Okinawa 沖縄 #2 Day 228 (14/12/22) 西原町 (19) Tanabaru Hamlet 棚原集落

西原町 棚原集落 (たなばる)

  • 棚原公民館
  • ナカジンヌ嶽 (チカジンヌ嶽、中ヌ嶽)
  • ナカジンヌカー (未訪問)
  • 屋比久宗家神屋
  • 棚原の石畳道
  • 中道 (ナカミチ)
  • 宮里家屋敷跡 (歴史公園)
  • アブガー (消滅?)
  • ミーガー
  • 白河在戦跡壕跡
  • 白河井 (シラカーガー)
  • 神井 (カミガー)
  • 樋川井 (ヒージャガー)
  • 田井 (ターガー)
  • 大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋
  • 下ヌ嶽 (シチャヌタキ)
  • 宮平ヌ御井 (ナーデーラヌウカー) (未訪問)
  • 名称不明の井戸
  • 御嶽井 (ウタキガー 消滅?)
  • スムヌカー (下ヌ井 シチャヌカー)
  • 村屋跡 (未訪問)
  • サーターヤー跡、前ヌ井 (メーヌカー 消滅)
  • 名称不明の井戸
  • フクイダ
  • 棚原野戦病院壕跡
  • 日本軍兵舎
  • 棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)
  • 棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)
  • 上ヌ嶽 (イーヌタキ、マニシカニービ御嶽)
  • 殿小 (トゥングヮー、棚原里主所火神、地頭火ヌ神)
  • 西ヌ井 (イリヌカー)
  • 野国総管へのお通し (ウトゥーシ)、今帰仁城へのお通し (ウトゥー シ) (未訪問)
  • 後原井 (クシバルガー) (未訪問)
  • 遊び場 (アシビナー)
  • 棚原貝塚
  • 古墓群
  • 棚原グスク
  • 棚原城ヌ殿
  • タカジビーヌ御嶽 (未訪問)
  • 森之平嶽 (モリノヒラ嶽、ムンヌ御嶽) (未訪問)
  • 茂保之嶽 (シギマタヌ嶽、シージマタヌ嶽)  (未訪問)
  • 琉球大学医学部
  • 高嶺徳明顕彰碑
  • 献体者の碑、納骨堂
  • 獣魂碑

前回12月10日には中城村の南上原を訪れた。南上原は琉球大学移転で急速に発展した地域だった。琉球大学自体は西原町の棚原、上原、千原にまたがっている。これらの集落の街並みがどう変わっているのかが気になり、今日は棚原集落を訪れる。この棚原集落へは2020年5月24日に訪れているが、未訪問スポットもあるのでそれを中心に巡る。

西原町 棚原集落 (たなばる、タナバル)

棚原は、本町の北部台地部に立地し、東支那海の牧港湾に注ぐ牧港川の上流に位置する。 各家屋は公民館を中心に山の南傾斜面に棚状に立地している。 棚原の地名は棚状の段々畑の地形に由来するといわれる。集落の東側に農耕地が開けている。かつて、そこは棚原コージャー米の生産地であった。
棚原集落の歴史は古く貝塚時代にはじまる。集落後方の標高153mの琉球石灰岩の丘陵先端部に棚原貝塚が発見されている。棚原は、元々は浦添間切に属していた。時期は明確ではないが、17世紀から18世紀初頭の間に棚原村は西原間切に編入されたと考えられる。棚原集落は三、四回にわたり移動している。当初、棚原部落はシージマタヌ (琉球大学大キャンパス内) 附近にあり、そのころ、隣には糸蒲一門、現在の中城村字津覇集落があり、この二つの部落間で激しい戦闘が起こり、糸蒲一門のノロがシージマタヌ嶽附近のナービグムイ (鍋小堀) で水死した。シー ジマタの名称も、この戦闘で、そこの森で落武者らが命を凌いだことから、シノグマタ→シージマタといわれるようになった。このことで糸蒲一門は現在の津覇集落の場所に移動している。棚原集落は、その後、森川一帯に移動し、更に御願山のムンヌ御嶽、浦添城の麓、かつて勢理客 (ジッチャク) と呼ばれた棚原古島へと転々と移動し、17世紀ごろ棚原グスク附近に移ってきたと伝わっている。この移動の期間に三つの古代マキョが、統廃合して棚原集落となったと考えられる。琉球国由来記には棚原村の御嶽として、上ノ嶽、シギマタノ嶽、モリノヒラ嶽の三御嶽が存在していた。一般に沖縄の古代村落社会においては 一村落に対して一御嶽が存在していたので、三つのマキョがあったと考えられている。最終的には、上ノ嶽附近にあったタナバル部落が他の古代マキョを支配統合したと推測されている。昔の棚原は現在の部落より下方にあり、勢理客 (ジッチャク) と呼ばれていたが、ウーシーペー、 あるいはシペーグーと呼ばれる時代、1609年の島津氏侵入後の竿入れ (検地) のため、日本から沖縄に来ていた測量官の勧めで、古島 (勢理客) 附近の土地は肥沃で農地に適しており、丘陵地の痩地で農耕に適さない現在の地へ移動を勧めたと思われる。(薩摩侵攻後は王府政策として集落移動が行われている。)
明治時代から大正時代にかけては、棚原を本部落として徳佐田、森川、道田 (千原) の三つの屋取集落が存在していた。この三つの屋取は、昭和8年に棚原より森川一行政区として分離独立し、その後、昭和14年には森川から徳佐田、千原、上原がそれぞれ分離独立している。棚原集落は閉鎖的な自治組織集落で他集落との交流は少なく、婚姻はほとんど部落内婚だったった。棚原にも他部落とは違った独特の方言が残っている。金銭的にしっかり屋でプライドが高い気質だったといわれ、棚原の人たちは勤勉、努力型が多く、各方面で活躍している。
昭和57年、琉球大学が首里キャンパスからかつての棚原杣山 (官有林) への移転に伴い、純農村集落だった棚原は大きく変貌した。集落内には学生向けアパートが多数建設され、棚原入口付近にはスーパーや貸ビル、マンション等が乱立している。
1880年 (明治13年) の棚原の人口709人 (128戸) だった。戦前までは人口はそれ程の増加は見られず、沖縄戦では集落住民の45%が犠牲となり人口は激減している。戦後も人口の増加は鈍く、1980年代半ばにようやく戦前の人口に戻っている。その後、人口の増加が始まり、現在では約2500人迄になり、微増傾向が続いている。

