宮城集治監沿革史 宮城刑務所 昭和 平成 令和編

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宮城集治監沿革史 宮城刑務所昭和・平成・令和編 (大正 11 年宮城監獄から宮城刑務所に改称)

昭和 53 年 6 月 12 日午後 5 時 15 分 宮城県沖地震で倒壊した第二正門

柴 修也


宮城刑務所にとって昭和・平成・令和という時代 昭和初期・・宮城刑務所は比較的に安定したご行刑運営がなされていた。逃走事故も激減 し、所内の秩序も安定してきていた。社会では戦争の影が日増しに強まり、南海の島テニア ン島の構外作業が実施された。宮城からも多くの受刑者が島に送られ飛行場の整地作業に従 事した。当時戦況は日本に有利に進められていたので作業終了後、職員受刑者とも 1 人の死 者もなく宮刑に帰庁することができた。 戦争中・・戦争が激しくなると職員の応招相次ぎ慢性的な職員不足となり、それを補うた めに元軍人の受刑者を教育して、職員補助(特警)に付かせた。最初は円滑に行っていたが、 更に職員不足が深刻になり、そのために特警たちをのさばらせる様になる。全国の刑務所で 特警による不祥事が相次ぎ、宮刑では特警が絡む前代未聞の職員のストライキに発展して行 った。 終戦後・・戦後の日本社会の混乱から犯罪者が急増して、刑務所は過剰拘禁になり施設に 収容しきれなくなった。県内各地に泊まり込み作業場が開設された。福島の只見川でダム建 設のため 7 箇所に泊まり込み作業場が開設され、一日 1,000 人の受刑者が就労した。 刑務所は過剰拘禁のため所内の規律が緩み、無期刑及び死刑囚の逃走事故が続発して世論 の避難を浴びた。 戦後宮刑の職員を悩ませたのは東京拘置所が進駐軍に接収されたために、関東地区の死刑 確定者は全て宮城に送られ、宮刑が執行を担当することになったことである。年間 23 名、 1日に 3 人も執行したこともあり、職員の精神的負担は想像を絶するものがあった。 福島では松川事件、平事件等の公安事件があり、その被告が福島拘置支所から宮城の拘置 監に収容された。監内では被告人が団結して獄内闘争を繰り返し拘置監も無秩序のような状 態になって職員を大いに悩ませた。外部の支援団体も裁判の度に宮刑の正門に大勢押しかけ て騒乱を繰り返していた。 宮城刑務所の危機・・日本の社会は戦後の混乱も収まり、宮刑も平穏を取り戻したかに見 えた時、宮城県沖地震による外塀の倒壊は、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。 外塀が大蛇のようにうねり、スローモーション映画の様に倒壊、間近で見ていた独居拘禁者 は、この世の終わりかと思ったそうである。地震による外塀の倒壊は宮城刑務所始まって以 来の危機であったが、職員の不眠不休の活動と全国からの応援職員の力で何とか乗り切った ことは、宮刑職員の誇りである。 平成の東日本大震災の際には、宮城県沖地震の教訓が生かされ、外塀の倒壊もなく所内の 建物の損壊も少なく、職員、受刑者に死傷者は出なかったそうである。 所内建物の全面改築・・令和の新時代に向けて所内では舎房等の全面改築が行われている そうである。果たして宮城刑務所はどのように生まれ変わって、新たなる歴史を刻んで行く のだろか。 2


昭和時代(戦前)の宮城刑務所の沿革 ..........................................................................5 昭和 2 年 3 月 31 日

当所所管盛岡支所廃止 .....................................................................5

昭和 13 年 11 月 10 日

土井晩翠先生から所長宛の葉書 ...................................................8

昭和 14 年 3 月 1 日

宮城刑務所職員歌制定 .....................................................................8

昭和 15 年 1 月 15 日

南方構外作業派遣(テニアン島飛行場) ....................................11

昭和 16 年 12 月 8 日

宣戦の大詔渙発、大詔奉載日設定 ...............................................15

昭和 17 年 9 月 22 日

仙台刑務支所廃止・未決は宮城刑務所に移送となる .................17

昭和 17 年 11 月 1 日

未決拘禁者の収容開始 .................................................................17

日本の絞首刑制度 ...............................................................................................................18 昭和 17 年 11 月 3 日 昭和 18 年 3 月

囚人、看守を切る、宮城刑務所の殺人事件 ................................21

当時の宮刑に収容されていた○党幹部の日記より...............................23

昭和 19 年 1 月 15 日

目黒久二副看守長殉職 .................................................................27

昭和 19 年 10 月 1 日

刑務所に盗みに入った元受刑者 ...................................................28

昭和 20 年7月 10 日

仙台空襲の時の宮城刑務所 ..........................................................29

昭和 20 年 12 月 10 日

東京管内で死刑確定囚は宮城刑務所に移監 ..............................31

昭和 21 年 2 月 17 日

土井晩翠(旧制第二高等学校名誉教授)の講演 .........................32

昭和 22 年 9 月 15 日

特警員制度の誕生と廃止(深刻化した刑務所職員の不足) ......38

昭和 22 年 12 月 1 日

三原良吉氏の講演(臥龍梅と若林城)........................................41

若林城と臥龍梅....................................................................................................................42 昭和 23 年 4 月 15 日

無期囚脱獄 ....................................................................................57

昭和 24 年 7 月 29 日

片平庄太郎看守殉職 .....................................................................60

戦後の著名収容者 ...............................................................................................................62 戦後の冤罪事件で収容された人々 .................................................................................65 昭和 25 年 4 月 1 日

宮城での思い出

第 28 代宮城刑務所長 H 氏 ...............................68

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昭和 26 年 12 月 15 日

只見川水系に構外泊まり込み作業場開設 ..................................70

昭和 27 年4月 1 日

追憶

昭和 27 年 5 月 1 日

死刑台から生還した男の話 ............................................................77

昭和 27 年 11 月 2 日

死刑囚脱獄、馬喰殺しの芳賀 ......................................................80

昭和 28 年 4 月

第 29 代宮城刑務所長 M 氏 .................................................75

Y 刑務官の死刑執行記録 ........................................................................87

昭和 28 年 4 月 24 日

宮城刑務所只見川作業隊 副看守長 伊藤博殉職 .........................89

昭和 28 年 6 月 5 日「座 昭和 30 年7月 30 日 昭和 30 年 8 月 7 日

会」 .....................................................................90

星霜前のあれこれ

第 31 代宮城刑務所長 H 氏 .......................101

宮城刑務所只見川作業隊 副看守長 山崎辰巳殉職 .....................101

当時の死刑囚の処遇 .........................................................................................................104 昭和 43 年 2 月 1 日 昭和 43 年 5 月 15 日

思い出

第 36 代宮城刑務所長 H 氏 ............................................105

職員殉職者顕彰碑の建立 ............................................................106

消えゆく明治の建築・宮城集治監六角獄舎 ..............................................................108 昭和 50 年 4 月 1 日

在任中の思い出

第 40 代宮城刑務所長 K 氏 .............................112

昭和 53 年 3 月 5 日

日曜特番テレビ「衝撃、これが宮城刑務所」放映 .....................114

昭和 53 年6月 12 日午後 5 時 15 分 宮城県沖地震災害概況 ............................114 昭和 54 年 9 月 27 日

只見川電源開発作業隊殉職・受難者慰霊碑建立経過報告 ........120

昭和 62 年 4 月 1 日

担当行刑の終焉.............................................................................122

平成 9 年 6 月

煉瓦塀の中の 50 年宮城刑務所と私-扇畑忠雄(東北大学名誉教授) .125

平成 23 年 3 月の東日本大震災時の宮城刑務所 ..............................................................130 怜和元年 11 月 13 日

山は博物館・只見川のダム陰に囚人の苦役 ..............................130

あとがき...............................................................................................................................132 参考文献...............................................................................................................................133 宮城県沖地震写真集 ......................................................................................................... 134

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昭和時代(戦前)の宮城刑務所の沿革 昭和2年3月31日

当所所管盛岡支所廃止

刑務所の設備はすべて盛岡少年刑務所にこれを 引き継ぐ。(このとし 3 月 31 日に限り会計事務の 管理も同所に引き継いだ。)

昭和 4 年 12 月 26 日

現在の盛岡少年刑務所

監獄官制改正

勅令により、新たに薬剤師の職制が設けられ、女監取締の制が廃止され、看守に改められ る。

昭和 4 年 12 月 27 日

出張所を刑務支所と改称 古川、石巻、一ノ関の各出張所は各刑務支所と改称す る。(当時出張所を支所に変更した理由は時勢の変転に 伴い、社会主義運動及び労働運動、農民運動等に基づく 犯罪激増し、被告人の処遇上著しく複雑困難を生じ、看 守を以てこれを処理に任すれば其の責任重きに過ぎる ものとして、従来出張所たりしものを支所に変更し、看 守長を配置して、事務の敏速を図り、被告人の処遇統一

旧石巻拘置支所

昭和 5 年 3 月 7 日

及び適正を期するの趣旨たる。)

丙種受刑者収用区分廃止

訓令により丙種受刑者収容区分廃止され、同年 4 月 1 日より、自所に分離拘禁のこととな る。(丙種受刑者:長期で凶悪犯を現在の拘置支所地区に収容していたのを、本所地区の六 角塔内に分離して拘禁するようになった。)

昭和 6 年 3 月 31 日

福島刑務所廃止

福島刑務所廃止と、各支所の所轄変更勅令を以て、福島刑務所は廃止され、同所及び所轄 の各支所は宮城刑務所の各支所となる。当所所轄の一ノ関刑務支所は、盛岡少年刑務所の所 轄となる。

昭和 8 年 3 月 3 日

三陸大津波発生

岩手県及び宮城県の沿岸部は約 10 ㍍の津波に襲われ甚大な被害を受け た。この時、宮城刑務所では被災地の石巻雄勝浜地区に刑務所の医師池田菱 吉を派遣した。雄勝浜は明治 29 年の三陸大津波で集治監の分監が被災して、 職員 8 名が殉職した場所でもある。雄勝浜の天雄寺には殉職した職員と受 難した収容者の慰霊碑があり、毎年 6 月には刑務所から現地に職員が赴き 慰霊祭を行っているところである。 5

石塔


明治の津波の際は職員受刑者併せて 200 名余りが避難して、地域の人々に救助活動等で 刑務所は大変お世話になったので、昭和 8 年の津波の際は天雄寺を拠点として刑務所の医官 を派遣し、被災者の医療活動に従事した。 池田医師の献身的な医療活動は、多くの地域住民の感動をよび地域の人々はそのお礼とし て石塔を寄進したのであった。写真の石塔には昭和 8 年の津波の際に医療活動した旨の記録 が刻まれている。この石塔は元々宮城刑務所そばの池田邸の庭に建立されていたが、現在で は市内同林寺の境内に移築されている。

昭和 8 年 10 月

行刑累進処遇令の制定公布

法務省令を以て、行刑累進処遇令の制定公布され、昭 和 9 年 1 月 1 日施行と定められる。画期的な懲役受刑 者処遇の法則が誕生をみたのである、即ち「受刑者の改 悛を促し、発奮努力の程度に従って処遇を緩和し、漸次 社会生活に適応せしむ」と、ここに我が国の行刑は、始 めて累進制度の下に運営されることになったのであ

倒壊した外塀の修理をする受刑者

る。

昭和 11 年 11 月 3 日

5 時 45 分地震が発生

「金華山沖地震」ともいう。 仙台市内では死者はなく、負傷者 4 人。家屋被害も全壊 3 戸、半壊 2 戸にとどまり、同じ 規模の 1978 年宮城県沖地震に比べて被害は極めて小規模だった。しかし、その地震の揺れ で宮城刑務所の外塀の一部が倒壊し、受刑者が修理に当たった。 余談・・昭和 11 年の「金華山沖地震」の際にも宮刑の外塀 の一部が倒壊した。当時は仮塀が設置できなかったので人 海戦術でこの危機を乗り切ったが、まさか昭和 53 年の宮 城県沖地震で外塀の 70%が倒壊するとは、この時は誰もが 思っていなかったであろう、さらに平成 23 年の東日本大 震災の時は、既に昭和 53 年に鉄筋コンクリートの外塀に 改築していたので難を逃れたが、また将来大きな地震が来 外塀修理

昭和 12 年 7 月 7 日

ることは間違いないので、その対策が常日頃から訓練され ることが大切だろう。

日支事変の勃発と、行刑教化への影響

華北事変、同 8 月上海事変と相次いで勃発し、戦火は急激に 全支那に及ぶに至り、支那事変と拡大して、戦争の長期化は決 定的と目されるにいたった。同年 9 月国民精神総動員運動が始 められ、翌 13 年 3 月には国家総動員法が成立して、同 5 月には 隣組制度が制定されるなど、国内挙げて非常時緊迫の情勢下に あった。この秋に当たり行刑当局においては、受刑者の処遇上 6

遥拝所


その他教化教育について、重大使命を自覚せしめ、いよいよ改悛の念を喚起し、行刑教化 の実績を向上せしめるために、次の如き趣旨の項目の徹底と、諸行事及び諸訓練の励行 を、属次に亘り通牒するところであった。 ◎ 事変を正しく認識せしめ、国民精神の作與に資する。皇室尊崇の念を一層涵養し、祖国 愛の観念を喚起す。4 大節(紀元節、天長節、明治節、及び 1 月 1 日)には式典を挙行 し、「君が代」及び「祝日歌」を弾奏し、受刑者をして合唱せしめる。 (受刑者の国家合唱は大正 11 年 10 月より許可されており、この種の式典の挙行も従前 より各刑務所で行われていたが、昭和 13 年 3 月全国的に施行することになった。) 式次第も、1. 君が代合唱、2. 遥拝、3. 教育勅語奉読、4. 所長訓話、5. 祝日に因める教 誨、6. 祝日歌合唱と定められた。 ◎ 遥拝所における礼拝、昭和 11 年 12 月 20 日本監地区に神宮遥拝所が新設され、、昭和 12 年 10 月以降は通達の趣旨に沿い、大祭、祝日、1 月 1 日、国家的重要行事及び地方的に 一般の尊崇する神社の祭典日には、遥拝を行うこととなった。その他所長において必要 と認める場合にも遥拝を行わせることになり、これらに要した時間は作業時間に通算す ることになった。 ◎ 戸外運動の励行、体操、行進運動、団体訓練等を呼称、唱歌軍歌を用いて行う。 ◎ 陸軍記念日当日に軍事講演を聴取せしめる。 (従前は該当日前後の免業日(休日)に適宜 行れていたが、昭和 12 年 2 月以降通達によってできる限り当日とし、作業時間に通算 することになった。)

昭和 13 年 5 月

当時の工場担当

遥拝所における礼拝

同月に工場担当の勤務命令が出て、第 9 工場の担当になっ た。同工には、洋裁工 35 名、紙工 50 名の 2 業種が一緒にな っていた。その頃、同工場に青森刑務所から移送になって来 た。K という受刑者が居た(殺人・懲役 15 年)。 「数ヶ月後に は他の施設に移送するから、当分の間注意して処遇するよう に」と監督者から指示されていた。いわゆる要注意人物であ る。ある日の朝食後、シャツの洗濯交換のため、雑役夫が席 順にシャツを渡した。当時の席順は作業成績順になっており、 衣類は 1、2 級者が青色、3 級以下は赤色であった。衣類交換

は上位の者から程度の良い物を渡すようにしていた。 戒護課に連行・・シャツの交換が終わったところで作業始めの号令をかけた途端、K は「担 当、衣類交換の件で課長面接」と怒鳴るように訴えて来た。「シャツ交換について何か不満 があるのか」と聞いたら、「担当のやり方は不公平だ、他の者は新しいのに俺のは古いもの だ」と言って来たので「お前は作業成績が良くないのだから仕方ない、古くても洗濯してあ るのだから・・・」と説得しても聞き入れず。大声を出して今にも襲いかかるような気勢を 示したので、直ちに戒護課に連行したことがあった。 ふるしろの里 大槻兆治

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昭和 13 年 7 月 18 日

履歴書、その他諸願書等に「平民」なる族称の記入廃止

司法省令により履歴書、その他諸願書等には、法令その 他により特に記入を必要とする場合の外自今「平民」なる 族称の記入廃止となる(華族、士族の族称を記入するとき は、特に族称の欄を設けず、空欄、氏名の肩書き、その他 適当の箇所に記入を可とすることとなる。) 昭和初期の保安庁舎

昭和 13 年 11 月 10 日

土井晩翠先生から所長宛の葉書

先般、貴所構内の松の命名をご依頼下さいました。忙しくてつい只今までできませんでし たが、先日フト「その昔だれが植えけむ蟠る龍の見る如しあわれこの松」と歌いました。 「蟠 龍の松」と命名しましたが如何ですか、伺い上げります。

昭和 13 年 11 月 10 日

「蟠龍の松」の呼び名正しく

宮城刑務所の構内に「蟠龍(ばんりゅう)の松」 と呼ばれる、仙台市の名木に指定されている樹齢 380 年以上の黒松が植えある。この黒松の名付け親 は土井晩翠先生。昭和 13 年に刑務所から黒松の命 名を依頼され、黒松を見て、地面を這う龍ような姿 に「蟠龍(はんりょう)の松」と命名したと、後日、 ハガキで所長あてに返答してきた。 以来 55 年の歳月が流れ、いつの頃からか「蟠龍 (ばんりゅう)の松」と誤って呼ばれるようになり、 土井晩翠先生から所長宛ての葉書 黒松のお呼び名としてすかり定着してしまった。土 井晩翠先生が命名した黒松の呼び名が時代の移り変わりとともに誤って伝えられたのは誠 に残念であり、また命名した人に対しても大変失礼な話であると思う。今回一般公開される のを機会に、「蟠龍(はんりょう)の松」命名の由来を伝えるとともに、この黒松の正しい 呼び名を語り継いで行きたいものである。 平成 6 年 7 月 3 日

昭和 14 年 3 月 1 日

河北新聞声の交差点

柴修也

宮城刑務所職員歌制定

刑務所では予て詩壇の老宿たる郷土出身の詩人、土井晩翠氏作、宮城刑務所職員歌の作曲 は陸軍戸山学校軍楽隊に依頼してあったが、この程いよいよ之が出来上がり、同隊より送り 届けられて来たので、ここに新しき生命の躍動する「職員歌」の誕生を見ることになった。 歌、曲共に流石に斯道の権威者の手にかかりしたるものだけに、充分に新時代の行刑人の 意気と覚悟を示すに足りる。これこそ今日、大難局に直面せる祖国日本の輝ける興隆発展に 協力せんと行刑報国の大行進の叫びとなって、一段と其の士気を鼓舞すること大なるものが あるを期待せられて居る。

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宮城刑務所職員歌 作詞 1

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土井晩翠

作曲

れいご

陸軍戸山学校軍楽隊

囹圄の暗になく人

同じ共に国の民

罪は厭へど人惜しみ 聖職高し刑務官 懺悔の思窓の中 導き行かんわが思念

救護の腕をさしのぶる

憐憫いかで忘れめや 歌に名高き宮城野や 人も浮世も移り行く 希望は永く世に絶えず 心広瀬の水清き 庭に名高き臥龍梅 彼と我と香り伝う

心むしばむ同胞を 剣は腰に帯ぶれども 萩の盛りは昔にて 移りて善に立ちかえる 岸辺に近しわが公所 春の光ににほう時

余録・・作詞は詩壇の老宿郷土出身の詩人、土井晩翠氏。作曲は陸 軍戸山学校軍楽隊であるが、作曲した楽譜が残されていないので、 どのような曲なのかわからない。二十数年前に宮城刑務所例規集に、 職員歌の楽譜が載って居るのを発見したが、庶務課ではその例規集 はすべて廃棄したとのこと。戦時中に作曲されたので、戦後、戦争 を賛歌するような曲は現代にはふさわしくないとの理由で禁止され たのであろう。さぞかし勇ましい曲で、現代にはマッチしないであ ろうが、それにしても一度聞いてみたい曲でもあった。 土井 晩翠

昭和 14 年 6 月

槻木町に構外泊まり込み作業場を設置

海軍委託により火薬庫整地作業のため、柴田郡槻木町に構外泊まり込み作業場を設く。出 役人員約 200~350 名。昭和 18 年 10 月終了。 槻木作業場の思い出・・海軍省の委託により、槻木町白幡橋のたもとに、槻木作業場が開設 され、船岡火薬庫の整地と排水を太平洋に流すための排水管埋没作業を行うことになった。 現場付近には 50 名程度収容できる舎房が 8 棟建設され先発隊職員 13 名、受刑者 150 名 が派遣された。その後順次増員され、最盛期には 350 名が就業した。

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これまでの構外作業の場合、逃走防止のために受刑者 2 名を 連結する連鎖を施すことになっていたが、槻木作業場では無連 鎖で作業をさせることになり、逃走者を出しては大変と夜も眠 れないほど心配したものである。しかし、私の勤務中には 1 人 の逃走者も出さなかった。 当時の槻木作業場の状況は、朝 7 時の出役時、舎房前に全員 整列させて、場長の訓示のあと、海軍省の指し回しのトラック一 台に 50 名位づつ分乗して現場まで護送した。作業終了後、夕方 現在の白幡橋 5 時に同じように舎房まで帰るという毎日であった。 各班の担当は夕食後、点検をとり夜勤担当と交代するまで引き続いて舎房勤務することに なっており、夜間は舎房勤務者のほか、構内、構外に分かれて 2 名で巡警することになって いた。雨降り(朝 9 時頃まで晴れない時は出役中止)の日は免業になり、職員の半数は自由 行動がとれ、我が家に帰り我が子の顔を見るのが楽しみであった。 ふるしろの里 岩本甚蔵

昭和 14 年 8 月 11 日

興亜奉公日設定さる 同年 9 月 1 日より実施し、事変中毎月 1 日を興亜奉 公日とし「全国民挙げて、戦場の苦労を偲び自粛自省 これを実際生活の上に具現すると共に興亜の大業を 翼賛して、一億一心奉公の誠を致し、強力日本建設に

向かって邁進し以て恒久実践の源泉たらしむ日とな すものとす。」との趣旨である。当日における当所職員 の行事及び実践綱目は・・午前 7 時 40 分会議室に集 合、国歌斉唱、宮城遥拝、黙祷、各自神社参拝、武運 軍歌演習 長久祈願、早起き徒歩行進励行、禁酒、禁煙。 (午後休 息時を除く)一汁一菜、又は日の丸弁当の簡易生活、遊興的行為の慎み生活の緊張を図る。 当日の食費節約により得たものとして、高等官 20 銭、判任官教誨師、技師、薬剤師 10 銭、 看守雇以下 5 銭を寄付し、応招軍人慰問に充てる。収容者については、構内神宮遥所に集合 せしめ、国旗掲揚、国家齋唱、宮城遥拝、皇太神宮遥拝、黙祷を行わしむ。

昭和 14 年 11 月1日

マリアナ群島テニアン島に受刑者を出役

横須賀海軍建築部と横浜刑務所との間にテニアン 島に受刑者を出役させる契約が正式に締結された。同 年 12 月 18 日には、テニアン島に向けて職員 9 名、受 刑者 20 名が先発隊として厚生省派遣の人夫数百名と 共に、海軍御用達の船で芝浦桟橋から出発した。更に 同月 23 日には横浜港からテニアンに向け 356 名の受 刑者が出港。その後、逐次増員して約 2,000 名護送し た。これらの受刑者たちは南洋の灼熱の太陽と風土病

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テニアン島の位置


と戦いながら、飛行場建設工事に従事して、国家の急務を帯びて敢闘して、職員、受刑者合 わせて数十名の犠牲者を出しながらも、ついに昭和 16 年 10 月 23 日に完成をみた。しかし、 受刑者の手によって完成されたこれらの施設は、日米の緒戦において軍の基地として使用さ れ、大戦果を作る基礎となったとされる。 日本軍の戦力が南方の各島々から縮減されるにつれて、飛行場もアメリカ軍の爆撃によっ て破壊され、あるいは占領され、ついには日本本土空襲の基地に使用される皮肉な展開をみ るに至ったのである。当時宮城刑務所からもテニアン島に職員と約 100 名の受刑者が派遣 されている。その時の様子とテニアン島での生活を宮刑から派遣された大田看守は下記のよ うに記録していた。

昭和 15 年 1 月 15 日

南方構外作業派遣(テニアン島飛行場)

日支事変の最中、南方構外作業派遣を命じられた。100 余名の受 刑者を派遣職員 12 名で護送することになった。同月 13 日行人塚 停留所から 2 輛の客車に分乗。多数の職員に見送られ、長町駅か らは急行に連結して集積地横浜刑務所に向かい同日無事到着し た。同所には全国から派遣受刑者が集められ、その数 2,000 余名が 収容されていた。 同年 2 月 2 日午後横浜刑務所出発。宮城部隊と他の施設の部隊 と混合で乗船出港。途中暴風雨に遭遇、父島の大村港に避難淀泊、 半舷上陸許可、父島を見学一泊。翌朝出航したるも波高く船酔い多

テニアン島に掲げた日章旗

数出たが、9 日無事テニアン港に到着。軍のトラックに分乗し全員無事現地に収容した。職 員は、部隊長初め先遺部隊幹部等に挨拶した。午後休暇を与えられ、トラックで港町見物に 行った。 収容者と職員のトラブル・・テニアン島到着まもなく、先発部隊の舎房担当が、収容者から 袋叩きにされた事犯があった。舎房に行き事情を調査したと ころ、遠路の航海で船酔い者が 5 名ほどおり、再三にわたり 舎房担当に横臥許可を願い出るが許可にならず。巡回のたび に正座を強要され、正座も満足に出来ないほど弱っている者 を殴打するなどの仕打ちに、他の受刑者も見かねて嘆願した 横浜港

が聞き入れられず。元気のいい受刑者一同で職員の無情な仕 打ちに憤慨して、職員暴行に及んだとのことである。

吊刑の懲罰・・取り調べの結果、誰が主犯なのか分からず、仕方なく代表者を出すことにし た。因果を含めて体の頑強な者 3 名を連行し、部隊事務室に至り謝罪を為さしめた。懲罰と して吊刑の言渡があり、廊下に吊るされ、暴行を受けた職員より憎悪の殴打を受けた。受刑 者はよく耐え、一時間ほどしてから見回りにいったところ、3 人とも顔面蒼白となっていた ので、懲罰の中止を願い出てようやく免罰になった。 現地訓練・・翌日より現地訓練(耐暑訓練)1 週間。毎日砂糖畑の中を午後歩行、2 月なの に南方は暑さ厳しく、汗が流れるくらいで、行進行進時折休憩、其の後を考えできる得る丈 11


耐えることが大切だと思った。訓練も終え工場出役となった。作業現場は山あり谷ありで道 路とてなく歩行困難であったが、永い間歩くことにより自然と道路らしくなったくらいだ。 工事は凸凹の激しい地帯で地ならしから始まったが、約 3 ヶ月間成果が上がらず。午後 7 時 まで残業してみたがいかにしても成績が挙がらず。ほかの刑務所の受刑者たちは早めに引き 上げるので、不思議に思いほかの施設の現場を見学して驚いた。いずれも我が受刑者の現場 より仕事が進んでおらず。早速、部隊に交渉に行ったところ、本部より宮城には特に職員暴 行事件の罰とし厳しく仕事を割り当てるように指示があったとのことだった。仕事は順調に 進み予定より早く終了し、指導員より感謝され、続いて難しい斜面切削作業に付き、至難も 千分の一の仕事も完了し、海軍施設部隊長によくやったと賞賛された次第だった。 全国一の部隊・・昭和 15 年に部隊長が交代して、新部隊長に「宮城部隊は成績が良いと聞 いた今後も頑張ってくれ」と激励を受けました。当時の小橋川宮城刑務所長からの慰問文に も、全国所長会同で宮城部隊の活躍現況の話があり、 「日本一の部隊だと賞賛された。」との 喜びの文意があった。 海軍機の発着が出来たのは昭和 16 年 3 月頃だった。引き続き 200 ㍍の延長作業を海軍よ り要請されたが断り、同年 4 月に我々は凱旋部隊として受刑者 200 余名と共に船でテニア ンを出航して横須賀軍港に到着、無事横浜刑務所に帰庁し た後、更に一週間の休暇を頂き宮城刑務所、横浜刑務所に 集結した 2,000 名の受刑者とともに南方のテニアン島に渡 り、ハコイ飛行場の建設に従事して無事日本に帰国した。

横須賀軍港

貴重な体験談が残されている。戦時下とは言えその苦労 は並み大抵ではなかっただろう、帰国があと数年遅れてい れば職員、受刑者共々戦争に巻き込まれ戦死するところで あった。横浜刑務所構内には南方で殉職した職員及び受刑 者の慰霊碑が建立されている。 ふるしろの里 太田喜作

テニアン島・・第一次世界大戦後、日本の委任統治領と なり、第二次世界大戦前は多くの日本人が入植し、砂糖 黍栽培などに従事していた。一方、この島の戦略的価値 を見出した日本海軍は同島に飛行場を建設。当時南洋最 大といわれたハゴイ飛行場が完成する。そして戦争が勃 発し、ギルバート諸島・マーシャル諸島を攻略した米軍 は日本本土爆撃および内南 洋における日本軍の海上、 航空兵站線を攻撃する基地 を確保すべく、1944 年 6 月、 テニアン島の戦い マリアナ諸島攻略計画を発 動させた。一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地とし テニアン飛行場 て使用していたが、陸上兵力が少なかったため、満州の遼陽か 12


ら陸軍第 50 連隊(連隊長 緒方敬志大佐)を移駐させた。6 月 19 日、20 日のマリアナ沖海 戦で日本機動部隊を撃退した米軍は 7 月 8 日サイパン島の攻略を完了、それに続いてグア ム島、テニアン島を攻略した。

昭和 15 年 4 月

矢本町に構外泊込作業場を設置

海軍省の委託により、飛行場建設の工事整地作業施行 のため、桃生郡矢本町に構内作業場を設く、矢本作業部 隊と称する、出役人員 400 名~500 名。 矢本町構外泊込作業場での出来事・・昭和 14 年、私が支 那事変から帰って、宮城刑務所に復職して、昼夜勤の監 督部長をしていた。当時は構外作業場は 3 箇所あり、殊 現在の矢本飛行場 に矢本構外作業場は海軍の飛行場(現第 4 航空団松島基 地)を建設するにあたり、宮城刑務所から受刑者 100 名以上出役していた。職員は作業場長 ほか約 20 名が勤務していた。国家の大事業であるので収容者も職員も大いに奮起して勤務 していた。 現金盗難事件・・ある晩、事務室内に保管してあった現金(木箱に入っていた)が紛失して いることに気がついた。場長は直ちに所長に報告すると共に、本所の戒護課長(現処遇首席) は現場に駆けつけて来て、犯人の割り出しに場長や幹部と協議した。 当日の夜勤看守の某が長いマントを着て勤務していたので疑わしいと思われた。看守宿舎 の私物検査を実施したところ、疑われていた某看守の私物の中に防空演習で使用している遮 光幕が出てきたので、某看守を犯人と勝手に決めつけて、厳重に取調の上、作業場の一室に 監禁し、監視人に職員 2 名を付けて自白を強要し革手錠を施用した。 反面某部長は鳴瀬町地区の飲み屋街で某看守が飲みに来なかったか調べ歩いていた。それ で警察でも不審に思い内偵を進めておったらしく、疑いをかけられた某看守を作業場内に置 けなくなり、本所に移すことになった。その晩、戒護課長が従来使用していた当直室 2 室の うち 1 室を某看守と監視職員に明け渡すように厳命した。 当直看守長の抗議・・看守長は戒護課長に「監獄内で発生した犯罪の捜査は確かに戒護課長 と庶務課長に発令されているが、それは、監獄内で受刑者の犯した事件に対する捜査権で、 職員には及ばないところであり、今回の職員の取り調べは越権行為である」と主張したが「構 外作業場で発生した事件は、司法警察職員たる戒護課長の権限でできる」と強弁で譲らなか った。然し当時の所長は検事出身なので、その決済でやることなのでそのまま戒護課長の主 張が通つた。 真犯人逮捕・・某看守を取り調べ中に、北海道の夕張署から宮城県警に通報があって、構外 作業場の事務室で経理夫(職員の雑用係り)をしていた元 1 級受刑者が、釈放後郷里の北海 道に帰る途中、灯火官制下を奇貨として作業場の塀を乗り越えて、勝手したる作業場に忍び 込み、その木箱ぐるみの現金を盗み、木箱は松林に捨てたと自供した事実が判明した。疑い

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をかけられた職員こそいい迷惑であった。彼はそのことでほかの刑務所に飛ばされ、醜い仕 打ちをされた。戦前の偏見が公然と闊歩した時代であり全く人権を無視された恐ろしい時代 の出来事だった。 ふるしろの里 甲山菊治

