Okinawa 沖縄 #2 Day 179 (07/05/22) 旧宜野湾間切 (1) Kakazu Hamlet 嘉数集落

旧宜野湾間切 嘉数集落 (かかず、カカジ)

  • 嘉数公民館
  • 嘉数高台公園
  • 上ヌ山 (ウィーヌヤマ、Kakazu Ridge)
  • 村獅子
  • 地蔵尊
  • 展望台
  • 鈴鳴嶽 (スズナリヌタキ、上ヌ山) 
  • 嘉数高地激戦地
  • 京都の塔
  • 京都平安之碑
  • 嘉数の塔
  • ⻘丘之塔
  • 弔魂碑
  • トーチカ跡
  • 陣地壕
  • 殿 (トゥン)、地頭火ヌ神 (ジトゥーヒヌカン)、嘉数殿之山 (トゥンヌヤマ) 遺跡
  • 嘉数内グスク (Kakazu West)
  • 独立歩兵第272大隊慰霊碑
  • 樋川 (ヒージャガー)
  • エーガー (消滅)
  • アシンニ
  • 馬場跡 (ウマィー)
  • カンカー石
  • 新泉 (ミーガー)
  • 後原道 (クシバルミチ)
  • サクラガー (消滅)
  • 中道 (ナカミチ)
  • 桃原ヌ山 (トーバルヌヤマ)
  • 牧港井泉 (マーヒガー)
  • チヂフチャー洞穴
  • アンガー (消滅)
  • 病院壕
  • ティラガマ
  • 東泉 (アガリガー)
  • 並松 (ナンマチ)
  • 牛之糞坂 (ウシヌクスービラ)
  • 闘牛場跡
  • 比屋良川 (ヒヤガーラ)
  • 首里渡し (シュイワタンヂ )
  • 小禄墓 (ウロクバカ)

東京から沖縄に帰ってきてから、連日雨で、とうとう梅雨入りとなってしまい、なかなか外出の機会がなかった。今日は、その中で晴れ予報ということで、集落巡りを再開する。先月、浦添市の集落巡りを終え、今日からは宜野湾市の集落巡りを始める。まず最初は嘉数集落から始める。



旧宜野湾間切 嘉数集落 (かかず、カカジ)

嘉数集落は北側は大謝名部落、北東側は真栄原部落、西側から南東側にかけては浦添市に接している。昔から「カカジ」と称され小字には、伊礼原 (イリーバル)、内城原 (ウチグスクバル)、後原 (クシバル)、嘉数原 (カカジバル)、前原 (メーバル)、東原 (アガリバル)、東門原 (アガリジョーバル)、ジマヤーバル イリバル 仲嘉原 (ナーカバル)、比屋田原 (ヒヤーダバル)、上栄茶原 (ウイーチャバル)、水玉屋原 (ミジタマヤーバル)、西原 (イリバル) があった。昭和14年の村行政区画設置に基づき西原を佐真下区に、仲嘉原、比屋田原、上栄茶原、水玉屋原を真栄原区に分離した。集落の大半は伊礼原、内城原、嘉数原に集在している。 旧集落は嘉数原にあり、旧来の面影を残している。後方 (北側) には上の山 (ウィーヌヤマ、嘉数高台) があり、その北麓を比屋良川が流れ、東側ウシヌクス坂から浦添市当山に至る道路は、旧並松街道だった。
昔は、後原 (上の山の北側) と内城原に集落があり、その二つが嘉数原に移動合併し現在の集落を形成したという。戦前まで後原には棚原屋敷跡、内城原には親富祖屋敷跡があ ったという。慶長検地が行われていた時代には浦添間切に属していた頃で、その記録では賀数村が見られるので、慶長年間 (1596年~1615年) には村が存在していた。南島風土記によれば、宜野湾間切は1671年 (寛文11年)、尚貞王3年に、浦添間切から我如古、宜野湾、神山、加数 (後賀数、嘉数)、謝名具志川、大謝名、内みな、喜友名、新城、伊佐の10村を割き、中城間切の中前普天間、寺普天間の2村を、また北谷間切の内の安仁屋を割き、真志喜 (元大川ともいう) を新立し、14村をも って始まり、尚貞王の弟である宜野湾王子朝義 (尚弘喜) を封じている。後に謝名具志川を大山村に、前普天間を野嵩、寺普天間を普天間に、内みなを宇地泊に改称し、昭和20年までは村役所が字宜野湾に置かれていた。戦前には製糖小屋が12ヵ所、龕屋・ 闘牛場などの共同施設があった。

宜野湾市立博物館が発行していた「はくぶつかんネット第52号」に嘉数集落の紹介記事があり、その中に面白いものがあったので載せておく。

  • 嘉数の人びとは、嘉数集落の北西方向にあった大謝名の港田原でカモを捕獲していました。しかし、カモを持ち帰る際に横取りするフェーレー(強盗)が出たので、首里王府からヌンチャク(武器の一種)の使用を許可されていました。そのこともあり、首里からの帰り道に嘉数まで来ると、安心したという意味で“イチムルイカカジ(行き戻り嘉数)”と呼ばれていました。
  • 戦後、嘉数出身のハワイ帰りの方で花栽培の経験者がおり、嘉数で花の栽培が盛んになりました。女性たちは、大謝名や現在の嘉数ハイツ方面にあった米軍の部隊へ行き、花を売っていました。特にPAY DAY(軍人の給料日)には、「タバコチェンジ」と言って、代金の代わりに煙草をもらっていたといいます。ほかにもコンビーフやハムなど、様々な物品と交換をしました。花売りをしていると、次第に軍人と仲良くなり、売れ残った花束を全て買ってくれる軍人もいたそうです。当時は、「花と言えば嘉数」というほど、とても有名でした

