(げんざい)状況(じょうきょう)がわかる記事(きじ)はこちら

もっと()りたいQ&A イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう)

パレスチナ(じん)()しのけてつくられたユダヤ(じん)(くに)

イスラエルとパレスチナの(あらそ)いの(おお)きな原因(げんいん)は、アラブ(じん)(パレスチナ(じん))が(おお)()らしていたパレスチナ地域(ちいき)に、ユダヤ(きょう)信仰(しんこう)する人々(ひとびと)(ユダヤ(じん))の国家(こっか)であるイスラエルがつくられたことです。不満(ふまん)()ったパレスチナ(じん)周辺(しゅうへん)のアラブ諸国(しょこく)が、イスラエルと土地(とち)主権(しゅけん)をめぐって(あらそ)うようになったのです。

イスラエル建国(けんこく)までのポイント

まずはイスラエル建国(けんこく)までのおおまかな出来事(できごと)をみていきましょう。


「パレスチナにユダヤ(じん)国家(こっか)をつくろう」という運動(うんどう)(ひろ)がる(シオニズム)

ユダヤ(じん)古代(こだい)(くに)(こわ)れ、世界(せかい)(じゅう)()()りになって(くる)しんでいるのだと(しん)じられてきました。パレスチナのエルサレムという都市(とし)には、ユダヤ(きょう)重要(じゅうよう)神殿(しんでん)がありました。ユダヤ(じん)にとって、パレスチナは信仰(しんこう)(うえ)大切(たいせつ)土地(とち)です。ヨーロッパのユダヤ(じん)(あいだ)で、このパレスチナにユダヤ(じん)(くに)をつくろうという運動(うんどう)シオニズム」が(はじ)まりました。一方(いっぽう)で、パレスチナにはアラブ(じん)()らすようになり、その(おお)くは7世紀(せいき)ごろに(ひろ)まったイスラム(きょう)信仰(しんこう)していました。

イギリスがユダヤ(じん)の「郷土(きょうど)建設(けんせつ)約束(やくそく)

イギリスは、1917(ねん)のユダヤ(じん)による「郷土(きょうど)建設(けんせつ)約束(やくそく)バルフォア宣言(せんげん))に先立(さきだ)って、ほかに2つの約束(やくそく)をしていました。ひとつは、オスマン帝国(ていこく)からのアラブ(じん)独立(どくりつ)約束(やくそく)(1915(ねん):フサイン=マクマホン書簡(しょかん))、もうひとつは、フランスとオスマン帝国(ていこく)領土(りょうど)()けあう密約(みつやく)(1916(ねん):サイクス=ピコ協定(きょうてい))です。これらはイギリスが相手(あいて)(おう)じて(ちが)った内容(ないよう)約束(やくそく)した無責任(むせきにん)なもので「イギリスの三枚(さんまい)(じた)外交(がいこう)」と()ばれています。

パレスチナをイギリスが統治(とうち)

バルフォア宣言(せんげん)をうけて、ユダヤ(じん)国家(こっか)建設(けんせつ)(すす)めるユダヤ(じん)たちは「イギリスが国家(こっか)建設(けんせつ)(みと)めてくれた」と(かんが)えました。そのため、パレスチナには大勢(おおぜい)のユダヤ(じん)(うつ)()むことになりました。パレスチナにおけるユダヤ(じん)割合(わりあい)が10%から30%に()え、それにともなってもとから()んでいたアラブ(じん)との(あいだ)衝突(しょうとつ)(はげ)しくなっていきました。

ドイツ・ナチス政権(せいけん)によるホロコースト

ホロコーストでは、ナチス政権(せいけん)()のドイツや同盟(どうめい)(こく)占領(せんりょう)した(くに)などで、およそ600(まん)(にん)のユダヤ(じん)虐殺(ぎゃくさつ)されました。宗教(しゅうきょう)(ちが)いからユダヤ(じん)差別(さべつ)するような偏見(へんけん)は、(ふる)くからヨーロッパにありましたが、ナチスは(とく)極端(きょくたん)(かんが)(かた)()っていました。「社会(しゃかい)のあらゆる問題(もんだい)原因(げんいん)はユダヤ(じん)にありユダヤ(じん)(おと)った人種(じんしゅ)だ」と()って、(にく)み、(きら)いました。

国連(こくれん)()まったイスラエル建国(けんこく)

