Okinawa 沖縄 #2 Day 112 (20/06/21) 旧玉城村 (3) Maekawa Hamlet 前川集落

旧玉城村 前川集落 (まえかわ、メーガー)

[7月3日に再訪問:八班の大道産井泉、八班の共同井泉]

  • 上地原屋取 (イ―チハルヤードイ) 十班
  • 石川屋取 (イシチャーヤードイ) 九班、産井泉 (ウブガー)
  • 割取 (ワイトイ) 跡
  • 新井泉 (ミ-ガ-)
  • アダニ井泉 (ガ-) [未訪問]
  • 前川樋川井泉 (メーガ-ヒージャー)
  • 前川民間防空壕群
  • 上門門中の墓
  • 浮之花之嶽 (ウキヌハナヌタキ)
  • お宮 (前川神社、知念之殿)
  • 坂下井泉 (サカムトガ-) [未訪問]
  • ハルマーイチヂ
  • 玉頭尋常小学校跡
  • ハチヤノ嶽 
  • 旧村屋跡 (ムラヤー) 
  • 中道 (ナカミチ)
  • 前ン当 (メーントゥ)
  • 識名門中神屋
  • 大城 (ウフグスク) 門中神屋
  • むらやー (サーターヤー跡、前川公民館)
  • 膝城 (チンシグスク)
  • 権現 (グンジン)
  • 首城 (クビ―グスク)
  • バンク
  • 龕屋跡
  • 呉屋之殿 (ゴヤヌトゥン)
  • 第三期馬場跡 (ウマィー、農村公園)
  • 西の石獅子
  • 東の石獅子
  • マルブンティラ
  • 南の石獅子
  • 一里クムイ
  • 大道屋取 (ウフドーヤードイ) 集落
  • 八班の大道産井泉 (ウフドーウブガー) [7月3日訪問]
  • 長井泉 (ナガガ-)
  • 八班の共同井泉 [7月3日訪問]
  • 木田大時 (ムクタウフトゥチ) 拝所


この一ヶ月は近場を徒歩にて巡った。天気が不安定な時期は近場が良く、もう少し那覇市内の集落を巡りたかったのだが、予定していた集落の下調べが、新型コロナ感染予防緊急事態宣言の延長で、図書館の休館が継続されることになり、情報収集ができない。緊急事態宣言終結までは、少し遠出になるのだが、以前に図書館で情報を集めておいた南城市の旧玉城集落を巡ることにする。旧玉城村は船越、愛地、糸数は訪問している。今日はその集落二隣接している前川集落から再開する。



旧玉城村 前川集落 (まえかわ、メーガー)

前川集落は沖縄の集落の典型的な造りで、丘陵斜面に南側を前にして集落が形成され、その周りに耕作地が広がっている。建物は近代的にはなっているが、集落内は昔ながらの石畳や石垣が多く残っている。

前川集落は人口の65%が集中している中心の浮ノ花原、仲地原と、北西の石川原、屋繰原、東部の長田原、大道原に小規模集落の3つの地域になっている。過去の民家の分布がわかる地図を見ても、明治時代から集落の地域はほとんど変わっておらず。他の集落の様には、本土復帰後の大幅な住宅地の拡張は起こらなかったようだ。

前川集落は元々は糸数グスクの南側の山川堂原 (前川古島) にあった。「琉球祖先宝鑑 (千草の巻)」によると、前川村の成立の起源は、天孫氏の兄弟百名大君の孫の百名大主 (天孫氏四世) の四男前川按司が糸数グスクの南麓に移り住んだとある。天孫氏は25代思金松兼王が臣下の利勇に滅ぼされる 1186年まで続いたとされる。ほとんど神話の世界で、天孫氏が実在したかは疑わしい。百名大主 (天孫氏四世) の四男前川按司となると、かなり昔の話になる、本土では平安時代、奈良時代頃なのだろうか?「玉城村誌」では、それより少し後の天孫氏仲村渠大君の息子の国頭按司のニ男が世立初めとしている。

前川古島は13-17戸の小さな集落で、糸数集落の屋取集落のような扱いだったと考えられる。1736年 (尚敬王24年) に首里王府に当時前川集落住民の耕作地だった現在の前川集落の地への移住を申請し許可を得て移った。首里王府の農業政策である地割制度が寛文年間 (1661 - 1672) に施行された以降は集落の移動は許可が必要となっていた。移住に際しては、新しい集落は住まいの区画整理が行われていた。この前川集落もそれに沿って碁盤目状に区画が造られている。移住に際しては、移住を躊躇する住民の為、地頭の前川按司は神谷親雲上 (ペーチン) を移住させ、屋敷配置、道路の選定等の村造りの準備を行い、無事、残りの住民も移住をしたと伝わる。神谷親雲上 (ペーチン) の先祖の神田子は識名から移住してきたとされ、前ン当で祀られている。