西原町の他の地域と比較すると、昔から人口は村内で中間ぐらいで位置してる。人口増加率は、西原町平均を下回っている。


琉球国由来記に記載ある棚原集落の拝所は、
  • 御嶽: 上之嶽 (神名: コバッカサノ御イベ、マニシカニービヌ嶽)、茂保之嶽 (シギマタヌ嶽  神名: コバツカサノ御イベ、シージマタヌ嶽、在千原)、森之平嶽 (モリノヒラ嶽 神名: コバツカサマネツカサノ御イベ、ムンヌ御嶽)
  • 拝所: 棚原巫火神棚原城之殿棚原里主所火神 (殿小)
  • 拝井: 白川ノ巫川 (神井 カミガー)、フクイダガー、カビジーヌカー、クシバルガー、前ヌカー、西ヌカー、トゥングゥーヌカー
  • 記載ない拝所: ナカジンヌ嶽下ヌ嶽、タカジビーヌ嶽


戦前まで棚原集落で行われていた村祭祀は下記の通り。

琉球王統時代には村の祭祀は棚原ノロにて執り行われていた。


公民館の前に棚原集落の史跡などの案内板が置かれており、それを参考にして集落巡りを始める。


棚原集落訪問ログ



棚原公民館

棚原の集落については前述の通りだが、かなりきつい傾斜地に広がり、棚原公民館は集落の中腹にある。ここは以前の村屋があった場所ではなく、村屋は集落の下側だった。公民館の前には戦後、緊急連絡用に使われた酸素ボンベの鐘が吊るされ保存されていた。

ナカジンヌ嶽 (チカジンヌ嶽、中ヌ嶽)

公民館の隣にはナカジンヌ嶽がホートゥ山と呼ばれる崖の岩場の上にある。この御嶽は琉球国由来記には載っていないので1713年以降に創設されたと考えられる。ナカジンヌ嶽は、中ヌ嶽を意味している。ここは、昔にヤビクマカトゥハンシャシーと呼ばれたノロの母親が出生した場所だという。拝所の右手にはその人が使用したとされている井泉がある。ナカジンヌ嶽には鳥居が建てられている。拝所に鳥居を建てれば幸がもたらされるという事で、ノロ殿内を建立する際に設けられたそうだ。

ナカジンヌカー (未訪問)

ナカジンヌ嶽の東側にはナカジンヌカーがある。中の嶽のカーとも呼ばれている。元々はナカジンヌ嶽の岩の根元にあったが、そこから下側の現在地に移っている。言い伝えでは、前述のヤビクマカトゥハンジャナシーと呼ばれたノロの母親がが使用した井戸という。戦前までムラの神行事でも拝まれていたが、現在は屋比久門中が拝んでいる。

屋比久宗家神屋

ナカジンヌ嶽の岩場の森の下に立派な神屋がある。この場所は棚原の12の主要門中の一つの屋比久宗家の屋敷だった。ホートゥ山も屋比久宗家の敷地に属し、元々は屋比久門中の御願所だったという。戦前までは村の神行事の場合にも拝まれていたが、今日では、比嘉 (ヒジャ) と屋比久門中だけが拝んでいる。 

棚原の石畳道

公民館の裏に琉球石灰岩の石畳の道が30mほど残っている。沖縄ではこのような昔からの石畳道はどんどん消滅しており、西原町ではここしか残っていない。この石畳道は集落内の東側にあり、前ヌカーの脇を通って馬場や殿などのある集落背後の丘の急な斜面地を集落を南北に通っている。雨上がりの後なので、滑りやすい。

