Koreana Autumn 1995 (Japanese)

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韓国の芸術と文化V o.18 ,

秋季号


いつか夢で、見た 脳 Lの宝石、 いくつも持ち定 安ランドパ ック: 大切な方への 弐〆、ント… ほいものをさがす楽しみ、 そして出会った瞬間のよろこび、 き る。 J


BEAUTY OF KORE A

白玉香匡ノ リゲ

譜 も

韓服の婦人用チョゴリの結び紐のある 胸、またはチマの腰に垂らした装身具の ノリゲ。ノリゲは繊細かつ華麗な手工芸 品で、チマ ・チョゴリと美しい調和を作 り上げている。ノリゲは作りと色彩によ って韓服に新たな美を添える役割を果た してもいる。そのノリゲのうち欠かせな いのがメドウップ(色糸を鯖び合わせて 作る装飾)だ。メドウップは服飾のほか 室内装飾などにも使われているが、ノリ ゲにとっては不可欠の要素である。

韓国人の伝統衣装はボタンを使わずに みんな結び紐で済ませている。結んでは 解く理を利用して実用的な機能美と装飾 美を活かした手工芸品が、ほかならぬメ ドウップなのである。メドウップは三点 以上のものが一点の上に交わりながら形 を作り上げていくが、この三つのバラン スがメドウップに美しい構造と意味を与 えるのだ。赤 ・藍 ・黄の三原色を基本と し、薄緑、紫、空色、濃い紫など、きれ いな色糸で結び目を作り、房を垂らした

三つのノリゲをひと揃えとする。 香毘(香箱)ノリゲは、白玉または務 翠に唐草や十長生(長寿して死なないと される十種のもの。太陽、山、石、鶴な ど)などの紋様を透かし彫りにした四角、 または円形のものを中央にし、その上と 下に梅の花-蝶、菊のメドウツプを作り、 下には双方から房を垂らすのである。 写真の白玉香匝ノリゲは、蝶紋様の施 したものだが、精巧に透かし彫りにした 香箱の紋様が放つ灰かな白玉の薮翠色

は、きめ細かい図案の均衡美と共に気品 に満ちた趣を浮き彫りにしている。 ノリゲは季節毎に、また材料と大きさ によって着用する位置や使用法を異にし ていた。 秋と冬は金 ・銀のノリゲを、五月の端 午の節句からは指摘翠か玉のノリゲ、また は粧万(飾り用のさやのある小万)を、 そして八月十五 日からは三つからなるノ リゲのひと揃えを着用したという。

金書録作の白玉香度ノリ ゲ


ヲ﹀刃

C 綿 CZ のI

A

K OREA N ART & CUL TURE カバー ・ストーリー 韓国の固有衣装の韓組 は、時代カi変わるに伴って 衣装の線の涜れや色彩、シ ルエットが変遷してきた。 今日、着用している韓般は、 現代韓国人の趣向に合わせ て変形したもので、いわば 現代の感覚に調和させたも のと言える。つまり、現在、 着用している婦人用の短い チョゴリは円い袖下の線や 細い妊と襟、掛襟、広くて 長いチョゴリの結び紐など によって、 うまく調和して いるのである. 韓民族文化 の一部である韓綴は、ソル ( 陰暦のお正月) や秋タ ( 陰暦八月一五日} のよう な祝祭臼やおめでたい行事 では今も着用している。

韓国伝統の月隊中 4

韓国服飾の特徴と変遷

超文玄

12

韓国人の服飾と冠婚喪祭の習わし 越孝順

20

韓国の伝統服飾の造形美

琴基淑

26

服飾の伝統を継ぐ人びと 金裕卿

40

現代の韓服の美と伝統美の現代化 琴基淑

44

日 次

I NTERVI EW

石宙善 金燦旭

50

韓国文化芸術の成果と展望一演劇 金文燥

56

韓国文化芸術の成果と展望- 舞踊 金敬愛

a p b m h u n似 l on


│0.1

,No.

州 -日

3. AUT

KOREANA

盤畷螺思鰯纏襖贈煙轡態懇腰勝緩慢場場感想窓塑

コリアナ

62

ONTHE ROAD

配流の地で築き上げた 輝かしい詩歌文学 金周祭

1995年 秋 季 号

DI SCOVERI NG KOREA

銀杏の木

発行人兼編集人

荏昌潤

金泰旭

定価

600内 ( 4, 500 ウォン)

発行所

韓国国際克涜財団 大韓民国ソウl 舛寺別市中央郵便局 私書箱2 147号 - 電話 : 82- 2- 753-3462

. F AX: 82- 2- 757- 2047、2049 編集デザイン

ART SPACE PUBLI CATI ONS

大韓民国ソウル特別市鐙路区通毅同 35・11 . 電話: 82- 2- 734- 7 184 . F AX : 82- 2- 737- 9377

fKORE ANA ( コリアナ)J は鱒国国際交流財団が発行し ている季刊誌です. 従って版権はすべて本財団側に あり 、本財団承おなしに転蛾・復製することは禁じられ ておりますのでご了承下さい.

また. 本誌掲載の記事 ・論文の内容は、本誌 編集者または本財団の意見ではありません。

1987年 8月 8 日 登 録 叫 1033号 1995年 9月20日 印 刷 1995年 9 月 30日 発 行 ( 毎年3 、6 、9 、 12月4 回発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウJ I . 4 寺別市城東区議瞬間167- 29 . 篭話: 82- 2- 468・036 1-5

口十→

アート・ディレクタ一

本卜昇雨

HKl J

園祭

畑高

金韓

佑芳

聖英

金林

彦烈

観光亀

融金李

柳済擢

KU 崎 将 A烈

編集長

7m 一朝 時

韓国国際交流財団理事長

78

光州ビエンナーレと境界を越えて

李龍雨

82

世界に輝く韓国音楽家の大供宴

越鼎槌

! 一 ?( 一 、 一 一 . 乙 一¥ 事 /

70

線国国際交糊掴が発行している季刊誌

大韓民国ソウル特別市中区南大門路5街526 干 100- 095




は左前、男は査則となっている。韓国など

前である。西洋では男女によって異なり女 して、庶民にはこの色の使用を禁じていた。

であえ主由万物の生成要素の中央であると

循環とその秩序、神秘を論じる五行の様々

東洋圏では農耕{喜右か遊牧かの生活聾入に よって右前と左前とに分かれている。最近 イギリス人のウイルコックス(当ロg H )が り、五つの色に人間の様々の感情と思考の

以上、白・赤・青・里⋮・黄の五色を東西南 北及ぴ中央の方向にそれぞれ配置し{王闘の

絵や写真で示した図版に見ると、韓服の一肩 の線と袖付けの線が直角をなすチョゴリの 之事は陰徳﹂であるとして中間色でチマな

の象徴であると信じていたのである。つま

線をブラウスやシャツの袖の形に描くなど 意味づけをして服装の色に使用した。寸陰

えば、子供用の五方長ツルマギ、五方財布、

の間違いが少なくない。ウイルコ ックスの 著書のうちチョゴリ、ツルマギのような外 衣の襟の形や服の着方、トンジョン口掛襟)、 袖などの描写で犯しているミスは、西洋人 処容五方舞服、宮中正斉舞服などがこのよ

どに刺繍を施し、﹁陽之事は陽徳﹂であると して正色で上衣に挙乞描いて使用した。例

が見落としかねない韓服のみの特徴的な部

0

・青色は、秋空のあい色系のが好

特に、女性の婚礼服、または官服には 赤がよく取り入れられる

まれ宮中女官のチマや士太夫の抱(綿を入れたえ、、の衣服) や官服の色などに広く用いられた

韓服は韓国人の基本国釜 である天と地の概

を象徴する。特に、女性の婚礼服、または

精神を表している。次に、赤色は幸運と富

ツルマギのような基本服は、コルムを結ぶ

端正に身なりを整えた。チマやチョゴリ、

コルム(チョゴリなどの結び紐)を利用して

第三に、韓服を着る場合は特別に腰帯と

d

第二に、韓服の色彩思想をいくつかの色

服のファルオッはそのよき例である。

念を込めて徳を言い表そうとしたが、婚礼

うな色彩をよく言い表している。そして、

を中心に見ると、まず基本の色に白色を

位でもある。

使っている。白色は、庶民の素朴で澄んだ

秋空のあい色系のが好まれ宮中女官のチマ

の広い官員の普段着)、道砲(道服に似た礼

脇に割れ目を入れたり、士大夫の撃衣(袖

能性を高めてもいる。並泉段着のチョゴリの

かパジ(ズボン)に帯をするのが普通であっ た。また、服に割れ目を入れて活動性と機

官服には赤色がよく取り入れられる。青色は、 や士大夫の抱(綿を入れた冬の衣服)や官服 の色などに広く用いられた。また、黒色は万 物の根源が玄之又玄から始まるということ から男性が主にカッ(馬の尾で作った男の 患に使用した。黄色は、﹁中之色は君之色﹂

高句麗人の服飾生活を示す中国輯安所在の高句麗舞踊燥の古墳壁画

6


韓民族の初期のチョゴリは尻を覆わんばかりに長く、

襟や袖口、裾回しにそれぞれ異なる色の布で縁取りをし、 腰帯を 結ぶ男女同型のものであった

ている。例えば、ウォンサムやファルオッ、

服を重ねて着ける際の自由宇身動きを図っ

すくした。礼服も大部分、割れ目を入れて

服)の脇や後ろに割れ目を入れて活動しや

れも冠帽中心思考の現れと言える。

にわか雨に降られてよくハンカチや新聞な どで頭を覆って走る光景を見かけるが、こ

ない場合は謁見が許されなかった。今日、

ても、衣冠が雨や雪に濡れているか端正で

祖型はチョゴリである。韓民族の初期の チョゴリは尻を覆わんばかりに長く、襟や

第一に、韓服の代名詞であり韓民族服の

では、韓服の変遷について見るとしよう。

タンイの割れ目や祭服、朝服の割れ目は着 膨れがした際、是非必要な構造で、合理的 に処理していることが分かる。 過儀礼に冠礼の制があったほどである。頭

袖口、裾回しにそれぞれ異なる色の布で縁

第四は、韓民族は冠帽の着用を重視し通 にかぶる帽子は、雨や雪から保諜する目的

あった。このようなチョゴリは、高伺麗の

取りをし、腰帯を結ぶ男女同型のもので

でカルモ(冠の上にかぶせる油紙の雨具)を 持ち歩いた。国王の呼び出しを受けたとし

7

朝鮮朝の絹ツルマギ


e の遊牧・狩猟生活、そして実冷な気候に合

壁画にたやすく見出すことができる。古代

り、申允一帽の風俗図や美人図に見られるよ

朝中期からチョゴリの丈は、次第に短くな

朝鮮朝中期からチョゴリの

線を集中させる焦点(同 -宮百円)として重 og

と共に見た目に引き締まっ予感じを与え視

チョゴリの襟先の尖った端)の襟、そして 丸い襟へと変わっている。この襟は、掛襟

木板の襟から半木板の襟、タンコ(婦人用

ている。チョゴリの亦蓮のう弘援の部分は

が伸びて唾まで届くようになり今日に至っ

朝末期に来ると丈がさらに短くなる。二O 世紀も半ばになると、 A 寸度はチョゴリの丈

うに腰の上に上がっている。そして、朝鮮

ん広い袖へと変わっていく。チョゴリは高

美人画に見られるように腰

句麗初期左前からだんだん査別に変わり、 統 一新羅時代になってコルムを使い始め た。高麗時代になるとコルムが一段と 一般 に用いられた。高麗末から朝鮮朝初期にか

の上に上がっている

で届く長さのチョゴリが着用された。朝鮮

朝鮮時代中・後期のチマ・チョゴりを着た女たち. 申允福の風俗画

れたチョゴリが登場して朝鮮中期まで腰ま

縁取りをしたチョゴリ)と脇に割れ目を入

けてヘジャンチョゴリ(色の異なる布地で

中九一禍の風俗画や

丈は、次第に短くなり、

わせて袖を狭くしている。それが、だんだ

オッコルム(結び紐)は、他の部分の移り変

要な役割を果たす。チョゴリの部分のうち

わりとは逆行しており、最も動的な面を示

している。女性のチョゴリが大きな変化を

示しているのに対し、男性のチョゴリはあ

まりホ花せず、統一新羅時から現代に至る

れ目を入れた男子用女子用の長いチョゴリ

まできして変わっていない。また、脇に割

は朝鮮朝中期後、女性専用のタンイに変

わっている。

今も僧侶が着ているトンパンというチョ

ゴリは、オッコルムと襟を除くと高伺麗壁

さて、チュゴリからパジ(ズボン)に目を

画のチョゴリ型をそっくえ又け継いだもの である。

転じてみると、もともと北方実帯気候の狩

猟・遊牧生活に適するように活動性が求め

られたことから肌につく細い窮袴からだん

だん広袴に、さらに大口袴に変化している。

男のパジは、ずっと外衣として着用され、

朝鮮朝になって両脚が分離された形になっ

て現代に至っている。女性のパジも、もと

は外衣であったが、統一新羅になってから

だんだん下着になり、朝鮮時代には前後の

割れ目型とムジョギ型(チマの下に着る短

かい筒状のチマ型)男性のパジ型にそれぞ

れ分化した。また、パジとチマの中間型(旋

慶長の役)のあとパジは様々の形の下着に

裾と機祷)が着用された。壬辰の乱(文録・

分化し、タンソッコッ(女の肌着の上に着

る下着)幅の広いパジ(チマの下に着る)な どになった。

韓服のパジのように下が長くだぶだぶの

A的 FZR風のズボンは、曲辱掛川{蚕宥民の曲 P型

なスタイルで、東国アジアからインド、イ

ラン、ギリシャ、トルコを経て北アフリカ ぴスペインまで分布している。衣服の類 及、

型に従って、敢えて東洋と西洋を区分けす

8


になる。

るとすれば車仔のオリエントの概念に由来 する東洋の領域は大幅の広がりを示すこと

韓国のチマは東南アジア、

を必要としていたが、その形態は大部金剛

就いている男は祭服や朝版など官服一揃え

くて狭いチマが女性専用となった。官職に

マから二重のチマや単衣のチマのような短

近世撃早の甲午更張説、急速な社会変動に

着が見、えるようにしてその身分を表した。

賎民階級である按女(芸者)は左裾に着て下

方法によって身分が区別され、朝鮮時代の

チマは、上古時代初期に中国から持ち込 まれた腰下の下衣で、高句麗古墳の壁画に

韓国のチマは東南アジア、アフリカ、

るようになる。

ニ ュ lギニア等の地で着ている四角型、あ

伴い短い筒型のチマとチョゴリが着用され

される一方で、礼服用のチマは拡大される

鮮時代の一般のチョゴリがだんだん筒表花

は上薄下厚の形になっていった。また女性

で、形態面では最も発達している。チマは

ペチコlト・スタイルのムジョグチマ、テ

の下着が多様になり、その中でソクチマの

傾向にあったためチマ・チュゴリを着た姿

後分離型になっているのが普通である。朝

の地で着ている四角型、 あるいは円筒型のサロング

(∞何回円。口開)タイプで、 形態面

ωRS同)タイプ るいは円筒型のサロング(

アフリカ、ニュ l ギ ニ ア 等

は襲チマやセクトンチマ(色とりどりの縞 模様を入れたチマ)などを見ることができ 麗代には七、八幅の幅広いチマが現れ、朝

では最も発達している

る。女性のチマは日常用として着用され高 鮮時代に入るとスラン(足まですっぽり覆

の部分に付ける帯状の布)の両端の紐を胸

腰にひだがあり、マルギ(パジやチマの上

にまでたぐり上げて着る。他の地域の腰下

シユムチマなどが登場する、チマは昔有付け

の服は、ほとんど腰の部分で巻き、巻き残っ

た部分を腰にたくし込むか紐で結んでい

る。韓服のチマを着る方法が他の地域と異

なるのは、気候条件とオンドル住宅構造に

る ツルマギは高伺麗の壁画をよく観窓 29

適する保温自由型に{姦宥したからである。

と、パジ、チョゴリの上に重ねて着る防寒、

あるいは儀礼用であった。小川安郎は韓国

の﹁オッ﹂という語が中国の﹁抱﹂を意味する

﹁ 襖 Lの字から由来したと述べているが、

の固有の語である。壁画のツルマギは、チョ

オッは朝鮮朝四代の世宗大王が創った韓国

の線で縁取りをしてチョゴリの結び目と重

ゴリと同じく襟、袖口、トリヨン(裾回し)

ならないようにツルマギの帯は後ろの中聞

か腰脇あたりで結ぶよう工夫をしている。

このツルマギも、狭い袖の窄袖型から袖の

広い広袖型に変わっていくが、これも生活

盤入の変化によるものである。挙者の中に

は窄袖から広袖への変化を中国の影響によ

るものだとの見解もあるが、衣服の変遷過

に山軍つのがよく、そこに生活待式が拍車を

程を説明するフルゲル(司Z伺己)の装飾理論

を大部分よそからの影響によるものとする

掛けたときつべきだろう。韓国服飾の変遷

9

う長いチマ)や大欄などが礼服に用いられ た。また日常用としては、厚い綿入れのチ

金冠韓服姿の季最J ! l C朝鮮朝末期の摂政) の肖像画


のはその変遷の主流を見失う恐れがある。 高麗時代に入ると、ツルマギは線が次第に 衰えてきているのが徐弓の﹃高麗都景﹄に見 られるが、一四世紀の素苧抱であるツルマ ギが仏腹蔵の遺物として発見され重要文化 財に指定されている。素苧砲は、壁慣の結 ぴ目にオッコルムが使われていることが確 の直前の型とき口える。朝鮮時代には直領(武

認されているが、これは朝鮮時代の服装砲 官の上着の一撃、道抱(道服に似た通常の 礼服)、貼裡などのツルマギ・スタイルが

礼服のうち、

士大夫たちに人気を呼んだが、 末期の甲午 更張を境にして大部分、広袖衣から窄袖衣

女性の婚礼服の

る 。

昔のものであり慣習の保守的性格を窺わせ

ヲ,,

のファルオッは、外側は赤、内側は青色と

しての着用が許された。もう一つの婚礼用

礼服のうち喪服は、現代社会においても

川﹄

素材、色などに差異を設けていた。この女

受け継がれている保守性の強い服で、生前

n H

ロ﹄比三﹄つ A S﹄

7'

王妃や王女の

ウォンサムはもともと

宮中服の借りもので、

ウォンサムとフアルオッは

のツルマギに変わってしまった。ツルマギ に使用された帯の位置は、オッコルムが一 れは、生活塗入が非活動的構造に変わった

般化しながら腰から胸に移っていった。こ ことの反映であろう。 次に、礼服宗主遷を冠・婚・喪・祭の各 服の順に追って見ると、一般に上古時代で は身分の高い支配階級が広袖に胞幅が広く て長い服を着た。このあと、新羅では四色 公服制度が始まり七世紀の文武王代になる と、中国の服飾のうち愁芽されたものを受

性の宮中冠服は、朝鮮朝末のウォンサム、

なっていて天と地の徳をシンボライズし

つ手段とした。高麗時代には王服の莞服を

け入れて中央集権的権刀の面子と品位を保

ここに至って初めて礼服を制度的に確立し

はじめ王妃の法服、百官の公服を指定して、

た。前後の身頃に鳳風や牧丹、胡蝶、波、

の身分のうち墨田同職位の服を着せるのが慣

ファルオッ、タンイなどが残っており、現

岩、不老草などを、また前面の一肩一には幼い

例である。喪服は宗法制度を基にして血縁

在世宗大学の博物館に多数展示されてい

男の子を刺繍している。ファルオッには、

﹃経国大胞の﹄に法制化され、朝鮮朝末まで王

る 。

に甲午更事一乞境目にして多様な官服も簡素

とファルオッは宮中服の借りもので、ウォ

礼服のうち、女性の婚礼服のウォンサム

ろの見頃には﹁異性之合は万福根源にして、

受理守の祈願でも倦き足らなかったのか後

また紋様に託した富貴、栄華、多男、長寿、

別に着用した。これらは生き残った家族の

制を設けて、素材や縫製、色を異にし喪期

関係の新疎尊卑の軽重に従い差別化した服

生き方を誠実にさせるための制度で、個人

ンサムはもともと王妃や王女の服だった。

的な悲しみを乗り越え、家族社会の共同体

色は黄、赤、緑の順で用いられ、紋様には

繍してある。ファルオッは襟の形が極めて

水は山の如く富は海の知し と L いう句が刺

化されるようになった。朝鮮朝末期の高{一一小

竜や鳳風、花などを華麗に刺繍し金泊の装

王の着用した 旧章晃服一揃えが、現在ソウ

飾が施してある。民家では、辛つじて緑色

ル徳寿宮の宮中遺物展示館に所蔵されてい る 。

意識づくりに役立っている。さらに、家族 のウォンサムを婚礼の日に限って新婦服と

原始的な姿で残っていて、その起源が遠い

女性の冠服は、夫の地位によって種類、

めに大いに利用された。基本服の変化と共

室の品位と中央集権に向けた身分差別のた

た。朝鮮時代には百官の服式を明に倣って

喪服の上衣右側の裾回しに妊が付いている

10


が儒教の倫理道徳恩相想伊 ゴリの丈の変遷に見られるように、韓服は

と、韓国人は長い歴史を通じてその基本服

の上簿下厚の変遷がそれである。

第五は、不必要な部位の全面的退化であ

る。儀礼的な用途や装飾的な塑尽から重視

を弛まず守一り通してきた。 第三は、礼服の優位である。 礼服の重視

れは韓国社会の伝統性と安宕径を示すもの

てくると、だんだん小さくなるかなくなる

されて来た部位は時代が変わり慣習が違っ

漸進的に変わって今日の様式になった。こ は、礼儀を重んじる朝鮮朝五百年間の儒教

を取り戻して、故人との内面的一体感づく

思想の背景の下に根を下ろした。その礼儀

りにも少なからぬ役割をしている。スイ(死 で、革命や宰早にたやすく適応しない韓国

の韓服は世界各国の民俗服飾の変遺動向と

衣服以外の文化を促える近道であり、現代

人の性格を反映するものであろう。 第二は、基本形の道守である。韓国の衣

第四は、韓服は一つの項目の 中で細部問、

ブーがある。例えば、閏月に日を定めて村 服が経て来た変化はチマ、チョゴリ、パジ、

または他の項目どうしが互いに逆行しなが

みつつある。

系列を同じくし現在-儀礼化・装飾化が進

装束)を作るに当たっては、いろいろのタ の女性が集まって、あたかも祝宴を張るか

ら変化している。チョゴリの場合、全般的

退化現象を示している。一民族の服飾を通

のように喜々として針仕事をする。スイの ツルマギの基本形を遵守する基盤の上で部

縮小化と長いオ ッコルム、チマとチョゴリ

じてその民族の足跡をさかのぼることは、

び目を作るとか折り返して縫い合わせては

針仕事は、一日で主成しなければならず結

それぞれの民族服に定着したことに比べる

分的に進んできた。中国のチパオやフィリ ピンの細長い袖のワンピースが二O世紀に

た 。

ならない。前の身頃は生存時とは反対に左

という秩序は自然的秩序の上に置かれてい

前にする。生地は、主に麻布を使用するが、 て夫婦のを一緒に作る。このようなスイづ

地域によって絹布を僚つこともある。そし

して受け入れ霊魂の不滅を信じた。また、

くりを通じて韓国人は、死を第二の婚礼と 韓服には舞台衣裳、伝統民俗行事廠、宮中 儀托服、軍服など特殊服がある。これらの

礼服の重視は、 礼儀を重んじる

服飾は用途別に冠帽と履物、その他装身具 がついている。 韓服の変遷に影響を及ぼした外的要因と しては、自然窪視、社会環境、人為的制度、

朝鮮朝五百年間の

背景の下に棋を下ろした

儒教思想の

政策、宗教などが挙げられる。内的要因と しては個人的・集団的気質を基にした原動 力が挙げられる。外国のうち、自然環境は 衣服の基本的性格、、つくりをし、また社会環 境はその社会において展開される多様な文

通りである。

化の内容の変動によりいろいろと衣服に影 響を及ぼ している。これを大別すると次の 外的な変遷要因としては、気候の変化を はじめ周辺国文明の移行や政治 ・経済の変 革、党派派闘の形成、身分の社会的移動、 手工業の発透、宗教的影響などがある。 韓国衣服の変遷を促えることは、過去の 社会にあった共同体の規範と価寧乞評価す

第一は、漸進的な奪化である。韓服のチョ

11

る基準を提供し、その基準は変選の様相、 整入、隼糸、界慢などに区別できる。

赤色のファルオッ( 女性用礼服) 。色身に縞を入れたセクトンをあてており、前は膝止まりで後ろのほうが長い. 袖の後ろ側に属国、蓮の花、牡丹などの刺繍が施してある


韓: 国

月 艮

za昏 i実 ,、

元 主

カベチ

Aソク

織りの競争をさせて機織りを奨励してお

は嘉俳(旧暦の八月十五日 H秋乏の日に機

わが国服飾の起源は、紀元前三千年の新

り、新羅の唐への進上品には三O升(縦糸

た文益漸がひそかに綿の種を持ち込んだの

転換がもたらされる。元に使いに行ってい

石器時代にさかのぼる。新石器時代の遺跡

地である慶尚南道金海の貝塚からは員の首 飾りや指輪などが発掘されている。また、

り、織に座って木棉を織るのである。 朝鮮時代になると、婦女子は、一O歳に

の夜遅くまで村の婦女子たちが 一つ所に集 まって、面白い話や軽快な墨謡などをやり とりしながら糸繰り車を回してず挙乞紡いだ

の共同作業)﹂や慶尚北道永州の﹁トウルゲ サム﹂などは機織りの共同作業である。夏

忠清南道扶余の﹁苧布トウレ(苧布機織り

関する新しい風俗を生ませた。

る。棉は朝鮮時代に入って全国的に栽培さ れ、これに伴い木棉の機織りも至る所で盛 んに行なわれて、わが国の服飾文化に大き な影響を及ぼした。のみならず、機織りに

時代の欠かせぬ繊維として登場したのであ

である。このようにして、中世までの繊維 だった麻や苧、絹に加えて木綿が近世朝鮮

高句麗の古墳壁画にはチョゴリ(嬬 H上 着)、パジ(袴 Hズボン)、チマ(裳 Hスカ ー ト)、ツルマギ(袖 H外套)などの衣服に帽 子(冠帽て首飾り、腕輪、指輪などの装身 具一を身に着け、帯を締め靴を履いている姿 が見受けられる。いわば衣冠をきちんと整 の中にあるのである。

えていた文化民族としての姿が古代の壁画 では、先史時代に利用されていた機織り について探ってみる。 機織りは服飾生活の基になるもので女性 の欠かせない仕事の一つであった。﹃三国 志﹄の ﹁貌志弁辰伝﹂には、弁韓の人々が機 織りで絹を織って着たとあり、同書の﹁減 伝﹂には、麻と絹を織って着たと記録され ている。また、わが国の ﹃ 三国史記﹄ ﹃三国 遣事﹄によると、新羅の始祖、朴赫居世は

1) 頂5

I

~

二五)に 養蚕を奨励し、儒理王九年 (AD三一

の 四 O筋を一升とした)の極細布を贈ってい る。時代が下って、高麗末期になると木綿 が生産されるようになって衣生活に大きな

からは裁縫用の針と糸紡ぎ用の糸繰旦阜、 装身具の耳輪や腕輪が発掘され、先史遺跡

J

オ コ し

高句麗人の衣服生活の一面を示す高句麗の古境壁画. 中国輯安所在

12


栽培から機織りに至るまでのすべて仕事が

もの一生織女の円借AT乞背負わされる。棉の

なる前から機織りを習い、それからという

して乾かす。この過程が終われば、茎を三

をきれいに均してから水に漬けた後取り出

皮を一握りずっ束ねて麻万で麻の茎の表皮

り出して冷める前に茎の度をむき、むいた

よって麻の茎が黄色に蒸される。それを取

裂き)と言い、麻の筋を水に漬けた後、一

筋に裂いていくが、これをサムチェギ(麻

女性に委ねられていた。特に大変なのは機 働だった。その長くもつらい書易を多少な

織りだった。それは骨の折れる、きつい労 りとも忘れ、互いに励まし合い、能率をあ つないだ麻参乞糸車でよってからこれに木 を焼いて作った灰を掛けたあと暖かい部屋

筋すつ引え﹄抜いてつないでいく。こうして

がトウレの際、歌った寸麻糸のよりつなぎ の中で五 j七日間発酵させる。発酵させる

げようというのが機織りのトウレ(共同作

の歌や﹁ムルレ打令(糸車節)﹂﹁機織りの いようにする。こうして発酵したず丞泉は水

ときには夙や俵などを掛けて熱が洩れな

業)だったのである。朝鮮時代の織女たち

家﹂などは朝鮮時代の典型的な婦謡であっ

して、米の磨 ER 汁に米糠か山楯子を溶かし

を足して充分蒸した後きれいにすすぐ。そ

かます

た 。 朝従蒔代の麻の機織りは質的な面でかな くちなし

り発達していたが、地方によって麻布の名

には一O筋を八回重ねたものを一升とする

まず縦糸を何筋にするかを決めるが、ここ

た水に漬けた後天日に乾かす。織り方は、

すなわち成鐘埠産は﹁北布﹂、慶尚北道産

基準の単位がある。一般に、五升のものは

称を異にしていたのはおもしろい。 はっ水布﹂、江原道産は﹁江布﹂、安東産は﹁安

東布﹂、谷城産は﹁トルシルナイ と、それ

単語服に、七升のものは平常服に、三l四

L

ぞれ独特の名がつけられていた。このうち

み終わると、縦糸の太さに従って箆の穴に

升は喪服にそれぞれ用いられた。縦小手乞組 おき

されたが、その糸筋が細く、きめこまかだっ

成鏡道六鎮産の﹁北布﹂はもっとも高級品と

ながら籾殻の焚火に乾かして緒巻に巻き付

糸を通し、この糸に糊付けをしてなでつけ もみがらおまき

たので一匹麻布がパリッテ(木製の僧侶の パルネポ

食器)を満たすほどの崇に週きなかったこ

布は農夫や漁夫の労働服や喪服に使われ

民の夏服に使われ、織り目のさらに粗い江

もやや質の劣る安東布やトルシナイは、庶

たいへん複雑なプロセスを経て麻布ができ

られていく仕組になっている。このように、

たびに梓が縦糸の合聞を往復して麻布が織

糸に使う糸が巻いであって縦糸が交差する

麻布を織ることになる。このとき梓には横

渡し、

されど、惜しむらくは南の商い人に売り

蝉の羽に似て薄きもの王中に収まる。

麻事乞織る。

り変わらない。

た。苧布の機織りは、順序が麻織りとあま

り、高麗時代には紋様入りの苧布も登場し

時代に早くも韓山苧布を唐に進上してお

ける。巻き付けが終わると糸を機に掛けて

た。麻布の機織りまでのプロセスは、栽培

とから鉢内布とも呼ばれていた。北布より

と取り入れ、茎の度むき、麻の蒸しと発酵、

体にはつんつるてんの粗麻なチマ 。

質の麻布は、織った当の女人が着けること はなく、商人の手に売り渡されるようにな るのが常だった。

一回目は四 j五月、二回目は六 j七月、三

回目は九月の初めである。

ハンゼ

生の苧を蒸す際、さっと軽目に蒸すこと

この﹁半製﹂は白く漂白した部分に生の

一 口 う 。 一 があるが、これを﹁半製﹂と吉 苧の布は韓山細苧が有名で、これは純

た格別な味わいを醸し出す。このため、﹁半

苧の褐色がところどころ残っていて、ま

からむし

白でとても繊細なことで有名である。新羅

からむしハンサンモン

苧の刈り入れは年に三回行なわれるが、 てたことであろう。それを傍で見た朝鮮時

あがるまでに朝鮮の女人は身も心も疲れ果

三月植えし麻を五月に刈り取り七月に糸

このように、苦労のあげく織り上げた上

織りの順で行なわれる。麻は旧暦の一一一月中

代の詩人金良浩は、次のような詩を詠んで

麻の糸紡ぎ、麻糸の継りつなぎ、そして機 旬ごろに種を蒔き六月に刈り入れるが、刈

いる。

を鮪ぎ、

γけど

するくらいに熱く熱した石の上に束ねた麻

一 O 日余掛けて柔かき手を上下しつつ

り入れの際は麻刈り専用の麻万を用いる。

の茎を並べて草を被せる。そして、上から

切り取った麻は﹁奉岩法﹂といって、火傷

石が冷えるまで水を掛けるとその蒸気に

13

風俗画に見られる朝鮮時代女人たちの機織りの光景. 綿繰り車、糸車、機などを操っている


たちは七1八升から最低五升程度のを織っ て着用した。 朝鮮時代以来このような機織りは女性が

製﹂の糸で織った麻布は男性の袴衣チヨツ クサム(一重の揃い)や女性用のチマ(長い スカー ト)やチョゴリ(短い上着)、下着の 幼い頃から身につけ、生・護撞連れにしてい かねばならない十字架だったのである。

