Okinawa 沖縄 #2 Day 258 (17/01/24) 旧中城間切 中城村 (17) Tomari Hamlet 泊集落

旧中城間切 泊集落 (とまり、トゥマイ)

泊原 (トゥマイバル)

  • 県道 (ケンドー)
  • 堀川の前 (フッチャヌメー)、旧村屋跡
  • 泊の大クワディーサー
  • 産井戸 (ウブガー、下ヌ井戸 シチャヌカー)
  • 御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー)
  • 御世城 (ウヨーグスク)
  • 御世川 (ウヨーガーラ)
  • ウフバルミチ
  • 東ヌ井戸 (アガリヌカー)
  • 根屋 (ニーヤ)、安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の神屋
  • 坊主墓 (ボーズバカ)
  • 臼太鼓井戸 (ウスデークガー)、臼太鼓毛 (ウスデークモー)
  • 大屋 (ウフヤ) 神屋
  • 中城グスク遥拝所 (グスクウトゥーシ)
  • 棚原 (タナバル) 門中の神屋
  • タマウノーシガー
  • 上ヌ井戸 (イーヌカー)
  • ミルクガー
  • 産井 (ウブガー)
  • 上ヌ毛 (イーヌモー)
  • 東門 (アガリジョー) 門中の神屋
  • 踊り洞穴 (ウドゥイガマ)
  • 大城井戸 (ウフグスクガー、西ヌ井戸 イリヌカー)
  • ウドゥンガーラ/メーンターガーラ
  • 西砂糖小屋 (サーターヤー)、中砂糖小屋 (サーターヤー)
  • 最初の砂糖小屋 (サーターヤー)
  • チバグスク、唐船石
  • 丸博神社
  • ウンジャガーラ
  • ユーナジー [添石集落拝所]

前原 (メーバル)

  • 東リ門御嶽 (アガリジョーウタキ)
  • 泊公民館 (倶楽部、村屋)、下砂糖小屋 (シチャンサーターヤ) ユジュー砂糖屋 (サーターヤー)
  • 村火ヌ神 (ムラヒヌカン)
  • 竜宮 (リュウグウ)
  • 慰霊碑
  • 馬浴溜池 (ウマアミシグムイ)
  • 潮垣道 (スガチミチ)
  • 堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ)

浜原 (ハマバル)

  • 沖縄電力 吉の浦火力発電所

与武野原 (ユンヌバル)

  • カンセンアタイ、米軍ゴミ捨て場
  • 久場への道
  • ウシヤチャーバル
  • ヤットゥクルー
  • ウマウクイモー

照原 (ティラバル)

  • オミヤ (お宮)
  • 照屋樋川 (ティラヒージャー) [添石集落拝所] (未訪問)
  • ユシ按司の墓

古島原 (フルジマバル)

  • 照屋御嶽 (ティラウタキ)  [添石集落拝所 1月10日 訪問]、金満 (カネマン) 御墓 (ウハカ)、かねまん之碑
  • 照屋御井戸 (ティラウカー) [添石集落拝所 1月10日 訪問]
  • 与喜屋 (ヨキヤ) ノロの墓 [添石集落拝所 1月10日 訪問]

川尻原 (カージリバル)

  • 伊寿留 (イジュルン) 按司の墓 [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
  • 上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]
  • 伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]


昨日、頼んでいた自転車のタイヤが届き交換、パンクした際にタイヤの穴を塞ぐ為に応急処置として挟んだ千円札は穴が空いていた。おもろまちの日本銀行支店で千円札は交換してくれるので問題は無いのだが、少し面倒だ。近々、北谷町か北中城村を訪問する際におもろまちを通るのでその時に日本銀行支店で換えてもらう事にする。
今日は中城村の泊集落を巡る。現地では85才のおじいと出会い、道端に座って色々な話を聞かせてくれた。2時間は話しただろう。沖縄戦、戦後を経験している老齢者は年々少なくなっており、おじいの話は貴重だった。また、泊の区長さんとも出会うことが出来た。

旧中城間切 泊集落 (とまり、トゥマイ)

泊は、中城平野の北部に位置し、北西の丘陵斜面部から国道を挟んで、東側の平野部に広がった区域。泊は港 (湊) を意味しており、琉球国惣絵図には海岸部に泊湊と記されている。

中城湾海岸に港があったことから、このように呼ばれていた。昭和初期頃までは糸満の漁師の舟が海岸近くに停泊していたが、現在では護岸が整備され、港らしいものは見られない。

泊集落は泊原の南側と与武野原の国道沿いに集中している。明治時代までは県道 (ケンドー) の北側にあった。沖縄戦では他の集落と同様に大きな被害を受けている。戦後、元々、住んでいた集落の場所は米軍に接収され、収容所から村への帰還が許可された際には、元の集落の西側の土地に茅葺屋根の家を立て復興が始まった。その後、元の集落の土地は開放されたが、そこに戻る住民は少なく、復興が始まった場所と久場との境辺り国道329号線沿いに民家が拡張している。

時期ごとの民家の分布を地図で重ね合わせるとその変遷がよくわかる。結局、元の集落には戻らず、新たな村づくりを行っている。現在の泊の集落の中心は戦後の復興期に住み始めた地域になっている。


泊の人口は明治時代には中城村では400人程で二番目に少ない字だったが、大正時代には700人までに増えている。その後、理由はわからないが、沖縄戦直前には400人に減少している。沖縄戦では114人が犠牲になり、300人から戦後の復興が始まるのだが、人口はそれ程増加せず、440人~490人の間で横ばい状態になっている。近年は微減傾向にある。

元々は人口の少ない地域だったが、大正期には人口は増えて、中城村では中堅の字にはなったが、それ以降は人口は増加せず、現在では4番目に人口が少ない地域になっている。


琉球国由来記等に記載されている拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: 中城城内之殿 (中城グスク内)