中道 (ナカミチ)

この石畳道はかつての中道 (ナカミチ) だった。多くの集落では中道はメインストリートだったので、その後、改修され幅広い道と変わっているのだが、この棚原では昔のままの道幅で、大部分はアスファルトにはなっているが、当時の道が感じられる。

宮里家屋敷跡 (歴史公園)

中道を東に進むと歴史公園に通じる。棚原の12の主要門中の一つの棚原旧宮里家 (屋号: メーナーザトゥ 前宮里) の屋敷跡地全体を歴史公園として整備している。屋敷跡は屋敷への石畳や石段から沖縄の伝統的な屋敷の特徴的な豚便所 (ウヮーフール) や屏風 (ヒンプン)まで残っている。
豚便所 (ウヮーフール) や屏風 (ヒンプン)は中国から伝来し、沖縄で信仰や俗信と結びついて翁は固有のものになっている。中国では豚に排泄物を餌として与える習慣は残っていない。沖縄では、衛生上の理由から昭和初期に「養豚場取締規則」の改正によって、豚小屋と便所を併設することが禁じられた。 棚原では、フルには便所の神 (フドゥーヌカミ) が宿るとされ、屋敷御願 (ヤシチヌウガン) として拝まれていた。これは面白い。沖縄では便所まで信仰の対象になっている地域があるのだ。 屏風 (ヒンプン) は、屋敷の目隠塀として設置され、魔除けとしての役目も兼ねていたといわれる。 棚原では、遠い場所にある森の先 (ムイヌサチ) に対する山がえし (サンゲーシ) として設けたとも伝わる。 同屋敷跡には母屋の石柱が残っている。豚便所 (ウヮーフール) 脇には、フルから流れてくる汚水や生活排水等を溜める石造りの貯水場 (シーリ) が造られている。 

アブガー (消滅?)

歴史公園の東側にはアブガーがあったと民俗地図にはなっていたが、それらしきものは残っておらずマンションが建っていた。

ミーガー

アブガーの道を登っていくと、ワイトゥイ (切り通し) があり、そこにミーガーがあったとされている。その場所には香炉が置かれている場所が二つあった。そのうちの道路側にある香炉がミーガーの拝所 (写真下) となっている。ミーガーは、岩陰の前面部分から湧き出る水を溜るために、わずかに掘りくぼめられ、半円形に石積みで囲われた湧泉だった。この東側の高台にあるタカジビーヌ御嶽とはワトゥイで切断されているが、かつては丘が続いており、タカジビーヌ御嶽とチュクサイヌカー (一対) で、現在では水は渇れているが、ウマチーで御願が行なわれている。このミーガーからは、千原のシージマタヌウカー (琉球大学キャンパス内) への遙拝が行なわれている。もう一つの香炉 (写真中) がそのお通しの拝所だろうか?

白河在戦跡壕跡

ミーガーから来た道を戻りアブガーから下に下っていくと小字の白河原で道沿い東側の斜面があり、沖縄戦当時は白河在戦跡壕があったとされる。ここには大隊本部の弾薬や食料が保管されていた。今はその遺構は見られない。沖縄戦当時はこの棚原には日本軍が公民館の北側に駐屯し、棚原グスクの地は日本軍陣地が置かれていた。

北から南下してきた米軍は宜野湾の我如古一帯に陣取っていた日本軍と激戦を行い1945年4月23‐24日には占領し、グスクのあった棚原高地の日本軍に迫っていた。4月25日には棚原高地は陥落し、米軍は翁長、幸地に侵攻し、日本軍が陣取っていたHorseshoe、Kochi Ridge  (幸地グスク)、Howへの攻撃を開始している。この様に棚原は米軍侵攻のルートにあたっていたことから集落は大きな被害を被っている。この戦闘や島尻に避難した住民の45%が亡くなっている。


白河井 (シラカーガー)

更に道を降ると途中に白河井があるはずなのだが、なかなか見つからない。マンションの裏側に金網で囲まれ草で覆われた場所があった。少し不自然な感じがして、この奥がそうでないかと思い、草をかき分けて奥に進むと、予想通りに白河井があった。井戸の前には香炉が置かれて拝泉井となっている。井戸は現在はブロックで円形の井戸の形に改修され、井戸内側はコンクリートで固められているのだが、元々は半円形の掘り込み井戸 (写真右下) で、 井壁は石積みだった。ここでは旧三月と八月のウビーに拝まれている。

集落内には、共同井戸、拝井泉が15カ所あり、西原町内でも井泉の多い集落だったが、宅地造成などで、そ の半数近くが形骸化されている。


神井 (カミガー)