建立された慶州芽自歪寸の石塔から金属製の 針や針入れ、鉄などが発掘されている。ま

は針箱に用いていると記しであって、針箱

た中国の唐時代の﹃新唐書﹄一にも、新羅では 柳行李を食物用の容器や衣装の行李、また

知育亨-偲ばせるものが少なくない。そのう

まず、﹁火のし掛けのったない者は亭主

ち、いくつかの例を挙げることにする。

に嫌われる﹂、﹁きぬた石を枕にすると縁談 がまとまらない﹂などの諺が戒めているよ

うに、主婦たるものは洗濯した衣服は清潔

針仕事も朝鮮時代の女性たちにとって欠

服の手入れの仕方を教えている。そのいく

で滑らかで艶が出るように仕上げねばなら

の歴史は三国時代または、それ以前にさか のぽるものであることを裏づけている。針

婦 れJ女子の生活指針書の﹃闇閤叢書﹄は、衣

ないとされていた。朝鮮時代末期に著され

に﹁蚕寧といろ益事設けたり、養蚕を奨

刺し縫い棒、針、指貫、鋲、のしごて、火

里芋を蒸したお湯で洗えばきれいに取れ、

針仕事の道具と風俗

パジ(ズボン)などに用いられる。 絹の機織りについては、 早くも三韓時代 に箕子が蚕業を勧めたとい、ヱ白い記録があ る 。

こともできるが、裁縫道具としては惣差し、

仕事の道具は裁縫道具と整理道具に分ける

即する法律を作ったりしている。成宗時代

かすことのできないない徳目の 一つとさ れ、婦徳や礼儀作法、言葉っき、機織りな どとともに是非、身につけておかなければ

のしなどを、また整理道具としては針箱、 針入れ、針差し、ィポ人れ、糸巻きなどが挙 げられる。

朝鮮の太宗 一七年(一四 一七年)には全国

(一四六九 j 一四九四)には宮内でも蚕飼い が行なわれるなど養蚕を奨励し、それまで ならない生活要素であった。それで針盆事

衣服の手入れ

乾いた後に洗え﹂と記している。このよう

綿は高麗恭政主のときに伝来し、その後

始まり糸純き、 , 縦糸組み、機織りに進む。

ような苛酷な締布課税のため朝鮮朝の木綿 機織りの質的な発展が妨げられたことは否 めない。

の婆や﹂に擬人化してそれぞれの才能を誉 め称えている。針仕事の道具には、このほ

うな近世の小説の中では、針や糸、惣注し、 銀、のしごて、火のし、指貫を﹁役織付き

ひゆ科の植物)の粉を水に溶かして塗り、

すり合わせて洗うように﹂と言っている。 また、﹁墨の付いたのはいのこずち(牛膝 H

になる﹂とか、または﹁膏薬は生の大根をこ

こうや︿

生の麻は赤い寛と一緒に者符けると白い麻

ひゆ

つかを紹介すると、寸垢が取れないときは

中国産の絹物で作って着ていた官服も国産 の一針 一針に女性の真心と嚢情と念願を宿 らせたのであり針仕事に必要な用具もまた

な洗濯や染み抜きなどの方法はたと、み弦子

絹布の機織立までの順序は、蚕飼いから

の絹布に取り替、えるよ、つに規制した。 大事にされていた。そのため折れた針を悲 しむ、次のような﹁針を弔う文﹂が書かれた りした。

ロセスがあるが、風俗史的に見ると先人の

糊付け、きぬた掛け、保管などのようなプ

木綿の機織りに至るまでの順序は、おお ざっぱに一事えば、棉の栽培と収獲、種抜き、

かに事ポ費、、針入れ、針差し、糸入れな どがあり、のしごての仕事をするときはこ

衣服の手入れには洗濯、替口、染み按き、

由主包定、会墨定、慶也定の各地方で盛んに 惜しいかなそなた針よ。

栽培された。朝鮮朝世宗二七年(一 四四六

そなたは清らかなる質と格別なる才に長 たけている。

美しいかなそなた針よ。

りに綿布を徴収したため、人々から﹁白骨

物のなかの物、 鉄の中の鋒々たるそなた、

年)には通貨の危機を乗り越える方法とし て木綿を貨幣代わりに使ったが、後になっ

徴布﹂などと陰口を叩かれた。徴税があま りにも苛酷であったことから、しまいには

ては不足分の租税を徴収する手段として濫

綿入れ服の綿まで取包山して木綿を織って

強きと正しきこそ万古の忠節なれ。

いとも素皐きそなたき動きこそ百代の詞 客なれ。

納税用にすることもあったという。 ﹁ 白骨 徴布﹂とは、もともと家長が死んだにもか

棒状.つくり、糸紡ぎ、縦糸組み、縦糸結び、

かわらずその家族から木綿を徴収したこと から生じた言葉であったが、とにかくこの

そして機織りの順に進む。木綿は、一五升

て台と火鉢が付きものである。三国時代に

このように﹁針を弔、勺文﹂では針のことが 礼賛されているが、﹃問中七友争論討中止のよ

から一二升までを最上品とし、 一般の序良

14


いる。したがって、現代人の衣服の手入れ

千年の経験から効果のあることが分かって

的な根拠のないものがあるにせよ、数百数 けたり、伸ぴ縮みするようなことは、す

あけたり、敏くちゃになった旬染みをつ

伸ばすとき誤って火の替乞落として穴を

べて夫人の責任である。

﹁扶余人は好んで白い服を身を着けた﹂と このように、衣服の手入れにおいて洗濯

にも充分利用できると恩われる。

L

洗濯するときは、まず軟水か硬水かを区

や糊付けとともに継ぎを当てたり繕うこと を婦女子の重要な任務に位置づけている。

のくだりから窺われるように、韓民族は遠

記している﹃三国士企﹁貌志東夷伝﹂や﹁夫余

つきやすい白衣の洗濯と漂白をたびたび行 別し、軟水を使わなければならない。朝鮮

い昔から白衣を好んで着、このため汚れの なう習慣ができあがった。特に、朝鮮時代 時代には洗浄剤として主に灰汁を使った

あ く

になると清潔が女性における最高の規範と が、灰汁は藁、桐の木、互の茎や殻、そば

わら

して尊ばれただけに洗濯ということが大い

がら、唐辛子の茎などを燃やして作った。 これらの灰汁は、主として綿織物と麻の織 物を洗濯するのに使用され、絹織物は灰汁

に注目された。このため朝鮮時代には晒し 専問の庖が現れ、また見た目にもきれいに 洗濯し、洗濯した後もきれいに手入れをし なければならないとされた。

米のとぎ水、豆腐を作るときに出る水など が使われた。

ではなく小豆の粉、緑豆(もやし豆)の粉、

一八世紀に著された李徳懇の﹃青荘館全 書﹄には、主婦が洗濯とその後の手入れに

洗濯が終わったあと服に糊付けをする仕

織り上げた安東麻布

ついて守らねばならないことを、次のよう

の細かい噴毛を整え、服に張りを与えて元

事は、洗濯をするときに摩擦で生じた表面

た。糊付けは、また織物の艶を保ち、それ

に述べている。 田窪の衣服は洗濯したにもかかわらず 垢が残っていたり、継ぎがほぐれていた

が白色か色ものであっても元の色を活き返

15

の形をできるだけ長く保つのに目的があっ

り、糊のかすが付いていたり、火のしで

針刺し


あった。そのため朝鮮時代の糊は種類が多

の縦横の糸の方向を正すことにも狙いが る。簸などがある程度伸びたころ合いを見

で包んだあと足でかなりの時間踏みつけ

地や服を適当な大きさに畳んで洗濯風呂敷

ーと記されている。このような服の手入れ

が汁をこすりつけて洗えばきれいに落ちる

黄色い染みがついているところにはしよう

ついたときは大根を沸かしたお湯で洗い、

を探ってみることにする。

れた冠婚葬祭の風俗とこれと関連する服飾

のだが、ここでは一般庶民の実生活で行わ

況に令つよう手を加えられたものになった

く、米の糊・小主久の糊をはじめ、じゃがい

きたものを整理したもので、染み取りの方

冠札は成人式とも言い、男性ははじめて

にんにくと大根の汁で洗い、油が一ぱいに

もの糊、そばの糊、残寧乞利用した飯糊な 計らって砧石の上に置き、砧棒で叩く。 このようなプロセスを繰り返すうちに敏が

冠をかぶり、女性ははじめてかんざしを差

一面に均等に行き渡らせるようにして、布

どが使われた。面闘葦菩﹄一は、木綿と苧伸びてなくなり、際に付けた糊も均辱に染

いるため、今も充分利用できるものである。

法などは今日、実験によって裏づけられて

らせ、すぐに汚れがつかないようにし織物

麻布には末摘花の糊を、絹物には白笈の糊 み渡っていく。砧に掛けると適当にふんわ

きぬた

を付けるよう勧めており、苧・麻布を二度 りした感じが出てきて韓服の優雅で美しい のしを掛けて服の鍛を伸ばして程よくぴん

の成人式を鉾礼と言い、この 二つをひっく

す儀式をいう。男性の成人式を冠礼、女性

韓国人の礼儀作法観は冠婚葬祭の服飾に

繰りあげられた。

後期には早婚の風が起こり冠礼の年もやや

五歳から 二 O歳までの間に行なわれたが、

るめて冠礼と称した。朝鮮時代の冠札は一 はっきりと現れているが、それは韓民族が

まず男性の冠札(元患は、正月か四月に

吉日を選んで行なうことになっていたが、

が普通だった。冠を被る者主基管といって

実際には婚札を前に控 えて儀式を行なうの

双サントウ(髪を分けて二つに結った雷)、

h

て通れない通過儀礼であった。このうち、 民とは関係が薄かったが、婚礼と葬礼、そ

困撲彩(冠礼のときに着る礼服の二、勅吊

りわが国には高麗朝末に伝来したが、実際

冠婚葬祭の儀礼は、もともと中国に始ま

る人)と賓を助ける讃が儀式を取り行なっ

る。礼式には冠札を主管する賓(冠礼を司

順を踏んで冠を被ってはじめて成人にな

度を整え、初嘉・再嘉・三事と三段階の手

チェリ

して祭礼は一般の庶民も是非守らねばなら

(腰に結ぶ帯)、彩履(絹靴の一)の装いで仕

は祭礼に若干の影響を及ぼしただけで、朝

た 。 一般に、賓は徳望が高く至福の者が、

が非常に詳細に記録されている。同書によ

取り除くことで、晶閣叢書﹄にはその方法

染み抜きは服に付いている染みや汚れを

せていたため国民の日常生活に深く根を下

は、冠婚葬祭の儀礼を国法に定めて遵守さ

儒教を政治の理念としていた朝鮮王朝

冠礼(元服)では冠者(成人式を迎えた者)に

礼は大底、三嘉まで初嘉の衣冠で通した。

れ相当のもを着けるのが原則だったが、冠

テデイ

V

着た外衣)、幅巾(道服に合わせて被る頭

ポッコン

初嘉・再嘉・三嘉の段階毎に、衣冠もそ

現代人はソフトなタッチの布を好み、ま

ろしただけでなく、その儀礼は修身斉家の

雷を結ってやり、深衣(位の高い 士大夫が

讃は雷結いに長けた者が選ばれた。

チャン

鮮初期の﹃家札輯覧﹄と朝鮮後期の﹃四札便

サギュサム

ない儀礼であった。

ヤンパン

冠札(元服)は両班(士大老中心の儀礼で庶

近世の朝鮮社会で冠婚葬祭は、誰も避け

たからである。

礼節はまず服飾から、といった観念があっ

冠婚葬祭の習わし

冠礼(元服)

目に手入れするときは滑石や澱粉の糊を付 味わいを引き立たせる。火のし掛けは、火

法は長い間、生活の知恵として伝えられて

けるべきだと述べている。また、色ものの と張らせることを言い、一般に夏服の手入

。 ﹂

れのときに砧掛けとともに欠かせなかっ

Tえつけばなしらん

絹織物は、薄い空色には糊付けをしてはな らないとし、青黒い色には腰の糊を、紫色

には生の里芋汁を、白色の絹布には卵の白

覧﹄を見ると中国とは異った朝鮮独自の儀 礼が行なわれていたことが分かる。

た服の手入れもあまり必要としない服を選

ると、整方汁による汚れは硫黄を焼いてそ

骨組みともなった。

JJ

り好みすることから、糊付けの要らない織

の煙に当てるがよく、薬物の染みは五味子

ごみし

物がいろいろと出回っている。それに、現

を沸かしたお湯で洗うがよいとしている。

巾)、大帝(深衣に結んだ広い帯)、履(履き

す ほう

代の人は糊付けそのものが好きではないの

その手順がきわめてややこしかったことか

入れ社会風俗に{蚕宥させようと図ったが、

た。そのため、古来の風俗と当時の生活状

ら、家礼がそのまま守られることはなかっ

ゃに

は桃の木の葉をつぶして擦りつけた後に冷

朝鮮王朝では中国の家礼をそのまま受け は牛骨を焼いた灰を混ぜて洗う。煙草の脂

また膏薬は生の大根を擦りつけて洗い、血

水で洗う。夏の服に生えたかぴは銀杏と いらょう

て洗濯ものの水気が取れる前に、水気が

も糊付けの後に続く衣服の手入れ法の一っ

砧に掛けることと火のしを掛けること

きぬた

である。

V どを着けさせる。 物な チョリプチョサム 再嘉では草笠(冠者が被る黄色の窓早彩 (冠礼衣装の一)軽(皮靴 を、おしまいの三

る 。

身を水に溶かして糊付けするよう勧めてい

女性の成人式の算札. この儀式で女性は、はじめてかん ざしを差す

16


ポタト ウ

7

嘉では隣頭霧器十に及第した人が紅牌を受 ナンサ今 けるときに被る患、欄彩、靴を着用する。

あぎな

代化への改革 の V 際の町髪令が下された後、 すたれてしまった。 み、それに花冠を被せた後でかんざしを差 す。このプロセスが終わると鉾者に字を

諸問、っとき新婦の生年月日を問う手順)、納 キル 士ロ(暫郎の家で婚礼の日取りを決め新婦の

イホンムンミョン

ゴリの下着)、ソクポソン(足袋の下に履く

チンヨン

チョンキ

ナプチェナプペ

の手順があまりにも複雑なため憲宗十年

(一八四回生に議婚、納采(納懲、納弊 ( 婚 姻のとき新郎の家から新婦側に贈る礼物)、

親迎の四段階に簡素化した。 議婚は縁談の相手を訪れて婚姻を打診し

サジa

合意する手順の 一つで、田荏は一五歳以上、 女性は二一歳以上になってから議争乞する ことができた。

縁談がまとまると、新郎の四柱(生年月 日と時刻)を書いて新婦の家に送るがこれ

ナプチェ

が納采である。四柱を受け取った新婦家で

こうして婚姻の日取りが決まると新郎家

は婚姻の日取りを決め新郎家に送って用意 を求める 。

では婚書と婚需(婚姻に必要な品物)を入れ

た函(婚姻の際、新郎の家から新婦の家に

婚礼の 書状や贈り物などを入れて送る箱) ナプペ を新婦宅に贈るがこれが納幣である。この うち、婚書(婚礼の童基は正式に礼儀を整

ナプ

女性の成人式である鉾札は一五歳のとき に行なうさユ疋められていたが、大抵婚礼

ポソン)などを着ける。そして、その上に

家に通告すること)、納徴(新郎の家から新

えて婚姻することの証拠であると同時に一

ポソ〆

日の朝に取り行なった。このため、婚礼と

ピンク色のチョゴリ(短い上着)と外に着る

婦の家に婚礼を求める儀礼)、請期(新郎 の家で日取りを決め、その良し悪しを問う 書信を新婦の家に送ること)、親迎(新郎が

Z息即を象懲するもの 人の夫に仕えるとい 、 で、女性は結婚後一生保管し、死んだあと

を着て、またその上にタンイ(婦 スカート) 人の礼服のこをまとう。

冠札の風俗は朝鮮朝の末期までその命脈 新婦の家に行って新婦を迎えること)の六 が保たれたが、甲午更張(一八九四年の近 . 礼からなるのが原別であった。しかし、そ

ナプテン

黄色のチョゴリ、そして真赤なチマ(長い

冠礼は地方と家門によって少し異ってい て、地方によっては官服や道抱を着用する こともあった。

婚礼は議婚(結婚の打珍)、問名(婚姻を

王妃が着用したウォンサム. 絢欄たる色彩が目を引く

贈る。雷を結った後にはソクソッコ ッ( 女 性のチマの下に着る下着の 一 )、パチ(チマ ツ の下に着るズボン状の下着)、タンソ ッソ (下着の一)、ソクチョクサム(上に着るチョ

関係なく行なわれた男性の冠礼とは違っ て、女子の奔札は婚礼とそのまま結びつい た家礼だったである。奔礼(女性の成人さ は母が司る。鉾札の当人のために予め花冠 やかんざし、櫛などを用意しておいて、鉾 て がら

者(当人)の髪の雷を結ってから手絡で包

17

結婚式のあと、新婦が新郎と一緒に婚家へ向かっている


枢の中に入れてやるのが習わしであった。 妙モ

タン

あった。また、婚礼服には宮中の履煮物の

銀の指輪や銀のかんざしに至るまで互いに

の家に贈るチマ・チョゴリ用の絹織物から

婚礼のとき貧しい家では新郎の家から新婦

着用も許された。

を花冠の代わりに頭に被る面白い風俗も

領(襟の丸い官鹿﹂を着、﹁品帯(官服の帯 )L を帯び木靴を履いた。この礼服が新郎の婚

じられている衣装を一生にたった一亭さり

結婚式で新郎は、﹁紗帽(礼胆 を被り﹁団

ごすことになる σ L

礼服に定められたのは、粛宗王代(一六七 五i 一七二O )からだった。一七世紀後半

昇の心理を満たしてやったのである。婚礼 服を作るには大きな経済的色租が伴ったの

び、紅色の反物は青色の紙で包んで紅色の

リヨンプムデ

の﹃四礼便覧﹄(冠婚葬祭便覧)の中には、寸親

た後、初夜を過ごすまでのプロセスのこと

親迎は、新郎が新婦の家で結婚式を挙げ て朝鮮末期まで着用され、これがまた庶民

の堂上官(正三品以上の高官)の常用服とし

て多く使われたのは、ファルオッとウォン

しは王妃が縮小﹁電箸・鳳替の使用が許さ

の結婚式に限って着用を許すことで身分上

に作って互いに利用し合った。

いう記録がある。紗帽と団領は、もと高麗

張インスンさん(七O歳・忠清南道公州

ハム

このように一般の庶民たちに皇居段は禁

糸で結んだ。画には、このほか種のある綿 迎のときの婿の衣服は紗帽、団領、品帯、

また、婚需は大抵、青・紅の絹織物のチマ・ チョゴリそれぞれ一着殺すつであったが、

の花と小豆を入れた袋を入れて子孫が繁栄

で、村人が共同して作ったり、また家門別

官夏]の反物は赤い紙に包み青色の絹糸で結

するよう祝った。函は、婚礼の前夜ハムジ 木靴とし朝廷や俗家でともに使われた と L

郡居住)の話によると、一九三0年代まで

か 一 一一日後に新 であり、初夜を過ごした翌 日

の婚礼服に用いられた。新婦の衣装は初め のうちは目立たない地味なものだったが、

サムである。特にファルオッは、もともと

フアルオッには多紅色(深紅 の絹織物に

れただけでなく、開城地方では大きな花束

も体裁づくろいをしてやりたかったのであ る 。

ひそかに借りて使ったという。貧しい人は、 貧しいなりに息子や娘の結婚には形ながら

ンエピ(函の運び手の下回忍が提灯を下げて 担いで行くと、新婦の家では板の間にござ て着用されたが、これが朝鮮初期から文官

末に明の制度を受け入れて百官の官服とし

郎と新婦が一緒に新郎の家に行く。これを

だんだん啓決な風潮が流行るようになって

﹄﹄・し‘ さ

いて面を受け取った。

を敷き、甑に蒸した餅をお礼に作ってお

﹁子帰﹂または﹁新行﹂と言った。また昔は月

から王室と両班家の婦女子の礼服である ファルオッやウォンサム、タンイが用いら

はや

ムギ、年ムギといって数ヵ月、または年を

したなつめや栗、酒、薬踊(牛肉に薬味を

とになるが、このとき新婦は実家から持参

王女の礼服で、庶民の婚礼のときにのみ使 用することが許されたが、男性の団領とと

朝鮮朝の中期と後期に女性の婚礼服とし

ヤ ンパン

越して壇家に行くこともあったが、三日目 れるようになった。

これが今でも行なわれている幣吊である。

して乾かしたもの)などでお膳を整えた。

に愛用された。

もに身分上昇を満喫できたためか多くの人

婚{暑かに着くと新婦は男と姑にまみえるこ

ウギンンヘンタル

に行くのが普通だった。

壇家で新しい家族としての儀礼を行なった

長寿と福を願う﹁二性之合は百福之源、寿

ι 一緒

新婦は、三日または一週間後に新郎 に実家に行く。これを﹁再行﹂と言、つが大抵

繍が施 してある。また、ムァルオッを着て

あげ は

は山の知く富は海の如し﹂という句が書い

V

三日間泊って里の親戚や村の人々に挨拶回

てあり、前襟と後ろ襟、袖には長寿と宣福

チふヘン

りをした。そして、婚{忽に戻って暮ら寸っ ちに秋の取り入れが終わると新米など取り

母峰・子峰、揚羽蝶、童子などの模様の刺

を意味する牧丹の花や蓮の花、波、不老草、

婚礼の儀式を挙げるときは花害被り、い

あいさつ

入れたばかりの収獲でご馳走を作って実家 二、三日泊まるのが普通だが、家柄や地方

クン チン

を訪ねる。これは﹁親親﹂と言われるもので、 によっては一年または初子が産まれるまで

ろいろなかんざしを差して飾った。かんざ

現親をもって複雑な婚礼の手順は終わる

ヨンジ ャム ボ ン ン ャ ム

実家で暮らすこともあった。 わけだが、そのあと新婦は一生を婚{掛かで過

われた。儒教を信奉していた朝鮮朝では、

葬礼は、四礼のうちもっとも丁重に行な

朝鮮時代末期の喪服姿

18


布、手を包む瞳子、 爪と髪の毛を入れる袋

ゴタ チ エ ゾ サ ン 一 ア

テ ーボルム

茶礼は 一般にお正月、旧の一月十五日、 実食、端午、七夕、重陽、冬至などのよう

ホンジふウジ忌チョル

魂祭、虞祭、卒突祭、小祥(一周己申、大 ザン 祥(二周忌)の祭記が待っている。

な節目に行なう祭杷のことだが、地方に

としては、 時 F孝巾、網巾、行纏、腰帯、 紋帯、杖などが着用された。このうち異

にだけ行な、

着せた。死に装束の済んだ遺骸は枢に入れ

敷布団の上で寿衣の上着類は上着類で、ズ ボン類はズボン類でそれぞれ一度に重ねて

2 ﹂ころもある。両親の思日に

ポンサ

シーズンであるため、祖先の方々に収獲の

月に執り行なった。これは十月が収獲の

いった。

よっては少し違い正月、実食、端午、秋タ

敷布団の 地祷、遺骸を枢に入れた後で一番 上にかける天会などがあった。しかし 一

行なう祭記は大祥(二周己山)の翌年から父と 母が他界した前日の午後十二珪別後に行な

ヒgゴ ン マ ン ゴ ン

一周忌に布われる祭認のとえ喪主の服飾

般庶民は、パジ・チョゴリの上に袷や婚礼

老巾、網巾、行纏、紋帯などは成服のとき のものを洗って手入れしておいたものであ

われた。忌日の祭杷は祖父の祖父、即弘長岡

深衣を着けることを言、っ。深衣は、襟元を

と脱喪と言って喪服を脱いで葬犠を行う前 の元の生活に戻るのである。

タルサン

で作ったかんざしを差した。大祥が終わる

︿ず

る。また、摩市は葛のつるの度を水にふや

祖までの祖先を祭り、これを四代奉記と

裏返すか内側のコルム(結び紐)をゆるく結 透き間には古着や韓紙、わらなどを詰めた。 この後で喪主は正式に喪服を着けるが、

寿衣(死に装束)を着せるときは、 一重の

服など鐸目しておいたものを寿衣に代える こともあった。

かしたあと乾かし三重にして作ったもので ある。

墓祭は時祭、時享祭ともいった。五代 以上の祖先の墓の前で後喬たちが合同で祭

チヨク

オナンポクポ

の葬式を大事に考えていて、一般府民の家

孝をもっとも貴び、当然のことながら両殺

E

の五嚢、腹のとこ ろを被せる腹栴ポソン テリョムグムソリョムグム と履物、布団代わりの大険会と小検袋、

でも﹃札書﹄の定めをよく守った。朝鮮朝に おける葬礼の意味は、人間が死によって終 わるのではなく来世に再ぴ生まれ変わると 考え、寿衣(死に装墓づくりや墾凡に礼を チ 尽くして執り行なった。墾入は、一般に初 スプヨムソンボクチジャンチエイ 終、襲換、成服、治装、祭儀の順で行な

二周忌の大祥のときには厨荏は白いカッ (患に白布の服に白布の帝をした。女性は

る祭柑のことである。﹃札書﹄には三月上旬 に祭ると記録されているが民間では大抵千

んで着ける。しかし朝鮮時代の末期にはツ ルマギ(伝来の外套)が深衣に取って変わっ これを成服と言った。成服は五服の制度に

初終は息を引き取ると、喪主は髪を解き

われた。

白いチマとチョゴリに黒い手絡と黒色の角

た。父親の墾凡では左側の袖を抜いて肩の

ものと思われる。

喜びを報告するとい、つをえから秋になった

に祭礼服がツルマギや道抱に変わるにつれ

性の場合にはまず麻の頭巾をかぶ均白衣を 着けた。しかし壬辰倭乱(文禄の迭の後か トポ らはツルマギか道抱に変わった。このよう

ム祭礼 祭礼は死んだ祖先の霊を祭る礼節のこと で、朝鮮時代には死んだ霊を生きている人 に仕えるように敬わなければならなかっ

祭礼のときに着用する祭事乞みると、男

た。そのため、朝廷の宗廟の祭組はもとよ

て、頭にも頭巾の代わりに黒いカッの冠を 主に着用した。しかし忌日の接記のときだ

しだった。祭記に供える料理を作るときは 大きな声を立てて笑ったり、おしゃべりを

祭杷の供え用にと別に予め取っておく習わ

た。そこへ、祭和関連の礼儀一性伝も、また 厳格で肉や魚のよ、つな食物が手に入れば、

るまで、その手順はきわめてややこしかっ

きわめてまれで、一般庶民の多くは白色や 薄い水色のチマとチョゴリを着けた。朝鮮

物)を着た。しかし、このようなケ1スは

礼服も特に定められてはいなかった。ただ、 家門によって糸筋がまばらで薄い絹物の宵

そのものへの参列は控え目だったため、祭

けは朝鮮時代の末葉まで麻の服を着るケー スが多かった。女性の場合は、接相の儀式

サシ ヨ

チジャン

つけ、わらじを唇 c 、杖をついた。 このほか親戚の者は、男性は麻の頭巾な

するのを慎しまねばならなかった。料理を 作る最中の礼節にやかましかったのは料理

時代の白色や薄い水色は女性たちの豆み巾服 の色であったので、接相のときに平常服を

また、嫁はキックァンモク(機械織りの 木綿布)のチマとチョゴリに首経と腰経を

どをし、女性は白いチマとチョゴリに木の かんざしを差した。

しかし、朝鮮時代の後期には僅棋の張る

の香りを霊魂が歓饗(供え物を食べるこ と)するものと信じられていたからである。

きれいに洗濯し丹念に手入れをして着たと

言えるだろう。

チャレキ

の鉱誌は引き続き動作された。

衣(婦人たちが祭杷のときに着た黒絹の着 成服の手順が終わると治葬、すなわち 杢入の運ぴとなるが、筆入は息を引きとっ

供え物を飾り立てることに気を配るなどの

7ムヒャン

た日から大夫は三ヵ月、士大夫は一ヵ月、 一般庶民は 三日や一週間後に執り行なっ

弊害も生じたが、茶札、ロ}銭柄、時祭の三つ

を作ること)をし、芝を被せる。こうして、 油器をもって華凡が終わると、このあと都

ジェシジェ

た。枢は喪輿で葬地にま で運び、 墓穴を堀つ ポンプン て埋め、封墳(土を盛り上げて鰻頭形の墓

チ£ウィヨチルスチル

祭服は衰衣を着てこれに腰経と首経をつけ サン 頭巾の屈巾をかぶり、わらじを履き、喪

り民家の祭杷の際に供えるお膳立てにいた

血縁の親疎によって行なわれた。大抵、長 クルゴンジエボク 男の喪主の場合は、屈巾祭服を着た。屈巾

杖の杖をつくことになっていた。

けられた。五服の振り分けは死んだ人との

素材の麻布の質によってそれぞれ呼称がつ

チ守ムチェチ忌チ&

後ろに掛け、母の葬礼では右側の袖を抜い

よるものである。五服とは斬衰、斎衰、 テゴンソゴンンマ 大功、小功、総麻の五種類の喪服のことで、

て肩の後ろに掛けた。女性も両親の喪に服 するときは髪を解いて 一切のアクセサリー を排し、白い衣装に着替える。また他人の ところへ養子にいった息子と嫁いだ娘のほ かは、みんなポソン(足きを履いてはなら なかった。 この後、遺体を清めて死に装束を着せて 枢に入れるが、これが襲検である。死に装 束の寿衣は、絹織物や麻布で生前の寸法よ りもやや大き目に作る。寿衣を作るときは、 縫い終ると糸を結ばず長く垂らしておく。 いろ俗信によるものだった。

これは、この糸が来世と現世をつないぐと 男性の寿衣は、ソクチョクサム(内側に 着るチョゴリ)、チョゴリ、ソッコイ(内側 キョプオヲ

に着る袴衣)、パジ(伝来のズボン)、袷 チャンイ (あわせて篭衣(官員の普段着)、深衣、 幅巾からなっている。また、女性の寿衣は、

ソクチ ョクサム、チ ョゴリ、ソクソッコッ・ パジ・タンソッコッ(以上、腰下の下着)、 チマ、ミンチョクトウリ(飾りのない女性 の冠)からなっており、このほか顔を覆う

19


韓国人の象徴│韓服(チマ・チヨ ゴリ) 韓国の伝統服飾としての韓服は先祖たち の塊がこめられている韓国固有の衣服であ

a

した作業服などは、その当時の生活状況を

仕事をする時とか作業をする時に主に着用

M 弘益士8 ・ ・ 錐・翁難科婦B

韓服の美しさを把握する作業の 一 つ である

服は冠婚葬祭の性格によりそれぞれ異なっ

そのまま反映する衣服の一つの形式だ。礼

と同時に、ひいては韓民族と韓国を理解す る恕穣になるのである。

ていたが、王や王妃や百官らのように特定

韓国の造虚実

1 1線の美 伝統的な韓服は、線の美しさがことに強

時代から韓国の風土の中になり立ってきた

日常生活で主に着用したま最は、上古

ような各部位は、柔軟な曲線で構成され独

ソプ(チョゴリの襟の 下に付ける布)などの

側の部芝、トリヨン(チョゴリの裾の回り)

即ち、チョゴリの襟、袖のペレ(袖の下

調された。韓国の造形物の美的特徴は、柔 軟な曲線にあるとい、孟璃は様々の美術分 野で指摘される共通点である。

韓国の固有服で、現代に至るまで身分と地

韓服の構成と種類

の身分の人が着用した身分服もほとんどこ 韓服は基本的に上衣と下衣からなってい

位の上下を問わず愛用されてきた韓国の伝

は、このように表現された曲線を強調する

特な形をなしている。ベジャやチョゴリで

り、韓国らしさを強く維持している造形物 の一つである。産業化や国際化時代に生き

る。女性服の基本形はチョゴリ(上衣)とチ マ(下事であるが、その上にベジャ(チョッ

統服だ。雲市服というのは、何よりも日常

れに含まれる。

ている現代の韓国人が、通過儀礼や伝統的

キ)、マゴジヤ(防寒用の上衣だけのもの) ツルマギ(コ 1ト)等を着用し、受口によっ

生活で着用者と喜怒哀響乞共にしてきた固

笠事を行なうときに韓服を愛用するのもそ のためである。このように韓服は韓半島と

てアヤム(女子の外出用防寒帽で後ろの部 分が長くなっているもの)、チョパイ(女性 用の防寒帽)等、頭にかぶる物を着用する 時もある。車種服もこれと似ていてチョゴ

た服は﹁下着の外衣化﹂の現象によって礼服

守る範囲できちんと着た服である。こうし

に着る服の内側に着用し、家の中で礼儀を

有の韓服であり、大部分が礼服として外側

輪郭線と同じようにオッコルム(チョゴリ

用者の動きによって変わる可変性がある。

線は服飾の輪郭線にも見いだされるが、着

ために黒色の線を装飾することもある。曲

に着用する民族服である。特に現代に至っ

いう地域を中心とし、韓民族によって着用 される民族服であり、韓民族であれば共通

というよりは伝統文化の誇示と韓国人の自

やマゴジヤ(防実崩の上衣)を着用し、外出

リ(上衣)とパジ(下衣)、その上にチョッキ

上から全体を包むような服を着用すること

する時には、仕すツルマギ(コ lト)のような

化し、現代では礼服として着用されている。 笹震は一次的に実用性と捗時性が求め

な可変線に含まれる。この線基議として、

て衣服の表面にできる影の線なども流動的

ては、韓服は日常的な実用性を満たす衣服

身体を包む造形物の一つである韓服も、

負、合主表現する手段とされることが多い。 その中に気候と風土の影響はもちろん、製

時には暗示線として作用し、観察者に線の

やツルマギを前で閉じる紐)の線、襲によっ

作者と着用者の造形意志が介入するはずで

ベルの人が着用し、その構成はま巾服と同

られた服で、主に労働を強いられた庶民レ

的意志、観察者の美的評価を含む美意識と

や生活様式によってさまざまな種類の衣服

を区分して着用したものだが、個人の趣向

が、ここでは韓服全般にわたって発見され

一である。以上のようなさまざまな種類の 衣服にもそれぞれの美しさが求められた

イメージを際立たせる役割をする。チマ裾

このように韓服は性別や身分、職業など

を礼儀とした。

ある。この事富山志とは服飾をつくる創作

して韓服の造形美を表す力であり、衣服の

形式を見せることもあった。即ち、婚礼と

一六世紀の中期、服飾の垂直的だった輪 郭線は 一八世紀の中期に入ってから量感が

意志、または製作童志であり、着用者の美

美と醜を識別するのに働く鑑識服、または

か葬式等の行事に格式を整えて着る礼服

強調されるようになり弾力を含んだ曲線に

の揺れも流動的な曲線として-認識される。

美意識でもある。

ゃ、日常生活で礼儀を老臆して着る平常服、

る造計密実を中心として調べてみることにす る。 従って韓服の造形遥穴に対する老黍とは、

20


朝鮮王朝末期の徳j昆王女のタンイ

変わる。 一 方 、 一九世紀の後期の輪郭線は ないということだ。

ずる時に曲線の美はいくら強調しても足り

美が強調される。身体の広い部分を事一つチ

を際立ったものにすることで、その構造の

マは、帯用の布に縫いつけてある小さな襲

く空間のことを意味する用語であり、これ

して働いて優雅な雰囲気を醸し出すが、チ

形成しながら美的表現を担当する。襲の多 様な模様は、チマの広い表面に装飾要素と

を源にして生まれた襲が柔軟で、長い線を

は違う吐事形物においても見いだされる韓国

て残っている部分が多い 。

柔軟な線の流れは、韓国の服飾を形成する 造形要素として韓国服飾の美的特徴の 一つ といえる。

余白は意図的に装飾を加‘えずに空けてお

的な美的特徴の一つである。装飾紋様が排 除された白磁器の表面に空いた空間を余白 だとすれば、この白鶴器は余白によってさ

の物語を産んでいる。朝鮮時代の女流画家 である申師任堂が借りもののチマを汚して

2、余白の美

前時代の弾力のある曲線が緩和されなが ら、柔軟だが自然な曲線を形成する反面、 輪郭線で表現された曲線は服飾の構造線に もつことになる。それでありながらも、全

らにすばらしい美しさを見せている。絵画 の広い空間も手を付けずに余白として残す

しまった女のために、そのチマの上に葡萄

転移し、衣服の各部分が曲線化する特徴を 時代を通じて韓服に際立っている特徴は流

受口が多く、見る人による感情移入を通じ て画面が完成されるようにする。

の持ち主の女は葡萄が描かれたチマを高い

着けることを誇りとしていた。つまり、チ

いてもらうことを望み、そのよ、フなチマを

たちは自分のチマの上に素晴らしい絵を描

しばしばあった。そこで、当時の妓生(芸者)