部落の南側を国道330号線が走り、那覇へ の交通も非常に便利になり人口増加も著しく、伊礼原を 中心にした新興住宅街は、1979年 (昭和54年) に嘉数ハイツ自治会として独立。人口は沖縄本土復帰後、著しく増加し、増加率は減少しているが、現在に至っても増加は続いている。

明治時代はこの字嘉数は人口が首位の字宜野湾に次いで二番目の大きな字だったが、沖縄戦で、明治時代の人口の半分までに落ちこんでいる。その後、人口の増加は沖縄本土復帰以前は、宜野湾市の中では最も低く、1972年でやっと明治時代の人口に戻ったレベルで、市の中では最も少ない字であった。

民家の分布の変遷については、本土復帰以降に広がりを見せ、まずは北側に民家が広がり2000年以降は南側に広がり、現在では、嘉数高地公園、比屋良川公園以外は民家で埋め尽くされている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 鈴鳴嶽 (スズナリヌタキ、 神名: 不伝、上ヌ山)
  • 殿: 嘉数之殿
  • 村井泉 (拝井泉)東ガー新ガー、エーガー (消滅)
この嘉数集落で行われ、今も続いている祭祀については、真t待ったものが見当たらなかった。資料によると、2月、3月、5月、6月の各15日に御祭があったとある。これは麦と稲のウマチーに当たる。また、腰憩いは、以前は2月の行事だったのが、明治の末頃から3月の行事と一つになり、3月3日に行われるようになった。6月15日には綱引き、8月10日はカンカーの祝いがあった。(カンカーは牛一頭をつぶし、肉をカンカ石に供え、残りの肉は組に分配され、余ると各家庭に売却された。各家庭では薄やげっきつや桑の小枝などに牛の血を付け柴差しを行った。) また、龕の祝い (コーヌユエー) は豚をつぶし屋にその肉を供え管理人により供養が行われた。9月は新御願があり、各家庭では供物を持ち上の山桃原の山ティラガマーの拝所を巡拝した。集落では上ヌ山の他に西側殿山にある殿 (火神)、屋号桃原の屋敷北側に桃原の山、前原のティラガマなどが重要拝所となっている。祭祀は宜野湾ノロによって執り行われていた。


嘉数集落訪問ログ


嘉数公民館

まずは嘉数上グスクがあった上ヌ山に向かう。嘉数集落は上ヌ山の南側になだらかな傾斜地にある。集落の最も高い場所、嘉数高地公園のすぐ前に公民館がある。ここがかつての村屋だったのかは分からなかった。


嘉数高台公園

公民館の前は嘉数高地で、この場所は昭和55年に、嘉数高台公園として整備され、開園した。市内の景勝地となり、展望台や各種の運動施設、野外ステージなどが備えられている。


上ヌ山 (ウィーヌヤマ、Kakazu Ridge)

嘉数集落の北東、標高93mほどの高台にある嘉数高台公園には、嘉数集落で最も重要な聖地とされ、琉球国由来記 (1713年) の鈴鳴嶽 (スズナリヌタキ) とされる御嶽がある。

おもろさうしには「かかずもりぐすくねたてもりぐすく」とあり、嘉数グスク跡とも言われている。

  一 かゝずもりぐすく
    ねたてもりぐすく
    なよくらてづて
    あまやかせ
  又 けおのよかるひに
    けおのきやかるひに
  又 あらがみはてづて
    おりなぐはてづて


  村の最初から崇めた嘉数の杜グスクに
  嘉数の神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ
  今日の佳き日に
  神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ
  神女はオリナクの神に祈って
  神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ


この御嶽は、今は上ヌ山 (ウィーヌヤマ) と呼ばれているが、卯ヌ嶽とも呼ばれていた。おもろそうしに「かかずもりぐすく」、「ねたてもりぐすく」とあることから、嘉数上 (カカズウィ) グスク、根立て杜グスクとされているが、このグスクが何に使われていたか詳細は不明。ただ、この南側に浦添グスクがあり、今帰仁への道だったと思われる後の普天間街道も東側に通っていたので、浦添グスクが、英祖王統、察度王統時代に中山の中心地だったころは、北からの敵に対しての防御には適した高台だったと思う。沖縄戦でも首里城の防備のために日本軍が浦添グスク、そして嘉数グスクに陣を置いていたのもこの地政学的観点からだと思える。戦前までは高台の頂上部を囲うように石積みが残っていたが、沖縄戦では激戦地になり破壊され、今は残っていない。