白河井の西側には、棚原では最も古い拝泉井の神井 (カミガー) がある。別名三日月ガーとも呼ばれている。琉球国由来にはシラ川ノ巫川と記載されている。元々は畑の緩斜面地にあり、半円形の掘り抜かれた井戸で井壁は水面より上の部分まで相方積みで積まれていた。現在の神井はコンクリートの小屋で囲まれて大切に維持され、井戸の前には香炉が置かれ、信仰の対象になり、旧三月と八月のウビー、ウマチーの際に御願が行なわれている。

樋川井 (ヒージャガー)

同じ場所にもう一つ井戸がある。ヒージャガーと書かれている。樋川井と書くのだろう。棚原集落の共同井戸 (村井 ムラガー) で、産井 (ウブガー) でもあった。この井戸では正月の若水も汲んだという。民俗地図ではこの場所にはヒージャガーはなく、ここからもう少し上部の歴史公園の近くの白河公園の緩傾斜地にあった (写真右下) となっている。そこから移設されたのだろうか?
民俗地図によるヒージャーガーはこの辺りにあったとされている。

田井 (ターガー)

神井と樋川井の上の道を西に進むと、もう一つ田井 (ターガー) が保存されている。水量の豊富な村の共同井戸で、香炉も置かれて拝泉井となっている。まだ涌水があるので、安全性確保のために金網で覆われている。元々は半円形の掘り込み井戸だった。 この辺りの宅地造成後に現在の姿に改修されている。この井戸の御願は津花波門中が行なっている。

大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋

更に西に進み、先程訪れた石畳道を下ったところに神屋がある。大殿内門中の神屋になる。棚原集落の12の門中の一つ。棚原集落では大殿内門中と比嘉門中が指導的門中で、この二つの門中から祝女 (ノロ = 根神 ニーガン) を排出し、この棚原集落の根人 (ニーチュ) であった。大殿内門中は護佐丸 (グサマル) の末裔と云われており、棚原集落の国元 (クニムトゥ) であったと考えられている。

下ヌ嶽 (シチャヌタキ)

大殿内 (ウフドゥンチ) の少し西側に道を上ると隆起珊瑚礁の岩 (シー) がある。この場所は下ヌ嶽 (シチャヌタキ) と呼ばれている。琉球国由来には記載されていないので、本来の御嶽ではない。この岩 (シー) の頂上に丁度サチヒジャーに向かって拝願するように香炉が置かれ、そこへの御通し (ウトゥーシ) になっている。 また首里城への御通し (ウトゥーシ) でもあるという。この御嶽は日常、トゥーヌウトゥーシドゥクル (唐へのお通し所) などでも呼称され、岩の形が嶽状になっていることから御嶽と呼ぶようになったという。この御嶽は大殿内 (ウフドゥンチ) とのチュクサイ (一対) と言われ、現在、大殿内門中だけが拝んでいる。戦前までは村でも拝まれていたらしく、 戦後になってナカジンヌ嶽同様、拝まれなくなったという。

宮平ヌ御井 (ナーデーラヌウカー)

下ヌ嶽 (シチャヌタキ) の下側の民家に宮平ヌ御井 (ナーデーラヌウカー) があり、宮平ヌ井小 (ナーデーラヌカーグヮー) とも呼ばれている。また、宮平ヌ井小は、水面に顔を映して見たことからミーガー(鏡見)とも呼ばれていたそうだ。井戸は民家の敷地内にあり、外からは見えないのだが、共同井戸としても利用された円形の掘り込み井戸で井壁は野面積みで造られていた。宮平 (ナーデーラ) は集落の主要な12門中の一つで集落内で最も世帯数が多い薄下門中 (ウシグサ) の中元 (ナカムートゥ) になる。

名称不明の井戸

宮平ヌ御井のすぐ北側、下ヌ嶽 (シチャヌタキ) と大殿内 (ウフドゥンチ) の間の道沿いに井戸跡がある。名称は付いていない。井戸は民家の塀をわざわざ切り込んで保存されているので、集落の大切な井泉だろう。戦前にはすでに涸渇していた。大殿内が拝んでいる。

御嶽井 (ウタキガー 消滅?)

民俗地図ではこのすぐ下に御嶽井泉 (ウタキガー) があるとなっていたが、その場所は森になって柵で囲まれて中には入れず、それらしきものは見当たらなかった。ここは大殿内屋敷跡といわれる場所で、元々この一帯は大きな石灰岩が多く、拝所となっており、下ヌ御嶽のチュクサイヌ井泉でイナグヌ井泉と呼ばれていた。イナグとは沖縄方言で女性の事で、この井戸にまつわる男神、女神の話が残されているそうだ。

スムヌカー (下ヌ井 シチャヌカー)

宮平ヌ御井から集落内南側に降りるとスムヌカーがある。資料によっては下ヌ井 (シチャヌカー) または、後ヌ井 (クシカー) となっている。ちょっとした広場になっている。多分以前は洗い場などがあったのだろう。元々は掘り込み井戸で、共同井戸として農業用水に多く使われていた。現在では井戸はコンクリート製の筒が置かれ、パイプが通っており、散水などに使われているようだ。