キーセン

の表現としてチマの上に絵を描いた事例も

の絵を描いてやった話は有名である。チマ

余白は、余裕と融通性を許容し、数多く

マの装飾表面にはまだ広い余自の空間とし

韓服の基本概念もこれと同じで、衣服の

値段で売ったとか。また、恋人同士が愛情

動的であり、柔軟な線の流れである。この

表面はほとんど余白として感じられる広い 面積乞持っている 。身体のほとんどを包む 韓服は、豊かさを特徴としているときえる ほどで衣服全体に広い装飾の空間を形成し ている。 女性服のチマと男性服の道和(道服に似 いろいろな衣服の中でも特に広い装飾空間

た礼服)、ツルマギのようなコ 1トの類は

なる。このような特徴は使用される素材に

を提供する。これらはほとんど表面の装飾 が排除されていて、余臼として残ることに タンイ(婦人の礼服の 一撃の裾のように

よる場合が多い。愛用された素材は主に無

の紋様を好んだので衣服の装飾表面は

ある場合でも、織物を織る過程で現れる地

紋様の織物だったからである。装飾紋様が

曲線であるソプの線はトリヨンの曲線とあ いまって、その方向を変えて引き返す﹁反 転の美﹂を見せる 。この時にできる繊細な 鋭角は曲線と曲線の対比で現れる特徴的な

ちょっと見ただけでは無紋様の空いた空間 として-認識される。

造形で 、これは他の造耐霊友仰にも共通に見 られる韓国的な造問聖美の 一つである。

女性のチョゴリ、特に三回装(女性のチョ

装の 一種)、クットン(袖先につけた部企、

この ような曲盤美は、単に服飾のみなら 芸品、絵画などにも著しく現れている。青 と赤が絡まり合って 回る太極扇から炉のコ

オッコルム(前を閉じる紐)などの部分に礼

ず建物の軒や踊りの動線、国楽の旋律、工

テにいたるまで、曲線は美的特徴として表

服と違ヲ色を使って整ったチョゴリの形態

21

ゴリの襟、袖、脇に当てる縫い飾り)チョ ゴリは襟、キョ ッマギ(昔の女子が着た礼

現されている。従って、韓服の美しさを論

緯服の輪郭線の移り変わり

Late 1曲、Ca l t UY Mi j ., 甜1田 崎 町

l al e181hα " Ilxy

ν同,' " ' 国巾xy

M品 1園 、 閣 制y


マは見ることによって広い空間の可能性を

白色に対する韓国人の並外れた愛着と好

原色は、主に祝祭の日や婚礼式等のよう

たした。このようなことは、韓国人がどれ

または灰色を使って白色に対する憶憶を満

られると、白色の代わりに空色や薄い黄色、

の着用を禁じられた時もある。白衣が禁じ

る。漂白ということは混濁不純であったり

を誇りに思っていたということを示してい

潔で邪悪なことを排斥し、漂白であること

古代から韓民族は心構えや生活において不

の気質とも深い関係があるようにみえる。

色彩の正色と間色の概念に由来してもい

色が身分を表したこともあるが、一方では

高い身分ほど原色を好んだ傾向は、この原

て華やかさにあったことがが特徴である。

合、つ色だが、韓国人が求めた原色は明るく

この原色は、白色とともに韓国人によく似

な儀礼的な行事や特別な人に着用された。

ほど白衣が好きだったのかを示している。

汚れたりということがなく、真実無垢で、

白衣に対する愛着とか持続性は、韓国人

力な意志が内在している。

るくらい白色を愛好してきた。織物の素材

白衣安来数多く出されたということは、

みに対して、数多く白衣替市令が出され白衣

の色に由来する白色は歪官服の主な色とし

吟味し、想像させる余白の美を見せる。

~

黒色の髪の毛とともに白黒の調和をなす韓

白衣は回在服や女性服に一般に使われ、

ある。

き白色が好まれていたのかを不すものでも

逆に解釈すると、その当時どれほど引主義

において重要な思想であった。つまり、白

行かなければならないとい今去五は韓民族

きれいだということを言い、漂白に生きて

ち三原色を中心にすべての色の摂源になる

五方位にあたる青・黄・赤・白・黒)のう

る。正色は五方色(東・西・南・北・中の

は古代の扶余時代から愛用されてきたとい

地位にまり服飾の色彩ぷめられた。 韓服に使われた原色の対比の特徴は余色 との対比だ円緑色と赤色、黄色と青色のよ

重要な色で、その中でも特に黄色は皇帝と

が韓国人に一番よく似合う色彩対比の一つ

う記録を見ても、白衣に内在する強い桂机 韓服には主な色であった白色に対し、他

うな余色は是認の度が高く、華やかな缶]彩

衣好尚の要因は、単純な外的要因の適用だ

だとい、ユ事実が、最近、服錘麦孟台の問で

性の原理を知ることができる。他の国でも

の一方では緑衣紅裳、貧衣紅裳、緑衣車旦表

白色を使った背景には、白色に対する憧

論じられていることは示唆する意味が大き

白衣が愛用された例は多いが、何千年もの

などのような強烈な原色の調和が共存して

皇后、赤色は国王と王妃の象徴色として使

い。韓国人は髪の色と皮膚の色の明度の差 が大きいので、やはり明度の差が大きい白

問、在杭的に白衣に固執してきたのは、我

のコントラストで視線を集める力を持つ。 ある﹁狂事の重要な人たちが着用した明るい

僚と象徴性が多く働いていたようだ。白衣

黒の対比がよく似合うというのだ。この白

が民族がもっ特殊性として理解できる。こ

いることに注意を向けなければならない 。

われた。支全の儒十礼服も配偶者の身分とか

色は、白磁器や絵画で空間、即ち余臼の美 とされていたように衣服でも空間の、余白

の持続力には、白衣を維持しょ、?とする強

ム原色の美

の美として認識される。

けでは解決できない内的な問題として扱わ なければならない。

国的な色多調和の一つである。自=⋮の対比

て使われた。

qh白色の美 韓民族は、長い間﹁白衣の民辞と呼ばれ

弘盟 理冨園

:-,.;~

なしている

22


の布)を着用して顔を覆った。これは女性

隠すための物)とかツゲチマ(顔を覆うため

を社会から隔離した朝鮮時代の時代像の断

面を一不す例でもある。

つまり、女性たちは自ら様々な服を差皇

ね、このような過程で多様な下着文化が発

達したと思われる。特に下着は、﹁女性の

肌は絶対に他人に見せてはいけない当時の

習慣 Lのため、身体を隠蔽するために多様

るために着用した、幾重ももの下着は結局、

な種類の下着が出現した。身支度を徹底す

下半身を豊かに見せたし、曲線の柔軟な輪

郭線の形成に影響を与えもした。

ソクチョクサム(チ ョゴリの内側に着る

な下着)、タンソッコッ(女の肌着の上に着

下着)、ノルンバジ(女性用のずほんのよう

る下衣)、パジ(ズボン)、ソクソッコッ(女

どのような多様な下着が女性の身体を幾重

ン・ツルマギ、オパンジャン・ツルマギな

にも隠すと同時に豊かなチマを表現して上

愛用された。セクトン・チョゴリ、セクト

原色の色彩球信は一般の刺繍にもよく見

半身に密着する小さなチョゴリとともに上

の肌に直に着る下ばき)、タリソッコッな られる。ウォンサム(婦人礼服の一つ)に刺

どもセクトンの一つである。

繍された波の紋様とか怪石の紋様、トゥル

上流階級の女性が正装するとき、腰の部分

薄下厚という特徴をつくりあげた。また、

に付けたムジギチマ(チマの中に着る短い

チュモニ(ポシエットのようなもの)の装飾

チマ)とチマの下の部分に付けたテシユム

紋様では一つの空間にさまざまな色彩を重 も多い。原色の調和は、また装身具の色と

複的に使用し、原色の華麗さを再現した例

チマは、衣服の柔軟な外形のために着用し

身体を隠蔽した服飾のパターンは、広い

な意味をもっ。

たもので、服錘実学的立場から見ると重要

して多く使われ、韓国的な華麗さを不す。 F h h堕倣の美

可能なかぎり身体の全ての部分を包み隠し

装飾表面を提供し余白の美を表現しなが

韓服は、着用者の身体を全て包むという

た着用者は、とても優雅に見え、さらには

意味で隠蔽の性格が強い。厳格な儒教思想

のような価値観は衣冠を整えた服飾を通じ

ら、同時に着用者の美しさをそれとなく控

て実現され、大抵の者がきちんとした服装

え目に表出するという特寧乞持つ。また、 福を祈願するクッ(韓国のシャーマニズム

見る人の相復力を呼び起こす想念の美を最

の重要な価値道徳として強調してきた。こ 原色の服飾は大勢の人々の視線を集め、邪

儀﹄ろにおける亙女の舞服によく利用され

は男性には威厳を、女性には貞淑さを当時

悪な能力が近づくのを防ぐ力を持つ。この

ふ露出の美

大限に発揮させる美的持学乞持つ。 ことを忌み嫌い、女性もやはり外出する時

をして礼儀を守ろうと努力した。男性は衣 原色の調和の極限を示すセクトンは、強

にはチャンオッ(女性の外出用頭巾。顔を

冠を整えて、礼儀正しくない姿で外出する い土鼻高な意味のため児童服や婚礼摩守に

てきた。

ような象酸性は、セクトン(袖に五色の色 を順番に入れたもの)では吉祥の象徴とさ れ、婚礼服とか祝祭日の晴れ着、ひいては

23

ウォンサムは王妃、王子妃らが着用した礼服だが、 庶民には婚礼式に限って着用することが許された


身体を隠蔽した韓服の厳格さにもかかわ

けられた孔雀の尻尾によって、揺れの要素 が強調されている。この揺れの要素は踊り

られる揺れと震えの動きは、また異なるパ

反応して優雅な姿を浮かび上がらせる。

の下着が東南の風にひらひら﹂といったく だりがあるが、その当時、隠したい部分と 子の動作によって揺れながらひらひらし、

結させよ、っとした意志が窺われる。

して表出する手段として活用されている。

韓服には多くの意味と象徴性が含蓄され

8、象徴の美

覚的な表現と圭一一早える。

ターンの曲雑であり、これにともな、っ律動

装身具の房飾りとトルセなどを通じて見

らず、 一方では女性たちの胸を露出したり、 下着を外に出すなどの露出を行なうという して老えられていた下着を公扶古言及する

ている。色合いはもちろん、紋様、装身具

ことで心理的な満足を得ていたようだ。

両面性がある。身体とか下着を露出し、表

等の造形要素は韓国人の祈りと望みを内包

美は自然美を追求しょ、っとする美意識の視

写真でも接認されることから見ても、当時

日常服では身体の下半身に着けたチマを

輿にのった踊り子の次蓄やをさらに楽しそう に印象づける。僧舞とサルプリ(亙女の厄

現しようとした意図はまず身分の象徴とか 扇情的な動穣によるものだと考えられる。 流行った整方のように見える。このよ、つ呑 奪化は当時の倫理観と価値観の奪化に由来

始め、オッコルム、チマの上部に垂れるチ マの紐などにも揺れを見ることができる。

このような下着パジの露出は朝鮮末期の

露出の方法はまず、着用者の動きや風の ような外からの影響によって身体の形が現 する現象だと思われるし、﹁下着の外衣化﹂ 現象の 一つとして説明できる。このような

髪に付けたテンギの形能下手胸の下に着用

払いの儀きの踊りに使われる白色の長い 汗移(手を隠すように付けられた袖の布)に は、やはり揺れを利用して踊りの内容を完

る。これらは全て身体をそれとなく露出し

われる警があるが、透けて見える素材を 使って身体を露わにする場合もこれに当た 露出は、隠蔽しようとした音去とは矛盾を 見せながらも対照的な美しきとして皐益十さ れている点が注目される。

る例が多い。チョゴリのオッコルム、髪を

韓服には動きが美的要素として働いてい

いる。ノリゲに付けられた装飾の房飾りを

り﹂部分は女性のチマ・チョゴリ形式の与 える感性に類似したものとして認められて

特に、﹁ノリゲ﹂の﹁結び目﹂部分と﹁房飾

伝統韓服においてチョゴリの紫色の襟

にした赤各累の韓服を礼服として着ること が慣習として残っている。

色系統の韓服を着、新婦の母は桃色を中心

た場合で、直接的な方法より撃え目にそっ と出すほうがより感骨箭になるということ を示している。 また、身体を直接、露出する場合として は胸の部分の露出が挙げられる。朝鮮時代

女性のチマに対比させる発想は、房飾りの

は、夫を象徴し、藍色のクットンは息子を J 人が紫色 象徴した。つまり、年を取つれ 婦 の襟に藍のクットンの三回装チョゴリを着

このような属性は現在も見られるもので、 結婚式において新郎の母は青色のような紺

は息子中、心王義であっただけに、息子を産

た婦人用の装飾品)などの装身具に付けら

縛ったテンギ、ノリゲ(貴金属、宝石で作っ

揺れが与える形桜前な特徴が女性のチマと 同様の感性によって認識されたからであ

したノリゲにも同じ雰囲気が感じられる。

むことは大きな誇りであった。そして息子

れた様々の種類の房飾りなどは揺れる様相

紋様にも士門梓の意味を与え、願掛けの手

7、律動の美

に授乳する女性は胸を・自然に害山すること が、ある面では自慢であったし、他の女性

を見せる反面、花冠やチョクトゥリ(婦人

すだれのように作って装身具にする香)、

段として使用すると共に華美的な装飾紋様 として使用された。新婦の礼服である大礼

類)の下から見えるパジは、隠蔽の美を遵

れるようにコドゥルチマ(コルセットの種

いう美意識の変化を見せた。風俗画に見ら

よって揺れ、自然な律動の美学を奏でる。

身体を厳重に覆った姿は朝鮮中・後期頃 になると、下着であるパジを露出させると

分の象徴の一つとして理解できる。

たちにとっては憧れでもあった。このよう な点から見ると、直接酎な身体の露出も身

粧万(保身または装飾用の鞘のある小刀) チュモニ(ポシエット)などの装飾で広範に

服に刺繍された牧丹は富貴を表すというこ

でなくチムナン(寝袋)、匂い袋、発香(玉 チャンド

る。蓮の花は高潔さの象徴だったし、夏に 閏房の扉風として多く愛用された。煽掘や

緑衣紅裳が新婦を象徴したり、黄衣紅裳は 未婚女性の祝祭の日の服を意味しもした。

用できるということは、その女性は幸せな {丞挺を築いているということを意味した。

の礼装の時の運等に付けられたトルセ(冠 の飾りの一︹ は揺れる微細な動きを美的 特徴として持つ。これらの動きは旋律を暗

使われたことを見ると、当時の人達の房飾 りに対する愛着のほどが寧える。

とで、婚礼用品によく愛用された紋様であ

守した当時としては一つの衝撃的な姿であ り、チマの外側に出すことをはばかられた

携帯してた扇子も揺れを特徴とする。ソン

ソンピ(学識者)の賛沢さと豪者さを表した ヤシ,、ン 長いカッ(大人の両班階級国荏の患の紐の 姿や士大夫(ふ貴族の一般的な称 た V ちがよく

る。揺れを象憶する房飾りは、ノリゲだけ

一不する要素である。 客に付けられた季、その上に着用し

揺れの様相は大礼服の冠帽である花一堪と

下着の露出を通じて扇情的な美しさを表現

J)

た広多絵や細条帯などは着用者の動きに

チョクトゥリは、もちろんトルジャム(箸

しようとしたものと考えられる。朝鮮時代

(花冠やチョクトリの飾りの一

(J)

柘檎などは大勢の息子を象徴したし、特に 斧の紋様は息子を象徴し、息壬乞欲しがる

も伝わっている。また、竜の紋様や鳳風、 鶴、虎の紋様の使用は当時の社会的身分と

の一撃や裏刺し(箸以外に髪に刺すもの)、 箸などにも表現されている。トルチョルパ ンジャと呼ばれるトルジャムは、その盆則

地位を象徴したので、王や王妃、文官や武

が暗示するようにさまざまな模様のトルセ に装飾されている。トルセの方向は、たい てい上に向いており、悲 m に細いパネ状の

チユ(扇子の飾り紐)は扇子を縮小つ時に動く 動的な揺れによって、扇子周辺に形成され る風の実態を可視化する意味を持つ。 剣舞を踊る女性の姿では、チマ・チョゴ

物でつながっていて着皇官の雪 c に敏感に

F

リの上に着る戦服の裾と艶帽(雨の時、女

妊婦に斧の模様のノリゲを着用させる風習

の理想的f 〆女性としてすぐに思い浮かぶ春 香(朝鮮時代の小説﹃春香 の女主人公)の 美しい姿態を描写する過程でも、下着は非 常に具体的に言及されている点が目立つ。

性の下人や子供たちがかぶったもの)に付

に華やか

端午の祭の時、春香がブランコに乗ってい る姿を﹁紅裳裾がふわふわ、百紡綜(絹織物)

24


美的態度が製作過程で作用した所産であ

中心としては都気をは らう美を主な原動力

したり呪術的な用途として現れたもので、

象徴の美、原色の美などは、土門梓一を念願

官など特定の身分と階級だけに限られてい

目的のため着塁 9るなど、おおかた着用の 服飾の全体が自然からの選択、または模倣

る。自扶桜宍は自然に見 えることを追求し、

ものだと一一号える。

幅紋様などは士尋的な目的として採用した

和をなすことや重視する態度であり、その

という美的特轡乞持つ。また、自然との調

調したり呪術的能力を与えようとする二つ

とする。邪気を城、つ美は、吉祥の意味を強

白黒の調和の美や余白の美、象徴の美な

具などに集中的に現れている。各霧では原

ニとわり

の側面から、主に服飾の色彩や紋様や装身

韓服の造形妻ゆ

ため自然の理を応用したりす'る。

T

名分がある。匂い袋、針袋、粧万などは機

より直接的な+刀法としては﹁福﹂とか﹁寿﹂

能的な用途を重視したもので、虎の爪、煽

のような吉祥や願いを表す文字を紋様とし

このように、服飾の各部分はほとんど韓

て使用し、彼らの祈願を表す手段として使 用したことが挙げられる。

のあたりにする。

線の美、白黒の調和、象徴の美などは伝

色の調和とセクトンにおいてその典型をま

統の美と特に関連が深い。伝統の美は服飾

る美的特徴で、成品情が抑制され、理性が働 いた結果と考えられる。儒教思想チ背景に

どは着用者の人格美を表出する過糧に現れ 韓服の多様な造形の要素や美的一特徴は、

表出した人登在、服飾では霊凡が蔓呈さ

国人としての信仰心や念願と関わりがある ということで、韓国服飾には意味がない紋 に表出されたものである。

韓国人の造形意志、または美意識が翌昇的

の構造や色彩、紋様などによって昔のもの を守ろうとする保守性を示すが、これは伝

値も見いだされるが、これらは服飾全体に

美、厳格な形式、規範の美といった美的価

かにも部分的に深い信仰心を表した神秘の

形成された美的価値である。勿論、このほ

教思想の影響を大き/¥受けることによって

穆つ美、伝統の美などは韓民族の風土と宗

以上のように、農業、人輩夫、症を

統性を固守しょ、っとする美意識である。

れる美しさとして現れる。

い。装身具も、服飾を完結させる機能のほ 線の美や律動の美などは自然美を好んだ

様はほぼないといっても言い過ぎではな かに実用的な用途を老虐したり、呪術的な

銀七宝オジャクノリゲ

現れる美的表現のうち、末端的な部分であ

に含めて説明できるものである。隠蔽や露

り、これらは上で言及した四つの美的価値

出の美も上のさまざまな美意識が反映した

服飾現象の一つである。つまり、服飾に現

れた造形美は自然美の愛好、人棒美の追求、

邪気一を械、つ美の性向、伝統美の固守等の美

伝統的な美意識が主導する韓服は、現在、

意識を母体とする。

に現れる新しい傾向の受容という二つの時

伝統の固守という負担と現代ファッション

代的要求の中でバランスを取りながら費机

的な変化を試みており、韓国的情緒のあふ れる韓服は実生活においては製作者の腕と

着用者の着こなしによって美しく演出され

ている。

25

テサムジャクノリゲ

た 。

士大夫家の婦女子が外出の際、頭に被ったチャンオ ツ


﹃ 京郷新聞 V 編修奮伺企画遷員

服飾の伝統を継ぐ人びと キムユギョン

金裕卿

プ ・ ・ ・

26


を背中 にしているように見える。実際に、

に生かしたものに、赤ちゃんをおんぶして

忠武の有名な刺し縫いを思い切り華やか ある。待合室の人々は、一斉にこの母子に

ちゃんをおぶっている光景に接したことが

港に来た妻がこのねんこばんでんの下に赤

筆者は海外旅行から帰国する夫を迎、えに空

被せるねんねこばんてんを挙げることがで

ー、忠武ねんねこばんてん

きる。真紅と黒の、目もあゃなコントラス

目を注いでいた 。実に愛らしき風景であっ た。 このねんねこばんてんを持 っている、あ

統の満開した牡丹の花とコウモリの刺繍を

縫い終わ った後、その中ほどにやや厚く綿 を入れる。表の黒の刺し縫いには、赤い系 のねんねこばんてんをまとって外出すると

る女性の話では、赤ち ゃんをおぶ って、こ

トで表と裏の布を、目の詰んだ刺し縫 いで

施し、その端には裏地の色のように真紅の

ついてきながらのぞき見る人もいるそう だ。そんなわけで、忠武で刺繍を施したう

縁取内をする。上の方の二重に折り畳む襟

忠武の有名な刺し縫いを 忠い初り華やかに生かしたものに、 赤ちゃんをおんぶしてリ被せる ねんねこ、ばんでんを挙げることが できる

2、粧万

さや

チャンド

粧万は見た目も可愛いらしい 。中味の

万身も鞘も同じく美しく、その飾りの 華や かさも女性の装飾品として遜色がない 。粧

万を目にするたびに武士でもなく官職に就

いている士大夫でもない 一般の女性が、刃

物を装身具として身につけるのは、韓国の

装飾品にはいろいろあるが、どうして選

外に世界に類いがないに違いない。

のだろうか。粧万は見た目に百込山久らしい、

りに選って危険な刃物が女性に与えられた

しこのねんねこばんてんに宿っている温か

おんぶすることがほとんどないからか、若 い女性たちはそれに関心を示さない 。しか

用いられたのは五上ハ世耗当時の伽仰の

わが国の歴史上、刃物が装身具の 一つに

として粧万の歴史は古く、古代の 三国時代 にさかのぼる。

小さな装飾品とは言え、いざというときに は人に危害を与えることができる。装身具

くて美しい情感は知る人ぞのみ知っている

えに後繍までしたねんねこばんてんで赤 ちゃんをおんぶしてみたいとする若い母親 もいることだろう。 ﹁ひと昔前まで、お婆さんたちは孫が生 めることが苗吹だったんですよ。赤ちゃんを

たときに取

はあるまいと言えそうだが、そこへねんね

もうこれ以上の華麗なねんねこばんてん こばんてんの襟の真ん中に後繍をつけて垂

古墳から装身具に使われた伽仰刀が発掘さ

四角の深紅のサテン地に十長生の刺繍を

背負ったママさんがどんなに貧しくても、

安まり元気がでます﹂ いまもこう話してい る人々がいるのを見ると忠武ねんねこばん

センチ、長さ 二 0 センチほどのもので朝鮮 朝の粧刀に比べて長いほうである。筆者は、

輸の上に、くっつけてある四つの、短かく て小さな小万を一 一 = ロ う。この小万は幅一・五

古墳からも金製の聾市が発掘されている。 伽何万とは、二振りの大刀が入 っている

れており、このあと七 j八世紀ごろの新羅

ようである。

一面に施し、その縁にはとりどりの色糸で

カにされなかったからね。赤ちゃんでさえ、

ねんねこばんてんさえまとっていりゃあパ

てんはその値打ちを知 っている人々の問で

寸たんすの中に仕舞っておいて思い出し

まれてくると、ねんねこばんでんを買い求

元には白い絹で掛け襟をつける。

忠武ねんねこばんてんを前から見た姿

らすのである。

房をつける。これが後繍なのだが、よそ行

このねんねこばんてんの美しさを知ってる

引き継がれているのではなかろうか。

2 山して広げて見るだけで心が

きの際飾るものである。赤子の初の外出、 最初の誕生日、その他の祝祭日などにこの

んですもの﹂ 最近は、ねんねこばんてんで赤ちゃんを

ねんねこばんてんをまとって赤ちゃんを背 負っている姿は、あたかも大きな 一輪の花

27

ねんねこばんてんの後ろ姿


司圃薗園ETE 明 言園田E 園B

-

~

一 ーー

その上に牛の角を薄く切って貼った細工) などを使って、様々の形の粧万を五Q υ種 余り作ったと育つ。光陽は、古くから鉄と 金の産地として知られており、このため金

父が買ってきてくれる花靴を待ちこがれた

のである。そして、年頃になると吉日に晴

万匠が決める。万身は鞘の中にピッタリ収 まらなければならないので、そ、?するには

着乞着、花靴を履いてお嫁に行くのである。

手際よく使いこなすことができてはじめて

んで熟達するしかない二口逐の工具を

﹁鉄の焼き具合を見極めて素早く、また はゆっくり黄土水に漬ける動作は経挙乞積

鍾路の靴屋で飛ぶように売れ、お正月用の

一九二0年代にゴム靴が売り出され、そ れが大衆の履煮物になる前までは、皮靴は

匠であった。

甲さんは三代にわたって受け継がれた靴の

なう際、履いた靴をいく足も作った故貰漢

ソウルで五岱杭けて花靴を作っている老

高度の技量を要する。数十におよぶ工程が 一つ一つ匠の腕を経なければならない。

日、光陽製鉄所が巨大な姿で立っているの

一振りの立派な粧万ができあがるんです﹂ 万身を抜くときは、佐子の四本の指で事乞

皮靴を作る十二月にもなれば何日も徹夜で

仕事をしなければならなかったと故人は回

舗がある。高軍需が宗廟で侭認を取り行

も偶然ではないかもしれない。 朴さんは、 一七のときには粧万づくりの

握り、親指で鞘に付いている飾りを押して

属の製錬にも腕の立つ職人が多かった。今

刀でもっとも重要なのは、中味の刃が柔ら 軽く抜く。

全過程を習得していた。朴さんによると粧 かさと強さを兼ね備えることだと言う。刃

a

国 XE ︿

高麗時代には役人が二振りの万と筆を腰

物としての本事乞保ちながらも、一方では

︿工I O

殺生用の刃物のような、ひやりとした感じ

絹布に刺繍を北しである花靴は、少女たちの夢だった。

少女たちは市場に出掛けた父が買ってきてくれる花靴を待ちこがれ

たのである。そして、年項になると吉日に晴れ着を着、 花靴を設いてお嫁に行くのである

顧していた。実際に、朝鮮塑末のソウルの 風物写真をみると市場で度靴商人が皮靴を フ代わりの文房具にも愛用され、女性は昔

山と積み上げて売っている。そして、その

に差していたそうだ。いまでは粧万はナイ と同様韓服の装身具に華麗な房をつけて用

隣りで帯やテンギ(手絡)などを売っている

折れることも、または柔かすぎて万の先が 曲がることもない、そんな刃の最上の状態

いている。

を与ピえではならないというのだ。堅すさ﹄て

の新羅の小万は、曲玉や魚状、円形などの

を﹁柔剛﹂と言う。﹁柔剛﹂の感覚は万叙の匠

乗って少しずつ需要が伸ぴ五代目の黄海峰

伽郷万より二芦紀後に作られた新羅の金

装飾が施しであって、小万自体が装身具に

のみが覚えるもので、優れた万鯛は優れた

わが国伝来の靴には度で作った皮靴と絹

万匠によって生みだされる理がここにあ

ぎて家業を継いだ。

手を休めていたのだが、最近復古の波に

少年は、はだ しに草鮭姿である。 一九三0年代以降は仕事がなくて殆んど

わらじ

てがら

使われていたことを示している。伽仰のも

る。朴さんの粧万が持っている柔剛は、刃

さんは、昔のままの形で月に五、六十足の 絹布に刺繍歩施してある花靴は、少女た ちの夢たった。 少女たちは市場に出掛けた

純 3、か

新羅のも、粧万の原型であるとき中えるだろ 、﹁ノ。

は焼きを入れて強固にし、峰は焼きを少な

布で作った花靴があるが、このう弘花靴は

花靴を作っている。人間文化財だった祖父 に手ほどきを受けた海峰さんはこO歳を過

ことわり

現在、粧万づくりの重要無形文化財に指

めに入れて柔かくすることである。万身は

墜止って美しいイメージ多持っている。 ない。万身の長さは五センチから三0 セン チまでのもある。柄と万身の長さの比率は

,、ンン 4H

名されている全羅南道光陽の朴龍基さん

ほとんど反り加減按きの直線にし溝は入れ

継いだと言えるだろう。朴さんは、金・銀ひ すい らでんファカック 議翠・黒檀・螺銅・画角(挙乞いろどって

は、地域からすると百済の万籾伝統を受け

製聾旬には装智聞の小万がつけてある。こ

た 。

き粧万の原型に接したような感じを覚え

ソウルの博物館でこの伽郁万を目にしたと

竺 E

28


ておいたものだが、陸さんの母親は、悲劇

の絹靴は、もと陸さんが母親のために買っ

だった。結婚を間近に控えた女性は韓紙で

手に入れることは、昔はとても大事なこと

意し、婚家への持参駒とした。紙型によっ

作ったポソンの紙型とそれを入れる袋を用

からかわれたりした。朝鮮朝中期の有名な

ほうきに合わせて作ったポソンみたいだと

りが垢抜けしていなければ、当人はまるで

ろが、ポソンに細やかに気を配らないか作

るとあって、コルセットを締めつけるよう に無理をして履くのが普通であった。とこ

ポソンは足に窮屈なほどにピッタリしたの を履いてこそ瓜の種のようなポソン足にな

てポソンの美しさがほぼ決まることから、

学者杢退撲はそんな袋まがいのポソンを履

自分の足にピッタリするポソンの型紙を

﹁花靴の妙味は、曲線を描きながら見事 的な最期を遂げた娘のために最期の盛装に

人柄次第とかなどなど。

に反り返った靴先にあります。特に右・ その花靴を履かせたのである。

できのいい紙型に人気が集まった。とりわ

いていたが、ある日、国王がそのポソン姿

、ンンバルコ

いるうちに右と左の一対になってくるんで

左の区別がないのですが、しばらく履いて

いまにも地に触れそうな長いチマ(韓国

け、洗錬された姿態に憧れる尚宮(朝鮮朝

を見てニヤリと笑ったというエピソードが

幾重にも貼って強固にし、一針ずつ縫って 完成するまでには七四回もの工程を経なけ いのしし

4、ポソン(ロ盗事

ればなりません。これまでは、祖父が買い 古来のスカート)の下からそっとのぞかせ

の宮中の女官)ら宮中女性の紙型は、もっ

ある。

す。上布に刺繍を施し、靴の中の布に布を

ためておいた猪の首筋の毛を針代りに るポソン(足諺の姿は、清らかな韓服の着 こなしを決{疋つけるポイントである。ほん

とも望ましいおしゃれの手本となった。最

サングン

使っていますが、そんな毛は、もう手に入

近まで注文式ポソン屋として名声を馳せた

りませんね L ︽工

ミa IO固 X巴

の僅かしか目につかないながらも、その瓜

絹布の靴の表には、ふつう梅の花-牧丹 の花、十長生(長寿不死の十種のもの)など を刺繍する。加盟底は牛の革である。針仕事

結婚を間近い控えた女性は韓紙で作った

の 一針一針の縫い合わせのバランスによっ かかと て出来具合が決まる。靴の先と腫の内側 に縫った後の糸の端を残しておいて、靴が

ポソンの紙型とそれを

ポソンの美しさがほぼ決まることから、 で き の い い 紙 型 に 人 気 が 集 ま

入れる袋を用意し、婚家への持参物とした。 紙 型 に よ っ て

伸びた感じがしてくると、これを引主婦め て調節する。時代の移り豪わりとともに変 わってきたことは、現代人の足が大きく なって靴も以前より大きくなったことであ (高宗王の庶出の王女)の皮靴やその他の皮

る。ソウル国立中央博物館には、徳恵翁玉 靴、ノッシン(真鍛製の靴)、絹布の靴など 歴史上には、絹靴にまつわるエピソード

踊りに、そして写真にしばしば描写されて

の種のようなポソン履きの魅力は詩に歌に

によって細分されたこO余種のポソン紙型

ソウル清津洞のポソン屋では、足の大きさ

ボソンは急速に斜陽の道を辿っている。嫁

近年になって洋装が一般化するにつれて

が展示されている。 として朝鮮朝中期の燕山君の夫人、廃妃申

いる。 沓脱ぎの石台に上がりかける瞬間に原掛

があいたりすると継ぎS乞して繕い、体ゆった

て穴 入れ裏返して履くボソンは、履き事 c

白い木綿を四重に縫って中間に薄く綿を

を{串中の女性から手に入れて保存していた とい、っ。

九0年代に入って最後の一ヵ所すら潰れて

しまった。ポソン足に履くゴム靴の工場も

な老舗も一九八0年代の末には庖を畳んで

けを専門に作って売ってきたソウルの有名

たりつ話はいまや北息詰りである。ポソンだ

ている燕山君とは違い善良な女性であった

せた動作のサルプリ踊り(厄払いの舞踊の

けられるように、片足を空中に浮き上がら

びに綿を入れ替えるなどの仕事が、一世代

いでいく女性が数十足ものポソンを持参ずし

氏の話が伝わっている。申氏は暴君とされ が、夫の燕山君が追放されるや彼女も一朝

一ハ や僧舞の代表的な踊りの中で、白い ポソン姿の足はチマの裾が足の甲を半ば

T

しまった。今では、ポソンづくりも小規模

J)