村獅子

嘉数高台公園内の遊歩道を頂上に向かう途中、上の山と殿山の中間には、獅子毛 (シーシーモー) という場所があり、そこには、ヒーゲーシ (火伏、火返し) の厄払いの守り神である石獅子が南向き浦添ようどれに向けて鎮座している。石獅子は、大小合わせて二体あるが、この石獅子は沖縄戦で失われ、その後、大型のシーサーを作り安置されている。戦前は、現在安置されている場所より 10~20mほど奥にあったそうだ。


地蔵尊

石獅子の近くにはお地蔵さんが二体立っていた。以前はそれぞれが別の場所にあったのだが、今は片方をここに移している。どのような経緯でこの地蔵が置かれたのはわからないのだが、沖縄で地蔵を見るのは珍しい。


展望台

遊歩道を進み、頂上に着くと展望台が立っている。ここからは360度見渡せる。

高台からは普天間飛行場が眺望できる。滑走路の周りは民家がぎっしりとひしめき合っている。滑走路の脇にはオスプレイが何台もあり、見ていると一機のオスプレイがものすごい爆音を立てながら飛行場に向かっていった。これが毎日納戸も繰り広げられている。住民にとっては苦痛だろう。数々の事故も起こっており、早期の移転を望んでいる。展望台には飛行場移転後の計画を紹介するパネルが置かれていた。


鈴鳴嶽 (スズナリヌタキ、上ヌ山) 

昔は石塁で区画されていたが、三山統一で首里城を築造するにあたり、農民はその石を一つ一つ担いで首里へ献上したという伝承がある。 戦後、祠はコンクリート造りとなった。この祠は首里王府が認めた御嶽であり、おもろそうしには集落の村立てに関わっていたと謳われている。祠の中に石体三個と古い香炉が安置され、その後方にあったといわれる野国総官への遙拝所も移設されている。


嘉数高地激戦地

嘉数部落は沖縄戦において激戦地となった。この上ヌ山 (嘉数高台地) は日本軍により要塞化されていた。米軍は1945年 (昭和20年) 3月26日に慶良間諸島に上陸。米軍は1500の艦船、18万の兵員、後方支援部隊を含めると54万人を太平洋戦争に投入していた。4月1日には沖縄本島の読谷村 北谷村の海岸から、日本軍の抵抗も殆どなく、難なく上陸した。沖縄本島を南北に分断しながら進撃を続ける。4月4日には、早くも野嵩に収容所を設営し、南への進攻を開始。日本軍は上陸決戦を避け、持久作戦をとった。沖縄の住⺠は根こそぎ動員され、辛酸を極める。(このように書くと単なる出来事ととらえがちだが、実際の日本軍首脳部の考えは、沖縄を犠牲にしても本土決戦を遅らせ準備をするという意向で、沖縄は捨て駒として扱われていた。) 宜野湾に到達。この嘉数高地からは米軍が上陸し、この地に進軍している様子がはっきりと分かっただろう。

日本軍の最前線が宜野湾の嘉数にある嘉数高地で、西原の棚原~我如古~嘉数~宇地泊にかけて、嘉数高地で日米両軍の主力による最初の激しい地上戦となる。日本軍は嘉数高地にトンネル陣地を構築し、戦闘は16日間に及び米軍の被害も大きかったが、米軍の兵力や物量に圧倒され、激しい攻防戦の後、遂に日本軍は後退を余儀無くされた。

日本軍は浦添の前田高地に退却し、更に激しい戦闘となった前田高地の戦い (Kacksaw Ridge) へと戦闘はつづいていった。嘉数高地から、米軍の次の攻撃目標地の前田高地 (浦添城) がはっきりと見える。

当時はこのように間には、民家もなく、前田高地に陣取っていた日本軍は、この嘉数で行われていた戦闘を日々眺めていただろう。嘉数高地が落とされ、前田高地に向かってくる様子も見て取れたはずだ。

写真上は激戦地となった嘉数高地 (Kakazu Ridge) が向かって左側、嘉数内グスク (Kakazu West) が右側にあり、間を嘉数ポケット (Kakazu Pocket) と呼んだ深い谷間だった。嘉数高地北側辺りには多くの古墓が密集しており、日本軍が戦闘壕として使用していた。

この激戦地を米軍が移した写真がある。日本軍が使用していた古墓や洞窟、そして米軍が嘉数高地 (Kakazu Ridge) を占領した後に陣を設営した様子で、嘉数内グスク (Kakazu West) との間を嘉数ポケット (Kakazu Pocket) が写っている。

捕虜となった部落民は越来 (沖縄市)、具志川、野嵩などに収容された。戦後、昭和21年9月には宜野湾村で最も早く部落への帰還居住が許され、昭和22年1月までには移動を完了。昭和28年には内城原が解放され、外人向け貸住宅が建てられた。


