Okinawa 沖縄 #2 Day 252 (23/11/23) 旧首里西原村 (4) Sueyoshi Area 首里末吉町

旧首里西原村 首里末吉町 (すえよし、シーシー)

上島 (ウィ―ジマ)

  • 上島 (ウィ―ジマ)、上道 (ウィーミチ) 
  • 西ヌ井泉 (イリヌカー) / 大樋泉 (ウフフィジャー)
  • 井戸小坂 (カーグヮーフィラ)、中ヌ井泉 (ナーカヌカー)
  • 下門 (シムジョー)、新垣 (アラカチ) 家住宅
  • 東ヌ樋井 (アガリヌカー)
  • カニマン御嶽
  • 旧村屋跡 (ムラヤー)、七つの村立て旧家
  • 祝女殿内跡 (ヌルドゥンチ)
  • 前ヌ毛 (メーヌモー、前の広場)、末吉の獅子舞
  • 宜野湾御殿 (ジーノンウドゥン) の墓、御殿山
  • 辺戸御井戸 (フィドゥウガー)
  • 産御井戸 (ウブガー、臍見井戸 フスミーガー)

下島 (シチャジマ)

  • 末吉公民館、製糖小屋 (サーターヤー) 跡
  • 水タンク (西側)
  • 水タンク (東側)
  • 前道 (メーミチ)
  • 末吉橋 (シィシーバシ)
  • 末吉新橋 (シィシーミーバシ)
  • 中の堰跡 (ナカンヰー)
  • 湧田原 (ワクタバル)、湧田道 (ワクタミチ)
  • 宇久田原 (ウクタバル)、宇久田道 (ウクタミチ)
  • 上の堰跡 (ウィーンヰー)
  • 瑞穂酒造

末吉集落周辺

  • 川崎坂 (カーサチビラ) と川崎橋 (カーサチバシ)
  • 末吉ノロの御神屋
  • 西ヌ井泉小 (イリヌカーグヮ)
  • 大道原 (ウフドゥバル)、大道道 (ウフドゥミチ)
  • ウェーナグ原、ウェーナグ道
  • 末吉の山 (シーシヌヤマ)、サンモウジ、墓地
  • 前原 (メーバル)
  • 瘤毛 (グーフモー)
  • ウンマサギ毛 (モー)
  • 傾山原 (カシヤマバル)
  • 龕屋跡 (ガンヤー)

末吉村の聖域

  • 樫木道 (チャーギミチ)
  • 御神山の千貫松
  • 遍照寺跡 (旧万寿寺、末吉の寺 シイシティラ)
  • 社壇の坂 (サダンヌフィラ、末吉宮磴道)
  • 漢那親雲上墓碑
  • 末吉宮 (社壇 サダン)
  • 荒神 (コウジン) と夜半参り御嶽 (ヤハンメーリウタキ)
  • 子ヌ方御先龍宮神 (ニーヌファーウサチリュウグウシン)
  • 子ヌ方御井戸 (ニーヌファーウカー)
  • 末吉町四鎮 卯ヌ方拝所
  • 淵毛 (フーチモー)、淵原 (フーチバル)、和合火ヌ神
  • 大名参道
  • 宇天火ヌ神
  • 黄金軸
  • 宇天軸 (ウテンジク)
  • 宇天軸底神弥勒御水 (ウテンジクスクシンミルクウビイ、宇天軸御水)
  • 午之方河神
  • 樫木山 (チャーギヤマ)
  • 末吉陵 (シイシスタマウドゥ)
  • 羽地御殿 (朝秀) の墓 (ハニジウドゥンヌハカ)
  • フシマン洞 (トゥー)

末吉公園

  • クバの拝所
  • 滝見橋
  • 花見橋
  • 劇聖 玉城朝薫生誕三百年記念碑


首里地区の最後の集落の首里末吉町を訪れる。末吉には以前も巡ったことがあるのだが、その時は主要な観光名所と紹介されていたところだけで、末吉集落については深くは見ていなかった。資料では多くのスポットが紹介されていたので、今日から二日かけてみていく。



旧首里西原村 首里末吉町 (すえよし、シーシー)

末吉町は那覇市首里の北西部に位置し、北に大名町、浦添市、東南に平良町、 儀保町、南西に古島、松島に隣接し、首里では石嶺町に次ぐ広大な面積を占める町になる。古くは真和志間切、西原間切に属した村で、かつては純農村地域だった。沖縄方言ではシーシーという。古くは添石、末好とも表記され、集落の背後にある岩山の丘陵をさす背の石 (シーシ) が由来とされている。また、別の説では、末吉の地形から最先端を指した「端の端」の意からスイシと呼ばれていたとも言われている。旧末吉集落は末吉宮一帯の森を背後に現在の1~2丁目にあたり、史跡もここに集中している。
末吉町は、1920年 (大正9年) に首里区に編入され、大正末期に「末吉町」となっている。明治、大正期に平良村の一部を編入したり、一部が大名町になるなど、移り変わりがあったが、戦後首里市と那覇市の合併で、那覇市首里末吉町となった。戦前までは琉球王国時代からの集落とほとんど変わりがなく、民家は上島と下島に限られている。末吉が拡張し始めたのは戦後、本土復帰の1972年以降で安謝川沿いから始まっている。1990年代後半からそれ以外の地域にも民家が建ち始め、現在の三丁目が住宅街に変わっていったのは2000年を過ぎてからになる。

人口については、先に記した民家の拡張と同期しており、明治期の人口は689人だった。沖縄戦もあり、その後この明治期の人口に戻るのは1966年と戦後20年かかっている。人口が増え始めたのは1972年の本土復帰以降で、畑が住宅街に変貌している。人口は2010年頃をピークに減少に転じ、その傾向は継続している。末吉町は首里区全体の人口の6.8%を占め、4番目に人口の多い町になる。

上島

末吉村が始まった上島 (ウィ―ジマ) 地域から見ていく。


上島 (ウィ―ジマ)、上道 (ウィーミチ) 

集落の北東の上道 (ウィーミチ) の上部の位置していた上島には、戦前まで巫殿内 (ヌンドゥンチ) や大東 (ウフアガリ) といった集落草分けの旧家が並んでいた。


西ヌ井泉 (イリヌカー) / 大樋泉 (ウフフィジャー)

末吉の上島 (ウィージマ) の西側の上道 (ウィーミチ) 沿いにには、西ヌ井泉 (イリヌカー) が残っている。末吉は湧き水が豊富で、その湧水を溜めた井戸が点在している。この後に訪れる中ヌ井泉、西ヌ井泉と共に村井 (ムラガー、村の共同井戸) として生活用水や 農業用水に使われていた。 ウマチーでは、この三つの井戸を参拝している。 その中でも、斜面を掘り崩し、垂直のみごとな石積で囲まれたこの西ヌ井泉は、規模も大きく、水量も豊かで、干ばつでも枯れることがなく、大樋泉 (ウフフィジャー) と呼ばれ、村でもっとも利用された涌井だった。