祭祀行事は与喜屋ノロによって執り行われていた。

泊で現在の行われている祭祀行事は少なくなり、簡素化となって村挙げての祭祀はほとんどない。昔はノロガ行っていた祭祀行事を自治会が行っている。


泊集落訪問ログ



泊は泊原 (トゥマイバル)、前原 (メーバル)、浜原 (ハマバル)、伊那具原 (イナグバル)、与武野原 (ユンヌバル)、宇富原 (ウフバル)、照原 (ティラバル)、古島原 (フルジマバル)、川尻原 (カージリバル) の九つの小字から成り立っている。 泊集落は元々は泊原の南側にあり、現在ではそれに加え、与武野原の国道沿いに集中している、浜原の海岸側一帯は工場地帯になっている。 伊那具原は戦後海岸の一部が埋め立てられ、発電所が立地している。 中城グスクは川尻原にある。かつての泊の集落は中城グスクの南東側下方にあったと伝えられている。いつ頃、現在地に移転してきたのか定かではない。 今では畑とギンネムの生い茂る藪になっており面影を留めていない が、遺物の散布が確認されている。



泊原 (トゥマイバル)

琉球王国時代から戦前までは泊の集落は泊原の南側に集中していた。まずは、この泊原 (トゥマイバル) 内にある史跡や拝所を見ていく。


県道 (ケンドー)

先日訪れた小字 伊舎堂から県道 (ケンドー) を進むと泊交差点に出る。ここからは旧県道は国道329号線に合流している。県道の北側が小字 泊原で、この県道が南側の小字 前原 (メーバル) との境界線になっている。県道は潮垣道 (スガチミチ) に並行してあった道で琉球王国時代には郡道として存在しているが、添石で二本に分岐し、中城グスクを経て北中城村の大城、荻堂へ、もう一本が泊経由で大城を抜け荻堂で先の道と合流していた。郡道は1909年 (明治42年) に改修され県道 (ケンドー) となっている。1914年 (大正3年) に馬車軌道が与那覇-小那覇間で開通し、1916年 (大正5年) には馬車軌道は泡瀬まで伸びている。戦後は米軍が軍道 (現在の国道329号) を建設し、その数区間はこの県道と重なっている。


堀川の前 (フッチャヌメー)、旧村屋跡

国道329号線 の泊交差点の場所は広場になっており、堀川の前 (フッチャヌメー) と呼ばれていた。公民館 (倶楽部、村屋) ができる以前はムラの集会場所として使われていた。大正時代に伊舍堂の古民家を購入し、その材料をもとにしてこの場所に村屋を建設している。


泊の大クワディーサー

堀川の前 (フッチャヌメー) の広場には大岩がある。この後、泊集落を巡ると集落内には至る所にこの様な大岩が見られる。広場の中には樹齢200年程と推定されるクワディーサーが生息している。中城村の天然記念物に指定されている。明治期頃からすでに今のような姿だったと言われており、幹回り3.7mにもなる。また、戦前まで行われていた綱引きでは、大クワディーサーの木を使って東組が綱を編んだという。


産井戸 (ウブガー、下ヌ井戸 シチャヌカー)

堀川の前 (フッチャヌメー) の広場の隅に産井戸 (ウブガー) があり、下ヌ井戸 (シチャヌカー) とも呼ばれている。フッチャとは「掘った」という意味で、ここは井戸を掘った場所の前という事でフッチャヌメーと呼ばれている。大正期か昭和初期頃、この井戸を掘る前には、この近くの現在の国道329号の所で産井を掘ったが水が出ず、この場所に井戸を堀り、産井としたそうだ。水道が普及するまでは、正月の若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ) など生活用水として広く利用されていた。 泊では井戸のある家庭は少なく、明治中期頃まで天水や川の水に頼っており、共同井戸は人々の貴重な水源だった。


御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー)

堀川の前 (フッチャヌメー) から村の道を東に行くと、大岩の根元には自然石に囲まれた直径50cmほどの井戸跡があり、御世城ヌ井戸 (ウヨーグスクヌカー) と呼ばれている。水はなく戦後、形式保存されたものになる。


御世城 (ウヨーグスク)

御世城ヌ井戸の北には幾つもの大岩が横たわっている。この井戸の名の由来となった御世城 (ウヨーグスク)  がある。

石灰岩群の一帯で 御世 (ウユー、古い先祖) の墓が幾つもの見られる。グスク (城) は城塞以外にも聖域としての御嶽とか御願所、墓所を示す。この場所は古くから墓所となり、聖域と考えられる。

御世川 (ウヨーガーラ)

御世城 (ウヨーグスク) の東にはデーグスク (台グスク) あたりを源流とし、ウシヤチャーバルとカンセンアタイを流れている御世川 (ウヨーガーラ) がある。泊にはこの川を含め三つのカーラ (川) があるのだが、スガチミチ周辺一帯にあった田圃へと注がれ、稲作に利用されていた。


ウフバルミチ

御世城 (ウヨーグスク) の前の道はウフバルミチと呼ばれている。県道 (ケンドー) から分岐し、中城グスク内にあった中城村役場へと通じる道だった。集落内にあるウフバルミチは、もともとは、ここより西側を通っていたが、風水師の判定により、泊ムラの鼻筋にあたるためフンシー (風水) が悪いということになり、道を東側にずらしたのがこの道筋になる。


東ヌ井戸 (アガリヌカー)

御世城 (ウヨーグスク) のウフバルミチを挟んだ場所、大クワディーサーの後方には東ヌ井戸 (アガリヌカー) がある。石灰岩の大岩の根元に、石積みで丸く囲われた井戸で、現在も水が湧き出ている。


根屋 (ニーヤ)、安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の神屋

東ヌ井戸 (アガリヌカー) の北西、堀川の前 (フッチャヌメー) から坂道を登った所には泊邑の創始家とされる根屋の安里 (アサトゥ、泊安里 トウマイアサトゥ) の屋敷跡になる。母屋があり、敷地内にはウヮフール (豚便所) 跡や井戸跡も残っている (写真下)。資料写真には母屋東側にコンクリート製の神屋が写っているのだが、なくなっていた。安里は泊邑の政治と祭祀のリーダーで、ムラの根人 (ニーンチュ) と根神 (ニーガン) は代々この家系が受け継いでいた。 舜天王統三代義本王 (在位 1249~59年) の系統と伝えられている。 戦前の神屋ではムラの総会や学事奨励会や運動会の選手激励会も行われていたそうだ。


