Okinawa 沖縄 #2 Day 215 (25/09/22) 旧真和志村 (25) Ameku Hamlet 天久集落

旧真和志村 天久集落 (あめく、アミク)

  • 那覇クルーズターミナル
  • 天久宮
  • 聖現寺
  • 古拝殿 (フルフェーリン)
  • 羊順毛 (ウェンジュンモー)
  • ジーチ金満墓 (?)
  • 久場森御嶽 (クバムイウタキ、天久之小嶽)
  • 天久グスク
  • 大御嶽 (ウフウタキ、天久之嶽 アミクヌタキ)
  • 内御拝 (ウチウグヮン)
  • グスク火ヌ神
  • 按司添御墓 (アシジーウハカ)、居神・根神 (未訪問)
  • 天久守護之神 天久村台の神座
  • 天久守護之神の井戸合祀所
  • 中臣幸乙女王御神 (なかしんこうおとめおう)、浮島神社跡
  • 崎樋川貝塚
  • 崎樋川 (サチフィジャー)
  • 天久臣乙女王神の御嶽 (ガマ樋川嶽)
  • 潮花司 (スーバナチカサ)
  • 坂中樋川 (フィラナカヒージャー)
  • 先樋川べーべー嶽 (天龍大御神)
  • シーシンサー岩


今日は新型コロナの予防接種が那覇クルーズターミナルで予定されており、1日フルには時間が取れず、中城村までは行けない。接種会場近くの天久集落はまだなので、今日は接種の後訪問する事にした。やはり半日では時間が足らず、2日後の9月27日、更に30日にも3日をかけて訪問した。三日間で見学したものはこのレポートにまとめて記載している。


旧真和志村 天久集落 (あめく、アミク)

天久集落は元々は西原間切に属していた。第二尚氏第13代尚敬王の時代 (1713年 - 1751年) には真和志間切に移管されていた。1908年 (明治41年) まで真和志間切に属し、当時は現在の天久、上之屋、おもろまち2丁目と3丁目、泊3丁目を含んでいた。かつて天久は上泊 (イードゥマイ) と呼ばれ、下泊 (シチャドゥマイ) が現在の泊だった。大正5年に上之屋が天久から独立し行政区となっている。天久は現在は那覇市の本庁管轄区となっている。

天久の人口は沖縄戦の犠牲とその後の居住地が度々変わったことで戦後は大きく減少していた。その後人口が増加に転じて、米軍に接収されていた元集落地が返還され、牧港住宅地として開発された後は急速に人口は増加している。現在では戦後に集落を形成した字天久地区よりも、牧港住宅地の天久一丁目と二丁目の人口の方が多くなっており、この地は新都心として人気の高い地区で現在でも人口が増加傾向が続いている。

旧真和志村の他の地位糸比較すると、明治時代は比較的人口は多い地域だったが沖縄戦の影響が大きく戦後は人口の少ない地域になり、それは牧港住宅地の完成まで続いた。この住宅地が完成した後は、人口が激増したことで、人口の多いグループに戻っている。


琉球国由来記に記載されている天久で拝まれている拝所は以下の通り (太字は訪問した拝所)
  • 御嶽: 天久之嶽 (推揚森威部 オシアゲムイ)潮花ツカサ (ヨリアゲ森威部)、天久寺嶽 (宇多志森威部 オダシムイ)、天久之小嶽 (古場森威部コバノムイ)、多和田之嶽 (阿本司雪柄君威部 アムトツカサヨキガラキミノ)、多和田巫火神 (多和田マキウネゴンコダマノ火鉢)、茗苅嶽 (茗苅森金威部 メカルムイカネノ 在 安謝)、巣壷禄嶽 (スグルク 中西嶽司古他竈威部 タケツカサコダガマノ 在 安謝)
  • 殿: 潮花司天久殿 (殿火の神、天久村台の神座に合祀)、天久城殿 (グスク火ヌ神)
  • 拝井泉: 平中泉 (坂中樋川)崎泉 (崎樋川)
天久寺嶽が現在の拝所のどれに相当するかは分からなかった。多和田之嶽と多和田巫火神は安謝集落銘苅集落を訪問した際に探したが、分からず。寄宮集落に移設されたとモあったのでそこも探したがわからずじまい。