井戸小坂 (カーグヮーフィラ)、中ヌ井泉 (ナーカヌカー)

上道 (ウィーミチ) を東に進むと、途中に現在の集落 (下島 シチャジマ) へ降りていく石造りの階段があり井戸小坂 (カーグヮーフィラ) と呼ばれている。戦前までこのフィラで集落を東西に分け綱引き行事を行ったといわれる。その井戸小坂の途中に村井 (ムラガー) だった中ヌ井泉 (ナーカヌカー) と呼ばれる井戸がある。残念だが水は涸れてしまったそうだ。


下門 (シムジョー)、新垣 (アラカチ) 家住宅

中ヌ井泉の北側、上道 (ウィミチ) 沿いに石垣に囲まれた古民家の屋号 下門 (シムジョー) の新垣 (アラカチ) 家住宅があり、現在は沖縄そばの店「しむじょう」が営まれている。 ここの主屋は国の登録有形文化財に指定されている。 新垣家住宅は、主屋を中心にヒ ンプンや石垣、ゥワーフール (豚便所)、庭園の池など古い住宅の形式が残っている。1896年ごろ建てた主屋は沖縄戦で損壊し、1956年に再建されている。


東ヌ樋井 (アガリヌカー)

更に上道 (ウィーミチ) を東に進むと三つ目の村井 (ムラガー) の最も東 (アガリ) に位置する東ヌ樋井 (アガリヌカー) が集落へ下る石階段の途中に東ヌ樋井 (アガリヌカー) がある。


カニマン御嶽

東ヌ樋井 (アガリヌカー) の所の下島 (シチャジマ) に下りる急坂の右手の崖の僅かな緩傾斜地にカニマン御嶽と呼ばれる拝所がある。この拝所には25の神がそれぞれに香炉が置かれて祀られている。手前から、天照の宮拝所 (あまてらすのみや)、宇天天の川拝所 (うてんあまのかわ)、五臓母神拝所 (ごぞうははしん)、神七役場拝所 (かみななやくば)、神七役場 火の神 (かみななやくば ひぬかん)、御世子の方拝所 (うゆうぬのふぁ)、御天火の神・国世火の神・龍宮火の神、御先井戸神、御先子の方拝所、御先火の神、玉城天孫 國王、金満郭孟達拝所 (かにまんかくもうたつ)、金満家第十二世、天照須佐之男命 (あまてらす すさのおのみこと)、子孫一族拝所、東の井戸隣り (あがりのかーとなり)、御世神拝所 (うゆう)、御先底神龍宮 (うさちすくしん)、火の神、雨乞 (あまごい ) の拝所

更に奥には、首里四鎮 (しゅりゆちん)、子の方拝所、末吉町四鎮 (すえよしちょうゆちん)、子の方拝所、村中軸、末吉之殿、村中軸、火の神、末吉村五穀豊穣井戸拝所、御天七火の神・御嶽七火の神・龍宮七火の神、福禄寿神拝所 (ふくろくじゅ)、宇天軸拝所 (うてんじゅく)、末吉村最初の御先火の神、御天九火の神・御嶽九火の神・龍宮九火の神 が祀られている。村に点在していた拝所を合祀したのだろうか?


旧村屋跡 (ムラヤー)、村建七家

東ヌ樋井 (アガリヌカー) から上道を東に進むと末吉公園駐車場とその奥に空き地がある。ここには、戦前までは、上道 (ウィミチ) 沿いの北側には村建七家の旧家 (下に記載した太字の屋号) がまとまって建っており、末吉村村発祥地でもあり、村の中心部だった。西から大屋 (ウフヤ)川ヌ上 (カーヌウィー) とその奥に仲門小 (七家ではない)、村屋 (ムラヤー) と前には新野原 (ミーヤ)、奥に東山ヌ根 (ヤマンニー)東門 (アガリジョー) と奥に仲ヒザ (七家ではない)、大東 (ウフアガリ) と奥にノロ殿内が置かれていた。旧村屋があった場所は現在では駐車場となっている。大東 (ウフアガリ) を出自とする豪力のヒャークーウメー(百歳老翁)と呼ばれた人は、若い頃、三司官になる前に末吉地頭であった具志頭親方蔡温 (1682年 - 1762年) の駕籠舁きをつとめていたといい、そのころの蔡温は重かったと語っていたと伝わっている。


祝女殿内跡 (ヌルドゥンチ)

上で述べた西原間切末吉村時代の末吉祝女 (ノロ、ヌル) の屋敷跡 (約500㎡) にはノロの住居と御神屋が設けられていた。この周辺は、戦後、末吉公園の敷地となり、祝女殿内は集落の西方の末吉三丁目に移転し、そこの神屋には天帝子ら三神、弁財天の掛け軸、ヒヌカンを祀っている。(後述)  聞得大君率いる神女組織では、西之平等の儀保殿内の大阿母志良礼の管轄下で、現在の大名、石嶺を含んだ末吉村の御嶽、火の神、殿などの祭祀、年中行事を司っていた。那覇市により発掘調査が行われ、石積みの門構えと馬屋、ゥワーフール (豚便所) が残っている。


前ヌ毛 (メーヌモー、前の広場)、末吉の獅子舞

ここから末吉公園への下り口は前ヌ毛 (メーヌモー、前の広場) で、上島時代の村庭 (ムラナ―) に当たり、村の屋外集会所だった。

ここでは毎年、旧暦十五夜では、首里区では 汀良町に次いで250年以上の伝統を誇る獅子舞が披露されていた。末吉村が、西原間切に属していた頃に、西原村の幸地から習ったとされ、空手の型や直立姿勢を取り入れたりする荒々しい舞いが特徴という。琉球最後の国王尚泰の冊封 (1866年) 寅の御冠船後の奉祝に出演したと伝えられ、長く途絶えていたのを 1970年 (昭和45年) に復活させ、以降、保存会が継承している。


宜野湾御殿 (ジーノンウドゥン) の墓、御殿山

前ヌ毛から集落背後に聳える御殿山への石畳道がある。そこを進むと、琉球最後の国王の尚泰の第二子尚寅を始祖とする宜野湾御殿の亀甲墓がある。元々は18世紀初頭に創建された具志川御殿 (尚真王第三王子尚綱) の墓だったが、宜野湾御殿に譲渡され戦後に修復されている。この墓は4千坪に及ぶ広さで墓守の住居も置かれていた。 御殿墓が造られたことで、この一帯帯の森を御殿山と呼んでいる。

