Okinawa 沖縄 #2 Day 15 (13/5/20) 与那原町 (1) Yonabaru / Ue Yonabaru Hamlets 与那原 / 上与那原

上与那原

  • 東名大主/ウシタ井
  • 上之殿 (ウィーヌトゥン)
  • 祝女殿内 (ヌルドゥンチ)、祝女井 (ヌルカー)、 火之神 (ヒヌカン)、殿 (トゥン)、上之井 (ウェヌカー)、井戸 (カー)
  • 上之毛 (ウィーヌモー) の拝所 [阿知利世主 (アチリセシュ) の殿 (トゥン)]
  • 慰霊塔 平和の塔
  • 上与那原の石獅子 (火之獅子)
  • 前の井 (メーヌカー)

与那原

  • 宗之増 (ソウヌマシ)
  • 阿知利世主 (アチリセシュ) / 阿知利ガー
  • 御殿山 (ウドゥンヤマ)
  • 親川 (ウェーガー)
  • 久葉堂 (くばどう)・久葉堂の大アカギ
  • 久場塘 (クバドゥ)
  • 三津武嶽 (ミチンダキ)
  • 与魂之塔
  • 中島の石獅子
  • 新島の石獅子
  • 沖縄県鉄道与那原駅跡
  • 東宮殿下御乗車記念碑/上陸記念碑
  • 御先 (ウサチ) 龍宮神


与那原町 (よなばる、ユナバル)

与那原町は4つの字で構成されている。人口は約2万人。この4つの字は行政地区として12の区に分かれている。元々は与那原、上与那原、板良敷の三つの集落であったが、与那原の湊を埋め立てて新たに東浜(あがりはま) が加わった。この東浜は新しい地区で、急激に人口が増え現在では22%を占めるに至っている。琉球語で、与那 (よな、ユナ) は海岸の砂地、原 (ばる) は開けた場所や開墾地を意味している。


上与那原集落 (うえよなばる、ウィーユナバル)

上与那原は与那原町で14 世紀に始まったとされ、最も古い集落集落と近年まで考えられていた。案内書でもそうなっているが、近年、与那原バイパス工事中の発掘調査 (大見武古島遺跡) でグスク時代初期の11世紀のものとみられる土器や中国からの白磁や青磁が多く見つかり集落があったと考えられている。さて、上与那原についての話だが、察度王統代 (1300年代)、東名大主 (アガリナウフシュ) が大東島 (与論とも平安座・伊平屋ともいわれる) より甥二人を伴なって現われ、この村の発祥に関わったと言われる。上与那原は市街地の背後に続く丘陵の上にある。人口は約1800人で四つの字の中では一番少ない。


東名大主 (アガリナウフシュ) / ウシタ井 (カー)

与那原役場の前の広場に拝所がある。(ここは厳密に言うと字上与那原ではなく、字与那原森下区ではあるのだが...) 上与那原の始祖と云われる東名大主 (アガリナウフシュ) が祀られており、部落行事の際は、五つの拝所の内で最初に拝む部落第一の拝所。(五つの拝所 = 東名大王、宗之増、阿知利世主、御殿山、親川) 上与那原区綱曳の際には、東名大主、その両側の今帰仁への遥拝所と弁が嶽への遥拝所、およびウシタ井が巡拝される。
何故、遠い今帰仁への遥拝所があるのかを調べると、中山王の察度の時代 (1350年-1395年)に、東名大主は今帰仁から移って来た人物で故郷へのお詣りを続けていた訳だ。北山の中心の今帰仁城の城主湧川 (わくがわ) 按司三世 [先今帰仁と言われる古い北山時代に城主だった義本王が王位を追われて英祖王が中山王に就くと、その二男、湧川王子が北山世之主と称し、仲北山の初代湧川按司として今帰仁城に入り山原を治めていた] は、重臣の本部大主 (モトブウフシュ 舜天王の王統3代目の義本王の系統) の謀反によって今帰仁城を明け渡すという「北山騒動 1322年」があった。この時、生き延びた湧川按司三世の子「丘春」が、後に [1340年] 本部大主を討ち取るのだが、この本部大主の三男が東名大主で、この時に、兄弟の謝名大主 (ジャナウフヌシ) と姉の息子2人を連れて、今帰仁から平安座島 (へんざじま) を経て、与那原に落ち延びてきたと伝わっている。彼の長男は謝名大主 (ジャナウフシュ) と名乗り、一帯を支配していた大里 (うふざと) 城主に仕えて重臣となった。ここのところは諸説あって、別の資料では、「姉の息子の一人は謝名大親と称し東大里按司に仕え、屋号謝名 (照屋姓) の祖となった。もう一人の息子は、与那原大屋子と呼ばれ与那原に住み、屋号照屋の祖となった。与那原大屋子の子、古堅大主 (フルゲンウフシュ) は、大里間切古堅村照屋門中の祖となった。」とある。