坊主墓 (ボーズバカ)

根屋 (ニーヤ) の母屋の南側に石灰岩の大岩があり、その上に祠が置かれた小墓 (写真下) がある。 そこはかつて岩の上に住んでいた坊主御主 (ボージウシュウ) の墓と言われている。岩の根元に香炉が置かれ、そこから祈願を行っている。


臼太鼓井戸 (ウスデークガー)、臼太鼓毛 (ウスデークモー)

根屋 (ニーヤ) のすぐ北に広場がある。かつてはアシビナー (遊び庭) だったと伝えられ、臼太鼓毛 (ウスデークモー) と呼ばれている。名前から推測できるのは琉球王国時代には臼太鼓 (ウスデーク) が行われていた可能性がある。この広場の近くには自然石で囲まれた直径70cmほどの臼太鼓井戸 (ウスデークガー) があり、現在も水を湛えている。


大屋 (ウフヤ) 神屋

根屋 (ニーヤ) の西側には護佐丸が城主となる前に中城グスクの城主だった先中城按司の子孫と伝わり、泊の按司元 (アジムトゥ) とも呼ばれる大屋 (ウフヤ) の屋敷があり、敷地内にコンクリー ト製の神屋があり、火の神、昔中城按司や先中城按司の元祖 (ガンス)、 床の間 (アギトゥク)、 ムラクサイ、 クニクサイ、 ユークサ イとされる香炉が並んでいる。 先中城按司初代は、当初は台城 (デーグスク) に居住していた。この時代の按司を昔中城按司と呼ぶ。14世紀中ごろに中城グスクの一部を築き始め、その後、一族が数世代かけて南の郭、西の郭、一の郭、二の郭を築城し、居城していたと伝えられている。中城グスク時代の按司を先中城按司と呼んでいる。この先中城按司四代目の時に中山王から立ち退きを命じられ、糸満の真栄里 (メーザトゥ) に移り、そこで真栄里グスク (先中城グスク) を築いたと伝えられている。その後、子孫にあたる泊大屋子が泊邑に戻って住むようになった。それが現在の泊大屋だという。 泊大屋系統の門中はムラ行事には泊大屋を中心に一緒に参加していた。糸満真栄里参拝に行くときも、これらの門中が揃って御馳走や酒を担ぎ、三味線を引きながら歩いて出向いたという。その際、一行が当間マーチュー (現当間公民館) の辺りまで来ると、当間ムラの人たちが「ナナマジラーガチューンドー」 と言いながら通せんぼをして、 何か芸をしないと通さなかったというエピソードも伝えられている。泊大屋を中心にした門中は、島尻、大里、真栄里などいくつかの地を経て泊邑に落ち着いたということから、 「ナナマジラー」と呼ばれるようになったという。


中城グスク遥拝所 (グスクウトゥーシ)

泊大屋の神屋を左側には祠が二つあり、右側は台 (デー) グスクと中城グスクへの遥拝所と言われ、海石で造られた祠のなかに、3つの自然石と石灰岩の香炉が置かれている。左側には骨甕があり、戦後泊大屋の屋敷の裏山から出てきた人骨が納められているという。


棚原 (タナバル) 門中の神屋

臼太鼓井戸 (ウスデークガー) の北には棚原 (タナバル) 門中の屋敷があった場所で、そこには神屋が置かれている。資料写真ではトタン板の小屋だったが、コンクリート造りに建て替えられていた。泊集落の祭祀では、この棚原門中、先程訪れた根屋と大屋門中が拝まれている。


タマウノーシガー (ウフグイガー)

泊大屋の後方にタマウノーシガーと呼ばれる井戸がある。現地の表示ではウフグイガーと書かれている。祭祀が終るとここから水を汲んで祭祀で使用した道具などを洗ったという。 普段の生活用水としては使用されず、祭祀の時だけに利用されたと推察されている。ムラの祭祀は、最後は必ず泊大屋で終わり、ノロがタマ (勾玉) をウノー シ (納める) というという意味でこの名称がついたと言われる。井戸にはまだ水が湧いている様だ。


上ヌ井戸 (イーヌカー)

タマウノーシガーから林の中に山道があり、そこを登って行くともう一つ井戸がある。集落の後方 (北東側) 棚原 (タナバル) 門中の神屋の北側にあたり、上ヌ井戸 (イーヌカー) と呼ばれている。岩盤の根元が掘り込まれ、石積みで囲まれている。現在も水を湛えている。戦後しばらくは洗濯など生活用水の一部として利用されたそうだ。


ミルクガー

上ヌ井戸 (イーヌカー) から西へ伊舎堂の福泉寺への野道を登って行くと、道沿いに岩があり、その根本に直径85cmほどの井戸跡がある。香炉が二つ置かれている。ミルクガーと呼ばれているが、その名の由来については書かれていない。ミルクとは弥勒の意味だろうか?水は枯れている。資料ではこの井戸は泊村の祭祀の対象にはなっていないとなっていたが、現地の表示柱には泊区拝所となっている。


産井 (ウブガー)

上ヌ毛 (イーヌモー) 近く、現在の国道329号線上には、かつて、産井 (ウブガー) があったという。大正期か昭和初期頃、泊の地相を風水師に判定させた際、風水 (フンシー) を改善するには産井 (ウブガー) を掘る必要があるといわれ、ムラで協議した結果、この場所の近く (現在の国道329号線上) を掘った。残念ながら、水は出なかった。 それに代わって掘られたのが大クワディーサー近くにある下ヌ井戸 (シチャヌカー) だという。水の出なかったこの産井 (ウブガー) は、井戸を埋めてはいけないという習わしにより、そのまま残されることになった。その後の国道建設にともない拝所を国道の歩道沿いに移動している。 現在でもハチウビーなどムラ行事の際には拝まれている。