最後の琉球王尚泰の第二子尚寅の起こした宜野湾御殿 (ジノーンウドゥン) の墓で、那覇市指定文化財となっている。当初は、具志頭御殿(十一世尚貞第三子尚綱の後胤) の墓であったが、宜野湾御殿へ譲渡され、四千坪にも及ぶ墓域で墓守りの住居もおかれていたそうだ。沖縄戦で墓も損傷し墓守りの住居も石積みの礎石を残して焼失し、その後、1981年から修復に着手復原された。この辺りは御殿の墓が造られたことで、いつしか一帯の林を御殿山と呼ばれる様になった。


辺戸御井戸 (フィドゥウガー)

宜野湾御殿への石畳道の途中から末吉宮方向に伸びる山道があった。そこを進むと現在では水は涸れてしまっているが辺戸御井戸 (フィドゥウガー) と呼ばれる井戸跡がある。辺戸御井戸 (フィドゥウガー) は国頭村の辺戸へのお通し井戸 (遥拝の井泉) と伝えられ、国頭村の辺戸からここへ水が流れてきていると信じられていた。末吉村は北の方から移住して来たとの言い伝えが遣っている。この古い泉の上 (北) の方には国頭毛小 (クンジャンモーグヮ) と呼ばれる小丘があるので、国頭とは何らかの関係があるのだろう。


大御井戸 / 産御井戸 (ウフウガー、ウブガー、臍見井戸 フスミーガー)

辺戸御井戸 (フィドゥウガー) の直ぐ上にも井戸がある。大御井戸 (ウフウガー) または産御井戸 (ウブウカー) と呼ばれている。この井泉は末吉の村建てと共に使用されたと伝わっている。別名に臍見井戸 (フスミーガー) ともあり、フスミーとは初湯に因む「フスミー (勝見)」だそうだ。

この上にも拝所が置かれている。誰かの墓なのか、何かを祀っているのかは不明。この地域は御願山 (ウガンヤマ) とも呼ばれ聖域になっており、幾つか香炉が置かれていると言うので、その一つだろう。


下島 (シチャジマ)

次に上道から下の傾斜地に集落が広がる下島 (シチャジマ) を見ていく。下島 (シチャジマ) は綺麗に碁盤状に区画整理されているので、地割制度が導入された1737年以降にこのようになったと思われる。下島 (シチャジマ) は丘の上部の上道を境として、丘の斜面から、下の安謝川の間に下島 (シチャジマ) にかけて集落が広がっていた。現在の一丁目と二丁目にまたがっている。この下島には拝所など史跡は紹介されていない。元々無いのかは分からないが、先に訪れたカニマン御嶽に数多くの拝所が合祀されていたので、これらの拝所が下島にもかつては散在していたのかも知れない。


末吉公民館、製糖小屋 (サーターヤー) 跡

下島の下方、安謝川に近い所に、上島から移設されたかつての村屋が公民館として新たに建てられている。元々は製糖小屋 (サーターヤー) があった場所になる。末吉村にはそれぞれが血縁者で構成された10組の砂糖小屋が存在していた。所在地については公民館がある場所以外は記載がないので、村が共同経営していたこの場所にまとまって置かれていたのだろう。サトウキビ畑はここの末吉二丁目の製糖小屋跡の西側三丁目まで広がり、安謝川の末吉橋渡った現在の一丁目の一部と四丁目も畑になっていた。戦後、日産15トンの小型工場に移行したが、大型工場の出現でその役割を終えている。公民館前の駐車場には恒例の酸素ボンベの鐘が置かれている。珍しく緑色に塗られていた。


水タンク (西側)

西ヌ井泉 (イリヌカー) から井小坂 (カーグヮビラ) を下っていった所にコンクリート造りの、水タンクが残っている。西ヌ井泉を水源として水道管で水を引いている。簡易水道で、これにより坂の上まで毎日水を汲みにいく苦労から解放された。各戸に水道が敷設された現在でも洗濯などで生活用水として使われているそうだ。


水タンク (東側)

下島の東側にも水タンクがあった。この水源も西側と同様に西ヌ井泉 (イリヌカー) になる。

前道 (メーミチ)

下島は安謝川の辺りまで迫り、安謝川沿いには前道が通っている。この道が末吉村の境界線になる。

末吉橋 (シィシーバシ)

安謝川に架かる橋が末吉橋で戦前まではこの橋が末吉村への唯一の玄関口だった。小さな橋で今でも人道橋で自動車は通れない。資料には大正初期に竣工した昔のアーチ橋の石造末吉橋 (左下) の写真があった。

末吉新橋 (シィシミーバシ)

末吉橋から安謝川を少し下流の所にもう一つ橋が架かっている。末吉新橋といい、新しく架けられたもので、自動車が通る広い橋になって主要道路となっている。

中の堰跡 (ナカンヰー)

末吉新橋から安謝川の少し下流にはヰーと呼ぶ井堰があったという。川の中に石垣を積んで堰をつくって潭水をし、湧田原や宇久田原の水田へ水を引いていた。農民が田畑の行き戻り手足や農具を洗い、また甘藷や解体した動物の洗い場でもあり、女たちは石畳の石を洗濯石として洗濯に使い、水浴びしたり泳いだり、馬を浴びせていた。子供たちの鮒や蝦の釣り場ともなっていた。水田がなくなると共に、戦後に撤去されてしまった。その場所を覗いて見ると、撤去されてそれらしきものはないのだが、少し石積みが残っている様な感じだった。資料によると、下流の安謝川河口までには三つの井堰 (ヰー) が設けられていた。ここは真ん中にあったのでナカンヰーと名付けられた。上の堰跡 (ウィーンヰー) 上のウィンヰーは、末吉橋近くにあった小規模のもので、大規模の下の堰跡 (シチャンヰー) は安謝川河口の近くに造られていた。資料 (末吉のイー 安謝川の井堰に関する資料 伊良波賢弥) には取り壊される前と後の写真 (下) が載せられていた

湧田原 (ワクタバル)、湧田道 (ワクタミチ)

末吉四丁目には湧田と呼ばれた場所がある。 戦前は水田があり、中堰 (ナカンイー) から水路を設け水を引いていた。作物の湧くほど成育する地という事で湧田原 (ワクタバル) と呼ばれていた。水路に沿って涌田道と呼ぶ野道が走っていた。区画整理でよって涌田道はのアスファルト道路になり、戦前は民家などはなく一面田畑だったこの場所は住宅が建ち、末吉東公園となっている。

宇久田原 (ウクタバル)、宇久田道 (ウクタミチ)