[北山騒動として伝わる話]

北山に若按司が生まれてすぐに国頭地方で謀反が起こったという噂が流れた。武勇のほまれ高い家臣 (謝名大主、潮平大主などの説がある) がこれを打つべく出発。しかし、これは重臣の本部大主が手ごわい家臣を外に追い出して城を乗っ取ろうとする策だった。若按司の千代松の誕生祝の宴が開かれるところへ、本部大主が軍勢で流れこんだ。国頭から引き返した家臣の謝名大主に助けられ、辛くも逃げのびたが敵に追いつかれそうになり、王妃は「産後でこれ以上歩けません、この子を頼みます」と言って、謝名大主と側室の乙樽 (うとうだる) に千代松を預け志慶真川へ身を投げてしまった。謝名大主は乙樽を励まし、ようやくクバの御嶽の岩屋にかくれ朝を待ち、恩納 (おんな) の忠臣の山田大主を頼り逃げ延びた。若按司 (千代松) が山田大主のところで8歳になった時、城主となった本部大主が討手を差し向けたという噂が流れ、若按司は名を岡春と改め北谷間切の砂辺村へ落ち延び下人奉公しながらチャンスが来るのを待っていた。それから10年後 [1340年と推定]、ようやくその時が来る。大宜味で旧臣たちが集まって旗揚げ準備をした事を知り、若按司は勘手納港 (かんてなこう) に旧臣を集め3千の大軍を旗揚げをし、この勢いに城中の兵は戦意を失い城は落ちた。身を潜めていた乙樽も城内に駆けた。後に乙樽は忠誠と情けの深さに神人 (かみんちゅ) の位を授かった。]


上之殿 (ウィーヌトゥン)

東名大主 (アガリナウフシュ) の少し下った所の拝所がある。上之森 (上之毛 ウィーヌモー) と呼ばれる丘陵の中腹にあり、与那原発祥の地とされる。上与那原、与那原の住民が部落の平安を祈願する拝所として大切にされている。(この場所も現在は字与那原森下区)


祝女殿内 (ヌルドゥンチ)、祝女井 (ヌルカー)、 火之神 (ヒヌカン)、殿 (トゥン)、上之井 (ウェヌカー)、井戸 (カー)

案内書では祝女殿内 (ヌルドゥンチ) は東名大主 (アガリナウフシュ) の前の与那原町役場の西方駐車場隣りにあるとなっていたのだが、役場は工事中で中に入れない。
工事中では仕方ないと思っていたのだが、東名大主 (アガリナウフシュ) がある場所にプレハブの小屋がある。(この場所も字与那原森下区だが、元々は字上与那原にあった。) 昨年もここに来た時には工事事務所と思っていたので、今回も特に気にしていなかった。ふと目に入ったのが、プレハブ小屋の横に「上与那原ノロ殿地」と書かれた石碑だった。工事中なのでここに移ってきていたのだ。中に入れないのだが、窓越しに覗くと、幾つかの香炉が並べられている。其々が何なのかは分からないのだが、案内図の町役場内にある火の神 (ひぬかん) と祝女井 (ぬーるかぁ) やその他の拝所などもここに移されて、祀られているのだろう。祝女殿内 (ヌルドゥンチ) は東名大主 (アガリナウフシュ) の一族の謝名家が管理しているそうだ。
この上与那原の祝女 (ノロ) は前述の東名大主の妻が行っていたそうだ。やはり東名大主が今帰仁からここに移り、集落の指導者になっていた事がうかがえる。
ただ町役場内にあった拝所も元々は上之森頂上付近 (現上之森公園) にあったのを移して来ていた。上与那原集落にとっては上之森 (上之毛 ウィーヌモー) が神聖な場所だったのだろう。