集落内は昔からの石垣が残っており、昔の村の雰囲気が垣間見れる。昔はこのような道だったのだ。今まで多くの集落を巡ったが、これ程多くの石畳路が残っている村は初めてだ。

舗装された道でもその両脇には石済みの塀が多く残っている。昔ながらの形式の平屋も多く見かけた。

明治時代、前川集落の人口は旧玉城村の中では最も多く、820人 (169戸) であった。沖縄戦後、1945年 (昭和20年) 末から、村の復興準備さぎゅが進められて、翌年初めから収容所から住民が帰還してきた。同時に東風平、具志頭の村民も受け入れ、人口は3000人にも達した。その後、外地からの引揚者や他府県の疎開者も受け入れ6月には6000にも達し、一軒に3-4世帯が同居する状態だった。その後、他の集落も復興が進みそれぞれが元の村に戻り、 元の人口に戻り、人口は1000人を少し超えるぐらいだった。前川集落は他の集落とは異なり、沖縄本土復帰の期間もそれ程の人口の増加はなく、現在までほぼ同じレベルで微増といった感じで来ている。世帯数は1960年に比べ、2-3倍になり、核家族、少子化が進行している。


玉城村前川誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 大森 (大山御嶽、神名: キミマツノ御イべ)、小城御イベ (所在不明)、浮之花之嶽 (ウキヌハナヌタキ、神名: アフノヤマアフノ森御イべ、知念之殿に合祀)、オケノハナ嶽 (神名: オケ森若司ノ御イべ)、ハチヤノ嶽 (神名: センノ田原センノミトリ御イべ、所在不明、知念之殿に合祀、知念之殿に合祀)
  • 殿: 知念之殿、識名之殿 (知念之殿に合祀)、呉屋之殿 (知念之殿に合祀)、上川崎之殿 (所在不明、知念之殿に合祀)、下川崎之殿 (所在不明、知念之殿に合祀)


「南城市の御嶽」には前川集落で行われている年中祭祀は下記の通りとなっている。「前川誌」ではもっと多くの祭祀が記載されているが、現在でも御願されているかどうかははっきりとは書かれていない。ほとんどの御嶽と殿がお宮に合祀されているので、御願している拝所は少ない。


前川集落訪問ログ


上地原屋取 (イ―チハルヤードイ) 十班

県道17号線を南に向かい、先日訪れた愛地集落を越えたところが前川地区の北にあたる。この地域には上地原屋取があった場所だ。今でも広い畑の中に民家が点在している。屋取集落の形態が今でも続いている。上地原屋取は19世紀初頭に形成された屋取集落で十班にあたる。尚灝王 (1804-1834年) 時代に首里内金城村 (首里金城) の斉氏次男上地筑登之親震上完正は、大里間切湧稲国村に宅を構え、近辺の農民に農法を教えるかたわら、時期の作物の種苗などを分け与えたと言われ、湧稲国屋取集落の始祖の一人とされている。この上地完正の子孫が19世紀初頭に玉城間切前川村屋繰原に分家し、前川村から村有地の土地をもらい受け、その一角に屋数を構えて農業を営んた。その後、屋繰原一帯は上地家の姓をとって「ウィーチハルヤー」と呼称されるようになったそうだ。この場所には粟石で整働され、産井泉として使用された上地原屋取 (イ―チハルヤードイ) の井泉 (カー) があると資料にはなっていたが、その井泉は見つからなかった。


石川屋取 (イシチャーヤードイ) 九班、産井泉 (ウブガー)

上地原屋取 (イ―チハルヤードイ) の隣には石川屋取が形成されていた。1870年 (明治3年) に首里赤平の翁姓の玉城殿内の次男玉城親雲上盛松が首里王府の命によって、王城間切の山番 (松苗の管理人) として、ここ前川村石川原に派遣され、そこに住居を構えて、永住するようになったのが石川屋取の始まりで、殿内門中の始祖とされている。石川屋取は九班になる。畑の中に石川屋取 (イシチャーヤードイ) の産井泉 (ウブガー) があった。


