Okinawa 沖縄 #2 Day 8 (29/4/20) 南風原町 (8) Kyan Hamlet 喜屋武集落

喜屋武集落 (きゃんまきょ)

  • 村屋 (ムラヤー、喜屋武公民館)
  • 前道 (メーミチ)
  • 中の井 (ナカヌカー)
  • 中毛小 (ナカモーグワー) のカジュマル群
  • かすりの道
  • 製糖工場跡 (サーターヤー)
  • 馬場跡 (ウマウィーグワァ跡)
  • 南風平井 (ヘンダガー)
  • ハサマ井 (ガー)
  • 名護之殿 (ナゴヌトゥン)
  • 飯あげの道
  • 内原の井戸 (ウーチバルヌカー)
  • 黄金森 (こがねもり、クガ二ムイ) 
  • 仏ぬ前 (フトゥケヌメー)
  • イシジャー
  • 上ヌ嶽 (ウィーヌウタキ)
  • 中ヌ嶽 (ナカヌウタキ) 
  • 下ヌ御嶽 (シチャヌウタキ)
  • 墓群
  • 沖縄陸軍病院
  • 沖縄陸軍病院20号
  • 沖縄陸軍病院24号

喜屋武集落 (きゃんまきょ)

今日は南風原町の8番目の集落 (まきょ) の喜屋武に行く。喜屋武の住民は約3000人で南風原では8番目の人口の字。ここに来るのは三回目。前回二回は沖縄戦の病院跡がある黄金森 (こがねもり、クガ二ムイ) でガイドさんとの話やここにある文化センターの見学がメインで集落には行って無かった。今日は集落と黄金森の残りの史跡を巡る予定。喜屋武は沖縄の人以外は読めない難解な地名。「きゃん」と読む。琉球時代は「チャン」と発音し、突端の意味。時々、喜屋武と言う名前の人に出会す。沖縄では庶民が名字を持つようになったのは明治維新の後、1872年の琉球処分からで、それまでは、王族、士族以外の庶民には苗字は許されていなかった。そこで庶民は土地名から名字をつけたそうだ。
ガイドパンフレットに載っている史跡を中心に見学する。

村屋 (ムラヤー、喜屋武公民館)

集落の中心であった村屋 (ムラヤー) に自転車を停めて、徒歩にて集落を歩く。この集落も黄金森に続く丘陵の斜面に造られており、村屋は集落の一番高い場所に位置している。ここからは集落が全て見渡せる。ムラヤーの前の広場には以前は大きな木があり、村で泥棒などをした犯罪者を懲らしめるためにしょっ引かれ (スビカリーン)、村人全員の前に放り投げられ (ホーラカ)、正座させられ (ヒサマンチ)、この木 (ブルブルギーまたはヌスドゥサギーギー) に吊るしたそうだ。村の全ての所からはこの様子が見えたのだろう。警察がない時代は、この様に村がこの様に処理していたのだが、懲らしめる事が主眼で、その後は村に戻って生活を続けられた。比較的寛大な仕組みだ。今は枯れてしまい切られてしまっている。(写真右下)
ここからは集落が全て見渡せる。

前道 (メーミチ)

南風原の集落にはどこでも前道 (メーミチ) と呼ばれるメインストリートがあり、村屋 (ムラヤー) の前を通り集落に向かって伸びている。

中の井 (ナカヌカー)

前道 (メーミチ) を下ると、戦前から戦後まで喜屋武集落内住民の貴重な水場であった中の井 (ナカヌカー) があった。戦後、水道が完備してからは埋め立てられて公園になっている。公園は十分に広く、想像するに井戸からは水が溢れ、その周りに水場が設けられて、そこでは洗濯や食事の準備をしながら、井戸端会議が行われていただろう。


中毛小 (ナカモーグワー) のカジュマル群

中の井 (ナカヌカー) の前に中毛小 (ナカモーグワー) のカジュマル群が残っている。ここには村の男たちが集まり、前にある中の井 (ナカヌカー) で女達が水仕事をしているのを尻目に談笑をしていたのだろう。

かすりの道

中の井 (ナカヌカー) 公園の前の道は特別にデザインされている。照屋集落や本部集落にもあったかすりの道がこの集落にも伸びている。
この集落にも織物工房が幾つかある。集落を歩いていると、織物の糸を伸ばすための糸張り (糊付張り伸ばし) 場がある。

製糖工場跡 (サーターヤー)

村屋 (ムラヤー)  の前の前道 (メーミチ) を今度は登り、前道 (メーミチ) の終点には製糖工場 (サーターヤー) があった場所に出る。沖縄の主産業であった砂糖 (サーター 黒糖) を製造していた。かつての集落は小さなもので、その周りは一面サトウキビ畑だった。今は集落が住宅街に急激に拡張されサトウキビ畑は少なくなってしまった。


