Okinawa 沖縄 #2 Day 41 (16/09/20) 旧東風平 (4) Iha, Uetabaru & Yagibaru Hamlets 伊覇/上田原/屋宣原集落

伊覇集落 (いは)

  • 八重瀬町役場 (字東風平)
  • 伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) ?
  • 井戸跡、イビの井戸
  • 伊覇公民館
  • 神屋
  • 白金御嶽 (シロカネウタキ) 
  • 伊覇の石獅子
  • 伊覇村の拝所
  • 中眞之殿 (ナカマヌトゥン)、神谷之殿 (カナヌトゥン)、神谷之嶽 (カナヌトゥウタキ)
  • ガ-ジャー之殿
  • 大越地井 (産井)

上田原集落 (うえたばる)

  • 火返し池 (ヒケーシクムイ)
  • 上田原多目的集会施設、農村公園、村神
  • 宇志道泉井 (ウシローガー)、拝所

屋宣原集落 (やぎばる)

  • 屋宣原停留所
  • 屋宣原公民館、屋宣原中央公園、拝所

今日は旧東風平村の三つの集落を訪れる。参照した「東風平村史」ではいずれの集落も文化財として掲載されている御嶽、殿、井戸などは少ないので、隣接した伊覇集落 (いは)、上田原集落 (うえたばる)、屋宣原集落 (やぎばる) の三つの集落を巡るのは可能だろう。

まずは西にある上田原集落 (うえたばる) に行き、伊覇集落 (いは)、屋宣原集落 (やぎばる) と東に移動した。本文上では伊覇集落 (いは) から記載する。


伊覇集落 (いは)

伊覇集落は先日訪れた友寄集落の南の標高60-70m丘陵の上に広がっている。友寄集落がある丘陵から一度降りて再度登るという地形だ。

伊波集落の始まりも沢岻世主の七男 東風平按司と書かれており、これは外間、宣次、東風平の祖と同一人物だ。

字伊覇の人口は沖縄の本土復帰以降急激に増加している。終戦直後の1948年 (昭和23年) には僅か48世帯、213人の小さな集落であった。明治時代の字単位の人口の統計はないのだ、1873年 (明治6年) には東風平村全体で約5,100人、1948年 (昭和23年) では約8,500人であった。この伊覇も明治時代には200-250人程度であったのではないかと思う。他の集落でも同じなのだが、終戦後、沖縄本土復帰までは人口はあまり増加していない。沖縄にとって本土復帰がその後の産業発展に大きなマイルストーンであったことは否定できないだろう。

字伊覇は今では旧東風平の中心地であった字東風平に次いで人口の多い字となっている。1948年 (昭和23年) の人口に比較するとこの増加は11倍にも膨れ上がっている。

このグラフは終戦直後の1948年、沖縄の本土復帰の1972年と最新2020年の各字の人口比較だが、字によって明暗がはっきりと分かれている。伊覇の人口増加は著しいものがある。


この周辺を自転車で走って気付くのは、伊覇は丘陵地にあるのだが、この丘陵の上は東風平、屋宣原に平地が広がっていることも、住宅建設には適した地形であったと思われる。

「東風平村史」に載っていた拝所群は以下の通り。御嶽と殿は大雑把な地図があるので、なんとか探し当てることができるかもしれないが、井戸は何処にあるのか、皆目検討がつかない。

  • 御嶽: 白金御嶽 (シロカネウタキ)、伊慮峯嶽 (イへルミネタキ 所在地不明)
  • 殿: 神谷之殿
  • 湧水 井戸: 白金カー、前之井 (メーヌカー)、上ヌ中ヌカー


今日走り終えた伊覇集落巡りのログ。


八重瀬町役場 (字東風平)

上田原から伊覇に入ったところに八重瀬町役場があった。伊覇に町庁舎が置かれてあるのかと思ったのだが、この場所は字東風平で境界線が入り組んでいる。


伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) ?