この公園内には 嘉数の塔、京都の塔、京都平安之碑、青丘之塔、弔魂、島根の兵奮戦の地など、計6点の慰霊碑が置かれている。激戦地だった場所には沖縄地元民の慰霊碑だけでなく本土の遺族たちが、そこで戦死した息子や父親を偲び、慰霊碑を造っていることが多い。沖縄戦は確かに沖縄住民の犠牲の方が兵士戦死者よりはるかに多いのだが、本土からいわれるままに送り出され、ここで散っていった人や遺族にとってもその終焉の地として特別な意味がある場所なのだろう。ここ嘉数は嘉数高地に日本軍が陣を張ったことから、嘉数集落を挟んでの戦闘もあり、集落全体が戦地になっている。嘉数での戦闘は米軍が上陸して間もなくン事であり、まだ疎開をしていない住民が多くおり、それもあってか嘉数での住民の犠牲は半数近くになっている。宜野湾市の中でも南部に多くの犠牲者がでている。首里への侵攻が進むにつれて戦闘が激しくなっていったことが判る。


京都の塔

この地で戦死した兵士の多くは京都出身だった。ちょうど、展望台に上る道沿いに、「京都部隊激戦死守の地」の柱が立っていた。この場所で最も激しい戦闘があったのだろう。

この京都の塔は1964年 (昭和39年) に、京都府沖縄慰霊塔建設奉賛会によって建てられ、京都府下出身の将兵2536名が祀られている。慰霊碑には京都市左京区の鞍馬で切り出した「鞍馬石」が使われている。毎年2月に社団法人沖縄京都の塔奉賛会によって慰霊祭がおこなわれている。沖縄戦には各46都道府県がその出身地の兵士の慰霊碑があるが、そのほとんどの碑は、沖縄戦での⺠間人の戦死者、住⺠被害には触れていない。京都の碑は住民の犠牲に触れたを慰霊碑2基の一つ。しかない。慰霊碑には「京都出身者の将兵2530名余りの人が、郷土を想いつつこの地で倒れた、又、多くの沖縄住⺠も運命を共にされたことは、まことに哀惜にたえない。戦後19 年を経てこの地で亡くなった人々のご冥福を祈るため京都市⺠によって建てられました。再び、戦争の悲しみが繰り返されることの無いよう、併せて 沖縄と京都を結ぶ文化と友好の絆がますます固められる様、この塔に切なる願いを寄せます。」とある。この文面はシンプルだ。文面に○○柱、英霊、玉砕、御霊などの、戦時下で戦死を美化する様な語句が無い事により、その想いがより一層強く伝わってくる。


京都平安之碑

京都に関わる慰霊碑がもう一つある。京都平安之碑で、京都の碑と同じく1964年に建てられている。この碑については詳細は見当たらないのだが、全日本空手道連盟総本部正武道館場主一同が主催となっているので、空手を学んでいた弟子達の戦死を弔ったのかもしれない。


嘉数の塔

慰霊碑エリア内の向かって右側には、嘉数の住⺠が1975年に花崗岩で建てた嘉数の塔がある。沖縄戦の嘉数集落住民及びここに駐留していた日本兵の戦没者343名が祀られている。碑文には「この地で、米軍を迎え撃つ日本軍は肉弾攻撃をし玉砕した。その多くが京都出身である。この時、嘉数の人々は京都部隊を援助、輸送等の任務につき、外地に出征した人もあわせ 343人の犠牲者を出した。 (内、兵士91名) これは区⺠の過半数で、家屋160戸が灰塵と帰した。それは、本土防衛の使命感に殉じた区⺠の誠意によるものであり、永久に英勲を讃え芳名を塔下に埋蔵する。」とある。嘉数では毎年6月23日頃に慰霊祭が行われている。


⻘丘之塔

京都の塔、京都平安之碑、嘉数の塔のある慰霊碑エリアのとなりに、地面に根をいっぱい張り巡らせたガジュマルの木の場所にも慰霊碑が三つあった。その一つは、沖縄戦で犠牲となった韓国人、朝鮮人の軍人、軍属386名を祀った⻘丘之塔だ。1971年に日本民主同志会 (世界救世教の分派である平安教の右翼政治団体) によって建てられた。⻘丘とは韓半島 (朝鮮半島) のことで、昔中国では半島を中国側から見た様子からそう呼んだ。この碑の様に韓国人、朝鮮人の事にふれた碑は珍しい。沖縄戦では、多くの朝鮮人軍夫が使われ、首里防衛の外郭で激戦地になっ嘉数台地の陣地構築では最も多くの朝鮮人軍夫が作業にあたっていた。軍夫は那覇から軍用トラックで通い、当初軍壕に使う材木、松の木を運搬していた。平時には部落民も自由に入れない聖地、拝所の松林から伐採しはじめ、各地の民間から徴発された馬車に積んで運んだ。朝鮮人軍属が伐採、馬車まで運搬した。彼らは、民間人より遅くまで酷使され、作業に怠けた朝鮮軍夫が壕の前にしばりつけられているのを部落民が見て「そんなことしないで叱ればいいのに」と見かね、区長が兵隊に注意したこともある。嘉数高台の周囲に30個所の壕をつくるために、一日数千人の民間人が動員されていた。少しでも朝鮮人が怠けると、兵隊が勝手にしかりつけ、みんなの前で制裁していた。彼らは戦場でもっとも弱い立場であり、もっとも危険にさらされていた。


島根の兵奮戦之地

⻘丘之塔の後ろ側には「島根の兵奮戰之地」と書かれて慰霊碑もあった。島根の塔は糸満市米須にあり、島根出身兵士909人が祀られている。嘉数と島根の関係は判然としないのだが、この島根の塔が竣工をされたのを機に、1969年に、多分この地でも戦死した島根県出身兵士の冥福を祈って建立されたのだろう。