上之毛 (ウィーヌモー) の拝所 [阿知利世主 (アチリセシュ) の殿 (トゥン)]

上之毛 (ウィーヌモー現在の上之森公園) を登り切ったところにある阿知利毛 (アチリモー) と呼ばれた場所にある阿知利団地の駐車場に拝所がある。拝所は元々は団地が建っている所にあったのだが、少し移動させている。この場所は阿知利世主 (アチリセシュ) の屋敷があった場所で、この拝所は阿知利世主の殿 (トゥン) 。小綺麗に白くペンキが塗られて汚れもなく大切にされている様に思える。この阿知利世主は、東名大主の7代目の子孫の宗之増 (ソウヌマス) と共に、この後に訪問する与那原集落の発祥に関わっている人物。

慰霊塔 平和の塔

東名大主 (アガリナウフシュ) と同じ場所に慰霊塔がある。昭和10年代の戦時体制下、與那原周辺には米軍が沖縄東海岸の中城湾からの上陸を想定して各種軍事施設が建設され、日本軍が駐留していた。この近辺に高射砲部隊があったそうだ。ここは高台で港が一望でき、高射砲を配備するには最適だったのだろう。ただ、この為に米軍の攻撃目標となり、1994年 (昭和19年) 10月10日の那覇大空襲の時にも、この与那原は攻撃目標となり空襲を受け、与那原の町は数軒を残して焼滅してしまった。その後も中城湾に侵攻して来た米軍艦隊の艦砲射撃や空襲でこの地に多く造られた訓示施設が攻撃を受け、与那覇は廃墟化する。そして遂に米軍がこの与那覇 を1995年 (昭和20年) 5月末には制圧された。

この慰霊碑は戦前の与那原消防隊員54名、青年団員13名を祀っている。生き残り消防隊員及び青年団員達が1950年に上之毛に建立し、公園整備に伴い現在地に移設された。(この場所も現在は字与那原森下区) 併せて造られた平和之塔は沖縄戦による戦没者の御霊を慰め、世界平和を願うため町有志により1957年8月に、同じく上之毛に建立され、現在地に移設されている。


上与那原の石獅子 (火之獅子)

与那原町内にある7体の石獅子のひとつ。石獅子は村落獅子とも呼ばれ、フーチゲーシ (邪鬼返し) やヒーゲーシ (火返し) などの厄除けとして置かれていると考えられている。昔、与那原の村内で頻繁に火事が起こったので調べると、大里村の古堅部落も火事が頻繁に起こっており、そのため火を返す獅子を与那原に向けて建てた事でこちらに家事が起こっていると分かった。大里村の火返し (ヒーゲーシ) に対抗するために大里村に向けて石獅子を造ったと云われている。いつ頃造られたのか、オリジナルのものかは不明だが、数年前の写真に比べて劣化している様だ。

前の井 (メーヌカー)

部落南部にある古井 (ふるかぁ) で共同井戸として使用されていた。部落行事、正月三日、二月十五日、五月十五日、六月二十六日に拝み、元旦の若水もここから汲んだ。170~80年前に造られたといわれ、王府への上納成績優秀な村に贈られた御拝領井 (ごはいりょうがぁ) だそうだ。案内図で当時のイメージが描かれていて、少しは当時の様子が分かる。

与那原集落

字与那原には元々の与那原集落以外の地区も含め多くの区が存在する。江口、大見武 (おおみたけ)、中島、浜田、新島 (みーじま)、港、森下、与原 (よーばる) の8区だ。人口は与那原町の半分の1万人。史跡の性格や広がりから見て、与那原集落が形成された時代は中島、新島、江口が中心だった様に思える。大見武と与原は地理的に見ると独立した集落だったと思う。ここのところはそうなのかは分からないので、機会があれば是非とも地元の人に聞いてみたい。