この近くに伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) があるはずだが、探せどそれらしきものは見当たらない。この辺りのはずなのだが..... (後でわかったのだがこの御嶽は所在地が不明だそうだ)


井戸跡、イビの井戸

見当をつけた場所の裏手に細い路地があり、その塀に不自然な窪みがある。何かあると思い、近くに行くと井戸跡があった。香炉も置かれている。中を除くと水が溜まっている。移設されたものではなく、昔からここにあるのだ。更に向こう側にも同様の窪みがある。こちらは金網で囲まれている。大切にされているのだろう。こちらには名前を彫った石柱が立っていた。イビの井戸と書かれている。イビとはイベとも言われ、威部と書く。御嶽 (ウタキ) に置かれている霊石を指しており、もともとは神様が降りてくる目印としてのものだったが、時代とともに拝みの対象になっている。各御嶽 (ウタキ) ではこの威部 (イビ、イベ) には名前がついている。この伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) では兼房威部 (カネフサヌイベ) となっている。やはりこの近くに伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) があったのだろうか?


伊覇公民館

いつも通りに公民館に行く。他の公民館とは趣が異なり、ここは4階建てのマンションの一階が公民館となっている。片側二車線の大通りに面している。もともとここにあったのだろうか? マンションの前は駐車場とゲートボール場の広場になっている。多分、元々のムラヤーにマンションを建てたのだろう。


神屋

駐車場の横には神屋がある。名は書かれていない。ムラヤーに神屋がある場合は、ここの門中の神屋よりは、村の祖の国元 (クニムトゥ) や部落の政治的リーダーの 根人 (ニーチュ) を祀っている可能性がある。生憎、公民館は閉まっており、聞く人がいない。


白金御嶽 (シロカネウタキ) 

神屋の横には拝所がある。鉄柵で閉まっており中には入れない。綺麗に整備されている。地図上ではこの近辺に、この部落の主祭神の白金御嶽 (シロカネウタキ) があるはず。おそらくここだろう。(後でそうだと確認できた) 近所の年配の男性にこの拝所のことを尋ねたが、この拝所の名前は知らないという、ただここの門中の拝所ではなく、部落全体の拝所という。それに該当するのは、先ほどの伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) と白金御嶽 (シロカネウタキ) なので、多分白金御嶽 (シロカネウタキ) なのだろう。ちなみにこの御嶽の威部 (イビ、イベ) は白雪威部 (シラユキヌイベ) といい、なんとも御伽噺に出てくる様な名だ。この御嶽は東風平集落の金満御嶽から分かれてこの伊波村に祀ったそうだ。


伊覇の石獅子

八重瀬町には19体の石獅子が確認されており、その一体がこのこの伊覇にある。昨年もここに来てみたので、迷うことはない。高台の上に立っている。

ここにある石獅子も風化が進んでおり、顔面は陥没気味になっているが、ちゃんと四本足で立っており、比較的保存状態は良い方だ。

八重瀬町の19体の石獅子については八重瀬町の観光協会がパンフレットを出している。下はその中から伊覇の石獅子のところを切り取ったもの。石獅子の由来が説明されている。この伊覇の石獅子は「石獅子」と紹介されている。宣次の4体の石獅子は 「シーシ (師子)」と紹介されていた。別の地域では「シーサー」と呼んでいるところもある。その地域で呼び方が違うのだろう。


伊覇村の拝所

この高台に登る階段の下に村の拝所が置かれていた。二つ香炉が置かれている。ここに移設したのだろうか?ここにもともとあったのだろうか? 見つからなかった伊慮峯嶽 (イへルミネタキ) をここに移設したのだろうか?「東風平村史」には載っていない拝所だ。これ以外にも知られていない拝所があるのだろう。


中眞之殿 (ナカマヌトゥン)、神谷之殿 (カナヌトゥン)、神谷之嶽 (カナヌトゥウタキ)

「東風平村史」には殿 (トゥン) が一つだけ載っていた。神谷之殿 (カナヌトゥン) だ。「東風平村史」ではこの殿を伊覇集落で書かれている箇所と東風平集落に帰属している箇所と食い違いがある。神谷之殿 (カナヌトゥン) は伊覇の石獅子がある高台の林の中にある。この高台は半分が字伊覇で残り半分が字東風平と行政区分が敷かれているので、この様な食い違いが出たのかもしれない。最も、この二つの集落はその村を始めた人が同じなので、特に境界線などは気にしていなかったのかもしれない。