昭和 15 年頃の養豚事業 当時、宮城刑務所の養豚場(当時の養豚所は現在の青葉女子学園付近にあった)では、豚 300 頭、兎 300 羽、馬 1 頭、牛 1 頭飼育していた。飼料の大半は受刑者の残飯であったが、 受刑者 200 余名が飛行場建設のために、南方方面まで出役するようになり、残飯量が激減し てしまった。窮余の一環として師団(陸軍)に交渉して軍隊から残飯の払い下げを受けるこ とになったので、工兵大隊兵舎まで帯剣姿で買い付けに出ることもあった。 捜査犬の養成・・この頃、逃亡者が松島、本所からと続出した。本所では六角舎房の床板の 土を掘って土台下をトンネル状とし、軒下の敷石を持ち上げて脱出、施錠してある梯子を持 ち出し、塀を乗り越えて逃走するという事犯が起きた。そこで幹部職員の間から「刑務所で も捜査犬を養成せよ」ということになり、 「養豚担当、あれは動物 屋だから、あいつに扱わせろ」ということになり、とうとう私が 養成係りに当たることになった。犬については全くの素人で、そ こで知人を訪ねたり文献を漁るやらで、その苦労は一通りではな かった。 其の後、農耕班の担当を命じられたので、農場に受刑者を集め て、畑に帯剣をぶっ刺し、鍬の使い方の模範を示したり、青竹を 立てて置き、帯剣を抜いてズバリ切り落としたり、海軍出といい ながら荒馬を乗りこなしたり、豚や兎の去勢をして見せたり、巨 木を一本の綱で楽々動かしたりなどやり、受刑者を驚かせたこと もあった。 ふるしろの里 高橋俊平

六角塔の敷石

余録・・刑務所の養豚事業は昭和の終わり頃まで行われていた。昭和 57 年頃まで、現青葉 学園一帯に養豚場があり、受刑者 5~6 名が出役し、職員も 4 名程で戒護していた。青葉学 園の移転に伴い、工事が始まると所内の北東の隅に養豚場を移築して、50 頭余り飼育して いた。現在では養豚事業は諸般の事情により中止になり、受刑者の残飯は刑務所で金を出し て外部の養豚業者に引き取ってもらっている。

昭和 15 年 12 月 10 月

副看守長及び少年考査官の職制を設く

勅令により新たに副看守長及び少年考査官の職制が設けられ、即日施行さる。

昭和 16 年 1 月

満州時代刑務官生活の思い出

ソ連軍の侵攻・・私は軍隊を満期除隊して、旧満州国 司法部刑務官の試験を受け新京地方 刑務官訓練所に入所。6 ヶ月の訓練満了後は、全満で日本人犯罪者だけを収容する奉天第二

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刑務所に配置替えを命じられ、勤務中の昭和 20 年 8 月に終戦を迎えた。検察官の指揮によ り収容者を開放し、内地に引き上げる準備をしながら官舎で待機していたところ、ソ連軍が 進駐して来たので心配しながら暮らしていた。 あに図らんや、ソ連官警の呼び出しを受け、全職員が刑務所に出頭するよう命令があった ので登庁し、初めて武装解除となり当時の階級、仕事の内容について取り調べを受けた。其 の後、所長、副長は軍監獄へ連行され、典獄補以下は、元勤務していた刑務所独居房に投獄 され不安の日々を過ごしていた。家族も毎日差し入れに来ていたが、家族は元日本軍が兵舎 として使用していた収容所に移され、家族とも別れ別れになってしまった。 シベリア抑留・・いよいよシベリヤ行きかなと思い、収容 所から逃げる覚悟で 2、3人と組んで、朝の 2 時頃計画を 実行してみたが、ソ連軍の警備が厳重なことと、銃声も聞 こえて来るので家族のことを思い、もし殺されたら大変と 逃げることだけは思いとどまった。結局はシベリヤに送ら れ、抑留生活 3 年間の強制労働後、昭和 23 年 12 月無事舞 鶴港に上陸、復員した次第ですが、妻は病死、異国の土と なり、子供は生死不明である事を知ったのは引き上げてか らのことであった。

満州国奉天市内の様子

宮城刑務所拝命・・しばらくの間は、蝉の抜けがらのような状態で、ただ為すすべもなく、 うつろな毎日であったが、こうしては居れないと、今後の身の振り方を考えた。結局は旧満 州矯正時代の体験を生かして刑務官として身を立てるべく宮刑を訪れ、係官に満州矯正の事 を申し上げ採用して下さるようにお願いしたところ、刑務官の試験も都合よく受けることが でき、昭和 24 年1月宮城刑務所に採用になりました。 ふるしろの里 奥山安雄

昭和 16 年 6 月 25 日

夏期休暇不許となる

訓令により夏期休暇(暑中半休)はこれを許さないこととなる。(本年以降戦時中は暑中 半休は許されなかった。)

昭和 16 年 12 月 8 日

宣戦の大詔渙発、大詔奉載日設定

宣戦の大詔が渙発され、同年 12 月 16 日、内閣は今次対米英戦争及び今後生起すること あるべき戦争は、支那事変を含めて大東亜戦争と呼称することを告示し、平時戦時の分界時 期は昭和 16 年 12 月 8 日午前 1 時 30 分とされた。

昭和 17 年 1 月 2 日

「大詔奉載日」の決定

内閣は、宣戦の大詔渙発の日を挙国戦争完遂の源泉たらしむ日と定め、同年 1 年 8 日よ り、毎月 8 日を「大詔奉載日」とし、「輿亜奉公日」はこれを廃止して、大詔奉載日に発展 帰一せしむるものとされた。

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昭和 17 年 1 月

北郷村に構外作業場を開設、船岡作業部隊と称する

海軍の委託により、火薬庫敷地整地作業施行のため、宮城県伊具郡北郷村に構外泊まり込 み作業場を設く。船岡作業部隊と称する。出役人員 400~500 名、昭和 20 年 5 月未完のま ま引き上げる。 余談・・当時の船岡作業部隊の写真 2 枚が残っている。トラックに乗って作業現場に行く受 刑者の姿は手錠も無く、逃走しようと思えば簡単に決行出来そうである。作業風景を写した ものは、飛行場の水路を掘てい る作業のようだが、職員も多数 警備している様子が窺われる。 それにしてもかなり危険を伴う 作業のようにも思える。 船岡作業部隊

昭和 17 年 3 月 3 日

作業風景

行刑非常警備規定制定

訓令を以て、行刑非常警備規定制定され、全国を 7 つの行刑警備管区に分け、当所は秋田、 青森、盛岡少年と共に、宮城行刑警備管区に属する。(福島、山形は当時支所)宮城刑務所 長は司法大臣の指定刑務所長として、その行刑警備管区に属する各所の長と協議し、行刑警 備管区の警備計画を定め、これが実施の責任に応じて、且つ警備を完うし能わざる場合にお いては、司法大臣の指揮を受け、指揮を受ける暇なき場合は、隣接行刑警備管区の指定刑務 所長に対して、必要な協力を求めることを得ることになった。

昭和 17 年 8 月 20 日

戦時中の官庁執務時間延長

閣議決定により、退庁時間 1 時間延長となる。(11 月 1 日より施行)

昭和 17 年 9 月 1 日

臥竜梅 国の天然記念物に指定される

指定報告書・・通称朝鮮梅として知られる 此の梅樹は臥龍梅の巨樹なり。文禄 2 年、伊 達政宗、征韓役に赴きて此の梅を得、鉢植え にして徳川氏の監察松平友三郎に託して持 ち帰らしめ、之を少林城(若林城)苑内に植 えしめたと伝える。現在の梅は側に建ててあ る朝鮮梅碑(第一国版中央より向かって左に 見るゆしもの明治 33 年 5 月 3 日に建設)に 刻まれてある碑文に拠れば、明治 33 年より 遡れば百数十年前監苑福井文太夫が親木の 次第に衰えていくを見て接木をつくりしも 宮城刑務構内の臥龍梅 のがよく繁茂し、後二株となりし故その中の 一株を現在地に移したのが、現在の樹なりとの事なり、故に此の臥龍梅は政宗の送りしもの の二代目に当たり、約二百年の樹齢を保つものなり、樹高さ約 9 ㍍、枝は広がりて約 100 坪 16


の地積を占め、東西に約 20 ㍍、南北に約 23 ㍍展開して、根元の周囲 1.52 ㍍あり、親木を 賦せる政宗の詩として伝えるものが碑面に刻まれている。 絶海行軍帰国日 風流千古余清操

鉄衣袖裏芳芽 幾度閑看異域花

杉浦重剛氏のこの梅につき御進議申上し草案には「幾度閑看異域花」と閑が間に代えられ たり、由来朝鮮は我が国が支那の文物を搬入したる経路に当たり、仮令現時の朝鮮には同種 類の臥龍梅はなくとも、征韓役の頃に此の種の臥龍梅が政宗の赴きし南朝鮮にありて彼の目 に触れ、遂にそれを持ち帰りと推定するも可なるべし。この梅は遅咲、白単弁の大輪にして 年々よく結実す。蓋し由緒正しく又美事に生育せる臥龍梅の逸品と謂うべし。

昭和 17 年 9 月 22 日 昭和 17 年 9 月

仙台刑務支所廃止

未決は宮城刑務所に移送となる。

女子受刑者の拘禁区分の改正 拘置区が設けられる。 当所の女区には被告人を拘禁せざることに なり、収容中の女子受刑者は栃木刑務支所に移 送し、今後確定した女子受刑者は同支所に移送 のこととなる。改正の施工は 10 月 1 日である。

女子収容者の作業風景、黒い着物が職員

昭和 17 年 11 月 1 日

未決拘禁者の収容開始

宮城刑務所 仙台刑務支所廃止後、未決収 容者は元女区へ収容のこととなる。 (現在の 仙台拘置支所)当時の刑務支所(未決拘禁者 を収容施設)は片平丁に開設されていたが、 戦争が激しくなってきたので刑務行政の合 理化のため、宮城刑務所に移転し拘置監と して業務を開始したのである。 片平丁の支所の跡地は少年院となった が、昭和 20 年 7 月 10 日の仙台大空襲で庁 舎、官舎共に焼失してしまい、少年達の収容 業務は停止となった。

女子収容者の運動風景

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日本の絞首刑制度 明治 2 年 9 月 2 日、明治新政府は新しい時代に即する刑法に付いて、衆議院に対して下 門した。その中に「保元以降、武士権ヲ専ニシ、刀鋸以テ下ヲ率ヒ、寛恕忠厚ノ風遂ニ地ヲ 掃フ」武門の天下になってから武力と威嚇で、天下を統治してきた。ために寛恕(心が広く て思いやりがある)の風が地をはらったと批判している。 新政府の刑法には、西洋法(ドイツ近代刑法)が移入され、やや人道化したが、実際には まだ、江戸期の刑罰の匂いが強く残っていた。明治 3 年の新律綱領布告第 944 号において は、笞・杖・徒・流・死の 5 刑を正刑と定め、火罪・鋸引きの酷刑を廃止したが、依然とし て磔・獄門・死罪・切腹刑は残されていた。新たに絞首刑が導入された。絞首刑はその首を 絞めて殺すだけであって体は無傷であるため、斬首より軽い仕置とされていた。 懲役刑の制定・・明治 5 年になって、ようやく笞・杖が廃止され、懲役刑がもうけられた。 同 6 年に改定律令ができ、徒・流も廃止され全て懲役刑に切り替えられた。同 13 年新刑法 の制定により獄門(梟首刑)・磔・死罪(斬首)・切腹の全てが廃止され、死刑制度は絞首 刑のみになる大改革がおこなわれ、近代的な刑罰体系が誕生したのである。 発足当時の絞首刑・・明治政府は 1870 年に従来の死刑執 行方法に絞首刑を導入すると布告(新律綱領 明治 3 年 12 月 20 日布告第 944 号)が出された。この時、最初に導 入されたのが絞柱という懸垂式の処刑器具であった。 死刑台の製作・・最初にこれを制作した棟梁 野村氏の話 によると「初めて絞首台を造るときに内務省から呼び出さ れ、入札させられた。元値は 25 円くらいであったが、落 札がいやなので 120 円から 130 円の札を入れた。ところ が、他の者も嫌なものだから 150 円から 300 円くらいま で入れたために、自分が落札することになった。絞首台は、 欅の尺度で、長さが1丈、下の台が大、中、小の 3 枚で出 来ていて、その台に死刑囚を乗せて、合図でその台を弾く 処刑器具 と、一方に分銅がついていて、首が絞まる。首に跡がつい てはいけないというので、首にあたるところには髪の毛を巻いて、その上に鹿の皮を縫い付 けてある。その縄の一方には 15 貫の分銅がかけられる。絞首台の実験は天心真揚流の達人 が自分で絞首台にかかり、何貫の分銅で完全に死ねるか試してみた。その結果、15 貫では 重すぎるということで 13 貫になった。」 (1丈=3.0303m

13 貫=48.75kg 15 貫=56.25kg)

余談・・山田風太郎の小説「絞首刑第一番」によると、刑部省から発注を受けて首吊り柱を 制作した大工の秀五郎が、皮肉にも自分がそれにかかる第一号となるという、風太郎らしい 趣向をこらした短編小説がある。

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アメリカ人医師のベリーは当時の絞首刑の様子を次のように記録している。 外国人ベリーの見た絞首刑の執行・・ 「我々は処刑場に導かれる。処刑場に 2 人の死刑囚が連れてこられた。彼らは木 の台に載せられ柱に紐で結われられた。 その紐は彼らの身体を支えるには足り ないくらい緩く結ばれている。彼らの首 の周りに運命の綱がかけられ、鉄の重し が落ちる。 恐ろしい振動が身体を揺さぶる。足の 載っている台がどけられた。新しい痙 処刑台の略図 攣が死刑囚を揺さぶる。しかしこの締 めつけられた咽喉からはうめき声一つ出てこない。覆われた顔の上では無く、半ば開いた着 物からむき出しになった胸の上に、この断末魔の苦しみをたどることができる。 横隔膜が、必死の収縮をして息をしようと持ち上がるのが見える。筋肉の麻痺が身体全体 をゆさぶる。手の中の時計では、死刑に 6 分かかっている。しかし遂に頭が傾く。顔が青く なり、ゆがむのが分かる、全てがおわった。」とあり、この方式による苦痛の有様が生々し く述べられている。だが、この処刑器具には欠陥があり、わずか 2 年しか使われず絞罪器械 図式に変更された、これは場合によっては被執行者が蘇生するというものであった。 蘇生した死刑囚・・変更された理由として致命的な打撃を与えられなかったということもあ るが、当時の処刑手順の定めでは「重石を架けて 3 分後に死相が現れてから縄を解く」とい うもので、心臓停止後 5 分間経過するまで執行を継続しなければ蘇生する可能性がある事が 指摘されている。なお絞柱で処刑された死刑囚のうち 3 人が蘇生したことが記録されている が、処刑の経緯やその後の経緯について記録が現在に伝わるのが後述する田中藤作に関する ものが唯一である。 石鉄県(現愛媛県)の騒擾事件の概要・・久米郡北方村(現東温市)の農民 田中藤作(当 時 31 歳)は、一揆の際に放火したとして 1872 年 11 月 28 日に松山高石垣(現在の松山市 藤原町)の徒刑場で絞首刑を執行された。当時の慣習では死刑囚の遺骸は引き取り手がなけ れば腑分け(解剖)されることになっていたが、藤作の遺骸は親族が引き取った。 生き返った死刑囚・・徒刑場から 1 里(約 4Km)ほど荷車 に積んで運んだところ、藤作の棺桶からうめき声が聞こえ たため、蓋をあけたところ藤作が蘇生していた。藤作は村に 生きて戻ってきたが、村人は石鉄県の聴訟課に蘇生の事実 を届出、今後についての指示を仰いだ。江戸時代の刑罰は死 刑囚の身体を破壊するものであり、生き返るという前例が なかったため、県では処刑を担当した役人 3 人の進退伺い とともに中央に対処方法の指示を仰いだ。

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荷車


戸籍の回復・・中央政府から指示が届いたのは翌 1873 年 9 月であるが、その文章は「ス デニ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキナシ。直チニ本本籍ニ編入スベシ」というもので、 生き返ったとしても既に法に従い刑罰としての執行は終わっているのだから、再び執行す る理由はない、よって戸籍を回復させよというものであった。これは革命前のフランスで は絞首刑で稀に蘇生した死刑囚がいたが、この場合国王が赦免した事例があったことが参 考とされた。なお県の役人については検死に問題なかったとして処罰なしとなった。文字 通りの日本絞首刑史上空前絶後の事故であった。 その後の藤作・・藤作は 26 年後の 1898 年まで生きたとされるが、4 年後には死亡したと いう話もあり、いずれかははっきりしない。ただ藤作は一時的に仮死状態になった後遺症 のためか、精彩を欠き小さな小屋で孤独な生活をしていたという。なお彼の墓は墓石がな かったため竹薮の中の何処かにあるという。 絞架(13 段階段)に変更・・この絞首刑の方法 は明治 6 年まで用いられたが、同年 2 月に太政 官布告にで、絞架(13 段階段)に変更された。 執行方法は 13 段階段を登って、死刑囚を踏板 の上に立たせ、両足を縛る。次に絞縄を咽喉に かけ、縄を通してある鉄環を後ろに回して緊縮 し、踏板を開落させる。死刑囚の身体は、地を 離れること 30 ㌢で空にかかり、だいたい 2 分 で絶命した。その死相を確認して遺体を地上に

絞架(13 段階段)処刑器具

下ろした。この方法は大正時代まで用いられた。これは英国式刑具を模倣したものであ る。 13 階段の由来・・絞殺刑の絞首台の階段は俗に 13 階段といわれるが、これは西洋の刑場 に多く、最後の晩餐の出席者がキリストとユダを含めて 13 人だったことに由来する。 死刑 3 度もやり直す・・強盗殺人の罪により死刑の判決を受けた吉田梅吉は、平生余程剛 気の性質にて且つ身体頗る長大のもののよしなるが、死刑執行の当日式の如く死刑台に上 がりて首に縄を引き掛け、踏み板を外して定式に従い 2 分間を経過した後、絶脈して否か 医師が診断したが、如何なる具合か不思議にも死刑囚の手足は色既に変じて居たけれども 顔色依然として更に異常あらざるにより、再び死刑囚を絞台にかけた。しかし、又前の通 りにて死に至らなければ、更に又々絞台にかけ都合 3 回にして始めて絶脈(死亡)したる 由なり、然るに右の如き例は是迄多かざることにて、殊に我が国は固より欧米諸国に於い ても再三絞台に登らせてまで死に抵すべき法令のあるべきものにあらざれば、其の筋に於 いては此の義に付き余程議論の生じ居るやに聞き及ぶべり。吉田梅吉は、強盗、脱獄、巡 査殺しなどの科により大坂・中之島監獄分署で死刑を執行された。 明治 19 年 3 月 23 日

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朝日新聞


現在の絞首刑台・・現在の死刑台は地下絞 架式になっているが、この変更に対して新 しい法規も通達も出ていない。戦後、ある 死刑囚が、現在の地下絞架式は、法規によ るものではない。だから違憲であると提訴 して話題をよんだことがあった。その意味 では、確かに現在の死刑執行方法には疑問 がある。つまり、絞架式を改めて踏板を地 上に並行させ、その下の地を掘り下げて絞 罪機械を地下に移したものである。執行様 式に大差はないのだが、絞罪機械を地下に 移すことについて、新しい法規は出されて 現在の刑場の立体図 いない。その理由も示されていない、ま た、現代の死刑執行は絞殺というより、縊殺である。だから現行の死刑は、絞首刑には当 たらず、法の定めるところのものではないという議論もある。古畑博士は法医学の立場か ら、縊死であると断定している。 宮城刑務所の死刑執行・・何時ごろから行われていたのだろうか、死刑囚は一般受刑者と違 い、執行されるまで拘置所に収容されている。宮城県内の拘置所は昭和 17 年 9 月に片平丁 から宮城刑務所の女区跡に移転してきた。 明治以降、県内で死刑の判決が確定した者は、市内の片平丁の旧宮城県監獄署跡地に設置 されていた拘置所(宮城刑務所仙台刑務支所)内で執行されていた。同 17 年に拘置所が宮 城刑務所内に移転して拘置区となった以後は、刑務所の敷地内に設けられた刑場で執行され ることになった。拘置所の場所は現在の仙台拘置支所の敷地内で、刑場は宮城刑務所構内(旧 若林城の土塁の内側)の西北の隅にある。死刑囚が収容されている居室からは 100 ㍍ほど離 れており、土塁をくり抜いたトンネル状の通路があって、職員、収容者が頻繁に通る場所を 通らなければならない。死刑執行の当日はこの通路を封鎖して死刑囚を拘置所の居室から刑 場まで連行するのであるが、死刑を目前に大人しく職員の指示に従い連行される者は少なく、 多くの死刑囚は激しく抵抗して連行職員の過剰な負担となっていた。 新刑場の設置・・平成になってから拘置支所構内の地下に新たに刑場を設置した。場所は死 刑囚の居室傍の地下で、地上を通ることなく短距離で死刑囚の居室から刑場まで行くことが 出来きて、刑場までの連行が容易になり職員の負担が軽くなった。旧刑場は地下部分が全て 埋められ地上部分の建物も取り壊されて平地になり、刑場の面影を残すものは全て撤去され て倉庫として使用されている。

昭和 17 年 11 月 3 日

囚人、看守を切る。宮城刑務所の殺人事件

宮城刑務所の囚人が看守を殺害した事件がある。10 月 31 日午後 5 時 40 分頃、囚人の福 島県生まれ前科 8 犯須藤秀雄(37)が刑務所内において、製靴作業中、刃物を研ぎ髭を剃っ て切れ味を試して居るのを、看守の宍戸幸之丞(41)がそれを見つけて「なんだ剃刀を研い 21


でいるのか」と聞いたところ、須藤は「いーやこれは剃刀では無い」とその刃物を小脇に隠 して、自分の席に戻った。 宍戸看守殉職・・それから約 20 分後、須藤は突然、 宍戸看守の前に詰め寄り「さっきの刃物はこれだ、 俺と同部屋の男をどうして、ほかの部屋に移したの だ」と詰問してきたので、宍戸看守は「俺は知らな い」とはねつけると、須藤は矢庭に研ぎ澄ました刃 物を取り出し宍戸看守の腰部に切り付け左動脈切断 の重傷を負わせた。宍戸看守は鮮血にまみれ直ちに 同医務所に収容されたが約 10 分後に死亡した。 宮城刑務所旧工場 犯人須藤は窃盗罪により大正 8 月平区裁で懲 役 3 年に処されたのを筆頭に刑務所入りを繰り返し、昨年 12 月に同じ窃盗で懲役 5 年に処 されて宮城刑務所に収容されていた脱獄の前科もあり極めて凶暴な男であった。 翌日仙台地検から安達検事が出張、現場検証の上、犯人須藤を取り調べ中だが、須藤は同

房の囚人と特に親しくなり、その相手が突然ほかの房に移されたのを同囚から聞いて、これ は宍戸看守の申告によるものと邪推し、同看守に刃物のことを聞かれたので発作的に殺意を 抱きこの凶行に出たものと釈明した。 怨みの凶行とは考えられない・・囚人の凶刃に倒れた宍戸看守は名取郡千貫村生まれ昭和 3 年宮城刑務所看守を拝命した。家庭は妻ふみさん(36)との間に長男以下 4 人の子供がい る。この事件について刑務所長は語る、「宍戸看守は非常に真面目で 2 週間前に他所の係り から抜擢されて作業監督になったばかりである。従って囚人から怨まれるようなことは無か った筈だ。囚人の監督は頗る厳重にしてもいけないし、甘やかしてもならないが犯人と特に 冷遇したような事実もないようだ。」 犯人は何か誤解してこの凶行に及んだと思われる。私は出張先から帰って来てこの事を聞 き実にビックリしている。且つ宍戸看守が鮮血に濡れながら看守部長に「サー医務室に行こ う」と言われるまでその場に起立していた立派な態度と責任感に敬服した。兎に角刑務所内 で、このような騒ぎを出した事は誠に遺憾であり、宍戸看守の遺族に対して気の毒でならな い。 副長に特進・・11 月 5 日、刑務所葬が行われた。宮城刑務所では被害者の宍戸看守の死を 殉職と認め、5 日午後 2 時から刑務所前道場で同刑務所最初の刑務所葬を遂行することにな った。同僚看守から非常に気の毒がられているのは勿論、在囚人からも続々と弔慰金が寄せ られているという。 余録・・この事件の発端は囚人同士の同性愛である。刑務所では同性愛のことはアンコ(女 役)カッパ(男役)と呼んでいる。この二人の関係を察知した宍戸看守がアンコの方を他の 房に転房させたのを、須藤が逆恨みをして凶行に及んだのである。刑務所では同性愛の関係 にある囚人が多く刃傷沙汰の事故を起こすことが多い。社会でも男女関係の縺れが殺人まで 発展することがあるが、刑務所でも同じで最も注意しなければならない人間関係である。

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昭和 18 年 1 月

中野沼向かいに構外作業場設置

海軍省の委託により、兵器格納庫その他の敷地整 地作業施行のため、仙台市中野沼向かいに構外泊ま り込み作業場を置く、多賀城作業隊と称す。出役人員 は 400~750 余名、工事未完のまま昭和 20 年 5 月引 き上げ。 戦場に送られた刑務官・・戦争が激しく有り兵士が不 足して来ために、宮城刑務所の刑務官にも赤紙が届 き現職のまま戦地に送くられた。 宮城刑務所から出征して戦病死した職員は下記の 通りである。

出征兵士を送る

日露戦争・・・・・看守 1 名 第二次世界大戦・・看守 8 名 看守部長 22 名 技官 1 名 合計 37 名

副看守長 3 名

看守長 3 名

戦時中看守部長の出征が多いのに驚く。宮刑の中核をなす職員が次々と出征していくので、 宮刑もベテラン職員がいなくなり、警備力が低下して施設運営も大変であっただろう。

昭和 18 年 3 月

当時の宮刑に収容されていた○党幹部の日記より

刑務所の実権を握る元軍人・・私が宮刑で印象に残っていることは、軍事法廷で判決を受け た陸軍の将校たちが、彼頃 20 名ほど居りまして、位の高い者には、戦車隊の中隊長で大尉 も居りました。この元軍人は生粋の職業軍人で前線で、大隊長を斬ったことで無期懲役で入 所していました。その他 10 年以上の刑期を務めている者も多数居りました。 その軍人たちが刑務所の中では優遇され威張っていました。彼らは炊事の仕事をしており、 当時の食糧不足の時代にこれほど有難い仕事はありません。中には職員の食事を作っていた のですから、肉はある、砂糖はある、ですから我々一般受刑者では匂いを嗅ぐことも出来な いものばかりです。 所内の収容者の食事も一般の収容者の味噌汁など、上の汁をすくって、 それを桶に入れて配り、自分たちは実ごとごっそり食べ、飯も山盛りにして食べていた。仕 事はするが頭は使わないので、みんないい体になっちゃって、戦車隊の元中隊長などは、受 刑者に体操をやらせる時も、高いところから号令を掛けるものですから体を弓なりにしてす ごい号令でした。 市○正○さんの事・・市○さんのことですが、仙台に送られて来た時、看守と新入者との話 を聞いていて、もしかしたら彼じゃないかとピンときました。話している言葉が、普通の受 刑者と違うんですね。彼の洗面の手桶がなかったのか、手桶を取りに私の隣の空房に看守と 共に取りに来て話をしている様子を窺っていると、どうも年は取ってるけれども市○さんの ようだ。市○さんだと分かっても、向かいに知っている人がいると看守にバレると他に転房 されて困るので、いつか声をかけてやろうと思っていた。

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市○さんとは・・共○党の創立当時からの党員であり、 第 2 次大戦前の共○党の誇るべき指導者の一人です。天 皇制権力の野蛮な迫害で 16 年間も監獄に収容され、敗戦 の半年前の 1945 年 3 月 15 日宮城刑務所で栄養不良のた めに衰弱死しました。享年 53 歳。 戦時下の看守不足・・刑務所の看守も兵隊に召集され、 人手不足になっていました。六角塔の 3 舎の独房に入っ 六角塔の独房 ている受刑者を全部一緒に運動させることになり、看守 が舎房の鍵を次々と開けていき、順番に舎房前に立つのですが、私の方が先に出て市○さん が後から出てきたので、看守の目につかないように近寄って「市○さん、袴○ですが」と声 をかけたら「あつ、袴〇さんですか、あんたなんでここにいるの」と言われた。その時から 気を付けながら情報交換していくことになった。診察の時、運動場に行く時、風呂に入ると き近くに寄って話をした。刑務所も看守が少なくなって独房の受刑者も一緒に入浴すること になった。 市○さんの戦い・・市○さんが宮城に移送されて来てから、千葉の刑務所で書いたノートを 持って来ているのだが、宮城ではノートとペンは使用不許になっている。それで困っている のだと云う。僕もノートとインク、万年筆を買うことを許可しろと、刑務所側と交渉して許 可になった。そこで 2 人で共同戦線をはって要求した。市○さんは「他の刑務所で許可にな り何故宮城では不許可になるのだ、同じ日本の刑務所で差別があるとはおかしいじゃないか」 と抗議したら 44 年の暮れにやっと許可になった。 市○さんの衰弱・・市○さんは栄養失調のうえ歯がろくになく、入れ歯をいれたが合わなく て使えず、監房の仕事台の上にトウモロコシ等を乗せて、それを手でスリ潰して食べていた。 仕事台の上が真白くなっていた。私が部屋を覗いて分かったんですが・・・。 9 月の末頃、仙台でもさつまいもが収穫されまして、雑役からさつまいものことを聞いた ものですから、所長に談判してさつまいもを出させることにしたのですが、出てきたのは親 指ぐらいの物 5 本ぐらいなので、看守長に文句を言ってやった。市○さんは看守相手に言葉 を荒わげないで 2 時間ほど話し込んでいた。 市○さん入病・・戦況が悪化すると共に、刑務所の食料事情ますます悪化して行き、市○さ んも栄養不良の下痢が止まらなくなってきた。足もむくんで立って歩こことが困難になった。 運動に出るときも声を掛けるのですが、寝てはいなかったのですが仕事が出来る状態ではな かった。45 年の 1 月頃、市○さんは病舎に連れて行かれた。我々が市○さんを早く入病さ せるように刑務所側に要請していたので止むなく入病となった。 市○さんの病死・・その後の市○さんの様子は中々話してもらえなかったのですが、医務の 雑役に聞くと、だいぶ弱っているとの話でした。3 月頃、食事を配る雑役が「向かいの房に 居た方が病舎でなくなりましたよ」と教えてくれた。それで初めて市○さんの死を知ったの です。

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市○さんの経歴・・市○さんはコミンテルンの執行員であり、党の中 央委員で非常に立派な革命的な人格者でした。いつも冷静で、市○さ んのように理論的にも高いすぐれた指導者が、敗戦後の党の再建、そ の後の指導に参加していたら、戦後の党の発展におおきな影響をあた えたと思います。このような同志が、あと半年で敗戦という時に、野 蛮な天皇制支配の弾圧によってその命を奪われたということは、日本 の党にとって大変な損失であり、本当に惜しまれてなりません。 コミンテルン・・共産主義インターナショナル(コミンテルン)は、 1919 年レーニンの指導のもと、ソ連に作られた国際組織で、1943 年 の解散まで各国の共産党は、その支部として活動しました。1922 年

独居房

に創立された日本共産党は、同年 11 月のコミンテルン第 4 回大会で日本支部として認めら れました。 当時の宮刑の食料事情・・一般受刑者は食事が早いのです。私たち 3 舎の独房は主に思想犯 を収容していた。たまに凶悪犯罪を犯した者が一時的に思想犯の一房おきに入って来るので す。彼らは飯が入ると 5 分ぐらいで食べ終わり、食器を食器溝に出すのです。私たちは完全 に消化しやすいように、1 時間かけて食べていたのです。トウモロコシご飯になってから、 よく噛まないで食べるために消化不良を起こし、栄養失調になり随分死にました。 栄養失調で死ぬ人は、ちゃんとした意識がありながら、だんだんロウソクの火が消えるよ うに死んで行くのです。お互いに隣房同士で寝る前に壁を叩いて挨拶するのですが、朝にな って挨拶がないと思ったら死んで固くなり担がれて引っ張り出されているのです。そうゆう 食事状態ですので副食物が多少なりとも腹の足しになればいいのですが、其れもない樽で運 んでくる汁の上汁だけ我々のところに回して、中の具は炊事係が自分たちだけで食べてしま う。 刑務所長に談判・・我々は中に具のない水のような汁を「しょんべん汁」と呼んでいました。 そこで独房の受刑者を虐待するのは止めろとばかりに、汁が出来上がる頃を見計らって所長 に面接に行くと、所長が「じゃ今から現場を見に行きます」そんなはずはないと頑張るので す。そこで炊事担当看守を呼んで、私に見せることになったのです。「いまから看守が迎え にいくから現場を見たらいいだろうと」と言う事なので行ってみたら、既に看守が証拠隠滅 して、独居に配当する副食は蓋が持ち上がるほど中身が詰まっているのです。 隠蔽工作・・今日はいいです。今まではこうじゃなかったのです。炊事夫の顔を見ると、み んなそっぽを向いているのです。軍法会議で受刑者になった元軍人たちも悪いとは思ってい るのですが、看守達は返事をしないのです。これからずっとこの状態を続けてくださいと行 ったら、「いいだろう」と看守は返事してくれたのです。 その食事を 3 舎に運んで大きな声で「今所長に談判して炊事場へ見に行ってきた。今日の 汁は実が多いから皆ちゃんと食べて」と、言ったら歓声が上がった。いや戦わなければここ で殺されちゃうのです。しかし、それは 3 日しか続きませんでした。