琉球王統時代には村祭祀は多和田ノロによって執り行われていた。

天久集落で戦前まで行われていた祭祀、村行事は下記の通り

沖縄戦での天久と戦後

天久海岸線の西原と樋川原 (天久グスク) には10基の高射砲陣地が設置され、天久村には日本兵が駐屯していた。泊の白山森 (上之屋穂採謝原) の安里国民学校には高射砲砲弾格納庫が置かれていた。十・十空襲ではこの高射砲で米軍機を砲撃した。一機を撃ち落としたそうだ。翌年3月には高射砲は撤去され南部に移され、その後には模擬砲が置かれていた。
  • 5月初旬 米軍は安謝川を突破し、天久、上之屋から泊を攻撃
  • 5/11 安謝まで進出、安謝川を渡り天久台地北端に米軍進出
  • 5/12 -13 天久台地が米軍に占領されている。
戦後、各地の収容所にいた真和志住民は真和志は米軍に接収されていたので、1945年12月から翌年1月にかけて代替地の糸満米須に移動した。5月に豊見城の嘉数、真玉橋に移動。天久地区はまだ開放されず、1946年暮から1947年3月にかけて真嘉比に移動させられた。住民は米軍に帰還要請を行なったが、使用予定があり、戻っても再度立ち退きの可能性が高いとと却下されるが、住民はその際の立ち退きを条件に1947年10月ごろに帰還がかなった。ただ、元の集落はモータープールや物資集積所となっており、水溜原、後原、東原の畑地に住み始めた。しかし、1950年7月に、米軍が米軍家族住宅 (マチナトハウジングエリア) 建設のため、立ち退き通告が行われて当時は墓地が多くあった潮満原が代替地となった。

天久集落訪問ログ



那覇クルーズターミナル

四回目の新型コロナ予防接種の為、那覇クルーズターミナルを訪れた。予約は一週間前にしていたが、台風で今日に延期となった。一週間延期になったことで、BA1対応のワクチンに変わっていた。接種にきている人は多くはなく、ガラガラで直ぐに接種は終わった。
那覇クルーズターミナルには久しぶりに船が停泊していた。去年8月にノルウェーを出港し来年4月までに世界を一周する計画のノルウェー帆船スターツロード・レムクルが昨日到着し、28日まで滞在するそうだ。帆船は1914年にドイツで建造、現役で稼働する大型帆船としては世界最古、全長約100m、3本マストと22の帆を備えている。乗組員62人で、波止場にはテント造りの簡易税関が置かれていた。
過去三回の接種から、接種当日は特に副反応はないのだが、翌日は少し頭痛と体がだるくなる。今日は特に体にはあまり影響がないだろうと、この後、旧真和志間切で未訪問の最後集落の天久と上之屋を巡る事にした。天久はクルーズターミナルからすぐのところにある。ここから天久グスクがあった丘陵地が見えている。

天久宮

真言宗八公寺の一つである聖現寺に併置の神社としての天久宮が丘陵を少し上がった所にある。この場所は現在の行政区では上之屋だが、上之屋は元々は天久の一部だった。天久宮は琉球八社の一つで、これまでには識名宮、安里宮、波の上宮、末吉宮、沖宮、普天間宮の6社を訪れたので、ここは7つ目になる。
天久宮の開基は成化年間 (1465年 - 1487年) とされ、もとはこの場所より北の地に建てられていた。1734年 (雍正12年)、聖現寺の大門内に移築し、西に坐して東に向って修築されていた。その場所は現在の泊高校の敷地内だったが、現在の北側斜面に移転したと云う。鳥居の奥は駐車スペースのような、コンクリートの空地だけ。北隅に拝所があり、「天帝子御世 貴布仁御世」と刻まれた石碑が置かれている。ここは拝所であることは確かだろうが、この拝所の詳細は見当たらない。天帝子は琉球開闢神話の志仁禮久 (しじんれいく) と阿摩彌久 (あまみきゆ) の子供。日本神話では伊奘冉 (いざなみ) と伊邪那岐 (いざなぎ) が志仁禮久 (しじんれいく) と阿摩彌久 (あまみきゆ) に相当する。貴布仁 (きふじん) が誰なのかは不明だが天孫氏系の人物が祀られているのだろう。
天久宮は移設された事によるのかも知れないが、変則的な造りになっており、三階建てになっている。駐車場が三階にあたり、シーサーが守っている階段を下りると、手水舎があり、その向こうに、拝殿がある。ここに祭祀神として熊野三神の伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、速玉男尊 (はやたまをのみこと)、事解男尊 (ことさかをのみこと) を祀っている。この三つの祭神以外にも、境内御嶽として龍神神世一代の天龍大御神 (てんりゅうおおおんかみ、先樋川の辰)、天久臣之姫大神 (あめくしんのひめおおかみ) が祀られている。この二つの祭神は、この後に訪れる先樋川のベーベー嶽とガマ樋川嶽に祀られている。
拝殿奥には本殿があり、大和形式の神明造りになっている。
社殿は1944年 (昭和19年) の十・十空襲で焼失して1972年 (昭和47年) に再建されたもの。以前の社殿の写真が残っている。
境内奥には権現堂があり、いくつかの仏像が置かれている。沖縄でも神仏分離令が施行されたのだが、沖縄のおおらかさで、神仏習合が残っている。というよりは、厳密に仏教、神道、土着の祖先信仰を区別はしない。それで、ここでは仏像を拝む場所になっている。
権現堂と拝殿の間には境内摂社として弁財天が祀られており、大和形式の宮が置かれている。弁財天の後ろには後述の伝承にある女神の消えたという洞窟が残されているそうだ。
拝殿の隣は小山になっている。社殿が1944年 (昭和19年) の十・十空襲で焼失した後は、御嶽形式により奉祀していた。この小山は御嶽として拝まれていたそうだ。(資料によってはこの場所が天久宮の前身となると御嶽として拝まれた場所とあるが、現在の天久宮は移設後のものなので少し辻褄が合わない) この小山の上には、境内御嶽として泊龍宮神 (はくりゅうぐうのかみ) と弁天負泰彦大神 (べんてんふやすひこおおかみ、玉筒男神、神世三代牛方神) が祀られている。
この弁天負泰彦大神以外以外にも天久の丘陵西側麓には幾つもの龍神の拝所が置かれている。赤で囲んだ龍神を、この後に訪問する事になる。(青、緑で囲んだ龍神は訪問済) 沖縄では開闢神話が二つある。一つはアマミキヨ/シネリキヨ神話とこの龍神伝説の二つ。一般的にはアマミキヨ/シネリキヨ神話が主流になっている。
一階に降りると、そこの奥にも大きな岩倉に御嶽が作られて神々が祭られている。泊之ユイヤギ御嶽とある。巨石は上まで続き、その上に社殿横の泊龍宮神と弁天負泰彦大神があるある小山となっていたのだ。泊ユイヤギ御嶽はかつて弁財天の洞窟があったといわれ、沖縄石灰岩の上に祠が置かれている。安産祈願に拝まれている。岩の前にも幾つもの香炉が置かれている。
ここで触れられた洞窟に関わり、天久宮の創始について伝承がある。銘苅集落では銘苅子が天女とスグルガーで出会ったとの伝説が伝わっている。天久のこの伝承と関係があるそうだ。
往古、銘苅村に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。