この高台の林の中にあるとは知らなかったのだが、石獅子を見るために高台に登ると、林に中には何かある様な感じがした。整備された町屋村の中に林が残っている高台には何かあることが多い。特に拝所や古い墓群のケースがある。神聖な場所なので手を着けずに残しているのだ。この様な丘や山を見ると、中に入って散策してみたい衝動が湧き起こる。どうもこれは子供の時から治らず、今だに続いている。階段がある。手摺りまである。年寄りが登れる様な気配り。これは拝所への階段に間違いない。やはりそうだった。周りは草を刈ったところに祠がある。ここは中眞之殿 (ナカマヌトゥン)

階段のところからは更に奥に道が続いている。見てしまうと行くしかない。大木の根本に拝所が一つ、その奥にもう一つの拝所。この三つの拝所が神谷之殿 (カナヌトゥン)  と神谷之嶽 (カナヌトゥウタキ) だ。神谷之殿の詳細はわからないのだが、ここは何百年もの間、村の人々が御願 (うがん) をしてきた場所で生活の重要な部分になっている。草が綺麗に刈られていることがそれを表している。八重瀬町がやっているのではなく、もともとここに住んでいた門中の家族が手分けをしてやっている。これだけ綺麗に保つには頻繁に行っている証拠。そこにも沖縄の素晴らしさを感じる。


ガ-ジャー之殿

丘陵の北側を降りた所に拝所がある。この御嶽については一切の情報は見つから無かった。現在は一見、小さな公園のように見える。その中に三つ程拝所がある。ちょうど中年男性が花壇の手入れをしていたので、ここは何という拝所ですか?と尋ねるが、地元なのだが名前は知らない。昔は墓だったと聞いた事がある。と申し訳無さそうに答えた。夏場の花壇の手入れは大変だと少し世間話をする。東風平村史の地図では湧洞之嶽 (ワカドヌタキ) と思えるが、別の資料の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では、湧洞之嶽 (ワカドヌタキ)は所在地不明となっており、この拝所はガ-ジャー之殿となっており、伊覇集落の国元 (クニムトゥ) の屋敷跡だそうだ。男性が言っていた墓とはこの国元の按司墓 (アジシー) のことなのだろうか?

色々な色のハイピスカス。沖縄には何十種類ものハイピスカスが生息しているそうで、今後注意しながら、色々な種類を見つけていこうと思った。


伊覇集落の訪問の後に、図書館で「殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)」を見つけた。文化財の所在地が地図で示されていた。見れなかった文化財をもう一度この伊覇を訪れて探す予定にしている。


大越地井 (産井) [10月24日訪問]

10月24日に旧東風平村の高良集落を訪ねる途中に、この井戸があると書かれている場所に来てみた。空き地に井戸跡らしきものもあるが、標識もなく自信はない。この井戸は伊覇に住み着いた国元のウブガーで、大切にされ、「カーウガミ (井御願)」の日に御願されていると書かれていた。産井なら今でも大切にされているはずだが、そのような感じでもない。


白金井 (シリンカー)

伝承では、昔、玉城から鳥が稲の苗をのくわえて飛んできてこの地に落とした。その後、苗が芽を出し、この地域で稲策が盛んとなったという


城 (グシク) クサイ井

昔、東風平グスクの人たちが、この地に移ってきて使っていた井戸。それでグシククサイと名がついている。この井戸は見つけられなかった。


前之井 (メーヌカー)

この井戸もまだ見つけられていない。



上田原集落 (うえたばる)

上田原集落は友寄集落の南の丘陵、伊覇集落の西に位置する字。

上田原の人口は終戦後の1948年から沖縄の本土復帰の1973年まで減少し、その後増えてはいるが、2.8倍になった程度で、現在は旧東風平町のなかで人口は二番目に少ない字になってしまっている。

上田原を走っても、隣の伊覇とは全く対照的な街並みで、民家もちらほら状態だ。(下に掲載した走行ログの衛星写真を見てもよくその状態がわかる)