村屋跡

下ヌ御嶽の下側、スムヌカーとの間にはかつての村屋が置かれていた場所になる。

サーターヤー跡、前ヌ井 (メーヌカー 消滅)

集落の南側には児童公園があるのだが、かつてはこの辺りにはそれぞれ東組、西組、中組のサーターヤーが三つ集まっていた。この南側がサトウキビ畑が広がっていたのだろう。この児童公園内には前ヌ井 (メーヌカー) があり、旧三月と八月のウビーに拝まれていたそうだが、区画整理による造成工事の際に消滅してしまった様だ。元々は掘り込み井戸で、昔はこの南側には苗代田 (ナーシロ) が近くにあり、その水に使われて水量の豊富な井戸であったと思われる。その後は、共同井戸として農業用水やサーター ヤーで使用され、また生活用水としても使われたという。

名称不明井戸

児童公園近くの民家の道沿いにも名称不明の井戸がある。この井戸も民家の塀を切り込んで保存されている。パイプが通っている。以前の形はわからないようだ。屋比久門中が拝みを行なっているそうだ。

フクイダ

「ヌハニーガー」とも呼ばれ、県道20号線沿いの棚原集落入口付近の勢理客の空き地にフクイダという井泉跡がある。棚原古島と呼ばれる旧集落で使用されていたようだ。草が生い茂り井戸跡の様子は写真ではわからないが、ブリック出四角く囲まれて石が置かれているのみでハチウビーの際に御願が行なわれている。かつてはノロの髪洗い場として使用されていたという。

棚原野戦病院壕跡 (第62師団野戦病院 棚原分室)

棚原集落から外れた南東の丘の麓、行政区では翁長なのだが、そこには沖縄戦当時、棚原野戦病院壕が置かれていた正式には第62師団野戦病院 棚原分室という。この一帯に配置されていた独立歩兵第11大隊用に造られた。壕には当時、3つの入口があり、その先に人が立って歩けるほどの通路が続いていた。ベットがわりに板を敷き、200名程の負傷兵が収容されていた。西原に住む女性15人が補助看護師として配置されていたが、5月に日本軍の解散命令が下されている。現在では壕を支えていた梁がなくなり、落盤が起き危険なので立ち入り禁止となっている。中にはまだ戦争当時の遺品が残っている。また物品が見つかるという。壕の前の畑では今でも壕で亡くなった多くの人を埋めた遺骨が出てくるそうだ。



次は公民館まで戻り、ここより北側の棚原集落の上部を見ていく。


日本軍兵舎

公民館の北側には沖縄戦当時、日本軍が駐留しており、民家が兵舎として使用されていた。

棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)

公民館から急な坂道を上がっていくと細い道になり、その先に、集落の12の有力門中の一つ比嘉門中 (ヒジャ) の屋敷跡がある。
伝統的な沖縄の住居跡がある。特に文化財として保存されているわけでは無いのだろうが、先ほど見た歴史公園の住居跡と同じような造りだったと思われる。敷地内には二つ井戸が残っている。
屋敷跡に少し高くなった場所に土帝君 (トゥティークー) を祀った小さな祠がある。土帝君 (トゥティークー) は中国の3世紀前半から見られる土地神の一つで、沖縄へは、1698年 (康煕37年) に大嶺親方鄭弘良が中国から神像を持ち帰り、領地の小禄村大嶺に祀らせたのが始まりだとされる。[程順則の指南広義によると、土帝君信仰はそれ以前から知られていたと思われる。] その土地土地を守る土地神で、もともとは農耕の神として親しまれ、その昔には甘藷 (サツマイモ) の豊作を祈願してきた。棚原の土帝君は比嘉家の当主が200年ほど前に、首里の西ムイ (儀保付近) からフトゥキ (仏=土帝君) を持ち帰ったのが始まりとされる。祠の内部には神体として夫婦をあしらった赤褐色を呈した陶製の男女一対の土帝君の神像が安置されている。かつては旧暦2月2日のクッスキーと5月4日のグングァチャーに祭祀が行われていたが、いまでは旧暦2月2日の祭祀行事しか行われていないそうだ。沖縄では50ほど土帝君が確認されているそうだ。

棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)