割取 (ワイトイ) 跡

上地原屋取と石川屋取 を突っ切ると、雄飛川に出る。ここから見える山の南側斜面に前川集落が広がっている。橋を渡り坂を登るとハルマーイチヂの高台 (この後訪問) の西側にはしる県道17号線にあたるが、この道は切り通しで造られたそうだ。これは、1908年 (明治41年) 頃、村の前を通る道路建設でこの場所の切り通し (割取 ワイトイ) 工事を前川青年団が請け負い遂行し、その功績により県知事から表彰されたという。


新井泉 (ミ-ガ-)

割取 (ワイトイ) の近くに、農業用水として使用されていた新井泉 (ミ-ガ-) がある。これがそうなのかは、確かではないが、近くを探して見つかった井戸はこれだけだった。


アダニ井泉 (ガ-) [未訪問]

前川集落の北からの入り口の所にアダニ井泉 (ガ-) があると資料にはあり、この付近のはずなのだが、見つからなかった。


前川樋川井泉 (メーガ-ヒージャー)

割取 (ワイトイ) の県道17号線を登り切ったところから前川集落が始まるが、集落に入る前に集落西部を流れる雄飛川沿いの急傾斜面にある前川樋川井泉 (メーガ-ヒージャー) を見ることにする。急な滑りやすい石の階段を雄飛川まで降りた所にある。

呉屋門中の始祖の呉屋大屋子が発見したという。現在も、村落祭祀においてこの前川樋川井泉から水を汲んで知念之殿に供えているそうだ。昔はここまで毎朝水を汲みに来ていた。かなりの重労働だっただろう。井泉の奥は洞窟のなっている。ここも避難壕だったのだろうか?


前川民間防空壕群

前川樋川井泉に降りていく斜面にはいくつもの洞穴がある。これは沖縄戦で前川集落住民が避難するために掘った防空壕で、山沿い1キロほどに、連なるようにおよそ60もある。家族単位で造ったので一つ一つは小さな規模で、これほど多くの壕となっている。住民壕群としては、沖縄戦で最大の規模。所々に古墓もある。もともとは墓群だったところを利用して壕を造ったそうだ。古墓の中に骨甕が割れて人骨が散乱しているものもあった。この60の壕でおよそ600人が生活していたという。壕作りは昭和19年10月から始まり、壕に避難していた。一時期は日本軍に業を追い出されたが、軍は使用しなかったので、引き続きこの壕で生活をしていた。飲料水は前川樋川井泉から汲んでいた。昭和20年5月下旬には本島を南下していたアメリカ軍が前川地区に迫り、住民たち400人余りが壕を出て、日本軍の退却にあわせ、本島最南端に向けて逃げたが、激しい砲弾の中、その半数が犠牲となった。壕に残った住民の中には7つの壕の20人余りが集団自決で亡くなった。前川地区は、沖縄戦で当時の住民の3分の1が犠牲になった。


上門門中の墓

前川樋川井泉の反対側に上への階段あるので、そこを登ると立派な墓群がある。その一つに上門門中の墓と書かれている。崖の岩を掘った墓でいくつもある。綺麗に掃除もされている。前川集落にも上門門中があるのでその家の墓と思う。先に訪れた船越集落にも上門門中の大きな屋敷跡があったが、この前川の上門門中と関係があるのだろうか?


浮之花之嶽 (ウキヌハナヌタキ)

前川樋川井泉 (メーガ-ヒージャー) への石畳の階段の入り口付近、民間防空壕跡の上に浮之花之嶽 (ウキヌハナヌタキ) があるそうだがそれらしきものは見つからなかった。「玉村村誌」ではお宮に合祀されたと書かれていたので、なくなってしまったのかもしれない。「前川誌」には、もともとはこの場所の南西約100mにあったものでそこにも拝所があるとあった。その場所に行くと確かに拝所があった。ここが元々の御嶽があった場所だ。村落祭紀では、お宮から遙拝されているそうだ。御嶽は、土地改良工事の時に消失したが、岩の一部が戻され、畑地の隅にあるそうだ。琉球国由来記のウケノハナノ嶽 (神名: アフノヤマアフノ森第イベ) に相当する。ウケノハナノ嶽は屋嘉部ノロにより司祭されていた。


お宮 (前川神社、知念之殿)