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余談・・東北大学地下霊安室に安置されていた市○正○。30 数年前、高校時代の恩師との同 級会の席で、話が市○さんの其の後についての話題となった時、恩師は「実は当時○党の衆 議院議員の庄○さんが、東北大の医学部の地下の遺体安置室に市○さんが眠っているのを偶 然見つけた。」と話していた。既に 2 人とも故人になられているので真偽のほどは分からな い。

昭和 18 年 5 月 3 日

老弱受刑者収容規定

男子受刑者にして、刑期 6 月以上の者について年齢 65 歳以上の身体虚弱、立業に耐えざ る者、不具者、聾唖者等は宇都宮刑務所に移送のこととなる。

昭和 18 年 5 月 25 日

増菜廃止

行刑累進処遇令による増菜廃止となる。時局下物資不足と、一般収容者の副食栄養維持の ために本月限りで廃止することになった。

昭和 18 年 6 月 17 日

長期受刑者収容規定による移送

長期受刑者収容規定が施行され、東京、名古屋、大阪及び宮城の各行刑警備管区所属各所 における無期又は 10 年以上の言い渡しを受けたる懲役、禁錮受刑者は、当所に収容するこ ととなる。当所確定受刑者については、特別設備刑務所へ移送すべき者を除き水戸刑務所に 移送のこととなる。 (同年末日の宮城刑務所の収容人員は無期 147 名、10 年以上 444 名、長 期計 591 名と激増した。12 月末の受刑者の合計は 1,950 名である。)

昭和 18 年 9 月

決戦態勢即応の官庁執務

閣議決定により官庁執務についての通達があり、即ち、 土曜半ドンの廃止(平日同様とする)平日退庁後と雖も午後 7 時まで若干の職員を交代で勤 務させる。夜間、日曜、祝祭日、官庁の休暇日と雖も有力な高等官の率いる宿直として、交 代宿直せしめ、外部との連絡を確保し、官庁の執務をして断続なからしめると共に、官庁防 衛に遺憾なきを期する。何時でも必要な庁員を招集し得べき組織を確率する。

昭和 18 年

戦時下の宮城刑務所

昭和 18 年当時、職員の出勤時間は午前 4 時 30 分、退庁は午後 7 時で、居残り勤務が常 態的であったので、実際の退庁時間は午後9時頃であった。交代は 5 交代で2時間半勤務し て、30 分の休息である。現在の職員には想像もつかないことであろう。 昭和 19 年のある日、待機室で休息していると、戒護課長(現処遇首席)が呼んでいると 呼び出しがきたので、課長の前に行くと、 「12 工場担当を命ず」であった。その瞬間、言葉 が出ないほど驚いた。当時の勤務箇所は、甲・乙・丁・戌と区別され、12 工場は甲勤務箇所 で、20 年以上のベテラン職員でなければ勤まらない工場といわれていた。 そこに拝命 2 年足らずの私が命令を受けたのだから驚くのは無理はない。事実待機室では 「何だ、青二才が大担当」等、露骨に厭味をいわれたものである。いよいよ戦雲急を告げる 頃になると、職員不足から交代職員が外され、3 時間半の連続勤務となり、休息時には、作

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業技官が交代に来るほど逼迫した。 自治性員制(被収容者の中から選抜して、(註 1)職員の補助として使役、受刑者 2 名ま で構内連行が許されたときもあった)が生まれたのもこの頃で、特に役付き(指導補助、製 品掛かり、製品検査掛かり)選考は一番難しかった。選定にあたり 4~5 人の受刑者に取り 囲まれることも再三であった。しかし、納得のいくまで話し合い「このことは担当の腹に納 めておく、戒護(保安課)には報告しないからしっかりやれ。」と腹芸を示すことがあった。 (註 1) ・・当時、戦争が激化して刑務所の職員の中からも出征する人が増えて、慢性的な職員不足とな り、刑務所では職員不足の穴を埋めるために、行刑成績の優秀なものを職員補助としての権限を与えた。 主に軍法会議で処罰された者が多く、受刑者でありながら職員補助として絶大なる力を握り、やがては職 員さえも凌ぐ力を持つようになり、様々な刑務事故を起こすことになる。

信用し過ぎのアベック逃走・・終戦前のある日、引き上 げ直後のこと、自治員をしていた塩崎某という舎内掃夫 が「大変だ、大変だ、課長さん、森田が逃げた、逃走だ」 と騒ぎ出した。 「何何、何処からだ」それーという訳で職 員は、正門に向かって走り出した。塩崎某もその職員の 集団に混じって正門を出た。 「先生、長町駅はどっちの方です」、行人塚踏切の方を示 し「あっちだ」踏切を渡り、東街道を抜け電車通りに出 長町駅 ると又、塩崎某が「先生、長町駅はどっち」、 「この駅の終点だ」、 「森田はよく知ってる奴で すから追いかけます」と言って塩崎某は足早に駆け出し闇の中に姿を消した。ハット気付い た職員が追いかけ、駅に着いて見ると「汽車は出て行く、煙は残る、目指す塩崎某の姿は見 えず」でマンマとしてやられ、各てアベック逃走になったもの。 正門から堂々逃走・・終戦前の混乱していた時代、当時、刑務所内の工場に日電からの委託 作業があり、指導員として会社から 2 名の職員が出入りしていた。その日も陽はとっぷりと 暮れ、正門哨舎では、遮光幕(灯火管制のため)を張り勤務していた。そこえ「ご苦労さん です」と、声をかけられた正門担当は、これまた「ご苦労さんでした」と誰であるか確認し ないで門を開け出門を許した。数時間後その男が逃走者であることが分り、大騒ぎになった が、後の祭りであった。 ふるしろの里 阿部養吾

昭和 19 年 1 月 15 日

目黒久二副看守長殉職

宮城刑務所の構外作業場である多賀城作業場に置いて、第三分隊長として勤務中の目黒看 守は、午前 9 時 30 分頃、食事当番の受刑者を作業現場から中隊食堂まで連行中、北部現場 より土砂を満載したトロッコが進行してきたのに気づかず(防寒帽子の耳垂を下げて被って いたため)線路を横切ろうとしてトロッコに跳ね飛ばされ、重傷を負った。直ちに付近の病 院で応急手当を受けたが、まもなく殉職した。行年 24 歳。

昭和 19 年 3 月 4 日

日曜日の休日廃止

通牒により大東亜戦争中は日曜日の休日廃止さる。官庁の常時執務態勢の趣旨で同年 3 月 1 日より施行され、2 週間に 1 回交替休暇を与えてよいと言うものである。 27


昭和 19 年 6 月 30 日

青葉赤誠隊結成

達示を以て、青葉赤誠隊綱領、全規約を制定し、当所(本所)職員並びに収容者を以てす る青葉赤誠隊を結成する。軍隊的組織統率の下、絶対責任絶対服従を誓って、所内秩序の維 持自身防衛、生産報国に挺身し、一切を聖戦完遂に捧げると云うものである。隊長は所長が これに当たり、中隊長は戒護看守長、副中隊長及び小隊長は看守部長、分隊長は看守、副分 隊長及び班長は、収容者のなかより隊長が各々これを任命する。 即ち、所長以下の職員が指揮統率の任に当たり、一部受刑者が副分隊長として或いは、班 長として、指揮統率幹部の補佐に当たる組織である。作業の実施防空活動、日常の諸動作、 人員点検、剣身立会進級及び累進審査その他の処遇面にも広くこの組織が適用された。 青葉赤誠隊に特別警備隊を設置・・達示を以て、 「特別警備隊用務細則」を制定し、同年 7 月 1 日より施行す。青葉赤誠隊に設置するもので、赤誠隊員(収容者)の中核をなすものであ る。空襲下における宮城刑務所自体防衛強化を目的として隊員は収容者より、その任務の性 質上、兵役経験者を目し、その中よりこれを選定し、防空監視哨の立哨、伝令、連絡、その 他戒護補助等の任務に当たらしめ、その任務遂行中は、戒護者を付せざることを得るものと した。

昭和 19 年 7 月 13 日

農繁期に際し応援のため一般農家へ受刑者の出業許可

農繁期に際して、応援のために一般農家へ受刑者を出業せしめることは、認可を要せず実 施差し支えなきことになる。農産物の収穫の戦局に及ぼす影響の大なるにより、戦局下農産 物部門の人的資源欠乏による収穫低下を防止するため応召農家を優先して、契約担当者を村 長、農家実行組合長、農会長等として実施することとなる。

昭和 19 年 8 月 8 日

特警隊錬成要綱決定

本錬成の趣旨を体し、積極且つ強力なる協力運用方実施につき通牒あり。この錬成要綱に より、当所に第 6 特警錬成所が開設され、宮城控訴院内各刑務所より、錬成員(初犯者 23 歳以上 50 歳以下及び軍隊経験者又は教養見識ある者等が基準となる。)を収容し、一ヶ月の 期間を以て集団錬成し、終了者はこれを各所に配属し、特別警備班員の中核たらしめるもの にした。

昭和 19 年 10 月 1 日

刑務所に盗みに入った元受刑者

刑務所の塀の外に出ようと思う者が居ても、中に入ろうと思う者はまずありますまい。中 夜間勤務中、刑務所の構内を巡回し、工場地帯を巡回していたとき、繊維と製靴を制作して いる第 12 工場を巡回中に作業台の下に不審な人物が身を潜めていたので取り押さえました。 犯人は元受刑者で一週間前に出所した 40 歳ぐらいの男で、その時は納入するばかりになっ ていた軍靴の荷造りを終え、背負って正に逃げ出そうとしていた所でした。工場内には便所 の汲取口から侵入したとの話でした。 犯人はおとなしく捕まったために事なきを得ましたが、当時の私は背丈こそなかったが体 重 70 キロほど有り柔道の有段者でもありました。犯人を発見したときは驚きましたが、必 死で制止して取り押さえました。その翌日、所長から呼ばれてお褒めの言葉をいただき、賞 28


金 10 円いただきました。 余談・・当時は敗戦間近で、社会では全てのモノが不足していた。刑務所だけは軍関係の物 品を製作していたので、軍事物品だけは豊富にあった。犯人の男は刑務所は夜になると工場 には誰もいなくなり、盗みに入っても捕まることはないだろうと勝手に思い込み、外塀に梯 子を掛けて、嘗て受刑中に靴工場で就業して所内の様子に精通していたので、夜陰に紛れて 靴工場に窃盗に入ったものである。 ふるしろの里 泉 金作

昭和 19 年 11 月

細倉に構外泊まり込み作業場設置

三菱金属細倉鉱業所の委託により採掘作業施行のため、同所に構外作業場を開設する。細 倉作業隊と称する。出役人員 150 名内外である。 (当時の構外作業人員は船岡 272 名、多賀 城 471 名、作並 18 名、合計 723 名。細倉は昭和 23 年 11 月契約解除になる。)

昭和 20 年 3 月 17 日

長期受刑者収容規定改正

当初の収容は東京、宮城移送分のみの収容に改められる。 (鉄道輸送難のため改正された。 昭和 18 年 5 月訓令施行以来当所への移入収容長期受刑者数は、無期 153 名、10 年以上の有 期 520 名、計 673 名に達した。)

昭和 20 年7月 10 日

仙台空襲の時の宮城刑務所

昭和 20 年 7 月 10 日午後 6 時 30 分ころ、空襲警報発令の サイレンが市内に鳴り響いた。直ちに受刑者の避難準備のた めの開錠(仮錠)をすませ、所内に待機すること約 2 時間。 警報解除になり 8 時半頃には日勤職員全員が退庁した。小職 も家に帰り薄暗いところで夕食を済ませたところ、まもなく またもや警報のサイレンが鳴り始めたので、直ちに刑務所に 非常登庁した。

宮城刑務所の航空写真

収容者の避難・・私は家が近かったので早く刑務所に着き、ほかの職員と共に舎房を開扉し て受刑者を中庭に避難させた。更に 11 時過ぎころに敵機襲来のサイレンが鳴り響き、その 夜は満月で岩沼方面から敵機が飛んで来るのがはっきりと見えた。探照灯の光、高射砲の響 きと同時に、清水小路専売局付近でビカドンという音と同時に火の手が上がり、次々と駅の 方に爆弾が投下され、市の中心部は火の海となり、泣きわめく人々の声が刑務所内にも聞こ えるほどであった。中庭に避難した受刑者は誰ひとり騒ぐものもなく静まりかえり、職員の 指示命令には素直に従った。翌日午前 3 時に空襲警報解除になり、全受刑者が監房し点検の 結果 1 人の逃走者もでなかった。 仙台大空襲・・7 月 10 日午前 0 時 3 分(空襲警報発令は午前 0 時 5 分)、高度約 3,000 メ ートルより、2、3 機から 5 機くらいの編成で 25 波に分かれ、仙台市内を約 2 時間にわたっ て空襲した。焼夷弾 10,961 発による絨毯爆撃と高性能爆弾 8 個により、仙台市中心部は焦 土と化した。アメリカ軍は焼夷弾の投下目標となる中心点を事前に撮影した空中写真上に定

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めていて、この座標は新伝馬町と東三番 丁の交点に相当した。日本側の記録でも 新伝馬町や東二番丁、大町が最初に集中 攻撃を受けたとある。 7 月中に仙台市役所の防衛課がまとめ た調査報告によると、被災戸数は 1 万 1,933 戸、被災人口は 5 万 7,321 人、死者 は 987 人、重傷者は 260 人、軽症者は 1,423 人、行方不明者は 50 人だった。市街地が 焼け野原と化したため、 「仙台駅から西公

空襲後の仙台の街並み

園が見えるようになった」との体験談が語られている。また市街地の他に仙台城も被災し大 手門と脇櫓が焼失、二の丸にあった第二師団も被害を受けた。また伊達政宗の霊廟である瑞 鳳殿も焼失した。大手門と脇櫓、瑞鳳殿は国宝であり、仙台市の国宝は大崎八幡宮だけが残 った。 聞き書き・・用度課の故鈴木技官の話によると、戦争中宮城刑 務所では六角塔の頂上から双眼鏡で太平洋を監視する特警と 呼ばれる受刑者がいた。六角塔の頂上付近は地上約 30 ㍍あり、 視界を遮る高い建物もなく太平洋を望むことができた。アメリ カの B29 爆撃機が襲来したときは、いち早く全収容者中庭に避 難した。 空爆対象から外れた刑務所・・当時は職員収容者併せて 1,000 余名中庭に避難しても、爆弾を落とされたら多数の受刑者及び 職員が死亡しただろう。アメリカ軍は空襲の前日に仙台市内の 航空写真を上空から撮影して攻撃目標を定めていた。刑務所は 郊外にあった為に攻撃対象から外れていたのである。片平丁に あった仙台刑務支所は市の中心部にあった為に爆撃をうけて、庁 舎、舎某等が被爆して多数の死傷者を出した。

昭和 20 年 8 月

六角塔頂上に出る梯子

行刑管区制施行

司法省訓令により、行刑管区制が施行され、当所に東北行刑管区本部が併設となり、宮城 刑務所長が東北行刑管区長を兼ねていた。 余談・・敗戦直後の宮城刑務所は大混乱となる。特に幹部にとっては進駐軍が来ればどのよ うな扱いを受けるかわからない。特に戦中刑務所内で思想犯が多数栄養失調で亡くなってい るので、その証拠隠滅に大わらわであった。先ず文書倉にある死亡者関係書類を燃やすこと。 しかし、それだけでは時間が無かったので、地中に穴を掘り多くの極秘書類を埋めたのであ る。

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地震で発覚した終戦直後の隠蔽工作・・幹 部連中は進駐軍の取り調べを何とか誤魔 化して難を逃れた。受刑者を虐待した罪 によって、特に逮捕された人はいなかっ たようである。書類を地中に埋めて 30 数 年後、地震で煉瓦塀が倒壊したとき、塀の 傍のめくり上がった地中からドロドロに 溶けた書類が出てきたのである。多くの 職員はこれが何を意味するのかわからな かったが、戦前に拝命した職員が、戦中の 極秘文書を焼却する暇がなく地下に埋め

地震で倒壊した外塀。この側に終戦直後に所内の 極秘文書を埋めた。

たものであることを教えてくれた。宮城刑 務所の歴史を記録する文書も、その際一緒に地下に埋めたため、消えてしまったのである。

昭和 20 年 9 月

王城寺ヶ原に泊まり込み作業場開設

当時の出役人員 100 余名、昭和 22 年 12 月閉鎖する。同年 委託伐採製炭作業実施のため大沢に構外泊まり込み作業場を 置く、出役 100 余名、昭和 23 年 5 月閉鎖。

材木運搬

昭和 20 年 12 月 10 日

東京管内で死刑確定囚は宮城刑務所に移監

法務省通牒により東京控訴院管内で確定した死刑囚は、以後宮城刑務所に移送執行のこと に改められた。(従前東京拘置所に移送執行されるものが、悉く当所に移送執行と改められ たもので、現に東京拘置所に在監中の者も宮城刑務所に移監された。改正以降昭和 37 年 12 月までの移監された死刑囚は 143 名に達した。) 余談・・昭和 20 年 11 月戦争犯罪人を収容のために東京拘置所(在巣鴨)が米軍により接収 された為に、東京管区で唯一死刑執行の設備を持っていた施設が使えなくなり、やむなく同 年の 12 月より東北管区の執行設備のある宮城刑務所に護送、執行されるようになったので ある。

昭和 20 年 12 月 10 日 排

ポツダム宣言受諾に伴い収容者に対する信教上の強制 排除

「信教の自由」確立の基本的原則に基づき、収容者に対して宗教上の礼拝をはじめ、宗教 行事の参加はこれを強制しないことになる。このため日華事変中、本監地区に建設された神 宮遥拝所はこれを撤去し、施設内に設けられた神棚及び教誨堂内の仏壇等については、それ ぞれ強制礼拝を伴うが如き観無き様配慮された。 31


(信教の自由は、新憲法発布と相まって施設職員による宗教教誨が廃止され、部外の宗教宗 派の教誨師によって行われることになり、しかも何れの宗教宗派の教誨を受けるかは、収容 者各自由意思による選択に任されることになり、希望教誨となって今日に及んでいる。)

昭和 21 年 2 月 17 日

土井晩翠(旧制第二高等学校名誉教授)の講演

市島宮城刑務所長の挨拶・・新平和日本を育てる為には先ず持って私ども国民の教養を高め ることが必要だと私は考えています。また敗戦直後の政治、経済、思想の混乱に伴い昨今の 世相などは、刺々しくなって唯一途に金を求めて物を売り買いすることが随所に現れて民衆 の上にも少しも潤いがない、誠に刺々しいものがあります。これは明るい日本の建設にとっ て大きな邪魔になると思うのです。 諸君に教養を高める途を開きたいと思っているのであります。特に自由を束縛されて自分 で思うものを開き、読み、見ることの出来ない諸君に少しでも潤いを與えたいと考え、社会 の名士の方のお話を聞かせたいと思い、土井晩翠先生にお願いしたのであります。 先生は長い間、仙台の旧制第二高等学校(現東北大学)の教授をしておられます。先生の ご名声は立派な教育家としてよりも、むしろ詩人として有名な方であります。滝廉太郎氏の 名曲として名高い「荒城の月」あの名篇も先生の作詞であります。こういうご高名な先生を お招きしたことは諸君の幸せであります。どうかご静聴され心の潤いにして頂きたいのであ ります。 土井晩翠先生の講話・・私が土井であります。本日はここに参上しまして皆様に 1 時間ほど お話できることは、私の満足に思うところであります。只今、市島所長からかたぐるしいこ とは止め、教訓がましいことは無いようにとの話ですので、今日は日本の文学についてお話 させて頂きます。 文学は民族思想の反映であり、民族の憧れです。日本人の 特性の一つに自然の風物に憧れるということがあります。 これは珍しいことでではなく何れの民族にも天地に対する あこがれがあると思います。例えば月・雪・花にたいするあ こがれが強い。実際面白い話があるのですが、フランスに参 りましたある留学生の日本人が、パリの下宿に居った時の 話で、ある雪の降る日でした。

パリ市街

パリは仙台より寒いのですが、家屋の構造が良いから余り感じない、それでも一歩外に出 ると寒い。この雪朝にルーロンの公園に雪を見物に出かけたのです。パリ人たちも風流子で あるのだから話し相手もいるのではと思って来てみたら誰ひとり居なかったのです。パリの 人は雪を愛すると言うことはないのです。この留学生が一人でパリの雪景色を眺めておりま したが、やがて向こうからも一人の風流子が来るので近寄って見ると、その人も日本人であ ったと言う事です。これは一例ですが、物に対する日本人の鑑賞はかくの如きであります。 日本では人力車に乗って山道を登るときに、車夫がかじ棒を置いて「旦那この景色はどうで すか」と云う、こんなことは向こうでは全然ないですよ。これが日本人の風流たる世界に冠 32


たることなのです。日本人ほど詩人の多い国はないです。和歌・俳句も詩ですが勿論西洋の 詩は日本の様に簡単なものではない。和歌・俳句の 31 文字にまた 17 文字に簡単に意味を 述べることは世界の独壇場であります。 この意味で風流を愛するのは日本人が第一であります。先日、市島所長から皆様の所内文 芸誌「あをば」を拝見させて頂きましたが、中には傑作もあったように思います。こうゆう ことは日本人の長所であり、また短所でもあると云いましょう。日本には長文の詩がありま せん、雄大な長編はない、これが日本語の特徴にもよりますが、散文には良いのがあって韻 文には雄大なものがむしろ少ないのです。 万葉集は日本における代表的な作品でありますが、私はこれが世界一などとは言いません。 それは井の中の蛙同様と云うべきものであって自惚れはいけません。中国には詩経と言うの があります。4,000 年の昔から立派な歴史を孔子様が編集されたもので前後 2,000 年位に渡 るものを集めたものです。 皆さん、日本は偉かった、今はこうだ。悔しいこれが人情です。我々の務めは何か、それ は花を咲かせて実を結ばせることです。これから我が国の存在意義はだんだん大きくなり、 再び戦いをするという意味ではなく、世界の平和幸福を助けることでなくては本当ではあり ません。日本の軍人は国を愛する事のみを知って世界を愛することなどしらなかった。これ からの私たちは祖国愛と人間愛を持たなければなりません。 日本人は果たして世界的に優秀な人種であったのか、一例を挙 げればニュートンが、微分積分を発見したとき、日本でも医学の 大家であった関という人がこの微分積分を発見している。隣の福 島県からは細菌学者として世界一であった野口英世博士が出てい ます。

野口 英世

文学の方面では源氏物語があります。10 年ほど前に英国のウエスーレイという学者が紫 式部の源氏物語を翻訳したのですが、日本にこのような立派な作品があったと外人は驚いた のです。紫式部は 1,000 年前の藤原時代で一条天皇のころの人であって、これはダンテの現 れる前のことです。最も女性でこれだけの一大傑作が著されたことは驚嘆に堪えないのであ ります。 それから高野山の弘法太師、この太師の偉大さは我々が、言うも恐れ多い程偉大です。宗 教上ばかりでなく、医学的にも、農学的にも、また文学的にも何れ程書き尽くされたか、実 に偉大な貢献をされたのであります。

陸奥 宗光

若いあなた方は一日も早く自由の身になって、新規巻直しをし て希望を持って新しいスタートを切ってください。皆さん明日の 日本を作るために世界人類の為に楽しく心を起こして下さい。忍 ガンは希望に生まれるのです。昔から牢屋の中で偉大な人が過ご しました。明治の始めに陸奥宗光は監獄の中で数年かかってベン サムの法理論を翻訳されました。皆様はどうか偉大な人になって

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下さい。皆様は阿弥陀仏になることは難しいかも知れませんが、それでも希望を抱いて一日 も早く新日本の空気を吸われん様に今日働いて下さい、これで話を終わります。 余談・・終戦の混乱した時代に宮刑では郷土の偉人 土井晩翠先生をお招きして、講演会を 開催している。当時の所長の受刑者に対する熱意が伝わってくる。受刑者達も敗戦後の混乱 した時代を如何に生き抜くかを模索していた時に、郷土の偉人の講演が生きる勇気を与えて くれたことであろう。この講演記録は戦後の書類綴りの中で発見したものである。

昭和 21 年 3 月

小園元大佐宮城刑務所に収監

平成 5 年宮城刑務所教育部に所内移動になり教誨師協会担当を命ぜ られた。刑務所の受刑者の菩提寺は市内若林区にある保春院で、住職の 三浦先生は刑務所の教誨師として度々刑務所を訪れ、受刑者に教誨を 施し、又受刑者が病死したときは読経して、遺骨の引き取り手がない場 合は、保春院の刑務所の墓地に納骨していた。 三浦教誨師は戦時中ガダルガナルに出征して九死に一生を得て帰還 した人で、ガ島での地獄の戦争の様子をよく私に話してくれた。ある時 小園元大佐 の飲み会の席で「戦後間もなく教誨師として宮刑を訪れたとき小園大 佐が収監されているのを知り、彼の収容されている独居房を訪れ個人教誨と称して戦争のこ とについて激論を交わした」と話してくれた。当時は小園大佐とはどのような人物なのか分 からなかった。 小薗大佐を知る OB・・平成 10 年頃刑務所 OB の職員を招いて「戦後の矯正を語る会」を 開催した。参加者の殆どは戦後まもなく戦地から引き上げてきて宮城刑務所の職員を拝命し た人たちで、戦後の混乱した宮城刑務所を体験した人たちばかりで、戦後の様々な刑務事故 の事を語りあった。その中である職員が小園大佐の話をした。「太っていて体格がよく着物 を着ていた。職員も収容者小園大佐を知らぬ人は無く全員が一目置く偉大な人物 だった。」 何故小園大佐が、それ程までに職員や受刑者間で話題になったのかは、その職員も多くは語 らなかった。平成 11 年に三浦教誨師が亡くなってしまい小園大佐を知る人は居なくなって しまった。 令和 2 年 8 月 13 日号週間新潮「戦後 75 年企画最後の軍法会議で無期禁錮・厚木航空隊 指令小園大佐」の記事を読んで、長年謎だった宮城刑務所に収監された小園大佐の経歴が判 明した。そして三浦教誨師が独房まで赴き激論を交わした謎を解明することができた。 最後の軍法会議・・太平洋戦争終盤、皇居をはじめ首都圏の防空を担っていたのが「第 302 海軍航空隊」(厚木航空隊)である。指令の小園大佐は、無条件降伏の終戦の詔勅が下され たにも関わらず、之を重臣らの謀略だと考え、 「日本敗れずーこれからが本当の国民戦争だ。」 と、全国に零戦などを飛ばしてビラを空中散布、徹底抗戦を呼びかけた。既に日本は無条件 降伏したにも関わらず、小園大佐は厚木航空隊の隊員を扇動して、最後まで戦おうとして党 与抗命罪(海軍刑法 56 条)に違反した罪により逮捕された。昭和 20 年 10 月横須賀鎮守府 臨時軍法会議で、無期禁錮の判決言い渡しがあり、横浜刑務所に収監された。同 21 年 3 月

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宮城刑務所に護送独房に収容され、約 4 年間宮城刑で服役した。同 25 年 2 月に故郷(鹿児 島)に近い熊本刑務所に移送となり、同 5 月仮釈放になる。 三浦教誨師の経歴・・大正 8 年多賀城市笠神西園寺において出生、中学卒業後松島瑞巌寺住 職三浦希玄和尚の門下生となる。昭和 17 年太平洋戦争の最中「カダルガナル島」に上陸通 信兵として転戦、生死の間を彷徨する。同 18 年、ガダルカナル島から奇跡的に撤退する。 戦友からは「三浦、お前は坊主だから何としても生還して、俺たちを供養してくれとの戦友 の願いで、奇跡とも言われる無事復員を果たすことができた。」これが三浦教誨師の口癖だ った。 住職拝命・・同 19 年 7 月、檀家で相談して三浦氏を保春院の住職に決定した。どうせ生き ては帰れないので、せめて最期に住職としてあの世に送りたかったとのことだった。復員後 は松島瑞巌寺専門道場で修行しながら、戦中の混乱で廃寺同然になった保春院の再建と、禅 僧として布教教化活動に一心不乱に邁進した。 三浦住職と刑務所墓地・・戦中、戦後、刑務所内では栄養不良による死亡者が多数発生して その都度無住の保春院の墓地に埋葬していた。しかし、三浦住職が戦地から引き上げて寺の 再建と、布教活動を本格的に始めたので、刑務所としても勝手に寺に受刑者の遺体を埋葬す ることはできなくなり、住職と話し合いの結果、三浦住職は快く従来どおりの埋葬を承諾し た。 その際に刑務所の受刑者の教誨を依頼され、その後度々刑務所を訪れるようになった。平 成 10 年頃まで個別教誨のため毎週 1 回、集合教誨のため毎月 1 回、更に所内で受刑者が死 亡した場合に読経のために快く来庁してくれた。 三浦教誨師と小薗元大佐の接点・・小園大佐が熊本刑務所に移監されたのは、昭和 25 年 2 月である。三浦教誨師はその頃には刑務所で教誨活動をしていた。ガダルカナルで共に米軍 と戦った小園元大佐が、宮城刑務所に収容されていることは知っていた。昭和 24 年の暮れ に刑務所を訪れた際に、独房に収容されている元大佐を訪れて独房内で教誨と称して、ガダ ルカナル島での米軍との戦争について激論を交わしたと言う。

昭和 21 年 4 月 1 日

官名統一と官等級の簡素化

勅令により、凡ての官名が統一され、所長以下看守まで司法事務官に。刑務医官、刑務技 師、刑務調剤師、刑務技官、刑務教師、刑務教誨師は司法教官となる。官等級は簡素化され 最高 1 級 800 円、最下位 30 号の 50 円と云う通し号俸になる。(戦前まで刑務教誨師とし て勤務していた中川玄昭師は戦後副看守長として、教育課に勤務して死刑囚を担当してい た。)

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昭和 21 年 11 月 7 日

各所、実情即応の事務分担を定め、試行について

所長は自所の実情に即応した事務分担を定め来る。12 月 1 日から試行して差し支えない。 (宮城刑務所における事務分担は 5 課 5 主任制で、庶務課長「文書、領置、用度の 3 課」作 業課長、考査主任、戒護課長、医務課長、教務課長と云う課長主任制であった。)

昭和 22 年 4 月

中川玄昭氏 宮城刑務所法務事務官拝命

昭和 20 年 12 月東京拘置所が連合軍に接収され戦犯が収容された。そのために東京管内 で死刑の判決を受けた者の執行施設が使用できなくなり、東北管内の死刑執行施設のある宮 城刑務所に送られて、仙台で執行することになった。仙台では東京管区の死刑囚の執行は昭 和 37 年 12 月まで続き 17 年間で 143 名の死刑が執行された。 大量の死刑囚を収容した宮城刑務所では、死刑囚専門の係りとして僧侶の資格のある中川 氏を採用して、教育課に配置して東京から送られてくる死刑囚の心情安定と執行の際の立会 を担当した。 中川氏の生い立ち・・大正 4 年(1915)当時、鰊漁場として沸いていた北海道の古平町で旅 館業を営む裕福な家の 4 男として生まれた。幼名は正治、4 歳の時生母と別れて以後祖母に 育てられたと言う。昭和 5 年に札幌に出て瑞龍寺に程近い薬店に奉公することになるが、多 感な性格であったのであろうか、深い悩みを抱えることになり、夕暮れになると瑞龍寺の境 内に佇むようになった。この訳ありそうな青年をみて、瑞龍寺の正海禅士が声をかけたのが 機縁となって仏門に入ることになった。老師からいただいた僧名は玄昭であった。 札幌の瑞龍寺で雲水となり昭和 12 年松島の瑞巌寺に掛塔(カタ・禅寺に修行のため編入 されること)することになる。昭和 20 年 1 月仙台で宮城刑務所医師 池田菱吉氏の娘であ る池田孝さんと結婚した。孝さんは当時の女性としては希にみる東北帝国大学中国哲学科卒 の学者である。後に東北薬科大学の教授になった方でもある。昭和 21 年には仙台市福室の 西光寺の副住職になる。そして昭和 22 年 4 月死刑囚を多数収容して処遇に困っていた宮城 刑務所で、職員兼教誨師として採用されたのである。推薦人は中川氏の義理の父池田菱吉で ある。 余談・・中川孝氏は東北帝大(東北大学)で中国哲学を専攻していた。その著書に「六祖壇 経」がある。筆者も拝読したが難しくて理解できなかった。孝氏は中川氏の妻として、大学 の教授として、家庭を支えたわけだが、中川氏は死刑執行のことは誰にも口を閉ざして語る ことはなかった。孝氏にも同じだっただろうが共に暮らしていて夫の苦悩が肌で感じられた ことであろう。 中川師の活躍・・刑務官兼教誨師として拝命した中川師は戦後まもなく混乱した社会情勢の 中で関東地区は特に犯罪が多発して、死刑判決を受ける者が多く、その執行のため宮城刑務 所の拘置監は死刑囚で溢れていた。これらの死刑囚を処遇するのは一般職員では手に負えず、 僧侶として修行を積んだ中川師以外いなかった。