1947(ねん)11(がつ)国連(こくれん)総会(そうかい)で「パレスチナ分割(ぶんかつ)決議(けつぎ)」が賛成(さんせい)多数(たすう)可決(かけつ)され、1948(ねん)5(がつ)にイスラエルの建国(けんこく)宣言(せんげん)されました。この内容(ないよう)は、人口(じんこう)では30%ほどしかいないユダヤ(じん)へ、地域(ちいき)土地(とち)の60%(ちか)くを(あた)えるものでした。ヨーロッパでホロコーストを()()びたユダヤ(じん)難民(なんみん)のことを(かんが)えて(ひろ)土地(とち)()()ったのですが、もとから()んでいたアラブ(じん)にとっては不公平(ふこうへい)()(かた)でした。

出典(しゅってん):『そうだったのか!!パレスチナとイスラエル』(高橋和夫(たかはしかずお)(ちょ))をもとに編集(へんしゅう)()制作(せいさく)

イスラエル建国(けんこく)()から現在(げんざい)までのポイント

(つづ)いて、イスラエル建国(けんこく)()から現在(げんざい)までのおおまかな出来事(できごと)をみていきましょう。


イスラエルとアラブ諸国(しょこく)(あいだ)()きた戦争(せんそう)

イスラエルは軍事的(ぐんじてき)にとても(つよ)く、4()にわたる中東(ちゅうとう)戦争(せんそう)でイスラエルを(たお)せなかったアラブ諸国(しょこく)はだんだんと対決(たいけつ)姿勢(しせい)(よわ)めていきました。このあとは、パレスチナの民衆(みんしゅう)たち自身(じしん)による解放(かいほう)運動(うんどう)()()がっていきます。

イスラエルとパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)がオスロ合意(ごうい)(むす)

オスロ合意(ごうい)のポイントは2つ。ひとつは、イスラエルと、パレスチナを代表(だいひょう)する組織(そしき)であるパレスチナ解放(かいほう)機構(きこう)(PLO)が、お(たが)いに交渉(こうしょう)相手(あいて)として存在(そんざい)(みと)めあうこと。もうひとつは、イスラエルが占領(せんりょう)した地域(ちいき)からだんだんと撤退(てったい)してパレスチナによる期限付(きげんつ)きの自治(じち)(みと)めることです。パレスチナ難民(なんみん)がもといた土地(とち)(かえ)権利(けんり)や、パレスチナ国家(こっか)をつくる場合(ばあい)国境(こっきょう)聖地(せいち)エルサレムの(あつか)いをどうするかといった課題(かだい)先送(さきおく)りされました。ただ、イスラエルとパレスチナの(なが)(あらそ)いの歴史(れきし)で、もっとも和平(わへい)への期待(きたい)(たか)まった時期(じき)でした。

パレスチナの武装(ぶそう)勢力(せいりょく)による抵抗(ていこう)運動(うんどう)

1987(ねん)(だい)一次(いちじ)インティファーダは武器(ぶき)をもたない民衆(みんしゅう)(たたか)いでしたが、(だい)二次(にじ)はハマスなどの武装(ぶそう)組織(そしき)中心(ちゅうしん)になりました。パレスチナ(じん)(からだ)爆弾(ばくだん)()()け、(ひと)(おお)(あつ)まるところで自爆(じばく)するという事件(じけん)(つづ)きました。そして、この自爆(じばく)攻撃(こうげき)理由(りゆう)にイスラエル(ぐん)圧倒的(あっとうてき)軍事力(ぐんじりょく)でパレスチナを攻撃(こうげき)することで、暴力的(ぼうりょくてき)(あらそ)いが(はげ)しくなっていきました。

パレスチナ自治(じち)政府(せいふ)議会(ぎかい)選挙(せんきょ)で「テロ組織(そしき)」ハマスが勝利(しょうり)

自爆(じばく)攻撃(こうげき)実行(じっこう)するハマスは、国際的(こくさいてき)には「テロ組織(そしき)」とみなされています。そのためハマスが参加(さんか)したパレスチナ政府(せいふ)はアメリカなどに拒絶(きょぜつ)されました。それまでパレスチナ政治(せいじ)中心(ちゅうしん)だった組織(そしき)ファタハは、政府(せいふ)()(もど)そうとしてハマスと武力(ぶりょく)衝突(しょうとつ)。その結果(けっか)、ファタハがヨルダン(がわ)西岸(せいがん)地区(ちく)を、ハマスがガザ地区(ちく)を、それぞれ統治(とうち)する(かたち)でパレスチナは分裂(ぶんれつ)してしまいました。