泊ユイヤギ御嶽がある一階には三日月御井 (ミカジキウカー) が保存されていた。


天久山聖現寺

天久宮の三階駐車場から坂道を少し登ったところに東寺真言宗の聖現寺がある。
聖現寺は天久宮を管理するために置かれた別当寺だった。開山は咄海禅師、本尊は正観音菩薩、山号は天久山で、天久の寺 (アメクヌティラ) と呼ばれている。琉球国由来記には聖現寺の開創時期を天久宮と同時期の成化年間 (1465~87年) としている。元々は泊外人墓地のすぐ隣りにあったそうだ。英祖王が公館として建設したとされる「泊御殿」の北に諸島の貢物を貯蔵する公倉があり、これが後の聖現寺といわれている。当初は臨済宗の寺であったが、1671年 (康熙10年) に頼昌法印によって真言宗に転宗している。1734年 (雍正12年) には天久宮が移設されている。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で壊滅的打撃を受け、1958年に再建された。沖縄戦以前の聖現寺本堂の写真がある。単層、寄棟造、本瓦葺で、前面は吹抜で縁側となり、縁柱は角材で鴨居上の欄間の部分には、外側に竪板を張っている。本堂内に客殿を併設していた。
琉球王統時代は、当時、那覇に上陸した外国人のため、この聖現寺を宿舎として提供し、臨時の居留地として利用していた。ペリー艦隊が来琉の際 (1853年、1854年) にもこの聖現寺を宿舎として滞在しており、ペリー日本遠征記図譜にも随行画家のハイネの描いた聖現寺がある。写真と同じ造りとなっているのが分かり、境内には天久宮も描かれている。
もう一つ、版画が残っている。イギリスの海軍将校のバジル・ホールが1816年にこの地に40日間滞在した際に、同行したドゥワリス (W.H.Dwarris) が火薬を運んでいるのを描いたもの。上のハイネの石版画よりは40年程前に描いているので、細かい所で違いがあるが建物の位置などは同じだ。
更に、1855年10月にフランス艦隊が琉球との通商条約締結のために来た際に、フランス人宣教師がこの聖現寺に滞在している。この時の聖現寺を描いたものがフランス本国でフランクレスリー紙に掲載されている。聖現寺は1844年から、フランス人神父が伝道所として使っていたそうだ。


古拝殿 (フルフェーリン)

聖現寺の北に少し登り、天久緑地の墓地にある細い道を降りていくと右手に洞窟がある。古拝殿 (フルフェーリン) と呼ばれ、拝所となっている。(フェーリンは岩座のこと)
入口の手前に地頭火神がある。
洞窟 (ガマ) に入ると広さ10畳ぐらい広場になっている。
中には幾つもの香炉が置かれている。ガマの前部は今世の洞 (イマヌユガマ)、ガマの後部は先世の洞 (サチヌユーヌガマ) とされ、グソー (あの世) 七役場と呼ばれる死後の世界の入口をつかさどる神仏が祭られ、霊界へ繋がっている場所とされている。神霊スポットだそうだが、信仰心が無いせいか、何も感じない。拝所の一つには五臓神と書かれたものもあり、肝の親、女の臓腑の神を祀っているらしく、少し不気味だ。ここには神や死者との会話の橋渡しをするシャーマン (口寄せ巫) ユタがよく訪れるという。
ガマは奥にも続いているようだが、通路は狭くなって先には進めない。昔はこの奥に灰状になった人骨があり、地元では御先世ヌ御骨 (ウサチユーヌミクチ) と呼び、クバチンヌイビ (威部) として拝んでいたそうだ。昔はフルフェーリンの崖下は海だった事もあり、周辺には貝塚や古代人の遺跡がいくつか点在している。この洞窟もは古代人が住んでいたとも墓として使われたとも推測されている。天久宮の古形とみる説とか、船の難破で中国人が住んでいたとの説もある。
この古拝殿の洞窟は「天久」とも呼ばれ、洞窟に権現神が祀られていたという。熊野から来たとされる権現神は「鋳師大明神」の火の神ともいわれ、恐れる存在なので民家の中には祀られず、近くの洞窟にご神体は祀られていた。その後、寺の外に祀られるようになっていく。1734年 (尚敬22年) に、天久宮も古拝殿の洞窟から外にあった聖現寺の地に移転したとも伝えられている。