にして廃妃となり、宮撃乞追い出される身 となった。夜が明ける前に宮 乞抜け出よ

前の女性たちにとっては果てしもなく繰り

うとして履いた絹靴が晩げてどっしでも前

覆った状態でその魅力を充分に見せてくれ

に進めない。このため、被女は絹布を引き

ユーモア溢れるエピソードも姿を消してし

の家内工業と化し、ポソンにまつわる巷の

て着つけている人々は何にも掛け替えのな

まっている。しかし、韓服の味わいが分かっ

ンは足の甲の方に刺繍を施し、ポソンの先

る 。 日常においても、ポソンにまつわる話は

(ポソンの先の尖ったところ)には糸一房を付 けて装飾とした。一般{丞挺の女性たちは、

返された日課でもあった。子供たちのポソ

裂いて足に絹靴を縛りつけてから歩いて出 て行ったという。近年になっては一九七四

多い。履く人によってポソンの美は様変わ りし、ポソンの美は作る人の腕次第だとか さんの葬式のときに絹靴が履かされた。そ

年に殺害された朴正照大統領夫人の陸英修

29


いポソン足に取りつかれて、年がら年中綿

女が敵将を抱いで飛び込んだ岩は義岩の名 と、論介の甲子の指にはカラタチがはめら

で呼ばれている。伝たられるところによる

入れのポソンを求めて履いているのであ る。こうい、っ人がいるからこそ、まだポソ れていて日本軍の将が締めつけてくる甲子 すことができず二人とも溺死してしまった

を振り離そうと必死にもがいたが、振り離

ンの命脈が保たれているのだ。

5、指輪

韓国女性の装身具である。見た目に指輪は

うに装飾品であると同時に護身具を兼ねた

指輪(二つで 一組の指輪)は粧万と同じよ

踊るサルプリ(厄払いの踊り儀式)の中に

念写真を取る盆所になっている。 晋州生まれの踊りの名人、 金害缶さんが

込んだ義岩は、今では若者たちが好んで記

とき早つ。論介が毛谷村を抱きかかえて飛び

粧万とは違い女性的な単なる飾りに過さな ﹁論介のために﹂という踊りがある 。この踊

カラクチ

いが、刃物に劣らぬ護身具にもなる。

x z z

。 コ ω弓面的

小さな模様をぎっしり

施すか、大きな模様を

まばらに花すか、あるいは技

能的にどの部分を

強調すべきか・

り、紋様の木刑夫玉体が白い石のように見え

なっている。

がある。このうち鳳風は雄と雌の紋様が異

るが、紋様を施した、そのものとその味わ

つもはめることになっている。これは、勿

朝鮮朝末以来こんにちまで四代にかけて

いは百年前と変わっていないという。

りを踊るときは必ず両手の指に抱需をいく

衣装に金箔を押す家業を受け継いでいる老

華 子の紗か刺繍加工品か、または佳子繊

二つの指輪が一組になっているカラクチ

舗がある。ソウル踏十里金笛 寄 金 援 さ

維かによって金箔を施す糊の水具合いが

は、両手の指にそれぞれはめてから両の手 論、論介がカラクチを武器に敵将と死をと もにしたことを象徴するためである。 晋州に剣舞が伝えられているのも、正月

んの作塞至には、百余年にかけて代々引き まなお使われている。

違ってくることのほかにも、どのような衣

tluや

長い歳月が流れたため縁が擦り減ってお

城の勝利とともに、多分論介を記念しての

継いだ金箔の文様が一のむ余もあって、い

6、金箔

が盛装した女性の両手にはめられたのだか

ことであろう。カラクチは時には武器にも

をしっかり組めば、組まれた者はその甲子

ら皮肉である。カラクチが恐るべき威力を

なったが、しかしそれはあくまでも女性た

を引き離すことができない。そのカラクチ

三年壬辰倭乱(文禄の役)の時、晋州城戦闘

発揮したこともある。有名なのは、 一五九

ちが美しく身を飾る装身具の指輪であった

キlセ ン ロ ン ゲ

と言える。今日、ソウルの仁寺洞や長{玄半

ければ、野暮ったい感じを与えかねないそ

すぐ

3 乞堪えて衣服全体の規範を理解しな

装にどのような紋様を施すかは単なる選り

で妓生(芸者)、論介が日本の将、毛谷村六

とする反物を買いつける事務局の仕事をし ていたのですが、大礼のあるたびに錦織り

小さな模様ゃぎっしり施すか、大きな模 様をまばらに施すか、あるいは技能的にど

られたに違いない、古い銀の指輪や玉の指

うです。中国に注文した錦織りの反物は、 約束期限内に届かない 。これじゃ大礼行事 に差し障りがあるのですから気が気でな

は一朝にして身につくものではあるまい 。

つがも 、

い。そこで思いついたのが国産の綿織り物

門のお年寄りの方々が昔の大礼服や小礼服

の反物を取り寄せる仕事で大変苦労したそ 出 V コ I州¥4J⋮ 芭︿&

に金箔を施すことだったのです。このよう にして曽祖父から父までの三代にかけて李

ようないわれを持っているのかについて聞

とい、コ任文とともに、それらの衣装がどの

。 高 輪が、ネ d y く積まれている

﹁曽祖父は朝鮮朝末、宮中で針房が必要

助を抱きかか、えたまま南江に身を投げた事

の貴重品屋には過ぎし日、女性の指にはめ

その身を犠牲にして敵将を死に至らせた

件である。 愛国行為のため、論介は、義京とされ、彼

王家の人々の衣装に金箔を施させていただ きました。私は四代目ですが、一般の方を

かせていただいたりしたもんです。時代が

を持ってきて見せながらこうこうしてくれ

寸十数年前でさえ朝鮮朝末期の士大夫家

の部分を強調すべきかなどを決定する能力

。 得意にして{蚤李乞受け継いでおります﹂ 梨の木に陽刻してある木型の紋様は﹁寿

変わって金さえあればどんな服でも着られ

いうことでひと頃何でも竜にしてくれとい

るようになってから、竜の模様が最古 同だと

蕗﹂のような幸せを意味する字句と、 福﹂や ﹁ ぎくろひょうたん 石棺、牧丹、不老草、瓢箪、桃、えぞ菊、 鳳風、竜、欄平横様、目模様など数十種類

30


るのに比べれば、あまり変わっていない。

らの祭杷に参列するため早朝から李根必さ

(五代以上の祖先への祭杷)に参列したこと がある。あっちこっちにある墓を巡りなが

一九七九年十月一天日、筆者は安東郡陶 山面所在の李退渓の 一四代長孫宅の時祭

の安東で織られる良質の麻布で作る。

裾がもう一重付けられており、一般に地元

そぐわぬことを自覚しているように見え

始めから後ろの方に退いていて、その場に

憶に残るのは祭杷のお膳の周辺の静寂だけ

かった。親戚同士ぼそぼそと語り合う話し

両の手を束ねたまま、塾度な表情を崩さな

7、李逗渓・柳成龍家門の道抱

その豪わらない古風の格式が、それを着る

た。女の人は、案の定、一人も現れなかっ

うお客様がいらっしゃいましたね。最近で

金さん宅の内側壁面には金箔を施したト 人の威厳と美しさを守っているように思わ

た 。

たのか、昔の衣装を持参して訪ねて下さる 方もいなくなりました。﹂

行った秋タ(旧暦八月十五日の節目)の祭記

一九九 二年には、柳成龍一五代孫が取り

でなく、洋服を着ていた二、三名の男は、

で作った冠)、そして短い杖といった装束

を見学した。母屋のテチョンマル(一般に

に見て女性の韓服が大きな変還を辿ってい

だった。こんな身なりは、昔、両班の男子

奥の間と向かいの聞のあいだに設けられて

てがら

声も、ついに聞くことができなかった。記

トゥラック ・テンギ(幼い女の子の髪に巻

は、一様に道抱かツルマギ、カッ(馬の尾

んら 一族自章受示名が集まった。彼ら

男性の韓服(韓国伝統の衣装)は、歴史的

きつける手絡)にチマのスランダン(着ると の哲学者・朱子山孟旬。 一五 O 一ーー 一五七O )

れる。慶尚北道安東の李退渓(朝鮮朝中期

はソウルの奥ゆかしいお年寄りも他界され

ム(婦女子の礼服の一つ)、タンイ(婦女子

足が隠れるほど長いチマの裾)、ウォンサ

五四二│ 一 六O七)の後喬が、いまも彼ら

孟台。一 と柳成龍(朝鮮朝中期の政治家・ μ

いたものである。

が茶礼(祖先の霊を慰める祭杷)の際にして

いる板の間)には真鎗づくりの祭器が山と

VJ

チュソク

の礼服の一つ)、男の子の幅巾(道服に揃え の祖先の祭杷や 一族の行事のときに着る道

積まれており、舎廊チエ(主の居間のある

ヤ パン

る頭巾)、チマやチョゴリ(上着)などが金 砲は、並の服装ではなく一族の権威を不す

この日の祭記は、筆者にとっては朴正照

チ守レ

箔も鮮やかに飾られている。普通の場合、

大統領殺害のニュースとともに忘れられな

(祭杷のときにかぶる頭巾中を被った男たち

別棟)の周辺には道抱とツルマギを着て巾

紙のように薄い化尚早金箔をつけるが、時に に限らず、安東は韓服を着て暮らす人が

厳粛な韓服である。李退渓や柳墓隠の後喬

い記憶として残っている。秋の日差しの中

サラン

トルを越えるトトゥラック・テンギを金箔

で日除けのテントの中で彼ら祭官は、終献

道砲は、外套(外側に着る韓国伝統の衣

yルマギ

もっとち多いところであろう。

サダン

が待ち構えていて、母屋から準備が整った

運んできた。そして、祭記が行なわれた。

へ 小さな祭杷用の騰を幾膳も洞堂(洞 の V 方

祭杷も祭杷だが、その 二年前にここで李元

勝中佐から聞いた、舎廊チェでの小さな出

それは、李中佐が柳昼隠の遺物に関する

来事が思いだされた。

説明を聞いたときのことである。彼はその

説明が軍事的に筋が通らない箇所孟掲し

室が た。数日後、柳氏一族の年寄り二 OA

杢中佐を忠孝堂に招いた。

について柳成龍が隠退後に著わした書

寸柳成龍が﹃懲悲録﹄(壬辰倭乱│文録の役

物)を書いてから四OO年を経た今なお、

同書に関する一冊の研究書すら出ていない ため、一族は甚だ物足りなく思っていた。

問題は、内容が主として軍事問題なのだか

にはいかない。ちょうどそこへ杢中佐が現

ら軍事関係に明るくない者が手がけるわけ

れたわけだが、そこで李中佐は戦略問題に

通じている軍人であったことから﹃懲琵替

31

は本物の金箔を付けることもある。一一メ ー

ム)を必要とするという。

一般に地元の安来で織られる良質の麻布で作る

(最後の杯を差しあげること)を終えるまで

後ろ側の裾がもう一重付けられており、

装)にそっくりだが袖幅が広く、後ろ側の

道抱は、タト套にそっくりだが袖幅が広く、

で満たすには黄金半両(約 一八・六五グラ

慶尚北道安東の柳成龍家門の祭肥に集まった道抱姿の男たち


日の集いは、一族が最も重視する祭杷で、 たと機織り捜しに乗包山した 。そして、やっ

く姿を消したことを知った政府は、あたふ

一九六0年代の後半、木綿の機織りが全

木綿が大打撃乞受けた 。

はナイロンが出現して、今度は機械生産の

を産していたので優れた木綿を織ることが

かったのである。羅州地方では、良質の綿

で妹たちの婚礼用の木綿を織らねばならな

したからだった。すなわち、六0年代末ま

紡績木綿よりはるかに上質の木綿を必要と

魯さんが最後まで機を残しておいたのは、

まるで文牝財扱いである。

は、誤ってキズをつけては一大事正ばかり、

ウル等の地で示範行事に出される古い機

す直前に文化財としての価値が与えられた のである 。機も、今では A 量品と化し、ソ

に関する論文を書 いてほしいとの要請を受 けることになっ子﹁ という話である。この 参列者の一族全員が道抱をまとい季最っ と全羅南道羅州に魯珍男さんを見つけ、重

こんにち魯さんが織る木綿、すなわち﹁ム

ミョ ン ﹂ は勿論、実用のためではなく、人 間文化財としての技量をさびつかせないた

できたことも魯さんが機を手離さなか った

めのもので、せいぜい年間二1三匹ぐらい

要無形文化財に指定した。魯撃力さんが近

苧や麻を織る作業は機械化がほとんど不

ミョン織りを注文することも年に了二度

可能なことから、今もって機織りが行われ

︿工I O国 XE︽&

しか織らない。繊維芸術家がやってきてム

理由である。

年当時、魯さんの婚{ゑの村の四O戸余りの 家ではみんな綿を栽培し機織りをしていた そうだ。魯さんも、嫁いで来る前から機織 りをし、ご自分の婚礼用の木綿も自ら織っ たという。魯さんが嫁いできた婚{括和(屋氏) では三代にわたる 一四名の大家族が一つ屋 根の 下で暮らしていた。男の人は野良仕事 のかたわら木綿の機織りに手を貸した。そ して村中の者が互 いに機織りの使{吾乞与え 四名の幼い妹も一O歳前後から早くも木

合っていたとい、っ。

の妹が嫁いで行くまで家で必要な木綿を

綿の機織りを習い、 一九六0年代の末、末

ているが、木綿の手織りは機械化 一のり年 に間近い六0年代、魯さんの家から姿を消

くの村から羅州に嫁いできたのは一九四六

た丁重な装いであった。﹁その光景は、何 か逆らえない美しさと威厳に満ちていた﹂ と杢ゐ佐は述懐している。

8、羅州木綿 一 一二 六 一二年の高麗朝末、文益漸が章刀の 末、元の固から綿の実を持ち込んできてわ

米と並んで貨幣代わりに 使われるほど

木綿は貴重品だった のだが・

そのような魯さん宅の機は何代前の祖先

木綿織り用の綿と紡いだ糸と棉布( 右)

織って使ったという。

5

の代に作られたものかも知らないほど古 い。少なくとも、 一 ( い む年ははるかに超え ているだろうと想像されるだけである。 用途によって、木綿の織り具合も違って いて、目の粗いものと細かいもの、または

が固に木綿時代の幕を聞かせた。次いで糸 を紡ぐ錘が発明され、このあと木綿と綿は

国戦争の前には黄色の綿があって、白と黄

洋服地に使われる厚手のものも織った。韓 と黒の三色の木事ポを取りまぜた三色の木

六百余年のあいだ韓国人の衣生活を支えた 米と並んで貨幣代わりに使われるほど木

中枢的存在となった。 綿は貴重品だったのだが、紡績機械の出現

てしまった。しかし、魯さんは例外だった。

ら村の人々は誰も機を裏山のところに捨て

紡績木綿が広く使われるようになってか

地の製品を特に﹁セ ツコルナイ﹂と呼んだ。

侍面のものが最古問だとの定評があり、この

綿も織ったという。 目の細かい木綿は魯さんが住んでいる多

により女性が機織り機で織った木綿の歴史 は幕を下ろした。一九一九年、韓国ではじ めて京城紡績が織機で生産した木綿のブラ ンドは﹁織女星﹂だった。織機による大量生 産の結果、大部分の女性が織女(織り事と しての機織り の激務から解放された。戦後

8

32


道の両側の田畑や低目の小山のある村の

あるそ、つだ。 魯さんの自宅で彼女が機の前に座って織り 出すゑ﹄れいな木綿の織り物を初めて目にし

韓国人は、韓国的な美しさを漂わせる装 いとして仲李宇布の韓事乞きれいに着こな ツルマギ

とりわけ、夏のさなかに苧布の服に外套

る 。 した姿を連相芋' を着け、己啓瓦幅削正にかぶっている男の人の 姿は、すがすがしく、見る者をほれぼれと

たとき、造か昔の農村の風景を自にしてい るような気分になった。その昔、機に座っ させる。 立秋にかけてきれいに手入れをして着る服 なのである。

女性にとっても、苧布の韓服は端午から

てムミョンを織っていた織り姫の姿はまさ に魯さんその人だったのである。

9、韓山草布と幽 T布の服 苧布の名産地韓山では苧布の市が五日ご とに立ち、苧布を織る文化財クラスの匠が

ハンサンモ

前川 苧布で有名な韓山苧布は、忠準田埠 目

韓山芋布のように高級な服地には使われな

れてみすぼらしくなってしまう。このため、 ハンサンモン

苧の茎を歯で裂けない年配になると、爪

いことからひとシーズンが過ぎるとすり切

ば、その寿命は三O年以上ももっ 。これに

燥と寒風が最大の敵である苧布の特性のた

で裂くわけだが、爪だと糸が粗くなって麻

い。韓山苧布は最近、世界的なデサイナー

布のうちせいぜい一匹か二匹がごく繊細な

郡韓山面一帯の八百余の農家で生産されて からむし いる 。苧布は畑から切り取った苧の茎の めに湿気を含んでいる半地下に据えられ る。苧の布地は、苧の茎を歯で髪 の毛のよ

布のようになってしまうそ、つだ。この地方

から洋装の立派な素材として注目を浴びる

二人、箆の匠が一人いる。苧布の機は、乾

皮をむき取ってその繊維の糸で織った布地 である。苧布を作り、服に仕立てるまでプ

うに細かく裂き、これをひざの上でこすっ

の韓山苧布が有名なのは、よそのところで

比し、中国産の苧布は糸筋自体に生気がな

ロセスは、今も昔とあまり変わりがない 。

織られる苧布は麻布同様のもので、繊細な

九立了布である。

実物の衣装として伝わっている、わが国最

に挙げると、幅一一一 一 センチに、縦の苧糸は

てつなぎ﹄合わせた糸を機にかけて織ってい く。苧布は、もっとも繊細な九升苧布を例

古のものは、 二ニ二六年の年記の入ってい る苧布製である。

ようになっている。しかし、蝉の羽のよう

な苧布を織るため、韓山地元の女性たちの

韓山苧布には遠く及ばないからである。 苧布は、水で洗い糊づけをしてきぬたに

筋が並んでいる。この種の芦者を織ること

のある所で働いている聞に神経痛などを

中には歯を痛めている者が多く、また湿気

前後九ハ内福ず2 扇組み、計 一、入門む

に生き生きとしてくる布地は、突風にさら

かければ水に洗われた鉢植 えの草木のよ、つ

非常にしようしゃできれいにでき上がっ

のできる職人は野川郡一帯にかけて二、 三

た芦了布の韓服を指して、昔から﹁せみの羽

O名しかいないと言われているが、五日ご

されて糸筋が折れてしまうことさえなけれ

h

の中には﹁苧の織物はそれ自隼左側品だ﹂と

みたいだ と L 喰えている。今日、デザイナー

とに立つ市に一度に出回る一盲匹奈りの苧

患っている者も少なくない 。機械織りへの

言、つ人もいる。

非常にしようしゃできれいにでき上がった苧布の韓服を指 し て 、昔 とか喰らえ﹁ てせ いみる の。 羽みたいだ﹂ 今日、ヂ、ザイナl の 中 に は ﹁苧の織物はそれ自体芸術品だ﹂ と言う人もいる

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機で木綿を織っている魯珍男さん( 上)

機織りの中のきめ細かな韓山苧布


苧布穏服を着ている優雅な姿の女人

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麻布織りも、苧布織りと同様いまだに機 た。裂さんの家には五O年前に夫が造って

が当然学ぶべき仕事として麻布織りを習っ

ある安東の蓑蓑失さんは、少女のころ女性

所でもある。慶尚北道指定の重要文化財で

人々の生活を一目で確認することのできる

とその麻の服を威風ありげに着て暮らす

慶尚北道安東郡は、麻布を織るプロセス

しかし、麻布は苧布に比ぺ、はるかに多 く生産され消費されている。

の 一切の仕事をこなしている。そして年問、

主豆糊をつけた麻糸にし機織

まではもとより、裂いて滑らかに織れるよ

さんと嫁は、麻の種蒔きから刈り入れ

きでないのでいまでは織られていない。

られる分量の麻布)と呼ばれたが、実用向

うことから、バリアンベ(パリの中に入れ

銭製の女性の食器)一杯分に過ぎないとい

きわめて目の細かい麻布は、分量がパリ(真

その中から選んで惇っ。極細糸で織られる、

の細かさを左右する歳は四、五個置いて、

男の道砲や外套、姑のチマが欠か せな いと

嫁入り用品には、目の細かい麻布で作った

カート)用にも用いられる。地元の女性の

目の細かい上等の麻布は夏のチマ(長いス

て常設の麻布専門庖ができている。

つ日に売りに行ったものだが、近年になっ

b n き

械化されていない。麻布は持者よりもずっ くれた機織り機が据えてある。麻布の織り

努力が絶、人ず試みられてはいるものの、ま

と重く肌に絡むので道抱(道服に似た通常 方は、若干の改良は行なわれたもののやは

械になじまないと言っている。

川、安東の麻布織り

O匹内外を仕上げる。かつては、市が立 一

トポ

吋ノ ル マギ

喪服は、朝鮮時代に ﹁ 朱子家礼﹂を重んじ

日、儒教の精髄l 喪服

き っ 。

麻布は、死に装束用に多く使われるが、

の礼患や寿衣(死に装束)などに用いられ、

だ成功していない。韓山の人々は苧布は機

夏服の素材としては苧布よりは序良的なも り手議りであることに変わりはない。きめ

20年前の安東市場の情景。老人たちが麻布の服を着ている

D 乞するまで

のである。

度尚北道指定の 重要文化財である安東の 表芽英さんは、少女のころ

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女性が当然学ぶべき

仕事として麻布織りを習った

安東麻布の材料である麻


るうちに父の計報に接し一四八八年故郷に

僕を代理受賞者として寄越したいとの意

一六五 九年、孝宗王の逝去の際繰り広げ

しもべ

ていた儒者の聞で、孝を基とする儒教的な

の喪服を着た先例があるということにあっ

とき仁祖妃は長男に対する礼儀として三年

の喪服をどれぐらいの問、着るのが札に適

は、宮中では礼服を着て孝宗に謝恩を表し

られた払撃は、祖母の仁祖妃がどんな輩孔

た後、宮門を出るところで喪服に着替えた

孝宗の逝去は一年の喪期にすべきだと主張

出向くことになったが、喪服を着けている

(日本の海患の疑いを掛けられ厳しい取り

した。これに対し、予錫摘、許穆ら南人は長

向を述べたところ断られる。替周、自分で

調べを受けることになった。ところが筆談

帰国後、その経緯を記録したのが﹃漂海

とい、っ。

男の昭顕世子が死んで次男の斐一宗長男に

帰る船路についた。ところが、折悪しく風

朝鮮朝の成宗(一四六九i 一四九四)時代

を交しているうちに明の役人は崖浮の学識

録﹄である。崖薄の例は喪服の文化的な意

浪にあい一五日間の漂流の末、中国の漸江

の人、雀湾の話だとか、孝宗王(一六一九

と士大夫としての毅然とした態度、家札に

味を物語るもので、朝鮮朝の士大夫たちが

理念を体現した服である。今なお余命を

j 一六五九)の死後繰り広げられた南人・

精通していることに痛く感服して、朝廷に

保っている伝統の喪服は、韓国人が着る伝

西人間の喪服論争は、儒教的な名分が暮ら

墾一口した。これを聞た明の天子、斐示は崖

なっていたのだから、仁祖妃は、もう一度

うかということだった。問題は、王世子で

しの絶対的な基準となっていたことを物語

喪服について持っていた嬰安諺式の重み

あった仁祖の長男の昭顕世子が亡くなった

るものである。

湾に賞を授けたいとの意思を伝えてきた。

を感じさせる。

ことが問題になる。そこで宮中では喪服を

峯湾(一四五四 j 一五 O四)は済州島で敬

しかし、彼は喪中にある身なので代わりに

三年の喪に服さなければならないというの

た。宋時烈ら西人は、仁祖妃は次男である

差巨(地方派遣官の職位の一つ)を勤めてい

脱ぐことで手協が成立する。こうして峯湾

着るのが礼に通うかということだった

にも喪服を脱がなかった。崖の一行は倭冠

どれぐらいの問、

省の、ある海岸に漂着した。峯湾は漂流中

祖母のイニ租妃がどんな格式の喪服を

でもある。

一六五九年、孝宗王の逝去の際、繰り広げられた論争は、

統の衣服のうちもっとも古風な整入のもの

朝鮮朝最後の王妃、予妃の葬式で伝統の喪服を着ている李玖氏 (1お 6年)

36


95﹀干OO﹀宣一x

1977年に慶尚北道安東で行われた李退渓家門の祭杷に伝統の道抱姿で参列した一族の人びと

だった。そして、結局西人の一年喪期説が

着用期聞をめぐる礼論の論争は、実に一五

れるなどの騒ぎまで持ち上がった。喪服の

﹃朝鮮時代の礼服に対する研究﹄という論

年に百一りしつこく尾を引いた。

文で学位を取った趨又鉱教授は、礼論論争

このような対立は、札論に対する解釈の

公式に採択された。

る外交問題で対立していた昭顕世子グルー

違いを示すものであると同時に、清に対す

の背景として﹁朝鮮時代には家札に関する

のであり、その中でも喪礼に関する礼法は

研究が一般教養として受け入れられていた

欠かせず、その施行も徹底していた﹂と指

プと老人示グループとのパワ1ゲlムを反映 この札論をめぐる攻防は、その後孝宗の

するものでもあった。 師であった予善道が﹁孝宗の崩御に対する

摘する。

O年)、英王妃(一九八九年)の葬式のとき

ヂ皇后(一九六六年)や皇太子英王(一九七

近代になって朝鮮の最後の皇后であった

一年喪は斐示を格下げして宗統を弱めるた とから札論を越えた権力争いに発展し、晋ノ

めのもの﹂であるとの反駁文を公表したこ 差思埠が配流される。しかし、この問題をめ

亡者に対する哀悼の気持ちをもっとも

重く表す麻布の喪服は、一九一九年最後の皇帝であった

純宗が、父王高宗の喪に服するために

ぐる論争は地方にまで広がり、全国の儒生

して、喪服のうちもっとも厳しい麻布の喪

には、英親王の令息李玖氏が唯一の王孫と

着けたものと同じものでもある

たちがそれぞれ南人か西人を擁護・誹詩す

ちをもっとも重く表す麻布の喪服は、一九

一九年最後の皇帝であった純宗が、父王高

服を着せられた。亡者に対する哀悼の気持

宗の喪に服するために着けたものと同じも

る長文の上疏(王に訴えるするを提出するな 次いで、二ハ七四年にム寸度は斐一示妃が亡

どの騒ぎが続いた。 くなると、再ぴ仁祖妃は長男の嫁の喪に服

のでもある。

一九九二年十 一月のこと。全羅南道羅州

ロ、羅州の藍染め

すべきか、それとも次男の嫁に見合った礼 遇を与えてこれに準じた喪服を着るべきか について双方が、またも対立することとな け入れられた。これにより朝廷内南人の地

郡平面の苦ノ病伝さんの自宅で行なわれた藍 染めを見学しに行った。銀色のすすきが風

る。ところが、今度は南人側の言い分が受 位が強まるにつれて老宗逝去のときの礼論 は修正を余儀なくされ、実録が書き変えら

37


がたまる。濃いゼリl状の藍の淳を再びか するため祖父にまみえるように丁重な物腰

で言いのけるのだ。私は、そのかめを見学

ければならないことを地元では、こう 一言

れていない。予さんは藍染めの仕事が﹁楽

られておらず、これといった支援も行なわ

さいました﹂ しかし、手さんは文化財的な価値を認め

る過程といろいろ七面倒な条件に合わせな

めに溶かして置いた後、木の灰を入れて染

した酸化還元のプロセスのあげく藍色の浮

予さんの青い瓦ぶきの家が視野に入った。 色用の染料に執成すれば、ここで生地や糸

に揺れている道路から村に入ると、やがて

ンキの色は藍色を連想させた。

門も青色のペンキで塗られている。そのペ

しい仕事なのかどうか知らない と L 身命を

寸韓国戦争以前は、女性たちの聞で藍色

益号山本めは

投げ打っている様子ではない。全羅南道筏

る韓光碩さんも﹁夢に竜にでも出会うよう

橋邑でやはり天然の材質で染色をやってい

で部屋の中に入ってみた。 のチマと布団の需要が大きかったもんだか

などの染色が始まるのである。 あの年の晩秋に予さんを訪れることにし

ら、この藍染めができなければ婚礼の儀式

藍の植物から抽出した藍色で生地や糸を 染めるのは古くから行われてきたことなの いて、焚き口に灰がたまるのを待っていた

たのは、気温が下がって温突部屋に薪を焚

オ Mドル

されてからは藍染めは没落し始めた。とこ

だが、一八九七年ドイツで佳子染料が発明 ろが、最近になって天然の染色に引かれる 人々が増えてきて、小規模ではあるが藍を はじめとする天然の染材が脚光を浴びつつ ある。 西南海寄久玉羅南道の栄山江周辺の地域 は、最近にいたるまで藍染めがもっとも盛

露が消え去る前に

具、夏の明け、万、

藍の草を刈り取って

んに行なわれた所である。藍の草がすくす

では韓国戦争が起こった一九五O年ごろま

二四時間過ぎた後、 一度ひっくり返してお

に藍の草を刈り取ってかめに入れ、正確に

聞には、みだりにかめの中をのぞくことは

水が熟成する(染料になる)のを待っている

からである。その木の灰を染料の中に入れ

りも染め上げたりしたもんでした。普通は

いたし、二一幅のチマの分を一度に百あま

のころは、藍染めのかめが四O個も並んで

苧布、木綿の布だけに染まるんですよ。父

も先送りになるほかなかった。藍は絹、麻、

藍の粉が風に吹かれていたし、その藍色と

庭には黒みがかった素焼きの器に盛られた

ねと L 言っている。ともあれ、予さん宅の

にときたま藍染めにやって来る人がいます

ひっくり返しておく

一度

二四時間過吉た後、

正確に

かめに入れ、

く育つ 肥沃に欠かせない酸化材のかきの殻 がたやす手ずに入る。このため、この地域 で藍染めが盛んだった。栄山浦では、大半 の家で藍の染料を造っていたし、近くの羅 していた。

州では藍の染料を買い集めて生地の染色を 羅州のヰアさんは祖父と父の代に藍染めを 家業としていたし、韓国戦争のころ彼も仕 事を手伝っていた。当時の経験が 一九八三 年再び藍を植え、染色に再び手を染める元 手となった。四O年前まで藍を檀えていた れることからが難題であった。

畑は、みんな田んぽになり藍の種を手に入

く。かきの殻を松の薪の上に載せ、わら薦

た者、人と言い争った者など不浄な者が近

禁じられ、血を流した者、火事の現場を見

藍染めは墓夏の明け方、露が消え去る前

ふるいにかけて漉した細かい粉をかめに入

を被せて燃やしたあと、焼けたかきの殻を

る山には緑の松としなぴた草むらが目に 入った。表さんが藍染めの位予乞再び始め

調和をなすかのように塀の下には黄色い野 菊や赤色の鶏頭が、そして後ろの方に見え 八回繰り返して染めますが、濃くする受口 は 一O回染めるんです。再び藍染めを始め へん げ

﹁この藍の水は怪しげな変化があってね﹂

て以来、全国から四ハむ人ほど訪ねてくだ

寄ることはタブ!とされていた。

藍の水は、黄年上紙年ム喜]へと色がくる

と予さんは説明した。藍の水が酸化還元す

れて掻き回す。掻き回すっちにかめの中の くる変わり、泡が盛んに立ってくる。こう

38


たのは、毎日このよ、つな原初的な自然の色

の外套)に白いゴム靴か防寒靴、杖と防索、

は数十ヵ所に継ぎを当てているツルマギ着

畏敬の念を催させる。赤い花びらが散って

こともある。山道を、このポロをまとって

落ちた 一面のうちほうきの跡の鮮やかな庭 の片隅に、このボロをまとって件んでいる

歩く姿もある。仏家でなくしては、どこに、

の姿である。そのツルマギは、粗い縫い目 ているように映る。﹃泡影集﹄のあちこちに

の継ぎはぎ、だらけで、まるでボロをまとっ 長年の隔たりを挟んでなお現れるこのツル

それもボロをまとう人は僧侶に限られて

も見出せない出世間の光景である。木綿服

帽が大師の外様を包んでいる。礼仏と法会、 は釈迦牟尼以来の衣という。これは長彩の

マギは継ぎの隼直からみて同一のツルマギ

公式の席上で僧侶としての威儀を正す袈裟 上に左側の肩のところから掛けて身体の前

と思われるのだが、周囲の者の話だと四O

なし。

後を包み、肩越しに垂れている裾を手で巻

合いと生活をともにしているからかもしれ

き上げてこれを掴むことになっている。袈

年以上著百したそ、つだ。このボロをまとっ

目、山寺の僧侶の袈裟 韓国仏教界のシンボルであった海印寺の 裟は着たh脱いだり、畳んだりするときに

4 ﹄

の生活が全てではなかった。彼は禅につい

という。仏教行事のある日に寺の境内に足

最初に教わることは袈裟を着脱する法式だ

は二疋の法式と順序がある。僧侶になると、

励んでいる大師の姿は澄んだ水のように静 かに見える。かと国ザえば禅房の後学の僧を

くばかりである。また、このボロ姿で禅に

していたのだから、そのコントラストは驚

て、いつも突き刺すような畑々たる眼光を

う寒々と感じられた。

綻びかけているのをスコッチテ lプで取り 繕っていた。木綿の服は、初秋一寺剰ではも

き、彼は濃い目の墨染めをした木綿の上着 を着ていたが、その袖の端と襟元が古びて

電算化を指揮している宗林師に会ったと

ょうである

限られている

川由同

V ii l

ポロをまとう人は

木綿服それも

いるようである。海印寺の八万大蔵経の

故性微大師(一九一一 j 一九九一ニ)は、修行 生活が公開されなかったにもかかわらず厳 の人々に深い感銘を与えた人物である。大

しい修行僧の日常が広く知れ渡って数多く 師が世を去る前の一九八六│一九八八年の 足掛け三年に百一る写真を中心に出家以来撮 られた写真をもとに、写真作家朱明徳さん が写真集を刊行して、大師のありし日の 八八年に出刊された、この本﹃泡影集﹄の中

