Okinawa 沖縄 #2 Day 260 (09/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (01) 北谷・北谷之前屋取

北谷町 北谷集落 (チャタン)

北前区 (北谷之前屋取 [チャタンヌメーヤードゥイ]、字北前 / 石平屋取 [イシンダヤードゥイ])

  • 北前区公民館
  • 普天間川、ニライ橋
  • テツドーミチ、軽便橋
  • 安良波ヌ岩 (アラファヌシー)
  • 安良波公園、アラハビーチ
  • インディアンオーク救助記念碑

字北谷 (チャタン)

  • マタジ (マタジウカー、マタジ竜宮)
  • 北谷ノロ殿内
  • 綱のカヌチ根軸碑、北谷馬場 (チャタンウマィー) 跡
  • キャンプ端慶覧
  • 北谷番所跡、旧北玉小学校跡
  • 北谷古島


2月3日に東京から沖縄に帰ってきてから、東京滞在中に訪問した杉並区の史跡巡りレポートを編集していた。二週間程で終わり、沖縄の集落巡りを再開しようと思っていたのだが、脇腹が痛みだし、病院に行くと憩室炎と診断され、そこからスープだけの生活が一週間となった。症状も治ったのだが、今度は足の肉離れとなってしまった。暫くは痛みが続き、何とか歩けるぐらいになった。注意しながら集落巡りを再開する。中城村の集落巡りで登又が最後に残っているのだが、ここは丘陵地を上り下りが多いので、まだ脚に不安があるので、平坦地の北谷町の集落を訪問する事にした。


字北谷 (チャタン)

字北谷は琉球王国時代には北谷間切の中心で同村だった。琉球王国時代以前の三山分立の時代にもこの地域は北谷と呼ばれ、中山の配下に在った。間切の村が確立したのは17世紀後半と考えられている。その当時には伝道と玉代勢も北谷村に属していたが、後に分割されている。昔は瑞慶覧一帯 (ハンビー地区、伊佐浜地域) は北谷ターブックヮ (水田) と称された農業集落で沖縄の三大美田 (北谷、羽地、奥間) だった。広大な平旦地の中に、北に北谷城、北東に伝道、玉代勢、東は玉代勢及び石平部落の丘陵地に接している。西は全面北谷海に面し、南は宜野湾村と隣接している。集落は北谷町を南北に通ずる街道沿いに形成されていた。北谷部落の古島は伝道や玉代勢と共に北東の丘陵地帯にあったと伝わっている。三山時代の戦乱を経た後、琉球王朝時代以後人口の増加に伴い農耕が盛んになって、農耕に便利な広大な平地の中に移転して次第に密集した大部落が構成されたものと思われる。字北谷の宗家に仲村渠家と山川家があり、仲村渠家は北谷按司の後裔と言われ、山川家は金満按司の三男家の後裔と伝えられていると資料にはあったが、たまたま山川家本家の子孫の方にお会いする機会があり、その方によると山川家は舜天王に繋がる大川按司が先祖と伝わっていると言っていた。この系譜には諸説あり、三山時代には北谷城の城主は金満按司で大川按司に滅ぼされたという説や、大川按司と金満按司は同一人物とする説などがある。大川家で伝わっているのは、後者の窃二近いようだ。
字北谷の地域内には北谷ヌ前 (チャタンヌメー) と石平 (イシンダ) の屋取集落居があつて、1935年 (昭和10年) 頃にそれぞれが行政字として分離した。字石平は1956年の字地域変更により字北前の地域に吸収されている。

琉球王国時代から現在に至る北谷の行政区の変遷を地図で示すと下記の様になる。

戦前の字北谷は300余の戸数の集落だったが、沖縄戦で、この全地域は軍用地として米軍に接収され、村は跡形もなく破壊し尽され敷き均らされて、東方の丘陵地はコンクリート建の宏大な兵舎や其の他の建物が立ち並び、平地は工場や車輌置場或はヘリコプ ターの飛翔場となってしまった。下の地図は民家の分布の変遷を表しているが、戦後は数年間は北谷三箇全地域は立ち入り禁止となっており、住民は他の地域に移り生活をしていた。1953年 (昭和28年) に北前の南の限られた地域が解放されて、帰還が始まっている。1981年 (昭和56年) にはハンビー飛行場が返還され、その後、土地整理事業が行われ、ハンビータウンや安良波公園、アラハビーチが整備され、現在は住宅地商業地となっている。