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中川師は何事にかけても中途半端なことは嫌いで、徹底的に関わって行く老師の性格であ る。それがよいと判断すれば、死刑囚の独房に単独で入って、2 人きりでとことんまで話し 合ったと聞く、しかも話した内容は一切他言せず、秘密にしてくれるので、多くの死刑囚た ちは中川師には心を開いていた。死刑囚の求めがあれば一緒に風呂に入るほど、中川師は親 身であったという。 宮城刑務所で共に勤務した戸谷氏はその著書で「S 看守は教育課の教化係であり、S 看守 は、死刑囚がどんな宗教の場合でも執行に立ち会い、最後まで面倒をみていたし、僧籍をも っていたので、死刑囚が仏教を信仰していた場合には、彼自身が教誨師を引き受け、法衣を 身に着けて最後の執行までしていた。ただ S 看守は、死刑執行前に頭をきれいに剃る習慣が あり、彼が頭を剃ると処刑が行われると職員たちは噂していた。」 死刑執行の日、死刑囚の手を引いて共に死刑台に上がり、彼の死を見送られたと聴くその 生活の中から、中川師は何を感じられたのであろうか。そのあたりについては、固く口を閉 ざして語ることはなかった。 戸谷喜一:作家で元刑務官。宮城刑務所で中川師と勤務したことがある。著書に「死刑執行の現場か らー元看守長の苦悩」がある。

昭和 22 年 5 月

構外泊まり込み作業場開設

委託開墾作業施行のため、青の木作業場を開設する。常時数十名出役。 (同 23 年 12 月 20 日閉鎖)

昭和 22 年 9 月

委託亜炭鉱採掘作業の為、八木山に通役作業場を開設する 八木山作業場の思い出・・研修を終えて配 置係長から八木山作業場に行ってくれと 辞令がでた。当時の八木山作業場は堂ヶ沢 亜炭採掘場といって、現在の日赤病院道路 向かい側裾にあり、野又鉱業所との労務契 約による亜炭採掘作業である。職員は新坑

道から集積所へ搬出するための道路新設 工事であった。受刑者は常時 35 名程度と 記憶している。舎房は木造で木の格子が填 められてあり、中は土間の通路をはさみ、 八木山作業場亜炭の採掘現場 両側に板敷の大部屋があって、薄い御座を 敷いた大雑居である。当時、八木山作業場には自治員がいて、職員の補助的な業務をやって いた。自治員は帽子に白線 2 本入った物を冠り、目立った存在で職員の信任も厚かった。 自治員逃走・・ところがある朝、休暇の翌朝だったので、歩いて現在の動物園の近くまで来 ると、先輩の酒井看守が青い顔をして「自治員の Y に逃げられた、途中で出会わなかった 37


か」ということで大騒ぎになった。当時の八木山作業場では、職員が順番に本所までの用務 のために出張することがあった。出張の際は、自治員を連れて歩くときは手錠をかけないの が通例であった。各課で用務を果たし、最後に炊事場で必要な食料品等を仕入れて、自治員 に背負わせて長町まで歩き、長町駅から秋保電鉄に乗り西多賀で降り、更に作業場まで歩く という方法を取っていた。時には本所から八木山作業場まで歩くこともあった。この逃走事 故は受刑者を信用しすぎた結果であり、役付き受刑者であっても過信して、気を許してはい けないという痛い教訓であった。 (出役人員約 100 名、昭和 24 年 5 月閉鎖) ふるしろの里

昭和 22 年 9 月 15 日

佐々木 久雄

特警員制度の誕生と廃止(深刻化した刑務所職員の不足)

昭和 16 年頃から昭和恐慌を乗り越えた工場、事業所に向かって転職していく刑務所職員 の数が増大しました。それに加えて職員の軍隊への応召が増えて、刑務所職員の定員が大き く割込、人手不足による所内の治安が一段と不安定になっていった。辛うじて採用した職員 は体格から能力に至るまで質的な低下は予想以上で、その影響は刑務事故の増加の一因とな って現れてきた。政府は刑務官の採用難を解消するために、作業技官に戒護権を与へた。刑 務官を希望する徴用者に徴用解除による採用などの対策を講じたが、職員不足は依然として 解消できなかった。 受刑者による戒護補助・・戦時中の行刑において、戒護力を速急に充足したものは、成績優 良受刑者の戒護補助の採用だった。その発端は東京造船部隊での試みであった。最初戦時中 の郊外作業の警備を軍に依頼しょうと考えたが、戦時下において軍隊は第一線の要員である。 せめて国内の警備は刑務所の職務上当然なすべきものとして、已むなく考えられたのが、改 悛の見込みのある受刑者を警備補助隊員として職員の補助的な仕事に付かせてみたのであ る。 ここの 試みが以外に良好であったことから、職員不足を補うために、一定の訓練によって全国的に 特警員制度を実施することになった。訓練を終えた特警隊員は各地の構外作業場、あるいは 所内作業場に配置され、戒護補助者として一般受刑者とは拘禁が区別され、自治が認められ、 普通着が許され仮釈放も優遇された。 医者が受刑者・・1 ヶ月の特警錬成訓練を終了した隊員の活躍は大いに効果をあげ、例えば 飛行機の翼を製作していた豊多摩刑務所造船工場担当に、軍事法廷で懲役刑の判決を受けた 元大佐が任命され名声を博したのは当然であるが、次第に当初の目的の戒護補助から外れて、 陸軍技師であった受刑者が防空壕の企画設計に当たり、元検事の受刑者が庶務の文書指紋係 りに、又、元医師の受刑者が診察にあたったり、更には受刑者が単独自動車を運転して公文 書の送達をしたり、あるいは逃走受刑者の追跡捜査に加わったり(そのまま特警が逃げた例 もある)更には単独で部落の商店に買い物に行ったりしたという、特警の放埒な行動が戦争 という大きなるつぼの中で看過され、或いは止むを得ないと見逃されていたのである。

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特警のボス化・・戦争が激しくなり、特警に対する錬成も放棄され、その場限りで簡単に特 警を任命したために質の低下を招き、これら特警は刑務所内でボス化して、一般受刑者にと って刑務官よりも恐れられる存在になった。時には暴力を振って私的制裁を行うなど、その 弊害が取り上げられるようになったが、刑務所では所内の規律を守るのに止むを得ない措置 として、幹部を始めとしてそれら特警の行動を黙認して、職員不足の戦時中の刑務所の治安 を守ろうとしたのである。 余談・・戦時中、刑務所の工場には担当の他に戒護補助の特警が 2、3 人配置されていた。 これらの特警は軍隊上がりのものが殆どで、それぞれの担当の工場を仕切っていた。作業中 に怠けている者がいたら、倉庫に連行して私的制裁を加えた。一般受刑者にとって、刑務官 の監視より特警の監視の方が怖く、この特警の力で工場内の規律が保たれていたのである。 特警員の廃止・・特警員制度廃止方通達あり、更に遅くとも 12 月末日までには、全廃する 旨重ねて、通達される。(当所は特警員を廃止したが、処遇その他の事情により防護員と云 う変更体の残置を過渡的に認め、全く廃絶を見たのは昭和 28 年 1 月であった。)

昭和 22 年 10 月 1 日

特警制度廃止と職員のストライキ

終戦直後のある朝、出勤時間になっても職員が誰も出てこないので、夜勤者が不審に思っ て正門の処に行ってみると、1 人の拝命間もない高橋看守(秋田刑務所長で退職)が出勤し てくる職員を拘置所の方に誘導していた。 職員の要求・・当直長は事の重大性(職員のストライキ)に気づき、直ちに所長に報告した。 所長は幹部を緊急招集して事態の把握に努めた結果、職員による違法ストライキであること が分かった。職員が団結して所長に要求したのは、職員の待遇改善ではなく刑務所の現場の 中心である戒護課長の更迭と、特定の受刑者を優遇する特警制度の廃止であった。 当時、宮城刑務所では職員不足を補うために収容者の中から軍隊上がりで行刑成績優秀な 者を選抜して、教育し特警と称して職員の補助をやらせていた。その中の 1 人に塩沢某とい う軍隊上がりの受刑者がいた。塩沢某は受刑者であるにも拘わらず、特警の立場をうまくふ るまい、戒護課長にすっかりとりいっていた。課長も職員よりも塩沢某を信頼して職員しか 持つことの出来ない通行鍵の所持を許した。塩沢某は刑務所内を独歩して所長室まで 1 人で 入っていくようになった。 無力な戒護課長・・特に作業中の工場を勝手に巡回して、同囚に対して演説までしていくよ うになった。この横暴な振る舞いに、各工場の担当は戒護課長に塩沢某から通行鍵を取り上 げ、特警から外すように再三申し入れたが、戒護課長は職員からの申し出を拒否し、所長に も報告しなかった。そこで各工場の担当が集まり実力で所長に、塩沢某の件と戒護課長の更 迭を直訴することを決議した。 ストライキの前日、拝命間もない高橋看守は上司の看守部長から呼ばれて「明日は、出勤 前(午前 4 時頃)に出てきて、正門で、出勤してきた職員を拘置所の待機室に行くように誘 導しろ。話はついているから。」と言われたので、翌日早朝、正門前に立ち、出勤してくる 職員を次々と拘置所の方に誘導した。殆どの職員はストライキのことは既に分かっていたよ 39


うで素直に拘置所の方に入って行った。 ストライキの収拾・・所長を始めとする幹部たちは事の重大性に驚きながら、何とか外部に ストライキの件が漏れないように穏便に解決しょうと、庶務課長が中心となりストライキの 中心人物である工場担当と話し合いをして、職員の要求を認めストライキの件は外部には出 さずに内部だけで処理すること、更に違法行為に参加した職員たちには何ら不利益処分に付 さないことを確約して、近代行刑始まって以来の刑務所職員のストライキは収拾したのであ る。 余談・・ストライキの件は、昭和 60 年代に高橋正男管理部長の時代に宴会の席で初めて聞 いた。其の後、古い職員に色々聞いてみたが、ことが重大事件だけに、なかなかその真相は 掴めなかったが、たまたま「矯正友の会」の「昭和の宮城刑務所を語る会」でストライキの 話題が出て、その話をテープに吹き込んだのを再生したのが上記の記録である。 戦後労組法により、警察官吏、消防職員および監獄職員において勤務する者の団結権及び ストライキを禁止されていた。その他のすべての労働者は団結権、団体交渉権および争議権 を保障されていた。 隠蔽工作・・宮城刑務所のストライキは明らかに違法であり、戦後の混乱した時代であると 雖も、参加者は厳罰に処せられるところであるが、刑務所のように一般社会と断絶している 職場は内部で起きたことが簡単に隠蔽できるのである。幹部もこのことが外部に漏れれば自 分たちも処分されるので、この件については内部で極秘に処理したものと思われる。 明治15年2月押丁の増額願い(ストライキ)・・宮刑の職員のストライキは明治時代にも起 きている。当時は職員の間に看守(士族出身)と押丁(平民出身)との身分の差があり待遇 も格段の開きがあったので、その窮状を典獄に訴えたのである。以下、仙台日々新聞記事よ り、「物価高騰を口実に宮城集治監の押丁40余名が、若林区元茶畑の薬湯小畑某宅に集合し て其々俸給12円の増額要請の相談をし、一昨日集治監の典獄あて要望書を出した。もし聞き 届けられなければ全員辞職する旨申し出た。2月13日に集治監から回答があり、首謀者とみ られる白旗喜代治、大河原大吉は免職になったが、ほかの押丁全員一等増給して、わが国最 初の集治監押丁のストライキは要求を勝ち取ったのである。」

昭和 22 年 10 月

構外泊まり込み作業場開設

委託開墾作業施行のため遠の原に泊まり込み作業場を設置する。常時数 10 名~100 名程 度、昭和 24 年 8 月閉鎖。

昭和 22 年 12 月 17 日

法務庁設置法による改称

矯正 3 局の設置同法により司法省は、法務庁と改称、司法省行刑局と官房保護課の事務を 3 分して、矯正総務局、成人矯正局、少年矯正局の 3 局が設置され、昭和 23 年 2 月 1 日施 行となる。

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昭和22年12月1日

三原良吉氏の講演(臥龍梅と若林城)

昭和21年2月の土井晩翠先生に引き続いて、郷土史 研究家の三原先生に、宮城刑務所の設置されている 場所がかつては藩祖政宗公が晩年暮らした城跡であ ることから、その由来について講演してもらった。戦 後まもなく社会は混乱の極みに達していた頃に、宮 城刑務所では受刑者の教育の一環として、土井、三原 の両氏に公演を依頼していることは、当時としては、 戦後の民主教育の先取りとも言える先進的な所長の 考え方ではなかっただろうか。

若林城跡

講演前の所長の挨拶・・伊達政宗が朝鮮から移し植えたという臥龍梅は、星移り人変われ ど今を盛りと咲き誇っている。宮城刑務所内のこの古木につけた万朶の花は、ここに幽囚 の身となった人には忘れることの出来ない想出の影となるであろう。嘗ては武人閑時の心 を慰めた花は今では、幽囚の愁いを和らげる。時の流れに従う変移である。宮城刑務所の 所在地を古城と呼ぶ。緑の高い土塁の上に赤煉瓦の屏を廻し、その周囲を小川の流れる地 形を見ると今でも数百年前の平城の俤(おもかげ)が眼前に彷彿として浮かぶ。しかしそ の歴史を知る人は少ない。 私たちが現にそこに勤務し、或は明治初年以来多数の人々がそこに贖罪の生活を送り、 又将来沢山の人達がそこで獄窓の月を眺めることであろうに、由緒ある歴史を知らないの は如何にも淋しいことである。 夕刊とうほく新聞主筆三原良吉氏は郷土史の熱心な研究家で、その道の権威である。昨 年(昭和22年)12月同氏に講演を講うて収容者と共に古城の史蹟を訪ね、政宗の志を偲び、 懐古の情を沸かせたのである。この得難い講演を聴き捨てにするのを惜しんで上梓のこと を企てたところ同氏の並々ならぬご援助によって、それが達成されたことを深く感謝する。 古城址又は屋敷址に刑務所が置かれた所は外に、滋賀刑務所と小菅刑務所(現東京拘置 所)がある。前者は膳所城址であり、後者は徳川時代将軍が参勤交代の大名を出迎えたと いう小菅御殿の址である。改過遷善の行刑を史蹟で行うことは意義深いことである。人間 は過去、現在、将来に繫がる時間的存在であると同時に左右、上下に連なる空間的存在で あることを見出して、不幸にして囚はれの身となった人々が再び明るい和光に浴する日の 一日も早からんことを念願する次第である。 昭和23年臥龍梅祭の日々 宮城刑務所長 川上

三原良吉:明治30年仙台に生まれる。 県文化財専門委員。仙台市文化財保護委員。昭和36年河北文化賞受賞。昭和57年歿。 おもな著書:仙台郷土史夜話、宮城県の伝説・宮城の郷土史、廣瀬側の歴史と伝説。 臥龍梅祭:昭和21年~同33年頃まで毎年梅の花が咲く時期に、臥龍梅祭が盛大に催され ており、受刑者が自分で作った詩歌を短冊に認め臥龍梅の枝に吊るす行事があった。 三原良吉先生が宮城刑務所内で講演した内容を冊子にした「若林城と臥龍梅」がある。

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若林城と臥龍梅 政宗移徙以前の若林古城 宮城刑務所の地名は、今も古城(ふるじろ)であるが、寛永13年(1636)伊達政宗が、 ここから最後の参観に江戸に出発するに際して、若林城の重要性を待臣に語った中に「常 の古城とは違いたり」(貞山公治家記録)とあるから、この当時すでに古城の地名があっ たらしい。 この古城という地名の由来は、かつて(若林城築城以前に)ここに城があったからであ るという。それに関する資料は乏しいので定かではないが、仙台古城書上によれば小泉邑 の部に次の二つの古城があったことが記されている。 平 一 古城 東西40間・南北38間 城主結城七郎朝光末裔、結城七郎天文(1535年頃)中迄・末孫國分能登守盛氏居城 平 一 古城 東西58間・南北38間 城主堀江伊勢、國分彦九郎盛重モ此城ニ居住。伊勢惣九郎末孫堀江平九郎居城。 国分氏は千葉常胤の五男で、国分五郎胤通は下総国葛飾郡国分に居住し、胤通文治5年 (1189)源頼朝奥州征伐の功に依り、奥州宮城郡国分郷を賜り移住した。国分氏は仙台地 方に於ける旧族で野手山(大年寺山)・青葉山・若林(現在の宮城刑務所)・松森(鶴ヶ 丘)にも居住した。2つとも平城とあるが、このうちどちらが現在の宮城刑務所の場所に 当たるのか判断することは出来ないが、城の規模から考察すると後者のように思われる。 この城址に伊達政宗が晩年居館を営んだのである。

追記・中世の城館址発見、「古城書上」記載のものか 仙台市南東部にある南小泉遺跡から13世紀後半の鎌倉時代から中世を通じて使用され た城館址が見つかった。中世の仙台の城館については「仙台領古城書上」などの文献に記 され、南小泉のあたりには2つの城があったという記録がある。 そのうちの1つは若林の宮城刑務所の位置にある城址だが、もう1つはこれまでどこにあ るのか分からなかった。今回見つかったのは、長さ39メートルの土塁と堀にかけた橋げた 址、土塁を貫く暗きょうなど。また、武士階級以上でなければ所持できない中国・宋から 元の時代の青磁器の破片や土師器などが堀の内側から見つかり、権力者の存在を裏づけた。 城館は戦国時代以降、この一帯を所有していた國分氏のもので、軍事拠点だったとみられ る。 昭和63年7月28日 河北新聞

若林の地名の由来 若林の地名の由来については、「残月台本荒萩」によると、黄門様(政宗)がこの地 を初めて若林と号したとある。それは禅の始祖達磨大師の故事に関係があると考察される。 達磨大師が支那後の地に渡り、大乗禅を唱え、梁の武帝に謁して問答し、去って河南省の 嵩山の少室(少林寺)に入り9年間面壁座禅したと伝えられる。その少林を「わかばやし」 と訓じているので、少林を若林と書き替えて、この地一円を若林と呼ぶようになったので はないかと推量される。先に政宗が会津黒川城を陥れ、黒川の地に移るや、地名を若松と 42


改めた。政宗は「若」の字や「松」の字を特に好んだように思われる。 元和堰武の徳川政権下に戦国大名としての野望をくじかれた政宗は、その失意を禅的雰 囲気に求め、静かな余生を送る隠居所として同城構築を願ったとも思われる。事実政宗の 在国中は常住の館となり、仙台城を訪れるのは年末から年始にかけ、または饗応のほか催 しの折のみで、賦詩・詠歌・鷹野・川猟に日々をすごした。

若林城は政宗隠居所に非ず 政宗が居館をここに移して以来、表向きは若林屋敷とか若林館と称し、家臣の間では若 林御屋形、時には若林城と称していた。この若林というのは、荒町の毘沙門堂前を基点と して、北は南鍛冶町、三百人町を繋ぐ線、西は石垣町から広瀬川までの線を境として、そ こから東南方の南小泉村まで一帯の地名であった。(仙台鹿の子)一本杉ウルスラ学園北 向かいにある保春院の山号を少林山、三百人町の常林寺の山号を若林山というのも若林と いう地名の由来に因るものであろう。 寛永四年(1627)は、仙台開府から数えて27年に当たり、政宗は61歳を迎え、前年上洛 して従三位権中納言に陞り、嗣子忠宗は28歳の春を迎え、これまた前年従四位下近衛権少 将となり、加えて家康以来前将軍秀忠に引き続いて3代将軍家光の恩遇厚く、何ら後願の 要がない境遇であった。かかる時機に政宗は仙台城を去って、居館を若林に移したのであ るから、多くの記録がここを若林隠居所と記している如く、誰しも隠居所と考えたのは当 然であった。 しかし事実は隠居所ではなかったのである、当時老臣たちの 間では政宗の隠居を希望するものも多かったらしいが、政宗は 最後まで隠居しなかった。これは寛永11年(1634)8月4日付け の将軍家光の継目判物が仙台中納言(政宗)宛になっているこ とからも明らかである。(伊達家文書)従って政宗の若林居館 築営の動機は、隠居所にあったのではなく、居館であって、伊 若林城北門 達便覧志の「別業の地を撰み莵裘(ときゅう)の第とせんと存 じて」政宗記の「往々は隠居所にもし玉ふべきかと存ずる程なり」というのを正しいとす る。 このように若林居館は、単に屋敷ではあったが、それより大きな動機は、政宗の仙台城 下南方計画に在ったと思われるのである。即ち政治の中心を暫くここに移して政宗自身こ れを指導せんとした意図からであったのではないだろうかと思う。 若林城北門は若林城が廃城になった時、元寺小路正楽寺山門として移築された。

政宗の若林築城 若林取立ての願書が何時どんな理由で幕府に提出されたかそれに関する資料は全然な いが、許可のことは貞山公冶家記録に、寛永4年(1627)2月23日老中4名連署の奉書を以 って仙台城の近くの若林に於いて屋敷願いのこと政宗意のままに建ててよろしいと、通達 された旨記されている。

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表向きの願いが、たとえ屋敷であっても、外濠・土塁・石垣などを築く等のことは、幕 府を猜疑せしめるやかましい問題にあったにもかかわらず意のままに造るがよいとの許 可は、後の寛永14年(1637)における仙台城二の丸の築城と合わせ極めて寛大な措置であ って、伊達家をして政宗に対して加えられた将軍 の親密の深さを窺うにたりる。工事開始の鍬立が 冶家記録に「何時ヨリ始メラル乎月日不知」とあ ってこれも明らかではない。 敷地は古城址であるとはいえ、勿論規模を拡張 したのであろうし、もともとこの辺りは湿地帯で あったから工事は予想外の困難を伴ったものと 想像される。東奥老子夜話聞書によれば、政宗自 身工事を指揮し伊達安房成実のような一門衆を 若林城東門跡 始め歴々の老臣まで直接現場に出て石を運んだ りしたという。 寛永5年は前年の12月から江戸参勤中であったが、5月17日日光に社参、同地に滞在中同 月20日国老奥山大学常良から5月10日の雨で若林の土塁が破損した旨急報してきたので、 政宗は折り返し修理に関して仔細な指令を発している。(治家記録) 指令の内容は次のようはものである。 「去年の工 事開始が遅れて梅雨時分になり、今年もやり直し をさせたが、まだ固まらぬうち大雨が来たので破 損したと見える。兎も角、是が非でもこの夏中には 完成させねばならない。それで今度は昨年刈った 萱を敷いて、その上に土をかけて叩き、又その上に 萱を敷き、念入りにやれば大丈夫であろう。青萱は 若林城西側土塁 使わぬように」 萱は名取・國分宮城中、誰のものでもよいから有るだけの萱を一日一刻も早く調べ上げ て、よそにやらぬように肝入りに預け、切手で要るだけ運ばせるようにせよ。人足は名取・ 國分宮城・刈田・柴田・伊具・亘理から雇い工事に必要な人数と日数を見積もり、人数が 余ったら遠方の者から帰すようにして、田植えが終わり次第早くこの人数を集めるように せよ。兎に角六月始め、七月前に完成するように命令するがよい。 萱の見積もりも正確に立てて、土一重、萱一重というふうに土塁の高さに念入りに積み 固めれば、水が来ても大丈夫だし梅雨になっても耐久力が出るであろう。なお破損しない 所も中の土を取り除いて萱を敷くようにやり直しをさせ、丈夫に築くように念を入れよ。 緩い地盤に対する工事の苦心が想像される。

若林城の竣工 一切の工事が落成したのは、翌年寛永5年(1628)秋であった。この年11月12日政宗は 江戸参観を終わって仙台城帰着。4日目の同月16日癸酉辰上刻(午前9時)から移徙の祝儀 が行われた。当日雨が降っていた。

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政宗は、 隠居らむ栖処求むる今日とてや たからもそれと雨ぞ見せける という祝いの歌を詠んでいる。祝儀に若林の新たな屋敷へ参入する家臣の中には、駕籠 で来る重臣や、合羽に雨傘のいでたちで供をそろえて来る者もあったであろうし、またそ の中にまじって蓑を着けた家臣も多くみうけられたであろう。元来冬の雨は嫌われるのに、 めでたい祝儀の日にこそ雨が見舞ったのである。その時、政宗は家臣の着けてきた賓蓑に 見立てて、その賓蓑がたくさん家に入るのを見せるがために雨が降ったのであろうと、こ の歌に寄せたのである。 この日、仙台に滞在中であった明人の王翼は次の書を捧げて祝意を表した。 若林宝地新築玉堤金府、地理晴英秀氣 玉堂華彩美麗、内百川會合外海水來朝 此地日虎踞、盡善美 國王騎虎上、壽比南山、福如東海、蒼蘢遊於崑崙 仙人嬉於丹山、其樂何以加此、唐人王翼喜悦之至 國王大父母様 王翼謹 越えて11月20日に政宗は将軍家光に初鱈を献上するに当たって、明年の江戸城修築に ついてその用意がある旨、内藤外記を以って披露を依頼する処があったが、その書状の中 に「去11月12日下着可御心安候、同月16日に彼屋敷え罷移候、如形作事出来満足候」と述 べて、若林居館の落成を報じている。続いて同23日には一門、一家、一族の重臣たちから 若林移住を祝うて、太刀馬代を献じた。 この月中は新しい居館に政宗は多忙であったと思われるが、月末にはようやく落ち着い たと見え、30日に初めて近くの名取郡根岸村に放鷹し、雉170羽を獲て帰った。(治家記 録)こうして移徙1年目は暮れたが、大晦日に、政宗は仙台城に出向いて越年し、元旦に は重臣の賀詞をうけて、その晩若林へ帰った。以後仙台城で越年して元旦に帰ることは毎 年の恒例となり、そして用事のないかぎり若林で起居した。

若林城の規模 若林居館の規模は東西135間(250メートル)、南北110間(200メートル)の平城で、 周囲(1.3キロメートル)に高さ2丈(6メートル)、幅10間(18メートル)の土塁を廻ら せ、幅20間(36メートル)の濠が廻らされていた。これに伊達便覧志は広瀬川から水を引 いたと記している。 これは寛永4年5月27日の政宗の指令にある通りである。この濠は2重であったと思われ る。それは政宗の遺命に「壕1重のみ残し、他はもとの田畑にしてもよい」とあるからで ある。(治家記録)更に東奥老士夜話によれば、北に築山があったとあり、東南の角に櫓 45


があったという。 また工事の指令に舟入のことも見えているが、御 名語集などによって見ても、庭園は数奇をこらした ものであったと思われ、建築もいわゆる桃山期の匂 いゆたかな書院造りであったと想像される。内部は 住宅であったにしても外郭は今日残っている土塁か ら推して、城郭の様式を備えたものであったに違い ない。 土地は仙台平野に望ん で、東方は海岸まで眼を 若林城内濠跡 さえぎるものはない広い原野で、西方には近く茂ケ崎の翠ら んを中心にとして左に太白山、高舘山、右に向山、経ケ峰、仙 台城一帯を望み、遠くは蔵王連峰から笹谷、神室、大東、奥羽 山脈、北方に泉ヶ岳、三峰、白髯の山々を一眸に集め得る。政 宗はよほどここが気に入ったらしく、最後の参府に際して「も しここで終わるようだったなら、何かいい名前を付けよう。元 の田畑にはしたくない」といっている。 若林居館から仙台城への連絡路の第一歩はおそらく今の行 若林城の土塁 人塚の通りであったと思われるが、南方との通路に、新たに長 町の中間から東へ曲の手に道路をつけ、館の南向かいの広瀬川に大橋を架けて、直接南方 への交通を便利にした。丁度長町橋と双橋に架かったという。(東奥老士夜話)これは御 名語集に記されている政宗の直話に「若林御城南の川除普請過ぎておん話に、この頃年月 の水に橋もいたみ普請せねば」云々とあるのはそれであったろうと思う。 次に館の周囲の景観を一変させるに至ったのは、家臣の邸宅の移動であった。東奥老士 夜話には、御一門始御家中屋敷割なられ候とあるが、家臣の若林移徙については伊達便覧 志によれば、一門内に父子、兄弟あれば、子と弟とは仙台に留まり、父と兄は若林へ移っ たという。つまり一家が二分されたのであったから、各々の家では音信のため往来したの で仙台と若林は絡繹として交通が絶えなかったと 記されている。更に政宗記によれば士屋敷以外に 付近には町々も出来たとある。 後に政宗が他界したとき、6月13日の葬儀に先立 って家臣15名が殉死したが、そのうち小平太郎左 衛門元成(63)は19日、桑折豊後綱長(66)は20 日夜、近習頭石田将監與純(48)佐藤内膳吉信(29) 目付使番青木仲五郎友重(32)小姓次郎吉(22)の 写真:(昭和53年宮城県沖地震で外塀が倒壊し、再建のために旧外塀の全てを撤去した時の写真。 後にコンクリートの外塀が建設された。)

4人と石田の又者 青柳傳衛門、加藤三右衛門、佐藤の又者 杉山理兵衛らは21日朝いずれ も若林の自邸で切腹したのであった。石田の屋敷には寛文の頃まで下屋敷として若林にそ 46


の名を留め邸内に殉死塚というのがあったと記録に見えるが、今はその所在はわからない。

若林移徙後の政宗 政宗が若林に起居した年数は、江戸参勤の期間を除くと、 寛永5年11月16日から同6年11月30日まで約1年6ヶ月 同年11月30日から同8年閏10月12日まで約1年 同10年4月3日から同11年3月19日まで約11ヶ月半 同12年7月9日から同13年4月20日まで約9ヶ月半、合わせて3年9ヶ月半の期間であった。 仙台藩祖となった時は34歳であったが、それまでの前半生は動乱の世に処して、内外と もにみも許されない生活の連続であり、又家庭的にも極めて恵まれなかった。仙台開府後 の27年間は、専ら城下の経営と領内の政治、産業の整備に多忙であったが、若林における 晩年は前半生とは正に対照的に悠々自適の生活であった。

政宗と臥龍梅 天正17年(1589)8月、明国征討が豊臣秀吉から正式に 全国の諸大名に発令され、肥前国松浦郡(佐賀県)の名 護屋に本営を置くことが決定し、10月に工事に着手して 翌、文禄元年に完成する。 秀吉が京都を出発したのは3月26日、名護屋の本営に到 着したのは4月25日で、このときにはすでに小西行長の一 番隊の京城攻撃は5月2日だから、秀吉が名護屋へ着いて 名護屋城 から一週間目に、敵の首都を占領したことになる。6月16 日には平壌をも陥落させてしまう。だが緒戦の日本軍の快進撃もやがて明国の援軍派遣と、 高麗の民族意識の高まりもあって次第に苦戦となる。特に高麗の海将、李舜臣は知武勇兼 備の名将で、九州の諸大名を主力とする日本水軍を壊滅させる。

朝鮮における政宗の戦功 予備軍として名護屋の本営に滞軍していた政宗は、文禄元年(1592)3月22日、浅野幸 長と共に名護屋を出帆して釜山に向かった。この頃には日本側は船が不足して援軍の輸送 はこれが最後であろうと思われた。軍隊を送れば兵糧が送れず、兵糧を先にすれば援軍が 送れない。現地では病人続出のうえ、船を失った舟子たちの凍死者、食料不足による餓死 者が続出している時期でもあった。 こうした中、政宗は4月13日釜山に上陸した、政宗等が到着すると京城の日本軍は食料 不足により撤退を開始した。明国の援軍により敵の戦意が著しく昂揚し、日本側は釜山に 集めた兵糧を、もはや京城に輸送できなくなっていたのである。 その頃、共に上陸した浅野幸長は日本軍の撤退を容易にしようと一直線に金海城に進攻 して行ったが、敵の急襲にあい風前の灯にひとしい苦戦に陥っていた。報を受けた伊達軍

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は直ちに援軍に向かい、駆けつけざまに浅野勢を取り囲んでいる敵の背後から白兵戦を挑 んだ。作戦は図に当たり、日本からの援軍を城内に閉じ込めたつもりで昂然としていた高 麗軍は伊達軍の思いがけない奇襲を受け総崩れとなって敗走した。 この時挙げた敵の首200。13日に上陸して、18日には もうこの戦果をあげ敵を震え上らせたのだから、名護屋 の秀吉が雀躍りして喜ばない筈はない。何事にも大袈裟 なことの好きな秀吉、早速口述で感状を認めて現地に送 った。金海城の勝利に続いて、浅野幸長と共に蔚山に向 かい、ここでも首級83を挙げて補給路確保のために猛将 ぶりを発揮した。更に晋州城で敵数百人を生け捕りにす るという手柄を立て、秀吉より三国に比類なき高名とい う最大級の賛辞を得た。