様々の面貌を偲ばせている。朱さんは一九 で、﹁性微大師の表に出ない修行の姿勢が 多くの人々に信頼と希望を与えるものと思 われたので、大師の真の姿を写真に収めた かった と語っている。大師は、﹁聖職にあ L

る者が苦痛に満ちた生の現場に姿を現わす とか政治にかかわるのは現代宗教の姿勢と して受け入れられることもあるが、必要に よって自分を役立たせることや個個人を結 ぶ連鎖のみが歴史認識ではないと思いま す﹂と語ったことがあるが、これは水の泡 とい、勺意味の写真集の表題の意味の構造を

ての大論争の火つけ筏だったし、禅の修行

を踏み入れたとき、足首まで層 c そうな灰

見回る能麗からは、その堂々とした態度が

性微大師の役割は、もちろん隠者として

示しているように思われる。

においては厳しい態度で隼 T 乞指導してい る 。

僧侶の姿を目にすると、仏教の敬廃さを肌

色の長杉の長い袖の上に袈裟を掛けている

と靴下だけだった。

性徹大師が入寂した後、遺品はそのボロ

チョゴリ

件撤大師は、始めから終わりまで墨色の T サ ム し え チ aン

僧服で通した。灰色の長彩(絡衣)、褐色

追求しているからか、写真で見るだけでも

世俗の人々とは次元の異なる精神的価値を

に感じる。 呉のうち、もっとも印象的なの 大師の ZL

の袈裟、そして日常服のパジとチョゴリ(ズ ボンと上着)、ツルマギ(外側に着る布作り

39

ボロをまとって座禅を組んでいる性徹大師


国伝統美の樟本と現代化への作

現代の韓服の 美と 伝統美の現代化 〓2 抱えている問題である。この二

HH作注 業は、全ての造形芸術家たちが

-h

JrE﹁ つの概念は、伝統の固守と伝統の現代化と いう相反する概今Y乞内包していて、共存し 難いように見えるが、伝統から出発して未 来の問題を撃つという共通点を持つ。この 問題を取り扱う作業のため、韓服デザイ ナーは伝統を維持し現代的な要素を消極的 に受容する反面、ファッションデザイナー ンデザインに活かして現代化を試みる傾向

は韓国の伝華美をより積極的にファッショ

小さい上衣と誇張して膨らませた

チ マ で 構 成 さ れ たA字形の

輪郭線は

ドレスのシルエットを

でも伝統に中省大な韓理乞愛用する。古典的

上下衣を着る時にもやはり際立って見える

の上に押した﹁寿﹂と﹁福﹂、菊紋様の金箔は

用できたからではないかと推測される。そ

係になり視線を集め、衣服の佳世白川として活

導入した現代的な要素につながる

服飾のパタ ーンは、常に時代によって変

チョゴリの美的特徴だ。

がある。

のチマを現代化して、色合いにおいて多少

な雰囲気の韓服は、空色のチョゴリに紺色

的に伝統服に依存し、素材や色彩の選択な

ある。現代の韓服もその形態や構造は基本

簡単に変‘えず、持続的に固{すする強い力が

伝統の服は一般に、その様式的な特懲乞

おいている。

代韓服の美しさは伝統の韓服にその基礎を

受容し吟味している。にもかかわらず、現

しさは現代に至って、最近の時代の潮流を

線の曲線は紺色のチマを背景にしていてそ

空色のチョゴリの袖の下部の線と裾回しの

藍色、濃い紫色、金色等が使用されるが、

現代的な要素につながる。色合いは空色、

の輪郭線はドレスのシルエットを導入した

張して膨らませたチマで構成された A字形

とても普遍的な服だった。小さい上衣と誇

は結婚し子婦人の服であり、宮廷でも着た、

の変化を試みている。この色の韓服は、元

紫色にしたのは、青色系の衣服と余色の関

えられる。オッコルムを赤みを帯びた濃い

様も、このような考えを立証するものと考

れる。オッコルムの上に施された金箔の模

てむしろ装飾意志が働いているように思わ

ことから見て、前を合わせる実用性を越え

だったが、ここでは長さが蓋張されている

コルムは前を結んで合わせるためのもの

とは注目されることである。もともとオッ

ゴリのオッコルム(結ぴ紐)が長くなったこ

ム、チョゴリのクットン、チマの裾の折り

空間に表情を与えたりする。襟、オッコル

て縦の方向の縞模様を形づくって、余白の

取つであるチマのひだは、光の方向によっ

性のある余日になる。胸の部位にきれいに

ているが、装飾要素が受け入れられる可能

せ、広い空間を提供する。その空間は空い

表面よりは着用者の衣服の形態を際立た

紋様が排除された単色の織物は、衣服の

ど、細かい面から現代的な要素が加味され

の模様が際立つ 。この曲線は、異なる色の

華麗さを添えている。

るだけだ 。古典的な趣向を好む人は、少し

韓服の美しさを表現しようとして、チョ

て変わる。伝統的な価値観を基盤とした美

わるべきものであり、美しさも時代によっ

李英姫作の苧布韓服

40


潔な美しさを見せる。茶色のチョゴリの裾

チマなどに刺繍で装飾した衣装は端雅で清

とを試みているように見える。袖とソプ、

付けた夏用の韓服は、より現代的であるこ

る。中でも、韓服の造形要素である形態、

るなどの方法で韓国的美しさを活用してい

り、美的価値、または韓国的情婚を表出す

造形要素として現れる美的特寧乞活かした

ナーと同様に韓事乞そのまま模倣したり、

る。ファッションデザイナーも韓服デザイ

一方、韓服の 美 し さ は 洋 装 の た め の ファッションデザインにも活用されてい

線を使わず直線を使ったスタイルが多かっ

じを与える作品が製作された。当時は、曲

を円形のイメージに従って非常に豊かな感

るという試みが多かったが、この時は衣服

韓服のチョゴリやパジをそのまま現代化す

常にたくさん使われた。一九八0年代には

に曲線を利用してもよいと言えるくらい非

とか裾回りに見える曲線は、どんなところ

も多く試みられる活用の対象である。袖下

歴史が長いだけに多様な造形美の発見が可

や開発は多様なのだが、これは韓国服飾の

ンに活用されるなど、韓国的な素材の活用

替のような装身具もファッションデザイ

ンもたゆまず試みられている。ノリゲや

るパターンを活用した新しい解釈のパター

瓦当などのような異なった造形物に見られ

の牡丹紋様がよく使われたが、門、窓、戸、

れた。紋様は婚礼服として着たファルオッ

的な素材を代表するものとして多く愛用さ

返しなどに繰り返し施された金箔紋様は一

回りの線と袖下の線は、銀灰色のチマとの 線、缶彰、素材、紋様、装身具などはファッ

たので豊かなイメージの韓服が流行した。

オッコルムの代わりに結ぴ目のボタンを

種の統 一威主調和をなして服を完結する。

コントラストのため、曲線がさらに際立っ シ ョンデザイナーに具体的に活用されてい

色者﹂しては白黒の調和や原色の対比が

李信雨作の刺し縫いジャケツト

在でも数多くのデザイナーたちが引き続き

縫製の方法の一つである刺し縫いは、現

能だからであろう。

かんざし

ている。但し、結び目のボタンはオッコル る。特に、韓服の美しさとしてしばしば指

からむし

ムのゆらゆらする要素をなくした代わり

主に活用され、素材は苧や麻などが韓国

愛用している。イl ・シンウの上衣デザイ

ン(宮司¥巧 ρロロ丹色。。ぎロ)は、刺し縫い

という運針法一つだけで貞潔で端雅な雰囲

気を醸し出し ている。この上衣は、特に端

正な襟、結び目のボタン、木綿織立案材の

刺し縫いなどを適切に使用して、純粋で土

俗的な伝聾夫を巧みに現代化したものと評

がほとんどない生真面目なデサインは、韓

価できる。刺し縫いとボタン以外には装飾

国の伝統造形に表現される﹁無装飾の装

飾﹂、または﹁無技巧の技巧 Lに該当すると

格紙の紋様をプリントした素材、韓国

こうぞ

言えるほど純粋なものに見える。

の空をプリントした空色の素域高伺麗壁

が韓国的な情緒をデザインするために傾け

画をパターンにして活用した素材など、彼

た努力と試みは高く評価すべきである。

チョガクポ(小布れを縫い合わせた風呂

敷)の布に見られる原色の調和やセクトン

の色彩感覚をデザインによく活用するソ

ル・ユンヒョンも、韓国の美しさを表現し

の小布の紋様のワンピースは、韓国の伝統

ようと努力しているデザイナーだ。多彩色

工芸品である紙箱の平面構成と紋様をその

まま活用したものである 。彼は韓服に使用

41

摘される曲線は、衣装デザインにおいて最

ー ‘,

に、胸部位に描止な構造の美を与える。

_ _f


2

2

:Jj

チョガクポ( 小布れを縫い合わせた風呂敷) を連想させ る李信雨作のツーピース

色、樺色などの原色のコントラストは伝統

る。明度が高い黄色を中心に赤と青色、緑

的な新婦の服を連想させる。三枚の重ねた

される多様な色彩、紋様、素材などを組み ている。郷土的な色彩が強い素材を使った

合わせて新しい表現に再生させる腕に優れ

ンは色彩の土俗性にもかかわらずモダン

カラ!と直線的な裁断が強調されたデザイ

で、洗練された雰囲気でデザイナーの成 覚 V

ルとノースリーブの簡潔な衣装はとても現

を表現する。チマ裾の折り返しに縁取りを

にもかかわらず、チマの上に被せたビニー

トゥリ(儀礼用の婦人の冠の 一撃 も 、 ま た

代的に見える。多彩色で構成されたチョク

特定の韓服のイメージが、そのまま

した赤の装飾線も現代の幾但子的属性を非

ファッションデザインのコレクションに受

常に際立たせる要素となっている。

-mvN 司 ¥ 巧

韓国的な原色の調和は、また違う方法に

け入れられたこともある。﹁ω品 目 匂 印 司 ¥ 巧

モラスに見える。

コレクション ﹂で発表されたチン ・テオク

コレクション Lにお目見えしたイ1 ・ヨン

横に頃けて着用した姿に余裕があり、ユー

の衣装は、明度が高い多彩色のリボンを

ヒのベストデザインは韓服の雰囲気を強く

よっても表現されている 。﹁ 記

織った素材を使って、とても華やかに見え

セク トンの華麗な色彩を取り入れた醇潤亨作の小布れ紋様ワンピース

42


韓国的な原色で洗練された雰囲気を滋し出す

陳泰玉の衣装

漂わせている。丈の長いチョッキとタート

韓国伝統美の現代化の作業は、ファ ッ

たちに夢を与える恕穫となった。

自の部分を担当しなければならない我々み

化、または世界化の年末は皆が参画して各

シ ョンデザイナーや特定の人物たちにだけ

ルネック・ラインのセーター、鳳鳳の紋様

を連想させるチョッキには東洋の形能ヲ﹂西

んなの任務だ。つまり、我々は未来を準備

が施された絹のズボンは、全般的な雰囲気

洋のイメージの素材がコントラストをな

するために韓服を含め、韓国造計聖耳術に対

ていく者として我々の情緒を継承し、現代

し、一般に西洋の雰囲気を強く醸すズボン

する理解を深くし発掘して、我々の服飾文

与えられた課題ではない 。同じ時代を生き

は東洋の素材と対比されるなど、お互いを

化を豊かにするために積極的に取り組まな

ペジヤ ( チョゴリの上に着る袖なしの短衣)

混用した雰囲気であるが、異質でありなが

ければなるまい 。

から東洋と西洋の出会いを表現している。

ら新しい調和を見せる。この独特な着装法 ファッション界に大きな反響を呼び起こ

は、西洋的なデ、 ザインがリードするパリ・ し、韓国の多くのファッションデザイナー

43

李英姫作の衣装


I l i mat mt m

仁王ご手E

rコリアナ』 副踊藤長

金焼旭

~

\J-I

一韓国伝統の服飾研究に生涯を捧げた、 その一途な人生一

の最重震の博士は、今でも 一日の日課が

一途な人生を歩んできた。韓国服飾史分野

立った理論{ゑとして、彼女はただひたすち

生活の体系化という一念のもとに教壇に

の遺物を集めたコレクタ ーとして、また衣

線を画した人物である。生事乞かけて祖先

れて暮らす石宙善博士は、韓国服飾史に一

、 十を越えた年にもかかわらず、 パ川 若者に劣らない旺盛な研君事 ノ と教育に力を注ぎ、仕事に埋も

にとっておいて、はぎ合わせて風呂敷を作

作って残った布切れの一枚も捨てずに大事

ることを何よりも残今おる。彼女は、服を

もった伝統と精神がだんだん失われつつあ

ります﹂手作りのチマ・チュゴリを着たそ の姿も美しい石博士は、祖先の知恵のこ

(韓国の指ぬき。指先にはめて惇ユでも作

ときはおとなしく座ってちっちゃなコルム

なか起きられないような気がして、そんな

度を越える熱が出ても一度横になるとなか

んだりすることもなく、仕事に、研究に、 執筆にと仕しい日々を送っている。 ﹁ 四 O

既に両親は他界した後だった。

解放の感激とともに帰国したが、その時は

高等洋裁学校を優秀な成績で卒業し、民族

で行くことができた。墓尽で、当時の日本

石宙善博士は石氏の家門の男三人女一人兄

が悲痛な気持に浸っていた試練の時代に、

代の一九二年、国号さえ抹殺され全国民

日本が韓国を占領していた植民地支配時

誰よりも忙しい。ソウルの檀国大学民俗博

の女性の下着がうずたかく積まれている。

代から 一九五0年代までのいろいろな貴重 品のチョゴリと、丁寧に縫われた刺子縫い

は、いまだに整理し終わらない一九二0年

ときまた惇っそうだ。こんなことから見て、

の糸をゴミ箱に捨てずに新しい襟をつける

につける襟 一つ取り替える際も、使用済み

美しいと語る。彼女自身も、またチョゴリ

り、創造的に生産する祖先の精神は本当に

学的な方向に導いていく作業が必要だと彼

仕事を見つけてくれた。まず、衣生活を科

物館(現在の国立登子館)の工芸学研究室に

げた兄の石宙明博士が在職中の国立登字博

が、その年の 一 O月、蝶の研究に生涯を捧

けてよいのかわからないほど混乱していた

解放後のソウルの町は、どこから王手う

兄弟みんなこともなく育ち、日本留学にま

弟の一人娘として生まれた。{丞庭環境は比 較的ゆとりのあるほうで、両親のおかげで

物館の一角にある博士の執務室の机の上に

収集した服をきれいに 手入れをして原形を 筏元し、最後に目録を 作成する ことで、服一着一着に

収集した服をきれいに手入れをして原形を

僚友には捨てるゴミなどほとんどないのだ

生命を吹き込む

復元し、最後に目録を作成することで、服

ろ 、 っ 。 通じムダに過ごした時聞がなく、一分 一秒

とに身分を与える、ということだ。生涯を

たこと以上に、衣服を通じてさまざまな哲 学が深く染みついているからであろう。

ほど石博士には、衣服を収集し研究してき

する話に時のたつのも忘れてしまう。それ

石博士と向かい合えば、韓国の服飾に関

うに大きめのを着せたりしていたので、ほ ろほろになって着られなくなる頃にやっと

も成長期の子供だから数年聞は着られるよ

大きなパンツをだぶだぶに着せたり、洋服

その当時の主婦たちは、幼児の腰下には

女は感じていた。 一着 一着に命を吹き込む。いうならば服ご

を惜しんで生きてきた博士は、最近パソコ ンを買い入れ、学ぶ楽しさにすっかりのめ り込んでいる。高齢にもかかわらず、寝込

44


45


合う衣服を着せる 運 L 動を展開した。季節

た。まず博士は無料講習会を聞き、﹁体に

親が手作りの服を着せるよりほかなかっ

した困った習慣から抜け出るためには、母

大きさが令っ、といった具合だった。こう

とえ歴史のひとこまたりとも ﹁ :・:・である はずだ Lではなく﹁:::である﹂と自信を

二十数年教えているうちに、学生たちにた

として十数亨乞過ごしれ/語、阿倍女子大で

首都女子師範大学(現在の世宗大学)で講師

決して楽とはいえない給料取り生活のなか

一つ、二つと集めるようになったという。

修了証を与えた。この講習会は、いろいろ

持って教えるため、文事乞裏づける遺物を

+事労も多かったが、すぐにでも何かが実現

で﹁どうしても買わなければ﹂ という苛立ち から食べるもの、着るもの、時には足代ま

ごとに合う服を作る理論と実習の一ヵ月

しそうな希望の中で、痕労を忘れ仕事に打 で節約しながら一ぃ白⋮ 、二 点と集めていく喜

コlスを設け、その課程を終えた主婦には

ち込んだ。そんな中で、被女に試練が訪れ

高価な焼き物や墨絵など 普通の骨董品のように、

びは、掛け替えのない彼女だけの幸せだっ

使い古した服にも値が付くようになったのは、

五0年 代 の 後 半 か ら だ っ た

た。韓国戦争は全国民を絶望に陥れた最大

をするなんて﹂と嘆いたり同情したりした。

た。そんな彼女を見て周囲の人々さえ理解 するどころか﹁食べず使わずのあんな生活

の悲劇だった。家族・親戚との生き別れと 死別、家産を失い、拠りどころなき孤独、

他の A 量品とは違って保管が特に難しかっ

ように、使い古した服にも値が付くように なったのは、五0年代の後半からだった 。

高価な焼き物や悪一絵など普通の 旦 A 害聞の

た衣服を、誰かに渡すということは当時と

の命と若さを発見した。

全くの無に戻った博士は、しかし再び自ら

品でリサイクル服を作ること半年、こうし

命働こう﹂と決心し、手に入れやすい救済

しては想像さえできないことだった。

﹁働こう。腕前があるんだから、一生懸

て洋装庖を開いて食べていくことには自信

民族解放の時から韓国戦争の前後までに

がもてた。 国立登子博物館に勤めていたときの縁で

i

石宙善記念民俗博物館

46


になくしてしまい無からやり直さなければ

集めた服は約五O点だったが、避難生活中 献の正しい裏づけになってくれた。

が、こうして一点、二点と集めた遺物が文 日、講義のあと図書館に通い閉館のベルが

でには果てしのない忍耐が必要だった。毎

のか、という気がして本を抱きしめて泣い

めてできたのがやっとこんな本 一冊だけな

志がわかってタンスの奥深く保管していた

集めることができた。たまには、石博士の

行っていた七五年まで、たくさんの遺物を

ならなかったが、その後、骨董品収集が流

服飾宰である。その後この本は、京郷新

図書館に通ったあげく出刊したのが﹃韓国

本の一冊でも﹂という気持ちから二0年間

贈った。石博士も﹁華やかなパーティより、

子たちは還暦記念論文集﹃民俗学論叢﹄を

去る七一年、還暦を迎えた石博士に、弟

本は私が心血を注いだものです。二三年と

国服飾忠として実を結んだわけだ。﹁この

し、実際の遺物と比べ研究した結果が﹃韓

漢文の先生の読解を得て難解な文啓乞整理

と、すぐ漢文の先生のところに駆けつけた。

の中から服飾関係の箇所を抜き書きする

ければならなかった。何日かかかって文献

鳴るまで難解な漢文の本を開いて苦闘しな

ば朽ち果ててしまう。このように長期にか

いものが多かった。そのまま放置しておけ

と同時にすぐに手入れをしなければならな

ちるか、すり切れて、石博士は手に入れる

の残した遺物は、長い歳月の間に古びて朽

博士は 、遺物収集を怠らなかっ た。祖先

葉を失った。

たのが昨日のことのようです﹂と、一瞬言

衣服をあっさり渡してくれた奇特な人もい 聞社主催の良書選定で金賞を受賞するな

たが、大部分は彼女が仁寺洞(ソウルの有 ど、被女に勇気とやりがいを抱かせてくれ

名な美術・骨董品街)の骨董品店を漁った り、地方を回ったりして収集したものであ

けて貴重な遺物を収集するのは、大変だっ

たが、やり甲斐も小さくなかった。朝鮮朝

この﹃韓国服飾庄がまとめ上げられるま

た 。

47

る。文献だけでは服飾をまともに研究でき ないというのが収集の動機となったのだ

υ︿且 一ご巴主

徳温王女のタンイ

装身具

いえば幼児から立派f £宵年に育つ長い歳月 だというのに、 二 O数年間図書館に通いつ

新婦の着るファルオッ


時のたつのも忘れ、窓辺に夜明けの明かり

自分を守るようにこれらの遺物を守って来

直してアイロンをかける。また、かんざし、

ている。ほこりを払い、汚れをとり、縫い

帰り、夜一 O時すぎにやっと隼京に取りか かる。繊維でできた宣重品は、かなり汚れ

人は私の所蔵品を指して数十億ウォンの財

は人生の終着駅に立っていました。世間の

は目に見えて大きくなり、いつの間にか私

一念で生涯をさ迷っているうちに、収集品

もとにして衣生活の体系を立てよ、

石宙善 館までの準備作業として七八年に ﹃

一九人O年二月に博物館が竣工、翌年 の八 一年五月二日に開館するに至った。開

︿且 孟﹂出回 XE

こう語る石博士の顔は、韓国服飾史を確立

られたことは天の恵みだと思っています﹂

迎え、その年(七六年) 檀国大学に迎えられ

の重要民俗文化財第一号に指定されたタン イをはじめウォンサム(婦人の礼服の 一

毛筋だて、その他髪にさす装飾品などの金

コ 1 0

がほんのりと差すまで仕事に熱中した夜も

停年になってから被女は、遺物がどこに

孤高な学者らしく、堂々として毅然とした 次 事 った。

するため頑固にただ 一途な道を辿ってきた

数え切れないほどだ。それでも次の日の日 課をちゃんと終えたのだから、被女には健 このように被女の手を経た遺物は、本来

康が第 一の財産だったのである。 の色を取り戻し、被女の前に慎ましやかに

行くべきなのかということを考えるように

た。当時、同大学の張忠植訟長は史学専攻

なった。勤め先の同徳女子大で定年退職を

撮り終わった遺物は一つ 一つビニール袋に

っけなければならない。

置かれる。次は、遺物整理台帳に記入し撮

Z

入れ桐箱にしまう。こうやって整理してお

だったことから、服飾史の彼女とは縁がで

影のために青

けば湿気や害虫から守ることができる。さ

きていたのである。

一九七六年七月、檀国大学では国文学の

らに、遺物が置いてある部屋の管理は何よ りも大事である。温度計を見ながら雨が降

繊維でできた骨董品は、

記念民俗博物館建立推進委員会が発足し

元老である李照昇博士を委員長に、石宙善

かなり汚れている。ほこりを払い、 汚れをとり、 直してアイロンをかける

る日や湿気の多い日は暖房を入れ、常温を

種てチャンオッ(婦人の外出時の顔を隠す

物は磨かないと原形が復元されない。銀は

2 ﹄いう

維持しなければならないからである。 ﹁ 祖先が残していったすり切れた衣服を

ための服)、チョゴリなど数十点を原形の

た。同時に、民俗研究所が設けられ。石博 士を所長に博物館建築の準備が進められ た。

ままに残せたことは快挙だった。服飾研究

目当ての収集だったとすれば、輩出害振り 切れなかったと思います。経済的に余裕が

ルムの整理、遺物保愛息庫の整理などが行

産だといい、新聞にも載りましたが、お金

なかったために、もっと活発な収集に踏み

なわれた。

に本来の色を再現するために、こびりつい たサピや垢の汚れを取る作業は並大抵では

込むことはできなかったのですけれども、

銀なりに、白銅は白銅なりに、銅は銅なり

ない 。森羅万象が眠りについた静かな晩に、

その代わり針 一本売りもしないで、自分が

には文献の重要さももちろんだが、遺物が

ラジオのボリュ ームを落として音楽を聴き

裏付けをすることによって、さらに正確な

ながらこ 、 ひりつ いた汚れをとって いると、

一点の遺物が完全に整理され保管される までには多くの時間と努力が必要だった。

ものになる。

講義や文献抜粋などの外での仕事を終えて

が刊行され、七 記念民俗博物館所蔵目録﹄ 胸背(官服の胸と背につける飾 九年には ﹃ 、人O年には﹃装身島がそれぞれ刊行 り)﹄ された。このほか目録カ 1ドの整理、フィ

最後の王である純祖の三女である徳温王女

手 善

48


妃の服飾、王子、王女、王女の夫君、宰相、

帯類が陳列されている。第四室には王と王

と輿宣大院君の遺物などがぺ 占 め る。第三室に は冠類をはじめ装身具、履物、首飾り類、

議君の妃の喜({是衣装の一つ)、高宗

王女のタンイをはじめ沈東臣の金冠朝服、

の中には重要民俗文化財に賞疋された徳温

第二室には王室の礼服が陳列してある。そ

一階の第一室には一般平民の服が、二階の

八(む坪に地下一階、地上三階の建物で、

麗な煉瓦づくりの石宙善博物館は、建坪約

檀国大学ソウル・キャン パスの敷地の端

あ竹系﹄たりの石ですが、その後ずっと私と

とき、故郷の小川で遊んでいて偶然拾った

ンから出して見せてくれた。﹁五、六歳の

り、生涯を博士と共にしてきた小石をカバ

召される日まで仕事から手を離せないと語

成しているという石宙善博士は、あの世に

で間もないパソコンを使い遺物の目録を作

育の手本となれれば、と思います﹂親しん

の生きた博物館になるよう、笠子たちの教

も多くの原稿を書き、名実ともに韓国服飾

ないところは補い、体力が許す限り 一行で

る場はできあがりました。これからも足り

五、六歳のとき、 故郷の小川で 遊んでいて 偶然拾ったありきたりの

侍女など階級別の服飾を立体的に陳列して

一緒に暮らしてきました。日本での賀子時

石ですが・

ある。このほか、セミナー室、遺物保谷天息

ら寂しさを慰めてきました﹂頑なに一途な 道を生きてきた目の高い収集家としての彼

代、故郷が恋しいときは、いつもなでなが

ている。所蔵品物は、設立当時に比べ二倍

女の性格の断面を見る思いだ。﹁五千年の

庫、遺物整理実図書室、盟見室が備わっ 近く増えて現在は、入手占⋮あまりに上って

歴史を持つ文化民族の誇りと自負に染みが

り、韓国服飾の偉大な文化遺産である。

は、唯の 一度も自らの人生を後悔したこと がないと述べる本人が博物館そのものであ

を捧げたい﹂こう締めくくる石宙善博士

付かないよう、真の足跡を残すことに余生

いる。これらの遺物のうち八百点ほどが陳 列されている。 ﹁振り返ってみますと、幼時から 二十歳 を越えるまでの幸せはひとえに両親のおか げでした。私自身の運命を開拓していくに は﹁真実﹂が絶対的な力でした。私の夢であ り願いであった祖先の遺物が安らかに憩え

田淫ま 05山

49

生涯を共にしてきたというありふれた小石( 上) が収集家としての石さんの断面をうかがわせる


2 韓国文化芸術

果 ~ と 総 展 望 ラ 0 金文娩 ソウル大挙動護 ・演劇評蛤家

••••••••••••••••••••••••••••••••••••••

O 新劇のほうは、それから九年後の一九 二

いたが、一九一 一年の冬になって日本から 受け入れた新派劇がはじめ て上演される。

た後もパンソリ系のものだけが公演されて

劇場円覚杜(一九O 八年七月)に名称を変え

律社﹂という劇場が建てられるに及んで伝 統の劇と歌舞戯が上演された。これが私設

九O 二年、韓国に始めて﹁協 クを迎える。 一

義理人情劇や塞庭悲劇などに移行してピー

事劇になって現れたりもしたが、探偵劇や

動の政治官官劇を基にして現代的な宜芸扇 に発展した。この新派劇は 日清戦争中に軍

派劇は明治二0年代に始まった自由民権運

という用語が用いられたのだが、日本の新

に対して新たな演劇という意味から新派劇

日本では従来の歌舞伎を旧派といい、これ

通俗的で感傷的な類型の演劇を通称する。

劇芸術に結びつけられるのに対し、新派劇 は内容から商業主義的な大衆演劇で 、ごく

ら渡ってきた新劇と新派劇が準云の主流を なした。新劇が西ヨーロ ッパの伝統的な演

きなかった。その代わり、主として日本か

め伝統文化は思いのまま成長することがで

国主義日本による韓民族文化抹殺政策のた

だろう。しかし、時代の変化も変化だが帝

一二場と仮面踊りの系列ということになる

(鼓の拍子に合わせて演ずる劇的内容の歌)

ち代表的のものは、何と言 ってもパンソリ

自の演劇の遺産を形づくってきた 。そのう

ちに様々の外来的影響を吸収しながら、独

もちろん、韓国は長い 歴史時代を経るう

代に誕生した点でとりわけそうである。

得ない 。歴史自体の基本的性格がそうでも あるが、韓国の近代演劇が日本の植民地時

解放後五0年間の韓国演劇を述べようと すれば、それ以前について皇言及せざるを

一 、

50


れ、次いで同年士一月には﹁朝鮮演劇賢官﹂

カスなどを総括)が朝鮮芸術文化協会に統

一 九 ==年三月には朝鮮プロレタリア演劇

舞われて解散の羽目となってしまった。そ

うより価値指向的であり理念的な概念で

の聞に、移塾入の小劇場運動を通してカッ

人のほとんどが植民勢力がリードする親目

合されてからはごく少数の者を除いて演劇

年の春、亙尽で文学と芸術を勉強していた

会階級聞の複雑な葛藤、そして同時代人の

フの演劇理会乞実践した劇団﹃新建設社﹄の

の八月、二回に亘ってカッフは大検挙に見

政治への多様な関心と意志を幅広く収数し

活動もあるにはあったが、外国の軍国主義

的な官製演劇運動に参加し活躍するよ、つに

同盟が発足するが、同年八月と一九三四年

ながら、それらの政治問題を演劇という芸

なる。劇作法の技巧を凝らして観衆の興味

あって、現実政治と政治的なビジョン、政

欧米の近代劇を手本とした新劇運動は、

術的な方法で具現させる一連の行為を幅広

が支配する植民地下のプロレタリア演劇運

治批判と風刺、政治意識と理想の表出、社

北欧(イプセン)、ロシア(トルストイ、ツ ルゲ1ネフ、ゴリキl、ゴ 1ゴリ、チェl

動は結局潰される賓客背負わされていた

留学生たちが劇芸術協会を結成することで

ホフ)、イギリス(ゴ 1ルスワ1ジ、ショ 1、 く掃す。しかし、ここで言、つ竪崩とは、

するなど工夫はしているものの、彼らの演

幕が上がる。

ワイルド)、アイルランド(オケイシ l、シ 主として二O世紀初めからロシアとドイツ

と言‘える。 . 日本帝国王義が植民地を締めあげるなか

が結成される。このあと、 と寸劇作家同友会﹂ 終戦 一年前の一九四四年七月、朝鮮演劇協 会と朝鮮準高史五(楽劇、唱劇、漫談、サー

ング)、ドイツおよびオーストリア(表現主 を中心とする東ヨーロッパ圏でだんだん勢

を指している。韓国の場ム円当時は僧働者 ・ 農民運動の成熟しつつあった段階で、プロ

力を伸ばし、 一九二0年代にピ lクに達し たマルクシズムに基づくプロレタリア演劇

から、日本が目標とする大東亜共栄圏なる

べて 日本の国民だという﹁内鮮 一体﹂の観点

れる。国民演劇とは、日本人も朝鮮人もす

なってからは、いわゆる国民演劇を強いら

で太平洋戦争に突入した一九四0年代に

立運動がなかったわけではないが、結果的

れた。上海臨時政府を筆頭にして民族の独

しようのない什叫初だった。 そして、ほどなくして民族解放の日が訪

劇活動の反民族・反芸術的な性格は覆い隠

詞にも日常的な言葉に をそそらせ、またム P

義、シュニッツラ l、ハウプトマン)、フ

レタリア演劇は革命の理含与え持・実践し

新体制運動に朝鮮人を組み入れて動員しよ

ピランデルロ)、そしてアメリカ(オニ lル)

( メ lテルリンク)、イタリア(ダヌンチオ、

の影響を直接・間接的に受けて植民地下の

ようとする同時代のインテリ層演劇人たち

に民族解放は連合国の勝利によって外側か らもたらされ、それも国土の分裂という不

ランス(パニョル、サルトル)、ベルギー

社会的現実を演劇的に反映しょ、っと努め

によってリードされていた。'一九 一九年の

の気質も似ていると考えられていたことか

三 ・一独立運動後、この地にも左翼性向の 労働者、農民、青年などによる団体が続々

ならないというのである。こうして、一九

O年十月に﹁国民総力朝鮮連盟﹂が組織さ 四

かった。演劇も例外ではなかった。

測の事態が展開されたことから、解事乞迎 えた瞬間から混乱と葛藤が現れるほかな

た。なかでも、アイルランドに対しては歴 史の歩みが韓国と似通っている、?えに民族 ら、韓国の劇作家の多くがオケイシーやシ

うとの目的から日本語をも採り入れた、い わば意識改造演劇のことである。朝鮮人も ﹁ 内鮮 一体﹂精神に基づいて天皇の臣下であ 結成され、一九二四年には統合機構の朝鮮 労働総連盟が発足した。こうした状況のも とで、カッフ(穴﹀Z,)、すなわち﹁朝鮮プ ロレタリア芸術同盟﹂が一九二五年八月に