弔魂碑

弔魂碑は1963年に、社団法人日本郷友会連盟によって建立されたもの。京都から運ばれた慰霊碑「弔」の二代目、改修した石碑だそうだ。毫は、師団と縁のある陸軍大将の筆という。


トーチカ跡

上之山の頂上には、沖縄戦の際に造られた防御陣地の鉄筋コンクリート製トーチカが残されている。高さが最大1m、内部は2m四方程の広さになっており、南西部には小さな入り口が開いている。また、北側と北西側の比屋良川に向けての銃眼が2箇所あり、中に2~ 3人の日本軍兵士入って米軍に向かい銃や機関銃で米軍を攻撃していたという。トーチカには弾痕が無数にあり、形がかなり変形し、ここがトーチカの銃口と言われなければわからない。それほど激しい戦闘だったことがうかがえる。


陣地壕

嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心に周辺地域に幾つもの陣地を築いていた。その作業には兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くの人々が駆り出されれ、朝から夕方まで毎日、陣地壕構築作業を行ったそうだ。嘉数高台公園の丘稜中腹に陣地壕の入口が戦争遺構として保存されている。

この陣地壕は先ほど見学したトーチカと地下道でつながっていたとある。


弾痕の塀

嘉数集落の民家の塀に戦争当時の弾痕が残っており、戦争遺構として、この場所に移設され展示されていた。



次は嘉数集落内の文化財を見ていく。



殿 (トゥン)、地頭火ヌ神 (ジトゥーヒヌカン)、嘉数殿之山 (トゥンヌヤマ) 遺跡

嘉数高台公園の西側に隣接した丘一帯にグスク時代から近世にかけての嘉数殿之山 (トゥンヌヤマ) 遺跡がある。この遺跡内に殿 (トゥン) があり、古くはウマチー (豊作祈願) などでノロや村人が祭祀を行う聖地となっていた。殿 (トゥン) には地頭火ヌ神 (ジトゥーヒヌカン) もあり、琉球王府時代の地方役人である地頭代と結びついた火ヌ神だったことから、地頭火ヌ神と呼ばれている。祠内部には神が宿るとされている三つの霊石が祀られていた。

この奥にも拝所があり、火の神 末吉門中と刻まれ、火ヌ神 (ヒヌカン) を祀っている。殿 (トゥン) 自体の拝所がどれなのか、存在しているのか、いないのかははっきりとは書かれていないのだが、殿 (トゥン) はこの場所一帯の事を指し、その場所に門中などが拝所を据えたのではないかと思う。これはよくあることで、霊験があるとされる御嶽や殿の周りには、いくつもの拝所が後世に建てられていることが多い。


嘉数内グスク (Kakazu West)

嘉数高地 (嘉数グスク) の北西にもグスク跡と考えられている山がある。嘉数内グスクと呼ばれているが、このグスクについても詳細は不明で、グスクの遺構も見つかっていない。この場所も高台にあり、東南にある嘉数グスクと同じように北からの敵に対しての防衛線であったのではと思える。この内グスクは沖縄戦では日本軍の陣地が置かれ、米軍との激戦が行われた所。米軍は Kakazu West と呼んでいた。写真上は嘉数集落からで、集落のすぐ北で、墓群がある。写真下は比屋良川から見た所で、米軍はこの方向から日本軍を攻めていた。


独立歩兵第272大隊慰霊碑

嘉数内グスク、沖縄戦では Kakazu West と呼ばれた日本軍陣地がある山の北側斜面に独立歩兵第272大隊慰霊碑が置かれている。正式には球14212 下田部隊慰霊碑と刻まれ、1990年に建立され、部隊長下田大尉 (戦死後少佐) 以下、610名の将兵が慰霊されている。昭和20年4月13日の早朝に、比屋良川 (ヒヤガーラ) を渡った米軍との戦闘となった。攻撃発起より僅かに2時間半で、独立歩兵第272大隊(球14212)は大隊長以下全滅。3日間を敢闘した600余名の将兵は、その殆んどがこの日、屍となってしまった。


樋川 (ヒージャガー)

嘉数内グスクの北西、嘉数集落から外れ坂道をかなり下った所に、樋川 (ヒージャガー) がある。この井泉についての情報は見当たらなかった。綺麗に澄んだ水が勢いよく湧き出て、水路を通って流れ落ちていた。この辺りは小字内城原で、現在の嘉数集落はここに集落をつくっていた住民が現在地に移住し、同じく、後原の集落から移住してきた人たちと合併して嘉数集落を形成したと伝わっている。


エーガー (消滅)

樋川 (ヒージャガー) から坂道を上ると、途中に地面がコンクリートで固められた場所がある。ちょっと不自然は形だ。ここには、かつて村井泉だったエーガーがあった場所だが、そこを埋めえ立てたので、このような形となっている。


アシンニ

坂道を登り切った所に三叉路がある、この場所は「アシンニ」と呼ばれ、かつて、急な坂道を登った後に休憩所として利用されていた。


馬場跡 (ウマィー)