上ヌ毛 (イーヌモー)

水が出なかった産井 (ウブガー) の北は上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれる場所だった。この場所は村民への時刻や連絡用の太鼓が置かれて叩いて知らせていたそうだ。かつてのイーヌモーは、盛り上がっていて大きな松やクワディーサーなどの木々が生い茂り森のようになっていたという。向かいにはメンターガーラを利用した水場があり、洗濯をしたり、芋を洗ったりするなどムラの人たちには欠かせない生活の場所で、子供たちにとっては恰好の遊び場でもあったという。

東門 (アガリジョー) 門中の神屋

上ヌ毛 (イーヌモー) の奥には泊集落の有力門中の一つの東リ門 (アガリジョー) の屋敷跡になる。かつて泊村は中城グスク周辺にあり、いつの時代かは不明だが、現在の場所へ移動したと伝えられている。 その時に東門門中の先祖が最初に屋敷を構えたのが、この後に訪れる東門御嶽 (アガリジョーウタキ) だといわれており、その後、この場所に屋敷を移している。この屋敷跡の中には東門 (アガリジョー) 門中の神屋 (写真上) が置かれている。この近くにはもう一つ神屋 (写真中) があり、中には二つの火ヌ神と幾つもの香炉 (ウコール) が並べられている。


踊り洞穴 (ウドゥイガマ)

東門 (アガリジョー) 門中の神屋から北に道を登っていくと踊り洞穴 (ウドゥイガマ) と呼ばれる洞穴がある。柵で囲われて近づく事はできないのだが、除くと幾つかの入り口らしきものが見える。戦前には、このガマの近くに岩があり、ムラアシビが始まる三日前から歌や踊り、三線の練習を行っていた。その場所の近くにあるガマということで、この名称がつけられたという。 沖縄戦が始まった当初は泊の住民は日本軍と南に移動した組と村に残った組があった。村に残った住民は初めは各々の場所に避難していたが、次第に、このガマや周辺のガマに移ってきた。100人程の住民が避難していた。ガマ内部に川があり、外に出ずとも飲み水を得ることができたそうだ。このガマの避難民の一人は砲弾の破片で犠牲になっている。その後、ガマは米軍に見つかり取り囲まれたが、住民の中にハワイ移民を経験した女性がいて、通訳として米軍との交渉にあたり、住民に個別に訪問して投降を説得した結果、住民は桃原 (現・沖縄市) の捕虜収容所へ送られ、多くの命が救われている。 おじいもこのガマに避難していたそうで、今でもこの女性に感謝している。この人がいなければ、多くの人が死んでいただろうと言っていた。おじいの長兄は軍人として、南部に移動し、日本軍の最後の本部だった摩文仁で戦死したと語ってくれた。踊り洞穴 (ウドゥイガマ) は現在では崩れてしまった箇所もあり、昔の面影をとどめていないそうだ。


大城井戸 (ウフグスクガー、西ヌ井戸 イリヌカー)

上ヌ毛の道を北に踊り洞穴 (ウドゥイガマ) へ登って行く途中のナーファ山に大城井戸 (ウフグスクガー) があり、ナーファガー、西ヌ井戸 (イリヌカー) とも呼ばれている。 岩の根本が掘り込まれており、現在も水を湛えている。この井戸の奥には拝所が置かれている。この拝所については資料には記載がなくわからない。

ウドゥンガーラ/メーンターガーラ

ウドゥイガマの中に川が流れていたと前述したが、そのあたりの岩 (写真左上) からから大城井戸の側を通る川筋 (右上) がある。そこからは橋の下から細い水路 (中) となり国道329号線をつっきり (左下)、公民館のある下サーターヤー近を経てスガチミチ方面の田畑に注いでいる川がある。川上の方はウドゥンガーラ、 川下の方はメーンターガーラ (写真右下) と呼ばれている。


西砂糖小屋 (サーターヤー)、中砂糖小屋 (サーターヤー)

産井 (ウブガー) の西、国道329号線沿い南側は西砂糖小屋 (サーターヤー、写真上)と中砂糖小屋 (サーターヤー、写真下) があった場所になる。泊には四つのサーターヤーがあり、そのうち西サーターヤー、中サーターヤー、ユジェーサーターヤーの三つがこの国道付近に並んでいたが、昭和17年頃にユジェーサーターヤーは現在の公民館付近の下サーターヤー付近に移動している。


最初の砂糖小屋 (サーターヤー)

前述に4つの砂糖小屋 (サーターヤー) が造られる前には、西砂糖小屋 (サーターヤー)、中砂糖小屋 (サーターヤー) の北の丘陵の斜面地に泊村の最初の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。

チバグスク、唐船石

サーターヤー跡の西、国道329号沿いにある給油所の一帯はチバグスクと呼ばれていた。戦前には、このチバグスクの中に大きな岩があり、周辺はカヤが茂っていて、その中にちょっとした広場があった。そこには祠があり、拝所になっていた。かつては神聖な場所だったと推測される。ここはトーシンイシ (唐船石) とかヒータチイシ (火焚石)ともいわれ、交易時代には火を焚いて航行する船に位置などを知らせる灯台の役割を果たしていたと伝えられている。現在ではトーシンイシ (唐船石) も拝所も消滅している。

丸博神社

唐船石があった場所のすぐ北に沖縄では珍しい朱塗の鳥居がある。丸博神社と呼ばれているのだが、全くこの神社の情報は見当たらなかった。祠には丸博産業株式会社 波上宮大神奉祀 丸博神社と書かれている。丸博産業は石油製品販売・卸売業を営む会社でここにある給油所もその販売所になる。この地がかつて聖域だったからか、会社に繁栄を願ってなのか、ここに神社を建立したのだろう。本土でもよく見かけるのだが、沖縄でも会社の敷地内に祠を建て祀っている事がある。