馬場跡 (ウマウィーグワァ跡)

村屋 (ムラヤー) の直ぐ上で黄金森 (クガ二ムイ) との間に翔南小学校がある。かつては馬場 (ウマウィー) があった。集落住民の草競馬の練習場だった。村の祭りや行事はここで行われたそうだ。馬場 (ウマウィー) はかなりの広さがあり、学校のグラウンドとなっている。今までまわった集落では村の行事はこの様な馬場 (ウマウィー) で行われたり、馬場 (ウマウィー) が村にはアシビーナ (広場) で行われていた。

喜屋武人 (きゃんちゅ) の主要な祭りは綱曳きで「けんか綱」とも呼ばれ、かなり過激な綱引きだそうだ。南風原の他のほとんどの集落でもこの綱引きは其々の村の一番の祭りになっている。ほぼ同じ時期に行われ、南風原町の綱曳きツアーまである。南風原だけでなく沖縄各地に綱引き/綱曳きがある。この始まりについては諸説ある。南風原では南風原が南山王 (汪応祖) が村方綱曳きの起源といい (津嘉山地域振興資料館)、那覇では四町が町方綱曳きの起源と云う。那覇町方綱曳きは今は「那覇の大綱引き」など観光の目玉に発展している。インターネットでこの集落の様子が流れていた。解説付き

南風平井 (ヘンダガー)

馬場跡 (ウマウィーグワァ跡) と製糖工場跡 (サーターヤー)の近くに井戸跡があった。ガイドパンフレットにはでていない。たまたま見つけた。ここも公園になっており、かつては水場だったのだろう。

ハサマ井 (ガー)

集落の中心近くにも井戸跡があった。ここもパンフレットには載っていない。ここも集落を歩いているときに見つけた。まだ集落には隠れている井戸跡があるのかもしれない。

名護之殿 (ナゴヌトゥン)

村屋 (ムラヤー) から北に少し行くと名護之殿 (ナゴヌトゥン) がある。喜屋武集落のはじまりの伝承をもつ拝所 (ウガンジュ) と解説には書かれていた。どの様な伝承があるのかと思い調べるも、見つけられない。地元の人に聞くしか無いが、それは今のコロナウイルス騒動が収まってからにしよう。今は公園の様になっていてゲートボール場がある。ここの年寄り達の社交場になっている。
名護之殿 (ナゴヌトゥン)  の横には5つの拝所が置かれている。集落内にあった井戸の拝所などをここに集めたのだろう。其々に井戸を現しているのだろう円筒と香炉が置かれている。「下ぬ嶽」、「ウフカー」、「ミジグラ」、「アナカー」、「勝連カー」だ。

飯上げの道

名護之殿 (ナゴヌトゥン) の公園の石垣に説明板が掛かっている。「飯上げの道」の説明だ。この飯上げの道についてが、昨年の夏に訪れた黄金森 (こがねもり、クガ二ムイ) にあったので覚えていた。沖縄戦で黄金森にあった陸軍病院で働いていたひめゆり学徒が食事を運んだ道となっていたが、黄金森からここまでも道が伸びていたとは知らなかった。この名護之殿 (ナゴヌトゥン) の場所が炊事場だった。ここから病院まで運んだのだ。1Km以上あるのではと思う。沖縄南部には沖縄戦で働いた学徒隊に関わる洞窟跡や慰霊碑が数多くある。特にこの南風原と糸満には首里陥落後、南へ逃げて行く先々での悲惨な出来事があった場所が多い。昨年、ここを訪れた際のレポートがある。「Okinawa 沖縄の旅 Day 48 (18/09/19) Tsukazan 津嘉山

内原の井戸 (ウーチバルヌカー)

説明板にはこの近所に水場があり、ひめゆり学徒隊が炊事につかっていたと書かれていた。名前は書かれていないのだが、パンフレットにはこの場所に内原の井戸が記されている。恐らくこれがその井戸だろう。周りを見渡したが見つからない。インターネットでひとつだけ写真を見つけた。それを参考に探したがやはり見つからず、下の写真はインターネットから借用。

黄金森 (こがねもり、クガ二ムイ) 

ここに来るのは3回目。昨年に来た時は、沖縄戦の最中に造られた陸軍病院壕に集中して、それ以外の史跡などは割愛していたので今日は見落としていた所も見る。

仏ぬ前 (フトゥケヌメー)