このアシンニから南側に延びる一本道は馬場跡 (ウマィー) でウマィー小 (グヮー) と呼ばれていた。ここで、馬の走り方を競う琉球競馬が行われていたのだ。


カンカー石

アシンニから嘉数高地公園に向かって走っている道沿いに、カンカー石が祀られている。旧暦8月10日に嘉数集落では「カンカー」と呼ばれる行事があり、厄払いの祭祀が行われていた。牛一頭を屠殺してこのカンカー石に供え、残りは集落の各家庭に分けていた。現在は祠内に香炉 (ウコール) が祀られ、拝所になっている。


新泉 (ミーガー)

道を進むと、嘉数公園の西方、殿(トゥン) の南側に新泉 (ミーガー) と呼ばれる井戸がある。崖の麓にある洞窟の中を流れる湧泉で、水道が整備される前まで集落の生活用水として利用されていた。嘉数集落住民が生活用水のためで発掘、発見して築造した井泉で、村に三つあった村泉 (共同湧泉、東ガー、新ガー、エーガー) の一つ。戦時中は炊事、洗濯場として利用されていた。ポンプの跡があり、農業用水として利用されていた様に思えるが、現在は泉自体が埋没して、ほとんど利用されていない様だ。周囲には石組みや埋没しているが石畳も存在している。東ガー (産泉) とこの新ガーが拝泉となっている。


後原道 (クシバルミチ)

道をさらに進むと後原道 (クシバルミチ) と交差する。

この道は嘉数高地を通り、北の後原 (クシバル) に通じていた。後原には嘉数集落ができる前に集落があった場所で、現在の嘉数集落はここの住民が現在地に移住し、同じく、内城原の集落から移住してきた人たちと合併して嘉数集落を形成したと伝わっている。


サクラガー (消滅)

後原道 (クシバルミチ) 沿い、中道 (ナカミチ) と交差する所、集落中央に当たる場所には、かつてはクムイ (溜池) があった。 上ヌ山 (イーヌヤマ) から流れた水が溜まり、綱引きのカヌチ棒を沈めて保存していたそうだ。今は埋め立てられて、駐車場になっている。


中道 (ナカミチ)

公民館がある嘉数高地公園から馬場跡に下る道が集落の真ん中を走る中道 (ナカミチ) 。


桃原ヌ山 (トーバルヌヤマ)

馬場 (ウマィー) 終点地の東側、嘉数集落の西の端に丘があり、そこにはかつては桃原 (トーバル) の屋敷があった。今は屋敷はなく空き地になっているが、そこに桃原ヌ山 (トーバルヌヤマ) と呼ばれる拝所がある。航海安全の神様が祀られ、祠内には霊石と香炉 (ウコール) が設置されていた。


牧港井泉 (マーヒガー)

嘉数集落から外れた西側、浦添市の牧港 (マチナト) との境辺り、住所は牧港安川になるのだが、牧港川 (マーヒガーラ) 斜面に牧港井泉 (マーヒガー) があると資料にはあった。牧港川 (マーヒガーラ) への坂道を降りていく。急な坂道で、苔で非常に滑りやすい。手摺につかまりながら降りるが、途中で木々に覆われ、それ以上は進めなかった。斜面を探すと、洞窟は見当たるのだが、これが牧港井泉 (マーヒガー) かどうかはわからない。戦時中は避難壕として利用されていたというので、この洞窟にも避難していただろう。牧港井泉 (マーヒガー) は周辺の畑の農業用水に利用され、流れ出た水を利用して水稲を栽培していたそうだ。


チヂフチャー洞穴

同じ牧港安川に嘉数集落に深いかかわりのある戦争遺構がある。チヂフチャー洞穴で、浦添市の当山集落を訪れた際に見学した。当山集落牧港集落でもこのチヂフチャー洞穴がそれぞれの集落の沖縄戦遺構として紹介されているので、それぞれの集落に深い関係がある。沖縄戦では嘉数集落住民の避難壕として利用され、嘉数集落の半数以上の人が避難していたといわれている。 全長が110 mある鍾乳洞で1500年~ 800年前の土器や貝殻が出土しており、古代の人々の住処として利用されていたと考えられている。


アンガー (消滅)

チヂフチャー洞穴のすぐ近くには、今は消滅してしまったのだが、アンガーという井泉があったそうだ。詳細については見つからなかったが、チヂフチャー洞穴に避難していた住民が使っていたのだろう。



次に向かうのは嘉数集落の南側、浦添市の当山集落との境辺り。当山集落を訪問した際に、普天間街道の石畳を見学したが、その普天間街道に沿っての文化財がある。



病院壕

ちょうど浦添市字当山と宜野湾市字嘉数の境に小高い丘がある。当山集落では当山上ヌ毛 (ウィーヌモー) と呼んでおり、綺麗に整備している。この上ヌ毛 (ウィーヌモー) の南側が当山で、北側が嘉数になる。北の嘉数側の丘の下に、然に形成された鍾乳洞で 沖縄戦において嘉数病院として使用され、また嘉数集落住民の避難壕としても利用されていた壕が残っている。洞窟の前には、瓶が置かれ花が供えられていた。拝所ではないので、この壕で亡くなった人の供養で訪れる人がいるのだろうか? この丘は嘉数前原遺跡とも称され、標高83mの独立丘陵の東麓に形成する遺跡でもある。