羊順毛 (ウェンジュンモー)

更に丘陵を上に進むと墓地がある。この辺りが丘陵の頂上になり羊順毛 (ウェンジュンモー) と呼ばれている。山は目の前に見えているのだが、そこへの道は見つからず、樹々が生い茂っており頂上までは行けなかった。
別の道を探す。近所の人に羊順毛への道を聞くが、羊順毛自体が通じなかった。山の頂上への道を尋ねて教えてくれた道を登って行くと頂上が広場になっていた。
ここには、祖霊神の金満御嶽、唐から伝わった農業神の土帝君、沖縄の各地へのお通し (遙拝) の国火の神が祀られている。かつて、ここででは3月ウマチーが盛大に行われていた。3月ウマチーは麦の収穫祭で、麦のお握り御願とも言われ、麦飯のお握りなどが供えられていた。資料では金満御嶽と土帝君についてはこれ以上の情報や写真は載っておらず、どれがそれにあたるのかは不明だが、広場には石積みの祠とコンクリート造りの祠があった。この二つがそれにあたりのだろうか? 
お通しは三つ置かれている。現在はこの三つのお通しの改修工事中で、香炉を置く土台ができたばかりだった。10月には綺麗に整備が終わっているだろう。どの様になったか再訪したい。

  • 西 (イリ) の香炉は琉球に甘藷や甘蔗を伝えた唐へのお通し
  • 東 (アガリ) の香炉は沖縄の祖神アマミクの居住地と伝わる玉城ミントングスクと沖縄稲作発祥地である受水走水へのお通し
  • 北 (ニシ) の香炉は琉球開闢の御嶽がある今帰仁と芋を沖縄に広めた野国総管へのお通し
この場所は女性の行事の三月遊びの場所でもあり、風光明媚の場所だったという。ここからは泊の港が一望できる。また、ここには沖縄戦では高射砲が置かれていた。羊順毛の頂上近くから泊港を見下ろす場所があり写真撮影。
後でペリー来琉時にハイネが残したスケッチに同じ場所から描いた画があった。今日訪れた所にペリー一行も訪れていたのだ!

ジーチ金満墓 (?)

資料では羊順毛 (ウェンジュンモー) の近くにジーチ金満墓があると言う。場所ははっきりとはわからないが、羊順毛から崖下への道の先に磨崖墓があった。羊順毛に金満御嶽があるので、ここがジーチ金満墓かも知れない。このジーチ金満はシリンカー金満とも呼ばれている。 ジーチ金満は、王命で中国へも往復して五穀や豆腐の製法も習得して来た人と伝わる。

久場森御嶽 (クバムイウタキ、天久之小嶽)

洋順毛の北は天久のマンション街になっている。その駐車場の中に多和田ノロを祀った久場森御嶽 (クバムイウタキ) がある。琉球国由来記では天久の御嶽の一つとして、天久之小嶽 神名 コバノ森御イベと記載されている。天久久場森の神(アメククバモリノカミ) とも呼ばれている。戦前は天久之嶽 (大御嶽) の東方に位置していたが、戦後米軍による軍道1号線 (現在の国道58号) の拡張工事で天久門西原の小高い丘のサンゴ石灰岩山が取りくずされて、久場森御嶽は、その掘り下げられたところに、コンクリートのの拝所がつくられた。
地元の言い伝えでは、古拝殿 (フルフェーリン) の洞窟は、この久場森御嶽に神の鎖によってつながっていて、クバチンヌイビの祖神はここを通じて天に往来する。 久場森御嶽での祈願は玉城への御通しで、この祖神が日神の依代の久場森御嶽の神として天に昇り、玉城のミントン城との間を行き戻りするという。

天久グスク

天久マンション街の裏に天久グスクがある。への道がある。天久グスクのある丘陵東側は大きく削られてコンクリートで固められてしまっている。かつてのの天久グスクはもっと広かったのだろう。
マンションの駐車場の奥にグスクへの道があり、そこを進むと、丘陵天久緑地からの尾根に広場があり、幾つもの拝所が置かれている。グスクとしての遺構は残っていない。
天久グスクは、城塞としてではなく聖域としてのグスクと考えられている。泊八景の一つの天久晴嵐 (アメクセイラン) ともいわれ、東シナ海に沈む夕日が美しい風光明媚な場所と知られていたそうだ。また、ここでは1609年の慶長の役 (薩摩侵攻) の敗戦で、薩摩に連行される尚寧王の船を王妃や近侍の女官たちが人知れず見送ったとの話も残されている。広場には首里王府が認定した島尻国頭、伊平屋、久米慶良間、宮古八重山やその外諸島への遥拝所がある。