土帝君のある棚原比嘉家の屋敷跡を上に抜けると、棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)がある。
ノロ殿内山 (ヌルドゥンチヤマ) の前に、沖縄では珍しく立派で鉄筋コンクリート造りの拝殿に改修されている。隣は広場が広がっている。ここにノロの屋敷があったのだろうか? 今ではゲートボール場として使われているが、沖縄戦当時は日本軍の兵舎があったそうだ。
拝殿の前庭にはは打ち水などに利用されているノロ殿内井 (ノロドゥンチガー) がある。前ヌ井 (メーヌカー) とも呼ばれる。隅丸方形の掘り込み井戸で、井壁は野面積みが用いられている。この井戸は、ノロ殿内山にあるマニシカニービ御嶽 (上之嶽) のチュクサイ (一対) の関係といわれている。また、ノロ殿内のチュクサイともいわれる。棚原集落から分かれた徳佐田集落の門中の御願で拝まれている。
また、ノロ殿内の前には有り難そうに石の柵で囲まれた自然石がある。何のための自然石なのかは不明だそうだ。御神体との説もあるようだ。 
拝殿の中には祭壇が設けられ、ミルク (弥勒) 神が祀られている。ミルク神の頭部、ミルク神の胸部、ミルク踊りの時に吹く楽 (ガク) や軍配団扇が安置されている。ミルク神を祀った白い香炉の左手に国元の神とニレーの神を祀った黒い香炉が二つ置かれている。
ミルク神は、農作の神で、そこに祀られている神はユーヌ神 (世の神) といわれ、旅に出る時は必ず拝願する慣わしがあった。棚原のミルク (弥勒) 信仰は首里からきたものと考えられている。このミルク神は沖縄ではよく登場する。元々は仏教の弥勒菩薩なのだが、琉球神道に同化されてしまった。海の彼方の楽土から豊年を運んでくる五穀の神と考えられ、豊年のことを弥勒世 (ミルクユー) とか弥勒世果報 (ミルクユガフー) と称するようになった。弥勒神は沖縄全域にわたって伝承されている来訪神で、中国に普遍的である弥勒仏の変身した姿の布袋の仮面を被った太ったおじさんの様な形で表されている。これも沖縄の信仰の寛大さを表している。棚原ではミルク祭が行われており、酉年の旧暦八月十五日、 ミルク加志の誕生を祝って行われる。
祭壇の隣には鼎を表す三つの石柱の火ヌ神が祀られている。琉球国由来記にある棚原巫火神 (タナバルノロヒヌカン) にあたる。

上ヌ嶽 (イーヌタキ、マニシカニービ御嶽)

棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ) の奥からノロ殿内山 (ヌルドゥンチヤマ) への登り階段があり、そこを上がっていくと鳥居が置かれている。鳥居は明治末期から昭和初期にかけての皇民化教育運動で神道信仰神道の為に設けられたという。ここには琉球国由来記に記載されている上ノ嶽 (神名: コバッカサノ御イベ) が祀られている。現在、マニシカニービヌ嶽 と呼ばれている。この御嶽の拝願場は、部落発祥当時のリーダー達が、会合を開くために使用した所だといわれる。 シー (岩) を背に東へ向いて御願をするように香炉が置かれている。この御嶽は部落の後方に位置する腰当て (クサティー) と呼ばれる聖域と考えられ、棚原の御嶽の中でも最も重要だと言われている。
この上ヌ嶽に関わる民話が球陽外巻の遺老説伝に収められている。よくわからない話なのだがここに掲載しておく。
昔、西原邑棚原に、稲福婆 (いなふくばぁ) というノロがいた。 ある日、他の祝女 (ノロ) 達と一緒に金鼓 (ちんく: 命令伝達や宮殿、寺院などで通知伝達に用いた鉦と太鼓) を鳴らしながら、神歌 (おもろ) を唱え、上ヌ嶽の前で神遊びをしていると、突如、稲福婆がいなくなった。 一緒にいた他のノロや村人達が総出で、村内を探し回ったが、見つけることができず、稲福婆は、行方不明になってしまった。 その事件から3年経ったある日、我謝村に住んでいる鍛冶屋大主 (かじやうふしゅ) という人物が、海で釣りをしていると、漂流している人の形をしたものを見つけた。 よく見ると、漂流していたのは人間で、頭には髪の毛が全く無く、全身には貝がくっ付いていた。 その人間は、大主に「私は稲福婆です。神遊びをしている時に竜宮へ連れて行かれました。しかし、そこでの食べ物は貝しかありませんでした。」と話し、黄色い物を吐き出した。 大主は、すぐさま稲福婆を介抱し助けた。 その話を聞きつけた人々は、稲福婆を竜宮から来たので儀来婆 (ぎらいばあ) と呼んだ。竜宮は儀来河内 (ぎらいかない) と言われていたので、そう呼ばれるようになったそうだ。 村人たちや身内の者は、竜宮での話を聞きたいと、稲福婆のもとへやってきましたが、稲福婆は一切話すことはなかった。 やがて、稲福婆の噂は、首里まで広がり、ついに王様の耳にも伝わった。 王様は、竜宮での話をぜひ聞きたいと、稲福婆をお城に呼び寄せた。すると、今度は、お城にたくさんの人々が殺到してしまった。 野次馬達が騒いでいるのを見た稲福婆は、両脇に手を挟んだ瞬間、忽然とどこかへ消えてしまった。 身内の者や村人たちが、またもや消えてしまった稲福婆を探し回ると、今度は上ヌ嶽で見つけた。


殿小 (トゥングヮー、棚原里主所火神、地頭火ヌ神)