文化会館から黄金森 (クガ二ムイ) への飯上げの道の遊歩道を上がりきった所が三叉路になっており、二つは陸軍病院への飯上げの道と迂回路、三つ目は細い山道になっている。これが仏ぬ前 (フトゥケヌメー) への道だ。ここまでの飯上げの道とこの山道はかつては御願の道 ( ウガンヌミチ) と呼ばれていた。祠があり、その中には丸形の石が入っており、その前には香炉が置かれている。以前は丸い石が7、8個あったとされそれらの石をフトゥキグヮー(仏小)と呼んでいたとの事です。喜屋武集落の人だけでなく、南風原の他の集落の人達も拝みにきている程、大切な拝所だ。黄金森の付近には喜屋武、本部照屋の三つの集落があり、黄金森は古来からこの三つの集落の発祥地とされている。この仏ぬ前 (フトゥケヌメー) には伝承が残っている。「この地域には、昔、よこしまな税金徴収人がおり、賄賂をとっていた。賄賂を渡さない人達には、勝手に税を増という酷い行いをしていた。困り果てた人達が仏ぬ前 (フトゥケヌメー) に拝むと、翌年には税金徴収人が真面目な人に変わり、地域の人々は安心して暮らせる様になったと云う。」

イシジャー

黄金森 (クガ二ムイ) の麓の文化センターがある一画には図書館もあり、その裏に黄金森の中に入っていける道がある。入口は草に覆われて、本当に入れるのかと思ったが、思い切って突入。蜘蛛の巣を取り払いながら、進んでいくと拝所が二つあった。かつては上ヌ嶽 (ウィーヌウタキ)、中ヌ嶽 (ナカヌウタキ) と下ヌ御嶽 (シチャヌウタキ、井戸であったらしい) 三つ拝所があり、まとめてイシジャーと呼ばれた。「琉球國由来記」にある『喜屋武之嶽 神名イシガワノ御イベ』がイシジャーに該当すると考えられている。ここイシジャーには察度王統最後の王である武寧 (ぶねい、1356~1406年) の五男である本部王子が住んでいた。その後、兼城村の村建てをした稲福大主 (いなふくうふしゅ) の三男の喜屋武 (ちゃん) がここに移住してきた。本部王子は一族を連れて本部へ移住し、本部王子の家臣であった大城子 (うふぐすくしー) は照屋へ移住してそれぞれ喜屋武、本部、照屋の村建ての祖になったと伝わっている。

上ヌ嶽 (ウィーヌウタキ)

上の方にあるのが上ヌ嶽 (ウィーヌウタキ)。

中ヌ嶽 (ナカヌウタキ) 

上ヌ嶽 (ウィーヌウタキ) の少し下にもう一つ拝所がある。中ヌ嶽 (ナカヌウタキ) とある。

下ヌ御嶽 (シチャヌウタキ)

井戸であったらしいのだが、見当たらない。そういえば、先に訪れた名護之殿 (ナゴヌトゥン) に移設された井戸の拝所の中に下ヌ御嶽があった。名護之殿 (ナゴヌトゥン) に移されたのだ。

墓群

せっかく黄金森に来たのだから、もっと歩いてみたい。御願の道から続く山道を歩き、北の端まで行き、東にある陸上競技場を回り、黄金森の北半分をぐるっとまわった。
丘陵の北からは麓が見渡す事ができた。今日は夏日で快晴。
黄金森の丘陵の斜面には数々に墓があった。岩をくり抜いて作った墓や定番の亀甲墓などの門中の墓がある。喜屋武、本部、照屋の門中がここに一族の墓を置いたのだろう。

沖縄陸軍病院

ここは昨年の夏に半日かけて、ガイドさんから説明も受けて見学した所だ。もう一度ガイドさんに会って色々聞きたかったのだが、コロナウィルスの感染防止の為、文化センター、病院壕、ガイドツアーは休止中だった。
この黄金森にはかなりの数の病院壕がある。そのうち公開しているのは沖縄陸軍病院20号のみ。沖縄陸軍病院20号の直ぐ前に24号壕跡もある。その為は黄金森の森の中にある。他の壕も巡りたかったのだが、場所がわからない。文化センターで尋ねようと思っていたにだが、閉館中。次回にしよう。昨年ここに来たときの訪問記はこのリンク。「Okinawa 沖縄の旅 Day 56 (26/09/19) Haebaru 南風原陸軍病院壕跡
今日はとにかく暑い。いっぱい歩いたのでぐったりだ。5時になっている。帰って夕食の準備をしなければと帰路に着く。

今日は疲れた。シャワーで汗を流し、食事作りだが、少し面倒になったので、簡単にパスタ料理で済ます。チキンとナスのトマトソースのパスタと野菜サラダ。

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