大御嶽 (ウフウタキ、天久之嶽 アミクヌタキ)

入り口を入った所、西側に向けた拝所が琉球国由来記にある天久之嶽 (アミクヌタキ 神名 推揚森威部 オシアゲムイ) にあたるが、地元では大御嶽とも呼ばれている。大嶽 (天久之嶽) は、1943年 (昭和18年) 頃までは天久グスクから坂中樋川へ下りて行く下口側の近くにサンゴ石灰岩が積まれた御嶽だったが、第二次世界大戦時に、この附近一帯に日本軍の高射砲陣地をつくるため取りこわされ、現在は天久グスクの上部に移されている。以前の大御嶽については鎌倉芳太郎の「沖縄文化の遺宝」に記述がある。それによると「ウフウタキの拝所は、周囲に石垣を積んでなし、ガジュマルの垂れる下に香炉を安置し、西北方に向いて祈願する構造なり、これすなわち夏に於ける日没点を標的とし、この神獣と夏至の日没点とを結ぶ直 線上に首里城が位置し、この場所より首里城正殿は最も良く眺められる」とある。大御嶽は、日神のよりしろとしての御嶽で、太陽崇拝の祭壇をなし、西方の海の彼方にある根所へのお通しをする遥拝所と考えられている。
この拝所の裏側には香炉が置かれて拝所になっている。
その向こうには祠がある。温姓 森山親方と書かれれいる。温氏は元祖花城親方紹興に始まり、森山家はその支流だそうだ。

内御拝 (ウチウグヮン)

向かい側には内御拝がある。大御嶽と同じようなコンクリート造りの祠が東側に向けられている。この拝所は、東方の弁ケ嶽及び東世 (あがりぬよー) の遥拝所といわれる。五月ウマチーと六月ウマチーでは、ウフモーの火の神とこの内御拝 (ウチウグヮン) が拝まれている。

グスク火ヌ神

広場の奥の崖の上に火の神が祀られている祠がある。琉球国由来記にある天久城之殿と考えられている。この殿は「グスク火ヌ神」と呼ばれているが、大正時代の資料には「字御拝 (アザウグヮン)」とあり、「アザウタキ (字御拝) は、天久グスクのやや北方にあり、大昔からの遺跡と思われる香炉の台石は、正方形の壇の上に築かれている。このは北方に祈願するための拝所で、今帰仁、伊江、伊平屋、国頭及び大和への拝所である (馬姓一門はこの場所から奄美大島に「お通し」する)。 この拝所は字御嶽 (アザウタキ) と呼び、又字御拝 (アザウガン) という、字天久の祖先信仰の遥拝所となっている。」と記されている。ここから海岸が臨める。
広場内にはもう一つ拝所がある。天地と書かれた石柱が倒れてしまっている。インターネットで見た写真 (右) ではまだこれほどまでには荒れていなかった。
この天久グスクからは天久緑地への道 (写真左上) と崖下の坂中樋川への道がある。この二つの道を進んだが崖下への道は途中で深い樹々に塞がれていた。この辺りに大御嶽があったそうだ。

按司添御墓 (アジシーウハカ)、居神・根神 (未訪問)

天久グスクの北側、丘陵の西斜面に按司添御墓 (アジシーウハカ) と居神・根神の拝所があると資料には載っていた。場所は林の中ではっきりとは書かれていない。検討をつけて林への道を周りの道路を走り探し、それらしき入り口を見つけ、その一つ一つに入っていったが、古墓はいくつもあるのだが、資料に掲載されていた写真に近いものは見つからなかった。後で確認のために公民館に行くも、誰もおらず、断念となった。
資料によれば、按司添御墓 (写真上) は洞窟にある。入り口には天久御井戸があり、昭和の初期までお水神として拝まれていた。洞窟は貝塚時代の居住跡と考えられ、ここに住んでいた人々が洞窟から天久グスクの頂上部に移りはじめた頃に、この洞窟は祖霊神の風葬墓として利用されるようになったといわれている。グスク時代にはこの山林一帯に風葬された他の人々の骨も収骨し、この洞窟にまとめイベ墓にしたと伝わる。この洞窟墓には、天久村の三宗家 (天久の金城、原川の屋冨祖、尻礼武川の崎間) の祖霊を祀るお嶽として、それぞれの香炉が置かれている。洞窟の上部には東大里から来たと伝わるノロ墓 (神名 本地本ノロ) があり、その墓へお通し香炉が置かれている。居神 (イーガン)、根神 (ニーガン) の拝所 (写真下) も、大昔は貝塚人たちの居住跡だった言われており、居住していた人々が、 そのまま神としてこの洞窟に祀られて村の拝所になったと伝わる。根神は村の祭祀を司る血族の大ムート家婦人で大神とも根神あむしられとも呼ばれた。「大母神」 村を代表する神女である。居神は根神と同格の神女で天久グスクの殿火の神を守り神か根神の補佐役の神かはっきりしない。