次は前川集落内に入り文化財を巡る。まずは、前川集落を登り切った北側標高150m高台があり、そこに、前川神社とも呼ばれるお宮がある。ここは琉球国由来記の知念之殿にあたり、大城門中の拝所だった。前川の殿内、知念殿内ともいう。琉球八社への遙拝所と伝わっている。階段を上ると立派な鳥居がある。1935年に集落内の国頭屋屋敷 (新屋) にあった新屋門中の拝所であった識名之殿 (シチナヌトゥン)、呉屋門中の拝所の呉屋之殿 (グヤヌトゥン)、雄飛川玉泉洞上流にあった上川崎之殿 (イーカワサチヌトゥン)、雄飛川玉泉洞下流にあった下川崎之殿 (シチャヌカワサチヌトゥン) が合祀されたが、沖縄戦で消失、戦後、1954年にコンクリートで再建されている。この再建時に浮之花之嶽とハチヤノ嶽も合祀されている。多くの拝所が合祀されているので、祠の前にはいくつもの香炉が置かれている。元の場所にあった香炉を移しているのだろう。社の斜め前には、玉城按司上国付御供百名と1820年 (嘉慶25年) 時の玉城按司の一行の参拝が刻字された鹿児島から持ってきたといわれている灯籠 (右は大城仁屋、左は仲村渠仁屋と刻字) が置かれている。お宮は1月2日 (新) にはビンシー (瓶子、携帯用の御願セット) を供えて初ユレー (初寄り合い)、6月15日の六月ウマチーではビンシー、ウンサク (御神酒)、果物の他、前川樋川井泉で汲んだ御水を供えて祈願されている。かつては知念之殿での稲穂祭では糸数ノロ、屋嘉部ノロが共同で司祭していた。

お宮の前の広場には沖縄戦で犠牲となった集落住民の慰霊塔が建っている。これは1736年 (尚敬王24年) に、この地へ移住から250周年の際の記念事業の一部として建設されている。沖縄戦前後、1944年 (昭和19年) より、集落には日本軍の駐屯地となり、翌年三月より戦場と化し、全住民が (老人子供を除く) 軍への協力を要請され、軍と行動を共にし、村の3分の1にあたる380人もの多数の犠牲者を出し、敗戦となった。部落民は米軍の補虜となって各方面に収容された。同年十月、一時船越区に収容されたが、昭和21年 (1946年) に部落の移動が許可された。前川に移ってからは具志頭、東風平等の避難民を多数受け入れた。その後次第に落ちつき住民は元の住所へ移動し、現在の前川住民が居住することになった。更にその横には、1924年には皇太子 (昭和天皇) の成婚記念と知念之殿を赤瓦葺きに新築した際の石大工等労力提供者名が記された御成婚記念碑、1954年の再建の功労者名が記された村興運動記念碑が建っている。


坂下井泉 (サカムトガ-) [未訪問]

 お宮 (前川神社、知念之殿) の近くに坂下井泉 (サカムトガ-) があるそうだが、見つからなかったこの場所、集落の北側は畑地で、この井戸を農業用水として使用していた。



ハルマーイチヂ

お宮から遊歩道が高台の展望台になっている東屋に通じている。この高台はハルマーイチヂと呼ばれ、ハルは畑、マーイは廻る、チヂは頂上を表し、「畑を見渡せる頂上」という意味。かつてはここから前川集落がよく見渡せ、首里城、更には慶良間諸島まで見渡せる絶景の場所だったそうだ。この高台はちょっとした別荘地のような雰囲気がある。数軒しか家はないのだが、それぞれが広い前庭でゆったりとした造りになっている。また展望台の下には放課後サービスの施設があり、子供たちがここで刈っているヤギと戯れていた。

東屋の前は草が伸びて視界を遮っている。説明にある慶良間諸島方面は見えなかった。


玉頭尋常小学校跡

このお宮がある高台に玉頭尋常小学校跡の表示柱が建っていた。今はソーラパネルが置かれている。ここは標高150mで山の頂上。こんなところに小学校があったとは驚いた。前川は人口1000人もいた集落なので小学校があっても不思議ではないのだが、なぜこんな場所に造ったのだろうか、ここまでは集落内の急な坂を登ってこなければならない。通学は大変だっただろうに.... そういえば先ほどは放課後サービスの施設があった。子供たちにとっては民家が密集している集落内よりも、風も通る涼しく広々した高台の上のほうが、のびのびできるだろう。


ハチヤノ嶽 

前川集落北西の穴川原の丘の中にあった。前川誌では1924年 (大正13年) にお宮 (知念之殿) に合祀された。(同じ「前川誌」の別の記述では、1954年に合祀されたともある) 村落祭祀では、お宮 (知念之殿) から遙拝されている。琉球国由来記のハチヤノ嶽 (神名: センノ田原センノミトリ御イベ) に相当する。ハチヤノ嶽は、屋嘉部ノロにより司祭されていた。元あったb所の近くに行ってみると、雑木林への入り口らしきものがあった。この奥に何か残っているのかもしれないが、今は草で覆われ中に入ることはあきらめた。 (最近は時々ハブかどうかわからないが蛇の死骸を時々見かけるので、見通しが悪いところに入るのはためらいがちになっている。) 