北谷町の米軍基地の変遷は下記の通りだが、北谷三箇地域では2020年に伝道の倉庫地区が返還されている。この場所は北谷グスクがあった場所でに国史跡に指定されており、現在でも発掘調査が行われている。白比川沿岸は開発の可能性はあるように思えるが、ここでも発掘調査が行われており、跡地利用計画はその発掘調査の結果次第となるのではないかと思う。個人的には先に返還された西普天間地位と同じような、史跡公園と住宅地、公共施設のなどになればよいのにと思っている。

2013年にはインダストリアルコリドー地区の返還が日米で合意されれている。2024年以降の返還とされていた。北谷町のマスタープランにも、返還跡地利用についてはほとんど具体性のある記述はなく、これからといった状況の様に思える。2018年に跡地利用計画立案スケジュールが発表されている。2024年には跡地利用計画が決定される予定だった。

2023年に発行されたスケジュールが下記の通りだが、2018年のスケジュールが全く機能していなかったことが判る。何をしていたのだろう? これは北谷町として反省すべき点だろう。諸要因で全く手が付けられていなかったのであれば町民に早い時期に説明すべきだろう。当初スケジュールでは2024年には計画決定が行われることになっているが、改訂スケジュールでは、今から勉強会を行い、計画決定は2031年頃になっている。おかしな点は依然として返還を2024年末と想定している。返還時期の想定は難しいことはわかるが、非現実的な想定だろう。西普天間住宅地では1995年に返還が合意されてから、跡地利用計画が決定されたのは25年後の2019年だった。西普天間住宅跡地では現在は琉大病院建設中で開院は2025年を予定している。西普天間住宅地では公園や住宅地整備もあり、更に年月を要するのが実態。返還跡地の活用計画決定と実施には幾つもの課題がある、地権者との合意、遺跡調査、不発弾処理などスムーズにいくケースはない。インダストリアルコリドー地区の事業完了は現在の計画は楽観的と思える。心配なのは計画を返還後としている点で、返還が遅れれば計画もそれに引きずれれ送れる点だ。現在まで5年間計画検討を放棄していた町の姿勢から見るとこの跡地計画のプライオリティーが低いのではとの疑いもある。うまくいけば2035年~2040年に計画実施となるのではとも思える。

わかる範囲で北谷、北前の史跡等を地図上にプロットしたのだが、重要な史跡はほとんどが基地内にあり、残念ながら訪問はかなわない。



北前区 (北谷之前屋取 [チャタンヌメーヤードゥイ]、字北前 / 石平屋取 [イシンダヤードゥイ])