宗之増 (ソウヌマシ)

与那原発祥の門家を祭った神屋。この門中は元々、上与那原に住んでいた。先に訪れた東名大主 (アガリヌウフシュ) から7代目の謝名家の子孫にあたる。これが宗之増 (ソウヌマシ) と呼ばれる人物。東名大主 (アガリヌウフシュ) が上与那原に移って来たのが1350年頃と考えられ、それから7代目というから1500年頃かも知れない。案内書では1300年代と書かれているが、それだと少し辻褄が合わない。考えられるのは、11世紀後半ごろには集落は既にあり、それを拡張発展させたのが宗之増だったのではと推測する。この拝所はこの部落開拓の祖の宗之増 (ソウヌマシ) を祀り、上与那原の照屋家 (屋号謝名) の子孫が祭主になっている。
宗之増 (ソウヌマシ) は“竿之増”とも書かれる。昔は測量のことを“竿を入れる”といい、この地にはじめて竿を入れ部落づくりが始まったことから“竿之増”と言われる様になったそうだ。これには伝承があり、与那原の案内書に紹介されていた。
  • 昔、与那原は上与那原の上之毛( 上の森公園) あたりが海岸線で、その向こうには海が広がっていました。この上与那原に、ある時、東名大主 (あがりなうふすー) という人が船で流れ着きました。
  • 東名大主は今帰仁城の三代目按司の三男として生まれ、武勇にすぐれていた反面、道楽者でもありました。
  • いつも浜へ行って釣りばかりしていたのです。「三男がこのようなことをしていてはすまされない」ということで、とうとう親から勘当され、与論島に流されました。[この所は今帰仁落城で落ち延びたという伝承と少し異なる。]
  • しかし、与論島でまた同じように釣りばかり。そのうちに船を造って沖にでて、釣りをするようになりました。
  • ところがある時、沖で釣りをしているときに台風にあい、船が流されてしまいました。流されてついたところが平安座島でした。東名大主は島に上がってまわりを見渡すと「ここは狭いなぁ」といって、ふたたび船に乗り、海にでました。
  • 次についたのが上与那原で、東名大主は船から上がるなり「ここは住みやすそうだ」といって、ここで暮らすことにしたのです。上与那原で暮らしはじめた東名大主は、その武勇をかわれて大里城に仕えるようになりました。[この所も伝承では大里城に使えたのは東名大主の長男とか姉の息子となっている。]
  • ある日、仲尾謝名を訪れた東名大主は、そこの根屋の美しい娘と出会い、そして二人は結婚しました。それから二人の子どもが生まれ、孫ができ、東名大主の子孫はしだいに増えていきました。
  • 月日(つきひ)はすぎて、東名大主から七代目にあたる子孫に、ソウヌマシという人がいました。この人も東名大主と同じく三男でした。ソウヌマシは畑仕事が終わり、夕飯を食べ終わると、いつも上与那原の丘の上に上がり、下の方に広がる与那古浜をながめていました。
  •  「今暮らしているところは斜面ばかりで、畑をするにしてもなにかと不便だ。あの遠浅の海をなんとかできないかなあ」ソウヌマシは、海の方にも土地を広げたいと考えていたのです。[確かに上与那原は丘陵の斜面にあり、背後は切り立った山で、平地は非常に少ない事が分かる。]
  • 「よーし、やってみよう」ある日、ソウヌマシはそういうと、山から竹をたくさん切ってきて、与那古浜のあちこちに立て始めました。ソウヌマシは次の日も、また次の日も竹を立てる作業を続けました。
  • この様子を見ていたのが阿知利世の主という人でした。阿知利世の主は最初、ソウヌマシが竹を立てている様子を「いったい何をやっているんだろう」と思って見ていましたが、そのうちに干潟が拡がりはじめたのをみて「そうか、干潟の広さを測って土地を広げようとしているんだな。よし、俺も手伝おう」といって、佐敷の方から知りあいをたくさん連れてきました。
  • それから玉井や安谷屋という偉い人たちも4、5人集まってきて、ソウヌマシを手伝い始めました。干潟には竹が整然と立ち並び、きれいに区画されました。
  • 竹を立てて干潟は区画されましたが、人が暮らせるような土地にするには土をいれなければなりません。そこで上与那原の丘の上にみんなで溝を掘って、大雨が降ったら土が干潟に流れるようにしました。雨が降るたびに丘の土が干潟に流れ込み、積み重なっていきました。こうして与那原の浜は陸地になり、人々がたくさん暮らすようになりました。
  • こうして、ソウヌマシは与那原が栄える基礎を築きました。また竹のことを「竿」とも言うので「竿之増(ソウヌマシ)」という屋号がつけられたという言い伝えがあります。ソウヌマシの屋敷跡は現在拝所として、地域の人たちが大切に守り伝えています。
  • また、与那原の発展は上与那原から始まったということで、与那原大綱曳ではまず、上与那原から曳くことになっているほか、上与那原の老人が作った獅子が道ジュネーに出るときには、必ずソウヌマシ拝所前で獅子を踊らせ、それから親川で踊らせることになっていたそうです。