ティラガマ

病院壕から国道330号を北に渡った所に丘があり、そこにもガマ跡が残っている。首里桃原の美女が家を逃げ出して、一時身を潜めた場所といわれている。この美女が普天満宮の祭神である女神 (グジー神) だと伝わる。この美女が最後に行きついたのが普天間宮で、そこに女神伝説がある。

  • 昔、首里の桃原というところに美しい乙女が住んでおりました。 優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となり、島中で噂となりましたが不思議なことに誰一人その姿を見た人はいないのです。
  • 彼女はいつも家で機織りにせいをだし、決して他人に顔を見せませんでした。神秘的な噂に、村の若者達は乙女に熱い想いを寄せておりました。
  • ある日の夕方、彼女が少し疲れてまどろむうちに荒波にもまれた父と兄が目の前で溺れそうになっている夢で見ます。乙女は驚き二人を必死で助けようとしましたが、片手で兄を抱き父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母に名前を呼ばれて我に返り、父を掴んでいた手を思わず放してしまいました。幾日か過ぎ、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還しましたが、父はとうとう還りませんでした。
  • 乙女はいつものように機織りをしていましたが、その美しい顔に愁いが見えます。 神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが、乙女の心から放れません。以来、旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日でした。
  • 乙女の妹は既に嫁いでおりましたが、ある日夫が「姉様は美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから一目会わせてくれないか。」 と頼みました。しばらく考えた妹は「姉はきっと断わるでしょう。 でも方法があります。私が姉様の部屋に行きあいさつをしますから、そのとき何気なく覗きなさい。 中に入ってはいけません。」と答えました。
  • 「姉様しばらくでございます!」 妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけ、途端に逃げるように家をとびだしました。 末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天間の丘に向かう 乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草になってなびき伏しました。乙女は次第に神々しい姿に変わり、普天間鍾乳洞に吸い込まれるように入って行きました。 そして再び乙女の姿を見た人はありません。 現身の姿を消した乙女は普天満宮の永遠の女神となったのです。

この洞窟に伝わる話はこのティラガマだけでなく、大山の美底山 (ミスクヤマ)、神山のティラガマにも残っている。

洞窟はコンクリートの支柱をたたえて保存されている。昔はもっと大きな丘だったと思われるが、おそらく道路工事で、この場所だけは残し、このような形になっていると思う。洞窟の中には、鍾乳石柱の前に香炉が置かれ拝所となっている。戦時中は住民の避難壕として利用されていた。


東泉 (アガリガー)

ティラガマの入り口に面した通りは、嘉数集落では東大道 (アガリウフミチ) と呼んでいた道で、ちょうど嘉数集落の端東側を通っている。昔の普天間街道に当たる。この道を嘉数公民館方向に進んだ途中、集落内に東泉 (アガリガー) がある。嘉数を代表する湧泉で、村に三つあった村泉 (共同湧泉、東ガー、新ガー、エーガー) の一つ。嘉数の産井 (ウブガー) とされ、子どもが産まれたときの産水 (ウブミジ) や、正月の若水 (ワカミジ)、人が亡くなって際の死水 (シニミジ) に利用されていた。この井戸は神聖な井戸とされ、戦前では汚れた物、子供のおしめなどは洗ってはいけないとされていた。以前は、東泉の貯水槽の前面には石畳が敷かれていたのだが、現在では埋没してしまった。泉の鉄柵の間を通って何本ものパイプが伸び、ポンプも設置されている。戦前は 濯用水や水浴び場、飲料水として利用されていたが、現在は年中行事 (産水、若水、死水) にカーの水が利用されている


並松 (ナンマチ)

東大道 (アガリウフミチ) を進むと、道路の両脇に松並木が見えてくる。ここは並松 (ナンマチ) と呼ばれ、かつては道の両側に松が林立していたそうだ。今はそれほど多くの松の木はないが、かつての並松 (ナンマチ) を復元しているのだろう。

この嘉数村から普天間村までの間には、尚貞王 (1645~1709) の世子の尚純 (1660~1706) が植え付けさせたと記録に残る宜野湾並松 (ジノーンナンマチ) と呼ばれる松並木があり、1644年からは、この道を通り、琉球国王が9月に普天間宮に参拝する普天間参詣が行われ、次第にこの時期にお参りする習慣が王府の官人や庶民にも普及していった。明治時代には宜野湾並松の行程は5.8kmで、松の株数2,944本であったそうだ。戦後、米軍普天間飛行場として大部分が軍用地となり、並松は滑走路建設で殆どが消滅してしまった。わずかに残っていた松も台風やマツクイムシの被害、商店街の発展にともなって伐採され、今では残っていない。


牛之糞坂 (ウシヌクスービラ)

東大道 (アガリウフミチ) は比屋良川に向かって下り坂になる。この東大道 (アガリウフミチ) 、つまり普天間街道は主に首里への道として利用されていた。かつての坂は、きつく牛が糞をしながら登ったため牛之糞坂 (ウシヌクスービラ)と呼ばれていた。これ以外に、周囲の地形が牛のこぶのように見えたからとか、坂を登るとき牛のクブー (後頭部) しか見えなかったためウシヌクブービラという説があるそうだ。現在は、戦前の奉仕作業や戦後の道路改修で、以前と比べて道幅も広くなり、傾斜も緩やかになったそうだ。