宜野湾市を過ぎると北谷町に入る。まずは北谷町の南端の北前区から見て行く。現在の北前区は元々は北谷之前 (チャタンヌメー) と呼ばれた屋取集落だった。北谷ヌ前屋取 (チャタンヌメーヤードゥイ) は北谷町域南端に位置し北側は北谷 (チャタン)、南側は宜野湾村に隣接していた屋取集落で、普通は北谷前 (チャタンヌメー) と呼ばれていた。ケンドー (県道) 沿いの現在はキャンプ端慶覧として接収が続いている場所に戸数105軒 (内 瓦屋26軒) 程があった。
第二尚氏第14代尚穆王の時代 (1739年 - 1794年、在位1752年 - 1794年) には首里、那覇、泊の士族の中には政庁の役職に就けず貧困生活を余儀なくされる士族が増え、王府はこの対策として尚穆王5年 (1785年) に士族に対して北谷間切、具志川間切、越来間切への移住帰農を許可している。この事により首里、那覇等から移住してきたのが北谷之前屋取集落の始まりになる。
1937年 (昭和12年) に字北前 (キタマエ) として分離独立する前までは字北谷に属していた。1956年 (昭和31年) の字地域変更により字石平が字北前に吸収合併している。
北前集落は主に芋やサトウキビなどの生産を行い、前屋取 (メーヤードゥイ)、中屋取 (ナカヤードゥイ)、後屋取 (クシヤードゥイ) の3組に分かれ、後屋取 (クシヤードゥイ) はさらに東屋取 (アガリヤードゥイ) と西屋取 (イリヤードゥイ) に分かれていた。桑江ヌ後屋取 (クェーヌクシ ヤードゥイ) に芋の澱粉を作るデンプンコージョーがあり、工場に芋を売りに行くこともあった。 砂糖小屋 (サーターヤー) が、集落の南側、真ん中あたり、東端に3ヶ所あった。それぞれ、南組、 中組、東組に分かれて共同使用していたと思われる。 畑以外に田んぼもあり、米も作っていた。また、チヤギーも多くあった。農業以外には、荷馬車引き、人力車引き、役場吏員、大工、 サンジンソーなどの職を持つ人たちもいた。
集落の人たちの墓はイートゥシにあった。洗骨を行なうので、墓は川沿いに造ることが多かった。イートゥシには北谷ヌ前屋取だけではなく、北谷や伊佐浜の人たちの墓もあった。葬式には北谷三箇所有の龕 (ガン) を借りていたが、1953年 (昭和28年) に北前として龕が作られた。(現在は北谷町手作り資料館に保管・展示)
1945年 (昭和20年) の沖縄戦で米軍に占領され、住居を始め一切の物が潰滅し荒野に変貌した。1948年 (昭和23年) 4月の帰還許可により収容所から北谷と三叉路附近に仮小屋を建て、北谷区 (393人 97戸) として生活を再開した。しかし、1949年 (昭和24年) 10月に北前及び三叉路附近は軍用地となり立退きを命ぜられ、北前部落は農耕主業で移転先に困り、政府斡旋等により東風平村外間之前へ政府の補助を得て1950年 (昭和25年) に移動した。移住先では不自由不便もあり馴染まず、次々と謝苅へ引揚げ、結局、全戸が東風平村外間之前から再び村へ復帰し村の建設を開始する事になる。
北前の集落域は米軍上陸直後に捕虜収容所となり、その後、滑走路が建設され、ハンビー飛行場となっていた。
1953年 (昭和28年) 6月に県道一号線以西の宜野湾村伊佐浜部落に続いた (佐阿天橋以南) 地域が解放され帰還している。この地は謝苅四区の行政下となり、次第に戸数が増加し1981年 (昭和56年) に北前区として独立区となった。この年にはハンビー飛行場が返還されている。
現在はサンエーハンビータウンを中心とした商業施設や、安良波公園、アラハビーチなどが整備されて、大いに賑わっている。
北前区は一号線 (現在の国道58号線) に面し交通に便利で米軍の外人との接触も多くレストラン、洗車場、理髪店、湯屋、車輌部品店其他雑貨店が繁昌し、米人向貸住宅としてスラブコンクリート建の建設が盛んに行われ多くの米軍関係の外人が居住している。散策していると多くの米人を見かける。街並みはアメリカ駐留時代の名残なのだろう、アメリカっぽい建物もあり、中古車の値段表示はドル建てだ。両替店もいくつかある。米軍軍人向けの商売はまだまだ盛んなのだろう。

北谷ヌ前集落の拝所

  • 御嶽:  なし
  • 殿: なし
  • 拝所: 安良波ヌ岩 (アラファヌシー)、クワディーサービジュル (キャンプ端慶覧内 消滅)
  • 井泉: なし

北谷ヌ前集落で行なわれた祭祀行事

  • ニングワチャー (旧暦2月1~2日):ナーカヌシーを拝む。
  • エイサー (旧暦7月): エイサー

石平屋取 (イシンダヤードゥイ) 

