内田康夫 写真提供/田丸 昇

(田丸 昇:棋士)

文芸界に広がる将棋ブーム

 藤井聡太四冠(竜王・王位・叡王・棋聖=19)の活躍と人気による将棋ブームが、文芸の世界にも広がっている。近年、多くの作家が将棋を題材にした小説を発表して話題になっている。10年前からの将棋小説の一部を紹介する。

 貴志祐介『ダークゾーン』、塩田武士『盤上のアルファ』、柚月裕子『盤上の向日葵』、奥泉光『死神の棋譜』、芦沢央『神の悪手』、橋本長道『サラの柔らかな香車』、佐川光晴『駒音高く』、綾崎隼『盤上に君はもういない』、高嶋哲夫『電王』など。

 主人公は、プロ棋士を目指す奨励会(棋士養成機関)の三段、初のプロ棋士を目指す天才女流棋士という設定が多い。詰将棋の問題、プロ棋士と将棋ソフトの対決が題材の作品もある。

 私こと田丸九段が最も愛読した将棋小説は、1986年(昭和61)に刊行された『王将たちの謝肉祭』で、将棋界を舞台にしたミステリーである。大岩泰明(大山康晴)、柾田圭三(升田幸三)、中宮真人(中原誠)、吉永春雄(米長邦雄)など、登場人物の名前とキャラクターが、カッコ内の著名棋士を連想させた。

 また、大新聞社による名王戦(名人戦)をめぐる契約問題、日本将棋連盟の内幕、棋士生命に影響を及ぼす順位戦、プロ棋士とアマ強豪の平手戦、美少女棋士の活躍、奨励会の昇段制度、伝説の棋士・阪田三吉など、現実の将棋界と虚構が入り交じっている。

 私たち将棋関係者は、著者は将棋界の内情にかなり詳しいと思った。

 その作家は、表題の写真の内田康夫さん。「浅見光彦シリーズ」で知られる旅情ミステリーの小説を数多く発表したベストセラー作家だった。累計の発行部数は1億冊を超えた。作品はテレビでドラマ化されて人気を博している。

 しかし、1980年代半ばの頃は、それほど有名ではなかった。私たちは「あまり聞かない名前だけど、小説の内容はリアルで面白いね」と言ったものだ。

小説の中に「羽生少年」が登場

 内田さんは将棋を愛好していた。新聞や雑誌などの記事を見て、将棋界や棋士の情報に深い関心を持っていた。テレビの将棋対局が放送されると、執筆中でも中断して欠かさず観戦した。

 1986年の春にNHK杯戦の番組で、プロ棋士になったばかりの羽生善治四段の見事な勝ちっぷりを見て、衝撃と感動を受けたという。この少年棋士が、いずれ将棋界を席捲する存在になるだろうと予感した。

 実は『王将たちの謝肉祭』の中で、一人だけ実名で登場するのが15歳の天才棋士「羽生少年」である。小説では《瘦せっぽちで、眼鏡を光らせ、オズオズとお辞儀したところは、どう見てもただの中学生だ》と紹介される。

 名人としてかつて君臨した老雄の柾田に初めて会った羽生は、《あの、先生の将棋、あまりすごいので、僕はとても……。その、すばらしいと思って、そのことを言いたくて……》と、畏敬の念で語りかける。

 羽生が小説に出てくるのは、この場面だけである。

 内田さんは、NHK杯戦で見た羽生の強さを小説に挿入したいと思った。執筆が完了しつつあったときに、柾田との新旧交代を象徴する場面として、最後に羽生を登場させたという。

 それから10年後。内田さんが予想した通り、羽生はタイトルをすべて獲得して「七冠制覇」を達成した。

1996年6月に刊行された新装版『王将たちの謝肉祭』の表紙。大山十五世名人(上右)、升田実力制第四代名人、羽生七冠(下)を模したイラストが載っている。

 羽生は《将棋とミステリー、自分自身も登場する面白さ。一気に読み切ってしまった》という推薦文を寄せた。