ウンジャガーラ

チバグスクには泊の集落の西側、伊舎堂との境界あたりを流れる源流は、中城城跡の一の郭の東側下方にある照屋御嶽 (ティラウタキ、かねまんお墓) 周辺の照屋樋川井 (ティラヒージャーガー) を源流としたウンジャガーラが流れている。暗渠になっており、川は見られないのだが、チバグスクから国道329号を越えた所に少しだけ水路が顔を出して、海岸へ暗渠になって伸びている。常に水を湛えて。普通の川ではあるが、湧水も一緒になっていたため、「ウビヒージャー」とも呼ばれていた。


ユーナジー [添石集落拝所]

ミルクガーの道を更に西に進み、伊舎堂との境付近はユーナジーと呼ばれる場所で山林となっている。この中にユーナジウガンと呼ばれる拝所があるそうだ。この場所付近にきた際に、おじいと出会い、このユーナジーの拝所について聞いてみると、知らないという。このおじいは先に訪れた棚原門中の人で、四男で分家している。この拝所は添石集落の拝所なので、泊のおじいが知らないのももっともな事だ。ユナジウガンは、シーシガンワーの近くにあるギイスノテラ (シーシノティラ) の霊石を移動し、ここに安置したと伝えられている。また、ユナジウガンの下方には、霊石を祀ったとされるマス島袋に関係のある家のヒヌカンも祀られ、屋敷跡が残っていたことから、最近までその子孫が拝んでいたという。マス島袋が、シーシーガンワー付近から移動しユナジバルへ移り住んだと思われ、その際に霊石も新たな屋敷近くに移したと考えられている。周辺には、ユナジガーと呼ばれる井戸も残っていることから、この小字古島原一帯に添石の集落があったと推察できる。現在は雑木が生い茂っており、そこへ行くことが困難なため、周辺の畑からユナジウガンに向かって遥拝している。

この道沿い付近には添石集落の墓が多く造られている。400年程前にはこの辺りに旧添石集落があったので、祖先の地として添石集落にとってはゆかりの地になる。おじいによると清明祭 (シーミー)  にはこの道は各地から集まってきた子孫の車で溢れかえるそうだ。ここにある墓の中には大理石で造られた亀甲墓があった。添石ノロ殿内の墓だった。代々、与喜屋巫 (ヨキヤノロ) を輩出した名家になる。
この道沿いにはおじいの畑と分家して造った墓が置かれている。畑では月桃を栽培しており、今日は鬼餅 (ムーチー) を包む月桃の葉を取りに来ている。今日は旧暦12月7日で泊村では鬼餅 (ムーチー) の祭祀の日という。沖縄では通常は明日12月8日なのだが泊村では1日早くなっている。月桃の花は好きな花の一つだが、この葉でムーチーを包んでいるのは知らなかった。おじいはこの地に墓を昨年造ったのだが、今は行政は新に墓地を造ることは原則禁止しており、すでにある霊園での墓を推奨している。おじいも申請してから許可が降りるには何年もかかったそうだ。幸いまだ規制が厳しく無い昔に申請して肯定的な回答をもらっていた書類があり、それが助けとなって許可が降りたという。昨年12月に奥さんを亡くし、この墓に納めたそうだ。同級生で結婚したので奥さんも享年85だった。おじいももうすぐに奥さんと一緒に墓に入るのだと笑っていた。きっと仲の良い夫婦だったのだろう。このおじいとは道端に腰を下ろして2時間に及ぶ話が始まった。泊村、中城グスク、沖縄戦、戦後の生活など色々な事を聞かせてくれた。充実した2時間だった。話が長引いたので、予定していたスポットを全部見る時間はないが、それは、次回にまわせば良いだろう。


前原 (メーバル)

泊原の南、県道と潮垣道に挟まれたのが小字の前原 (メーバル) になる。こに前原の北側の一部には泊原から続く戦前の泊集落だった。戦後は元の集落は米軍に接収され、帰還許可後は前原の西側、かつてのサーターヤーがあった場所に住み、村の復興が始まっている。

東リ門御嶽 (アガリジョーウタキ)

大クワディーサーの南の道は泊原と前原の境界線になり、道を渡った前原に入った所に東リ門御嶽 (アガリジョーウタキ) がある。先に訪れた東門 (アガリジョー) の屋敷の前にはこの場所に中城グスクの近くにあった古島から移ってきた際に最初に屋敷を構えたと伝わっている。石灰岩の大岩があり、その根元に香炉が置かれている。かつては岩の上や根元に人骨があったといい、古代の斎場跡とも考えられ、拝むようになったと推測されている。

泊公民館 (倶楽部、村屋)、下砂糖小屋 (シチャンサーターヤ) ユジュー砂糖屋 (サーターヤー)

国道329号号線の泊交差点を南に渡った所に泊公民館が置かれている。ここには倶楽部と呼ばれた村屋跡で戦前はフッチャヌメーの近くの広場で集会をし、雨天の際は泊安里の神屋を利用していた。その後、下砂糖小屋 (シチャンサーターヤ) とユジュー砂糖屋 (サーターヤー) があったこの場所に移転してる。下砂糖小屋は公民館が建っている辺り、ユジュー砂糖屋は公民館の前にある泊児童公園だった。


村火ヌ神 (ムラヒヌカン)

公民館の敷地内の裏手に村火ヌ神 (ムラヒヌカン) が置かれ、各種祭祀の際に拝まれている。海石で造られた祠に自然石が3つと、香炉が置かれ ている。自治会の拝みはここから始めることになっている。


竜宮 (リュウグウ)