安謝川に架かる川崎橋を古島方面に上がり県道82号線 (那覇糸満線) を渡った辺りは宇久田原 (ウクタバル) と呼ばれた地域になり、この地も戦前は水田地帯だった。ムラウチ (集落) から最も離れた水田地帯だったので、ウク (奥) の田原の意味でこう呼ばれた。この水田地帯には宇久田道 (ウクタミチ) の野道が通っていたが、現在では水田や畑は姿を消し、住宅街になっている。

上の堰跡 (ウィーンヰー)

末吉にはもう一つ堰 (ヰー) である上の堰跡 (ウィーンヰー) があったそうだが、資料によってその場所が食い違っていた。「首里の地名」では末吉橋近くとあり、「末吉のイー 安謝川の井堰に関する資料」では特定が難しいとしてはいるが、末吉公園内の安謝川の場所を示していた。後者の資料の示した場所の写真は下のもの。残念ながら取り壊される前の写真は見当たらなかった。

瑞穂酒造

末吉新橋を渡った末吉四丁目には、1848年 (尚泰1年) 創業の泡盛造り酒屋の瑞穂酒造工場が建って入り。首里では最も古い酒蔵だそうだ。初代玉那覇山戸が鳥小堀村 (鳥堀町1丁目)  の鳥堀交差点近くで開業したのが始まり。四代目の時、1969年 (昭和44年) に (旧首里市会議員) が水量が豊富な酒仕込みに適した硬水 が年中湧出する末吉町のこの場所に工場を移し「天龍蔵」と命名している。


末吉集落周辺

以上で末吉集落の上島と下島の散策だが、末吉はその後拡張しているので、今度はかつての末吉集落の周辺を見ていく。まずは末吉集落の西側現在では末吉三丁目二なっている辺りを散策する。戦前はこの辺りには民家は全くなく、耕作地になっていた。民家が増え始めたのは1990年代後半からで、現在は地域全土が住宅地になっている。


川崎坂 (カーサチビラ) と川崎橋 (カーサチバシ)

西隣の古島から末吉には緩やかな坂道を下り安謝川に架かる川崎橋を渡る。渡ったところは現在は末吉三丁目でかつてはこの一帯は川崎原と呼ばれていた。末吉へ自動車で入る道は限られており、この川崎橋か末吉新橋を渡る事になる。末吉に入ってからは登り坂になり道幅は狭くなるのだが、交通量はかなり多く、少し驚きでもあった。昔は川崎坂 (カーサチビラ) というもっと急な坂だったそうだが、区画整理で削られて緩やかになっている。


末吉ノロの御神屋

川崎橋から末吉に入り坂道を進むと三叉路の角に旧ノロ殿内から移転再建されたノロ御神屋がある。代々ノロを司っていた玉城家の住居の隣に建てられている。神屋の中には神棚仏壇が置かれ、旧神屋とほぼ同じ作りになっている。 右側の仏壇には天帝子 (ティンテーシ)、ノロの先祖の奴留大神 (ヌル・ウシジン)、末吉に移ってきた辺戸天孫子の子 (孫) の辺土野主 (ヒドゥヌ ヌーシジ) を祀っている。その隣には弁財天の掛け軸が掲げられ香炉が置かれている。その隣には三つの香炉が置かれ火の神を祀り、更にその隣には大里大君巫殿内の三男で婿養子の末吉親雲上 (シーシペーチン) の位牌、右端には火の神を祀っている。


西ヌ井泉小 (イリヌカーグヮ)

末吉ノロの御神屋の東の住宅街の中にも井戸跡があるとの情報があった。末吉集落の上道に通じるに急な坂道を登ると住宅の間に狭い通路が設けられていた。多分これが井戸への道と思い中に入って行くが途中で封鎖されていた。道に戻り別の道を探す。住宅建設の現場があり作業者に井戸を尋ねると工場現場にそれらしきものがあるという。工事現場に入れてもらい井戸跡を見学した。先に訪れた西ヌ井泉 (イリヌカー) より更に西の三丁目にあるので西ヌ井泉小 (イリヌカーグヮ) と呼ばれている。水は涸れており、石積みも崩れてコンクリートブロックで修復されている。香炉が井戸の上に置かれていた。

大道原 (ウフドゥバル)、大道道 (ウフドゥミチ)

ノロ御神屋の北側は大道原 (ウフドゥバル) と呼ばれた地域で中空にむかつて大きく弓なりに撓った土地を意味している。大道原の真ん中を軍道1号線 (現在の330号線) に向けて大道道 (ウフドゥミチ) が通っている。浦添市内間、古島、末吉の境界線に伸びている。この道も西から末吉集落に入る道だった。この道も交通量が多く感じた。大道原は戦前は畑が広がって、民家はほとんど無かったが現在では住宅地となっている。

ウェーナグ原、ウェーナグ道

大道道の途中から北へ丘を登って行く道がある。ウェーナグ道で上島の上道に通じている。東の330号線からと先程の末吉ノロの御神屋からの両方向から大道道を進む自動車は殆どが大道道からこのウェーナグ道に入って行く。末吉ノロの御神屋から西ヌ井泉小のある急な坂道も上道に通じるのだが、かなり急なので、このウェーナグ道を通るのが一般的な様だ。この地はウェーナグ原と呼ばれ、ウェナギ原から変化した地名で「上の方が崖になっている原」の意味になる。この地域も戦前には民家はほとんどなかったのだが、今では住宅街と変わっている。

末吉の山 (シーシヌヤマ)、サンモウジ、墓地

ウェーナグ道を登る切ると北側は末吉の山 (シーシヌヤマ) と呼ばれる丘陵が東に伸びている。この丘陵は末吉集落の後方から太平橋の首里平良町まで続いている。遠望すると亀が東の方へ向いて通っている山容に見えることから、冊封使など往時の中国人は、この末吉山を亀山の修辞で呼んだという。
ウェーナグ道からはこの丘陵部分は御殿山と呼ばれるが、この御殿山を越えて大名集落の石屑 (イサグ) への野道があったそうだ。イサグに上る野道に沿ってサンモウジと呼ぶ岩があったと伝わっているが現在では消滅している。那覇の辻遊廓の近くにも三文珠 (サンモウジ) があるのだが、ここのサンモウジにも全く同じ伝承が残っている。程順則 (名護親方寵文 ナグウェーカタちょうぶん 1663~1734年)、スグリ山田と呼ばれた阮瓚 (山田親雲上龍文: 1678 ~ 1744年)、 三司官の蔡温 (具志頭親方文若: 1682~1761年) の三賢人が琉球の国事について語り合った場所という。この逸話は那覇の辻にある三文珠 (サンモウジ) に伝わるものと同じだ。真偽はかなり怪しく後からこじつけたものだろう。
この辺りから上島までの御殿山の傾斜地は部落の墓地になっている。多くの墓が造られており、その中には末吉村の村立ての旧家の墓もあった。