戦前、北前区の中にはもう一つ屋取集落が存在していた。石平屋取 (イシンダヤードゥイ) で、北谷町域東南に東側は中城村に隣接し、その中城村の一部も含めての地域で、中城村側と区別して北谷石平 (チャタンイシンダ ) と呼ばれていた。1937年 (昭和12年) に行政字として分離していたが、1956年の字地域変更により字北前の地域に属すことになった。沖縄戦の直前には県議会で、北谷石平 (チャタンイシンダ) と中城石平 (ナカグスクイシン ダ) の合併が決議されたがが米軍上陸で実現しなかった。当時の北谷石平は戸数26軒 (カーラヤーは6軒) が点在する小さな屋取集落だったであった。石平屋取は水の便が良くなくて、何か所かあった個人の井戸も旱魃になると涸れてしまい、石平樋川 (イシンダヒージャー) を集落の人みんなで利用していた。その他には後屋取 (クシヤードゥイ) の北側に共同井戸のフシクブ (星が落ちて窪んだという意味) があった。製糖組 (サーターグミ) は、東屋取 (アガリヤードゥイ)、前屋取 (メーヤードゥイ)、西屋取 (イリヤー ドゥイ)、後屋取 (クシヤードゥイ) の4つがあった。
集落全体は米軍に接収され、現在でもキャンプ瑞慶覧内となっている。石平屋取集落の人たちの多くは北中城村石平に居住している。

石平屋取集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: アラファヌシー (火ヌ神、ビジュル)
  • 井泉: 石平樋川 (イシンダヒージャー キャンプ端慶覧内)、フシクブ (キャンプ端慶覧内)、前ヌ井 (メーヌカー キャンプ端慶覧内)、普天間樋川 (フテンマヒージャー 消滅)

石平屋取 (イシンダヤードゥイ) 集落で行なわれた祭祀行事

  • クスックィー (ニングワチャー 旧暦2月2日: 前屋取/西屋取/後屋取と東屋取の2か所に分かれて行なわれていた。
  • エイサー (旧暦7月): エイサーの練習は墓の庭でしていた。当日は各家を回り、酒や寄附をもらっていた。


伊佐との境界線には川が流れている。この川を北に渡った所から北前区が始まっている。この場所の伊佐側は戦後埋め立てられた地域で、埋め立てられた事で川となっている。

北前区公民館

川を渡った所に北前区公民館が置かれている。この辺りは戦前は人も住んでおらずウワンクーラーと呼ばれる広い沼地だった。海岸は砂地で、西小潟 (イリグゥーガタ) と呼ばれた干潟があったそうだ。

普天間川、ニライ橋

公民館の前の道は戦後整備されたもので、この道を北に進むと、普天間川に出る。ここに架かるニライ橋を渡る。

テツドーミチ、軽便橋

ニライ橋の上流側にもう一つ橋が架かっている。軽便橋という。戦前には枕木だけの鉄橋が架かり、沖縄県営鉄道嘉手納線 (1922年に開業、嘉手納、野国、平安山、桑江、北谷、大山真志喜、大謝名、牧港、城間、内間、安里、与儀、古波蔵、那覇の15駅があった) の鉄道道 (テツドーミチ) が通っていた。
北前には北谷停留場が設けられ、北谷、玉代 勢、伝道、玉上の各部落及び北中城方面の人々はこの停留場を利用した。1944年 (昭和19年) 十月十日の大空襲により県鉄は破壊されてしまった。
嘉手納線は太平洋戦争の勃発により1944年 (昭和19年) に通常ダイヤが廃止され、実質軍用鉄道化された。1944年 (昭和19年) 10月10日の大空襲で鉄道施設の大半が破壊され、1945年3月には運行を停止、4月1日に米軍が本島読谷に上陸し沖縄戦が開始され、地上戦により嘉手納線は消滅している。
このあたりには同じ形の平屋の住宅が並んでいる。これは戦後、米軍兵士の住宅として建設されたもので、現在では一般人向けの住宅になっている。

安良波ヌ岩 (アラファヌシー)