旧村屋跡 (ムラヤー) 

お宮がある高台から集落内に下る。この前川は人口が1000人もいた大集落だった。1736年 (尚敬王24年) にここに移ってきた時はまだまだ小さな規模だった。移住の際に住み始めた場所には、有力門中の屋敷跡や村屋 (ムラヤー) があった。そこは高台頂上から少し下った所で、後に、この場所から下側に集落が広がっていった。この傾向は多くの集落でも同じだ。聖域は丘の頂上に置き、そのすぐ下側に有力者の屋敷が置かれ、一般の住民がその下側に住居を構えるといった感じだ。この集落も移住する前に、昔からの縄張りに従って作ったのだろう。現在の公民館は新しい場所にあるが、元々の村屋は集落の中心部の中道 (ナカミチ) 沿いに茅葺の建物があった。旧村屋の前は広場になっている。これも他の集落に共通の造りで、かつてはこの広場で、村の行事が行われていたのだろう。この建物は1917年 (大正6年) まで使用されていたが、人口も多くなり、同じ場所に以前の3倍の規模で木造瓦葺の村屋に建て替えられた。沖縄戦では村屋も含め村の8割が焼失した。


中道 (ナカミチ)

旧村屋の前の道は他の道よりは少し幅が広く、丘陵の斜面を南から北の高台に向かって伸びている。この中道沿いには商店もあった。小中規模の集落には商店などはないのだが、この集落は比較的大きいので、商店がいくつかある。


前ン当 (メーントゥ)

旧村屋からお宮の間に有力門中の屋敷跡が幾つかあった。旧村屋の東すぐの所に前ン当門中の神屋がある。立派な琉球石灰岩の石垣の塀で囲まれ、かなりの大きな屋敷だったことがわかる。前川の根屋 (国元) といわれる国頭大親景雄夫妻や、神田子 (カンダシー) という前川を興した人物を祀っている。神田子が王城間切を巡視中に糸数城跡の南麓山川堂原 (前川古島) で村造りをしている国頭大親景雄と出合い、二人は意志相通じて共に道路や屋敵の整理など村造りに協力し、国頭大親のすすめで神田子は前川村に居を構えたと伝わっている。神田子は南山王他魯毎の子孫の大里大親 (高嶺間切大里村の神元及び西銘ノロ元祖) の五男と言われている。子孫は八代神田筑登之 (屋号 神田屋) までつづき、その後、神田屋には嗣子がなく、国頭大親景雄の次男新屋親震上景貞の子孫で屋号 当ヌ屋が神田子の家を継いだとのことである。国頭大親景雄夫妻の香炉は元々は国頭屋 (新屋) の屋敷内の神アシャギに置かれていたが、いつの時代にかこの前ン当 (メーントゥ) に移された。


識名門中神屋

旧村屋から1ブロック上に上った所に識名門中の神屋がある。識名門中も前川集落の有力門中の一つ。神屋の隣のコンクリート製の祠の中に石厨子が置かれている。その横に由来を記した石板が建てられていた。それによると識名 (シチナ) 門中の始祖の照屋筑登之と上門 (イージョー) 門中の始祖の父親の尚嗣孝前川親方朝年が1600年頃に識名村で墓を造りその中に納めていたものが、発見され、そこから持ち帰りここに安置している。識名門中と上門門中の守護神として御願されている。先ほど前川樋川井泉の近くには上門門中の立派な墓があった。その上門門中の事だろう。個々の識名門中は那覇にある識名とは何か関係があるのだろうか?


大城 (ウフグスク) 門中神屋

識名門中神屋から更に1ブロック上に上った所には、これも有力門中の一つの大城 (ウフグスク) 門中の神屋があった。


むらやー (サーターヤー跡、前川公民館)

旧村屋から東に進み前川集落の東の端に、前川公民館がある。この辺りは集落が拡張した最期の地域で明治35年頃の事だそうだ。この時期に現在の集落とほぼ同じぐらいになった。人口も増え、当時の村では手狭となり、製糖場 (サーターヤー) があったこの場所に、戦後 昭和21年、木造トタン葺の建物を建て、村屋を再開するが、昭和23年に台風で損壊し、昭和26年に栗石造りで再建され、公民館となった。現在の公民館は昭和55年に建て替えられたもの。


膝城 (チンシグスク)