阿知利世主 (アチリセシュ) / 阿知利ガー

宗之増 (ソウヌマシ) の近くに別の拝所がある。宗之増 (ソウヌマシ) の集落造りに協力した阿知利世主 (アチリセシュ) を祀っている。上与那原の阿知利毛 (アチリモー) に居を構えた実力者であった。与那原最大の門中、上原一門の祖先が、国頭行のため与那原を通りかかった際、阿知利世主の知遇を受け、長男を養子に懇望されるとともに、当地に居住するように勧められそのまま留まり、村建てに尽力したといわれ、上原門中が崇拝している。
阿知利世主は、綱曳では東方あがりかたの中心であり、東の綱行列はここから出発するそうだ。

御殿山 (ウドゥンヤマ)

御殿山 (ウドゥンヤマ) は、本島南部の拝所を回る「東御廻り (アガリマアイ)」の巡礼地の一つ。首里王府の祭祀をつかさどる最高位の女神官の聞得大君 (キコエオオキミ 察度王の四男の本部王子の次女) にまつわる伝承がある。この伝承については昨年ここを訪れた訪問記に記している。(Okinawa 沖縄の旅 Day 44 (14/09/19) Yonabaru 与那原町) 御殿山と呼ばれる祠は浜の御殿 (ハマヌウドゥン) とも呼ばれ、昔聞得大君が隠居した跡だと伝えられ、当時は民家は無く、浜田山という小さな丘になっていた。戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれるが、沖縄戦で消失、戦後は御殿山青少年広場の設置などで移動、世持橋の側に小さな拝所としてある。



親川 (ウェーガー)

この与那原にはまだ幾つか聞得大君 (キコエオオキミ) に関わる史跡がある。この親川 (ウェーガー) もそのひとつだ。天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産湯を召したとの神話がある。(この天女は南風原の御宿井 [ウスクガー] で登場した天女か?] その産湯に使った水が神聖化されて、琉球王朝時代に、国王と聞得大君 (キコエオオキミ) が久高島参拝の為、首里城を出発、最初の休息地で立ち寄るのが御殿山で、この親川 (ウェーガー) の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫で」の儀式が行われたそうだ。戦前の親川は、現在より一回り大きく、むしろが敷ける程の幅で、三段の石段になって円形状を形どっていた。その周囲を二抱えもあるデイゴやマミク (クスノハカエデ) の大木がぐるっと取り囲んでいたという。昭和55 (1980) 年、親川拝所の復旧工事が行われ、井戸を囲む建物、石灯篭、手洗場を設置、親川にまつわる琉歌、和歌、各々一首ずつ刻んだ石碑を建立した。
ここには綱曳資料館があり、敷地内には綱曳で使うカナチ棒が水に浸けた状態で保管され、西方の中心となる場所。
ここを通っている路地は親川通りで、この集落の繁華街。ただ今は感染予防の為営業は自粛して店は休店中だ。