海岸沿いには遊歩道が整備されて、安良波ビーチに伸びている。この辺りは安良波原と呼ばれた場所で海岸線に突出した岩と沖に連なる岩礁がある。この二つを併せて安良波ヌ岩 (アラファヌシー)、又は安良波龍宮 (アラファリューグ) と呼ばれた拝所だった。戦前は女人禁制の聖域だった。
ここでは船の安全を祈願して船を見送ったフナウクイが行われ、戦前には旧暦5月4日に豚肉の煮た供物を供え、先ず海岸線に突出した前ヌ岩 (メーヌシー 写真左下 火ヌ神が祀られている) の下から中ヌ岩 (ナカヌシー 右上) を拝み、その後アラファバーリーをおこなったそうだ。戦前には中ヌ岩 (ナカヌシー) の上にビジュルがあって、毎年ウマチーと旧暦5月4日などに拝みが行なわれていた。現在は石の香炉 (ウコール) が置かれている。また、北谷の綱引き (旧暦6月25日) にも拝まれていた。現在は2月1日のニングヮチャー、5月4日の竜宮拝みに北谷ノロ殿内の家人らによる拝みが行われている。戦前には以前は現在の10倍もの大きさだった中ヌ岩 (ナカヌシー) と前ヌ岩 (メーヌシー) の間の海は潮が引くと、徒歩で渡ることができたそうで、そこにはクガニグムイと呼ばれた礁池があり、野菜などを洗ったそうだ。戦後、米軍の発電船を入れのために深く削られて消滅している。現在は船を使って中ヌ岩 (ナカヌシー) に渡っている。旧暦7月のエイサーではその練習はアラファヌシーの前の浜で行っていたそうだ。

安良波公園、アラハビーチ

安良波海岸沿いには安良波公園が整備されている。この地域は、沖縄戦前は北谷ターブックゥと呼ばれる水田地帯だった。敗戦とともに、米軍のハンビー飛行場として接収されていたが、1981年 (昭和56年) に返還された。返還と共に、区画整理事業が計画され、1991年 (平成3年) に完成している。その記念碑 (写真右下) が置かれている。安良波公園内には多目的広場、野外ステージ、噴水池、バスケットコート、バーベキューエリアなどが広がっている。
公園の海岸にはアラハビーチも併設されている。このビーチではマリンスポーツが盛んで、バナナボート、パラセール、グラスボート、マリンジェット、カヤックアラハ島ツアーなどを提供している。アラハ島と呼ばれる岩も見られる。3月なのだが、砂浜には海水浴の客も見られた。

インディアンオーク救助記念碑

安良波公園内にインディアンオーク救助記念碑が置かれている。この安良波海岸沖で香港で勃発したアヘン戦争に参戦していた英国船東インド会社のインディアン・オーク号が漂流しリーフに乗り上げ座礁遭難している。当時、琉球は薩摩藩の支配を受け、同時に清の冊封国であった。鎖国政策をとっていた外交的な状況を踏まえれば、敵国の救助はご法度であったが、その際に北谷住民は台風の荒波にも関わらず、難破船から船員67名を救出、さらに琉球王府は45日もの間、船員に衣食住を与え手厚くもてなし、読谷の渡具知で180トンほどの船を新造して故国へと送り返した。琉球の人たちが手厚いもてなしに対する謝礼を決して受け取ろうとしなかったことが現在まで伝わっている。救出された英国人たちは「琉球の人は良きサマリヤ人のようだ」と称賛し、この経緯は当時の船員たちによって海軍記として記され、今でも大英博物館に所蔵されている。これは外からの来訪者をもてなすという琉球の精神に由来していると思える。この事態を知った薩摩藩はこれを清国、英国、日本の国際問題に発展させない為に幕府には報告しなかったという。
1984年に調査が行われて白比川河口の西で同船の積載資料とみられる銅板3枚、銅釘1,000点、染付碗・皿、大型褐釉陶器甕、彩色陶器、角柱瓶、ワイン瓶などが検出されている。
1976年 (昭和51年) に返還されたハンビー飛行場跡地は海岸側は公園が整備され、公園に面してはマンションが建ち、商業施設も併設されている。