晋州城

臥龍梅を日本に持ち帰った動機 文禄2年(1593)5月7日政宗は釜山に引き上げして待機していた。明との和議の噂があ り、政宗は母保春院に近く日本に帰還するかもしれないと、便りを出している。母保春院 は天正18年5月兄最上義光の謀略による会津城毒殺未遂事件のために里方の山形に去って から三年目であった。その頃、釜山の政宗公のもとに母保春院からはるばる梅花一朶と消 息が届き、一首の和歌が添えてあった。 秋風の立つ唐船に帆を上げて君帰り來む日本の空 宗公は歓喜のあまり梅、来、堆の3字を韻礎とする七絶を賦して贈った。孝子政宗は会 津の毒殺事件など忘れて、遠征先から母への便りを欠かさなかった。今母公心尽くしの内 地の梅の花を見たとき、朝鮮の梅も母に見せたいという念願が臥龍梅を日本に持ち帰った 動機であると言われている。

釜山から岩出山城 政宗公は文禄2年(1593)9月11日、釜山出航帰還の途に つき18日名護屋入港。9月中句京都着。23日伏見城で秀吉 に謁して茶の饗応をうけ、25日には伏見に邸宅を与えられ た。引き続き滞京して岩出山に帰還したのは文禄4年7月で あった。 政宗公が臥龍梅の七絶を賦したのはその前後と思われ る。 朝鮮之役、載一梅而帰、栽之後園、詩以記 絶海行軍帰国日、鐵衣袖裡裏芳芽 風流千古餘清操、幾歳閑看異域花

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岩出山城


文 朝鮮之役、一梅を載せて帰り、之を後園に栽う 詩を以て記す絶海の行軍国に帰る日、鐵衣の袖裡 裏芳芽を裏(つつ)む、風流千古清操餘(あま)す 幾歳も閑(かん)に看む異域の花

芳芽は稚木、後園は岩出山城内である。この詩は英傑政宗公の述懐を後世に示す絶唱と して名高い、注意すべきは政宗公自ら詩中に梅を朝鮮から持ち帰った旨明言していること である。

岩出山城より仙台城に移植 仙台城成る。臥龍梅は岩出山城から仙台城の本丸に 移植され、以後政宗公は慶長13年(1608)1月江戸か ら帰国途中の作「春雨旅情」や、寛永4年(1627)1月 作「春雪」などの七絶に臥龍梅を詩化している。元和 8年(1622)8月母保春院の里方最上家は義光の孫義俊 の代に重臣の勢力争いで除封、同年9月には母保春院 は仙台城に引き取られた。 同年10月24日には政宗公が江戸から帰国して33年 ぶりに母保春院と劇的対面を果たした。時に政宗56 仙台城の伊達政宗騎馬像 歳、母保春院75歳であった。母保春院が仙台城で臥龍 梅の花を見たのは翌9年春。政宗公が朝鮮から持ち帰ってから30年目で、この年の7月16日 母保春院は他界した。

若林城に移植 若林古城の修築は寛永4年(1627)5月に開始、翌5年秋落成。11月12日、政宗公は江戸 参勤から帰国して16日移徙の式を挙げたが書院の手直しなどで、入居したのは翌6年1月 であった。臥龍梅はまだ移していなかった。たまたま政宗公は北山の東昌寺に遊んで初め て梅が咲いたのを見て七絶を賦した。 遊寺見生梅

寛永六年春 今年移宅未栽梅 城裏女児何夢見

入寺初知花己開 一枝携去報春来

今年宅を移して未だ梅を栽えず 寺に入りて初めて知る花の已に開きしを 城裏の女児何ぞ夢にだも身む 一枝携え去って春の来るを報ぜむ

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城裏の女児は御殿女中をいう。この詩によって寛永 6年の開花期までまだ本丸にあって、若林城に移した のはそれ以後であったことが分かる。文禄2年から寛 永6年まで37年を経過して、よほど発育したのであろ う。若林城の臥龍梅を前にした政宗公の居間は素木造 の書院で竹楼と称し、寛永14年瑞鳳殿御霊屋造営の 時、拝殿の前方北側に移され国宝であったが、昭和20 年7月9日夜に戦災で消失した。 若林城北門跡

臥龍梅の樹齢 若林城は政宗公の死後、忠宗が廃城とし、主要建物 は仙台城二の丸に移すと共に城内には永代立入り禁止 としたことが臥龍梅の保護に幸いした。政宗公が親元 になって、この梅が日本に帰化してから今年で約400 年、これに朝鮮での2年ないし3年を加えた年数が現在 の臥龍梅の樹歳と見てよいと思う。 国の天然記念物に指定された昭和17年頃には、樹高 7.5メートル・枝張り南北19.15メートル・東西14.3メー トルに及び、植物学分類学の権威である東大教授中井 猛太郎博士から臥龍梅の品種としては全国一の巨木で あるとの折り紙を付けられた。 菅井梅関(1784~1844):江戸後期の画家。仙台藩の生まれ。名 は岳、岳輔と称し、初め東斎と号した。郷里で根本常南に画を習 い、江戸に出て谷文晁に学んだ。京都に上り、さらに長崎にしば らく遊学、ここで来日した清人画家江稼圃に従事したが、これが 清国で梅道人(呉鎮)に似ると評判になったのを知り、以後梅関と 号したという。郷里に帰り、一生を独身で通し、晩年は不遇のう

菅井梅関の描いた臥龍梅

ちに自殺した。雄勁な筆力で、特に墨梅を得意とした。代表 作に「墨梅図」(東京国立博物館蔵)、「夏冬山水図屏風」(ホノ ルル美術館蔵)がある。

本当に梅の変種 「とし毎の花ながらなおこの春は匂いも八重の庭の梅」(政宗詠)政宗公が「朝鮮から 持ち帰った」と伝えられる臥龍梅。その言い伝えをめぐる真偽論争もさることながら、実 は国の天然記念物に指定された臥龍梅そのものが、植物学上の所属が不明で学名もなく、 梅の変種かアンズの変種かわからない変り種。「せめて植物分類学上の所属だけでも明ら かに」と、東北大の植物学の権威が本格的な学術調査に乗り出す。 刑務所の臥龍梅は所内の運動場の角にあり、太い幹から出た枝が、地を這うように伸び ている。毎年3月下旬に、白い大輪の花をつけ、昨年も一升枡一杯の梅の実がとれた。

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文禄年間に、三千の兵を率いて秀吉の征明軍 に参加した政宗が鉢植えとして持ち帰ったとい うが、詳しいことはわからず。歴史上からもその 生い立ちが注目されている。 昭和17年、珍木として国の天然記念物指定を 受けたが、何しろ実物は刑務所の中で、学者の間 でも明解な鑑定が出来ないまま「梅だと信じら れて」年月が経過。昨年、折り合って実物を目に した木村教授が「こんな梅の木は見たことがな 臥龍梅 い」と驚いた。 木村教授によると臥龍梅は木肌が普通の梅と違い、アンズのようにつややかで、葉も大 きい。「瑞巌寺など全国にある臥龍梅とは、どうも種類が違うようだ」ということは分か ったが、さて「植物分類学上の所属は」「学名は」となるとサッパリ。梅のようでもあり、 アンズのようでもある。 梅とアンズは見た目は似ているうえ、梅は続々と品種改良が行われて、今や数百種にの ぼり、分類が困難なほど。アンズも学者によっては独立種という説や、梅の変種という説 があり、定説がない。首をかしげた木村教授「花の咲く時期にもう一度調査を」と刑務所 側と確約した。「葉は東北大植物園に標本がある。今度は、花と実をじっくり調査、植物 分類をハッキリさせ、出来れば学名も付けたい」と同教授。調査の結果「梅の変種」とな れば問題はないが「実はアンズです」となれば、親しまれてきた臥龍梅の名前を返上しな くてはならなくなるかも。 いずれにしても「国内では珍しい植物」となれば、まさか政宗が朝鮮から持ち帰ったと いう言い伝えを裏付ける一証拠にもなり、この論争にもかなりの影響を与えることになる。 昭和51年2月26日

読売新聞

やはり梅の変種か、木村東北大名誉教授が所見 臥龍梅は、やはり梅の変種らしい。宮城刑務所にある臥龍梅は「梅の変種かアンズの変 種か」と植物学上の議論を呼んでいるが、東北大の木村名誉教授が、このほど刑務所に調 査に訪れ、ようやく咲きほこった花を調べた。この結果「花に関する限りは、やはりウメ 系統」との所見。同教授は、今後、採取した花弁などじっくり分析、植物学上の位置や学 名に断を下す。 木村教授が調査したのは、今月1日の朝。すっかり春の気配を漂わせた白い大輪の花を、 とくと観察した。この結果、花びらとガクのくっつき具合などから「花は、明らかに梅系 統」と判定。そうなると気になるのが植物分類学上の位置。木村名誉教授が「日本人の先 祖は、凝り性で・・・・」と苦笑するほど、梅の改良品種は約300種以上にも上り、専門 の植物学者を悩ませる難物。同教授は当分の間、採取した花の分析に取り組む予定。 昭和51年4月24日

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読売新聞


政宗と川狩 政宗は猟が好きであった。これは一つには、家臣たちが館の内にばかり居るのはよろし くないといって、気慰みをさせるためでもあった。それで野が近いのでよく放鷹に出かけ、 川も近いので川狩に興じた。川狩は特に好きで、夏などは少々の病気は川狩に行くと治る といって、特に秋保・根ノ白石・大倉辺りまで泊まりを重ねて川狩に行った。 寛永10年、政宗は67歳を迎え「わしはもう先が無い」といって、7月23日に秋保をふり 出しに砂金から白石、小原、渡瀬と川狩りを重ね、8月14日に若林城に帰り、1日おいて根 ノ白石へ出かけた。亡くなる前の寛永12年には江戸参観を終って帰国の途中、7月5日に福 島を立って小原に立寄り、2日間川狩りをして9日に帰城早々に12日に根ノ白石へ川狩り に行き2泊した。 政宗はあるとき近習に「わしは若年から川狩をすると少々の病気は治る。夏の水なぐさ みほど面白いものはない。鵜飼の謡に島巣おろしあら鵜ども、みなぎる水にぱっと放せば、 底も見ゆるかがり火におどろく魚を追まわし、かづきあげ、ひまなく魚を食う時は罪も報 いも後の世も忘れはて面白やとあるが、全くその通りじゃな」といって笑い「とりわけ釣 りは他念がない。太公望が面白がったのも道理だ」と語った。 川狩の供は政宗自ら家来を名指しにして、多くの家 来を万遍なく連れて行くようにした。供の時は白木綿 筒袖の背に紋のある川ジャバンにひざきりの股引が け、小脇指の1本ざしであった。政宗は一分金をどっさ り持参して、勝負の多い者や大物を釣った者にやり、 中には1日に何回も賞与に預る者もあった。酒もたくさ ん持たせていった。その間に民情視察と治水造山の注 牡鹿半島 意を忘れなかった。 また多くの家臣を喜ばせるために、遠くの牡鹿半島や雄勝半島へ出かけて大規模な鹿狩 りをした。時には北山五山の寺院を訪ねて、佛典の講義を聴き、漢和の会を開いたり、ま た、親しい重臣の家を朝から訪ねて、終日能や茶会に日を送ったりした。平常は館内で自 然に親しみ、よく詩歌を作った。 鶯のおぼろの声も明らかに 春や立ちぬと今朝ぞ知らるる 幾秋の月は見しかど類なき こよいの月を如何に眺めん 寛永六年作

政宗の日常生活 日常生活は、御名語集によれば次のようなものであった。前夜のうちに起床時刻を知ら せる坊主を指名しておき、起こしに来た時起床する。どうしても眠いときは、もう半時も 寝かせてくれといってまた眠る。起床すると自分で髪を束ね、手水を終わってから床に直 って煙草を3か5服吸い、煙草道具は自分で始末する。それから小袖を着け、脇差をさし、

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腰の物は近習に持たせ表に出て閑所に入る。 閑所は2畳敷で、3階に棚をつり、硯や料紙、種々の書物、手本、刀掛、小刀等の道具を 隙間なく置き、冬は火を入れてある。春から秋にかけては障子や狭間に絹を張る。小さな 窓があって、献立を見てそれを書き直したりしてこの窓から渡す。日中の用事はすべてこ の中で調べ、手紙を書く。だから半時から1時間位閑所に入っている。 行水を使い、表の寝所で着替え、居間で髪を結う。着物5節供は上下、1日、15日、28日 は朝だけ袴をつけ、羽織は着たり着なかったりで、平常は袴を付けない代わりに、豪華な 着物を着ていた。朝食の膳には着替えてからでないと就かない。朝食は表座敷でとり、家 臣や法体の者が相伴する。終えると煙草を3服か5服吸い、次に再び閑所に入って用を命じ、 寝所で着替えをしてから居間へ出て家老に所 用を命ずる。 8ッ時(午後2時)用をしまい、又閑所で着替 えて奥に入り夕食の膳に向かう。相伴衆に知ら した後、床に直り三度目の煙草を3服か5服吸っ てから寝に就く。枕元に毛せんを敷いて、大小 を自らその上に置き、傍に小袖を何時までも着 られるようにして置き、脇に志津の長刀を立て かけておいた。 焼失前の瑞鳳殿(左上の建物が若林城から移築した竹楼)

政宗は平常ただ居るということがなかった。常に手から書巻を放したことがなかった。 気分のすぐれない時や雨の降る日などは竹を割り、家臣にそれで細工物などをさせた。 若い時から常に横になったことが無く、転寝をする時は柱にもたれ、夕の食事以外は間 食をしなかった。好んで水を呑み寒中でも大きな茶碗で水を何杯も呑んだ。着物は薄着で いくら寒くても小袖を3枚と重ねるような事はなかった。炬燵にあたる時は布団の向こう 側をあけさせ、手を温めるだけであった。 駕籠へ乗る際は必ず草履の緒をしめて乗った。家来に過失をさせるのは主人の心構えが 足りないからだといい、例えば外出先から帰宅する際は必ず前触れをさせ、そのひまがな く急に帰るようだったら、門先で2度咳払いをせよ、兎も角主人不在中は留守居役の者は 気が緩んでいるもので、そこへ前触れも無く帰ればあわてて過失をしでかすものだと語っ た。ある年、若林南の広瀬川の川除普請の時のことであった。そこに架かっている橋が少 し傷んだので修理することになった。政宗は町人や百姓に費用を負担させないように、侍 たちに頼んで小人を置き、諸侍に1日ずつ交代に出役してもらう事にした。頃は陰暦8月末 で寒冷のために、若武者どももしばらく用についておれないほどで、5日や10日には出来 そうにもない。 そこで政宗は、日暮れに一同を帰し、明日は一つ鹿狩にでも出るような気持ちで出るよ うに命じ、翌日から再び工事を始め、人をやって工程を聞かせた処、広瀬川の水先を廻す ので、なかなか進捗しないという。そこで政宗は現場に行って法螺貝を吹かせ諸侍を励ま したが、寒さと水の勢いに諸侍も思うようにならなかった。

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政宗は所詮ここだと小姓の南次郎吉を相手に 「いかにむさき番」に土をいれ「おのおの進め、 わしもこの通りじゃよ」といって6、7回も、モッ コを担いだ。これを見た諸侍はいうに及ばず普請 見物の人々までそれーっと一度に喚き叫んで手 当たり次第に道具を持ち寄り、水をせき止めたの で、さしもの難工事も片時のうちに終わってしま った。 「あの時ほど気持ちのよかったことはない」 と言って政宗はいつもその時のことを語った。 広瀬川

若林城の座敷ワラシ 政宗が死ぬ1ヶ月前の寛永13年(1636)頃、政宗の第一女天麟院五郎八姫が、20日江戸 に参府する父公のために若林城で1日がかりの振る舞いをしたことがある。 その日、晩春の日傾く午後4時ごろ政宗は朝からの宴に疲れて、自分の寝所に入り、し ばらく転寝をしたが、起こされて目をさました。枕もとに12、3の見なれぬ美しいワラシ (童女)がかしこまっていて「よい時刻でございます。急ぎお出でなされましょう」とい う。政宗は姫が迎えによこした稚小姓だと合点して「良い、良い、心得たぞ。今参るほど に、その方お先に参れ」といったが、ワラシは立つ様子もない。広い御殿のことで、さて は道を忘れたのだろうと思い、手を打って「だれか居らぬか」と人を呼んだ。この声に応 じて2人の年増の腰元が平伏した。政宗は腰元に「そこのせがれを、案内して連れて行け」 と命じた。だがどこにも「そこのせがれ」は見えないので腰元は互いに顔を見合わせた。 政宗はもどかしそうに「それ、それ」と言った時、政宗の目に、くだんのワラシが枕の 脇から明るい障子の方へ行くと見えてスウートと消えうせた。政宗は舌打ちして「今のも のは聞こゆるいたずらものじゃ。憎い奴め、それと知らないで取り逃がした。重ねて来た ら2度と帰しはせぬぞ」とつぶやき、何事もなかったように再び横になった。2、3日して から政宗はこの不思議なワラシのことを待臣に語った。それから1週間後の4月20日に政 宗は若林城を後に、永久に帰らぬ最期の江戸参勤に上った。 この話は側近の老女が政宗の死後その言行を書き留めた御名語集に出ている。日本民俗 学の灯台となった柳田国男の名著「遠野物語」を読んだことのある人なら、政宗の前に現 れた美童は座敷ワラシであったことに気がつくであろう。座敷ワラシの分布は岩手県を中 心として宮城県がこれに続き、青森、秋田に及び、多くは5、6歳の幼童の姿で現れ、土地 の旧家といわれる家の奥座敷や上蔵に居るとされているが、政宗が目撃したという美童は 大名の居館にも座敷ワラシがいたことを物語る珍しい例であろう。政宗自身「いまのもの は聞こゆるいたずらものなり」といっているから、一度ならず政宗の身辺に出没していた ことがわかる。 伝承によれば、この座敷ワラシは家運の消長に関係があったらしく、座敷ワラシのと

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どまっている間だけは家運が栄え、それが姿を消すと家運 が傾くといわれ、反対にほかから座敷ワラシが移ってくる と、その家は裕福になると信じられて、座敷ワラシの居る ことを家の誇りとする風習があった。要するに屋敷神の信 仰が退化した精霊であって、昔の人の感覚からすれば、御 名語集に記録された座敷ワラシの場合は、政宗の死を予知 して冥土へ案内しながら他へ去ったと見たのであろう。政 座敷わらし 宗が死んでも若林城が引き続き存置されたならば座敷ワ ラシも留まったであろうが、政宗の死後、間もなく城は破却された。

最後の江戸参観 寛永13年政宗は古希を迎えたが、前年から往々食のおさまらないことがあった。自身老 齢のことでもあり、あるいは生命に関することになるかも知れないことを、ひそかに憂慮 した。それがこの春になると病状が著しく昂進してきたのである。 今日の診断では恐らく癌であったろうと思われる。このことは幕府にも聞こえていたと 見え、参府は五月になってからでも差し支えないからゆっくり静養するようにと、将軍家 光から内意があったが、政宗は再起の不可能であることを自覚し、気色のあまり衰えない うちに将軍にも謁し、日頃親しい間柄の大名たちとも会っておきたいと考え、首途を予定 通り4月20日に定め、3月29日に仙台城の西曲輪で能を 催した。 この日、城内の桜の花は真っ盛りであったが、政宗は、 旅立たん程も無き間の花ざかり 詠めてもまた名残いくばく と詠じた。そしてこれが仙台城へ行った最後となった。

保春院

出発前々日の4月18日は、近くの保春院(現在の宮城刑務所の収容者墓地がある寺)に 出かけた。この寺は生母保春院夫人の菩提のために寛永4年に開基しておいた寺院で、去 年いいつけておいた方丈が落成したので、その祝いに開山の清岳和尚からの招きであった。 昼過ぎに保春院を辞して、杜鵑の初音を聞きたいといって、駕籠を北山へ向けさせた、政 宗は壮年から杜鵑の初音を家居の外で聴くのを毎年の吉兆と、季節には方々から杜鵑のた よりを集め、啼きはじめたという所へ出掛けて行くのが慣わしてあった。 この年はまだ便りがなかったのであろう。北山から西の山に沿ってまわり、経ヶ峰へ来 た時、そこでしばし佇んで、ひどく心細げな様子であったが、扈従の国家老 奥山大学常 良をふりかえり、死後は、ここに葬ってほしいといって、手にした杖を地面に立てた。大 学も答えに窮して「580年の後には然るべき所柄に存じます。」と答えた。そこから茂ヶ 崎山へいったが、終日どこでも杜鵑を聴くことができなかった。翌19日は、最も気に入り 功臣で、その頃すでに入道して了庵と号していた茂庭石見綱元の宅に招かれていったが、

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顔色も衰え、食膳にも箸をつけなかった。 いよいよ首途の当日20日となった。この日未明に旅姿をととのえた政宗は表の間に出 て、「朝食は岩沼で取る」とだけ言い、気の重そうな様子で何も言わず伺候の重臣たちは いずれも発駕を延期せられ度いと囁きあっていた。ふとそれを耳にした政宗が、もっとも ではあるが、今回は先を急がずに居られないといって、式台に下がり立った。そこには家 臣が並んで平伏していた。 政宗は「今朝の出仕える大儀であった。 この度は何となく心重く覚えるが、重ね て下向ははかりがたないであろう。家の 仕置き一切はこれまでの慣例通り良く守 るよう。代替わりには物事を改めなくと も、おのずから改ったようにするもので あるが前代を述懐してはならぬ。これ家 の乱れの基である。人はどうあれ我のみ 変るまいと堅く決心して、忠宗への忠節

瑞鳳殿

を励んでほしい。さらばである。」と言っ て駕籠に乗った。家臣一同首をうな垂れ落涙するのみであった。 館の南の大橋を通過するとき、政宗は橋の上に駕籠を止めさせ、国家老遠藤式部、茂庭 周防の二人を招きよせ「梅雨になったら館の西側に杉を植えよ。仙台への入り口に在って 街道から丸見えの出丸である。これまでの古城とは違う」といい、「もしここで終わるこ とができるようだったなら、良い名をつけよう。もとの田畑にはしたくない」ともいい、 濠については一重だけを残して他は田畑にしてもよいと語った。 あくる5月24日、政宗は江戸桜田屋敷で亡くなった。享年70歳であった。

政宗死後の若林 政宗側近の者が書いたと思われる御名語集には、若林の屋形は政宗死後1年で荒れ果て たと記し、その荒廃の状態については、数奇をこらした屋形も庭も草の茂るにまかせ、平 常水を楽しんで所々にかけ入れた遣水も流れが途絶え、池には眞菰生え茂り刈り払う者も なく、島の周りも崩れ、自然を眺めるための四季行楽の建物の方々崩れて、野犬狐狼の棲 家となったと歎いている。 若林周辺の家臣も再び仙台に引き上げたと見え、御名語集には、それぞれの奉公、頭人、 諸侍の屋敷も形ばかりで荒れ果て、草深い野辺となったと記している。 しかし、居館の建物は大半他に移築されたのであった。 寛永14年1月24日に廟瑞鳳殿は、遺命の地経ヶ峯に落成し たが、拝殿に向かって左側に在った御供所の建築は、竹棲 と称してもと政宗の書院であったのを、この時若林から移 築したと言い伝えられている。 つづいて建物の大部分は、寛永15年9月4日から造営を 開始した仙台城の二の丸に移築された(義山公治家記録) 若林城の門が下賜された場所

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その他、松山茂庭氏記録によれば、もと片平丁に在った茂庭氏の門は若林の城門であった という。また八ッ塚松音寺正楽寺の山門も若林から移築したと伝えられている。 余談・・戦後の混乱した時代、宮城刑務所も所内の秩序は乱れ過剰拘禁状態であったが、 所長の英断により、土井晩翠、三原良吉両先生の講演会を実施したことは大変素晴らしい ことである。70数年たった現在でもこれ程の著名人が刑務所内で講演することはないだろ う。

昭和 23 年頃の宮刑の独居の様子 同年 1 月独居担当を命じられた。勤務について驚いたのは衆情の乱れでした。終戦直後 のためか、担当に対して毎日「月給泥棒」と大声で云う者、「こんな飯食えるか」などと 喚いて食器口より飯を投げる者も居りました。また運動に出すと、職員の指示など全く聞 き入れず、3 階の独居の屋根に登ったりした。 所長を罵倒・・川上所長が出役受刑者と運動場で野球をしていると「川上のバカ野郎」と 大声で連呼する者も居りました。所長は肝っ玉が大きかったのか聞こえないふりをしてい ました。当時は出勤するのが嫌になり、幾度も正門まで来て戻ろうかと思ったか知れませ ん。 ふるしろの里 安達 正蔵

昭和 23 年 2 月 14 日

官名改称

政令により司法事務官は法務庁事務官、司法技官は法務庁技官、司法教官は法務庁教官 とそれぞれ改称される。

昭和 23 年 4 月

構外泊まり込み作業場開設

委託亜炭採掘作業施行のため、矢本構外泊まり込み作業場を開設、常時 100 名内外出 役、昭和 29 年閉鎖。同年 7 月委託伐採製炭作業施行のため奥新川に構外泊まり込み作業場 を開設、常時出役人員数 10 名、昭和 25 年閉鎖。

昭和 23 年 4 月 15 日

無期囚脱獄

独居房に隣り合って収容されていた無期受刑者 2 名が共謀して、教誨で出房したときに 密かに雨樋の支金を持ち込み、これで房扉の羽目板を取り外すようにあらかじめ工作し て、お託亜炭採掘作業施行のため、矢本構外泊まり込み作業場教誨で出房したときに密か に雨樋の支金を持ち込み、これで房扉の羽目板を取り外すようにあらかじめ工作しておい た。午後 11 時過ぎになって夜勤看守に発熱を訴え、頭を冷やす水を要求。看守が水汲みに 行った隙に各々予定通り羽目板を外して廊下に脱出し、水を汲んできた看守を待ち伏せし て顔面を強打昏倒させ、布団を裂いて作った縄で縛り上げ、非常ベルを切断した。続いて 外塀を乗り越えようとしたが失敗したので、正門に近づき勤務中の看守に飛びかかって組 み伏せ、刃物で胸部を突き刺し拳銃を奪って逃走した。

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昭和 23 年 12 月

受刑者分類調査要綱制定

訓令を以て、受刑者分類調査要綱が制定され、各矯正管区毎に、施設単位の収容者分類制 度の確立を図るものとし、その基準は、受刑者の改善を見越して、国籍、刑期、年齢、性別、 心身の故障有無などに置かれ、主なる分類級は A. B. C. D. E. G. H. K. J. M の 10 種類で、 原則としてそれぞれの施設を別異にすると云うものである。

昭和 24 年 4 月

各所の収容区分定める

上記訓令により分類調査要綱が制定され、7 つの分類級別を主とし、管内収容者の帰住地 主義を採用して、各所の収容区分が定められたもので、これにより従前の収容区分は一新さ れた。 (同年 4 月末日現在の宮城刑務所の収容人員、受刑者 2,492 名、無期 215 名、10 年以 上 358 名、その他 1,919 名である。)

昭和 24 年 4 月

山王海作業場開設

鹿島建設の委託により、ダム工事に収容者の労務を提供することになり、岩手県紫波郡志 和村山王海に泊まり込み作業場を設置する。(常時出役人員 400 名前後)この灌漑用ダムは 同地区に長年に亘る水不足を解決し、水争いの歴史に終止符を打っためである。ダムの所在 地は、いわゆる陸の孤島で 30 戸ほどの民家しかなかったと言われている辺鄙な集落であっ た。(昭和 26 年 1 月竣工引揚) 受刑者の事故死・・落石のために収容者の犠牲者がでた。地 元警察の検死を受けたということで、直ちに本所で遺体を引 き取ったところが、そのあとが大変なことになった。事故発 生地を管轄する盛岡地検の検視をうけていないために、同地 検から厳しいお叱りをうけた。お叱りは当然である。後悔し たが、そのときは狼狽の余り失敗してしまった。地元警察の 配慮により委託検死という方法で収めてもらった。 山王海

山王海の傷害致死事件・・拝命間もない頃、岩手県の山王海作 業場に派遣された。そこで副担当として勤務中、当時の受刑者の作業は「こまわり」と言っ て、与えられた課程を仕上げれば、時間に関係なく各班毎に宿舎に引き上げて来る。最初の 班の担当が舎房勤務につき、次の班が引き上げて来ると交代するという勤務をしていた。事 件当日、私たちの班が帰った頃には某先輩が勤務についていた。 私の顔を見ると「ようー、○名異常なし」と簡単な引継ぎをしてその場を去って行った。 引き継ぎ後、舎房の前に立ったとき、異常な雰囲気に気づき舎房に飛び込んだところ、数人 の受刑者が一固まりになって、その中で某受刑者が布団を被っていた。 収容者死亡・・私は咄嗟に(喧嘩で殴られた)と直感して辺りの受刑者を見回したところ、 傍にいた看病夫が「担当さん、軽いテンカンです、すぐ治ります」と話しかけてきたが、現 場の状況から喧嘩で殴られたけど大したことは無いと判断して、その場を離れ勤務についた。 それからが大変。夕方になって殴られた受刑者が吐気をもよおし、上司が気づいた時には既 に重態。診療所に運んだ時は手遅れで、そのまま死亡してしまった。「なんで上司に報告し 58


なかったのだ」と言われても後の祭り。当然私は減俸。更に上司も監督責任を取られるはめ になった。 ふるしろの里

山崎 隆

山王海の思い出・・岩手の山王海は広々とした空気の澄み切った青空の下での作業ですが、 塀のない山奥で 50 余名の受刑者を戒護しなければならないことは、保安原則を知ってはい るものの余りにも厳しい自然条件で、逃走事故も多かった。護送には客車一台貸切で各駅で 復員列車と間違われて「ご苦労さんでした」と声を掛けられ、収容者が両手を上げて手錠を 見せると吃驚して後ずさりされたこともあった。 地元の人を大切に・・山王海では場長から「部落の人は大事にしろ、何かとお世話になるの だから」と指導された。我々もそれに従った。そのためか、あの食糧難の時代、リンゴの差 し入れ、餅の慰問等数知れず温情を受けた。特に少女達 から方言で「アーナハン」と言われ、人情の厚い地方の 人達の情がしみじみ身にしみました。たまの雨降りの休 みには、6 ㌔も山を下り更に田舎道をバスに揺られて盛

山王海作業風景

岡まで行き、映画を見て、寿司を食べ、途中居酒屋で財 布が空なのを忘れてツケで呑み、ほろ酔い気分で夜中に トボトボと山を目差して、谷間の道を転落もせず宿舎に 帰った思い出があります。 ふるしろの里 岩渕 哲二

昭和 24 年頃の宮城刑務所の様子 同年宮刑の戒護課長(現処遇首席)に拘置監勤務を命じられた。当時の宮刑は、東京拘置所 が米軍に接収され、収容者 2,000 名を超え、死刑囚も 20 数名に及び、1 日 3 回の執行に立 会したこともあった。拘置監に駐1松川事件、駐 2 平事件等、福島刑務支所で被告人の処遇が あまりにも緩和しすぎたので宮刑の拘置監に収容した。 裁判の時は、福島まで長い道中を護送出廷し、途中奪還される虞があったのですが、当時 の警察は戦後の混乱がまだ続いている有様で協力得られない状態でした。被告人達は福島刑 務支所で処遇が寛大だった処から、処遇の厳しい宮刑に来たために毎日のように処遇緩和の 面接出願又は獄内闘争等があり、職員の方も大変苦労しました。また共産党小泉細胞が電柱 に「吉田の犬を殺せ」と張り紙をするなど、職員は夜の外出も出来かねる状態でした。 駐1-松川事件・・(まつかわじけん)は、1949 年(昭 和 24 年)8 月 17 日に福島県の日本国有鉄道(国鉄) 東北本線で起きた列車往来妨害事件。日本の戦後最 大の冤罪事件に挙げられる。下山事件、三鷹事件と並 んで第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」 のひとつといわれており、容疑者が逮捕されたもの の、その後の裁判で全員が無罪となり、真犯人の特 定、逮捕には至らず未解決事件となった。 59

列車脱線転覆


駐2-平事件・・1949 年 6 月 30 日早朝より、共産党員 や在日本朝鮮人連盟の朝鮮人を動員し、湯本町や内郷町 (両町とも現在のいわき市)の自治体警察に押しかけて、 平市警察に応援を出さないことを確約させた後、午後 3 時 30 分頃にトラックで平市警察署に押しかけた。群集 はインターナショナルを歌いながら気勢を上げて署内 に乱入した。午後 6 時頃になると署長室だけでも 80 人 が侵入するなど大混乱に陥った。侵入を阻止しようとす る署員に対しては殴る蹴るの暴力を加え、署の窓ガラス 警察署長室を占拠した群衆 を次々と割っていった。群集の一団は留置場にも侵入し、 先程逮捕され留置された者を奪還、逆に警察官を留置場に閉じ込めた。群集は公安委員会の 招集と署長の辞職を要求した。この間、署の玄関に赤旗を交差させて掲げ、「人民警察がで きた」などと呼号し、市内各所に検問所を設けて警戒に当たるなど無警察状態に陥った。午 後 11 時頃になって、近県より警察の応援部隊がやってくるという情報が入ったため、よう やく解散した。