次には末吉集落を下り、安謝川の南岸を見ていく。安謝川の南地域は末吉四丁目と末吉一丁目の一部が含まれているが、戦前までは民家は無く、安謝川沿い一帯は畑地域だった。


前原 (メーバル)

末吉橋を南に渡った地域は間切時代には前原と呼ばれた地だった。北を後背にした集落の南側 (前面) に位置することからこう呼ばれていた。前原から南は登りの傾斜地で下の右に写真に見えるゆいレールが通る首里への県道82号線 (那覇~糸満線、環状二号線) までが首里末吉町になる。この道がが古島との境界線になっている。


瘤毛 (グーフモー)

前原の傾斜地を登った所はかつては小さな独立丘だった。瘤の様な丘だったので沖縄中南部方言でグーフ (瘤) 毛 (モー) と呼ばれていた。その東の脇の階段を安謝川方面へ降りて行くと、階段の下に小さな祠があったそうだ。 どうも現在では撤去されてしまったようで、その拝所の台だけが残っている。この拝所は末吉村の風水 (フンシ) 神で、かつては瘤毛 (グーフモー)の中ほどに平坦地を造り溜池も造って祀っていたという。この溜池が火災から末吉村を守もるフンシグムイ (風水池) だったと思われる。

ウンマサギ毛 (モー)

現在は末吉公園の入口になっている辺りには屹立した円錐状の稍々高めの独立丘があったのだが、ゆいレール不明走る県道82号線 (那覇~糸満線、環状二号線) の開通によって姿を消している。この場所は斃死した家畜を埋めた場所と伝わっている。ウンマサギ毛の脇を通るマカンミチ (真嘉比道) がこの地点から急傾斜の下りになっていたことからウンマサガイ(そこは下り) と呼ばれ、ウンマサギに変化し たとの説や、先端が断崖になった地形をサギといっていることからウンマサキ (此所は先端) からウンマサギに変化した説がある。

傾山原 (カシヤマバル)

ウンマサギ毛の北麓の谷壁状になった急傾斜地は傾山原 (カシヤマバル) と呼ばれ一帯は畑地だった。カシヤマとは傾斜地を意味している。

龕屋跡 (ガンヤー)

傾山原からウンマサギ毛への道沿いにかつては龕屋が置かれていたという。現在は住宅街となっている。200年ほど前に、平良村のシーシ (獅子首) と末吉の龕と交換したとの言い伝えがある。


末吉の聖域

末吉村の拝所が集中しているのが集落の背後に横たわる末吉の山 (シーシヌヤマ) で、末吉宮が鎮座している。末吉の山は遠くから見ると、亀が東の方へ向いて這っている姿に似ているところから冊封使などが亀山と呼んでいた。末吉の山の西の一角には宜野湾御殿の墓がある御殿山、東側には末吉陵や羽地御殿 (朝秀) の墓などがある樫木ヌ山 (チャーギヌヤマ)  と呼ばれている。この末吉の山には多くの拝所が見られるのだが、村立当時の末吉村の聖域 (腰当て クサティ) がどこに当たるのかは明確に書いている資料は無かった。末吉宮は末吉山の中で最も重要な拝所で、現在では末吉村の御願所なのだが、琉球王国時代は首里王府の拝所で末吉村住民とは直接の関係はなかったのではと思われる。末吉村にとっては、大御井戸 / 産御井戸 (ウフウガー、ウブガー、臍見井戸 フスミーガー)、辺戸御井戸 (フィドゥウガー) がある御願山と末吉宮の西側にある荒神と夜半参り御嶽が密接な御願所だったのでは無いだろうか?
まずは末吉宮を見ていくが、この末吉宮への道は幾つもある。その参道を辿りながらその道沿いにある拝所も合わせて見ていく。

樫木道 (チャーギミチ)

上島から前ヌ毛を通り道を東に進むと石畳の道が樫木ヌ山 (チャーギヌヤマ) のフシマントゥーから遍照寺跡近くまで続いている。この道は樫木道 (チャーギミチ) と呼ばれている。この一帯は、チャーギ (樫木、イヌマキ) が密生していた事から、樫木ヌ山 (チャーギヌヤマ) と呼ばれた王府の指定御用林だった。樫木道 (チャーギミチ) は当初は赤土道だったのを末吉村の野原親雲上が自費にて石道に改修したと伝わっており、その石道がほぼ当時のままに残っている。


御神山の千貫松

樫木道 (チャーギミチ) の遍照寺跡辺り一帯は、昔は松林で、大御神や御神小などの拝所や末吉宮があり、御神山と呼ばれていた。ここの松は古い大木で、千貫で売れたことから、千貫松と呼ばれるようになったという。山の向かい側に、アカンチャーモー (赤土毛) と称する村の松苗床があったが、現在では残っていない。また、かつての松苗床の西側には、王府時代に末吉宮参詣をする国王を村の長老たちが迎えた御待所 (ウマチドゥクル) があったのだが、正確な場所は不明。石でふちを取り、敷物が敷けるように整備されていたそうだ。


遍照寺跡 (旧万寿寺、末吉の寺 シイシティラ)

樫木道 (チャーギミチ) から末吉宮への参道の社壇の坂 (サダンヌフィラ、末吉宮磴道) が分岐しており、その入り口左側に琉球鎮守七社 ( (波之上山護国寺、沖山臨海寺、姑射山神応寺、天久山聖現寺、普天間山神宮寺、金峰山観音寺、大慶山遍照寺) の一つだった大慶山遍照寺跡がある。

末吉宮に併置された万寿寺の開基年代は中山世鑑、琉球神道記、球陽の記述に基づき察度王代 (1350 - 1395年) とする説と琉球国由来記、琉球国旧記から第一尚氏の尚泰久代 (1454 - 1460年) とする説がある。
中山伝信録によれば万寿寺は尚寧王の時代、1610年 (万暦38年) に破壊されたとあり、1609年(万暦37年) の薩摩の琉球侵攻によって焼失したとみられる。 
万寿寺を始め琉球鎮守七社全ては開基当初より禅宗臨済宗に属していたが1671年 (尚貞3年) に護国寺の住持頼昌法印が首里王府に密教への改宗を具申し真言宗となっている。

1763年 (尚穆12年) に薩摩藩から第十代将軍徳川家治の長女が万寿姫なので、その名を避けて万寿寺を遍照寺と改めるように波之上山護国寺経由で王府へ通達され改名されている。ただ、村人からは末吉の寺 (シイシティラ) と呼ばれていた。