前川公民館の裏手にはグスク跡があったという。チンシグスクと呼ばれ、前川集落の東の端に位置し、地元の人たちからチンシモーと呼ばれている丘の上にある。前川は雄飛川を挟んで具志頭と向かい合っており、糸数グスクの出城として、南山の具志頭グスクや新城 (ミーグスク) への防備として置かれたと考えられている。また、この近くの雄飛川には糸数按司の船着き場があり、物流拠点でもあった。その防備もしていたのではないだろうか? この場所は、糸数按司と具志頭按司が戦った時に、チンシグスクは糸数グスクの前線基地であった。ここで戦った糸数軍の兵が具志頭軍に膝 (チンシ) を撃ち抜かれたことからこの様に呼ばれているそうだ。

沖縄戦や宅地開発でグスクの縄張りは削り取られ、遺構はほとんど残っていない。残っている米軍の地図などで推定されている縄張りが掲載されていた。標高76mの所に主郭がありそこは平らになっている。ここに小屋や柵が設けられ、兵士がいたのだろう。この主郭を囲んで、丘の斜面には三重の石垣で囲まれていたと推定されている。主郭の下の帯郭にあたるところには、石積みがあった。これは当時の遺構なのだろうか?


権現 (グンジン)

チンシグスクの帯郭に当たる場所に権現 (グンジン) と呼ばれる拝所がある。権現 (グンジン) がこの地に置かれたのはチンシグスクが廃城となって以降なので、チンシグスクとは関係はない。権現 (グンジン) は、首里で御殿奉行をしていた前川仲地原出身の内間仁屋 (ウチマニーヤ、内間家の先祖) が、唐 (中国) に旅に出ることになった際、安全祈願のためにフテンマグンジン (普天間権現 現在の天満宮) を参拝し、権現の分神 (霊石) を分け与えてもらい、その石を移住前の糸数にあった前川古島の屋敷の庭に置き、風水神 (フシンガミ) として、旅の間、家族や仲地原の人たちに祈願してもらっていた。旅の後、移住似た後に、神体はこのチンシモー (チンシグスク) で村神として祀られるようになったという。戦前は出征軍人やその家により、航海安全や旅先での健康が祈願されていた。


首城 (クビ―グスク)

チンシグスクの後方、北に接して、クビ―グスクと呼ばれる小高い森があり、ここにはチンシグスクの出城の首城 (クビ―グスク) があったとされる。糸数按司との戦いで、ここでは兵士が首 (クビ―) を討たれたということからこの名で呼ばれている。チンシグスクの南側は急峻な地形をなしているが、東側はやや平坦地となっており、この方面から攻めてくる敵兵に対して守備を固める必要がありこの出城を築いたのではないかと考えられている。


バンク

旧村屋 (ムラヤー) から数楽を横断する道を西に進み、集落の端まで行くとバンクと呼ばれる広場がある。ここは村に幾つかあったアシビナー (遊び場) の一つで、ここでは村芝居などが行われていた場所。この辺りには集落ができた時代の馬場もあったという。馬場は時代にょって、その場所を変えており、旧村屋あたりから始まった集落は、まずは西二伸びこの辺りまでになっていた。その後、ここから南に拡張し、それに伴い、第二期馬場はここから少し下に降りた所に移っている。三期は更に集落の下の外れに移動している。集落が拡張していくたびに変わったのだろう。


龕屋跡

バンクから集落西の端を下った集落から少し外れた所に龕屋跡があった。香炉が置かれているので、現在でも拝所として御願されているようだ。この辺りが第二期の馬場があった所だ。


呉屋之殿 (ゴヤヌトゥン)

龕屋跡の前の県道17号線沿いを南にすすんだ所が呉屋之殿があった場所で、空き地になったいる。今は拝所はなく、お宮 (知念之殿) に合祀されている。琉球国由来記の呉屋之嶽に相当するとみられる。糸数按司の次男の呉屋大屋子が分家し、糸数村から、仲地原の前川集落に移住してきたのが呉屋門中仲村家の始祖といわれている。呉屋之嶽では糸数ノロ、屋嘉部ノロにより稲穂祭が司祭されていた。


第三期馬場跡 (ウマィー、農村公園)

呉屋之殿 (ゴヤヌトゥン) の南側、集落から外れた所、雄飛川に沿って農村公園がある。ここはかつての馬場 (ウマィー) に当たる。集落が南に拡張され、馬場がこの場所に移って来ている。第三期の馬場跡だ。


西の石獅子

農村公園の北の端に西の石獅子がある。この辺りが前川集落の西の端だったのだ。王城村の各村落にも多くの石子が残っており、現在百名に一体、中山に五体、当山に四体、船越にニ体、屋喜部に四体、糸数に三体 (四体あったが)、前川に三体合計22体が残っている。仲村渠、富里、王城にあった石獅子は沖縄戦で消失してしまった。