昭和 24 年 6 月

刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規定改正

上記により当所は二部 9 課制(記改、総務、管理の 2 部。文素、職員、会計、用度、刑務、 作業、教育、科学分類及び医務の 9 課)となる。当所所轄の刑務支所は拘置支所と改称され る。

昭和 24 年 7 月 29 日

片平庄太郎看守殉職

炊事場の交代として勤務中の片平看守は、同日午前 4 時 40 分頃、炊事夫の受刑者を伴い、 来客の食事を職員倶楽部に運搬するために、正門を出て路上に至った。その時、同受刑者が 突然、隠し持った肉きり包丁で体当たりをしながら片平看守の胸部を刺して、脱兎の如く走 り出した。片平看守は、重傷にもひるまず、直ちに格闘逮捕しようとしたが、力尽きて昏倒 した。 急報により、片平看守を応急手当のうえ市内の病院で入院加療したが其の効なく、同日殉 職した。享年 46 歳。同刑務所では直ちに約 100 名の特別捜査班を編成。仙台市警からも約 100 名の応援を得て潜伏確実とみられる市内に非常線を張り捜索。刑務所の調査によると西 村某は朝から脱獄を計画していて、炊事場から肉きり包丁を懐に隠し、前日秋田から倶楽部 に泊まっている職員の弁当を届けると職員を騙して、正門を通り抜け所長官舎付近で包丁で みぞおちを一突きして、そのまま逃走した。片平看守は呼子を吹いて倒れた。呼子の音で目 を覚まし外に出た佐藤某さんが、倒れている片平看守を発見して大騒ぎになった。 捜索隊によって西村某の夕刻までの足取りは、七号ぼりで血潮を洗い、豆畑にズボンと上 着を脱ぎ捨て、薬師堂から原町南の飯田某さん方に行き、同所で白いズボンと浅黄色のシャ ツを着て、包丁を持ったまま市内に潜伏しているものと思われる。その後の警察の必死の追 跡を逃れて山形県に潜入したが、7 月 31 日午後 7 時頃、警察官に逮捕された。

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公文宮城刑務所長談・・弁当を持って一人で出たと言 うのが大体おかしい。片平看守や正門の 2 人の担当が その点に気付いてくれたら、早く対応できただろうに。 特に変わった挙動もなかったので油断したのは事実 だ。 刑務所の調査による脱獄事件の真相・・脱獄犯 西村某 は料理人の経験があることから職員食堂の炊事係りを 片平看守が刺殺された中央官舎前 担当していた。当日、早出職員の朝食準備に取り掛か っていた。午前 4 時半頃、交替勤務の片平看守に対して「所長官舎に早立ちのお客さんが泊 まっているので、この弁当を運びますのでお願いします」と申し出て準備した折箱 3 個を差 し出した。片平看守はそのような引き継ぎを受けていなかったが、時間的に急ぐようなので、 急遽同僚の看守に事情を話し、所長官舎に連行することにした。 正門担当看守に「こんな時間にどうしたのですか」と怪しまれたが、事情を説明して通行 を許してもらった。所長官舎に近づいたとき、西村は隠し持っていた包丁で片平看守の胸部 を刺し逃走した。 余談・・前年無期囚 2 名が夜間正門担当を襲って逃走したばかりなのに、早朝、無期の炊事 夫が弁当を持って塀外の所長官舎に行くという理由で、いとも簡単に通行を許可するとは、 正門の警備は当時はとうなっていたのであろうか。全く現代では理解できないお粗末な話で ある。

昭和 24 年 7 月 30 日

昆野博士副看守長殉職

片平看守に重傷を負わせ逃走した受刑者の逮捕張り込みを命じられて、東北本線と仙山線 の交差点付近で立哨中、7 月 30 日午前 8 時 50 分頃、邁進してきた仙台発山形行の列車の施 風に、降雨のため着用していた雨合羽の裾が巻き込まれ転倒して後頭部を強打し、人事不省 に陥った。直ちに付近の安田病院に入院して手術を施したが、経過が悪く、更に松本病院に 転院して加療したが、其の効なく殉職した。行年 22 歳。

昭和 25 年 3 月

所轄支所の昇格独立と、支所の所轄変更

当所所轄の福島刑務支所は、福島刑務所として独立し、その結果、平、白河、若松、及び 郡山の各支所は福島刑務所の所轄となる。

昭和 25 年 4 月 20 日

成人刑務所組織規定改正

即ち 5 部長制で総務部に、経理課、予算文書課、物資課、職員課。教育部に普通教育、職 業教育、教化、厚生の各係り。医務部に保険課、医療課。科学分類部に識別、分類指定記録、 仮釈放の各係り。管理部に保安課、作業課、営繕課、と言う切り替え思考の組織構成である。 指令刑務所は府中、横浜、大阪、京都、名古屋、広島、福岡、長崎、宮城、札幌、及び高 松の 11 刑務所である。

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戦後の著名収容者 小平

〇雄(小平事件)強姦・強姦致死・殺人

死刑

若い女の連続殺人・・太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉 巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出した うえで強姦して殺害するという手口で行われた連続殺人事件である。当時 は戦中、戦後の食糧難で、ラジオ放送のインタビューの内容が「何を食べ ているか?」、子供へのインタビューにおいて最近嬉しかったことを聞く と「米やパンが配給された」と回答するほど、人々が食を求めていた時代 であり、食糧の提供や就職斡旋といった言葉は魅力的だった。 初めの強姦・殺人事件から 1 年以上を経た 1946 年(昭和 21 年)8 月 17 小平某 日。7 人目の被害者女性が遺体となって発見された。直前にこの女性と会っていた小平 某 (こだいら、当時 41 歳)が逮捕され、犯人であると判明した。小平が他の事件への関与も 自供したことから、一連の連続強姦殺人事件が発覚した。小平は 10 件の事件について起訴 され、3 件が無罪、7 件が有罪となった。1948 年(昭和 23 年)11 月 16 日、小平に対する 死刑判決が確定し、翌年 10 月に宮城刑務所で執行された。 小平が書いた懺悔録・・小平が宮城刑務所の拘置監に死刑囚として収容中に 7 人の被害女性 のことを記録した「懺悔録」が残されていた。この記録は執行になる前に、当時宮城刑務所 の専任教誨師である中川氏に託して、小平はあの世に旅たったそうです。この記録は中川氏 が刑務所を退職後、北海道に渡り札幌の臨済宗のお寺の住職になったそうですが、もしかし たこの小平の「懺悔録」が、そのお寺に残っているかもしれない。 東北大学医学部の地下に眠る小平・・20 数年前、郷土史研究家で刑罰が専門の、故高倉淳先 生と四方山話をしていたとき、話が死刑囚の話題になりその際、高倉先生は「宮城刑務所で 死刑執行された小平某の遺体が東北大学の地下に眠っているのを見たことがある」との話し になった。小平が執行前に「自分の遺体を献体して医学の発展の為に役立ててください」と 申し出ていれば、執行後、遺体は東北大の方に運ばれて、医学生の研究の為に解剖等されて、 終了後は火葬にして無縁墓地に葬る殊になっている。小平某は猟奇殺人事件を連続しておこ なったので、更に研究のために火葬にせずに、そのまま遺体を保管していたのであろう。

〇田

〇蔵(おせんころがし事件)強盗強姦殺人事件

二つの死刑判決を受けた死刑囚・・戦後の混乱期に栗田某は 闇市のブローカーとして生計を立てていた。三角関係のもつ れから静岡県において交際女性を 2 人とも殺害した。さらに 1951 年 8 月 8 日、栃木県で子供を寝かしつけようとしてい た主婦を強姦しながら絞殺した。同年 10 月 10 日には国鉄 (現在の東日本旅客鉄道(JR 東日本))勝浦駅において 行 商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶然同駅に

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死刑

勝浦駅


降り立った母子 4 名を誘い出し、日付が変わり翌日深夜、長男と長女を断崖絶壁の「おせん ころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とし た。被害者達は崖の途中に止まっていたが、犯人の栗田はそんな被害者達を石で殴打し殺害 した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びることができた。 1952 年 1 月 13 日、千葉県千葉郡検見川町(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺さ れ、主婦は死姦された。この際、指紋が検出され、これにより栗田が割り出され、逮捕され た。千葉地裁と宇都宮地裁でそれぞれ死刑の判決が下された。一審で 2 つの死刑判決を受け た我国初の例でもある。その後、宮城刑務所拘置監に押送さ、1959 年 10 月 14 日に死刑が 執行された。

〇宇(小松川女子高生殺し)強姦致死・殺人

死刑

李は、日雇い労働者をなす父のもとに 6 人兄弟の次男として生まれた。小、中学校時代か ら学業優秀でクラス委員長等に選ばれ、読書力旺盛で、一流外国文学を熟読するなど優れた 才能を示す反面、学校や図書館で時計や書籍、備品等を盗む非行を重ね、警察に検挙され、 保護観察処分に付されていた。昭和 33 年 4 月、入浴から帰宅途中の女性に劣情を催し、こ れを追従して人通りのない場所に差し掛かると、やにわに同女に襲い掛かり仮死状態にして 強姦し、更に同女を殺害したものである。 同年 8 月、小松川女子高校屋上で読書中の女子高生に劣情を催 し、肥後守ナイフをもって脅かしたところ、騒ぎ始めたので、人 が来ると犯行が発覚すると思い、同女を殺害して欲情を遂げよう と決意して、首を絞めて殺害し強姦したものである。本件は、犯 行後、犯跡を隠蔽するために周到な措置を講ずる一方、被害者の 肉親、同窓生、恩師等がこの無残な被害者の死に対して、悲嘆に くれ、捜査機関が犯人発見に苦慮、憔悴しているのを尻目に、新 聞社、警察あるいは被害者宅に数回にわたり、匿名の犯人として 電話をかけ、さらには被害者の所持品を郵送したりした。

現在の小松川警察署

こうしたことが、犯人の奇矯な行動として新聞、ラジオ等で報道されるや、これに異常な 興味を覚える等の犯人の行動は、未成年犯罪として希に見る極悪非道な残虐極まる犯罪とし て有名になった。翌昭和 37 年(1962)8 月東京拘置所から宮城刑務所に移送され(当時東 京拘置所には処刑設備がなかった)同年 11 月 26 日に刑が執行された。22 歳没。

〇佶(智行ちゃん誘拐殺人事件)身代金目的・殺人事件

死刑

車は映画俳優になりたくて、高校 3 年を事実上退学して、東京芸術学院に入学した。この 間、日本舞踊の某教師に見込まれて、その内弟子になり、三代目天津七三郎を襲名した。昭 和 32 年、新東宝に入社。次いで翌年松竹に入社。時代劇やテレビドラマに出演し、日本舞 踊を指導するなど華やかな生活を送り、相当な収入もあったが、出費もまた相当掛かり、当

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時 300 万円の借財ができた。その後、本人自身の心労により衰弱のために帰郷し、静養と借 財の整理に当たることになり、2、3 の事業に手をだしたがいずれも失敗した。借財は総額 400 万に達した。債権者からは毎日のように厳しい返済を迫られ、金策に苦労して追いつめ られ、遂に身代金目的の誘拐を決意するに至った。 昭和 39 年 12 月 21 日誘拐実行・・その目当てとして、かね てからの知り合いの金融業者の三男 智行(5)を誘拐するこ とにした。その母親に虚言を用いて幼稚園まで誘い出し、こ れを拉致して市内を引き回しているうちに、智行が家に帰る と暴れだし泣き叫ぶので、発見を恐れ、首を絞めてこれを殺 害した。自宅物置に放置したまま、智行の母に対して「子供 を預かっている。金と引き換えに返す。500 万用意しろ」と もう仕向け。金の受け渡し場所を指定した。

城ヶ島の雨

これに応じて指定された市内街路地を歩いていた母親から身代金を奪取しようとしたと ころを張り込み中の警察官に逮捕された。昭和 40 年 4 月仙台地裁は車に罪一等を減じて無 期懲役を言い渡した。裁判長は車の改悛の情を酌量したのだが、これに対して検察側が控訴 して二審の仙台高裁は一審の無期懲役を破棄して車に死刑判決を言い渡した。昭和 43 年 7 月最高裁は車の上告を棄却して死刑が確定。昭和 49 年 7 月仙台拘置支所で死刑執行された。 車の辞世の句:哀れなる母あり哀れ

その母をおいてもいけず

連れても行けず

執行に先立ち車は最期に「城ヶ島の雨」を歌い、従容として絞首台の露と消えた。

〇俣 〇司(深川通り魔殺人事件)

無期

〇俣は 25 歳ころから暴力団関係者と交友をもつようになり、覚せい剤を使用するよう になった。4 度目の受刑先、府中刑務所を出所後、寿司職人として身を立てようとして、 都内 7 ヶ所の鮨店に務めたが、客や同僚に対する威圧的で横柄な態度をとるところから、 次々解雇される有様で、生活にも窮するようになった。折から幻覚、妄想が次第に増強さ れるようになり、自分がこのような状況になったのは「高級役人が黒幕になって自分の頭 に電波を飛ばしたり、テープに録音された声を流したり、勤め先の上司やら親兄弟まで圧 力をかけ、悪口を言わせたり、計画的に解雇したりして、自分をいじめているからだ」と 妄想をつのらせ、女、子供を人質にとって、寿司屋等を呼びつけ、黒幕が誰であるか突き 止めて、責任を取らせようと考えるようになった。昭和 56 年 6 月 17 日午前 11 時 35 分 頃、東京都江東区森下 2 丁目、喫茶店「ロアール」前路上において通りすがりの子供 2 人 を連れた女性ほか 3 名に次々に襲い掛かり、柳包丁をもって腹部、胸部等を突き刺し、4 名を殺害し、2 名に傷害を与えた。更に別の女性を人質にとり中華料理店に 7 時間も立て こもり、無縁の市民を巻き込んだ悪質極まりない無差別大量殺人事件で、付近の住民に与 えた恐怖は図り知れず、社会に与えた衝撃も深刻で、覚せい剤にからむ重大でショッキン グな事件であった。

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戦後の冤罪事件で収容された人々 平沢貞通・・帝銀事件 1948 年 1 月 26 日(昭和 23 年)午後 3 時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都 防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団 赤痢が発生した。GHQ が行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の 1 人 がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計 16 人(8 歳から 49 歳)に青酸化 合物を飲ませた。その結果 11 人が直後に死亡。さらに搬送先の病院で 1 人が死亡し、計 12 人が殺害された。犯人は現金 16 万円と、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行)板 橋支店の小切手を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が 生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。なお小切 手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件 から 2 日経った 28 日の午前中であった。 全員に飲ませることができるよう遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に 飲み、さらには「歯の琺瑯質(エナメル質)を痛めるから舌を出して飲むように」などと伝 えて確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の 2 回に分けて飲ませたりと、巧みな手口を用い たことが生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用し た。また、当時の日本は、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。 16 人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼ける ような感覚が襲った。約 1 分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた 16 人は競 うように飲んだ。行員の一人が「口をゆすぎたい」と申し出て、男は許可した。全員が台所 の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。内の一人の女性が失神を 繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚。 平沢は入獄後、光彩(こうさい)と雅号を変え、獄中の画家として 1,300 点を超える作品 を描いた。宮城刑務所時代は特別にアトリエを与えられて画作に取り組み、支援者の手によ り国内外でしばしば個展を開いていた。絵の材料は支援者らが差し入れていたが、画用紙は 神田の文房堂のものをと、注文をつけていた。 八王子医療刑務所に移ってからは、老衰と白内障による視力障害などのため、ほとんど絵 筆をとらなかった。養子の武彦らが面会するたびに「無実だから早く出たい。小樽の両親の 墓参りをしたい」などと語り、好きな日本酒を味わうのを楽しみにしていたという。 長年宮城刑務所に収監されていたが、その後、高齢のため体調を崩し、1987 年 5 月 10 日 午前 8 時 45 分に八王子医療刑務所で肺炎を患い獄中で病死した。95 歳没。39 年間に渡る 獄中生活は 1 万 4,142 日を数え、確定死刑囚としての収監期間 32 年は当時の世界最長記録 であった。

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斎藤幸夫さん・・松山事件 1955 年(昭和 30 年)10 月 18 日に、宮城県志田郡松山町(現大崎市)にて発生した放火 殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。四大死刑冤罪事件の一つ(免田事件、財田川事 件、松山事件、島田事件)。日本弁護士連合会が支援していた。 1955 年(昭和 30 年)10 月 18 日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの 家に住む一家 4 人である家主(当時 54 歳)、家主の妻(当時 42 歳)、夫婦の四女(当時 10 歳)と長男(当時 6 歳)の焼死体が発見された。遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷ら しきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置された。 事件発生後、1 ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査し たところ、東京都板橋区に勤務していた斎藤 幸夫さん(当時 24 歳)が浮上。12 月 2 日、 警察は斎藤さんの身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を傷害事件として別件容疑に し、東京に勤務している事実を家出と偽り逮捕状を請求して逮捕した。同月 8 日以降、斎藤 さんは警察の厳しい取調べで自白しては撤回を繰り返していたが、同月 8 日、警察は強盗殺 人・放火の疑いで逮捕。12 月 30 日に起訴した。 •

1957 年(昭和 32 年)10 月 29 日、仙台地方裁判所で死刑判決。

1959 年(昭和 34 年)5 月 26 日、仙台高等裁判所が控訴を棄却。

1960 年(昭和 35 年)11 月 1 日に最高裁判所が上告を棄却し、死刑が確定。 斎藤さんは無罪を訴えて再審請求を開始。やがて第 2 次再審請求が認められ、1979 年(昭

和 54 年)12 月 6 日に再審が認められる。警察は留置所に前科 5 犯のスパイを送り込み、 「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤さんに言って自白に追い込 んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされ た。 1984 年(昭和 59 年)7 月 11 日、無罪判決。28 年 7 ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打 たれて無罪となった斎藤さんは、7,516 万 8,000 円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の 借金返済に消えた(再審請求以降の裁判費用は借金ができず、支援団体のカンパでまかなっ ていた)。故郷に戻り、仙台市の弁護士事務所で一時期働くなどした。その後、鹿島台町の 自宅に戻り、母と暮らしながら清掃員などとして働いた。アムネスティ日本支部などの団体 で講演活動をしていたが、長期間死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は生活 保護を受給していた。精神的苦痛を理由に 1 億 4,300 万円の国賠訴訟を起こしているが、訴 訟内容は裁判費用の請求でなく精神的苦痛による損害賠償であるため、2001 年(平成 13 年) に棄却されている(一方、足利事件と布川事件の冤罪被害者は刑事補償金以外にも裁判費用 を受け取っている。)。斎藤さんは 2006 年(平成 18 年)7 月 5 日に多臓器不全のため 75 歳で死去。母も 2008 年(平成 20 年)12 月 24 日、101 歳で入所先の施設で亡くなった。

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赤堀政夫さん・・島田事件 1954 年 3 月 10 日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に 6 歳 の女児が行方不明になり、3 月 13 日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸 である大井川南側の山林で遺体で発見された。 静岡県警の司法鑑定医師(後の静岡県警科学捜査研究所長)の鈴木完夫は司法解剖の結果、 犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無 は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害し たと鑑定した。 被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を 7・3 分けにした務めの人に見える若い男だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴 者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑 者を特定できる情報も発見できなかった。 1954 年 5 月 24 日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼町(現各務原市)で静岡県警が重要参考人と していた赤堀 政夫さん(当時 25 歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束さ れ、島田警察署に護送された。 警察は赤堀さんを窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、 被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、赤堀さんに被害者の 女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞 めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

佐藤誠・・牟礼事件 1950 年 4 月 13 日、東京都渋谷区に在住する W(当時 21 歳)が行方不明になり、W 名義 の土地・建物が W と無関係の他人に売却されていたので、警察は W の失踪は土地・家屋の 売買に関する紛争に巻き込まれたと推定した。 W の友人の証言によると、W は土地と建物を売却しようとある不動産業者に相談したと ころ、「高橋三夫」と名乗る男性と交渉成立。4 月 13 日に金の受け渡しをする予定で、当 日、W の友人 K は途中まで W や高橋と同行したが、用事があり翌日に会う約束をして別れ る。だが、4 月 14 日に K が約束の場所に行ってみると、約束の時間に W は現れず、高橋の 秘書「原保」と名乗る人物が W の引越し先を告げるが、結局、W に会えず、居所すら不明 だった。さらに翌日、W の母が W の家に行ってみると、彼女の家財道具を男数人がかりで 次々に運び出していた。W の母親に例の高橋三夫と名乗る中年男性が、不動産業者に頼ま れて家財道具を運んでいること、W の引越し先は分からないことを告げる。やがて 4 月の 終わり、会社経営者の佐藤誠(当時 42 歳)が知人に「高橋三夫と原保という男から土地と 家の売却を頼まれている」と依頼。5 月 1 日に売買成立。W の母親がこの知人に娘の行方を 尋ねている。

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1950 年 12 月 20 日、警察は佐藤を窃盗容疑で別件逮捕したものの、検察は証拠不十分で 不起訴処分にして釈放した。 1952 年 6 月頃からは、警察は K に高橋の秘書を名乗る「原保」を特定させるため、事件 に関係有りそうな者の写真を次々と見せた。K が「原保に似ている」と漏らしたのが佐藤の 部下であった A の写真であった。9 月 25 日に K に A を面通しさせて確証を得たため、10 月 3 日、A は W に対する土地・建物の奪取目的の誘拐・殺人・死体遺棄の疑いで逮捕され、 10 月 13 日に殺人を自供。A は自分と B(台湾人で 1952 年 6 月に病死)は従犯であり、佐 藤が主犯・指揮命令者であると供述。この供述によって、佐藤を逮捕した。1952 年 10 月 17 日、A の供述に基づいて W の遺体を捜索した結果、東京都三鷹市の神社内で W の遺体が発 見された。 佐藤は本件に関する警察の尋問に対して、自分はこの事件にはいかなる関与もしていない、 無実であると主張し続けたので、自白供述調書を作成することはできなかったが、1952 年 10 月 23 日、検察官は A の供述に基づいて佐藤と A を強盗殺人・死体遺棄の罪で起訴した。

戦後に収容された著名事件の犯人・・外交官娘焼殺事件、力道山殺害事件、赤軍事件、福島 日産サニー事件、勇気ある大学生殺し、白鳥、五寸釘寅吉に次ぐ逃走魔として有名な大沢、 弘前大学教授夫人事件。

昭和 25 年 4 月 1 日

宮城での思い出 第 28 代宮城刑務所長 H 氏

年度末の定期人事異動も済んだ 3 月末、突然、宮城 刑務所兼福島刑務所へ転任の内命を受けたが、郷里に 近くまた且つ住み慣れた仙台に、しかも平穏な施設へ の転任であるから全く不安などなく、ここに在職 3 年 希望の夢を抱いて赴任したのであった。着任早々に先 ず驚いたのは、赴任官舎が広い庭で枝垂桜の大樹に囲 まれ、あたかも武家屋敷の如き大きな構えで、屋敷の 間数も多く、奥州の大名伊達家の別邸跡とか、正面の 大扉は平素開かずの門、実に堂々たる官舎で、今も忘 れられない思い出の一つである。

黄色い所が旧刑場

学生時代の刑務所見学・・往年のことであるが、仙台での学生時代(東北大学)、刑法学者 の指導により、大正 15 年の秋、許されて当宮城刑務所を初めて団体見学し、係職員の詳細 な説明を聞きながら構内隅なく案内されて、拘禁の厳しさを感銘したのであるが、死刑執行 については、説明も場所の見学もなく、全く知ることができなかった。それから 25 年を経 て、かつて見学した当所に勤務することになり、死刑執行の業務を負うとは、私にとって正 に奇縁。今でも忘れ得ない思い出である。

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死刑執行の立ち会い・・初めて法務大臣から執行命令を受けた時、一時激しい精神的衝動を 覚えたが、かつて経験深い大先輩から聞いた心得事項を思い出した。まず犯罪記録を精読し て、正義感と職責意識を旺盛にして、冷静に過誤のない執行を果たすように立ち会いを指揮 し、最期を確認することが大切と、心に秘めて任を果たしたのであったが、わずか 1 年間に 9 回の執行があり、そのうち 1 日に 2 回執行したことが 2 度もあったのは驚く外なく。ある 日、刑法学教授を研学のために案内して、執行の場に臨席を乞い終わって引き上げたが、さ すがの教授も蒼然として一言もなく立ち去られたのであった。この業務については、家族に も一言も洩らしたことがなかったのである。

昭和 25 年 8 月 18 日

死刑囚のこころ(刑法学者 木村亀二のエッセイ)

死刑執行の日・・この日、宮城刑務所で死刑の執行があるから、立会わないかという刑務所 長の好意を受けたので、朝の 9 時すこし前に、わたくしは、刑務所長室に行った。暑い日で あつたが、まだ早いので刑務所内ではどことなく清々しい朝の涼しさがあつた。 刑務所長の話では、死刑囚はまだ 25 歳の若者で、自分の愛人と結婚するための資金を得 るために、共犯者と一緒になって自動車の運転手を絞め殺し、自動車を強奪しようとしたの だというのである。共犯者には無期懲役の言渡があつた。この若者には死刑の言渡が確定し たのだということであつた。一旦扼殺〈ヤクサツ〉しようとして仮死状態に陥った被害者が 蘇生して逃げようとするのを、背後から兇器で撲り殺した点に重い状情があつたらしい。 刑場に入る・・9 時半傾に刑場に行つたころは相当暑く、しかし、空は晴れて一点の雲もな く碧かつた。看守や検察官等 10 名ほどの立会者があつた。坊さんの読経が終り、片すみに 置いてあるテーブルに若者は坊さんと対坐した。坊さんがタバコを出してすすめたので 1 本 手にとって吸った。友達らしい人に手紙を書いた。手錠が架かったままの不自由な手で、永々 お世話になったことを感謝し、これから、わたくしは死んで行きますと書いていた。読経中、 あさ黄〈アサギ〉の衣物〈キモノ〉の裾のあたりがかすかに震えていたように思つたが、若 者は極めて平静であつた。すすめられた餡パンを一つゆつくり喰べ終り、坊さんが、それこ れと最後に言い残すことなどを聞いた上で、それでは、という若者の言葉とともに執行がな された。執行に要した時間は 11 分半であつた。健康そうで、よく肥った 1 人の若者の生命 が永遠に消えたのである。 中川教誨師の善幸・・この死刑の執行に立会って、どうにも、わたくしの心の隅に引っかか つて忘れられない一つのことがある。それは、若者が餡パンを 1 つ喰い終った際、坊さんが、 もつとどうだとすすめたのに対し、若者が、同房にいた同じ死刑囚のことであろう、「〇〇 君が最近病気で飯がたべられないでいるから、この餡パンをやっていただけないか」と頼ん だ時のことである。この死に行く者の最後の心持をどうして汲んでやれないのか、看守長ら しい人が医者の意見を聞かなければといつて、引受けてやらなかつた。それで、坊さんは静 かに私が確かに届けてやるから安心しなさいといつて、1 つのパンを懐紙に包み自分のふと ころに入れて、預かつてやつた。この坊さんは中川さんといつて、実にすぐれた修養の積ん だ人格者であるが、彼の行為で、わたくしもホッとした。ただ、それだけである。 69


ただ、それだけであるが、わたくしとしては、看守長にもつと思いやりの心持があってほ しいと非常に残念に思った。規則も規則であろうが、人間生死の瞬間において、思いやり一 つで解決し得る瑣細なことが、どうして超克できないのだろう。これは瑣細なことであるが、 今日の行刑の精神のあり方を徴表しているようであつて、どうしても直さねばならぬ重要問 題である。 死刑制度の疑問・・今一つ、生死の関頭に立って友の病気を労わり得る心境にまで改善した 犯罪人をなぜ死刑に処さねばならないかということである。こうした同情心とか愛情という ものは、執行の一歩手前に立つたから生ずるものではない。やはり、この若者も人間として 善に生きかえり得るものを持っていたのである。彼の犯罪は憎むべきである。しかし、これ を死刑に処さねばならない理由がどこにあるだろうか。この 2 つの点が、わたくしの心の中 で、いまもなお大きな問題として残っている。 行刑〈ギョウケイ〉の問題、死刑の問題について、もっともっと、お互いに考えたいもの だと思う。読者の皆さんのお考えはいかがですか。ここに出てくる「中川」という坊さんは、 宮城刑務所の教誨師の中川玄昭師のことであろう。中川師は、この前年の 10 月 5 日に同刑 務所で執行された、連続暴行殺人犯 小平義雄の死刑にも立ち会っている。 木村 亀二:1897 年 11 月 5 日 ~ 1972 年 3 月 15 日は、日本の法哲学者。刑法学者。東北大学名誉 教授。従三位勲二等旭日重光章。法学博士。兵庫県出身。

昭和 26 年 12 月 15 日

只見川水系に構外泊まり込み作業場開設

片門作業場・・西松建設との契約により東北電力片 門発電所建設工事に受刑者を出役することになり、 福島県八幡村に泊まり込み作業場を開設、片門作業 場と称する。作業内容敷地の基礎掘さく。 (常時 260 余名出役、昭和 28 年 9 月閉鎖)

柳津作業場・・昭和 27 年 2 月、前田建設との契約 により東北電力

片門作業場

柳津、宮下両発電所工事に受刑者出役させる。福島県柳 津町に泊まり込み作業場を開設。(常時 130 余名出役、 28 年 9 月閉鎖)受刑者の作業事故死 1 名、会社側は 3 名の犠牲出している。

柳津作業場

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宮下作業場・・昭和 27 年 3 月、福島県宮下村に泊まり込み作 業場開設、宮下作業場と称する。作業内容は片門と同様。(常 時 100 余名出役、昭和 28 年 4 月 26 日閉鎖)。この作業場は 危険を伴う難工事で、当所関係者には事故はなかったが、会社 側従業員 55 名殉職している。 宮下作業場

昭和 27 年 6 月 1 日 只見川水系の各地の作業場を統括するため、柳津町に只 見川作業本部を設置する 昭和 27年 松川事件の支援者たち 松川事件の被告人が仙台拘置監に収容されてから、あの土煙の上がる国道 4 号線を、トラ ックやバス輸送による福島地裁出廷の繰り返し、また、控訴審の 27 年頃は外部支援団体や 被告人達の獄内闘争が功を奏してか、拘置監第 2 舎に同一事件被告人を集禁することになっ た。被告人たちは、要件を作っては房外に出て房扉や窓から共犯者達に話しかけ、房内にお いては、便器を踏み台にして外窓から隣房に連絡するなど、現在では想像もつかない状態で あった。 押し寄せるデモ隊・・松川事件控訴審判決の少し前に、第一正門担当に配置替えにとなった。 おそらく看守部長としての正門担当は、私と後任者の 2 名だけだったと思う、当時は、松川 事件支援団体の面会も特に多くなり、その対応に大忙しの毎日であった。また、判決当日は 宮城刑務所開設以来という大デモ隊が正門に押しかけ、騒然どころか正門を破らんばかりの 勢いで、刑務所幹部との面会を求める多数の支援者たちと根気強い話し合いを続けたことが 思いだされる。当時を振り返り、現在なお心に残ることは、当時の刑務所は対外的な対策が 非常に幼稚であった。その幼稚さが相手を必要以上に刺激する結果となったことは見逃せな い。例えばデモ襲来の最中刻々と変化する様子を報告するも届かず、指示を求めても何の反 応もない。結局は正門担当が一人で防波堤になったようなもの、それでも大事に至らず処理 したことは満足している。

昭和 27 年 8 月 1 日

組織規定の一部改正

矯正保護管区本部は、矯正管区と改称、宮城刑務所の組 織は 5 部室(総務、管理、教育、医務、分類審議室)9 課制 (庶務、会計、用度、保安、作業、教育、厚生、医療、保健) に改められる。 本名作業場・・昭和 27 年 9 月、間組との契約により、福島 県本名村に泊まり込み作業場を開設する。本名作業場と称 する。(常時出役 200 名前後、昭和 29 年 6 月 12 日閉鎖) 職員の公傷 1 名、受刑者の作業事故死 2 名の犠牲を出す。 71

本名作業場


上田作業場・・昭和27年10月、前田建設との契約により、福島県沼沢村上田に泊まり込み 作業場を開設、上田作業場と称する。(常時出役人員100名前後、昭和29年2月5日作業終 了により田子倉作業場に移動する)職員1名殉職、会社側7名殉職。 上田作業場の思い出・・昭和29年4月、只見川の上田 作業場に配置換となった。収容者は最盛期には150名 近くは居たと思う。電源開発の工事飯場が多く活気を 呈していたといっても山間僻地の部落で、遊ぶところ がなく、飲み屋といえば近在の農家が急ごしらえの看 板を掛けたのが2、3軒あるだけで、それも八巻場長が 煩くて思うにまかせない状態であった。

田子倉ダム工事現場

ある職員などは寝床 に座布団などを入れ、あたかも眠っているかのごとく偽装し て宿舎を抜け出し飲みに出かけたものである。八巻場長は 時々夜間職員の宿舎を見回りに来るので油断できず、職員は