泊児童公園の敷地内、南の潮垣 (スガチ) 道近くにコンクリー ト製の祠の竜宮 (リュウグウ)、その隣には慰霊碑が置かれている。 かつて、この一帯は干潟で、それを埋めたてるまでは海岸線になってお り、港 (ンナトゥ) があったと思われ、航海安全の神様として祭られていた。拝所の前に、お供えをまとめた瓶子 (ビンシー) が置かれている。ビンシーには手前に中央にウサク(お酒)とその両側に徳利、拝所側には中央には洗っていない無垢や純潔を表すカラミハナ (乾御米)、両側には禊(みそぎ)を表わす七回洗ったアライミハナ(洗御米) を供えている。アライミハナ(洗御米) にはクバンチンと呼ばれる「あの世のお金」として十円玉×3枚(30円) と十円玉×3枚+五円玉×1枚(35円) が置かれている。これは沖縄のビンシーの作法で、ここでもその通りになっていた。このビンシーを持って各拝所を巡るので、ここにビンシーがあるのは、まだ御願中とい事だ。案の定、女性が火ヌ神の所からで出来てこちらに歩いてきた。泊の自治会長の比嘉さんで、今日は鬼餅 (ムーチー) の祭祀で泊を代表しておこなっているのだそうだ。通りでビンシーの隣には鬼餅 (ムーチー) も供えられている。今日は家でお孫さんの初 (ハチ) ムーチーを行ったと言って写真を見せてくれた。ムーチーは子供の健康を願う行事で、生まれてきた赤ちゃんのお披露目の様な行事が初ムーチーになる。会長さんがこの初ムーチーの為に大量にムーチーを作り、ここにも供えている。会長さんは竜宮の拝所で私の健康祈願をしてくれて、ムーチーを食べなさいと言って渡してくれた。この様な祭祀は昔はノロが行っていたのだが、現在では自治会がその役割を担っている。
この夜家に帰ってありがたくいただいた鬼餅 (ムーチー) を食した。この年になっての初ムーチー。頂いたのはプレーン、あずき、紅芋の三種類のムーチーで沖縄では定番。本土の人には月桃の匂いのせいかあまり評判が良くないといっていたが、全くそんなことがなくもちもちで月桃の匂いが快く美味だった。本土のチマキより美味しい。
鬼餅 (ムーチー) とは面白い名が付いているのだが。これは鬼を退治する際にこの餅が登場することから、鬼餅 (ムーチー) となったそうだ。この伝説は沖縄本島各地に存在し、少しずつ内容が異なっている。ここまで巡った集落の幾つかでこの伝説があり、ゆかりの地もあった。最も知られた話は「昔、首里から大里に移り住んだ男が夜な夜な鬼になって人畜を襲うことから、その男の妹が憂いて、鉄釘入りのムーチーを兄に食べさせ、経血が出ている女陰を見せ、この口で鬼を喰うといい、鬼がびっくりしたところを海に蹴り落として殺した」というもの。鬼餅 (ムーチー) は子供の健康を願う祭りで、お母さんたちは子供に鬼餅伝説の話をするときには色々と藩士に工夫をしているようだ。鬼餅関係で思い出した場所が以下の通り



慰霊碑

竜宮の拝所の隣には1954年 (昭和29年) に泊自治会によって建立された慰霊之碑がある。台座の四方に、泊出身の戦没者114人が刻銘されている。每年11月に慰霊祭がこの場所で開催されている。 
泊集落の戦没者率は中城村の中では最も低く28%にとどまっている。とはいえ、三人にひとりは犠牲になっているので、やはり悲惨な状況には変わりない。おじいによれば、1945年 (昭和20)年の3月には米軍艦からの爆撃があり、住民はガマに避難していた。4月1日に読谷と北谷の海岸に上陸後、2日でこの地まで進軍している。村は火炎放射器で焼き尽くされたそうだ。中城グスクにいた日本軍は大した抵抗もせず、首里城の日本軍司令部防御に為、撤退して、北上原の161.8高地、伊集・和宇慶の陣地群に守りを固めていた。その結果、泊には日本兵は一人もいなかった。これが戦没者が比較的少なかった理由で、戦没者の多くは、日本軍と共に本島南部に避難した住民だったそうだ。おじいはこの時には6才だったけれど、当時の記憶ははっきりしているそうだ。天皇の敗戦を知らせる玉音放送には住民はホッとしたのが本音だった。戦後はコザの捕虜収容所に連れて行かれた。コザの捕虜収容所は大きく、南の住民は下コザと呼んでいた収容所で生活をしていた。泊村に帰還し、共同で山から切り出した材料で住民共同で茅葺の家を一つづつ作った。隣村の久場には米軍の軍艦が停泊し、米軍の子供達の学校が置かれていた。

馬浴溜池 (ウマアミシグムイ)

竜宮の奥には溜池 (クムイ) が残っている。ここにあったサーターヤーで使っていた馬に水浴びをさせるのに使われので、馬浴溜池 (ウマアミシグムイ) と呼ばれている。現在は石組みで囲い、整備されているが、元々は、土で囲まれており、さほど深くはなかったそうだ。

潮垣道 (スガチミチ)

馬浴溜池 (ウマアミシグムイ) の前の道が潮垣道 (スガチミチ) で前原と浜原の境界線にあたる。潮垣道 (スガチミチ) は琉球王国時代に海外線を走っていた唯一の道で、与那原から西原を経て、中城の海岸線を伸びていた。当時は、泊を抜け、久場、熱田、渡口まで通じていたが現在は久場で途切れている。また当時はこの潮垣道近くまで海岸線が迫っており、この一帯に広がっていた稲作水田を守る為、石垣を積んで防波堤にしていたとペリーの訪問記に記載されている。


堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ)

公民館のすぐ西側、県道 (ケンドー) 沿いに堀川の前小 (フッチャヌメーグヮ) と呼ばれる場所がある。ここでは西組が綱引きの網を編んでいただという。泊では、昭和初期頃までワラバーツナ (子供の綱引き行事) が開催され、フッチャヌメー (東) とフッチャヌメー小 (西) に分かれて網作りが行われていた。当時はここにも大きなクワディーサーがあり、ウマチーの際はムラ人が集まり、ウンサク (神酒) を飲んだ。また祭祀が終わるとノロと根人 (ニーンチュ) を見送った場所だった。



浜原 (ハマバル)