アメリカが「聖地(せいち)」エルサレムをイスラエルの首都(しゅと)

当時(とうじ)のアメリカのトランプ大統領(だいとうりょう)はイスラエルの主張(しゅちょう)(したが)い、エルサレムをイスラエルの首都(しゅと)として(みと)めました。それまでアメリカが()ってきた仲介者(ちゅうかいしゃ)としての立場(たちば)()てて、「現状(げんじょう)()えず、パレスチナ(じん)には権利(けんり)をあきらめてもらう」という(かんが)えを「現実的(げんじつてき)解決策(かいけつさく)」として()()しました。エルサレムはユダヤ(きょう)のほかイスラム(きょう)、キリスト(きょう)聖地(せいち)でもあり、アラブ諸国(しょこく)やヨーロッパなどの国々(くにぐに)からは「問題(もんだい)悪化(あっか)につながる」と批判(ひはん)(こえ)がでました。

(つよ)いイスラエル、圧倒的(あっとうてき)(よわ)いパレスチナ

イスラエル・パレスチナ紛争(ふんそう)解決(かいけつ)がむずかしい理由(りゆう)として、イスラエルとパレスチナそれぞれの実現(じつげん)したいことがどうしても両立(りょうりつ)しないことがあげられます。
イスラエルは、ユダヤ(じん)国家(こっか)(おお)きくし、(くわ)えて(くに)安全(あんぜん)確保(かくほ)することを(のぞ)んでいます。一方(いっぽう)、パレスチナは(うしな)われた権利(けんり)回復(かいふく)し、自分(じぶん)たちを国家(こっか)として(みと)めてもらうことを(もと)めています。パレスチナはまだ国連(こくれん)正式(せいしき)加盟(かめい)できておらず、国家(こっか)とは(ちが)った(あつか)いを()けています。
ただ、この問題(もんだい)本質(ほんしつ)は、「人々(ひとびと)()っているはずの正当(せいとう)権利(けんり)(まも)られてこなかった」ことにあります。
国際(こくさい)社会(しゃかい)は、軍事的(ぐんじてき)強者(きょうしゃ)であるイスラエルを()めるような()()みをほとんどしてきませんでした。イスラエルは、戦争(せんそう)(うば)った土地(とち)入植(にゅうしょく)()をつくったり、ガザ地区(ちく)封鎖(ふうさ)したりして、(ちから)現状(げんじょう)変更(へんこう)してきました。このため、パレスチナ(じん)にとっては、現在(げんざい)極端(きょくたん)不利(ふり)状態(じょうたい)でもどうすることもできず、()()れざるをえないのです。
世界(せかい)がパレスチナ問題(もんだい)()ないふりをしてきた結果(けっか)()(かえ)しのつかない状態(じょうたい)にまで()てしまったのかもしれません。世界(せかい)一員(いちいん)である日本(にほん)、そして(わたし)たちもまた、パレスチナ問題(もんだい)責任(せきにん)()っています。(とお)(くに)のできごとだからといって、無関心(むかんしん)でいるべきではないのです。

監修(かんしゅう)鈴木啓之(すずきひろゆき)

1987(ねん)()まれ。東京大学(とうきょうだいがく)大学院(だいがくいん)総合(そうごう)文化(ぶんか)研究(けんきゅう)()スルタン・カブース・グローバル中東(ちゅうとう)研究(けんきゅう)寄付講座(きふこうざ)特任(とくにん)准教授(じゅんきょうじゅ)博士(はくし)学術(がくじゅつ))。日本学術振興会(にほんがくじゅつしんこうかい)特別(とくべつ)研究(けんきゅう)(いん)PD(日本(にほん)女子(じょし)大学(だいがく))、日本学術振興会(にほんがくじゅつしんこうかい)海外(かいがい)特別(とくべつ)研究(けんきゅう)(いん)(ヘブライ大学(だいがく)ハリー・S・トルーマン平和(へいわ)研究所(けんきゅうじょ))を()て、2019(ねん)9(がつ)より現職(げんしょく)著書(ちょしょ)に『蜂起(ほうき)〈インティファーダ〉:占領(せんりょう)()のパレスチナ1967-1993』(東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい)、2020(ねん))、共編(きょうへん)(ちょ)に『パレスチナを()るための60(しょう)』(明石(あかし)書店(しょてん)、2016(ねん))。

文/三城俊一

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