棚原ノロ殿内から棚原グスクへ向かう。棚原ノロ殿内の西側には小さな広場があり、そこには琉球国由来記の棚原里主所火神 (タナバルサトゥヌシドゥクルヒヌカン) とされる石積みの小さな祠がある。一般に殿小と呼ばれている。昔、棚原の地は、首里の棚原殿内の支配下に属していた。領主である地頭はここに来ることはなく首里に在住していた。部落の人々は毎年、税として地頭に米を納める義務を負っており、地頭はこの地を治めるために地頭代 (ジトゥデー) を派遣していた。この場所はその地頭代が住んでいた屋敷跡だった。この事から地頭火ヌ神とも呼ばれている。

西ヌ井 (イリヌカー)

殿小の後方にはコンクリート製の筒が置かれた西ヌ井 (イリヌカー) がある。現在は水は渇れている。ここから棚原グスクへの道の北側の斜面にあった後原井 (クシバルガー) の遙拝井泉にもなっている。すぐ東にあるノロ殿内とのチュクサイ (一対) とも言われている。ハチウビーのときに村で御願が行なわれている。

野国総管へのお通し (ウトゥーシ)、今帰仁城へのお通し (ウトゥー シ) (未訪問)

殿小から棚原グスクへの道を登って行く。貯水槽を過ぎた所に拝願場があると資料にあった。ちょうど上ヌ嶽の上で平場になっており、花壇や休憩用の椅子などが置かれて綺麗に整備されている。甘藷大王である野国総管へのお通し (ウトゥーシ) と、今帰仁城へのお通し (ウトゥー シ) の香炉が並列に安置されていると資料には載っていた。香炉を探したのだが見つからなかった。

後原井 (クシバルガー) (未訪問)

棚原グスクへの道の北側の丘陵斜面には集落の拝井の後原井 (クシバルガー) があると資料には掲載されていたが、確認出来なかったとも付け加えられていた。その辺りへの道があったので進んでいったが、途中で草が背丈よりも高く生い茂りそれ以上は進めず、探すのを断念。この井戸は旧三月と八月のウビー、ウマチーの際に御願が行 なわれているのだが、先程訪れた西ヌ井から遥拝しているので、現在は後原井 (クシバルガー) までは拝みには来ていないからだろう。

丘陵の尾根の道を進むと棚原グスクの山が見えて来た。


遊び場 (アシビナー)

棚原ノロ殿内から棚原グスクの方向の上の方に集落でのイベントなどを行っていた遊び場 (アシビナー) 跡がある。今は使われていない様だ。と思っていたら、インターネットでは12年に1度、酉年に行われる棚原のムラ芝居の会場になるそうだ。酉年にしか使わないというのは気になる。何かの理由があるのだろうか? 調べて見てわかった。ノロ殿内に保管されている弥勒 (ミルク) 神が生まれたのが酉年だったからだそうだ。12年に一度行われる祭は「まーるあしび」と呼ばれ、この弥勒 (ミルク) 神に五穀豊穣を祈願するお祭り。先程のノロ殿内で祈願を済ませ、弥勒 (ミルク) 神の行列がこの遊び場 (アシビナー) まで行われ、ここで舞台を作り、琉球踊りや組踊、ミルク太鼓など数々の伝統芸能が催される。


棚原貝塚

グスクへの入り口なのだろう表示板が見えてきた。棚原貝塚の説明板だった。ここでは昭和54年に貝塚が発見された。ここは標高140mぐらいの場所。これ程高い所に貝塚があったことに驚いた。縄文時代後期から晩期相当期の遺跡で海の貝よりも陸の貝類が多く発見されている。また、沖縄貝塚時代前期後半の土器片も採取されている。

古墓群


棚原グスク

棚原グスクは、およそ14世紀~15世紀に属するグスク跡で、棚原集落の北西にあり、標高150mの石灰岩丘陵上の尾根に沿って広がっている。『琉球国由来記』には「棚原城之殿」が記載されており、この殿がある平場が、このグスクの主郭と推測されている。平場の北から西および南側にかけては断崖で、北側下方には牧港川が流れ天蓋の要塞となっている。南側の緩斜面部には、棚原集落が展開している。グスクの大手は集落の後方に展開しており、中世の典型的なグスクを中心とした集落が形成されている。

貝塚を過ぎると、グスク跡の立て札が見えてきた。そこには沖縄戦で投下された砲弾の遺構が残されて保存されている。道の反対側には拝所か墓らしき小屋がある。この棚原グスクがある棚原高地にも沖縄戦当時、日本軍陣地が置かれていた。