字泊の海岸側は小字の浜原 (ハマバル) になる。耕作地と海岸沿いは工場地帯になっている。

沖縄電力 吉の浦火力発電所


1968年 (昭和43年) に琉球石油 (現 りゅうせき)、琉球セメントなどの出資により設立された東洋石油精製が1970年 (昭和45年) に中城製油所の操業を開始している。その後、1975年 (昭和50年) に株主でもあった日本石油精製の完全子会社、同年には日本石油精製に合併された。ここに中城製油所が建設されるにあたっては泊、久場の住民は火災が起きた際の不安から反対運動も起こり、工事現場には抗議小屋も作られて、機動隊が出動して睨み合い状態だった。会社と行政は沖縄の将来の為に必要と住民説得に当たったが抗議運動は激しく数名の逮捕者まで出している。おじいによれば、その後、住民間では、抗議運動などしなくてもよかったという意見が多かったという。現在では沖縄電力のLNG (液化天然ガス) 火力発電所となっている。新たな埋立が不要で、大型LNGタンカーの着岸が可能であることから、ここにあった新日本石油(後のENEOS)沖縄油槽所跡地に造られたもので2012年に操業を開始している。


与武野原 (ユンヌバル)

小字泊原の東は小字与武野原 (ユンヌバル) で久場に接している。護佐丸が中城グスクを増築する際に与論島から多くの石モーク (石工) を連れてきたといわれ、死後その一帯に葬ったので、この地域には多くの無縁墓が残っている。そのことからユンヌ (与論) バル という地名がつき、現在では与武野原 (ユンヌバル) と表記されている。このユンヌバルー帯は至る所に墓があった。古い祖先のことを 御世 (ウユー) ということから、ウヨーバルとも呼ばれていた。


カンセンアタイ、米軍ゴミ捨て場

小字泊原の御世城 (ウヨーグスク) から小字与武野原に入った所には琉球王国交易時代に交易船に供出する野菜を作る畑 (アタイ) だったと伝えられており、この辺りはカンセンアタイと呼ばれていた。近くを流れる御世川 (ウヨーガーラ) を利用して畑作が行われていたと考えられている。この辺りは終戦後、米軍がダンプカーでゴミを捨てていた場所で、住民はここから食べ物を競い合うように拾ったという。この話はおじいやおばあからよく聞く。当時米軍は裕福だったのだろう、未使用の缶詰などが捨てられていて、子供はよく拾いに行っていたという。また、おじいが小学生の時には久場の海岸には引き上げ者の船が着く港があり米軍艦船も停泊していて、米兵が捨てたミカンが海に漂っていたそうだ。そのミカンを拾いに行ったという。アメリカのミカンは沖縄のミカンよりも大きくて甘く美味しかったと話していた。

久場への道

御世城 (ウヨーグスク) から北へのウフバル道から東の久場に行く道が分岐している。この道は1909年 (明治42年) に県道 (ケンドー) が出来る以前から集落を結ぶ道として使われていた。県道が出来た後も泊から久場へ行くとき、また久場の人たちが泊や伊舎堂、添石へ行くときはこの道を利用していた。久場へ向かう農道の右側、カンセンアタイの北側はウシヤチャーバルと呼ばれている。この付近をデーグスクから流れてくる御世川 (ウヨーガーラ) があり、ウシヤチャーバル付近には川の水が流れ落ちる落ち口があり、現在でも名残が見られるそうだ。かつては、祭祀に使われる牛を屠殺する場所だったので、この名が付けられたと考えられている。

ヤットゥクルーバル

農道を挟んでウシヤチャーバルと反対側はヤットゥクルーバルと呼ばれる。かつては八つの田圃があったことからこの様に呼ばれる様になったという。御世川 (ウヨーガーラ) の水を利用して水田が拓かれていた。
この付近にも古墓が幾つもの見られる。

馬送り毛 (ウマウクイモー)

久場への農道を進むとの大きな岩がある。その周辺は馬送り毛 (ウマウクイモー) と呼ばれている。馬や豚などの家畜が死んだ時に葬った場所といわれる。また、海岸から身元不明の死体があがった時にもここに埋葬した。昔は各ムラの域内で身元不明の死体が見つかると、それぞれのムラの責任で埋葬 しなければならず、そのため、このような場所は各集落にあり、ムラ有地の利用価値の低い土地がその様な場所に使われていた。


照原 (ティラバル)

小字 泊原の北は小字の照原 (ティラバル) の丘陵の傾斜地になっている。戦前までは少ないながら民家があったが、現在では民家は見られない。ミルクガ-からユーナジー付近への道の北側には多くの墓が造られている。照屋原の北、中城グスクの南側斜面にはかつては照屋村の村拝所が多くみられる。照屋村が添石村と合併し現在の添石集落に移住した後も、添石集落で拝まれている。


オミヤ (お宮)

泊集落から中城グスクに向かう急な坂道のウフバル道沿い、送電線鉄塔の根元にコンクリート製の鳥居と祠がある。この拝所は比較的新しく、1992年に看護学校誘致計画の際に巫者 (ユタ) の提案により建立された。祠内には 嶽火神、五大神国按司農青、 弥勒神菩薩、 天主照毛泊 光大和徳導御神殿と書かれた碑と香炉が置かれている。 沖縄ではシャーマニズムの影響は門中思想、祖先崇拝に始まり、各家庭の日常生活まで大きな影響力がある。その橋渡し役であるユタの発言力は強く、その助言により、お告げの場所に拝所が造られているケースが多くある。


照屋樋川 (ティラヒージャー) [添石集落拝所] (未訪問)

時間がなく訪問できなかったのだが、中城グスクの城郭北側、通称、馬場の東側下方に照屋樋川 (ティラヒージャー) と呼ばれる湧水がある。 戦後、貯水タンクを設置し利用していた。現在は、過去の台風で周辺の岩が崩れ落ち、塞がれてしまい消失している。 この湧水は水が豊富で、かつてこの一帯には照屋村という集落 があったのではないかといわれ、その村の人々がこの照屋樋川 (ティラヒージャー) を利用していたと考えられている。添石では、ハチウビー (新暦1月2日) の際に拝んでいる。