る日本国民となって、日本の勝剰と繁栄の -ために奉仕し犠牲となる演劇にしなければ

ンクに傾倒したし、また多くの影響も受け た 。 これと共に社会主義傾向の劇が現れてい

組織されることになる。そして、このあと

51

ることも、また見逃せない。広い意味にお ける政治劇は、特定の様式概念であるとい

、 一


解放から大韓民国政府樹立までの三年間 と言われているが、この は俗に ﹁ 解放空間﹂ 期間が当時角逐を繰り広げてい子勢力のう ちどれもイニシアチブを取れなかった一種 の空白状態だったことを意味するとすれ ば、当を得た用語と言える。 迫害していた勢力が衰えてしまった瞬 間、それまでもっともひどい迫害を受けて いた集団がもっとも盛んに活動するのは自 然なことである。演劇の場合、一九 二01

0年代に社会主義傾向の劇の活動をした 三 左翼系演劇人は日本の降伏のニュースに接 る。文学、音楽、美術、映画など各部門の

するやいなや朝鮮演劇建設本部を結成す 同調組織が朝鮮文化建設中央品費言結成 したのは一九四五年八月十八日、即ゃっ解放 三日目のことである。組織内の過去の親日 演劇人に対する批判とこれをめぐっての分 裂もあったが、朝鮮共産党の勧めで朝従叫演 劇同盟に再統合される。その中で三人度を になるが、特に一九四七年八・一五記念公

越えて北へ行く越北演劇人が続出すること

家同盟が閉鎖されてからというもの越北の

演準備中に大検挙ム一世が下り、また朝鮮文学 行列はさらに長くなっていった。 右の陣営も左に劣らず組織化を急いだ が、 一九四七年十月全国演塑 術 E 協会を結 成して、やっと朝鮮演劇同盟に対抗する右 寄り陣営のまともな演劇組織ができあが っ た。 一 九四八年に左翼演劇人たちが催した 一 子 一節記念演劇祭に対抗して六月に開催 した全国演劇競演大会は、全国型云術協奴去 がオペラ賢官と協力して新しく発足させた そして、過去の親日的な活動のため鳴りを

韓国舞台芸術院の主催によるものだった。

に、長いこと練ってきた技巧を再び披露す

潜めていた演劇人らが米軍政の庇護のもと る機会を与どえられた。

コ 1 一コ 出 師 YE ミa 0Z

52



九人O年の光州市民の民主抗争がシンボ

一層深刻になっていた。そして、それは一

価値を擁護するよ、つな内容の演じ物が全く

る。もちろん一九六0年代にも民主主義的

う。そうした中にも、大学劇は演劇・映画

演劇離れが進み、演劇界は全般に活気を失

リカの作品の公演を後援したりした。ォ ?ルらアメリカ人作家の佐聞が上演され

リックに示しているように、いつ爆発する

劇界は量的に膨らんで多様化と大衆化を果

かしれない不安な火薬庫を抱えていた。演

たし、いわゆるマダン劇(広場の演劇)を中

なかったわけではないが、一九七0年代に

り広げられた。一九八一年には公演法が改

入ってやっと抵抗的な性格の演劇運動が広 府が文芸振飽草業に取り組んだことが恕穣

がるようになる。また、 一九七四年には政

定され、公演者の登録が事実上自由化する

は演劇人力を尽きることなく供給する泉と なった。

で韓国文化のル lツ捜しがいろいろな亙凡 で展開される。抵抗勢力の反体制圏が伝統

など小劇場許可の制限が大幅に緩和される

科の設立とともに活発になり、またこの科

ている協業的な性格のため時代に対する反

の民族劇の再発見に向けた作業もル lツ捜

が相次いだ。こうした頻繁な接触による実 りの 一つが、一九六二年にロックフェラー 財団の後援で建てられたソウルのドラマセ 応が多少遅れがちである。一九六O年に李 しの一つである。

始め、また指導的な演劇人のアメリカ視察

ンターである。ここでミュージカルを初め 承晩政府の不正に抗議して起こったま牽 たちが分裂と反目を続けている中で翌年の

になり、実験的な作業の成果が翠告に現れ、

一九七0年代は、また演出の技法が多様

芸術分野のうち特に演劇は、それが持っ

主にアメリカの戯曲が上演されたのは、む 命が政権を奪えてはおいたものの、政弘巾家

少なからぬ負慣を抱えたまま一年余りで閉 一九六一年には軍事クーデターが発生す

ることになった。権威王義的体制は、日増

社会主義圏の演劇世界を開放する恕穣を作

ことに、後者は韓国でタブ l祝されていた

際演劇祭に肩入れした。ところが、度肉な

やソウル・オリンピック(一九八八年)の国

一不す目的から第三世界演劇祭(一九八一年

煉政権)の中心勢力は、政権の﹁正当性﹂を

上がっている、いわゆる第五共和国(全斗

た。しかし正統性の問題でいまなお槍玉に

一方で、表現の自由制限と検聞はかえって 強化されるというアンバランス現象が現れ

心とした抵抗的な演劇運動もまた活発に繰

この劇場は観客の入りが振るわぬことから

しろ当妖志成り行きだと=一-閉える。しかし、

館してしまった。開館中に六編の作品が公

も う 一 つ 一 九 入 0年 代 の 変 化 の う ち 見落とせないことは、 演劇界が多様化と大衆化に進んでいる中で創作劇の比重が相対的に

しに高まる民主化の波に逆らえなかったの

V 発 足である。 いた製作劇会(一九五六年 の

が続く中で経済は発展し続け、消費生活に

国的民主主義﹂を標傍した。政治的な弾圧

しに進め、開発独裁を合理化するため﹁韓

抗にぶつかる。時の朴正照大統領は、 一方 では再ぴ日本を引き込んで彦葉化をゴリ押

芝居乞事実上拒否して学生たちの激しい抵

る。このクーデター勢力は、そのあと民政

一九八0年代の韓国社会は物質的なゆと

活発になったのも、七ハ峯代であった。

劇の跳躍期であったとヰ言える。童書動が

であった。一九七0年代は、 一言で韓国演

さらに小劇場が本来の役目を果たした年代

社会の現実に対する関心が大きくなったと

九八0年代は韓国の演劇全般に亘って韓国

次のようなことが指摘できる。第一に、一

高くなってきたことである。

に進んでいる中で創作劇の比重が相対的に

とせないことは、演劇界が多様化と大衆化

冷めてきている。 もう一つ 一九八0年代の変化のうち原落

高くなってきたことである

である。 かといって、反体制圏のマダン劇がこと

さら成長したのでもない。権威王義政府の

大学劇出身のメンバーからなる製作劇会の

対する社会的な欲求も増幅する。TVは、

りと政治的な安定を謡歌したかにみえる

政治的弾圧が厳しかったときに比べ、民主

発足は、六0年代の韓国演劇界を決{疋つけ る同人制劇団の続出につながっていく。こ

が、実際は軍事独裁による不謹玄分配と こうした変化に対する演劇側の反応は、

ど 、 一九六0年代以来抱えていた諸問題が

搾取、反共公安政局、外交的な対外従属な

いうこと、第二に、 一九七0年代以来、伝 統的華人の継承への関心が引き続き高かっ

ことは、演劇界の佳滑に新たな突破口を開

風を演劇界に盛り上げようと熱壷を不す。

ほほ一九七O年になってやっと現れ始め

こうした現象の背景としては、おおよそ

化が進むにつれてマダン劇への熱はむしろ

れらは戦争経学乞も踏まえていて不条理系

一つであった。

まさに新たな社会的な欲求を満たすものの

一九五0年代の韓国の演劇で賞記ーすべき

の劇を圏内に紹介したり、世代聞の葛藤関

演された。

係を不すドラマを好んで公演して新たな気 しかし、TVが登場するに及んで演劇人の

V

54


一九人0年代の韓国の演劇は、このよう

心に構成する。また人物を類型別に誇張し、

大胆に取り入れ、ストーリーよりは状況中

たな演劇美学的特徴が現れる。踊りや歌を

意図を共有する。こうして、次のような新

て、文化帝国主義から解放させようとする

る 。

た演劇の模索にプラスになると思ってい

に向け であろう。筆者は、﹁民族劇 が L 統 一

の民族劇を同列において比較する﹃のは無理

団体の一つとして自らを維持している韓国

はじめた。

る 。

に多彩である。そこで、もう一つ特徴的な ものを挙げると反体制圏の﹁民族劇﹂があ

たこと、第三に、大韓民国演劇祭(一九七

オなどを通じて欧米式ドラマを見慣れた観 民族劇運動は、主に大学の演劇サークル

劇場も舞台装置も簡素にする。さらに、観

時間と空間の縮小と省略を自由に行ない、

ポスト・モダニズムの上陸とも無関係では

ろいろな挑戦にぶつかっている。いわゆる

七年発足)など創作劇に向けた制度的なテ コ入れがあったこと、第四に、TVやピデ 客が演劇では不慣れな翻訳劇よりも自らの 中心の活動から出発して新たな様式を作り

ないが、混乱した状況の中で﹁民族劇﹂系列

一九九0年代になって韓国の演劇界はい

いって、翻訳劇の需要が全くなくなったわ

ものを望んでいたことである。だからと

客の反応を積極的に引き出し、叙事的な解

の多様な展開も演劇にとっては脅威となっ

は市刀を失いかけている。また、映像媒体

説者をしばしば登場させる。 ﹁民族劇﹂の定義については﹁民主化と国

場を中心に活発に繰り広げられた。この運

土分瞳兄服による統 一を当面の民族史的悲

出した後、全国の労働現場や併働争議の現 動は、伝統の替水という面からも、また当

けではない。とくに、国内の政仙伺状況に対

面した現実問題の演劇的な受容とい、1良か

願とし、この悲願の実現に携わる一切の演

する間接的な批判の王ムリムてとして南アフリ カの体制抵抗的な岱聞やイタリア民衆作家 の作品が公演されており、ハントケとベ らも一つの代案演劇的な機能を果たしたと

ている。しかし危機は、いま一つの機会を

ケットの作品を通じて実験的な作品の不足

氏族劇運動は、

主に大学の

演劇サークル中心の活動

から

ンルの発展を吸収しながら自らの生命力を

意味する。長い歴史喜つ演は、関連ジャ

出発して・

﹁民族の当面の課題を解決するため隠蔽・

さらに強健に育んでいけるからだ。こうし

劇芸術﹂とし、また演劇の目的については

た対応は、いわゆる世界化にも結びついて

みるとき、二O世紀後半の冷戦状況のもと

歪曲された民衆的な事実を明らかにし、こ

言える。それは、また世界的なレベルから

れを民衆的な展望と世界観の中で形象化す

いるだけでなく文化的なアイデンティティ

による渇きをいやそうとする試みも行なわ

いう特徴をも持っている。すなわち、わが

で第三世界の民衆劇と呼吸をともにすると

と発展というテlマとも緊密に関わり合っ

れた。解禁にな ったブレヒトに対する関心 も注意を引く。またブロードウェ l流の

る演劇行為の一切﹂と述べている。換言す

ている。近くは単細胞的にむさ継がれてき

ると、伝統文化との塗入的なつながりを模

た北韓の演劇を取り込み、世界的には文化

国の民衆劇も、一般化して言えば西欧帝国

索していた初期とは違い、政治的理念を優

的なアインデンティティによって人類文化

主義列強による被支配と西欧列強の間接的 な影響力による経済の従属、軍事独撃又配

先しているのである。社会主義的な内容を

の発展に貢献できる方策を謹寒することこ

つながっていく。

といった共有の経験が下敷きとなってい

そ一二世紀を迎える韓国演劇の最大課題と

ミュ lジカルものが引き続き製作されて観 客を集めたが、これは創作ミュージカルに 一九八0年代の演劇の大衆化と観客の拡 大では、いわゆる女性演劇の役割も鑑視で

る。こうした経験のある国々で生まれた反

リン主義の政治権力によって棋占的に庇護

民族的な形式に盛った、いわば﹁主体﹂芸術 を目掃すものとも言われているが、スター

チ ュチェ

山 ( きない 。主として劇団 ﹃ サンウルリム ﹄

に、韓国の﹁民族劇 も欧米的な文化にひし

帝国主義的な民衆劇一般がそうであるよう

彦が指導的な役割を果たしてきたが、フェ ミニズムを標傍した演劇は樫気強く引寧さ

いわざるを得ない。 がれた自国文化の伝統を民衆側に取り戻し

L

されている北韓の革命劇と、数多くの演劇

はや

公演されている。育少年劇もやはり濯す

55


2nU 旦

↑ 7

20

感 ~

金敬愛 舞踊評蛤家

コー φ互面的 X巴︿丘

- A I 6復五O年の舞踊の成果を知ろう

I

は使 っていないと されていることから推し

ズであった。石井漠自身は﹁新舞踊﹂の呼称

というキャッチフレー この公演は﹁新舞踊 L

演された現代舞踊である。京城日報主催の

などを披露した。これはわが国で初めて公

祖と言われる石井漢がソウルに来て﹃囚人﹄

一方、一九 二六年、日本の現代舞踊家の

みれば天才とも言える人物であった。

レンジしているのだから、当時の状況から

払い)や僧舞、太平舞などの振り付けをア

伝統舞踊の代名詞ともいえるサルプリ(厄

俊が登場する。韓成俊は今を風廃している

現代舞踊である

初めて公演された わが国で ・

を披露した。これは

ソウルに来て﹁囚人﹂など

一九二六年、石井漢が

一九二0年代に太鼓を引っ下げたダンジエ ジュクン(とんぼ返りなどの軽業師)、韓成

ルの演戯であった。そうこうするうちに、

踊であり、今日の大衆芸術とは違ったレベ

遊戯物の一部か、宮中儀式における宮中舞

ム(仮面踊り)男寺党などの流浪的な賎民の

ナムサダン

物も同然であった。そのほかは、タルチユ

周知の通り券番(妓生︿芸者﹀の組合)の所有

キー セン

を知る必要がある。朝鮮王朝末の舞踊は、

同 ! とすれば、まず日本による植民 、 ﹁ ノ 支配時代の舞踊についての概要

••••••••••••••••••••••••••••••••••••••

56


めスタ ーになるや、わが国の舞踊家の卵が 我も我もと東京の石井漢を訪れ、指導を仰 ぐようになる。石井漢は、このようにして

その一年後、越淳元も石井漢の門下生とな る。雀承喜が一年後の帰国公演で成功を収

て石井漢の一行といっしょに日本に渡り、

女子中学生)は、兄の崖承一の助言に従っ

喜は、先の韓成俊に朝鮮舞踊の手ほどきを

り入れてから旋風的な人気を集め、朝鮮で も日本でも最高のスタ lに浮上する。雀承

という石井の助 は朝鮮舞踊を舞いなさい ﹂ 言に従って朝鮮の民俗舞踊を現代舞踊に取

漢と結婚した被女は、再びソウル入りした 石井漠といっしょに日本に渡り、 ﹁ あなた

レタリア芸術同盟)文学の評論家である安

朝鮮プロ 言えなかった。KAPF( 功とは一

か、数年後の韓国戦争中に越北するか、ま

随していた舞踊家たちは彼女といっしょ

は三八度線を越えて﹁越北﹂する。被女に追

一九四五年、解放とともにスタ l峯承喜

に発揮しているが、芸術性という面では越

型を作りだす。石井漢の記録によると、崖

舞踊詩というジャンルを開拓し朝鮮舞踊を

タ!として舞台を掌握する 一方、越津元は

て、この用語は当時わが韓国文化界で流

てインテリを舞踊の世界に導く決定的な役 朝鮮の近代舞踊のスタートに大きな足跡を 残した人物である。そのため、わが国の新

は 一週間ほど習い、越淳元もまた彼の下で

受けた。韓成俊の回顧録によると、峯承喜

のスタイルとは完全に違った文学性の濃い

どちらにしても、石井漢の公演は伝統舞踊 舞踊で、朝鮮のインテリを魅了した。そし

とによるものである。

たは控致されて北へ行った。解放問もない

津元のほうが優れているとしている。

承喜は舞台における女性のメリットを充分

現代舞踊に琴呆・発展させた新舞踊の類

割をする。後に小説家の金東仁や、韓富野、 詩人の聾之鏡らが舞踊の批評を書いたが、 舞踊史は、彼の来韓公演目の一九二六年三 月二一日から記録されることになる。

行っていた、新劇、新小説などの用語を基 に新聞社が初めて使ったものと思われる。

石井漢の水準の高い舞踊に感銘を受けたこ

指導や-受けている。雀承喜は不朽の舞踊ス

在承喜は

不朽の

舞踊スタとして

舞台を

掌握する一方、

超淳元は舞踊詩という

ジャンルを開拓し

朝鮮舞踊を

乳代舞踊に

接吉木・発展させた

新舞踊の類型を

作りだす

57

峯承喜の初の朝鮮公演は興行の面では成

石井漢の公演を観覧した峯承喜 ( 当時、

雀最善


わが国の舞踊は、このように他の分野に劣 らず民族の悲劇といえる分断と冷戦のため

式・閉会式及び文住付事での舞踊、⑬一九

YTで

九二年、文化部の寸舞踊の年 指 L 定な

らず、修士学位謀程も設けて学問として舞

団を輩出する。学士舞踊家の輩出にとどま

であり、わが国の現代舞踊をリードする集

鮮な舞踊用語と理論によって舞踊の位置を

イサドラ・ダンカンの紹介など驚くほど新 高めた人物であった。張秋華も、また現代

洪積稽である。現在は四O余りの大学に舞

ある。

踊坐蒋が設けられており、毎年一、 Q民)

事T互依る。 一九四六年に結成された朝鮮舞踊芸術協

団による避難生活中に公演が行なわれた。

踊の定着にもパイオニアの役割を果たし

会は、わが国では初めての舞踊人協会であ

そのグループは当時ソウル大坐薬坐科の学

た。最初の舞踊修士はバレリーナであった

では、解放からこれまでに何が起こった る。彼らは六月に、ソウル.の国都劇場で舞

余名の卒業生を輩出している。博士学位を

韓国戦争の最中に舞踊団が製訴され、集

のだろうか。舞踊界に起こった重要な歴史 踊{ゑたちを網羅して各各自らの代表作を持

舞踊家の宋菰らを育てあげた。

E 成(委 一九四六年六月、朝鮮舞踊芸術擾 結

生であった趨東葦をはじめ宋沼、金振傑、

算で運営された団体である。ところで問題

る。この国立舞踊団は韓国で初めて国家予

現代舞踊史において最も重要な人物の一

方を並行する矛盾のため結局は舞踊の発展 を妨げているとも指摘されている。

L

的な出来事を挙げると次の通りである。① ち寄って合同公演を行なった。この壕耳は

取得した者も、三O数名に上っている。一

この公演限りでなくなってしまうが、その

朱病、金女淑、金昇由主δ 数名、からなり、 韓国舞踊団という名の舞踊団を発足させ

員長H越津元)、②一九四六年、韓東人の ソウル・バレ l団 劃v 一公演、③一九五一年、

踊のみを指導する研究所の凋事乞招く。こ

意義は充分あった。韓東人は、バレーとい

方、大学における舞踊教育は、もっぱら舞

うジャンルを初めて団体化し、舞台にあげ

る。一九六二年、越津元の主導のもとに創

団避難、大郎などで公演(趨東華主導)、④

韓国動乱の際、﹁韓国舞踊団﹂を結成して集

立された国立舞踊団のメンバーは大半がこ

のため、研究所と大学の聞の葛藤も発生す

たとい、ZRで重要な役割をしている。彼の

解放空間において最も重要な役割をした

なのは、国立舞踊団の作品の世界が趨津元

とい、っ毛で現代舞踊を公演する。これは、

りである陸完順は、一九六一二年﹁オケシス

る。大学の舞踊教育は舞踊の社会的地位を

る。彼らはそろって韓国戦争中に越北した。

人物は威貴奉と文哲民、そして張秋華であ

の新舞踊に支配されているということであ

の韓国舞踊団のメンバーからなっていれ/百

成貴奉舞踊研究所は、いわゆる現代舞踊を

る。これに対しては当然厳しい批判の声が

学連合による公演団の名をそのまま取り入

率いたソウル・パレ 1団は、二度にわたる

ス現代舞踊団公演(陸完順主導)、⑦一九七

紹介した産室であり当代の人文萱主たち

れたもので、大学の舞踊活動の旗揚げだっ

に広げてはいるが、芸術と学問委息の両

三年、洪信子の前衛舞踊発表会、③一九七

を舞踊に道て重要な役割を果たしている。

梨花女子大は韓国の舞踊史において大き

上がっている。

たのである。ところが、公演の内容は、国

高め、その三O年の問、舞踊の世界を大幅

六年、月刊舞踊専門誌﹃チュム﹄創刊(発行

越東筆、金京鑑、雀彰鳳、享凡錫、金女淑

な意味をもっ。一九六二年にスタートした

国立舞踊団はバレ!と韓国舞踊をともに受

人趨東華)、①一九七五年、創舞会及びソ ウル市立舞踊団の創作舞踊運動(文一枝・

らがここの出身であった。威責奉は信哀を、

同女子大の舞踊科は大学の舞踊整宵の鳴矢

けいれたが、後に分離して二つの団体とな

金梅子主導)、⑮一九七九年、大韓民国舞

舞踊評酋ゑの文哲民は現代舞踊理弘-伊乞唱え

公演のあと彼の越北とともに解散する。

知られる唯一の韓国舞踊家となる

世界の舞台にその名を

ニューヨーク・タイムズなどの好評を得、 洪 信 子 は

ラママ劇場を中心に公演を行い、

アメリカのニューヨークの

一九六二年、越津元が宋沼、林聖男らを集

めて国立舞踊団(パレ l団を含む)創立、⑤ 一九六二年、梨花女子大に舞踊安説設(初

踊祭割設(文芸振興院)、⑪一九八O年、コ

た。舞踊美学に街学的なアプローチとか、

アメリカの現代舞踊の草分け期にあった大

ンテンポラリl舞踊団の小劇場舞踊運動、 ⑫一九八八年ソウル ・オリ ンピ ックの開会

の大学舞踊教育)、⑥一九六三年、オケシ

洪信子

58


タイルの現代舞踊であったため、圏内舞踊

舞踊から大きく勝、円離れたアメリカン・ス

内で当時主に演じられた、また舞踊詩の新 めた難解な被女の現代舞踊はアイロニカル

させた。この後、神話的な盆剛を創造せし

欧的なものとされていた観念に修正を求め

にも舞踊の大衆化にむしろ重要な役事乞果

現 在 は 四 O余 り の

毎年一、 0 0 0余 名 の

界では衝撃的に受けとめられた。この後、 アメリカのニューヨークのラママ劇場乞

大学に舞踊科が設けられており、

中心に公演を行い、ニューヨーク・タイム

たすことになる。

踊は、陸完順の組織的、社会的現代舞踊運

一九七三年に洪信子が登場して披露した舞 動とは、また異なる面貌を示して舞踊文化

三O 数 名 に 上 っ て い る

卒業生を輩出している。 博士学位を取得した者も、

その名を知られる唯一の韓国舞踊家とな

スなどの好評を得、洪信子は世界の舞台に

ソウル明洞の国立劇場で公演された洪信 なく韓国公演を行なったが、その都度公演

る。ニューヨーク生活二O年の聞いく度と

社会全般に衝撃を与えた。 子の前衛舞踊発表会というタイトルの舞台 界に衝撃を投げ、賛辞と批判の払理捗乞呼ぴ

59

は、韓国の伝統的な舞踊のエッセンスを現 代舞踊に取りいれ、それまで現代舞踊が西

金梅子


は多くの人が伝統舞踊に戻ったなかで、こ れとい った方法論も確立できず、さらなる

形式の舞踊の開発をリードするようにな

も影響を及ぼして舞踊の大衆化及び新しい

て発展する。お互いを比較する競争の場と

伝統的に舞踊は、フェスティバルを通し

軸にした舞踊家が韓国現代舞踊協会を結成

たちである。このほか、梨花女子大出身を

陸完順の現代舞踊運動の下で成長した人物

その系図は少しずつ違ってていも大筋では

淑、雀清子、盲目恩美らの現代舞踊家たちは、

舞踊の発展に貢献したイベントとして

ど多角的な活動を行な っている。

振り付け師の 輩出や外国の舞踊家の招請な

踊り場) ﹂ は 、 すまで、この﹁創舞チュムト (

オープンする。 一九八九年にその門を閉ざ

る。こ うして一九八四年には韓国初の舞踊 専用劇場である﹁創舞チェムト(踊り場)﹂が

である。

舞踊-霊嗣家、趨東牽によって創刊されたこ

刊は舞踊文化の定着に大きな貢啓乞した。 して、また当時としては大規模な支援金が 舞踊製作の動機を誘発させる 。これに先

している。また、韓国パレ l協会、韓国舞

の陸完順の作業は韓国創作舞踊やバレーに

は、政府によって支援金と劇場が初めて提 発展の気配を一不せずにいる。

たしたと評価されている。大韓民国舞踊祭

京畿道の竹山村に舞踊センタ ーを設け、自 供された行事であり、韓国創作舞踊及び現

起こした。洪信子は現在は永住帰国して、 然に取り固まれて異色的な舞踊作業に没頭 代舞踊の{蚕看に寄与した、もう一つの祝祭

の雑誌は当時としては世界的に煮4植 の

踊研究会、韓国現代舞踊協会、韓国現代舞 踊振興会など八つの舞踊団体が結成されて

李丁姫、南貞錆、朴明淑、金一帽喜、金和

している。

高い月刊舞踊専門誌であった。現在、月刊 ソウル市立舞踊団とともに新舞踊の枠組を

だって一九七五年には創霧会が創団され、

一九七五年の月刊﹃チュム(舞踊)﹄誌の創

日本も一九九三年から月刊誌が刊行されて

舞踊誌は全世界を通じて五誌未満であり、

は 、 一九八四年のユニバーサル・ パレl団 の創固と一九八六年のアジア競技大会、 一

抜けだし韓国創作舞踊という名で新しい流

踊運動に対する支援などを中心に本格的な

家の発掘と育成、海外情報の紹芥、現代舞

この専門誌は舞踊活動に対する記録、評論

増幅する。金賢慈、蓑貞慧、鞠守錆らがそ の代表的な創作舞踊家である。この創作舞

作舞踊運動は大韓民国舞踊祭を経て大きく

よるパイオニア的な作業であった。この創

れを誘導する。それは、金梅子と文 一枝に

は七 ハ円X示件を記録、さらに一九九四年に

かった舞踊の公演が 一九八0年代の後半に

O件にも満たな 九七0年代末には、年間 一

世界を拡大する運動を繰り広げている。 一

いて、舞踊フェスティバルを開催して舞踊

ど画期的な影響力を及ぼした。アジア競技

﹃ 沈 諸 国 Uなどの古典名作を舞踊作品にするな

術であるパレ lの現地訓練方法の導入や

舞踊の地位を高めるのに寄与した。西洋芸

最初の民間職業パレ l団で、豊富な予算で

ことができる。ユニバーサル・パレ l団は

九八八年のソウル・オリンピ ックを挙ける

いる。欠刊なしに二三二巻目が出ているが、

アジア競技大会と

ソウル・オリンピックでは

開会式と閉会式に舞踊家たちが重要な役割を来たして、 舞踊という芸術の社会的な 必要性を大きく

舞踊文化とその背景になる評価隼雪軌道

は 一、ハ ロ 挙 件に上っている。この公演

認識させる契機になった

に乗せた功績をかわれている。イ1 ・スン

回数の伸びぶりを見ても、舞踊がいかに短

大会とソウル ・オリンピックでは開会式と

ころが大きい。一九八0年代半ばにになっ

閉会式に舞壇家たちが重要な役割を果たし

踊運動は陸完順の現代舞踊運動に力得ると

一九八0年代にスタートしたコンテンポ

時間に量的発展を遂げているかが分かる。

ヨル、キム ・ヨンテ、イ l ・ジョンホ、キ

て、この運動は新舞踊への問、少乞削ぎなが

て、舞踊という芸術の社会的な必要性を大 きく認識させる契機にな った。このような

ら若干の舞踊家に伝統舞踊への認識を新た

ラリ l舞踊団の小劇場舞踊運動は、わが国

舞踊への認識の高まれる﹄背景に、 一九九 二

ム ・テウォン、キム・チェヒョン、チェ・ ヒワンらの評論{季乞輩出し、彼らが中、心心に

の舞踊様式の多角化に大きな貢啓乞してい

畑 県 { 変 京 否 # なつて韓国舞踊評払論

しかし一O年経っ た 一九九0年代の半ば

る。大劇場中心の舞台を脱却し、小劇場で

にさせた。

れた大韓民国舞踊祭は、馬車の両輪のよう

に差しかかっている今、韓国創作舞踊運動

﹃チユム(舞踊)ど﹄誌と一九七九年に剖割別設さ にわが国の舞踊界の発展に大きな役割を果

60


年が﹃舞踊の年﹄に費疋されることになる。 養もあり、韓国の舞踊社会が大きいため経

光復(解放)五O周年の記念舞台の代表的 な公演は、鞠守錆のディディム舞踊団の﹃明

要記念舞台である。このほか数多くの舞踊

さぎ﹄、ソウル市招請による崖清子の舞台

の群舞が印象的だった。ソウル市立舞踊団

済的な条件も悪い方ではない。従って、舞

成王后﹄(六月八 日i 一 O 日国立劇場)で あった。高宗の王担であった関妃暗殺の 一

が群舞を舞った。振り付け師、鞠守鏑特有

踊関係の団体が数えきれないほど多くな 踊の技備も国際舞台において競争できるほ

国の国際的位置が高まるくらいには舞踊の

り、その性格も多様になった。この先、期 どに発展している。ただ、政府の関心がこ

イトルをつけて公演を催すことになってい

団が ﹁ 光復五O周年記念舞台﹂というサブタ

つつある 。前述の通り、わが国の舞踊家た ちが大学出身でニ疋の水準以上の舞踊の教

待されるのは国際舞台において競争力をつ

鏑の三人がそれぞれ関妃、大院君、高宗に

QU周年を記念して金賢慈、鄭在晩、鞠守

る 。

X巴︿且

などがこの先公演される光復五O周年の主

の菱貞慧の振り付けによる﹃ソウルのかさ

けることである。パニュlレ・コンクール れについて来られず、もっぱら後進国的な

地位も向上するであろう。

などの国際コンクールにおける受賞など海

粉して出演し、ディディム舞踊団員八O人

O周チ乞迎える今年、舞踊家・舞 光復五

外に目を向ける舞踊家たちが増えつつあ

伝統舞踊の海外派遣にのみ肩入れしている のが問題である。二内内 δ 年代には、わが

り、また外国の有名な団体との究流も増え

o コーz 面的

61


配流の地で築き上げた 塑輝かしい詩歌文学 部



た地理的な条件により早くからこの地方に

としても有名である。ソウルから遠く離れ びた流刑であったにしろ遠地、または郷里

る﹁帰郷﹂であったにしろ、型詞の性格を帯

スル(官事を捨てて郷里や田舎に都落ちす ることを指す言葉でもあった。それが単な

らせて護陽に流れていく。この地は、朝鮮

M 合は、広い昌平平原を湿 尾を垂れる元暁 興

と﹃ 五友歌﹄を残している。 湖南地方の鎮山とされる無等山から長く

で国文学の傑作としてそれぞれ﹃思美人血﹄

修養していく隠遁のソンピ(学者)たちの風

風流の産室でもある。 自然を友とし学問と文芸を磨いて自らを

の総体的な文也市動の本拠地としての渓山

作した所というより朝鮮時代の知識人たち

﹁亭文化圏﹂そして﹁詩歌文学﹂の産室であっ

と園林が美しい自然とともに構えている。

は幅広い配流文化が形づくられた。配流は、 に帰るということにはあまり大きな違いが

王朝一六世紀の士林文化が燦畑と花咲いた

流マダン(舞台)であったこの地は、栄山江

江、鄭激と孤山、弔ア善道は、配流生活の中

政治家たちにとってはつきまといがちな災 ない。帰郷文化というのはいわゆる、配流

所として有名である。この地は早くから前

の上流地域の広い平原に連らなる肥えた土

と文人を生んだ。配流生活というのは、ピョ

難である。党争が激しかった朝鮮王朝時代 の体験とそれを素材にした全ての作品、ま

代の寺剃文化を押さえて新しい士林文化を

地で、亭を建てるには恰好の天恵の自然条

伝統文化と民俗芸術の宝庫として、その

においては特に、それがひどかった。その たは流罪ではない郷里の生活を素材にして

興 し た 。 護 国 1自警阜、環碧堂、酔歌亭、

たこの地は、ただ吟風弄月しての詩歌を創

ため、わが国には配流を素材にした作品が その体験を作ロ開化したものをいう。儒掌者

鳴玉軒、松江亭、勉仰亭など数多くの完了

名を知られる全羅南道はその昔、配流の地

かなり現れているだけでなく、配流生活が であり政治家、歌人として知られている松

あすまや

すなわち創作生活と言‘えるほど多くの管問

え暁渓谷は、 朝鮮王朝一六世紀の 士林え化が燦湖と花咲いた所として有名である

と息影亭( 左)

コ 10孟﹂樹高﹂司&

「松江、鄭徹の歌辞の場J という題の記念塔( 上)