沖縄戦ではこの末吉山 (大名高地) は激戦地で末吉宮と遍照寺は焼失。戦後、馬場法舟住職によってトタン葺の庵が設建されたが、その後は無住となり、普天間山神宮寺の管理下に置かれていたが不審火で仏像、堂宇が灰燼に帰し、それ以降は再建はされず荒れ放題となってしまい、沖縄市に移転している。現在では寺跡に一部石垣や礎石、香炉が残っているのみだ。
万寿寺には1457年 (尚泰久4年) に鋳造された梵鐘があり玉城朝薫作の組踊の執心鐘入の舞台となったとされている。この鐘にまつわる琉歌に「末吉の開門鐘や首里の開門鐘ともて、無蔵おこちやらち、わ肝やにゆせ (末吉の寺の夜明けを告げる鐘を、首里の鐘と思い違いして愛しい貴方を早く起して帰し、心が傷む)」とある。中城若松が懸想された娘から逃れるため、この鐘に若松を隠しかくまった鐘とされている。この梵鐘は県立博物館に保管されているそうだ。組踊の執心鐘入は能や歌舞伎の道成寺と同じく平安時代の仏教説話に淵源をもつ道成寺説話を題材としている。玉城朝薫が首里王府の命を受けて江戸に上った際に能の道成寺を取材し、琉球の組踊に作り直し、能や歌舞伎とは異なる独特の世界を創作している。


社壇の坂 (サダンヌフィラ、末吉宮磴道)

遍照寺跡がある樫木道 (チャーギミチ) から末吉宮への石畳みの表参道である社壇の坂 (サダンヌフィラ、末吉宮磴道) を進んでいく。村人はトードーと呼んでいる道になる。この社壇の坂は、末吉宮磴道として1936年 (昭11年) に国宝に指定されたが、沖縄戦で戦禍に遭い、1969年から同71年にかけて復元されている。参道入口からしばらく行くと磴道は急坂になり祭場に続いている。


漢那親雲上墓碑

表参道である社壇の坂の途中に左への分岐道があった。その道の奥には首里秦姓門中の元祖の漢那親雲上墓碑が置かれている。
約300年程前尚寧王世代に金武町で生まれ首里王府 (尚豊王) に使えていた金武間切漢那村の脇地頭の漢那親雲上が、中国へ使節として渡った際に上司が病没したため、その遺品と公用の重要物資を積んで帰路についたが、船員が物資の掠奪を企て反乱を起こし漢那親雲上は海に突き落とされた。鮫 (鱶) に助けられ、豊見城の我那覇海岸にうちあげられ我那覇のノロに助けられた。漢那親雲上は船が到着しないうちに首里王府にこの事を伝え、積荷は無事に確保し首里王府に届けられた。その功績で王府から褒美をもらったという。金武町の子孫の小橋川家では鮫の肉を食うことを禁じられており、庭には漢那親雲上が帰国後作った鮫の石の彫り物が置かれているそうだ。毎年助けられたお礼として、我那覇に拝みに来ているという。ここにある墓碑は漢那親雲上の子孫が沖縄戦で親族の多くが亡くなり、生存した一族の結束を強めるために建立したもの。ちなみに墓碑の台座は鮫になっている。
漢那親雲上墓碑のすぐ近くにガマの大きな口が空いていた。このガマは沖縄戦で末吉村住民が避難していた洞窟になる。この壕は沖縄戦末期には、島田叡沖縄県知事が那覇の県庁から避難した壕だといわれている。このあと、島田知事一行は繁多川の新壕 (ミィーゴウ) 更に、昭和20年4月25日には真地の四方地の壕 (シッポウジヌガマ 県庁警察部壕) に移り、1ヶ月後に日本軍が首里城本営を放棄した際に最後の議会を開き、南部に撤退していき消息を絶っている。


末吉宮 (社壇 サダン)

社壇の坂を上って行くと社務所がある。珍しく開いている。今回で四回目の訪問だが開いているのは初めてだ。社務所を過ぎた所に社壇 (サダン) と呼ばれる末吉宮が建っている。現在では末吉宮は伊邪那美命を主神とし、他に速玉男命、事解男命を祭神として祀っている。琉球八社のひとつで第一尚氏尚泰久王代 (1454 ~1460年) の創建といわれ、子之方神 (ニーヌファー 北極星) の神を祀っていた。天界寺鶴翁和尚の勧請で万寿寺の鎮守として熊野三社権現を祀ったのがはじまりとされ、琉球国由来記には大慶山権現または末吉山熊野三所大権現と記載されている。王府時代には、第二尚氏9代尚賢王の時代の1644年から、1月、5月、9月に国王による参詣が行われ国家安穏などを祈願していた。 本殿は、三間二面単層入母屋造り本瓦ぶきの琉球神社建築で1936年 (昭和11年) に国宝に指定されたが沖縄戦で焼失している。戦前の写真が残っている。三枚の写真には本殿のみが写っている。右下の写真には1913年 (大正2年) に老朽化で倒壊した拝殿が写っている。

1972年に末吉宮跡として国の史跡文化財指定となり、本殿が復元され、1999年に本殿修復の際に拝殿が再建され、社務所も建てられている。境内には創建時に造られたとみられる琉球石灰岩の階段参道が残っている。石段を登ると踊り場があり賽銭箱が置かれている。ここが祭場になり、一般の人はここで参拝をする。

祭場から石段が続き上には拝殿とその後方に本殿がある。本殿と祭場はそれぞれ別の岩盤の上にあり、切石積みのアーチ橋で継っている。本殿には尚温王冊封副使李元の揮毫の「蜀楼」と書かれた扁額が掲げられている。今日は末吉自治会の祭礼があるそうで、拝殿も開けられて、関係者は準備におわれて、次第に町民が集まって来ていた。


荒神 (コウジン) と夜半参り御嶽 (ヤハンメーリウタキ)

末吉宮の周囲の崖下には多くの拝所が設けられ、末吉村の信仰の対象となっていた。末吉宮への石道を登り詰めた左側の大きな岩の下に、低い石積みで囲まれた荒神 (コウジン) と呼ばれる御嶽がある。末吉の火の神を祀っているとも、遍照寺を守護する地神として巨岩を御神体とする荒神が祀られているともいわれている。本土では荒神は集落の守り神として一般的なのだが、沖縄で荒神の拝所は初めてだ。荒神が沖縄の信仰での位置付けやここに荒神が祀られた経緯などが気になる。この場所には上島から辺戸御井戸 (フィドゥウガー) と大御井戸 (ウフウガー) を通ってくる道が残っている。琉球王国時代は末吉村にとっては末吉宮は王府直轄で関係は薄く、この荒神と夜半参り御嶽との関係が深かったと思われる。夜半参り御嶽は琉球王国時代に首里の上流士女が深夜に入髪 (いりがん) を添えて荒神に恋の成就を祈願していた場所になる。