北前区から字北谷に移動する。旧北谷はほぼ全域がキャンプ端慶覧となり、未だ返還されておらず、史跡はキャンプ内にあった。

字北谷 (チャタン)

北谷町域西側、チャタングスクの南側にかつての北谷集落があった。北東側は伝道 (リンドー) や玉代勢 (タメーシ) があり、南側は北谷ヌ前屋取 (チャタンヌメーヤードゥイ) に隣接していた。北谷集落、玉代勢、伝道は北谷三箇 (チャタンサンカ) と呼ばれ、ほとんどの行事はこの三集落合同で行なわれていた。戦前には戸数239軒 (内: カーラヤーは64軒) があった。主業は農業で、米、芋、サトウキビなどを作っていた。農業以外にも大工、石工、荷馬車引き、客馬車引き、公務員、事 ひっこう 務、筆耕など、さまざまな職業を持つ人たちがいた。また、ケンドー沿いの馬場 (ンマイー) のところには、診療所、郵便局、風呂屋、商店、菓 子屋、自転車屋、散髪屋、牛乳屋、馬車宿などが立ち並んでいた。
サーターヤーが数か所あった。サーターヤーで処理できないサトウキビは嘉手納の製糖工場へ運んでいた。その後、ハツドーキヤー (発動機屋) ができて、サーターヤーはあまり使われなくなった。
北谷集落全域は米軍に接収され、現在でもキャンプ瑞慶覧内となっている。北谷集落住民は他集落へ分散して暮らしているが、現在でもノロ殿内や郷友会を中心として諸行事を行なっている。

北谷集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: マタジ、クゥーディーサービジュル、長老山 (米軍基地内)、土帝君 (米軍基地内)
  • 井泉: ウスクガー (米軍基地内合祀)、カンタヌカー (米軍基地内合祀)、イハガー、チブガー、塩川 (スーガ-)、ヰーグチ

北谷集落で行なわれた祭祀行事

  • 北谷綱引 (ウーンナ 旧暦6月): 寅年には北谷三箇合同でウーンナが行なわれていた。


マタジ (マタジウカー、マタジ竜宮)

塩川橋 (写真上) を渡ったところから字北谷になる。橋の側にマタジと呼ばれる拝所が置かれている。石碑の裏側には湧水神と刻まれている。この場所は、かつての北谷集落西側外れでマタジ水門近くには、琉球石灰岩の大きなシー (岩) が在り、そこから湧き出る豊富な水で池があったという。その湧泉や池をマタジウカー、又はマタジ竜宮と呼んでいた。北谷村落の祭祀を司っていた北谷ノロは、このカーで斎戒沐浴してから、祭祀に臨んだという。東世 (アガリユー = 知念・玉城)や今帰仁、慶良間へのお通し (ウトゥーシ) もこの場所から行ったという。戦後、マタジ竜宮は拝所としての機能を失っていたが、1987年 (昭和62年) に北谷ノロ殿内を中心に再建され竜宮拝みが復活している。

北谷ノロ殿内

塩川橋を渡る手前、安良波公園の東に広がる住宅街の中に北谷村の祭祀を司っていた北谷ノロを輩出していた北谷ノロ殿内がある。戦後、ハンビー飛行場が返還され、この地に移ってきている。琉球王国時代には北谷ノロは北谷、前城、玉代勢の祭祀を司っていた。


綱のカヌチ根軸碑、北谷馬場 (チャタンウマィー) 跡

米軍キャンプ瑞慶覧のフェンス沿いに綱のカヌチ根軸碑が設置されている。この石碑は1988年 (昭和63年) にノ口殿内と郷友会によって建立されたもの。このー帯はウククヌメーヌモーグヮーと呼ばれる広場で、字北谷の人々が稲干しや、ウージンガラ (サトウキビの搾りガラ) を干す場所として利用したり、戦前には北谷三箇の大綱引きが行われていた。旧暦6月25日の綱引きには、このウククヌメーヌモーグヮーに設置されていたカヌチ根軸の石のところで両組の雌雄の綱をカヌチ棒を貫き連結させていた。綱引きの前にはカヌチ根軸で綱引きの御願を行っていた。かつてのカヌチ根軸はキャンプ端慶覧内になっているのでフェンス脇に石碑が設けられている。以前はフェンス前 (写真下) に置かれ、フェンス沿いを歩いて拝んでいたが、今は国道沿いに移されて御願がしやすくなっている。