上田発電所

それぞれ工夫を凝らして夜間宿舎を抜け出したものである。 いまごろは八巻場長も泉下で苦笑していることであろう。 宮城刑務所OB 佐々木 久雄

宮川作業場・・昭和 28 年 7 月、間組との契約により、福島県尾岐村に泊まり込み作業場開 設、宮川作業場と称する。(常時出役 100 名前後、昭和 29 年 9 月 16 日閉鎖) 田子倉作業場・・昭和 29 年 9 月 16 日、前田建設との契約により、福島県只見村に泊まり 込み作業場を開設、田子倉作業場と称する。(常時 100 名前後出役、昭和 33 年 11 月 30 日 閉鎖)山峡特有の湿熱、極寒期の低温、丈余の積雪等、作業の労苦はもとより、これらの酷 しい風土との戦いでもあった。職員の殉職 2 名、受刑者作業事故死 3 名の尊い犠牲を生じ た。 田子倉作業場の思い出・・年月日は記憶にないが、私も只見川水系の田子倉作業場勤務の辞 令を受けて仙台を出発。隣県の福島なので近いと簡単に考えていたが、何と当時の交通の便 はお粗末そのもので会津若松まで相当の時間を要した。 それからが大変。白い綿帽子をかぶった山間を縫うようにして走る列車、車窓から見る山 は熊が棲みそうな山並みが続く。行けども行けども目指す現場は遠い。夕方になってやっと の思いで到着する。その日は派遣勤務の報告をして勤務なし。翌日から本格的な勤務に入っ た。 当時、田子倉作業場では夜間収容者が便所の格子をこじ開けて外に出て、食料品など調達 して再び宿舎に戻り素知らぬ顔をしていた。大雪の降る夜、収容者2名が便所の窓から外に 出て食料を調達して宿舎に戻ろうとした時、村の集会を終えて帰宅途中の刺子姿の消防団員 と出会い、逃走が発覚して指名手配になったものと勘違いしてそのまま宿舎に帰らず逃走し た。 翌朝点検で2名が逃走したとのことで直ちに張り込みを開始した。前夜の雪は相当なもの で部落の人がカンジキで踏み固めた部分のみ歩行可能で、ほかの場所は片足を残してスッポ 72


リ横転となり、他人の手を借りないと起き上がれないのである。 やっと這い上がり歩き出したと思うと、またドブリ転倒する始末。私は田子倉から田島方 面に向かうことになり、転倒を繰り返しながら翌朝ヘトヘトで田島に到着した。そうしてい るうちある農家で干し柿が盗まれたとの情報が入り、その農家を集中的に捜査したところ、 3階部分の乾燥場のところに潜んでいる脱走囚 2名を逮捕した。この時の辛さは今でも口に は表せない貴重な思い出として心に刻まれている。 宮城刑務所OB 八島 保雄 田子倉作業場の思い出・・昭和23年宮城刑務所刑務官拝命、当時の世相甚だ荒れた戦後の混 乱期である。宮刑の収容人員も1,000名を超え舎房も明治12年建設の六角塔で、工場といえ ば木造瓦で窓は障子、作業も藁細工や機織りでそれも材料不足に悩まされる毎日であった。 それでも増え続ける収容者に宮刑では過剰拘禁対策として構外作業場を矢本、八木山の亜 炭坑採掘、細倉鉱山、遠野原、作並、雄勝の開墾道路工事及び硯採掘等の数十人単位の作業 場を開設していた。だがそれも長続きせず、昭和24年に岩手県紫波郡に農業用ダム山王海に 数100名の収容者を出役させるようになり、ようやく固定した作業場が確保できるようにな った。 昭和26年山王海ダム完成により収容者の引き上げ、同年只見川電源開発によるダム工事の 開始。この歴史的な大事業にも宮城刑務所で参加することになった。出発にあたり職員も収 容者も戦後日本の復興のためと意気揚々で、福島県会津坂下町片門ダム工事建設の現場に向 かったのである。 ダム工事現場に着任したときはすでに飯場が立ち並び、引揚者や地方からの出稼者が働い ており、機材や器具も運ばれ重機の音が山に響き活動していた。刑務所側は職員1名に対し て収容者15名で班を作り、まとまって作業をするために会社との連絡が大変で、どの班がど この作業をするのか場所を指定する部長さんも大変苦労したと思う。 現場勤務の職員は宿舎に帰ってからも雑用が多く、夜間の勤務もあるので休まる暇もなか った。電源開発の仕事はそれぞれの会社の下請け、あるいは孫請けで、機材も元請け会社の をそっくり使えるので儲かるらしく、次々と新しい機材が導入されそれだけ作業に対する危 険度が増していった。 私は昭和33年春から工事終了後の引き上げまで作業隊に加わることになった。田子倉は只 見川水系最大のダムである。赴任した当時、只見の部落は町になっており、パチンコ屋あり 映画館あり商店街あり(ダムの町だよ男の町だ・・・・)との流行歌が流れ賑やかであった。 作業隊の食料も十分で、衣類地下足袋など不自由しなかった。特に喜ばれたのは工事進行記 録達成時の特別加配食や休日の映画鑑賞である。職員も 宿舎から徒歩で15分ほどにある映画館で映画を見るのを 唯一の楽しみにして毎日勤務に励んだのである。 只見川での収容者の一日は、午前8時宿舎前の広場に全 員整列して、場長から朝の訓示を受けてから各班毎に現 場に向けて出発しダム工事の作業に従事する。当時は現 場では打設したセメントの垢を、水洗いする作業で50坪 位の型枠を一ブロックとしてセメントを打ち水洗いして 場長からの朝の訓示 73


乾かし積み重ねていくのであるが、私が行った頃には既に百㍍位の高さになっており、先頭 の収容者が鉄パイプの梯子に上っているので視察が出来ず、どのように作業しているか全く 分からない。 それに山の天気は変わりやすく何時雨になるか分からないので、合羽は離されない必需品 である。午前の作業終了後は宿舎に帰り昼食後、再び作業現場に向かうのであるが、先頭が 吊橋を渡り切っていることも再三である。作業隊が宿舎と現場を往復するときは隊列を組み、 時には番号を唱えながら行進する様は見事なものである。 工事現場は一般人も働いており、また収容者の中には動作の鈍い者もいるので安心しては いられない。現場では採石や砂はベルトコンベアで運ばれ、セメントはタンクから圧縮空気 で気道車のミキサーに送り込まれる。作業現場の頭の上に張られたワイヤーを伝って大きな バスケット(ナマコンを入れる容器)が吊下がっているが、何時頭上に落ちてくるか分から ないしその外の器材も吊あげられているので油断できない。 翌日はダムの底に溜った泥をモッコで上まで担ぎ出す作業である。ダムの底はトンネルに なっているらしく対岸まで続いているので先が暗くて分からない。班長だけを残して入り口 にいると、他の収容者は下に降りて行き暫くして次々と泥を担ぎながら這いあがって来た。 もし逃げられたら等と心配していた自分が恥ずかしい。収容者の仕事ぶりを見て嬉しくて 涙が出た。 この人たちは本当に罪を犯して懲役刑の判決を受け たのだろうか、と疑ってみたこともある。構外作業場は 職員と収容者は常に寝食を共にしていたので、収容者の 家庭のことなど手に取るように判り親身になって相談 に乗ってやることもあった。収容者も職員が家族と離れ 離れになって不自由な生活をしているのだなと理解し ていた。お互いにこのダムによる電力で日本は平和な豊 かな国になるその為の大事業なのだと心に言い聞かせ 朝の出役風景 困難を乗り切っていたのである。 ある日、出所者から礼状が届いた。文面に「俺があのダムを造ったのだと子供達に自慢 している」と書かれてあった。収容者にも手紙の話をしてやると全員大喜びだった。会津の 冬は早い。10月末になるともう雪が降りだす。それも半端ではない。一旦降りだすともう止 まらない。日に日に現場は危険になり11月に入り作業場は閉鎖して、引き上げ作業隊の歴史 は終わったのである。 宮城刑務所OB

中名生 実

只見川構外作業の終焉・・矯正局及び仙台矯正管区の強力なる支持指導の下に開設推進され た只見川水系各地の構外作業場の運営は、昭和 27 年 12 月出業以降 7 年の歳月を経たが只 見川水系における電源開発計画は完成までには、なお数年の歳月を要する段階。労務の需要 は依然として望まれていたが、機械化された近代土木工法の前には、手と足、それに、工具 にたよる労働力は勢い低位にたたざるを得ざること、また僻地における多数労働人口の越冬 難、作業事故の頻発等抑止的事情と、過剰拘禁状態からの解放、及び所内作業の漸次好転等 74


相俟って、長期間に亘るこの構外作業を廃止するに至った。昭和 33 年 11 月 30 日閉鎖に至 るまでの出業述人員は 67 万余名、作業収入は 1 億 3,900 万余りであった。

昭和 27 年4月 1 日

追憶

第 29 代宮城刑務所長 M 氏

終戦後、巣鴨を米軍に接収され、小菅の東京拘置所で業務を開始したが同所には死刑執行 場が設置されていないので、関東一円の死刑確定者は宮城刑務所に護送された。宮城刑務所 の拘置区には昭和 27 年初頭には 46 名の死刑囚を抱えてしまった。同時期に有名な松川事 件被告団と多数の死刑確定者の処遇に振り回された。この死刑確定者の心情安定に挺身され たのが中川坊さんだった。 肩書きは副看守長だが、瑞巌寺で修行を積み、当時も同 寺の指導を受けていた中川師は、役所に登庁し教育部に一 寸顔を出した後は、死刑囚の独房に行き一人一人に声をか けて、進んで独房に入り込んで死刑囚と死生問答を淡々と 説き語られ、誠に有り難く得がたい師として職員間の信望 も尊敬厚かった。27 年春講和恩赦で 3 名が死刑から無期 懲役に減刑され、言い渡しを受けた 3 名が膝をついて泣き ながら中川師に縋り付いた姿が劇的だった。 昭和 27 年の講和恩赦・・同年、日本が主権を回復したサ ンフランシスコ講和条約発効を受けて実施された恩赦で は、有罪を無効にする「大赦」が 120 の罪を対象に行わ れ、釈放は 5,000 人を超えた。死刑を無期や懲役に減刑し たケースもあった。

札幌市・瑞龍寺の中川師(右側)

中川玄昭氏と一華庵・・若林区の区役所向かいにある保春院の境内に宮城刑務所の収容者の 合葬碑(墓地)があることは、刑務所関係者以外余り知られていない、更にお寺の傍に茅葺 き屋根の古風な茶室があることも殆ど知られていない。この茶室は元々刑務所の傍に住んで いた元職員の中川善詔氏の邸宅内に建てられていたものである。 中川師は臨済宗の僧侶で、昭和 22 年 4 月から宮城刑務所の刑務教誨師として勤務して、 主に受刑者の教誨を担当していた。戦後、刑務教誨師の廃止により司法教官として教育課で、 死刑囚の世話をしながら心情安定を図る業務を担当していた。戦後、東京管区より死刑確定 者が宮城に送られ執行を宮城で行うことになった。 中川師の苦悩・・昭和 30 年代になると東京から送られた死刑囚の執行が毎月のように行わ れるようになり、その度に中川師は執行に立ち会い死刑囚に教誨を施してあの世に送った。 次々と執行されていく死刑囚。いくら臨済宗の僧侶として修行を積んだ中川師でも、その心 の重圧は想像を絶するものだろう。中川師はこの重圧を乗り越えるために自宅の邸内に「一 華庵」と名前を付けた小さな茶室を建て、執行された死刑囚の位牌を安置して毎朝読経を欠 かさず死刑囚の冥福を祈っていた。

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特に執行前日は、一晩中「一華庵」に篭もり眠らずに座 禅を組んで夜を過ごしたと伝えられている。また執行に関 わった職員も、中川師の自宅を訪れて「一華庵」で執行し た死刑囚の冥福を祈ったという。昭和 50 年頃、中川師は 定年で宮城刑務所を退職して、北海道の札幌のお寺の住職 に決まり離仙するに当たり、中川師の後輩にあたる保春院 の住職で宮城刑務所の教誨師三浦氏に一華庵の移築と死 刑囚の供養をお願いして北海道に渡って行った。

一華庵の内部

一華庵の移築・・三浦誠之氏は中川師の依頼を快く引き受け、中川師が北海道に渡ったあと、 邸内から「一華庵」を保春院の境内に移築した。しかし、移築後の建物は老朽化のために破 損がひどく雨漏りのするようになっていた。三浦氏は折角中川師が残してくれたこの建物を このまま朽ちさせるのは余りにも勿体ないので、知人の大工さんにお願いして、京都風の茶 室に改造すべく、京都まで大工さんを派遣して茶室造りを勉強させて、茶室特有の資材を京 都から取り寄せ大改修を行ない立派な茶室に完成させた。 茶室の広さは 4 畳半ほどであるが、天井、壁、屋根など 京都の有名な寺の茶室に引けを取らないほど立派な作り である。この茶室の中央に小さな障子で仕切られた場所 がありそこを開けると、そこには宮城刑務所で執行され た死刑囚の位牌が安置されていた。嘗て中川師が守って いたものを、三浦住職に引き継がれ供養されているので ある。 死刑囚の位牌

退職後の中川玄昭・・昭和 55 年に 5 年間不在であった札 幌市の瑞龍寺に、宮城から中川老師が専任住職として入寺されました。中川師は昭和 9 年こ の寺で得渡され、承天老師のもとで昭和 17 年まで瑞龍寺と松島瑞巌寺で修行の後、宮城刑 務所の専任教誨師として勤務されていました。宮刑では自宅に一華庵(現在市内若林区保春 院境内に移転してある)を建立して月例の仙台禅道会を設立し参禅を重ねた。宮刑を退職後、 連日瑞巌寺に通参し、昭和 49 年隆芳老師より印可受けた方です。 余録・・教育部在職中に春、秋の彼岸、お盆の 3 回 1 級者 数名を連れて収容者のお墓の掃除と墓参りを兼ねて行った ことがある。その度に「一華庵」の位牌に線香を上げて死刑 囚の冥福を祈ってきた。茶師の内部は京都風の立派な作り で壁天井などかなりのお金をかけたようだ。墓参りが終わ るとお寺の本尊の前で教育部長、警備隊員、教育部職員、一 級者等で、お菓子と果物を食べながら三浦住職のお話を拝 聴して帰庁した思い出がある。 平成 5 年に受刑者の教誨に来た三浦誠之先生が、北海道 の中川玄昭先生が亡くなったことを話しておられたが、当

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保春院境内にある一華庵の玄関 玄関の踏み石はかつて宮城刑務所で死 刑が執行される日に、中川師がこの踏 み石を踏んで刑場に赴いた。


時は教育部の職員で中川先生の事を知っている人は誰もらず、古参の教誨師の先生方が思い 出話をしていうのを聞いただけだった。

昭和 27 年 5 月 1 日

死刑台から生還した男の話

恩赦による減刑・・昭和 27 年(1952)4月、サンフランシスコ講和条約発行に伴う恩赦が 行われ、死刑確定囚 3 名が無期刑に減刑となった。春の暖かくなってきたある日、死刑囚監 房に宮城刑務所の警備隊長と警備隊員 2 名が、舎房北の出入り口から入って舎房担当を先頭 に、舎房通路を南に向かって靴の音を忍ばせながら歩いて来た。死刑囚達は扉の開閉の音で 「処刑の呼び出しでは」と思い、何処の房の前で職員が歩みを止めるのか全神経を集中して 見守っていた。 警備隊の呼び出し・・警備隊長は舎房中央の右側の房の前で足を止め、舎房担当に房を開け させ、房内の A 死刑囚に「所長から呼び出しがあったので、所長室に連行するので、支度を するように」と告知した。A 死刑囚は驚きながらすぐに立ち上がり震えながら房内を片付け 始めた。 房の外に出た A 死刑囚は、手錠と腰縄をかけられ足腰がふらついていたので、警備隊の 職員に左右から抱えられるようにして、舎房担当に一礼して重い足を引きずりながら舎房を 出て、刑場へ行く右側の通路に曲がらず職員事務室のある左側の通路の方に連れて行かれた。 そして、拘置所の北の正門から一旦塀の外に出て、拘置所の隣の宮城刑務所の正門脇の小門 から中に連行され所長室の前に着いた。警備隊の隊員が手錠と腰縄を解きドアの前で待機し ていると、警備隊長がドアをノックして「A を連行してまいりました」と報告した。中から 保安課長の声で、「入室させなさい」との返事があり中に入ると、所長以下刑務所の幹部が 礼服姿で左右八の字型に整列していた。 恩赦の言渡・・死刑執行のいい渡しはこのような厳粛に申し渡されるのかと思いつつも、噂 で聞いていた話とは余りにも違うので戸惑っていたら、保安課長から「称呼番号と氏名」と 号令がかかったので、所長の前で直立して一礼、氏名を述べると、所長は温和な顔で「かね てから君のために恩赦を請求していたが、今日、回答がありましたので告知します。君は無 期刑に減刑されました」と言った。 A は他人事のような感じで所長の告知を聞いていたが、一瞬我に返り(無期に減刑とはこ れからも生きられるのか)と思った時、その場に倒れそうになるのを必死で堪えて「ありが とうございます。無期囚として生きられるのですね」と念を押しながらお礼を述べて所長室 を後にした。教育課の中川先生は毎日死刑囚の心情安定のために努力していたが、3 人の死 刑囚が、無期に減刑されたと聞いて、自分のように喜んでいた。 無期囚に減刑された A は拘置所の死刑囚監房には戻らず、本所の独房に移された。1ヶ 月程独居で懲役としての入所時教育を受けて工場出役となった。最初のうちは職員やほかの 受刑者も A 受刑者を特異な目で見ていたが、A 受刑者はどんな仕事でも進んでやりよく気 がついて仕事をこなしたので、所内でも評判の無期囚となった。

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処遇困難者に戻る・・しかし、1 年が過ぎると最初の意気込みがなくなり、同囚とのトラブ ルも多くなり、職員の指示にも反抗するようになり、処遇困難受刑者になってしまった。正 に「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」を地で行った受刑者だった。A の他に宮城刑務所では 2 名の死刑囚も無期に減刑された。果たしてこの 3 人の元死刑囚が無期囚となって生きてシャ バに帰れたかは定かでない。 処刑寸前に唄いだした死刑囚・・死刑囚 A は仏教の教誨を受けていた。執行の日、中川師は 法衣を着用して処刑場内の仏間で待機していた。A は警備隊の職員によって拘置所から処刑 場内の仏間に連行されてきた。仏間で待機している中川師の姿を見ると「最後までご面倒か けます・・」と涙声で言い、中川師の法衣に頭を押し当て、肩を震わせ深く頭をさげた。 中川師は「今日はあなたの最期の時ではありません、新しい世界に旅立つスタートの時で はありませんか」と話しかけた。まわりにいた所長以下関係職員も一緒に、灯明の灯る仏壇 の方にむかった。A は中川師に従い線香を灯して合掌して読経を始めた。終わった後、中川 師は A に仏壇に供えた菓子や果物を差し出したが、食べようとはしなかった。 「最期に何か書き残しておきたいことがありましたら、筆記具を揃えてありますから」と 中川師が言ったが、A は「特に何もありません」と頭を下げながら答えた。傍に立っていた 保安課長は「時間ですから」と言って立ち会い職員に命じて手錠を掛けさせ、白い布で目隠 しをさせた。保安課長は、近くの半開きの扉を開けて A を執行室に誘導しようとした。 別れの一本杉・・その時、A は突然大声をあげて「春日八郎の別れの一本杉を唄わせてくだ さい」と願い出てきた。立会の所長が許可すると A は大声で「泣けた泣けた~石の地蔵さん はよ~」と唄いながら刑場の執行室に入って行った。処刑台の踏台に立たされ、吊るされて いる縄の輪の部分を首にかけられたとき、A は突然大声で「お母さんー」と絶叫した。 何故、処刑直前に春日八郎の「別れの一本杉」を唄いだしたり、「お母さん」と絶叫した りしたのか。その心境は A 以外に分からないが、首に綱をかけられた瞬間、目前に迫った死 の恐怖に、思わず夢中で母に助けを求めた。それが「お母さん」という絶叫になったのでは ないだろうか。 中川玄昭師が宮城刑務所刑務官として昭和 22 年 4 月に拝命して以来、同 50 年 4 月に退 職するまでの 28 年間に宮城刑務所で死刑執行された人数は 175 名で、内東京から移送され てきたのは 143 名である。昭和 35 年には年間 26 名が執行された。驚くべき人数である。 この死刑執行に立ち会った中川師の精神的ストレスは想像を絶するものがあったのでは ないだろうか、僧侶の修行を積んだ中川師だからこそこの職務を全うしたのであって、我々 凡人ならストレスのためにノイローゼか途中で職を辞していただろう。 中川師を悩ませたのは死刑囚だけでは無く、刑務所長の死刑囚に対する処遇方針の変更で ある。数年毎に所長が代わるので、その都度死刑囚の処遇の見直しが行われ、中川師の処遇 に異を唱える所長も少なからず居り、処遇をめぐって死刑囚と所長の板挟みになることも多 かったと伝え聞く。

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正木亮先生と木村亀二先生・・日本刑法学会第一人者の牧野英一先 生の門下生として、お二人は早くから親交を結ばれ、木村先生は純 学究として大学に終始され、正木先生は志願囚を振り出しに矯正局 長、検事長、最後は矯正協会会長と、実務の道を歩まれた。正木先 生が弁護の職務で来仙された時は、東北大の教授の木村先生と二人 で会談され、その席に私も必ずご一緒させて頂いた。 木村教授の一日所長・・昭和 27 年の社明月間に 1 日所長をお願いし たことがある。当日は木村教授が刑務所長の制服制帽で所長官舎か 正木亮先生 ら登庁し、各部課長の報告を受け、仮出獄者に証書を渡し、心得事項 を告げられた後、刑務所の構内を巡視。報道陣にも上機嫌で応対され、ラジオ、新聞等で 大きく取り上げられたことは、私どもには嬉しい社明月間の成果であった。 正木先生の死刑囚に対する講和・・先生は弁護の仕事で来仙された時は、決まって刑務所 に立ち寄られた。某日、死刑囚の集会で講話をお願いしたら、快く引き受けてくれて、死 刑囚に次のような話をされた「石田三成が関ヶ原の戦いが終わり、徳川方に捕らえられ刑 場に護送途中のこと、徳川兵の勧める甘柿を断ったのを徳川兵が嘲弄した時、静かに本当 の武士は最後まで真剣に自分を守らなければならない。柿を食べて醜い下痢姿を人に晒す 愚かさは避けたい」と答えたそうだ。 石田三成の最期・・さらに正木先生は死刑囚に対して「私は死刑廃止論者として活動して いるが、現在とても諸君の命を救うまでには参らない。皆さん、自分の命は最後まで自分 で守って一日一日を大切に生きて下さい」とお話になられた。死刑囚達も先生の言葉に熱 心に耳を傾け、涙ぐみながら聞き入っていた。 死刑囚のテニスコート・・当時の死刑囚の運動は、職員の使い捨てたテニスのネットを補 修して、教誨師寄贈のボールでテニスを全員で楽しんでいた。この話を聞いた正木先生は 教育部にお金を寄贈され、テニスコートの整備と器具の購入をするようにと暖かい心遣い をなされた。刑務所では先生の御意向を汲んで運動場の一隅に、今までとは段違いのテニ スコートを作った。このコートで、しばし不安と欝から解放された死刑囚がテニスに打ち 込む風景は「正木コートと死刑囚」と話題になった。その話を聞きつけ取材にみえられて 朝日、毎日新聞に紹介され、更には週刊朝日、サンデー毎日にも転載され、社会でも大き な話題となった。 宮城刑務所の柔道強化・・昭和 27 年初頭、東京拘置所では、全国から有名無名の柔道選手 が集められ、毎年の 6 月の全国施設対抗試合で優勝していた。宮城でも仙台柔道界の大御 所高橋喜三郎先生にお願いして、多田孝三、宮本理吉、菊田初雄、庄子岑生等の精鋭を採 用し、高橋彦人、遠藤重右衛門、菅野強と共に猛訓練勇躍上京。遂に決勝戦の相手東京拘 置所と大将戦にまで持込、判定で宮城は負けとなったが、観衆大半が川上打倒、宮城応援 でこの判定に大半ふまんであった。

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柔道県警に圧勝・・昭和 27 年秋矯正東西対抗試合後、宮城県警と新装なった「研修館」開 きで対抗戦を行ない、日本選手権保持者の夏井 5 段有する県警勢に、我が宮城刑務所が圧 勝できたのも懐かしい思い出である。

昭和 27 年 11 月 2 日

死刑囚脱獄、馬喰殺しの芳賀

(馬喰=牛や馬の仲買商人)

宮城刑務所の拘置監で死刑確定囚が鉄格子をヤスリで切断して、脱 走するという前例のない事件が発生した。同日午前 5 時頃、拘置監で 死刑囚を収容している監房を看守が視察したところ、床から約 1 ㍍ 20 ㌢の高さにある鉄格子が一本切断されているのを発見した。房内を捜 索したところ、馬喰殺しの死刑確定囚 芳賀昭(22)が脱走しているこ とが判明した。拘置所では直ちに所内に捜索本部を設け 150 名の看守 で捜索隊を編成し、仙台警察署の応援を求めて、市内、東北線、常磐 線、仙石線などに網を張って搜索に当たっているが、足取りは全く不 明。芳賀は身長 153 ㌢、丸刈、角顔、霜降りズボンに国防色の上着の一

死刑囚芳賀

見チンピラ風の男で、捜索隊はこの人相着衣を手がかりに市内の職務質 問を強化、また錦織村の実家、岩手県前沢町の知人宅など立ち回り先を手配した。 4 ㍍の外塀を乗り越す、背後に共犯者、差し入れに疑惑・・古川拘置支所から宮城に送られ てから、芳賀は悔悟の態度が顕著で看守からも信用されていた。脱獄の前夜も行動に変わり はなかった。1 日の夜 9 時頃に就寝して、看守の隙をついてヤスリで鉄格子を切断して房外 に出て、南側の木材工場から毛布を盗み出し、これをロープに編み梯子を作り、外塀を乗り 越えて脱獄した。 もぬけの空の布団を、いかにも人が寝ているように盛り上げていた事、所内では入手でき ないヤスリを使用したことから計画的脱獄で、背後に共犯者がいると見られるので、ヤスリ の入手先を中心に捜査を進めている。捜査線上には 10 月 14 日まで芳賀の隣房に収容され ていた前科 4 犯の某が差し入れたという新事実が出ている。 某は贓物故買により、仙台警察署に検挙され、拘置監に収容中であったが、10 月 14 日結 核のため保釈になり、市内の病院に入院中であった。去る 25 日「君のことを心配している、 元気出せ」という葉書を寄越して、29 日同所指定の差し入れ屋から偽名を使い、食料品と 箸箱の差し入れを依頼、30 日朝芳賀に差し入れした。拘置監看守は「よく調べたので、やす りなどは入っていなかった」と語っているが、捜査本部ではヤスリは箸箱の中に忍ばせたの ではないかと疑っている。警察で入院中の某を調べているが「差し入れはしたが、それは芳 賀が若い身空で刑場の露と消えて逝くのに同情したからで、ヤスリを差し入れるなどとんで もない」と某は強く否定している。 刑務所創設以来の黒星・・宮内精介所長は「誠に申し訳ない、明治 12 年以来の大黒星だ。 死刑囚の脱獄は、我が国で明治以降初めてのことで、相手が死刑確定囚なのでどんなことを 仕出かすか分からない、全力を挙げて一刻も早く捕まえたい。」

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馬喰殺し事件・・脱獄した死刑囚芳賀は馬を買う金欲しさから、計画的に昨年 3 月 29 日、 岩手県の畜産組合長鈴木某さんをニセ電話で呼び出し、宮城県登米郡錦織村の山道で頭を殴 りつけ惨殺し、13 万円を強奪。6 月 6 日古川地裁で無期懲役の判決があり、検事控訴により 本年 8 月 5 日仙台高裁で死刑の判決を言い渡され、宮城刑務所拘置監に収容中の者であっ た。 仙台市内に潜伏か・・仙台市警では同日午前 10 時に 745 名の警官を非常召集。市内に厳重 な捜査網を張っているが、交通機関からの聞き込みや、芳賀が 1 銭も所持していないことか ら、市内潜伏の公算が大きく窃盗を働く可能性があるので、1 日夜以後市内に発生した盗難 事件を徹底的に洗っている。佐野南署長らが現場検証した結果、鉄格子切断に当たり音が出 るので、房内の手洗水をヤスリに付けながら切断した形跡がある。この方法だと 3 時間ぐら い鉄格子を切断できることが判った。 怒る門前のお客さん、とばっちり食った即売会・・またも脱獄。それが死刑囚とあって面目 丸つぶれの宮刑。せっかく準備したこの日の作業製品即売会(現在の矯正展)もそれどころ ではなく、サイレンを鳴らし早朝から所内は大騒ぎ。それを知らぬ市民は「サイレンが鳴っ た即売会が始まるぞ」と、午前 8 時頃から数十人が正門前に並んだ。 即売会中止・・宮刑ではお客の方を捨てて置くわけにもゆかず、早速「本日は事故のため即 売会は中止」の張り紙を出した。買い物に来たお客は鉄扉の中を右往左往する武装看守を見 て「今日はピストルの即売会」か。そのうち死刑囚の脱獄の報が伝わると、お客から「また 逃がしたのか」「即売会のアーチを造る暇があるなら監視でもやっていろ」と喧々囂々、そ れでも「昼ごろまでには捕まるだろう」と呑気に構え立ち去りかねている即売会ファンも多 数いた。 塩釜で山狩り・・脱獄した芳賀の捜索は刑務所、県警が合同捜査隊を編成。全県下に大規模 な捜索を展開した結果、夕刻 塩竈市内に姿を現した。観月山に潜伏した形跡が濃くなった ので、捜索隊 300 名が山狩りを行ない包囲網を狭めている。脱獄以来刑務所では塩釜市の遠 藤某宅を有力な立ち回り先として、看守が張り込み中、午後 6 時頃に遠藤さんの隣に住む三 条さんが表に出たところ、電柱の影からマスクをかけた男が現れ「遠藤さんの家はどこです かね」と尋ねてきた。 三条さんが男の顔を見て、夕刊に掲載されていた写真とそっくりなので、母を呼び、遠藤 さんの家に案内しようとしたところ、張り込んでいた看守の姿を見て、観月山の方に逃走し た。この報告により捜査本部は、急遽 塩竈の観月山一帯を捜索するも、同夜に至っても発 見されず、さらに別働隊を出して塩竈近郊の要所を固めている。 遠藤さんの話・・「昨日まで選挙違反で拘置監にいました。運動、入浴で顔を合わせる程度 であったが、芳賀は隣の房で窓越しに「あなたの家はどこですか」と話しかけてきました。 しかし、私が脱獄を手引きしたとか、そそのかしたことは絶対にありません」私の家で張り 込みをしていた看守が、芳賀が家に近づいて来たとき、素足で飛び出して行けば捕まえるこ とができたのに、靴を履いたり地下足袋を履いたりしているうちに逃げられてしまった。

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観月山の捕物陣・・脱獄囚が出没した夜の塩竈市 内は、警察の徹夜の搜索が繰り広げられた。仙塩 道路は早くから歩行者が途絶え、時折疾走する自 動車のサーチライトが飛び去り、鬼気迫る緊張感 に包まれていた。山狩りの観月山は全く静まり返 り、17 日の名月が冷たい。私服警官や看守がキ ノコ採りや百姓を装い、息を潜めて行き交う包囲 網は狭められて行く。静まり返る夜の観月山には 逃げるものと追うものとの緊迫した呼吸が聞き とれるようだった。 裸足で荒らし回る・・鉄壁の包囲網をくぐって 30 時間。芳賀は 2 日の観月山の山狩りを尻目に多 賀城方面に出没、多数の目撃者をまいて姿をくら まし続けている。捜査本部では 3 日に、新たに捜

芳賀の逃走経路

査方針を立て直すとともに、多賀城を起点として 夕刻までの逮捕を目標に追い込みをかけている。捜査陣が観月山の山狩りをしている頃に、 既に芳賀は多賀城方面に逃走して窃盗を繰り返していた。 民主刑務所にこの抜け穴、差し入れ品は勝手放題、手薄の看守も過労に悲鳴・・相手は死刑 が確定した殺人犯だけに、野に放たれたら何をするか分からないとあって、死刑囚脱獄事件 が宮城県民に与えた恐怖は大きい。去る 30 日には懲役 12 年の窃盗犯が逃走して大騒ぎし たばかりなのに、今度もあの頑丈な鉄格子と 4 ㍍の外塀で社会から隔絶されたはずの別天地 から、易々と物騒な脱獄が続くのだろうかと県民に不審を抱かせたことは否定できない。関 係書の話によれば事情はこうだというのだが・・・・ ◎ 明治 12 年、若林城跡に宮城刑務所が開設してから 73 年。拘置所が駐留軍に接収されて からは、古屋以北に死刑台を持つ唯一の施設として全国有数の刑務所に数えられている。 拘置監は刑務所の附属機関として広い敷地の一隅を占め、もっぱら未決と死刑囚を収容 している。 ◎ 現在、刑務所全体で 2,500 余名の受刑者等を収容。それを約 400 名の看守、鉄格子、外 塀で守っている。拘置監には福島の松川事件の被告等 200 余名の被告と 35 名の死刑囚 が収容されている。他に 500 余名の収容者に 100 名の看守を付けて只見川の構外作業に 派遣。残った 300 名の看守で刑務所を守っているという現状で、警備が手薄だったこと は否定できないと看守たちは語っている。 ◎ 拘置監には舎房が 3 棟あり、夜間の看守は 2 名で 12 時間交替勤務を行っている。夜間 は覗き窓を通して各舎房を視察して巡回することになっており、脱獄のあった日も看守 2 名がいつものように勤務していた。午後 9 時頃、芳賀が布団に入っていることだけは 確かめたが、それ以後はいかにも寝ている様に装ったために、鉄格子を切断され脱獄し ていることに気がつかず、朝の 5 時頃にようやく気付いて大騒ぎをするという失態を犯 してしまった。看守不足により過労に陥り注意力が鈍っていたことは否定できない。 82