その右側に現在は破壊されてしまったのだが伝説の夜半参り御嶽があったとも、これが荒神の別名とも言われている。
この周辺にはこれ以外にも多くの拝所が置かれている。

子ヌ方御先龍宮神 (ニーヌファーウサチリュウグウシン)

末吉宮本殿がある大岩の裏側にも幾つもの拝所が置かれている。名前が書かれているものは「子ヌ方御先龍宮神」「末吉城拝所」「火の神」「福禄寿役場」とある。福禄寿役場は天と地が繋がる入り口で、そこを通りあの世に入ると七つの役場がありそこには御先七龍宮神がいるという。死後にはこの七つの役場を通り光へと還るとの言われている。


子ヌ方御井戸 (ニーヌファーウカー)

末吉宮の東側の階段をおりて直ぐの所に水を湛えた湧水がある。上島の北方に位置することで子ヌ方御井戸 (ニースファーウカー) と呼ばれる井戸で、子ヌ方の拝所ともなっている。山林のなかにあ ることで、山ヌ御井 (ヤマヌウカー) とも呼ばれている。万寿寺も古くはこの湧泉を利用したと伝わっている。

子ヌ方御井戸から樫木道 (チャーギミチ) への野道が通っている。倒木で道が塞がれていたが、掻き分けて進むと香炉が置かれた拝所があった。香炉の後は石が円形に並べられている。何の拝所なのだろう?

末吉町四鎮 卯ヌ方拝所

更に道を進むと別の拝所があり、三つの香炉が置かれていた。「末吉町四鎮 卯ヌ方拝所」とある。末吉町四鎮とあるので、四ヶ所に鎮守が置かれているのだろう。先程訪れた子ヌ方拝所もその一つだろう。後二つあるはずだが、見つかるかどうか。隣には御嶽の火の神と地頭火の神が祀られている。道を進むと樫木道に出る。

淵毛 (フーチモー)、淵原 (フーチバル)、和合火ヌ神

末吉宮への道は石畳の社壇の坂 (末吉宮磴道) 以外にもある。その一本が迂回路として樫木道から伸びて後半は手摺のある階段で子ヌ方御井戸の場所に出る。この道の途中に広場があり、そこには幾つもの香炉が置かれている。ニライカナイと繋がる場所だそうだ。和合火ヌ神の拝所、その隣には自然神 地鎮ヌ神、中軸ヌ神、ニライカナイより五穀豊穣を運んでくる地軸弥勒神が祀られ、左端の香炉には村四鎮子ヌクサイと書かれている。ここから見える崖上は淵毛 (フーチモー) と呼ばれ、崖の淵にある丘という意味になる。その崖下にある平場のこの辺りは淵原 (フーチバル) と呼ばれている。

大名参道

末吉宮への参道はもう一つある。末吉町の北側、丘陵の上に広がる大名集落からの参道で、末吉宮背後の急峻な崖を下る道になっており階段が設けられている。
大名参道の鳥居を入った場所一帯には幾つかの墓が造られていた。

樫木御嶽 (チャーギヌタキ) ?

大名参道の階段の踊り場にも拝所があった。参拝者の何人かにこの拝所について尋ねたが、知っている人はいなかった。資料にはこの辺り樫木山の山中には琉球国由来記に記載ある末吉村の樫木御嶽 (チャーギヌタキ 神名: イシラゴヌ御イベ) があるとなっていた。ここがそれにあたるのだろうか?

宇天火ヌ神

大名参道の鳥居の所にある墓群から東にも崖の亀裂沿いに道が伸びている。その道の途中に広場があり、幾つかの拝所が置かれている。広場の手前の方には宇天火ヌ神、聖地国の主として国ぬ主 (願立の総取下げ・国の栄えるを司る)、御先天孫子 (人類の祖神)、宇天みるく神 (裕福を司る)、宇天美女呂神 (水子供養)、宇天不動明王 (神を守護する)、宇天天の川母神 (自然司祭身心浄化)、獅子神 (悪風除け動物供養) が祀られている。脇には「御神歌 子ぬ方御座元に 黄金軸立てゝ 寄して来ゆる産子 頭上ん優て」と刻まれた石柱が建てられている。

黄金軸

反対側にも拝所がある。黄金軸の拝所でと呼ばれる拝所で、海の彼方から水平にやってくるニライカナイの神々と高天原から垂直に下りてくる大和の神が交差する所が黄金軸になる。拝所真ん中の石板にはが立てられており、上部に五芒星が刻まれ、その下部に宇天親加那志、子ぬ方軸ぬ神加那志、宇天十二神と刻まれている。宇天十二神とは薬師如来を守護する仏教の武神になる。

宇天軸 (ウテンジク)

道を東に進む階段が崖上に通じて、そこに拝所が置かれている。最高拝所 宇天軸 (ウテンジク) と書かれて香炉が2基置かれている。あの世である宇天との接点 (軸) になる場所なのだろう。
ここからは首里城が一望できる。
宇天軸で付きあたりになり、そこから南への野道があり、そこを進むと崖の洞穴を利用した古墓が幾つも残っている。

宇天軸底神弥勒御水 (ウテンジクスクシンミルクウビイ、宇天軸御水)

更に道を進むと宇天軸関係の拝所がもう一つあった。宇天軸底神弥勒御水 (ウテンジクスクシンミルクウビイ) を祀っており、後方の崖下がかつては井泉 (カー) の跡と思われる。拝所の右の石板には「天に地に海に雨水の恵み 地球を潤をし、緑を与える 世界中で命と共に大切な宝 総ゆる命をつなぐ御水神 底神ゆ掛きて 宇天貫ぁぎる 宝玉呉ゆる 御水ゆでむぬ 産子達の出来し弥勒世果報」と刻まれている。真ん中の石板には「御水神の最高神 宇天軸底神弥勒御水 略称宇天軸御水」、左側の石板には「宇天軸御水に結ぶ沖縄御先七御水神 今帰仁御先村代御水、源河御水、伊佐川御水、数久田轟、大謝名森川御水、銘苅御水、糸満大渡浜さしちん御水」と刻まれている。

道を進むと樫木道に出る。道が交差する手前にも拝所が置かれていた。


午之方河神

樫木道を越えた所には下り階段がありそれを下ると末吉公園に通じていた。公園に降りる手前の岩場が拝所になっており、午之方河神と書かれている。これが三つ目の末吉町四鎮なのだろう。