天久公民館

丘陵地上北にある天久公民館に向かう。そこには国道58号線でしかアクセスがない。

この国道58号線は戦後は軍道1号線として米軍基地間の輸送や移動に使われていた幹線道路だった。戦前の天久集落はこの道路の東側にあり、公民館がある道路西側には民家は無かった。ここの天久集落住民が住み始めたのは比較的新しく、戦後、元の集落は米軍に接収され、その南に住み始めたが、1950年の土地収容令により米軍住宅として再度強制接収され、この公民館がある潮満原 (ウスミチバル) に住みはじめた。元の天久集落はすっぽりと米軍住宅内になり、整地され昔の集落は完全に消滅してしまった。1987年に米軍住宅地は返還され、その後那覇新都心として開発が行われて、1997年から部分的に一般開放が始まっている。


天久守護之神 天久村台の神座

公民館のすぐそばに天久の合祀拝所がある。1950年 (昭和25年) に元の天久集落が米軍に接収された際に、旧集落内にあった各拝所は立ち退き先に指定されたこの潮満原の地に仮安置し、1960年 (昭和35年) に新しく神座を設けて合祀している。祠内には、天久神女(ノロ神) が左側に、正面の祭壇左に三つの火ヌ神 (ノロ火の神、三ムートの火の神、村火の神)、右側には四つの神 (根人ニーブ取り、本地本ノロ火の神、居神・根神、古拝殿) が祀られている。更に隣りにも祠が設けられ、そこには天久守護之神である伊美御嶽、原川毛御嶽、花城御嶽、火の神 (地頭火の神、殿火の神) が祀られている。
  • 天久ノロ神の香炉には九代、十代、十八代前のノロが祀られている。十八代前のノロは、尚真王の時代に任命され、首里「真殿内」に所属していた。神として祀られて神名は大主乙樽、諱は中玉依姫と呼ばれている。
  • 七ツの火ヌ神と神火ヌ神は村の農耕の祭りや、そのほかの祭祀のとき、現地の祀られている神々へのお通し (遥拝) をするための火ヌ神。
  • 伊美御嶽は4~5世紀頃、天久海岸一帯に居住していた貝塚人である祖霊神祀った御嶽で、18世紀中葉、第三回目の天久地縁集団の村をつくったときに創設された御嶽。(琉球国由来記には記されていない) 
  • 原川毛御嶽は地縁集団 (三ツの門中) の集落中央の遊び庭 (アシビナー) にあった。 村の祖霊神を祀ったものではなく、村人の融和目的のためににつくられた。雨乞いの神行事も行われ、村の八月の十五夜の遊びはこの場所で昭和初期頃まで行われていた。
  • 花城御嶽は大正15年頃まではナーザトウタキとも呼ばれていた。 昭和初期になって、このあたりに住んでいた縁地集団の村に村屋がつくられ、この後方敷地にあったナーザトウタキを、村の前方の蔵佐山に移して花城御嶽と呼ぶようになった。この御嶽は学問の神様ということで、琉球王統時代、首里王府に職を得た人が花城姓を賜っていた事から花城御嶽と呼ぶようになったという。
  • 地頭火の神は天久の殿にあった。天久を管理していた官僚 (地頭代か?) が作らせて祀っていた。多くの集落で地頭火の神を見かけるが、首里より派遣された地頭代がその権威付けのために作っていたそうだ。
  • 殿火の神は天久ヌ殿とも呼ばれている。ウマチーの際に、この場所に神アサギをつくって、多和田ノロアムシラレにより祭祀が行われていた。

天久守護之神の井戸合祀所

祠の前には1952年に旧集落の井泉 (お水神) を合祀し、更に平成4年には開放地 (新都心) に残っていた神田の拝所を移し合祀している。形式保存された円筒の井戸が置かれて、お水神として、天久産川 (アメクウブガー)、三日月ガー、マルガー、コウジンウカー、天久ノロガーが祀られている。コウジンウカーは村で亡くなった人の、あの世への旅立ちのためにために故人の身を清めるために使用していたそうだ。神田として、銘苅橋の麓のスグロクの嶽の南側にあった天親田と貯え田を移設して祀っている。
天久誌にはかつての集落にあった天久産川 (アメクウブガー 右) とマルガー (左) のスケッチが掲載されていた。マルガーは共同井戸として産井 (ウブガー) だったが、水が涸れて、その後、天久産川 (アメクウブガー) が産井として利用されたという。