棚原城ヌ殿

道を進むと突き当たりは広場になっている。ここがおそらく本丸だろう。殿 (トゥン) が見える。琉球国由来記にある棚原城之殿と考えられている。周りには平御香 (ヒラウコウ) を燃やした跡のある自然石を積んだ場所が2カ所あった。15世紀 (三山時代) から16世紀にかけて安慶名城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司 (一世、二世、三世?) の弟が、当地に配され棚原按司と称したといわれている。当初、琉球大学北口近くの千原にグスクを築こうとしたが、地形が築城に向かず、この棚原山に築城したと云われている。(別の説では千原のイシグスク [この後、訪問] を居城としたが、手狭なため棚原にグスクを築いたという。) 伝承では、初代棚原按司が幸地按司 (幸地グスクはこの近くにある) に滅ぼされた後、真栄里按司の子が跡目を継ぎ5~6代続いた後、 中央集権で首里に移住し、その後廃城になったとされている。

グスク跡は城原 (グシクバル) と呼ばれ、その周辺の土地は我下原 (ガーシチャバル) と称され、両方を合わせて棚原グスクと称している。この御願所の裏手には、按司墓、キサの墓など部落の先祖たちが葬られた墓が崖の連なりに位置しているそうだ。これらの墓は見つからず。また通って来たグスクへの道の中間一帯の土地は身内のいない者達が亡くなった時に個人墓として造られていたそうだ。現在は幾つもの墓があり、その中にはかなり古くからあったと思われるものも残っていた。


タカジビーヌ御嶽 (未訪問)

ミ-ガ-の東の山頂にタカジビーヌ御嶽と呼ばれる拝所があるそうだ。御嶽とは呼ばれているが シージマタヌ嶽とムンヌ御嶽への御通しの遥拝所だった。現在は看護師宿舎の駐車場となっている。



森之平嶽 (モリノヒラ嶽、ムンヌ御嶽) (未訪問)

ミ-ガ-の道を北に進むと下り坂になり、その道の西側の御嶽毛 (ウタキモー) という森の中には琉球国由来記にある森之平嶽 (モリノヒラタキ) があったという。現在ではムンヌ御嶽友呼ばれ、神名 コバツカサマネツカサノ御イベを祀っている。ここは山原 (ヤンバル) から来た人々がつくった部落の跡だともいわれている。その御嶽とのチュクサイ (一対) の井泉もあるそうだ。ここへは道らしきものがあるのだが、その先は樹々が生い茂っている。それをかき分けて中に入るが、御嶽や井戸らしきものは見当たらなかった。タカジビーヌ御嶽から遙拝されているとなっていたので、現在では実際にここに来て御願を行っていないので荒れ放題になっているのだろう。


茂保之嶽 (シギマタヌ嶽、シージマタヌ嶽) (今後訪問予定)

神名コバツカサノ御イベ。地元ではシージマタヌ嶽と呼ばれている。部落で最も古い御嶽である。 その御嶽は、 琉大キャンパス内にある。戦前、そこは樹木が生い茂り、日常踏み入る人はなく、祭祀の時にも部落から遠いので、タカジビーヌ嶽からのウトゥーシを行っていた。


琉球大学医学部

棚原集落から東に坂を登ると、棚原と上原にまたがる琉球大学上原キャンパスがある。琉球大学は1977年 (昭和52年) から1984年 (昭和59年) にかけて首里から移転している。この上原キャンパスには1979年 (昭和54年) に医学部と琉球大学附属病院が置かれている。琉球大学医学部と琉球大学附属病院は2015年 (平成27年) に返還されたキャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区跡地に建設される国際医療拠点ゾーンへの移転が決まり、昨年から工事が始まり、2024年6月完成、25年初頭の移転完了の予定となっている。跡地の利用についてはまだ協議中でまだ決まっていないようだ。棚原住民の話では、琉球大学附属病院の一部機能は残るとも聞いていると言っていた。


高嶺徳明顕彰碑

琉球大学上原キャンパス入り口を入った所正面に高嶺徳明顕彰碑が置かれている。高嶺親方徳明は1653年 (順治10年) 生まれ、中国語の能力を評価されたことで久米村に入り、魏姓 (魏士哲) を賜っている。1688年 (康煕27年)、35歳の時に進貢船の小唐船脇通事 (進貢二号船在船通事) として福州へ赴任した際に口唇裂の治療を学び、1689年 (康煕28年) に帰国し、琉球国内の口唇裂の患者を全身麻酔を用いて治療した後、王孫 (後の尚益王) の口唇裂治療に成功している。華岡清洲が麻酔による乳がんの手術を成功させた1804年 (嘉慶9・文化元年) より100 年以上も前の出来事だった。


献体者の碑、納骨堂

上原キャンパス琉球大学医学部の奥には、医学部で人体解剖の授業の為に遺体が献納されていた。医学の発展に貢献した献体者を納骨堂に納め、献体者への感謝とその献身的な精神に対しての畏敬の念と献体運動を広め世界人類の幸せに役立てる事を祈念し、献体者の碑が2006年 (平成18年) に建立されている。医学部では毎年11月に医学部解剖体慰霊祭を行っている。

獣魂碑

医学部では動物実験も行われており、その動物たちの獣魂碑も、医学部の南側に建てられている。


これで、二日間かけての棚原集落巡りは終了し、帰路に着き、丘陵を与那原に降りて帰宅する。



参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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