2022年1月28日に旧知念村具志堅集落に向かう途中に、親川拝所を通ると、この広場は改修工事が進んでいた。完成後に訪れる予定。


久葉堂 (くばどう)・久葉堂の大アカギ

字与那原与原区にある与原第一の拝所。与原公民館の庭にある。庭には沖縄戦を潜り抜けた赤木やアコウ、デイゴ、ガジュマルなどの老木が拝所の周りに育っている。昨年ここを訪れた時は、子供がいっぱい遊んでいたのだが、コロナウィルスの影響なのか、公民館は閉鎖して誰もいない。昨年は遊んでいた子供達と話をして色々と教えてもらった。この久葉堂の由来についてはいくつかあり、その一つは御殿山の聞得大君との関係で、この後訪問する三津武嶽への遥拝所というものと、運玉森の山崩れによって滅亡した「与那の島」という小集落の惨事の後、その御霊を弔う為の鎮守の森という説がある。
久葉堂の大アカギは樹齢150年から200年と推定されている。


久場塘 (クバドゥ)

羽衣伝説の天女にまつわる拝所 (別名ウガンガマー) がある。南風原間切宮城村の御宿川 (ウスクガー) に降りた天女が、天界に帰ろうと逃げ隠れた所で、宮城部落の人によって碑が建てられ、拝まれている。現在も南風原町有地となっている。この場所はこの天女と結婚した大国子が南風原の宮城集落に移る前に住んでいたと伝わっている。


三津武嶽 (ミチンダキ)

与那区は丘陵を背にしている。この丘陵は運玉森 (ウンタマムイ) と呼ばれ、ここの高台に御嶽がある。
ここにある拝所は18世紀初頭に編纂された琉球の民話を集めた遺老説伝によると、御殿山に住んでいた聞得大君が葬られたといわれる所で、子宝の神として尊ばれている。聞得大君が産んだ子供は死産であったとか、生んだ男の子は、生後間もなく亡くなったとも、成長して後の城間親雲上 (グスクマペーチン) であるとも伝えられている。そういった経緯で海が見えるこの丘陵に墓をと遺言があったという伝承もある。(子供が亡くなったであれば何故子宝の神として祀られているのだろう?) 
昨年もここに来た。その時は案内書に載っていたまだ建設中の与那原バイパスからの登山道を通ったが、今回は別のルートで西原町の我謝から行くことにした。丘陵にある墓地を最上部まで登り、そこからは勘に頼って適当に林の中を進むと難なく着いてしまった。このルートの方が与那原全体が見通せる。
標高153mの運玉森は沖縄戦での激戦地。米軍はConical Hillと呼んでいた。1945年5月11-16日にわたって米軍は西原町我謝から運玉森 (Conical Hill) へ侵攻。日本軍は運玉森の丘陵で反撃をするが、突破され、17-21日には運玉森は米軍に占領され、知念半島を目指し与那原の西まで進んでいた。