中臣幸乙女王御神 (なかしんこうおとめおう)、浮島神社跡

公民館から急坂を通り、丘陵の西の海岸側に降りる。坂道を降り切った北側に龍神の一つの中臣幸乙女王の拝所がある。前述の龍神図では天火龍大御神 (次男) の妻という位置付けになっている。拝所は小さな岩山にあり、入り口には鳥居が置かれている。中には幾つもの拝所が置かれている。鳥居を入った左奥にには地頭火神、その前には混比羅大明神/恵比寿大明神/大国大明神を祀っている。
岩山の岩壁に祠が設けられ、恵比寿と大黒天の石像の間に中臣幸乙女王が祀られている。碑には恵比須大明神と参天うみ賜ひ母神と書かれていた。中臣幸乙女王の両脇にも拝所がある。奥には天久美智辨姫御世が祀られてている。もう一つは崩し文字で読めなかった。
この場所は浮島神社が置かれていた場所だそうだ。元々は長寿宮という名で琉球で最初に建立された神道神社で、戦前に、社名を浮島神社に改め再興の計画もあったが、戦争で実現はされなかった。昭和40年に沖宮がこの長寿宮を別社として浮島神社と改名している。
昭和63年に借地立ち退き問題で、波上宮に仮宮を構えて移転し現在に至っている。移転したとあるのだが、どの様な経緯でその場所が拝所になっているのかが気になった。岩山の上に登る階段がある。上には重要な拝所があるのではと思い登ったのだが、樹々が絡み合って途中で進めなくなったので断念。

崎樋川貝塚

天久台地の西側は急峻な崖になっており、それに沿った道がある。この道はかつての海岸線だった。つまり崖下はすぐ東シナ海に面していた。天久台地の西側斜面には幾つか貝塚があった。台地の北の斜面で崎樋川貝塚が発見されている。安謝の那覇葬祭会館裏の台地斜面一帯にあたる。崎樋川貝塚は2つの時期に分けられ、約3000年前の縄文時代の貝塚と、1500年位前の貝塚になる。1932年 (昭和7年) に発掘調査を行われ、土器や石器、貝の道具や装飾品、猪の骨の錐や針、垂飾品などが出土している。貝塚からは魚骨や貝殻が大量に出土している事から当時は海で魚や貝を採って食料にしていたと考えられる。貝塚は特に見学する様には整備などはしておらず、ただここにあったというだけだ。葬儀場で休憩を取る。裏には三界万霊碑が置かれていた。那覇葬祭会館は宗教問わずの斎場なので、仏教の三界万霊碑は裏の目立たない所に置いているのだろう。ここには多くの人が集まるせいか、人懐っこい桜耳の猫が近づいてきて仕切りに体を擦り寄せ食べ物をねだっていた。

崎樋川 (サチフィジャー)

更に道を南に進み、天久台地に入る路地があり、そこに崎樋川 (サチフィジャー) がある。
大岩の前に祠があり、その周りにも拝所が置かれている。
大岩の下から水が湧き出ていた様だ。今は涸れている様だ。そこから水路が残っている。
写真右上の岩の割れ目が洞樋川 (ガマヒージャー ) にあたる。18世紀に天久按司が開いたと伝わる。

天久臣乙女王神の御嶽(ガマ樋川嶽)

崎樋川 (サチフィジャー) の大岩の向こう側に今日三つ目の龍神を祀った天久臣乙女王神の御嶽がある。ガマ樋川嶽とも呼ばれている。天久臣乙女王神の石碑が置かれ、混比羅大明神と龍神うみ賜ひ母神の文字も刻まれている。天久臣乙女王神は神世一代の母神で、この後に訪れる父神の天龍大御神との間に天風龍大神 (子の神・表筒王)、天火龍大神 (丑の神・中筒王)、天水龍大神 (寅の神・底筒王)が生まれている。これは神道の系譜と全く同じストーリーで天久臣乙女王神が伊邪那美命 (いざなみのみこと) に相当する。沖宮の龍神祭の時には、天久の周辺にある父母と子供達の御嶽を拝んでいる。

潮花司 (スーバナチカサ)

かつての海岸線の道を進むと、駐車場の脇に琉球国由来記にも登場する由緒ある天久の御嶽で神名をヨリアゲ森ノ御イベの潮花司 (スーバナチカサ) がある。この拝所は多和田ノロにより祭祀が執り行われていた。潮花司では毎年3月 虫払いの行事の際、畑の畦に潜む野ネズミを駆除し、その一部のネズミを小船をつくって乗せて、「ニライの豊かな国 に行って生活しなさい」 として流したそうだ。
潮花司での「花」は波の花 (海水) を意味しており、神名がヨリアゲ森から推測されるのは海の幸、つまり回魚の寄りつきを願った神と言われる。また、潮花は雨乞いの神事にも利用され、首里城内の雨乞いの神事のときも、 天久の潮花から海水を取り寄せて城内の嶽々に海水を捧げて雨乞いの神事を行 なった。
現在では3月15日と8月の大安の日に自治会長を中心に祭祀を行なっている。
この場所は泊大阿母潮花司 (とまりおーあむすばなちかさ) の屋敷跡といわれ、第一尚氏最後の王の尚徳王に水を献上した場所という伝承が残っている。
尚徳王時代の1466年に、王、自みずから奄美の喜界島を征伐して、凱旋しました。住民の多数の出迎の中から、一人の婦人が、
王に、手を洗う清水を差上あげました。
すると王が言うことには、
「そなたは、何という者か。」と。
「私は、呉氏宗重 (ごうじそうじゅう) の妻でございます。
御主加那志前 (うしゅがなしーめー) の凱旋をお聞きして、海路遙々の御不自由を思うにつけ、取り敢あえず、新しい水で手を清きよめて頂いただこうと差上げた次第しだいでございす。」と。
尚徳王は、その言葉を聞いてお喜びになり、日を改めて、呉氏夫妻を城中に招きました。そして、宗重を泊地頭の職に、妻を泊大阿母潮花司に任にんじたのでした。
なお、この職名は、その時から始まったとも言われています。
別の伝承もある。
第二尚氏尚清王の時代、1537年 (尚清11年) の大島征伐で、大島の酋長のひとりの与湾大親が討伐され、その子供達は、軍船で沖縄に連行され泊港で解放された。子供たちは歩いて川海岸に辿りつき原川家の始祖の原川大主により助けられたと伝わり、ここに拝所がつくられたという。