ユシ按司の墓

中城グスクの東方にユシ按司の墓がある。先中城按司系統の按司墓と伝えられているが、 何代目の按司で、いつ頃造られた墓なのか詳細は不明。



古島原 (フルジマバル)

古島原内には添石集落の古島のひとつに当たる照屋村が17世紀半ば迄存在しており、中城グスクの南側崖下の斜面に照屋村の拝所が残っている。森の中には何本か野道があるのだが、自動車道路からの入り口は見当たらず、樹々をかき分けて強引に中に入っていった。あまり人が入らないのだろう、野道は草が生い茂っている。


照屋御嶽 (ティラウタキ) [添石集落拝所]、金満 (カネマン) 御墓 (ウハカ)、かねまん之碑

中城グスクーの郭の東側崖下に照屋御嶽 (ティラウタキ) がある。琉球国由来記の照屋ノ嶽に相当する。かつて、この付近にあった照屋村の御嶽と考えられている。照屋村は、17世紀後半から18世紀前半にかけて添石村に統合されたと伝えられている。ここにはかねまん之碑と記された墓碑が建ち、かねまんといわれる墓がある。先中城按司 ( (ウサチナカグスクアジ) 系統の墓と考えられている。墓に散在していた遺骨を先中城按司の子孫にあたる泊大屋が取りまとめ、葬っ た際に多くの古銭が出てきたことで「かねまん」と」呼ばれている。この墓は泊大屋によって拝まれている。鎌倉芳太郎ノートにはかねまん之碑が建てられた顛末が記載されている。

ウドゥイヤーの上方に灯炉のような火 の光があり、上出栄の山戸がそれを見て不審に思い、その火を追いかけたが何もなかった。 また、同じ場所で、白衣装のようなものを屋号上知念小の山戸が見て不審に思い追いかけて行くと、そこには松の根があるだけで何も見えなかった。 このようなことから、ムラが易者に占わせたところ、 照屋御嶽に土砂に埋まっている遺骨がありそれがとても苦しんでいるので、墓を立てて安置するよう諭された。 念のため他の易者にも占ってもらったところ、 同じようなことを言われたため、急いで墓を造らないと不審なことが治まらないということで、ムラ人が協議をして明治29年8月30日から9月3日まで祈願し、9月4日から墓を造り完成させ、13日に厨子を安置したという。


照屋御井戸 (ティラウカー)  [添石集落拝所]

県道146号線から中城グスクへ向かう左側 の道沿いに階段があり、その上方に照屋御井戸 (ティラウカー) がある。この井戸も、照屋樋川 (ティラヒージャー) と同様に、かつて照屋村の人々が利用した井戸と考えられる。 現在は、コンクリートで補修されているが、水は確認できない。


与喜屋 (ヨキヤ) ノロの墓  [添石集落拝所]

中城グスク三の郭の東側崖下の泊地区川尻原にヨキヤノロの墓がある。森の中を探しまくるようやく見つけた。樹々に覆われて一部しか見えない。樹々を伐採して全体が見える写真が資料にあったので、合わせて載せておく。この墓には歴代のヨキヤノロ (添石ノロ) が葬られていると伝えられ、墓室内に14基の厨子甕が納められているそうだ。

この与喜屋ノロの墓から中城グスクの三の郭の外側へは道があり、石畳の階段が設けられている。中城グスクからは通行止めでアクセスできない。この道がいつ頃からあったのかは不明。



川尻原 (カージリバル)

字 泊の最北の小字の川尻原 (カージリバル) には丘陵の上標高約160mに中城グスクがある。この中城グスクには1月5日と10日に訪問している。中城グスクの訪問レポートは別途。


伊寿留 (イジュルン) 按司の墓 [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]

中城グスクの東側、馬場を通り抜けた森の中に伊寿留 (イジュルン) 按司の墓がある。この伊寿留按司は護佐丸の長兄で、伊舎堂邑 (古島) に住んでいたという。伊寿留按司は争い事を好まず、父の山田按司や弟の護佐丸とは異なり、農業に励んでいた。伊寿留按司の墓は岩をくり抜いたフィンチャー墓 (掘り込み墓) になっている。 戦時中、日本軍の陣地として利用される予定で一度骨壺が出されたが、結局陣地としては使用されなかった。現在は子孫である屋号伊舎堂安里によって管理され、神御清明 (カミウシーミー) で拝まれている。

上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]

中城グスクの東の馬場跡の近くに上伊舎堂ヌ殿 (イィシャドウヌトゥン) があった場所がある。上伊舎堂の殿と書かれ た標柱が立っている。ここは伊舎堂邑の発祥地と伝えられており、琉球国由来記にもその名がみられる。かつてはこの場所で祭祀が行われていた。現在は親殿内小 (エードゥンチグヮ) にウンチケー (お招き) され、そこで祭祀が行われている。

伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー) [伊舎堂集落拝所 1月10日 訪問]

上伊舎堂の殿の近くには伊舎堂ヌ井戸 (イシャドウヌカー) がある。傾斜地に石が円状に積まれている。 現在水は枯れているが、伊舎堂集落住民が古島にいた頃はこの井戸を利用していたと伝えられている。現在もハチウビー (新暦1月2日) で拝まれている。

泊集落の古島は台グスクの下辺りにあったと伝わっている。この場所は字泊ではなく字久場にある。今日はおじいとの話しに時間を使ったので、ここには来れなかった。次回は久場を訪れる予定なので、その際に訪問予定。


久場にある泊集落の拝所

  • 御先中城按司墓 (ウサチナカグスクアジバカ)
  • 台 (デー) グスクの火ヌ神 (ヒヌカン)
  • 照屋 (ティーラ) 火ヌ神 (ヒヌカン)


今日も日没まで集落巡りをしたので、日が暮れてからの帰宅したのは7時半を過ぎていた。

参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ1 泊 (2016 中城村教育委員会)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 4 伊舎堂 (2016 中城村教育委員会)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 5 添石 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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