闘牛場跡

牛之糞坂 (ウシヌクスービラ) の途中には闘牛場があったそうだ。今はその面影は残っておらず、教会が立っている。


比屋良川 (ヒヤガーラ)

牛之糞坂 (ウシヌクスービラ) を下った所に比屋良川 (ヒヤガーラ) が流れている。ここは比屋良川公園となっており、川に沿って遊歩道がある。川が渓谷になっており、沖縄戦で米軍が嘉数高地を攻める時に、まずこの川が難所だったという。


遊歩道の崖にはいくつもの洞窟墓があり、その幾つかは煤で真っ黒になっている。沖縄戦での爪痕だろうか? 帰宅後、調べると、やはり、米軍による火炎放射器掃射の跡だった。


首里渡し (シュイワタンヂ )

比屋良川は川底が石積で水路が設けられている。これから想像すると、川はそれ程深くはなかったようだ。昔は旧国民学校への通学路として、この比屋良川をを渡るワタンヂ (渡し) が残っている。 大雨が降ると沈下して通れなかった。 首里に行くための道であったため、首里渡し (シュイワタンヂ ) といわれていた。


小禄墓 (ウロクバカ)

遊歩道を更に進むと比屋良川沿いの断崖を掘り込んで、前面を積石で囲った古式の墓がある。小禄墓 (ウロクバカ) と呼ばれている。墓前には古式の香炉の両側に火成岩で造られた唐獅子が配され、墓の前面は小石を削って積まれ、右側に窺穴があり、墓の入口は一間巾に門のように積み、さらにその中に石積みをして墓口を普通のように開けてある。葬儀の際には、正面中央の石積みを取り外し墓門を開ける様になっている。これは、龕を墓内に持込み、龕のまま安置して白骨化させたと考えられる。この方式は国王薨去の際のもので、国王の墓でなければこの形式の墓は造らない。浦添よーどれと似た形式。墓を開き調査し、「おろく大やくもい 弘治七年六月吉日」と浮彫された石棺があり、墓内には石棺骨壷がたくさん入っていた。小禄大やくもいは奥間大親の次男天願按司泰期 (察度王の弟) の子である上具志川の比屋四代の孫にあたり、小禄親方と称し、憑姓鉢嶺清順 (上具志川の子孫)、又吉清等の祖先になる。墓は子孫の字大山の上具志川家が管理している。 その他、墓に葬られた人達はみな察度王の子孫で、上具志川の一門や我如古の察度王系の祖先であった。
墓の中にあった石厨子と石彫香炉と鼻の前にある石彫獅子の説明札が墓の前の木にぶら下げられていた。

小禄墓内石厨子 (写真左)

墓室内に安置された石厨子は、輝石安山岩製 で、表には両側に童子が花を捧げて立ち、中央に位牌を型どりその中央に「おろく大やくもい」右に弘治七年 (1494年)、左に六月吉日と浮彫りに記している。弘治七年の仮名金石文字は琉球では最古のものである。 裏面には菱形の中にヒモを結んだような唐草模様があり、右側面には二匹の鹿が彫られ、左側面には鶴が二羽彫られている。屋根の棟の両端と屋根の両垂の四角には鳳凰の鳥が飛立つような彫刻があり、屋根は瓦葺のような彫刻を施し、台座にも彫刻があるが、石棺全体として浮彫である上、その彫刻がちみつで琉球の石棺の最高のもの。弘治年間は尚真王時代で放生池の石橋や玉陵より早く造られたもので、当時の琉球石工芸術の研究上貴重なものである。

小禄墓石彫香炉 (写真中)

香炉の四面に火炎宝珠 (又は太陽) 麒麟・花生け、四隅に獅子が浮き彫りされている。1806年 (嘉慶11年) に馮姓の士族が寄進しtたもの。

小禄墓石彫獅子 (写真右)

墓守りの石彫獅子。獅子は立ち上がった形なのだが、磨滅により、元の姿が失われている。


これで嘉数集落訪問は終了。今日はじっくりと見て回り、帰りは6時過ぎに嘉数を後にして、7時過ぎの帰宅となった。随分と日照時間が長くなり、冬の様に急いでみる必要がなく、かなりの時間を使えるのはうれしい。今日、訪問中に目に留まった花があった。道の両脇の並木に咲いていた花で写真左。よく開店時に送られる胡蝶蘭と似ているので調べると、アマビリスという少し小さめの胡蝶蘭だった。これが沖縄では並木道に咲いている。もう一つは写真右のもの。この木の近くで良い匂いがした。きんもくせいの様な匂いだ。これはクロツグヤシという植物で、ちょうど写真の様に花が咲いて、そこから匂いを発しているのだった。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (1009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾市 地理学実習現地調査報告書 2019年度 (2020 京都府立大学文学部歴史学科文化遺産学コース)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • はくぶつかんネット第52号 (2015 宜野湾市立博物館)

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