坂中樋川 (フィラナカヒージャー)

道を進むと、天久の村井 (ムラガー) のひとつの坂中樋川 (フィラナカヒージャー) が天久台地へ登る坂道の途中にある。今でも水が勢いよく樋から流れ落ちている。傾斜地の中にある泉ということから坂 (ヒラ) 中(ナカ) の名称がついている。この井泉は沖縄の名泉のひとつで、現在でも8月11日から3日間続く水撫で (ウビナディ) には、県内各地から大勢の人々がこの泉を参拝するそうだ。この水を指先につけて、頭の上にあてると若返るという。
この井泉は18世紀頃伊江大城真三良が開いたと琉球国由来記にある。その後、泉のヒジャーグチ (樋川口) を改修し、懸樋 (カケヒ) にしたとの説もある。 村の人々は、樋から流れ落ちる水を見て、ベーベー樋川と呼んでいる。ベーベーは擬音からくるヤギを表す幼児語で、日本語では「メーメー」に相当するのか?樋から水が流れ落ちるのが山羊がオシッコするときの様子に似ているのでこう読んでいるのではないかと書かれていた。
昔は湧泉の下方は水田や田イモ畑、落花生 (ジーマーミ) 畑が一面に拡がり、昭和初期頃にはこの樋川に4100坪の水田が広がっていたそうだ。
坂中樋川の上には幾つもの香炉が置かれた拝所がある。
拝所がある崖からは坂中樋川に流れ込んでいる水が湧き出ている。三カ所ほど水の湧き出ているところがあった。
この場所は天久グスクの一部でグスクへの入口にあたっている。その事からこの地区は御嶽門原と呼ばれる。この坂道は途中で樹々で塞がれて進めないのだが、天久グスクから崖を降りる道につながっていた。またこの辺り、天久グスクの南側では沖縄貝塚時代前v期 (縄文晩期3000-2300年前)の天久遺跡、天久貝塚が発見されている。

先樋川べーべー嶽 (天龍大御神)

坂中樋川の拝所の奥に先樋川べーべー嶽があり、ガジュマルが絡まった岩をくり抜いた中に龍神伝説の神代一世の天龍大御神が祀られている。沖宮と天久宮の祭神となっている。ベーベーの由来については前述の通り。琉球開闢の父神で先殆ど訪れた母神の天久臣乙女王神と夫婦神になる。大和の神話の伊邪那岐 (イザナギ) に相当する。天龍大御神の石碑には主父御神と龍泉乃神の文字が刻まれている。

シーシンサー岩

更に道を進み、埋立地を通る臨港線との合流地点に大岩がある。その大岩の場所を境として南側は上之屋、北は埋め立て地の曙地区になる。かつての海岸が写っている写真右に見られるように、かつてはこの場所は天久浜と呼ばれた海岸で、その中に大岩が立っている。この岩は拝所になっており、日本から渡来したの高僧が祀られているという。年代ははっきりしないのだが、サンゴ石灰岩の石厨子に収められていることから、17世紀頃の人ではなかった かと思われる。どの様ないわれがあるのかは不明だが、この岩はシーシンサー岩と呼ばれていた。昔は波打ち際にあり、打ち寄せる波で侵食されたノッチ状になっている。戦後はこの海岸は那覇のごみ処分場だった。戦後の一時期まで、ここから泊村への道はなく、人々は浜辺の砂利の上を歩いて行ったそうだ。

ハイネのスケッチにはこの辺りから泊方向が描かれている。塩田風景が見られる。



天久の文化財についてはじっくりと見たので帰りは、いつもよりも遅くなり自宅に着いたのは6時半ごろだった。随分と日が短くなっている。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 天久誌 (2010 天久資産保存会)
  • 旧天久村農民の生活 (2013 金城勇徳)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 青い目が見た「大琉球」(1987 ラブ オーシュリ)

0コメント

  • 1000 / 1000