拝所の前の大通り (現在の国道58号線) はかつての街道で往昔から沖縄本島を縦貫する西側の唯一の交通路で、1906年 (明治39年) に県道となり車輌が通行するようになった。ここはかつては北谷馬場 (チャタンウマィー) で、春秋の原山勝負の際に競馬が催されていた。
北谷の大綱引き (ウーンナ) は寅年に北谷三箇合同で行なわれていた。集落の真ん中を東西に走る道を境に南側が前村渠 (メンダカリ)、北側が後村渠 (クシンダカリ) の二つの組みに分け競われた。後村渠には、玉代勢、伝道のほか、桑江 (クェー)、伊礼 (イリー)、平安山 (ハンザン) などから加勢があり、対する前村渠には、北谷ヌ前屋取) や伊佐などから加勢が来ていた。300年の歴史がある大綱引きで、沖縄戦で中断したものの、戦後、1974年 (昭和49年) に復活し、その後も1986年 (昭和61年)、1998年 (平成10年)、2010年 (平成22年) の寅年に北谷公園陸上競技場で行なわれている。

キャンプ端慶覧

沖縄本島中部の沖縄市、宜野湾市、北谷町、北中城村にまたがってキャンプ瑞慶覧 (Camp Foster) の米軍基地が置かれ、在日米軍海兵隊の沖縄県における中枢機能を有している。沖縄戦で戦死したウィリアム・アドルバート・フォスター海兵隊一等兵にちなんでCamp Fosterと名付けられている。

  • 1945年 (昭和20年) 沖縄戦で軍事占領し、その後も現在でも継続使用されている。
  • 1949年 (昭和24年) 普天満宮の地所を返還
  • 1955年 (昭和30年) 宜野湾村の伊佐浜を銃剣とブルドーザーで強制接収。
  • 1972年 (昭和47年) キャンプ瑞慶覧 (陸軍) とキャンプフォスター (海兵隊) が統合。
  • 1975年 (昭和50年) 機構再編に伴い、陸軍から海兵隊に移管される。名称はキャンプ・フォスターに統一。
  • 1976年 (昭和51年) にハンビー飛行場 (写真右上) 全面返還
  • 2015年 (平成27年) 西普天間住宅地区約51ヘクタールが返還。
  • 2020年 (令和2年) 北谷城のある施設技術部地区内の倉庫地区の一部約11ヘクタールが返還
  • 2015年 (平成27年) 宜野湾市西普天間住宅地区 (51ヘクタール) 返還
  • 2023年以降 北谷町インダストリアル・コリドー地区 (62ヘクタール)、北中城村ロウワー・プラザ地区 (23ヘクタール) 返還予定
  • 2024年以降に喜舎場住宅地区 (5ヘクタール) の一部返還予定。

北谷番所跡、旧北玉小学校跡

北谷交差点辺りは北谷集落の北隅だった。この交差点と接するキャンプ端慶覧敷地内には琉球王国時代の1500年代に北谷間切番所が置かれていた。明治30年には北谷間切役場と改称され、明治44年に間切の中央部浜川に移転している。北谷間切番所の南に明治19年に北谷小学校が創立され、北谷間切の児童教育の中心地だった。明治35年に平安山の上部落に北谷尋常高等小学校 (写真下) が設立されて、同校は其の分教場となったが、学級の増加により役場の移転でその跡地に大正3年に北玉小学校が創立されている。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で校舎は破壊されてしまった。

北谷古島

キャンプ端慶覧の第三ゲート付近が北谷集落が始まった古島と伝わっている。

この後に字伝道 (ディンドゥ) にある北谷城も訪れた。字伝道の他の史跡は後日訪れる予定なので、伝道地区を見終わってからまとめて訪問記に記載する。


参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)

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