この集落は屋取集落 (ヤードイ) でその成り立ちは他の集落と比較して新しい。この屋取集落 (ヤードイ) とは、琉球王朝の士族が、琉球王朝時代はその貧困から、また明治の廃藩置県で職を失った士族が、首里から様々な集落から土地を借りて住み始め帰農し、次第に集落化していったもの。屋取 (ヤードイ) の言葉は農家に身を寄せて「宿った」ことから来ている。集落化し行政単位で独立する場合は、その場所の名前がつけられることが多く、「XX原」となっている。上田原のこの例にもれない。屋取集落は琉球王朝時代から4段階で行われている。

  • 第一次屋取: 1713-1751 12代尚敬王 ー 嫡男でない次男、三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えれ政策をとった。
  • 第二次屋取: 1795-1875 15代尚温王から明治の廃藩置県まで ー 第一次の帰農制作に一定の成果が見え、この屋取が貧困士族の解決策と認識されたことと、科挙と呼ばれた官吏への登用試験が実施され、試験に通らない士族が増加し職を失った時代背景もある。
  • 第三次屋取: 1879-1909 廃藩置県から明治の土地整理まで ー この時代が一番悲惨な期間で、廃藩置県で大量の士族が職を失った。士族は帰農せざるを得なかった。この時期が屋取集落の発展期にあたる。
  • 第四次屋取: 土地整理以降 ー 集落化した屋取集落が小字として行政区分で独立し、土地所有権が得られる様になったことが、屋取集落への移住の要因となっていた。

この上田原の屋取集落は上の第一次、第二次、第三次、第四次のそれぞれの時期に様々な門中が移住してきている。この上田原屋取集落は南山王の汪応祖の孫の査氏國吉一門が首里から移ってきて形成されたといわれている。

屋取集落は成り立ちが他の集落とは異なるため、昔からある様な文化財は見られない。「東風平村史」には御嶽や殿はなく、井戸跡が一つだけ紹介されていた。


火返し池 (ヒケーシクムイ)

200年ほど前には火災が度々発生していたので、この地に池を掘り糸数城への火返し池としたそうだ。現在は調整池となっている様だ。

この池が最後まで残っていた場所に拝所がある。階段を上がるとちょっとした空間があり敷物を広げている。ここで人々が集まって御願をしたのだろう。


上田原多目的集会施設、農村公園、村神

この場所が公民館にあたるのだろう。隣が農村公園になっている。もともと何が建っていたのか分からないが、サーターヤー出会ったのかもしれない。公民館の隅に拝所がある。この地に移ってきた幾つかの門中腹の住民が健康祈願のために作った村神。


宇志道泉井 (ウシローガー)、拝所

「東風平村史」に唯一載っていた井戸跡なのだが、いくら探しても見つからなかった。この名の由来はこの地に牛盗人が住んでいたことからそうだ。この井戸があるだろう場所の近くに拝所を見つけた。


屋宣原集落 (やぎばる)

伊覇集落の東にある屋宣原集落 (やぎばる) に向かった。友寄集落の南の丘陵を上った所にある。

この集落も上田原集落と同じく屋取集落 (ヤードイ) だ。第二次から移住が始まり、第三次、第四次と続いている。多くの様々な門中が移住してきている。

屋宣原集落は沖縄の本土復帰までは旧東風平村では僅か200人程の最も人口の少ない字であったが、それ以降、急激に人口が増え、今では三番目に大きな字になっている。人口の多いトップ3の字は隣接しており、丘陵の平坦な所にシームレスに広がっている。屋宣原が東風平と伊覇に隣接していたことがこの字の発展の大きな理由だ。

この集落の走行ログの衛星写真。一面住宅街なのがわかる。「東風平村史」には文化財は何も載っていなかった。


屋宣原停留所

屋宣原には軽便 (けいびん) と呼ばれた沖縄県営鉄道糸満線が通り、停留所があった。その場所に行ってみた。今は何の面影もない。ここは八重瀬町と南城市の境。


屋宣原公民館、屋宣原中央公園、拝所

屋宣原の公民館に行ってみた。ここにも公園が隣接されている。公民かの端には新しく建てたのだろう拝所があった。今日訪れた上田原の公民館と同じ構成だが、こちらの方は住宅街の中にあるせいか、洗練された感じがする。

屋宣原は新しい地域で、急速に人口が増えている。那覇の街中のコンクリート建ての家屋とは異なり、木造のしゃれた家屋が目立った。


参考文献 

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)


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