宇天軸から樫木道への野道の途中から井泉までにも野道がありその道沿いにも古墓があり末吉町の香炉が置かれていた。


樫木山 (チャーギヤマ)

琉球王国時代には末吉山の広範囲は樫木山 (チャーギヤマ) と呼ばれ、琉球黒檀、藪椿などの王府御用林だった。チャーギは樫木と当て字されているが、犬槇 (羅漢松) で木目が細かく木質の堅さから、当初はカターギと呼ばれ、カターギからカチャーギに変化し、カ音が落ちて、チャーギに変化したものという。末吉宮への参道に続いていた樫木道 (チャーギミチ) は東は平良村の昭和橋へ伸びていた。


末吉陵 (シイシスタマウドゥ)

樫木山には幾つもの墓が見受けられ、その中に第二尚氏8代尚豊王 (1590年 - 1640 在位1621 - 1640年) の第二子の尚文中城王子朝益 (1614 - 1673年) の陵があり、末吉陵 (シイシスタマウドゥ) または樫木ヌ玉陵 (チャーギヌタマウドゥン) とも呼ばれた。尚文は長兄が幼逝したことで、中城王子を称し世子となったが、国質として薩摩にあった時、癩病を発病して帰国している。一説には毒を盛られたとの説もある。(この毒殺説については首里平良村の訪問記に記している) この病気で廃嫡となり、弟の三男 尚賢が世子となり第9代国王 (在位1641 - 1647年) を継いでいる。当時、癩病 (ハンセン氏病) は天刑病と呼ばれ忌み嫌われた病気であったために、尚文が59才で亡くなった後は王家の墓の玉陵に葬られず、ここに墓を造り葬られた。墓の門は閉ざされ、杭が立てられ周囲と異なる四角い敷石が填込まれている。そのためにアカンウファカ (開かない御墓) と俗称され、祭祀すら施されなかったという。死後109年を経た1782年 (尚穆31年) に清明祭を行い、以後は王子または按 司一員を遣して祭祀することを定めている。この墓では現在では金武御殿の向一族の門中会が御願を行っているそうだ。


羽地御殿 (朝秀) の墓 (ハニジウドゥンヌハカ)

末吉陵の奥には中山世鑑の編著者として知られ琉球史を代表する政治家の第二尚氏10代尚質王と11代尚貞王の摂政をつとめた向象賢羽地王子朝秀 (重家) の墓がある。羽地朝秀は親薩摩の立場で、薩摩藩の力を借りて琉球王国の改革を行い、彼が表した日琉同祖論では琉球と大和は同一の祖先との説を主張している。羽地朝秀は、治世の功績により王子位を下賜され、贈位 (ウクレー) 王子として羽地王子朝秀を名乗ることが許されている。この墓は、朝秀の父が王府より拝領したもので、当時は掘込墓であったが、後年現在の亀甲墓に改修されている。亀甲墓としては古い形式に属しており、この形式の亀甲墓が造られた17世紀後半のものと推測されている。朝秀には治世の功績により王子位を下賜 (ウクレー (贈位) 王子) され羽地王子朝秀を名乗ることが許された。この墓は朝秀の祖父が王府よりの御拝領墓で当初は掘り込み墓だったが、後に現在の亀甲墓に改修されている。


フシマン洞 (トゥー)

末吉宮への参道にもなっていた樫木道のこの辺りの峠はフシマントーと呼ばれ、この道を少し進んだ岩場が落ち込んだ所があった。ここもフシマントーと呼ばれた鍾乳洞への入口だった。現在は入り口は塞がれてしまっているのだが、この場所から羽地御殿ヌ墓への小径の脇の岩場に亀裂があり中を除くと大きな空間があった。この洞窟は口 (国がまえに力) 翁禅師 (1546~1625年、尚清20~尚豊5年) が、世塵を避けて修行したと伝わるところで、洞窟内部は十畳程あるそうだ。フシマンとは「名誉や地位を欲しない」という意味で、禅師の隠遁修行からそう呼ばれた。口翁禅師は23歳のとき日本へ渡り、北越南行すること15年、得道して帰国後 (1584年 38才)、浦添城の南の天徳山龍福寺の住職となったが、余年で世塵を避けてこの洞窟で修行していたと伝わる。これによれば40才頃 (1586年) で隠遁生活に入ったとされ、その後、尚寧王は、西来院菊隠と相談して、御書院方の幸地親方を使して、仏門の隆盛のために力を貸してほしいと伝えたが、翁禅師はこれを固辞したと伝わっている。同じ資料で別の説明では、1609年 (尚寧20年) の薩摩の侵略で、尚寧が捕虜になった際には、薩摩へ渡り尚寧を扶けて共に1611年 (尚寧22年) に帰国し (56才)、2年ほど円覚寺の長老についた後、隠居寺の岩頂山万松院 (後の蓮華院) に退いて、80才で亡くなったと記載されている。説明の前半では40才でこの洞窟で隠遁生活に入ったとされ、後半ではその後も尚寧王、尚豊王時代には住職についているとなっており記述に矛盾があるので、この洞窟での隠遁説は少々怪しく感じる。戦前には、この洞窟はパナマ帽を編む女性達の仕事場となっていたそうだ。洞窟は、内部で首里金城方面まで繋がっていたといい、沖縄戦ではこの洞窟に何名かが避難して、戦禍から逃れることができたそうだ。



末吉公園

首里末吉町の東地域は末吉公園として整備されている。この公園を散策する。

末吉村の上島と下島の東の一部は公園用地として住民は移動している。公園の中には安謝川が流れ、北の末吉山と北の丘陵から川が流れる谷間に落ち込んでいる。公園への入り口は何ヶ所かあり、その正門にあたるのが北側の県道からになり、この辺りは公園らしく綺麗に整備されている。
公園の東側は石畳の遊歩道が樹々が密集した森の中に何本も走っている。

クバの拝所

東の森の中に拝所が置かれていた。クバの拝所とある。

滝見橋

公園の東の遊歩道を進むと安謝川に滝見橋が架けられている。蛍の名所だそうだ。

花見橋

公園内の西側の末吉下島の近くにも安謝川に花見橋が架けられている。この橋の辺りには児童向けの広場 (レクレーション ゾーン) が設けられている。

劇聖 玉城朝薫生誕三百年記念碑

花見橋の上のレクレーション ゾーンの最上段には組踊の創始者の玉城朝薫の生誕300年を記念して、 1985年 (昭和60年) に顕彰碑が建てられている。顕彰碑にはこの末吉の寺を舞台にした朝薫作品で最も上演回数の多い執心鐘入や銘苅子の場面のレリーフがあしらわれている。



これで2日間の末吉町散策は終了。2日目はまだ少し時間が残っているので、おもろまちを見ることにした。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)

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