与魂之塔

運玉森の麓の与原公園の中に沖縄戦での戦没者の慰霊塔がある。そばには沖縄戦などで命を落とした地元民ら288人の刻銘碑もある。毎年慰霊祭を行なっているそうだ。
この運玉森にも昔話があるそうで、与那原町のサイトで紹介されていた。
  • その昔、運玉森にどろぼうといわれた運玉義留のかくれ場がありました。もともと運玉義留は首里の侍の髪結いをして働いていました。ある日のこと、運玉義留は主人にききました。
  • 運玉義留「私が頑張ったら、どのくらいまで身分があがりますか?」主人 「お前がいくらがんばって働いても、平民がなれる最高職の地頭代までぐらいだよ」運玉義留 「そうですか。それぐらいのことでは私は満足しないから、どろぼうにでもなって名を残した方がいいですね」と言って首里の髪結いをやめてしまいました。
  • それから運玉義留は運玉森にこもって、運玉義留「どろぼうになるためには武術を身につけないといけない」といって、自分なりに武術の練習にはげみました。木を伐って枯葉の上を足音を立てないようにして歩いたりしました。運玉森で修業をつんだ運玉義留は自分の忍びの技をためしたくなりました。運玉義留は考えました。首里の王様は金の枕で眠っておられるそうだ。よし、あの枕を盗んでこよう。運玉義留「明日の夜、王様の金の枕をとりにいくから、みんな見張っておきなさいよ」と予告したのです。
  • 次の日の夜、首里のお城では王様の家来たちが金の枕を盗まれないように、王様を真ん中にして金の枕を見守っていました。ところが、夜中になっても運玉義留が現れないので、家来たちは「もう来ないだろう」と思い始めました。そのとき、「パラ、パラ、パラ」という音がしてきたので、家来たちは雨が降ってきたと思いこんで、うとうとし始めました。しかし、その音は雨ではなく、家来たちを油断させるために運玉義留が屋根に上って豆をまいた音だったのです。
  • 家来たちがうとうとし始めたのを見計らって、運玉義留は寝ておられる王様のそばへ忍びよりました。ところが王様は金の枕に頭をのせて寝ておられましたので、金の枕をとることができません。そこで運玉義留は持っていた竹筒の水を、王様の耳にたらしました。すると王様は気持ち悪くなって寝返りをうちました。その一瞬のうちに運玉義留は金の枕をぬきとったのです。
  • こうして運玉義留は本物のどろぼうになりましたが、盗みに入るのはお金持ちの家だけでした。しかも盗んだお金や物は貧しい人たちにあげたのです。昔は役人になるには一番科という試験を受けなければなりませんでした。真玉橋の新屋敷という人は、役人になる為、一番科に合格することをめざして、いっしょうけんめい勉強していましたが、家がとても貧乏で、毎日の食べ物にも苦労していました。その話を聞いた運玉義留は、金持ちの家からとってきたものを真玉橋の新屋敷のところへ持っていきました。「欲しいものはなんでもあげるから、一番科の試験に合格してくれよ」運玉義留はそういって帰っていきました。真玉橋の新屋敷は心から感謝し、今まで以上に勉強してみごと一番科の試験に合格したのです。
  • お金持ちから盗んだものを貧乏人に分け与えるどろぼうとして有名になった運玉義留のもとに、ある日一人の男が訪ねてきて、弟子にして欲しいといいました。名前を油喰坊主 (あんだくぇーぼーじゃ) といいます。 「いや弟子にはできない。帰った方がいい」運玉義留はいいました。油喰坊主はいったん帰りましたが、次の日もまた次の日も来て、何回も頼むので、運玉義留はあきれてしまって「よし、そんなに弟子になりたいのならお前を試そう」と言って、大きな金持ちの家へ一緒に連れていきました。
  • 夜になってみんな寝静ずまった頃、二人は家の中へ忍しのび込みました。運玉義留は着物が沢山入っている長持ちを指さし、「着物が何枚あるか数えなさい」と言いました。「一枚、二枚、三枚…」と油喰坊主が半分くらいまで数えた時に、運玉義留は外に飛び出ると、運玉義留は「泥棒だー!」と大声で叫びました。その声に飛び起きた金持ちの家の家族に、油喰坊主は取り囲まれてしまったのです。
  • 運玉義留は一人で運玉森に帰ってきました。 「今ごろ捕まって、痛い目にあわされているかもなあ。でもこれであきらめてくれるだろう」と、思っているとなんと油喰坊主がニコニコしながら帰ってくるではありませんか。「おまえ、捕まらなかったのか?」「はい。みんなに囲まれてもう逃げ道はないと思って、長持ちの中に隠れたんです。長持ちの中にかくれたぞー、と言ってみんなが寄ってきたので、蓋を急に開けて『ワァッ!』と言ったら、みんなびっくりしたので、そのすきに飛び出して逃げてきました」「そうか。お前はそうとう頭がいいな。よし、今日からわしの弟子にしよう」
  • めでたく運玉義留の弟子になった油喰坊主は、ある日、運玉義留にこう言いました。油喰坊主「師匠(ししょう)、私はお金をもたないで、油を買ってきますからね」「いったいどうやって、お金なしで油が買えるんだい?」油喰坊主は中に綿を入れた壺を持って出かけました。油売りのところへ来ると、その壺に油を入れさせ、中をのぞいたあと、少し怒ったような顔をしてこういいました。「お前のところの油はあまりいい油じゃないな。やっぱり買うのはやめるよ。」油喰坊主は壺から油をもどすと、何も買わずに帰っていきました。
  • 「師匠、ただいま帰りました。ほら、油ですよ」「ん? 綿しか入ってないぞ」油喰坊主が壺から綿を取り出して、絞しぼってみると、綿にしみこんだ油がたくさん出てきました。「これはすごい!お前はやっぱり頭がいいなあ」それから油喰坊主はこの方法で油売りを何件もまわり、油をいっぱい作りました。運玉義留と油喰坊主は、それからも金持ちの家から金品を盗んでは貧しい人々に分け与えたので、人々からはたいそう感謝されたということです。