64


65


件を備えている。山美しく、水清い巽合の

ともに生活したわが民族にとっては亭はき

もに変わる山と川の風慣乞楽しみ、自然と

はっきりしており、季節の移泉氏わりとと

た。自然の景観がすばらしく四季の変化が

にふさわしく、ゆとりのある経済力もまた

風致は、学聞を陶冶し、風流を楽しむ場附 それを手伝って渓山風流と亭文化を可能な

ようという生葬皐が深く染み込んでから

わめて自然な存在であった。まして朝鮮王

は、亭は自然と世俗を媒介する一次元高い

朝時代の儒学の影響で自然の摂理に順応し

湖南の士林階層がこの地を中心に渓山風 形而上学的な空間となり、山美しく水清い

らしめたのであろうとたやすく推測するこ

流を興した背景には、二ハ世紀の朝鮮社会 景寧乞背景に自然とともに暮らしていこう

とができる。

る。当時、史示王代に超光祖を中心に改革

を渦巻かせた政治的混乱が 一役買ってい

を受ける己卯士禍が発生したのである。朝 道揮陽郡南面芝谷里の光州ダムの上流に位

生んだ一番目の亭が満曜園である。全羅南

湖南地方の人々が輝やかしい渓山風流を

とする精神的な機能がより強調された理想

鮮儒学の歴史において己卯士禍は、一時代 置するこの地は、南方には鉦等山が眺めら

的な建築物となった 。

を画する大事件であった 。士林派の旗頭

政治を唱えた人たちと守旧派との聞の権刀

だった、塑冗祖が和順に流され、追って僅 のように張り巡らされている。

れ、後方にはチャンウォン峰の尾根が扉風

闘争が起こり、結局、士林派が大きな打撃

で命を断たせる死刑の一種)が下される悲

かひと月後には賜薬の刑(毒薬を自ら飲ん

禍で師が流刑になるや自らも官職を捨てて

i 一五五七)は、趨光祖の弟子で、己卯士

一繍漉園を初めて建てた梁山甫 (一五O 三

いた人たちは官職を捨てて都落ちするか、

劇的な事件が起きるに及んで、彼に従って または流罪になるかした。その中で士林派

都落ちした 。彼は郷里のチャソク村に繍漉

土地がある景色のいい所に建てて田園生活

園を建て師がこの世を去るや、園林に閉じ

と文化生活をともに楽しんだ空間を別壁と

のかなりの者は、経等山の明枠内合に亭や埜亭

渓山風流は、このよつな政治的混乱の中

いうが、梁山甫二永の別聖である繍誕園は

を建ててそこに集まり、学問を論じたり詩

で自生した、湖南の士林のそれなりの対応

当代の名文、名流が言葉を尺ミしてこれを

龍って五五歳で生涯を閉じるまで日影者の

であったのである。彼らは政治的な迫害を

ような日々を送った。住居とは別に自分の

逃れて山中に龍ったのであり、自然と人間

の美しさを言い尽Pみ﹂なかったと言われる

賞め称える賛詩を呈したが、そのどれもそ

作をやりとりしながら不遇の時代をいたわ

に対する深い洞察を通じて 一六世紀の士林

り、慰め合ったのである。

文化の新しい境地を聞いた。当時、この地

﹃漏瀧園史eFによると勉仰亭の宋純をは

ほどその景観が秀でた、朝鮮王朝園林の白

じめとして松江、鄭激、棲霞堂の金成遠ら、

層三言える。

あるが、その代表的な歌壇は勉仰亭歌壇と

湖南の人を代表する巨匠たちと嶺南の李退

を中心に、いわゆる朝鮮王朝時代の湖南歌

星山歌壇である。現在の光州湖周辺を拠点

渓をはじめ各地方の鋒鋒たる隠遁学者たち

壇と呼ばれる詩歌文学の花を咲かせたので

に形成された星山歌壇は、その昔から風光

がこの繍曜園の霧月堂を舞台にして・ 交流し

明蝿な地として名高い所である。 わが国には早くから亭文化が発達してい

清道園

66


抜群の眺めを誇っている 。ピ ョルメ(星の

ており、この亭は、オンドル部屋と板の聞

に 一問、側面に 二問の平屋作りの八作家 、息影亭が建っ (庇を四隅にめぐらした家 v

パルチキクチプ

山)とも呼ばれる星山の裾野の端に、正面

四 OO坪ほどの渓谷を挟んだ低い丘陵に 建っている。渓谷の自然な流れに人工の手 がそれぞれ半分を占めている。松江、鄭激

た跡が残っている。湖南人の精神的な象徴 であり学問の殿堂であった満濃園は、一、

を加えて池を広げ、水の流れの方向を木の 艦で変えて水車を回し、石の大瓶を作って

のために彼の靖に当たる棲霞堂の金成遠が

が詠んだ﹃星山別胸﹄ の産寧として広く知ら れている、この息影亭は、彼の師、林億齢

魚をおびき寄せている河春、夏、秋、久¥ 四季さまざまに色とりどりの花が咲き乱

才が集まっていたのであるが、林億齢はこ

朝鮮王朝、明宗一五年(一五六O年)に建て たものである。患影亭には当時、湖南の人

れ、季節の色合いを作り出している珂妙さ は到底一言葉に尽ミせるものではない。あわ を配置し、外部との空間は瓦をふいた土塀 を﹁形に囲み、こじんまりしてのどかな雰 た人才を教えた。

せて、繍灘園は山の傾斜を階段式にして亭

囲気を醸し出させている。建物は、現在、

つけて建てた芙容塘が見える。最近建てら

左手の奥まった所に池のほとりにぴったり

堂の跡でもある。ここが、すなわち紫薮灘

れたこの亭は、金成遠の住居があった棲霞

息影亭の石段を降りながら前方を見ると

こで高繋叩、白光勲、鄭激ら当時の傑出し

れている。無等山の北側の山の麓と向かい

光風閣、霊碑月 早 、待鳳牽のみが残っている A一 が 、 当初は 一 O数棟の亭があったと伝えら

ダムの広い湖を目指して流れている。水の

合っている、ここ芝谷里には光州川が光州

る 。 光州湖の上流、葦渓川のほとりの崖の上

を中心にした湖南歌壇の発祥の地なのであ

に建てられた環碧堂は、松江、鄭激が 一四

澄みきった葦涙川は、その昔は紫破灘と呼 艶のある姿は、高貴な気風がそのまま渉み

ばれていたのであるが、紫微のなめらかで 出るソンピ(学者)の花であった。一度花を

まで勉強した所として有名である。環碧堂

する 歳の少年時代から二七歳で科挙にム落、

捨てて郷里に帰り、後学の養成のために建

らないということからモクの音を接頭辞に して﹁モク百日紅 と L 呼ばれた。これは、思 うに ﹁ 百日紅 渓 L 流の両岸に並んだ百日紅が

の金成遠と川を挟んで向かいあって暮らし

てた。ところが、平素仲のよかった棲霞堂

咲かせると、その美しさが一のむ日閉変わ

こときれいに見えたためにつけられた金剛 きれいに鋪装されてしまい、その昔の情感

ぐ吊り橋を架けたというが、現在はコンク リート の橋に変わり、昔のソンピ(学者)が

ているのも速いと感じたのか紫薮灘をつな

は従兄の金允悌が乙巳士禍と同時に官職を

であろう。しかし現在は、アスファルトで あふれる趣きは感じとることができずなん 亭、環碧堂、酔歌亭が蒼渓川の流れに沿っ て両岸の崖の上に立って向かい合ってい る 。

た金允悌と松江、鄭激が奇縁から出会った

っと﹃星山別曲﹄に出てくる釣台が見える が、ここは松江への力添えを惜しまなかっ

と並んでいる。環碧堂の入口を背にして立

(辛く味つけした魚のス 1プ)の庖がずらり

コ・0ζ

面的 v E︿色

67

とも惜しい。この辺 一帯には繍躍園、息影

光州湖が見下ろせる 上流の山の麓に構え ている皇霊 は T 、紫穣灘の早瀬のほとりに

環碧堂

盛大に詩会を開いた場所にはメウンタン

ある亭のうち崖っぷち同様の所に位置し、

初老3 pn


距離で忠孝村の光州湖のそばの山麓にあ

環碧堂から酔歌声までは、わずか五分の 松の木だけはそれができなかったからであ

は自由に動かすことができたが、とりわけ

の木の位置は絶対的であった。家屋の位置

も{すゐとい、っ意味を込めて独{立子乞建て、

君に仕えず、ということを自分一人だけで

開国に反対してこの地に下って隠遁し、二

全新民が杢成桂のクーデターによる朝鮮の

るが、高麗朝末の恭慰王代に官職にあった

見下ろしながら古色蒼然とした姿を呈して

軒、松江亭、勉仰亭が謹陽の肥沃な野原を

思想、文学と芸術の揺り寵でもあった鳴玉

た語陽が第 一である。竹の産地であり、わ が国竹工芸の本場であるこの地には学問と

払P尽 五 をなしている。

る。幽寂な情趣のあふれるこの辺一帯は松 る。酔歌亭は壬辰倭乱(文禄・慶長の役 の V

夜が明けると朝服(朝廷に参内する時に着

いる。いつ訪れても雅趣があり自然の情趣

鍵等山の麓の亭文化を築いた発祥地と章え

と様が覆い茂っていて、その情趣がまた 時に活躍した土地出身の義兵長、金伊掛の

る官服)に着替えて北の方角に当たる松都

が存分に感じとれるこの地は、由緒ある香

して老虐されたのは樹木であり、中でも松

格別である。酔歌亭のテッマル(部屋の外 霊を慰めるために彼の後孫が一八九 O年に

(現在の開城)に向けて曲拝(王に棒げる拝

所という伝説が伝わる所でもある。

側に小さくつけたした縁側)に座って見る 建てた亭である。

礼)をしたという。いま、そこは自然をそ

わしい亭す花が今なお息づき、風流の分か

実は、このような魅力あふれる松の枝々が

る人たちでなくとも、風の音、川のせせら

風雅で秀でた亭文化を守っている所とい えば、がぜん山水が美しく竹がうっ蒼とし

と、美しい松の枝が視野を遮るが酔歌亭は 光州湖からおよそ三キロほど北に行くと、

‘のまま造景に生かした独{立亭一帯の松林が

くぬさ

眺められる場所を選んで建てたのである。 謹陽郡南面ヨンチョン里に独守合守がある。

せる妙な魅力を持っている。

ぎ、雄大に広がる大自然が足を踏み止まら

紫議滋を発って光州から谷械方面に国道

口に出る。ここから、それほど遠くない所

を走り、交叉点を週ぎるとサンドク村の入

宜祖の寵愛を受けて宰相にまで

に任ぜられるのだが、仁祖が馬の手相乞つ

はここフソ村にやって来て呉希道に会い、 仁祖反正が成功した後、呉希道は翰林学士

ターを謀議したことがある。この時、仁祖

後の仁祖王がこの地を訪ねてきてクーデ

海君治下の世態を嘆き学問に蛙遣したが、

る。彼は忘斎という小さな書粛を建てて光

た呉希道(一五八三i 二ハ二三)から始ま

達する。鳴玉軒の歴史は翰林尚子主乞つとめ

には亭が花に埋もれてその美しさが絶頂に

と百日紅が植えられており、夏花が咲く頃

い蓮池が配置され、蓮池の周囲には松の木

たということだが、亭の前と裏庭には四角

鳴くということで鳴玉軒という釜削をつけ

流れる水の音があたかも玉を転がすように

な朝鮮王朝時代の民間庭園である。蓮池に

とめ、そこに人工の手を少し加えた血盆的

ほどすかっとした姿で自然をそのまま受け

た所に位置しており、濡曜固と比肩できる

る。鳴玉軒は山の頂の向こうに視野の聞け

に朝鮮王朝時代の園林の跡の鳴玉軒があ

金字塔を築いた偉大な歌人だった松江、 鄭激が建てた松江亭は、 誇陽郡のウォンガ村にある

ι ω コ 主出同一孟︿肉体

のぼった政治家であり、一六世紀の近世朝鮮え学の

繍摺園や息子ど苧などの亭が密集し ている

わが国の伝統的な庭園造りで何よりも摩克

独守亭( 上) と松江亭( 左)

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の村の年輪を知実に語っている。

ないでおいたと伝えられる銀杏の古木はこ

{一日桓の寵愛を受けて宰相にまでのぼった

政治家であり、 一六世紀の近世朝鮮文学の

金字塔を築いた偉大な歌人だった松江、鄭

激が建てた松江亭は、語陽郡のウォンガ村

にある。光州から語陽の町に入る前に小さ

な川を渡るのであるが、昔はこの川を松江

と呼んでいた。かつて松林がうっ蒼と続く

曲がりくねっていた小道の姿はなく、味け

ない灰色の階段にその姿を変えて、のんび

りして余裕のあった昔の風情は消えてし

まっている。文学的な成果ほどに劇的な生

涯を過ごした松江。東西の両党に分かれて

いた当時、西の人であった彼は常に東の人

の攻撃の対象になっていた。﹁大臣であり

ながら酒色に溺れて国事を顧みない﹂と激

しく非難され、 一時は晋州や江差守の地に

流された。もともと豪放な性格に加え芸術

家の気質が強かった彼が酒色を愛したから

し、出併炉街道を走る途中で官職を捨て、若

とて不思議ではない。二七歳の若さで立身

き日の夢が込もった蒼平に都落ちした松

江、鄭激はチユノク江の川辺に埋もれたま

ま歳月を送ったのであるが、この時建てた

その昔から風光明据な所として広く知ら

亭がすなわち松江亭である。

れている無等山の裾野と謹陽平原は、朝鮮

王朝時代の学問の根を深く下ろさせてお

あずまや

り、詩歌文学を燦潤と花咲かせた由緒深い

亭の文学園である。亭が建てられた所は、

秀でた自然の趣きとともに数々の文学的な

意味と象徴性をもっている。配流は当時の

政治家にとって耐えられない苛酷な試錬で あった反面、彼らがその地で築きあげた文

学的な成果と文学的な業績は後世に末長く

輝く高貴な遺産と言わざるをえない。

69


金泰旭

ソウル十字・山一林資源掌科教授

- のところ街を歩いていると鍾寓 ? } 道路と鉄筋コンクリートの建物 ー の問に行儀よく肩を並らべ 、照

りつける太陽の光と蒸し暑い都会の熱気を

いに1 主え

遮ってくれるおもしろい形をした木の葉が

よく目につ く。昔の祖先が夏の暑さをし のぐために広げた扇子が、緑色に染まって

木の技にずらりとぶら下がっているのであ

る。この木の下で我々は涼しい扇子の風を

70


思い浮かべ、秋になると広げられる金色の 落葉のカーペットを思いながら蒸し蒸しす

いちょう

るこの夏の日も軽く乗り越えているのであ る 。

今は、銀杏の木が街路樹、公園樹など

にたくさん檀えられているため、この木を

ありふれた木と思いがちである。しかし世

がなす、まことに特別な木である。家族も

界的に銀杏の木は、その一種だけで属と科

親戚もいない孤児のように本当に寂しい存

在なのである。この木が、このように寂し

い存在になった理由は、あまりにも長い間

生き続け、力が尽きてしまったからである。

は、およそ三億年前と言われており、その

銀杏の木がこの地球上にその姿を見せたの

時に繁殖した動植物は土の中に埋まってし

まって、今日我々が使っている石炭や石油

になったのである。この時、銀杏の木の祖

先もその 一役を担っていたのであるが、そ

の当時いっしょに生きていた植物の大部分

は今日その姿を見ることができない。ただ

しており、このような理由で我々は普通こ

銀杏の木だけが今日までもその生命を維持

の木を﹁化石植物﹂とか﹁生きている化石﹂と

か呼んでいるのである。このように長い歳

月を 生きてきた故に当然の結果、気力も衰

え家族も親戚もない寂しい存在になってし

まったのである。その証拠に他の種類の樹

の種子が落ちて自然に育つ子弱い木がある

木は、よく観窓干'ると大きな木の下にはそ

のをよく目にする。しかし、銀杏の木の下 にはこのようなものを目にすることができ

ない。大きな銀杏の木の下に幼い銀杏の木

が育つ姿を見た者は誰もいない。

にも分かれていて今日の銀杏の木の葉とは

銀杏の木は地史的に中生代に最も全盛期 をなしたのであるが、その時は葉がいくつ

大きく違っており、その僚臼亜紀の後に今

71


く見ると小さな麦のような荷(花粉の入っ

や︿

似た薄緑で短いしっぽの形をしている。ょ

一方、中国ではこの木の葉の形が家鴨の

んでいる。 足のようだということで﹁鴨脚樹﹂、すなわ

生地は中国の楊子江の河口の南方の天目山 の近辺といわれており、このようにして生

日のような形になった。銀杏の木の化石は オーストラリア、アジア、ヨーロッパ、北 き残った銀杏の木は今日人間の手によって

あ ひる

米などの地域で発見されている。第三期の

ている袋)がある。 一方、めしべを持つ花 はおしべを持つ花に比べて花が咲いている

らもなく葉と同じ色の花の上に脹珠だけが

ちあひるの足の木と呼んでおり、実は孫の

イチョウは漢字で銀杏と書く。この釜則

銀杏の木には雄と雌がそれぞれあり、

全世界にあまねく広まっているのである。 は、種が杏の木の種に似ていて銀色に輝い

各々おしべを持つ花とめしべを持つ花を咲

時、氷河が北極から 押しょせ北米とヨー ロッパの植物を死なせたことがあったが、 ているというところから付けられたもので

﹁孫の木(公孫樹)﹂とも呼んでいる。

べを持つ花は、五月の初めに短い枝の先の

かせ、その花の形もそれぞれ異なる。おし

E︽乱

裸子植物と言い、こんな理由で銀杏の木は

ω 手 主面的¥

葉のついたところに咲くが、色が葉の色に

期間もたいへん短く、葉に取り込まれてし まって捜しだすのが多少困難である。花び

この時氷河は韓国と 日本、そして中国を覆 ある。西洋でも、この意味をそのまま生か

代になってはじめて手に入るということで

は比較的伝丸温が暖かかったものと糞疋され

うことができなかった。その時、この地域

一一つずつぶら下がっている。この二つの匹 珠のうちのひとつだけが育って種子にな る。この ように匪珠が露出している楠拐を

22)と呼ぴ、秋の (して銀色の杏ω Z R昌 紅葉で黄色く染まった姿を金髪になぞって

ており、銀杏の木が生き残ったのに対し ヨーロッパと 北米地域の銀杏の木は全滅し ﹃

Z m )﹂とも呼

﹁乙女の髪の木(玄白Egg -

安東河田村の農 家 ( 上) とヤンバン (両班)

てしまったのである。現在、銀杏の木の自

銀春の木は、 街路樹や公園樹などに 多く植えられているために、 ありふれた木と 忠わ れ や す いが・

家の塀越 しに見える銀杏の老木( 左)

72


73


蘇鉄や松、もみの木に近い。このように葉 いに 一つにならない持管乞針葉樹種として

の脈が常に二つに分かれて別別に並び、互 扱っている。しかし、ある学者は針・話集 樹の区分が植物の区分となる便宜のため、 葉の形で分けたものであるから銀杏の木は 撞莱樹とみなすべきだとする。 銀杏の木の雄と雌が互いに愛を告白しあ う過程を詳しく探ってみると、も、?少し事 で育つ他の植物と大いに異なり、花粉の

新たなことが発見できる。すなわち、陸地 しっぽを振って、自ら運動しながら卵子を 探し求めるのである。勿論、これは花粉が 飛んで匹珠に到着してから卵子に至るまで のきわめて短い距離である。このように運 動する花粉を精識というが、精虫酬は陸上で 棲息する植物の中ではほとんど探しだすこ とが難しく、水中に棲息する植物に一般に 探しだせる特徴である。このような理由か ら学者たちは、銀杏の木をより原始的な植 義を持っているとい、ユ亭実は、一八九五年

物と考えている。このように銀杏の木が精 に日本人 EE児教授が日本の墓尽帝大の植 物園にある大きな銀杏の木から初めて発見 したもので、その銀杏の木はまだ生きてい る。その後、 一八九六年には蘇鉄からもこ

i コ ozd 凶 XE ︿乱

い木も、かなり多く天然記念物に指定され

ているのも 一九件に上旬老巨樹に費疋・保

護されているものも八二ニ株に達してい る。そのうち最も有名なのは、やはり龍門

寺の銀杏の木である。銀杏の木としては、

いちばん先に天然記念物往還され、前述

の通り最高齢であるだけでなく最も背の高 い木としても知られているからである。 世界のどの国でも見られるように古木に

は精霊が宿っており、軽はずみに切っては

ならず、手をつければパチがあたるという

樹木崇拝の風俗がある。わが国においても

何株もの古木にまつわる伝説から、このよ うな風俗をたやすく探しだすことができ る。

銀杏の木も古く大きなものには自然、そ

れにまつわる伝説も多い 。龍門寺の銀杏の

木は、とりわけ多くの伝説をもっているが、

わが国では、まだ銀杏の木の 自生地が発見されておらず、中国から入ってき

長い歳月の流れの中で数知れずの事件を経

ながら幾度となく神秘的な逸話を生みだ

た も の と さ れ て い る 口 その伝来の時期はよく分からなが、 仏教及び儒教とともに入ってきた

し、神木として崇められている。昔ある人 町こぎり がこの木を切ろうとして鋸を当てるや、

廟の前の四のむ年生の銀杏の木はこれを裏

うし、ソウルの成均館大学の構内にある文

わが国の文廟にも銀杏の木を植えたであろ

中国を往来していた ソン ビ(品主唱) たちが 、

λ む 年ほどの歴史があると推定されてお

た杖を地にきしたのが育ったものとも言わ れている。どちらにしても、この木は約一、

もいい、新羅の高僧義塑人師がついて歩い

を胸にして金剛山に向か、?途中で植えたと

として知られている。この木は新羅の最後 の世子である麻衣太子が国の滅んだ悲しみ

宗が崩御した時には大きな枝が 一本、万で 切り落としたように折れ落ち、 一九四五年

祭っているという。また、この木は国に大 事がある度にお告げがあったというが、高

焼き払ってしまったが、この木だけは被害

本軍が義兵の根拠地ということで龍門寺を

ものと忠われている

その場で血を流し、それまで晴れていた空

が曇りはじめ稲妻が光ったためこの木を切 ることを諦めたという。

わが国では、まだ銀杏の木の自生地が発

づけるいい例と言うことができる。 銀杏の木が、いつわが国に入ってきたか

り、従って墾杏の木が韓国に入ってきたの はこれより先のことと推測される。わが国

の民族解放の直前には 二ヵ月間、韓国戦争 の時には五0 日間、そして 一九六O年の学

また多くの災難にあって寺剃は、いく度 も被害を被ったがこの木だけは被害を免れ たというのである。特に、一九世一紀の末日

見されておらず、中国から入 ってきたとさ れている 。その伝来の時期はよく分からな

を推測することのできるいい例として京畿

では、銀杏の木が済州道から成鏡道の城津

来していた僧侶が寺院の近くに根を下ろし ていた 銀杏の木から種を拾 って植えたのが 今日、寺剰の近くに残っている古い 銀杏の 木ではないかと考えられている。また 、中 国では孔子を杷 った文廟の前に 銀杏の木を 植えこれを杏壇と呼んだ 。 こういうわけで

しまい、この時からこの木を天王木として

を免れた。この時、四天王殿が焼け落ちて

いが、仏教および儒教とともに入ってきた

道の楊平にある龍門寺の銀杏の木を挙げる ことができる。この木は、天然記念物第三

にかけて全国でよく育っている。歴史の古

ものと思われている。すなわち、中国を往

メートルを越え東洋で最も大きな銀杏の木

方に指定・保護されており、高さが六0 一 O白

のよ、フな精義が発見されている。

秋を感じさせる安東河回村の風景

74


伝えられている。また、天狭山記傘第八四

ターの時にもこの木は奇妙な声をあげたと

生革命やその翌年の五・二ハ箪事クーデ

た姿で我々の関心を引いている。銀杏の葉

最近この銀杏の木が、これまでとは異っ

喜びと悲しみをともに分かち合、つ木でもあ る 。

ほど多い。それだけ、銀杏の木は韓民族の

してくれる木などその伝説は数えきれない

り、子を授ける木、権勢家から民衆を保護

日光と湿気のある土地を好み、寒さや公害、

合いもよく、加工しやすいことから、いろ いろ器具や彫刻材として利用されている。

る。銀杏の木は木材としても質がよく、色

きる原因の 一つではないかという思いもす

のような特異な性質が、この木が長生きで

日西洋医学に使用されているのである。こ

このような効能が科学的に裏づけられて今

も胃産態、咳止めなどに使われてきたが、

の銀杏の葉を本のペ lジの聞に挟んでおい

に輝く秋がやってくる。今年の秋は、一枚

る 。

たは根から出る幼い幹から得ることができ

なり難しい。苗木は種をまくか、生け花ま

の雄、雌の区別は花が咲きはじめる前はか

おしべを持つ木を好むが、現在は銀杏の木

秋に実が落ちるとひどい臭いがするため、

霊木として伝えられている。

銀杏の木なども異変をあらかじめ知らせる

号の錦山の銀杏の木、第三O 一二号の 和順の

このほか天然記念物第七六号の江原道寧 から抽出された薬の成分が、高血圧や心臓

海風にも強く、植え変えてもよく育つ 。街

仁V

て銀杏の孤独をともに分かちあってみた 、。

蒸し暑い夏が過ぎ去れば、すぐに黄金色

越の銀杏の木には霊験のある蛇が住んでい ているからである。昔から漢方では実が高

病などの成人病の治療に秀でた効果を見せ

路樹として、めしべを持つ木を植えた場合、

の木には耳のある蛇が、第一六七号の銀杏 血圧、糖尿病などに処方され、民間療法で

75

ると言われ、第 一六五号の健山町内の銀杏 の木には白蛇が住んでいると伝えられてお

千余年の長寿を誇る龍門寺の銀杏の木


キト妻木艮

庶民の暮らしを主題にしてきた

最も韓国的な美意識をもっ西洋画家 美備特命家 ・「芸術の殿堂」展示本部長

李亀烈

イーグヨル

EanE'蕎恨は近代の韓国において最も ずばぬけた、しかも独創的な絵

驚くべき、かつ芸術的な生き方をした人生 の勝利者であった。

れている。

ファンに変わらぬ感銘を与え、かつ尊敬さ

の分野の専門家や研究家及び一般の美術

ト教信早宮﹂しての愛の視点と、江原道生ま

ている直接的なモチ ーフであった。キリス

計のために励む姿は朴喜一時根の盤幽に一貫し

市場や街の片隅で見られる彼らの一途に生

のいわゆる庶民階層の貧しい暮らしぶり、

そして私は私の苦難の道で忍耐力を育く んだ。

私はこれを確かに生かそうと努力した。

い﹂という聖書の言葉を常に心に刻んで、

﹁耐、える者は救われる﹂寸隣人を愛しなさ

篤実なキリス ト教宿者であった朴蕎根は こんな言+亨乞残している、

朴書根は五一年の生涯を貧困と孤独の中

彼は幼い頃、ある雑誌で見たフランスの

、 つ/

で過ごした。その生涯は今日伝説的に語り

チーフにしてきた全ての作品は、造形的な

れの純朴な心性と人情とが、一貫してモ

lA

伝えられているように苦難と+事労の連続で

自分自身はもん﹂より隣近所、または世間

あった。あばら屋を舞台にした彼の生活環

と祈祷の内容が込もった絵画に大きな感銘

農民画家ミレ lのキリスト教的な愛と謹笑

を描いた芸術出家のひとりで、こ

境は、生事乞通じて貧困そのものであっセ

の金字塔となっている。この世の苦難を

して下さいと幼な心に神に祈った。

を受けた。そして 、ミレーのような画家に

一 九三 0年代に独学をして朝鮮美術展覧

会の西洋画部門に入選を重ねながら画家の

道を歩みはじめた朴書根の作品の素材に

なってきた﹁臼を硯く女﹂、寸働く女﹂、﹁石

直接的な周辺の現実であったこれらの素

、﹁糸を紡ぐ女﹂などがそのま 臼を硬く女﹂ ま朴霧根の母の姿であり妻の日常生活で あった。

民的な視点の表現主義の手法であった。

的形象に帰結されている。それは、また庶

れ浮き彫りにされて、描写的で客観的な再

材は、これを表現するプロセスで単純化さ 歎々と耐え忍び、感銘的な絵画の創造を成 し遂げた朴書根がこの世を去って一一 一 O年に

示と並んで朴書根の生き方と芸術をテlマ

おいて催され、朴蕎根の芸術の光輝く本質

五月 j六月にソウルの ﹁ ギャラリー現代﹂に

自由世界にやって来た。その時、家に置い

は三八度線の以北の 共産地域を脱出し南の

失してしまった。戦争を却議にして朴書根

その初期の作品は韓国戦争の時に全て焼

てきた作品は爆般草されて しま った。それは 、

された。戦争による以前の作品の焼失は胸

休戦後、彼の家はそのまま北韓地域に残

一年後に朴需根の後を追って劇的に 北を脱

にした特別講演会や韓国近岱美術史掌会王

出してきた家事乞通じて確かめられた。 意を意味するものであった。

を大きく再評価し再認識する関係社会の合

催による朴蕎根の芸術を見つめ直す学術セ ミナ ーも開かれた。これらは、全て朴蕎恨

と感銘を多くの人に刻み直させている。展

現を度外視した心情的な強調と純粋な絵画 なる。これを記念しての特別展一変去がこの

質感は ・

た灰褐色の物質的な

またはデコポコに処理し

ギザギザに、

晶画のパターンを

創造性の特徴と相侠って近代韓国の西首

イメージの絵を目指し、それを実現させた

はあくまでも個性的で内容のある韓国的な

自身との闘いともきえる作品活動において

そぼそと作品活苧乞続けた。しかし、自分

てていくのも困難な信講のもとで彼は、ほ

哀れな身の上であった。家族との生計を立

家としての道であったが、これまたひどく

らその由い意志と執念で開拓しつづけた商

あった。普通学校卒業後の人生は、ひたす

を出たというのがまともな教育の全てで

れの村の農家に生まれた朴蕎根は普通学校

な都市に過ぎなかった揚口、そのまたはず

江原道の山岳地帯の、当時は、まだ小さ

1959年当時の朴梅線さん

76


の痛むものであったが、朴蕎根はソウルに

作精神と態度においては、あくまでも最善

焼きを入れて農器具を作り上げるよ、つに画

をつくす誠実さと真実さを示した。彼は、

面の質感づくりとその中に染み込ませた

あたかも鍛治屋が執劫な忍附心で鉄を熱し

朴書根がもし個人的な感情の表現が許さ

い芸術の闘争を示し始めた。 れない北韓の共産体制から脱け出せなかっ テ1 マを浮き彫りにした輪廓の黒い線の確 かな造形的追求に忠実になろうと努力し

{蚕看して独創的な作品世界を切り開く新し

たとしたら、今日我々が最大限に評価し驚 た 。 その特管怪の純粋な密度と感動一は、朴書時

歎している彼の独創的な芸術世界の成就は いて自由を得ると同時に篤実なクリスチャ にしたのみならず、その表現を特異に単純 .

根の絵画が庶民の暮らしを一貫してテ lマ

ありえなかったであろう。彼は、韓国にお 暑かになった。性格と内面が違ってい ン芸術{ 化、または土俗的な画面の質感に調和させ

ても彼は幼い頃、神に求めたとおりミレー のように愛のあふれる絵画を残した商{季﹂ た形象構造の内面性からもたらされてい る 。

り上げた。道辺の油売りの女、市場にその

けてきた庶民の生き方をテ lマに幅広く取

国美術展覧会(国展)に出品し、本来持ち続

ソウルにおいては一九五三年から大韓民

さを示している。それは、何にも比べるこ

厳格なドローイングの力量と表現感情の深

面の質感づくりとその雰囲気は、朴書根の

黒い線の形態と黄褐色、または灰褐色の画

テーマの人物像を明確に浮きぼりにした

る 。

して永遠に慕われることになったからであ

日限りの商売をしにきた老女、または、路

絵画の中に見られる男女の人物像は、そ

す。朴書根が一九五0年代の半ばから彼の

郷土的で土俗的な郷愁の情感をかもしだ

地で遊ぶ子どもたち、空地に陣取る寂しく

のほとんどが伝統的な民族色の濃い白い上

る 。

りだした若者たち、一日の商売を終え夕方

衣と黒いチマ(韓服の女性用袴)、または黒

とのできない朴書根ならではの造形美であ

急ぎ足でバラックに戻る女たち、そのほか

貧しげな老人たち、仕事にあぶれて街に繰

木陰で占いをする老人など、庶民社会の情

画風の最も独創的な要素をベ lスにして綴 密に作り上げてきた、その花山田石質の着想

。ロ吉田ロ包括とい、2一=口業で格別、評価したこ とがあるが、これは﹁確かに東洋的で韓国

り刻まれる主題形象の鮮明な黒い輪廓線

また、その花山岡岩質の平面的な画面に彫

も、そのような郷土的な美意識と庶民的な 情緒に密着したものであった。

失ってしまった後で行なわれるようにな る 。

運に次いで肝硬変のため、その命までも

内障の手術に失敗して左の目を失明する悲

ファンの真の評価は、酒が原因であった白

である。

的特質の油画﹂という意味で使っているの

画面のパターンをギザギザに、またはデ

は、韓国全土の名山と深山のあちこちで出

今日、多くの美術評論家たちが挙って朴

いチョッキ姿に描かれている。その皮膚の

コボコに処理した灰褐色の物質的な質感は

合う、その昔の仏教の遺跡地、岩壁の磨崖

書根を近代韓国の西洋画の流れの中で最も

景がその主題であり素材であったのであ

韓国のどこでも見ることのできる花山田石の

仏像の線刻表現に味、つことのできるような

尊敬に値する画家として認め、国を愛する

人の生き方とともに、情緒的に親近成宮めふ

楽ノリを主題にしている。 キャンパスや油絵の具をぞんぶんに使う

家の確実な表現意識を-反証している。

しかし、彼に対する圏内の美術界と美術

れる農牛が登場したりする。 一九六二年か

風化した表面の質感を連想させ親近感介﹂歳

厳格で精袖的な美しさを思い起こさせる。

心がだれよりも透徹していた偉大な画家と

色も、そろって平面的な暗褐色のト lンで

ら一九六三年までは農夫たちの賑やかな農

月成芋歳 ω じさせる。花山田石は、韓国の山野

このように朴書根は韓国美の造形的探究者

る 。

こともできないほど窮していた彼は、売り

に見られる代表的な岩石であり、韓国人な

として自らの絵画を特異に形づくってい

考えているのは当然の帰結といえる。

単純に表現されている。その一つ 一つが画

やすさを老虐して小品を主に描いた。国展

らだれでも一度はそれに触れた体験から感

る。ある西洋人は朴書根の絵画をコ ogE

子供や老人が登場するその画面には韓国

への出品のため思いきり大作を描いたに過

じとれる質球γ乞知っており、従ってそれは

77

ぎない。しかし小品であれ大作であれ、製

ギャラリー「現代」で聞かれた故朴禽根30周忌大回顧展

I


高麗大掛受・美術語命家

李龍雨

レと

境界を越えて

j ~'I j

CURRENTS

ているとい、ユ事実を否定していない。それ

も新世代の文化行動論の適切な指標になっ

かわらず、その絶妙なテキストは少なくと

する言語の遊戯に煽動された。それにもか

別される。また、芸術の未来を新しいアカ

礼賛詩型台の固定された文脈とははっきり差

芸術の政治主題化や社会主華美学など現実

味が込められている。このような意図は、

う 一つの教示的な歩みを温むことになる。

啓蒙主義の夢を実現したモダニズムの宴

ことは拒めないのであり、情報隼糸の速や

問題は、芸術が自己指示性に陶酔するあま

造霊語の哲学の中で見落とされた重要な

メージの賞賛請に傾く場合、予想されるも

ム、ポスト・インフォーメーション、ポス

かな疎通力を周知させるのにも役立った。

り、現実の記録をなおざりにし、運命論に

デミズムの創設だと断言したり、単純にイ

ト・ヒューマン、ポスト・コミュニケー

しかし、モダニズムへの対決、または攻撃

メージ芸術の主要な論拠として活用される

ション、ポスト・ストラックチュアリズム、

の論理が弁証法的な勝利に誘導された結

が盲目的な犬家王義と媒体芸術の拡張、イ

ポスト・リアリズムなど、いわゆる﹁ポス

進歩的な要素であるアバンギャルドが現実

スト・マルキシズム、ポスト・コミユニズ

ト﹂シンドロームがそれだ。モダニズム以

果、モダニズムの克服や代案になるよりは、 ﹁ 化の交通渋滞を呼び起こし、多 ポスト 文 L

的で改革的な動機を持っている│ つまり、

が終わった後、芸術はまた別のJ小スト﹂の 宴がたけなわだ。ポスト・モダニズム、ポ

降の病状を診断するこのような言語は、総

くの所で衝突を引き起こしている。

文明社会の慢心を取り収め、芸術の本然の

いているのは 、芸術の独断を歎認していた

術形式と未来志向的な文也訂動に関心を置

光州ビエンナーレが現在よりは未来の芸

うことである。

理に立脚した運命論的な態度のためだとい

自ら招いた理由の一つはまさに偶然性の論

芸術の生命であるにもかかわらず袋小路を

己れを委ねたことであろう。モダニズムの

じて時代の不完全性や終末論的な思考、ま

七0年 代 の ポスト・モダニストが強調した 地殻変動は、来たして 台風のようにえ化の屠を

このような流行病的なポスト構造は常に文

ラダイムの大転換を試みている。しかし、

進歩主義の危機と独占を悲観しながら、パ

ダニズムが文明の宴ならば、ポストの宴は

際、違った文化の創造を自任している。モ

たは大衆文化的なテキストを動員し、ひと

韓国現代史の実体的な検証と治癒という動

に起因したとすれば、光州ビエンナーレは

して誕生した官公広報、または文化の郷愁

前、ヨーロッパ的な情緒と大旅行の結果と

例えば、ペニス・ビエンナーレが

λ む年

に比べて、文化行動の動機がかなり異なる。

光州ビエンナ ーレは西洋のビエンナ ーレ

何もできない文化パタ ーンをめぐって身元

無気力な折衷主義や多元主義など事実上、

もない抵抗に映ることもあろう。しかし、

ような意図が過度な意欲から出発した途方

ょうがないのである。もう一方では、この

のよ、つな独断なくしては過去の恥を始末し

行動が繰り返してきた非文化的価樋は、こ

少し大げさではあるが、自由を装った文化

揺さぶった

化や歴史のパラダイムの転換過程で苦戦を

の危機だけを繰り返すことはできない。一

度から出たものである。このような意図は

意味の角度からアプロ ーチしようとい、ユ態

免れず、修正主義的な見方にとどまるケー

の民衆抗争という韓国現代史の主要事件を 積極的に借用することをためらわないの は、まさに芸術の遊戯や概今桂、純粋主義

元の位置に戻った頃、芸術は取り戻した激

告げ、絵画や彫刻など保守的なジャンルが

九七0年代、ミニマルや概念美桁が終末を 美学など観 盆嗣的な哲学を後回しにし、よ A(

にも、ポスト ・モ の層を揺さぶった。不幸十

た地殻変動は、果たして台風のように文化

り幅広い芸術の視野を繰り広げるという意

情と怒りの成雄頃乞伝達する新しい価値を発 ダニズムはポスト・フェスティバルを誘引

七0年代の。ホスト・モダニストが強調し

機を持っている。光州ヒエンナlレが光州

J 苦手叶で! 宮司!