東の石獅子

公園の南の端の丘の上にも、もう一つある。こちらの方は東の石獅子。先ほどの西の石獅子もそうなのだが、どうも石獅子は移設されているように思える。「前川誌」の大まかな地図では、集落にあった四体の石獅子のうち三体の場所が記載されており、それによれば、一つはバンク辺り、二つ目は西の石獅子があった場所でこれは元々の場所にあるのだろうか? もう一つはシーサーヤシキという場所となっている。


マルブンティラ

東の石獅子の横の道を隔てた林の中にマルブンティラと呼ばれる自然洞窟 (ティラ) があり、霊石を神体として拝所となっている。いつからあるのかは不明で、前川集落の住民が設置したものではなく、奥武や港川、糸満といった漁村からの参拝者が多いことから、その関係の人たちが造ったのだろうと考えられているが、なぜなのかは不明。


南の石獅子

現存している最後の三体目の石獅子は玉泉洞の裏にある駐車場から集落に向かう農道の石垣の上にある。ここは集落からも少し離れている。これも移設されたのだろう。「前川誌」ではシーサーヤシキにあったとなっている。三体の石獅子は、それぞれ、西・東・南のお石獅子となっているが、これは移設された後の場所で呼ばれているように思える。

シーサーヤシキは集落の東の端にある。ちょうど南の石獅子の前の農道のつきあたりにあたる。


これで前川集落の文化財は見終わり、公民館から屋嘉部集落に向かう道を通って、大道屋取(ウフドーヤードイ) 集落に向かう。前川地区には三つの主要な集落があるが、メインは前川集落、残りの二つはいずれも屋取集落で、今日一番初めに訪れた北側にある上地原屋取 (イ―チハルヤードイ) / 石川屋取 (イシチャーヤードイ) で、もう一つは東にある大道屋取集落になる。



一里クムイ

公民館から屋嘉部集落に向かう道を上がった所に一里グムイ跡がある。今通っている道は玉城グスクからの道でちょうど一里 (4km) の所に当たる。この道を通る人が距離の目印にした場諸で、かつてはクムイ (溜池) があった。


大道屋取 (ウフドーヤードイ) 集落

一里クムイから、今度は坂を下った所、前川集落の東方に広がる大道原 (ウフドーバル) の中に大道屋取 (ウフドーヤードイ) 集落がある。この集落は少し他の屋取集落とは異なっている。ほとんどの屋取集落は民家が畑の中に点在しているのだが、ここは丘陵の急斜面に家が集まって、小さいながらも立派な集落になっている。その登り口に恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされていた。大道は首里王府の首里貧困士族の帰農政策で18世紀初頭から明治期にかけて形成された屋取集落だ。どの時代にこの地に移住してきたかは定かではないが、現地に残る伝承では、尚灝王 (1804-1834年) 時代に武勇にたけた銘苅門中の祖が船越上門の要請で畑の番人として移住してきたとある。戦後、前川は10の班に分けられ、大道屋取は八班となった。


八班の大道産井泉 (ウフドーウブガー) [7月3日訪問]

大道屋取集落の下は一面畑になっており、その中に大道産井泉 (ウフドーウブガー) があるそうだ。

井戸跡は見つけられなかったが、この辺りだ。この井泉は、1949年に大道屋取の人々の共同作業で八班大道産井泉とともに造られた。その後はナガガ―に変わって飲料水や産井の役割を担っていた。現在は農業用水として使われている。

後日7月3日に屋嘉部集落と喜良原集落を訪問した帰り道に再度訪問した。地図をもう一度確認して場所が特定できた。


長井泉 (ナガガ-)

大道屋取 (ウフドーヤードイ) 集落の酸素ボンベの鐘がある道を登っていくと、林の中に井泉がある。前川地区にある井泉の中ではでは古くからあったようだ。井泉が長方形をしていたのでナガガ-と呼ばれている。現在は農業用水として使われている。


八班の共同井泉 [7月3日訪問]

長井泉 (ナガガ-) は、1949年に大道屋取の人々の共同作業で、集落の北側の畑の中にある八班の八班の共同井泉 (7月3日に訪問) ができるまでは、飲料水や産井 (ウブガー) として使用されていた。ちょうど、長井泉 (ナガガ-) の後ろの斜面を登った所にあった。