与那原集落にはまだ書いていない史跡がもう少し残っている。それを紹介しよう。

南風原町でも何体か残っていたが、ここにも石獅子がいくつか残っている。町全体では7体ある。一つは上与那原集落で見たのであと6つ。


中島の石獅子

なんと3体もある。昔の中島集落の三隅に設置されて集落を守る役割をしていた。
① は駐車場になってしまい石獅子は海岸に移設されている。石獅子もコロナウイルス感染予防で大きなマスクをしている。
② は昔からの場所にある。木が頭にめり込んでいる。
③は壊れて今は残っていない。昔の写真が残っている。戦後セメントで造られた先代と先先代の石獅子。

新島の石獅子

ここには2体残っている。この2体も新島集落の境界に設置されて集落を守っていたのだ。
① は国道沿いの商店の前にある。
② は海岸側の住宅街にある。ここが昔の集落の端でこの先は港だったのだろう。

沖縄県鉄道与那原駅跡

与那原駅は、1914 (大正3) 年から沖縄戦での設備破壊による営業停止まで運行された沖縄県鉄道那覇-与那原線の発着駅。 沖縄県鉄道は軌間が762mmの軽便鉄道 (ケービン)。与那原駅舎は沖縄戦で一部破壊されたが、全壊はまぬがれ、戦後は補修や改修を重ねながら、消防署、与那原町役場、農業協同組合与那原支店として使用された。 2014 (平成26) 年に与那原駅舎が復元。 館内では、沖縄近代交通の資料が展示されているのだが、コロナウイルスの影響で休館中。
庭には色とりどりの花が咲いていた。ここで休憩。出歩いている人もおらず、貸し切り状態。


東宮殿下御乗車記念碑/上陸記念碑

駅舎前に東宮殿下御乗車記念碑がある。大正10年に東宮 (後の昭和天皇) が欧州視察から帰国の際に与那原湊に寄港しこの与那原駅から軽便鉄道で那覇に向かった。その記念碑。港にも上陸記念碑が建っている。

御先 (ウサチ) 龍宮神

ここにも浦島太郎伝説がある。ウサチ龍宮神は、以前は知念高校グランドの大岩の上にあり、通称“浦島太郎の墓”として地域から親しまれていた。ウサチとは御先 (先駆、先導) の意味で、神へ導く物とか使者とかを表しているのかもしれない。1976年にグランドに隣接する護岸上に移設され、その後、海岸の橋の下にあるタッチュー岩(タッチュー、三角岩)を経て現在の場所に建立された。タッチュー岩には、以前の香炉も残されている。
南風原町の与那覇集落で穏作根子 (ウサンシー) の浦島太郎伝説の穏子根嶽 (ウサン二ダキ、オサン二ダキ) / 穏子根子 (ウサンシー) の墓があったが、その浦島太郎である穏作根子が釣りにいっていた所がこの与那原の海岸という事だった。

今日訪れた所はまだあるのだが、訪問記がかなり長くなるので、2回に分けて記する事にする。残っているのは、近年の遺跡発見で与那原町で一番古い集落ではないかと言われている大見武 (おおみたけ) 集落と、与那原の港を埋め立てて開発された東浜 (あがりはま) だ。1日で見学する場所が少し多すぎた様だ。今は沖縄の那覇市に住居を構えているので、去年暮れまでの自転車旅行の様に宿の移動が無いので、その日に訪問した場所のレポートが終わるまで次の場所の訪問は控えている。今回はこの訪問記にかなり調べる時間を費やした。


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