スが多い。

' 95 K WA NGj U 81ENNAl E

78


C URRENTS

文化の優越性と自負心に酔いしれ、美術館

所だ。しかし、一部のビエンナーレは西洋

なく、多様な可能性の討論の場を作り出す

るだろ、?か。 ビ エンナーレは文隼云術の裁判の場では

い時代、新しい芸術の地平の幕開けと章え

された。しかし、今や誰がその熱情を新し

らしくて卑俗なものの再現もあったが歓迎

いものが歓迎された。それらの中には、嫌

作ることを回復したという理函だけで新し

容を伝達し、このような美術は描くことと

象の手荒な筆 の跡の代わりに強い盤聞が内

見したかのように 、わが世を桓歌した。抽

二年ごとに新しいものの宴を張ることは不

どんなに目まぐるしく変わったとしても、

もって作蛙を施す。現岱実術のサイクルが

術史的な資料の動員、 P R戦略や行政力で

め、完成に到達するために莫大な予算と美

スは毎回、選んだ主題に関して定成度を求

を受け入れているからである。逆に、ペニ

それだけ若く、多くの批判と創造的な堤案

は、アメリカの文化と文化創造者の態度が

一層重視する。ホイ ットニ l ・ビエンナ ー レが毎回、数多くの話題を提供しているの

を通じ、連鎖的に創り出される剰余価寧乞

精神の柔軟性は可能なものの有機的な結窓口

準にした完成度を求める。東洋文化と東洋

によって可能性を現在性に合わせることで

捨て、若い世代、若い芸術を選択すること

要な選択としては既得権的美学をかなぐり

するという意志が込められている。その主

り出すことで、雑多な多元性とは 一線を画

気力さを克服し、より明確な境界概念を創

ほど指摘したポスト・フェスティバルの無

が盛り込まれている相互テキスト性だ。先

は、まず第 一に﹁境界を越えて﹂とい、?王題

光州ビエンナ ーレが盛り込んだ展示構造

になるべきだというのはこのためである。

バル化し、文化行動の有益な情報提供の場

どまるだろう。ビ エンナーレはフェスティ

可能であり、可能だとすれば論理の宴にと

79

の展示のような美術史的な準拠を裁判の基

張大千 { 台湾)

‘ 芯 pppj gmg. f


jiiP

ないということだ。これに関する提案とし

な美学のテキストを乗り越えなければなら

材料とか可前とかといった極端的で解説的

り個性を極大化し、総隼云術に昇華させ 、

ある。これはバラバラになった地域主義よ

相互機能を補完する情報機能に属する。今

ではなく、概念や知識化された境界一を崩し、

る。芸術の相互テキスト性は無毅悲な混合

芸術の有罪・無罪を示唆する可能性があ

ある。意味が明白な対立はややもすれば、

り、ハイテクは孤立したハイア lト ( E m z

ターアクティブの段階に達していない限

を与えられまい。相互の関連性およびイン

ない限り、これ以上芸術という文化の身分

などである。 展﹂ ター、レーザ ー、仮想の現実(︿亘区河内単身山 第二に、知識化された芸術を情報化させ などハイテク芸術は、大衆の技術に関する ることだ。美術を材粁や形態、構想や抽象、 知識の欠落のため機械の遊戯と して認識さ

画展﹂、﹁韓国近岱黍仰の中の韓国精神戸、 ﹁ 北 韓美術展﹂、﹁韓国美術展﹂、﹁韓国現岱蕎

際展﹂や寸情報芸術展﹂、﹁証人としての芸術 展﹂、﹁五・ 一人精神展﹂、﹁東洋精神と文人

て準備された展示会が、﹁ビエンナーレ国

れやすい。ハイテクは未来主義者が賞賛し

互機能性の問題だ。ビデオやコンピュー

第三は、ハイテク芸術の相互補{雇、相

能の度合を決定ずる緊密な関係にある。

ており、芸術と情報は芸術の社会学的な機

日の学問の諸領域は知識を越え、情報化し

芸術が解釈する歴史に関する文脈を綴密に

る。この証言の問題は単なる記録性を離れ、

を主なメッセージとして選択してきてい

たぶん記録性の問題であろう。芸術は常に

芸術が積んできた確実な境界の 一つ は 、

げ た 疎 墨 需 が 一歩進んだ形式である。

さに独自と著者の聞の相互作用を目標に掲

を求めてきたし、形式は違っても必ず証言

歴史的な現実に対し、それなりの対応方法

準備された情墾務官。

アレゴリーやメタフィジック、アバンギャ

ていた二O世紀初めの偶像ではないのであ

盛り込むことによって我々を粛妖⋮とさせる

E ) 展一変 在 、 ま

E )にとどまってしまう。今回の特別展で

ルド、伝統などで固着させ、対立させるこ

り、テクノロジーが独自と相互補完関係に

呂勝中 ( 中国)

とは現代美術が犯した重要な誤謬の一つで

李ブル( 縫国)

80


CURRENTS

の対応力は回復されねばらず、これは単な

長い問、忘れられてきた歴史に対する芸術

感動を伝達する。 モダニズムの歴史の中で なパターンを乗り越えて いることの証拠で

熟から来る必然的な芸術形式と見る論理的

モダニズムが必ず科学革命や市民社会の成

義のリアリズムから大きく外れてはいな い

うなっているのか。 一九四0年代の社会王

線を保ち続けている。北韓の現住実術はど

るリアリズムではなく芸術の機能を見直す

流動する境界(ヨロ25 包 括 回O E句)に関

が、朝鮮朝の埜入からかなり遠く隔たって いる。我々は、北の実相をもビエンナ ーレ

する積極的な解釈は、どうしても文化の公

世界唯 一の分断国家であるわが国は、歴

もある。 史を見る情緒の異なる他の固とは違 ワ。一一 O世紀に韓国史が歩んできた道程は、植民 地三六年、韓国戦争、 一 分断、軍事独裁、光

共領域として吸収されるのが望ましいとい

尊重しなければならず、言語と形態に伴う

葛藤は、この固ならではの文化的背景でも

と商業資本王義の流れの中でなめた民衆の

装った無気力な安気楼が結局、 真一撃な現実

ルの終着駅は、まさにアイデンティティを

意見を聞いてみたい 。

独自的な表現を尊重しなければならない。

した個性のある境界に区分されることにな

美学に位置づけされながら、よりはっきり

機会である。

で示して、境界のある領域に関して多薮の

州民衆抗争、民主化などの分節となってい

う意見が支配的だ。ポスト・フエステ ィパ

方法として活用すべきであろう。特に、光 州の五・ 一人民主化運動精神は歴史に対す

文化の主体性は、スポーツ競技や万国博

る時間と場所性が内在している。まだ、終

光州ビエンナーレは、韓国美術界のフェス

ており、独面のアイデンティティを持って

洋固有の文人画精神と独特な造形性を披露

ない代表性を持っている。したがって、東

の溝が深まっており、それぞれ掲げている

ι 術の偏差は、そ 治体制の相違がもたらす 芸

の美術形式は高踏的に維持されている。政

当しない 。それにもかかわらず、それなり

いるが、社会主義芸術の典型にほかならな い。これは、今日的文化の独自の境界に該

の背景に対する尊厳性からスタートしなけ

地球村は政治や人種、宗教ではない、文化

化行動の価寧める結実に貢献する討論の場 にならねばならないと信じる。国際主義や

るだろう。光州ビエンナーレは大衆扇動や

する恕穫は非常に重要である。文人函は士 大夫が楽しんできたブルジョア芸術の代表

哲字と形式は長所と短所を兼ね持って平行

ればならないのである。

大衆玉奪実学に依存せずに、できる限り文

の抽象性と霊入主輩美智乞陵駕しており、

圏の精神的な背景を盛り込まなければなら

ある。北韓の芸術は主体性を極度に強調し

f

覧会のような制限された時間と空間の問題

戦ならぬ休戦中の国であり、急速な工砦花

る芸術の証言と機能を問いただせる当然の

ではない 。それぞれ異なった歴史と柑 旦安乞

附ueger ( アメリカ)

Myron

ティバルであると同時に、アジア・太平洋

金正憲( 韓国)

的なジャンルだが、その形式はすでに西洋

81

Chuck C Iose ( アメリカ)


世界に輝く 韓国音楽家の大供宴 - 詩人

越 鼎樺

3 生み育ててくれた母国に報いたのであり、

ことである。わが国出身の葦豪も自含乞

ケジュールを取り消すか延期して参画した

メッセージを伝えようというものであろう

華らの詩を取り込んだ狙いは、たぶん民族

ペクタクルな野外舞台に沈薫、具一常、超柄

ょう、心残りなく﹂、 祝窒目安否形式のス

・凶凶│放五O周年記念の﹁世界に輝く

だからこそ聴衆からも 一層大きな喝采と歓 声を浴ぴたのである。

が、特に具常の肉声は朗々と響き渡り、大

蚕室オリンピック・メーンスタジアムで盛

eEY 五日、午後七時三O分ソウルの

三三度の蒸すような熱帯夜、だくだくと

がかりの公演場で詩の朗唱が行なわれ得る

v v r 韓国音楽家の大供宴﹂が八月一

大に催された。園内または海外で活躍中の

流れる汗を拭うことも忘れ熱演する音楽家

解放の喜びと祖国の統一に向けた願いを

祝典音楽を一層強烈に表現するため金管楽

世界的な指揮者の鄭明動は、この純粋な

ルの圭宮の花火の責廊歪だった。

スト、張永宙の﹃カルメン幻相置とへンデ

音安否第一部の圧巻は、天才バイオリニ

の過去と現在と未来の念願を盛り込んだ

O余名の音楽家と KBS交響楽団、そし 二 て連合合唱団を含む六五O余名の出塗告が

可能性のあることを示した。

周囲のきらびやかな光線が消えて舞台は

アの精舟のようなものではないかという気 がしたりした。

といつしか混然 一体となっている我を感じ ながら、ふとこのスタジアムがあたかもノ

歌った。 夜空に打ち上げられたレーザー光線の絢 嬬たる光線の群れるなか、金控{墨者器の山風の ようなメロディーとオーケストラとコーラ ス団の織りなす大音国軍。六万余の聴衆が集

第二部のレパートリーは、それこそ世界

まった、この野外祝典舞台は感動と熱狂の 場へと変わっていった。八八年のソウル・ オリンピ ックの際の喝采と歓呼の声以来、

にその名が知られている韓国出身声楽家の

ディのオペラ・アリアに絞られたのは、愛

れら声楽家のレパートリーが一様にヴエル

に向け献じる祭司長のように見、えた。

蚕室オリンピック・メーンスタジアムがか

大供宴。曹歪実、洪一恵卿、申英玉、雀鎧秀、

器群の絢嫡たる、昨裂するメ ロディーを天

つての生気を蘇らせた荘厳な時間であっ

朴世源らスーパースタ lの舞台だ った。こ

国意識を鼓吹したヴエルディの音楽思想の

筆者は、レーザーディスクを通じてイギ

リス・ウィンブルドン・テ ニス・コ ートで

しかし、このような祝祭的なコンサート

接的に照明し、祝典音楽の意味を一層強調 する思惑からだと思われた。

盛り上がりとか、テーマの荘厳さをアピー

一瞬、暗闇に包まれ、その中心に集まるか たかも聖杯を思わせた。そして、前面左右 にあるオーケストラと四OO名からなる

ものと思われる。舞台の持つスペクタクル

解扶後生まれの音楽家を中心にしているこ

は、韓国の生んだ世界的な立息豪、それも

奏でながら沈薫の詩を誘い出したのは印象 的だった。

引き続き鄭明和のチェロが﹃ハン五百年﹄を

飾る安盆黍の﹃韓国幻想曲 Pに差幸し、民族 の栄光と統 一への念願とい、つ大和合の感動 的な舞台にした。

ヴエルディ音乗の気迫を通して雰囲気を盛 り上げた今回の音楽祝典は、フィナーレを

な効果もさることながら、聴零乞圧倒する

ルする力があるということから時宜を得た

は、何にもまして聴零乞圧倒する音楽的な コーラス団は聖杯を守る騎士のように見え た 。

すかな光の神秘さ、遠くに昆支る舞台はあ

一面を解放五O周年という歴申直に向け間

開かれた南アフリカ共和国の黒人人権運動 家、ネルスン ・マンデラ1の釈放を求める コンサートやパパロッティ lのロンドン・ ハイドパ lクでの雨中公演などをもどかし い気持ちで見たことがあるが、今回のオリ ンピック・メーンスタジアムの野外立旦楽会 を見て、われわれも世界の舞台に出しても 恥ずかしくない音楽会があるのだという誇 りを持てるようになった。

とが挙げられ、また全世界を舞台にして活

﹁その日が来れば、・:・喜んで死を迎え

文化体育部(省甲と朝鮮日報、そして K B 韓東 一らの演奏した﹃四台のピアノのた Sが共同で主催した今回の音楽会の特徴 めの協奏曲﹄が A 面の供宴の序幕を告げ、

躍している、この音盗斉家たちが他の演奏ス

82


J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE

河瑳燦

j可瑳燥の小説は、わが国近代史に起きた悲、劇的現実を、

時にはあるがままに淡々と、時にはユーモラスな寸劇スタイル で描く。ここに紹介する『受難ニ代』と

『白い紙のっけひげJ は、その代表的な短編である

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陵と駐屯軍﹄(一九さ三、﹃山彦(一九六四)、

九)、﹃白い紙のつけひげ﹄(一九五九)、﹃王

は、民族の自発的な意思とは何の関係もな

淡々と、時にはユーモラスな寸劇スタイル

した悲劇的な現実を、時にはあるがままに で描いている。韓国の近代史の悲劇的原因

)、 ﹃赤い戸匹(一九六四)、﹃いたち﹄(一九七O ﹃日本刀﹄(一九七こ、﹃陣津江の鴨の群れ﹄

込まれて 同族相争う混沌とした渦巻に警 c 犠牲になった被害者の後日談について首尾

J

年に一 0年聞にわたる教育専門記者として

一貫した関心を寄せている。 ﹃日本 は、帝国主義的植民支配と統治

る作家のことを意味する。彼は、一九六九

は、別の職業をもたずに執筆にだけ専今午

作家、河瑳燦は一九一三年慶尚北道の 永川で生まれた。彼は型方を転々としなが

F

次のように要約できる。彼は一九五五年に が 、

の生活を清算し、専業作家としての活動を 始める。その後、彼が創作した長篇小説の

歴史の断面を絵画化した作品である。去婦 げんかの果てに日本万を抜いて女房を追い

E うち代表的な作品として指折れるものを挙

を強化するためにアメリカとの戦争さえも 辞さなかった日本を寓話的に批判しながら ﹃ウォルレの短い年代訂世(一九七八 )、﹃山

げてみると、♂}戸釦自Z H a 句OC(一九七O)、

の文壇デビュー方式といえる、いわゆる新

的な作品を発表して、一九七O年の第七回

回し梅の木の枝を切り落としてしまうよ 、 つ な性急な性格の日本人の校長が、 B二九の 攻襲機をあたかもばっさりと切りおとすか

門員している。 河建療の小説は、近代の歴史が型 c 起こ

J い生徒たち を見て防空壕に待避していれ 弱 出す。 は思わず事 c

のように刃の真っ青な日本万を持って誰

ゃい ぱ

韓国文品主員、一九八三一年の第二団組演鉱文

もいない運動場にたたずんでいる。この姿

春文芸に当選して、社会が公認する作家と して活動を始める に至る。すなわち、作家 としての彼のデビュー作は日刊﹃韓国日報﹄ の新春文芸の当選作﹃兵義一 一 代﹄だったので ある。 河鷲爆は初期には主に短篇小説を発表し ている。﹃兵義二代﹄のほかにも彼の代表的 な短篇小説として﹃渡し船の話﹄(一九五

堂員、一九八四年の第一回ヨサン文堂具 一九八九年の第六回柳周鉱文尚早貨などを受

に野に﹄(一九八二、﹃小さな竜﹄(一九八八) などがある。彼は以上のような一連の代表

小説募集では﹃いなご﹄がそれぞれ当選して いる。翌年の一九五七年にはわが国の独特

一九五六年に週刊教育新聞の主催した教育

全国学生文芸創作コンテストで﹃血

して在職し、その後新聞社と雑誌社をあち こち転々としながら教育関係の専門記者と 。 してその能力を発揮Lた 彼の作家的生涯をたどってみると、大方

い、外国勢力の介入によるものであり、そ

の結果は戦争に象徴される暴力性と不幸な

(一九七六)などがある。主に短篇小説を発

表してきた彼が七0年代以後は、主に長篇

ら教師を養成する学校と土木工業専門の学 校に通った。彼は数年間、小学校の教員と

個個人の涙ぐましい事件として現れてい

とになる。韓国における専業作家というの

燦 小説を創作する専業作家として活動するこ

る。河瑳燦は、このような特殊な状況、た とえば日本の植民支配統治の末期的現象と

.

また韓国的な文化の特質を表して見せてい ると言いえる。

成長した郷里にヒントを得た。従って、こ の小説は濃い郷土色を帯びており、これは

の一つがあの♂Eヨ σq・ 3Cである。作者 は、この小説の空間的な背景を自分自身が

と南北聞の韓国戦争を総体的に扱った作品

韓国人にとって家庭の否苧をもたらした 二つの戦争、すなわち米日間の太平洋戦争

、?と立弘五ちてしまう。

の伯父かもしれぬという情況があるにもか かわらず、そのことに気つかないままパス の出発時間にせきたてられるようにそうそ

で行けば南の鴨だよ﹂と一言、っ。少女は自分 が会った休戦ライン北部出身の老人が自分

少女の質問に答えて、話手である﹁私﹂は少 しも深刻そうな素振りは見せずに﹁北の方 に泳いで行けば北の鴨だし、南の方に泳い

江に群れをなしている鴨に﹁北の鴨?Lでな ければ﹁南の鴨?﹂と尋ねる一人の見知らぬ

品である。この小説は多少、感傷的ではあ るが、客観的な均衡を失っていない。臨津

たらした分断の現実の悲劇性を提起した作

﹃陣津江の鴨の群れ﹄は、家族の離散をも

宋Z 喜 ヒ 復 雪

84


⋮ 山 的XE︿乱 コ・ 山ヲヨ

ための呪術的な代物でもある。特に、韓国

nEヨσ巾﹃也 O丹(尿瓶)は、韓国伝来の生活 用品であると同時に豊鏡多産と夫婦和楽の

息子は披行的な近代史、段損されるだけ段

を失った父親と傷痕勇士になって帰還した

ぱって行かれダイナマイト事故で片方の腕

寓意的である。植民支配勢力により引っ

損された民族的アイデンティティ、国際的

親の犠牲を子が受け継いだことは、何とも

の女たちにとっては女の運命を左右させる しかし、韓国の女たちは近代主義的な物

土俗的な信仰を与えてもいる。

な利害関係により支離滅裂になった国土、

れらの肉体的な不具を精神の奇型性に結び つけてはいない 。しかし、ここには個人の

息子の出合いを素材にしたこの小説は、こ

ι

しまう。一人の未亡人は日本の帝国主義の

神の横暴の前に自らの運命が入れ替わって

戦争のために歪められた惨めな個人の暮 しなどを象徴しているからである。父親と

強制的な労役動員に一人しかいない息子ま で失ってしまう。二度にわたる戦争の最中 に二人の男と立て続けに紘ばれ、 ざるを得な

不幸を批判的な意識として一段階引き上げ るだけの知性が欠けている。

かった女主人公カムネの生支芳は、韓国の

それにもかかわらず、作家は諦念的な運

近代史の肢行的な展開とほとんど 一致して いる。数奇な運命の女、カムネはn v 巾 ﹃ , 白ヨ σ

命輩告に近い彼らに素朴な人情の世界、淳

骨が自分の運命を改善させるうえで何の 匂O

役にも立たないということを悟る。勿論、

べんだらりとした放尿の姿が悲劇のカタル

っ健康性を充分に期待している。女ののん

かわらず、作者は前近代的な原始主義がも

として受けとめ、その恨みをカタルシスす る韓国人の生理的な抵抗でもある。この作

悲劇的に理解するというより宿命的な慢み

尿をする。この放尿の行為は民義の事件を

生支芳の根拠を暗示しているの 家に帰る道すがら、親子は入れ替わり放

朴な庶民の行動準凡などを通して楽観的な

シスときわめて類似した印象を残してい

この悟りはギリシャの悲劇を連想させるほ ど悲劇的なパトスを刺戟する。それにもか

る。歴史に対する抑圧からの個人の解放と

品の中で主題に対する暗示は、丸木橋の掛 以上、私は河瑳燦の小説の世界を客観的

このような様をして世の中をどのように

ダま

撃と一 言ロわざるをえない。

渡る。 ペーソスを醸しだす生の感動的な極

巧みに体の均衡を取って注意深く丸木事乞

手にして父親の背中に負ぶさる。親子は、

をたくし上げる息子に自分の背中に負ぶさ れと言う。息子は杖と鯖をそれぞれ左右の

かっている小川のくだりに至って極大化す る。父親は土手に腰を下ろしてズボンの裾

自 由 季一 ω を瞳示しているからである。 に探ってみた。これから彼のまた別の 二 つ の代表作Z轟竺一代﹄と﹃ 白い紙のつけひげ﹄ をそれぞれ探りなおしてみる ことにする。

﹃受難二代﹄は歴史の犠牲になった父親と 太平洋戦争中に徴用にひっぱられて連れて

息子に関する話である。父親-朴マンドは、

いに、父親は片腕のわしもこんなにうまく

して生きていけばいいのかという息子の聞

生きているというのに何故生きていけない

いかれたあと片目と片腕を失って帰国した 人物だが、息子の朴チンスは韓国戦争の戦

などと考、えるのかと反問して息子を勇気つ

ける。二代にわたる彼らの不幸は韓国人全

闘で片方の足を失って帰った人物である。 歴史という巨大な暴力によって恋行された

85


ンギルの父親の後をついて歩きながら面白

持った男:・ ﹂とわめきまくるのだから、こ みも町 れを眺める人々にとっては格好の見物とな らざるをえない。 トンギルの友だちは、ト

されたそんな世界である。時には生そのも

は原色的な人間の縮小版として細かく描写

うのは、天使のような心の世界というより

界が反映されている。ここでいう童心とい

人間愛的な憐倒の衰朴な球経伊乞再構成する

で貧しい田舎の人々の話の中に立ち入って

はヒューマニズムが挙げられる。彼は無知

第三に、彼の小説の思想的な拙且尽として

実践する作家である。

いきり近づいて鋭い観察と中立的な判断を

象徴性よりは人物や事物を一つ一つ具体的

がる。体中の血が逆流する思いのトンギル

のを敵対視し、また時には現実に憤るそん

口に当てて﹁今晩の活動写真は二丁拳銃を

い起こさせる。つまり、河瑳療は現実に思

に描写して、読者に 一つの情景と情況を思

不幸を乗り越え、未来の暮らしを設計しな

は、棒切れで父親の白い紙のひげをいたず

な世界である。河建療の小説の中で童話

いる。この点は、彼の文学的な性向である

ことによって、読者に切実にアピールして

体の義宣を意味しているが、作者は歴史 主、万を新たに開拓する不屈の人物である。 さらに、もう 一つ、我々が特記すべき事

チ乞それとなく、 ければならないという観 A

らし、﹁紙で作った偽物のひげだ﹂と声をあ げて面白がるチャンシギをぶん殴る。これ

な持情性を表している作品が少なくない

の犠牲になった韓国人が小説の中に登場す る親子のような緋の関係と一体球芋むって 実がある。﹃白い紙のつけひげ﹄は童心の世

がこの先、進むべき道に対する現実的な難 に驚いた父親は広告板を脱ダ捨て必死に止

紙のつけひげ﹄でも繰り返し現れる)韓国人

小説の中に現れる小川は(この川は﹃白い

だが積極的に表している。

浄化させ 関であると同時に現実の混濁さ -V

が、その理由は彼が小学校教員として在職 した経験も 一役を担っている。

めに入る。 この小説の主人公である父親は、﹃受難

ている限界への補いともみなすことができ

リアリズムと予盾する 一面ということがで きるが、また別の面ではリアリズムの抱え

る希望の兆しでもある。 水は、人間の線源的な生命力のようなも 二代﹄に登場する親子のように自分の不幸

以上のように、私は河瑳療の作品の世界

る要因にしたのである。

手薙史を肯定的に克服できるよ、つにせしめ

であった不幸な生き方を、すなわち民族の

る。このため、彼は韓国人の経験的な現実 をごく簡明に探ってみた。今、まとめの段

第四に、彼の小説は土俗的な雰囲気を最

階に入り彼の文学的な特触をいくつか挙げ

は大体において作家の出身地の慶尚道の

大限に反映している。彼の小説に登場する

てみることにする。

人々である。彼がまた積極的に追求した形

第 一に、彼の小説は大体において戦争の

主義が起こした太平洋戦争であり、外国勢

でいる民衆である。地域的に見ると、彼ら 力に強いられて骨肉相争った韓国戦争であ

れるが、これは絞情詩が志向するジャンル

式的な特徴の一つに土着的な方言が挙げら

大部分の人は、農村で貧しい暮らしを営ん

いるとすれば、この﹃白い紙のつけひげ﹄は

における生活の経験とも密接な関連をもっ

る。この二つの戦争は、作家自身の成長期

犠牲になった歴史的な被害者たちの後日談

幼い息子の観察者的な視点の中で強制徴用 つかない運命に抗弁する知性も持っていな

に思いきり働突する積極性も、取り返しの

を主な内容にしている。戦争は日本の帝国

にひっぱられ不具になって帰ってきた父親

い人物である。せいぜい何杯かのやけ酒を

第二に、彼の小説の一つの特徴はおおむ

挙げられる

ヒューマニズ ムが

背景としては

思想的な

彼の小説の

のを比喰しているのではないか。たゆみな い流れのイメー ジは、積りに積った悲しみ に対し何らかの変化を求めているからであ る 。

﹃白い紙のつけひげ﹄もまた辺義二代﹄に 似た系列に属する作品である。﹃凪義二代﹄

の生きる意欲を描いている。 戦争労務者に連れていかれた父親が帰っ

あおる程度の素朴な人物の類型にすぎな

ると、簡潔な文体、単文主義、描写の的確

ている。彼の絞述方式の持つ特響乞要約す

小説家としての道を忠実に歩んできた作家

の裁事詩人でもある。彼は戦争による荒れ

切迫した生存への指思山、土俗的な言語によ る侍民的な哀歓の世界を立派に描いた 一人

うに、﹁悲劇を追求する畏詰詩人﹂に輪える ことができる。彼は悲劇的な現実の中での

河瑳燦は、ある文学評論家が指摘したよ

く昭広している。

的な特徴である人情王義的

f S界観ともよ

てきた目、トンギルは学校で授業にも入れ

ねリアリズムを志向していることである。

ている。

てもらえず教室から追いだされる。 PTA

彼は感情の介入や感情の起伏がないという

会費を出せなかったからである。父親は腕 を一本失って帰ってきたため家の暮らし向

E d -ロ也の技法、二人称の主 性、見せ場F 人公の徹底した排除、劇的反転の妙味、作 中人物に対する作家介入の節制などを挙げ

特徴をよく示しているが、このような特徴 は彼自身の文体的個性によって具体化され

てきた人物たちは、悲劇的な状況に順応す

生に抗議する。これがきっかけで、トンギ

ルの授業ふ孟又ける権利を認めない担任の先

る人物とは言えない。この小説の﹁父親﹂は、

だったのである。

きは前にもまして悪くなる。父親はトンギ

ルは子供たちから﹁片腕者の子﹂とからかわ れることになる。生活が苦しくなると父親

ることができる。彼は、省略による品叢や

明日に向けた跳躍の踏み台を設けるために

果てた民族の現実を乗り越え、波澗万丈の

は田舎の映画館の広告板をもって街を練り

きわめて能動的に運命に挑戦して自らの生

劇的な条件を乗り越えるためには意志と意 欲が必要である。河瑳燦が往々にして描い

歩くサンドイッチマンになる。メガホンを

てみようという執念と執劫な生存の力を見 せている。 身体の不具という、生きていく上での悲

い。﹃白い紙のつけひげ﹄の中の父親は、之又 難二代﹄の親子よりは、もう一度やり直し

が父親が息子の帰還を錯雑な心情で迎えて

86


NE WS F R OMT HE K OR E A F OUNDAT I ON

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所なとで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文 ・社会 科学 ・芸術滞のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請 を受け付けております。

韓国国際交流財団のフエ ローシッブ プログラム 0 .

韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フェローシァプおよび 韓国語フェローシップを次のようにこ案内いたします。

韓国研究フエローシッ 7.

①韓国学、韓国語なと鴇国関連講座の開設およ的広九 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および支援額については、 同 年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での韓国研究に対する支援 」およ び「 緯国国際交流財団のフ ヱローシ ップ ・プロ グラム」 の申 請書および案内容は、穏国国際交 流 財固ま たは現地の緯国公館で求められます。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、 下記の住所宛にご 連 究期間中の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、

絡願います。 穂国国際交流財団国際協力 1部

所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月三一日 ま

大韓民国 ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号

でに韓国国際交流財団に提出してください。

電話: 82-2-753- 3464 ・FAX : 82- 2 万7- 2!J47 ・2!J49

選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。

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( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交安調団は、隔月刊都ORE A FOCUS( コリア ・フォーカス)

韓国語フェ口ーシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者およ び適格の専門家に対して、韓国語フェロ←シップを提供し、六一一二カ月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フェロー

を刊行しております。 「コリア ・フォ ーカス」は日本のみなさんに韓国関連

シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一

の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としております。

つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料と所定の

当財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する有益 な参考資料になるものと信じます。 「コリア ・フォーカス」は、日本語版のほかに英文艇のRE A F OCUS も 刊行しておりますれ同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関僻量誌、学術 誌など明日行物から翻訳、転載したものです。 コリア ・フォーカスが取り上げてい

・山 間 .

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申請書およひ実内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 絡願L 、ます。 韓国国際交流財団国際協力 2 部 大韓民国ソ ウ川 甥 IJ市中央郵鼠私書函二一四七号

電話: 位ー2"': 完 i 3-6465 . FAX : 位ー 2-757- 2!J47,2!J49

載しております。したがって、韓国の e

選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。

る記事は、韓国の政治・経済・社会 ・

する重要な資料と主な事件の日誌も掲

のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。

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滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成

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