木田大時 (ムクタウフトゥチ) 拝所

大道屋取集落の外れ東側には木田大時 (ムクタウフトゥチ) の屋敷跡があり、拝所となっている。この屋敷は19世紀前半に大道屋取集落が形成されるより300年も前、第二尚氏王統三代尚真王の時代 (1477年 - 1527年) にあった屋敷だ。木田大時は天文、暦学、易学の第一人者で、王府に仕えた。王府の神事の日選りをする役人「時之大屋子」だったと考えられている。木田大時は、中が見えない箱に入れられたネズミの数を当てたという伝話がある。 (下記)  木田大時の墓は、首里の玉陵に葬られていると伝わっている。旧大里村西原集落にあった大屋 (ウフヤ) 神屋訪れた際にこの木田大時 (ムクタウフトゥチ) が祀られていたのを思い出した。敷地内には木田大時が使用したという井泉の跡があり、その井泉も拝所となっている。

木田大時の伝承

  • 後に木田大時と名乗る玉城筑登之 (たまぐすくちくどぅん) は、小波津親雲上 (こはつぺーちん) から風水と天文学を習得し、天気を予報する、不治の病を治すなど、村の人たちを助けていた。
  • あるとき、王子が原因不明の病に伏した。いくら手を尽くしても一向に良くならないので、占い師として評判となっていた筑登之が呼び出された。筑登之は王子に取り憑いていた悪霊を見事に払い、瞬く間に治した。たいそう喜んだ国王は、筑登之に「大時」の称号とたくさんの褒美を与えた。
  • 国王の厚い信頼を得た筑登之は、木田大時と名乗り、時間係、天気予報係、作物の植え付け指示など、王府で仕事を行っていた。
  • 大時を妬む者の吹聴と奸計により、国王の御前で大時は命を賭けてその神通力を試されることになる。木箱の中に1匹のネズミを入れておき、「箱の中にはネズミが何匹入っているか当ててみよ」と大時に数占いをさせた。「ネズミは5匹でございます」と大時は答える。「本当に5匹か?」「はい」。しかし、箱のなかに入れたネズミは1匹だった。命懸けの数占いを外してしまった大時は、国王を惑わす悪人とレッテルをはられ、安謝 (あじゃ) の処刑場で処刑されることとなった。ところが、ネズミの入っている木箱を片付けようとしたところ、なんと4匹の子どもが生まれ、ネズミは5匹になっていた。
  • 「大時は正しかったのだ!」。国王は急いで処刑を中止させようとするが、時すでに遅し。木田大時は帰らぬ人となってしまった。
  • 過って木田大時を処刑してしまったことをたいそう悔いた尚真王は、第二尚氏王統の歴代国王が眠る陵墓の玉陵 (たまうどぅん) に、木田大時を大切に祀ったと伝わっている。玉陵の中には立派な彫刻を施された石厨子が、通常とは異なる場所に、たったひとつだけ、むかしから残されており、言い伝えではこの石厨子が木田大時のものだといわれている。



これで今日の予定は終了して、帰路に着くが、前川には観光の目玉の沖縄ワールドとガンガーラの谷がある。沖縄を訪れる多くの観光客が訪れるスポットだ。沖縄ワールドは新型コロナ蔓延の元、緊急事態宣言で休館中。この二つにも訪れてみたいが、これは娘たちが沖縄二来た時に温存してておくことにする。この二つのスポットは雄飛川沿いにあり、この辺りは、糸数按司が上間・識名の安謝名按司 (上間按司) と戦いの際に、戦闘があった場所といわれている。ガンガラーの橋の下に、糸数城の式士の骨が無数に葬られた古い墓があるそうだ。糸数グスク落城の際に戦死した人達だと言われている。このガンガーラの谷は糸数按司の港が置かれ物流拠点であった。この港も兵站確保の為には重要拠点であり、ここでも戦闘があったことは想像がつく。


今日、前川集落を散策中に出会った花。一つは蘇鉄 (写真 左、中) で沖縄ではよく見かける植物なのfだが、今日の蘇鉄は花が咲いていた。蘇鉄の花は10年に一度しか開花しないので、この光景は珍しい。雄と雌とで花の付き方が異なり、雄はトウモロコシの実の様な形になり、メスはドーム型になる。見つけたのはドーム型なので雌の蘇鉄だ。もう一つは南米原産のパキスタキスという花 (写真 右) で、黄色い苞から白い舌のような花が飛び出している。二つとも初めて見る花だった。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄埋蔵文化財センター)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
  • 玉城村誌 (1977 玉城村役場)
  • 玉城村前川誌 (1986 玉城村前川誌編集委員会)
  • 玉城村糸数誌 (2012 糸数字誌編集委員会)

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