今度の脱獄は民主化された刑務所の盲点をすっかり利用されたという形だった。人権尊重 の建前から、死刑囚は着る物も差し入れも自由で、被告並みに扱われことになっているので、 芳賀の足取りがわからなかったのは囚人服を着ていなかったことにも原因がある。鉄格子切 断に使ったヤスリもこの差し入れを巧みに利用していた。さらに戦後刑務所ではスピーカー を通じて午後 9 時頃までラジオを聞かせている。このラジオの音に紛れて切断作業を行った ことが判明した。 利府方面に逃走か、今朝が捜査の山・・捜査本部の捜索は 3 日正午、観月山を中心に、多賀 城、大代方面に潜伏しているものと見て、観月山から西方一里の多賀城浮島にわたる包囲網 をしき 500 余名の隊員が必死の捜索を行ったが、午後 5 時、遂に新しい手がかりもなく引 揚、捜索隊を失望させた。夜になって新しい局面をむかえ捜査陣は最高潮に緊張した。 芳賀現わる・・午後 6 時 20 分多賀城の捜索隊から「脱獄囚芳賀市川に現わる」の報。待機 していた捜索隊およそ 400 余名が、東は塩竈から西は岩切、利府と包囲網を整え、高橋某さ んに発見されて逃げ込んだ市川の小山を中心に、3 ㌔に渡って 4 時間の搜索がおこなわれた が、加瀬沼付近でまた芳賀の足跡を見失った。 捜査本部では芳賀は加瀬沼から利府方面に逃げたか、或いは岩穴や木上に潜伏していると も見られる。東北本線を横切って利府山中に逃げ込めば黒川郡まで山続きとなるので捜索は 難しくなる。本部では今朝が捜査の山場とみており、引き続き追跡捜査を続行している。 芳賀逃げる・・同月 3 日午後 6 時 20 分頃、高橋某さんが 多賀城市川橋付近でマスクをかけた小柄な坊主頭の男に 「利府まで何里あるのか、塩釜にはどう行けばいいのか」 と聞かれたので「お前は塩釜から来たのではないか」と詰 め寄ったところ、男は黙って去っていった。高橋某さんが 近所の人に不審な男の話をすると、「それが芳賀だ」と消 防団、看守が呼子を吹いて追跡したが、泥だらけの草履、 汚れたタオルが捨てられていただけだった。

加瀬沼

芳賀逮捕・・捜索隊は徹夜の搜索に当たったが、同夜は逮捕に至らず。4日、最終捜査とし て全員を動員。潜伏しているとみられる多賀城、加瀬沼一帯をじりじり押し進め、斎藤山付 近で塩釜署の斎藤巡査部長が芳賀を発見。誰何したところ逃げ出したので、付近にいた山崎、 武田巡査と協力して午前 7 時 46 分逮捕。脱走以来 3 日目にして捜査陣に凱歌が上がり、直 ちに芳賀を本部に連行した。 芳賀を逮捕した斎藤、山崎巡査の話・・私たちは斎藤山付近を捜索中、午前 7 時 40 分頃前 方 5 ㍍程の処に横になって寝ている小男を発見。最初は消防団かと思いよく見ると芳賀に似 ているので、捕らえようとしたところ突然走り出した。追跡して前方 20 ㍍程のところに山 崎、武田巡査がいたので 3 人で協力して芳賀を逮捕した。

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死ぬのが怖かった・・芳賀は逮捕後、塩釜署に連行され、 2 階の防犯室の椅子に腰を下ろし逃走 50 時間の疲れで げっそりうなだれ、署員が差し出したパンとリンゴをか じっていた。紺の作業服に草履で興奮冷めやらぬ芳賀は 肩で呼吸をしながら、ガタガタと震えていた。観た感じ は殺人犯とは思えぬ純情そうな表情。「あの子が人を殺 したなんて」と同署前に群がった野次馬たちが囁いてい た。 りんごを与えられて泣き咽ぶ芳賀と同人の自筆 脱獄の動機・・塩釜署での取り調べ前に、記者の質問に芳賀は次のように答えていた。脱獄 は全然考えて居なかった。10 月 30 日午後、以前隣房にいて先ごろ出所した宮川某さんから 「父親に会いたいならこれで脱獄しろ」とヤスリを差し入れして貰いました。それを見て脱 獄したい一心で、看守の隙を見て鉄格子を切断して房外に出て、午後 11 頃に外塀を乗り越 え、広瀬川沿いに下流に逃げました。 空腹と寒さ・・一番苦しかったのは寒さと食物がないことです。蒲生では海水を飲みました。 脱獄当所はどこを逃げているのか分かりませんでした。北東に向かい足袋しか履いていない ので、塩釜に住む遠藤さん(拘置監で隣房にいた人)の家を訪ねて、草履を貰おうと思った のです。それから知らない山(観月山)に逃げ込み、飯も食わず夜も寒くて眠れませんでし た。 宮城刑務所に護送・・4 日午前 8 時 15 分塩釜署での取り調べを終えて、同 11 時に宮城刑務 所の護送車で刑務所に護送された。到着後、芳賀は煉瓦作りで全然陽の当たらない重禁房に 入れられ、鎮静をまってから仙台南署の警官の出張取り調べを受ける事になる。 芳賀の逃走経路・・塩釜署の取り調べで芳賀が自供した逃走経路は次の通りである。1 日午 後 9 時頃監房の鉄格子を切断して、外塀を乗り越え広瀬川の川岸を六郷まで下り、農道に出 た。北上大代の理髪店から自転車を盗み、貞山堀沿いに北上して塩釜市役所付近まできた。 塩釜では拘置監で隣房に居た遠藤さんの家で履物を貰うために家を探した。4 人ぐらいの人 に遠藤さんの家を聞き、訪ねて行ったら警官らしい人がいたので、自転車を捨てて観月山に 逃げ込んだ。3 日の朝、貞山堀を南下して、菖蒲田海岸近くで夕刻まで魚釣りを眺めていた。 日が暮れてから農道を歩き、多賀城に出て橋を渡り、仙石線の線路を横切り役場前に出た。 さらに七北田街道から砂押川を上がり、市川橋付近に警官らしき人が近寄って来たので、土 手を塩釜街道に逃げようと思ったが、空腹と過労で動けなくなり捕まった。 一睡、一食もせず・・逃走後の芳賀は一睡もせず、飯も一回も食べずにいた。脱獄の動機は、 今年の 4 月頃隣房に収容されていた宮川棒と窓越しに通声するようになり、宮川が出所する 際に「どうせ執行されるのなら逃げて真面目に働けば父親に孝行できる。出所したら箸箱に ヤスリを入れてよこす」と言われた。本気にしていなかったが、30 日の差し入れの中に箸 箱がありヤスリが埋め込まれていたので、1 日午後 2 時頃から看守の隙をみて鉄格子を切 断。同 9 時頃に切り終わり房外に出た。更に傍にあったトラックの運転台からロープをと り、足をかけるように結び目を作り、ロープの先に 2 尺ぐらいの横棒を結び、外塀の外側に 引っ掛けて塀を乗り越えた。監房を出てから約 2 時間後外塀を乗り越えて外に出た。 84


共犯の宮川も逮捕・・芳賀が脱獄の際独房の鉄格子 切断に使ったヤスリの入手経路につき、芳賀の自供 から、前科 4 犯宮川某を加重逃走罪で逮捕した。宮 川が指定差し入れ屋に差し入れを頼んだ時に、偽名 を使い、更に醤油と偽り食用の油を差し入れ用とし て断られて居た。油はヤスリで鉄格子を切断すると きの潤滑油の代わりに使わせようとしたのではない かと思われる。

箸箱とヤスリ

宮川が作った箸箱・・警察の捜査の結果、二重底つき箸箱は市内の指物大工八城さん方で宮 川が作ったものと判った。宮川は八城さん方に飴色の箸箱を持って訪れ、「妻の弟が巣鴨の 拘置所にいるので、秘密の手紙を出したいので二重底の箸箱を作ってくれ」と依頼してきた。 八城さんが断ると、次の日の夕方また来て「私も大工だから道具を貸してくれ」と上がりこ み、八城さんが夕食中に箸箱の底をえぐりヤスリを忍ばせたようだ。 宮城刑務所の黒星・・今回の芳賀の脱獄は初めから宮城刑務所の黒星が世間の槍玉に挙げら れているが、同刑務所では 5 日以内に反省会を開き、今後の対策を協議した。その結果宮内 所長、伊藤保安課長、青木拘置所長、新田作業課長の 4 名が責任者として法務省に進退伺を 出すことになった。脱獄当夜、拘置監には 4 名の看守が交代で勤務していたが、芳賀が鉄格 子を切断していたこと、塀を乗り越えるまで 2 時間余り所内を徘徊していたことに気がつか なかったことは、看守として注意力を欠いた怠慢と断定。看守 4 名のうち監督の立場にあっ た、木村、菅原両部長を 7 日厳重処分に処することになった。 宮内所長談・・私どもの怠慢と言われても止むを得ない、責任は重々感じているので出所進 退は明らかにしたい。脱獄の原因になったことは改善する。7 日更に会議を開いて完全な対 策を立てる。 非協力、捜査遅らす。宮刑の出方に警察不満・・11 月 6 日脱獄事件が片付いたので捜査本 部を解散したが、解散に当たり警察側から宮城刑務所に「捜査上の必要な情報が伝えられな かった点が多かった」と遺憾の意を表明した。非協力的だとした点は 2 点で、箸箱の発見の 経緯と宮川の取り調べの件で、2 日宮川が芳賀に箸箱を差し入れた事実を掴み刑務所内を調 べようとしたら「所内の捜索はこちらで行う」と刑務所側から断られたので、やむなく 70 人の警官で拘置所の周囲を 3 日間捜索したところ、4 日になって「実は発見したので・・・」 と箸箱の発見を宮刑が連絡してきた。 刑務所の捜査妨害・・警察で調べたところ、宮刑では 4 日午前中に看守たちが箸箱をいじり 回していた事。芳賀の自供に基づき探し当てたと弁明しているが、警察が芳賀に自供させた ものであり、その時まだ宮刑が芳賀の自供を知らずにいたはずだ。警察では宮刑が故意に隠 していたものと推定。また宮川を北署の刑事が取り調べをしようとしたら刑務所の看守が妨 害するかのように同人を囲んで調べをさせなかった。

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及川捜査部長談・・どうもはじめから非協力とみられる点が多かった。第一線からの報告で は、宮刑が箸箱を発見したのは 2 日朝らしい。刑事に対する妨害も捜査に影響があったので 遺憾の意を表明した。 宮内刑務所長談・・当方はどうしても警察に協力してもらわなければならないという気持ち で、できるだけ協調の精神できた。箸箱はあくまでも芳賀の自供を手がかりに探し当てたも のである。こちらとしても独自の立場から関係者を調べなければならないし、宮川の有力な 立ち回り先など取り調べと警戒を行った。妨害などないはずである。 芳賀脱獄の全貌・・本事件発生以来 6 日目にして、ようやく事件の全貌が明らかになり、結 局、全県下を震え上がらせた死刑囚の脱獄という未曾有の事件は刑務所生活で過去を塗りつ ぶされた宮川が金目当てに描いた恐るべき陰謀と結論づけられた。 逮捕後の芳賀・・捕まってからの芳賀は「何とか生かしてくれ」と泣き喚きながら取り調べ の警官に哀願しているという。一方、宮川は「どうもすっかり割れてしまって・・」と頭を 掻いている。いいコントラストで「いったん逃がしておけば、後はいくらでも金をしぼり取 れると思っていた」と語り、余りの図々しさに警察でも今更ながら驚いている。

昭和 27 年 11 月 3 日

死刑囚脱獄即売会中止

同日、宮城刑務所では製品即売会を開催することで準備万端整っていた。私は午前 7 時頃 拘置所南側道路を自転車で急いでいた。近所の人たちが、縄梯子にしたロープのある塀の上 の方を見上げていた。これには私も吃驚仰天してしまった。急いで役所の中に入ると、所長 やその他の幹部が慌ただしく動いていた。 即売会の中止・・死刑囚が破獄逃走したのであるか ら勿論、即売会は中止。脱獄犯を逮捕することにな り、刑務所側はどうしても 48 時間以内に逮捕した い一念であった。ところが通信網や情報収集の劣悪 な刑務所側は、何時も後手となっていた。戦前の巡 査と看守は相反目して情報を知らせないキライが あって、中々旨くいかなかった。私は、警察の仕打 ちに何回も苦杯をなめ口惜しかった。然しながら、 即売会風景 今回の死刑囚破獄事件については塩釜署の全職員挙げての協力援助には深く感銘し恩義を 感じたものであった。 逃走犯の逮捕・・塩釜署は刑務所と合同捜査本部を設け、刑務所職員の為に一室を供与する 等の配慮があり、戦前には見られない御好意の数々であった。 逃走した芳賀が民家に食物を求めて現れたとの情報が入り、塩釜市の自衛消防団の協力を 得て、その場を中心にその夜は水も漏らさぬ布陣をなし翌朝を迎えた。午前 10 時を期して 仙石線と国道 45 号線の間の薄の生えた丘陵一帯を包囲検索することになり、刑務所側はそ

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の包囲陣の外側を固め、犯人が潜伏していると思われる丘陵地帯は警察と消防団が入ること になった。 午前 10 時太陽が燦々と降り注ぐ中、一斉に包囲作戦が展開され、警察犬を先頭に網を絞 り、やがて薄の繁みに隠れていた逃走犯芳賀は難なく警官に逮捕された。その地点は前日の 夕方に、所長と私が警棒を持って歩き、所長が「はがー、はがー、居たら出てこい、出て来 い」と叫んで通ったところだった。 ふるしろの里

昭和 28 年 4 月

甲山 菊治

Y 刑務官の死刑執行記録

余談・・この記録は昭和 20 年代後半に宮城刑務所に勤務した職員の記憶を基に書いてある が、内容的に憶測で書かれた部分が多々あるので、この記録を鵜呑みにはできない部分があ る。Y 看守は確かに刑務所に実在していたようであるが、フルネームでないので同性の人が 数人いるため、誰かは特定できない。 死刑執行の日・・執行の命令を受けた 3 人の刑務官は刑場で執行の準備に掛かる。執行は午 前 10 時頃から始まる。刑場は毎日使用しているわけではないが、常に何時でも使用可能に 掃除及び執行器具の手入れはまめに行っている。執行するに当たっては死刑囚の体格に合わ せて執行用のロープ等調整しなければならない。死刑囚の体が地下に宙吊りになったとき、 床上 30 ㌢の所で止まるように調整するのである。 宮城刑務所の刑場は刑務所の構内にある。死刑囚が収容されている仙台拘置支所は刑務所 の外の西側に独立して建っている。執行の際には約 100 メートル離れた刑場まで連行しな ければならない。刑務所内の刑場は北西の隅にあり、高いブロック塀に囲まれ外からは見え ないようになっていた。入口は鉄扉で開扉するとき蝶番の油が切れているのか甲高い金属音 がして内側に引き込まれるような開き方をする。 刑場内の様子・・平屋建ての刑場玄関入口の側には便所があり、入口から中に入ると直ぐの 部屋が仏間で仏壇が設けられ死刑囚の宗教による儀式が行われる。教誨師の僧侶の読経が流 れ、線香も焚かれ、生花、供物が飾ってある。仏教以外の宗派の死刑囚はその宗派に応じた 祭壇、飾り付けが準備される。 向かって左側の部屋で最期の教誨が行われ、遺書等を書く事が許される。全ての儀式が終 わると死刑囚は目隠しをされ、執行場所へと移動する。死刑台のある部屋には天井から一本 のロープが下がっている。このロープは普段、保安課の倉庫で厳重に管理されいつでも使用 できるように綿密な手入れがなされている。 ロープの先端は輪になっていて、その部分には黒皮で覆われた部分がある。床の部分は 1 ㍍×1.4 ㍍の踏板があり、ロープはこの真上からぶら下がっているのである。Y さんは執行 の緊張と恐ろしさで茫然となった。勿論刑場を見たのも中に入ったのも初めてではない、刑 務官になって以来、幾度となく掃除等やったことがある。しかし、執行官という勤務命令を 受けて見る刑場内は、それまでの印象とはまるで別物であった。 87


(当時は執行の研修が盛んに行われていた。160 ㌢程の木造の人形を死刑囚に見立てて、 首に縄を巻く位置やタイミンなど、いつ誰が執行係りを命ぜられても確実に執行できるよう に訓練していたのである。昭和 30 年代は年間 10 人以上の執行数があった。執行業務に関 係する職員は 1 回につき約 10 名ほどなので、年間 100 名近い数字になった。) 執行官の役割・・Y さんの執行の役割は首に縄をかける係りである。先輩刑務官の指導のも とロープの長さを調整する。死刑囚が宙吊りになったとき、瞬間に意識を失うためには、ロ ープを首にかける際に注意しなければならない。顎だけに引っ掛けたのでは意識は失わず、 執行が完璧に終了しないのである、死刑囚の苦しみは想像を絶するばかりで息絶えることは ない。そんな失敗がないように、ロープを首に掛けるときは細心の注意をせよと、先輩刑務 官が指導説明する。もし失敗したらと思うと全身に震えが走った。歯の根がうまくかみ合わ ず、先輩に返事を返すにも舌が重くもつれる。Y さんの顔色は蒼白だったことだろう。先輩 からは「下腹に力を入れろ、深呼吸してみろ、大丈夫だ落ち着いてやれば失敗することはな い」などと叱咤を受けた。 死刑執行・・法務大臣により死刑執行の命令の出た死刑囚が刑場に連行されてきた。教誨師 が死刑囚に仏教の往生思想を説く声が壁を隔てて死刑台に控えている Y さんの耳にも聞こ えてきた。祭壇は既に灯がともされ線香の煙いも漂っている。静まり返った刑場内には、教 誨師の声だけが低く通った。Y さんも含めて執行に携わる全員が厳粛な気持ちに誘われ、読 経がはじまると思わず合掌して一心に祈った。不思議なことに、先程までの緊張と恐ろしい 極限の心地は去り、平常よりもずっと静かな境地になっていった。 首に縄を掛ける・・仏間の仕切りが開いて、目隠しをされ手錠を架けられた死刑囚が、刑務 官に誘導され死刑台に近づいて来た。あらかじめ知ってはいたが、いよいよ最期の瞬間を迎 える死刑囚が誰であるかを認める Y さんは辛かった。東京から護送され荒れ狂う数ヶ月を 宮城で過ごした後、仏教に帰依し、すばらしい人間性に目覚め、Y さんに悟りの境地を教え てくれた死刑囚である。心の中に片寄り、こだわり、へだたりを持ってはならないと熱心に 説き聞かせてくれたすばらしい人間である。短い期間であったが、Y さんの心の深いところ に迫ってきたこの死刑囚の首に、縄を架けなければならない因果は残酷であった。死刑囚に は目隠しをしているので Y さんであることが分からない、しかし Y さんは誰の首にロープ を架けるのか知らざるを得ない。心の中で合掌して任務を果たすことに集中した。 執行終わる・・執行はすばやく行われた。Y さんが首にロープをかけると、べつの刑務官 はすばやく縄で両足を縛り、同時に間髪を入れずにもう3人の刑務官が保安課長の合図で ボタンを押す。この間、時間にして数秒くらいのものであった。 余談 1・・通常の死刑執行の場合は首に縄を架けるのはベテラン刑務官で、何回も執行に 立ち会った経験の持ち主の警備隊所属の係長が担当する。一般刑務官は執行ボタンを押す 役目で 3 名が揃ってボタンを押すことになっている。この職員達は直接死刑囚とは接する ことはなく別室で保安課長の合図で押すことになる。 余談 2・・執行後は地下で待機している医師が死亡を確認して遺体を床に下ろして、看護師 が納棺する。納棺後、刑場脇にある死刑囚の遺体安置所に 24 時間安置して、その後、火葬

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にする。遺骨は遺族が引き取ればその場で渡すが、引き取り手がない場合は保春院の刑務所 墓地に 2 年間安置して、それでも引き取り手がなければ他の遺骨と合葬され、以後は引き取 り手が現れても遺骨は引き渡さない。

昭和 28 年 4 月 24 日

宮城刑務所只見川作業隊 副看守長 伊藤博殉職

只見川上田作業場に勤務中、受刑者 21 名の作業監督指導をしていたが、突然木製の起重 機のデレッキ支柱取り付けワイヤーが切断して、デレッキ支柱のワイヤーが伊藤看守の顔面 を強打したため、卒倒して約 6 ㍍下の作業場に墜落し、岩石で後頭部を打ち、更に左大腿部 を木の根に強打して瀕死の重傷を負った。直ちに同作業場の診療室に収容して、応急手当を 施したが同日午前 8 時 38 分殉職した。享年 31 歳。

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昭和28年6月5日

「座

会」 日 場

時 所

昭和28年6月5日 仙台市片平丁 針久本店

只見川電源開発と刑務作業 出席者

河北新報会長 刑務協会常務理事 矯正局作業課長

一力 次郎 小川 太郎 杉田 勝久

仙台矯正管区長 宮城刑務所長 東北電力株式会社 東北大学教授

吉田 宮内 館内 木村

綱紀 精介 三郎 亀二

え が き

只見川電源開発は、先ずその水源である尾瀬ヶ原のダム化をめぐって、長年「学術か経済 か」の論争が続けられ、更に開発方法として新潟案、福島案の対立で世人の注目を浴びてい る。その是非は暫くおき、ともあれ日本TVAとして、この電源開発工事に宮城刑務所より 約800名の収容者が出役協力し、多大の成果をあげていることは甚だ意義深いことである。 本誌はここに関係各方面の方々にお集まり願い、只見川電源開発と刑務作業についての座談 会を開催した。(TVA=Tennessee Valley Authority 「テネシー川流域開発公社」) 編集部 只見川出役まで 吉田

本日は皆様、非常にお忙しいところをお集まりい ただきまして本当にありがとうございました。ご 承知の如く、只今、只見川の電源開発には宮城刑 務所から約800名の収容者が出役いたしておりま

す。一昨年来の片門への出役以来、次々と柳津、 宮下、本名、上田の各現場に出役させましたが、 お陰様で着々と所期の成果をあげまして、東北電 力を始め関係会社並びに地元の官民の皆さんか 片門ダム ら機会あるごとに、感謝や慰問を受けておりますことは、私どもとしましても喜ばし く思っているところです。片門、柳津はすでに完成一歩前ということであり、この機 会に刑務作業と只見川電源開発について色々とお話を承りたいと存じます。 では、小川さんに司会をお願いします。 小川 管区長さんから只見川の実情をお話し願いたいと思います。 吉田 昭和24年頃から全国的に非常に過剰拘禁となりまして、定員の2倍までにはなりませ 90


んが、かなりの数に上ったのです。この収容しきれない収容者を抱えておりましたの で、それを緩和するという意味も多分にありましたが見つからず、関係者の方々が奔 走して仕事を探しました。特に構外作業に目をつけて是非構外作業の方をやりたいと 考えておりましたが、職業安定所の方の関係もあり、収容者にとって一般労働者の邪 魔にならない程度ならよかろうということになりまして、最初に岩手県の「山王海」 のダム工事現場に出役させたわけです。 収容者を使って見ると案外成績がよいわけで、山王海では最盛期に約400名出役さ せました。これと前後して、秋田、青森、山形の各所でも活発に工事現場に多数の収 容者を出役させるようになりました。山王海、西郷、石淵等のダム工事は東北開発の ため多大な功績を残しております。 そのうち、只見川の電源開発工事が活況を呈して参りま して、東北電力の本社に宮城刑務所の作業課長等が度々お邪 魔して、収容者の作業出動についてもいろいろお話をしたわ けです。大体目鼻がついたので、本省の方に了解を得て始め たのが昭和26年、実際に収容者を出役させたのが26年の暮 れごろだったと思います。出し始めると只見川の構外作業は 現場が大きいものですから、収容者が足りない、職員が不足 するといった問題にぶつかりまして宮内所長さんのご苦労 も大変だったと思うのです。 小川 今何人ぐらい出ておりますか? 宮内

800名ほどで、それに監督職員が80名行っています。初めに先発隊が昭和26年の暮れ に10名参りまして宿舎を設営し、それから1月に100名の第一陣を送りました。

受刑者の動員と質 小川 杉田 小川 杉田 宮内 小川 宮内

作業課長さん、動員の方法等について色々ご苦労があると思いますが、その点いかが ですか? 只見川の作業場は規模も大きく、東北だけでは勿論受刑者が足りませんので、主とし て東京、大阪管区から受刑者を動員しております。 毎月ですか? 毎年移送計画をたてて実施しています。 東京管区から700名、大阪管区から1,100名、名古屋管区から50名、仙台管区から500 名というわけですから、管内だけでは間に合わないのです。 只見川は5ヶ所も作業場を持っていますが、実際は誰が現場を統率していましたか? 27年の6月柳津に作業場を設けまして本部長の西田直君に全体の統括をして貰ったわ けです。実際上本部長と言う仕事は刑務所長と同格ということに大体話がなっていま す。西田君は大きな功績を残して巣鴨プリズンに栄転して、現在は青木栄次郎君が後 任として引き継いでおります。

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木村

やはり月に何度か休みを与えているわけですか?

宮内 一力 宮内

月に休みは大体2日か3日あればいい方です。 受刑者の年齢はどうですか? 平均年齢30歳というところです。我々の年配ではとても 勤まりません。最高は41歳ですか、大体20歳代位の者が 多いようです。 あそこで働いているのは、初めからずっと只見にいるわ けですか? 刑期の関係もありますが大体一定の期間で仮釈放しております。みんな殆ど反則がな いので比較的早く仮釈放になっています。 刑期はどのくらいのものが多いですか?

木村 宮内 小川 宮内 一力 宮内

3年6ヶ月位が一番多いですね。仮釈放者も非常に多く、現在まで450名ほど出してお ります。 労賃はどうなっていますか? 一人一日200円、延長作業ですと250円を会社から受領しています。受刑者には国庫

一力 小川 杉田

から別に賞与金というのが支給されます。この賞与金は本人の労働力に応じて給与さ れますから一番多いものには一ヶ月520円になります。 そうすると8ヶ月もいると4,000円位に貯められるわけですね。 只見川にはどうゆう種類の受刑者が出役していますか。 只見川には分類上B級と申しまして、比較的改善困難と認められる受刑者を出役させ ています。

一般労働者と比較して 一力

只見川の工事に従事している受刑者は一般労働者に比べてどうですか、よく働きます か? 館内 いいですな。非常によく働いてくれます。むしろ他の労働者の模範になるほど勤労意 欲が旺盛で、ほかの人達がそれを学んで働くというような実情です。 木村 受刑者は一般労働者と一緒に働かせていますか? 館内 原則としては一緒に働かせてはいませんが「ああいう人達でもよく働くではないか」 ということで、むしろ他に良い影響を与えている。特に職員の方々はこの工事の重要 性を良く認識して、非常な熱意をもって、確たる統率力の下に規律が良く守られて能 率的に働いて貰っているわけです。 木村 いつか内崎社長と話した時にも、非常にいいのは労働争議というものが絶対にない。 そうゆう点もありましょうが。 館内 我々の方で一番心配したのは、まだ発電所の建物が出来ていないので問題はないので すが、建物が出来てくると、監視の目が届かなくなる。陰に廻って何かをやられれば 叫んでも分からない。女の労働者も入っていますからね、それを非常に心配していた わけです。しかし、そうゆう心配も全然ありません。 宮内 その点、受刑者を選定する場合、婦女子に関する犯罪者は全部除いております。もし 92


あそこで強姦でもやられたら、どんないい仕事をしても何にもなりませんから、害の ない者を選んで出役させています。 逃 一力 杉田 小川 杉田

走 逃走はどうですか? 昭和27年中に全国の構外作業場から逃走した受刑者は72名となっていますが、只見 川の分はそのうち1名だけで、これもすぐに捕まって戻されています。 全国の構外作業に現在どのくらい出ています か? 現在8,000名ほど出ています。全国の刑務所の 収容人員は約64,000名ですので、その1割3分 位になるわけです。東北では1,500名構外作業 として出役しておりまして、その内只見川が 850名、多いときには1,000名を越したことが

小川 木村 吉田

あります。 そうすると只見では逃走は非常に少ないとい うことになりますね。 逃走が少ないということは地理的な関係もあるのでしょうね。 これは電源開発の仕事をやっているという意欲、大きな仕事をやらせて貰っている誇 り、それが非常に大きな原因となっていると思います。

犠牲者2名 木村 宮内

一力 宮内

今の幻灯スライドに出てきたのですが、死んだ人は55名と聞きましたが。 あれは只見川の発電所工事の初めからの犠牲者で一般の労働者の慰霊塔です。受刑者 の死亡は現在まで2名です。1人は本名でハッパをやるとき、一旦退避しながら解除信 号を待たないで飛び出した瞬間背中を撃ち抜かれて死亡しました。もう1人は柳津で、 梯子から落ちて死んだ者です。 怪我はどうですか? 事故者は全部で58名、その内死亡が2名、機能障害を起こした者が3名ぐらいおりま す。神経をやられて手の利かなくなった者、大きな石に身体を挟まれて腰骨が折れた 者、他に指を潰した者が相当ありました。工事が工事ですから怪我人が少ないとは申 しません、しかし、アメリカから入った機械力のために戦前と比べたら怪我人はずっ と減っています。この点、受刑者には出来るだけのことはしています。特に死亡者に ついては、現場において関係者が集まり丁重に葬儀を施行します。

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宮内

勿論家族に対しても充分

とはいえませんが、会社の 方からも10万円程度の弔 慰金が出ています、職員に も1人の殉職者を出しまし たが、これは看守の伊藤君 で刑務官葬をもって盛大 にその霊を弔いました。そ のほかは全然ありません。 木村 受刑者の健康状態はどう ですか? 宮内

木村

館内

一力 館内

本所の方から医師が月2回 ほど出張し現場で治療出 来るものはそのまま処置 し、他は仙台に帰っており ます。病気怪我で帰った受 刑者は現在まで380名ほど です。 受刑者以外の一般労働者 は何人ぐらい働いており ますか? 人数で申しますと工事が 終わるまでの延べ人員は 片門約60万名、柳津も約 60万名、宮下が約18万名 です。 一般労働者と受刑者は作業を夫々区別してやっておりますか? 全く一緒と言うわけではありませんが一つの場所で仕事を夫々受け持ってやってお ります。しかし、なるべく昼夜交代で昼間は受刑者がやり、夜間は一般労働者がやる ことにしていますが、会社としては三部制をとって貰えば都合がいいのです。小回り のような仕事の場合は昼間の4時頃に引き上げて しまうのでもったいない。何とかもう少し長くや って貰いたい。片門だけでも延べ人員が60万人近 くいるのですから、昼夜両方できると受刑者の延 べ人員も10万か12万は増えているはずです。夜間 は職員を増員しなければ出来ないでしょうが、せ めて4時頃引き上げるのをもう2時間位やって貰 いたいと思っています。

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一般労働者に与える影響 小川 館内

吉田

木村 宮内

一般労働者に与える影響といいますか、どんな気持ちを持っていますか? 一般労働者に悪い影響を与える気風というものは全然感じません。この会合に出掛け る直前、現地から電話連絡があり、水が溜って移転しなければならない家がありまし て、その移転作業に約10名の受刑者が手伝っているそうですが、一般の民家の仕事を やっても少しもトラブルが起きなく円滑にやっているようです。それはやはりあの付 近の人達が信頼感を持って、よく見ているためだと思うのですが全然危険視していな いのです。 工事が始まったころは片門をはじめ柳津の警察署長が非常に心配して毎日のように ジープで現場に視察に来ていましたが、3ヶ月後には毎日真面目に働いているところ を見まして、署長さんも地元の住民も受刑者を理解してくれたようです。 受刑者の只見川工事参加は東北電力の方からの要請ですか? 本当を申し上げますと押し売りのような形になってしまったのですが、無理して頼ん だという状況であります。当時の管理部長と作業課長とが東北電力と建設会社を終始 訪問し宣伝に努め、快く了解して貰ったのも今になっては懐かしい思い出と云えまし ょう。

地元民からの感謝 宮内

只見川の受刑者に対しても色々地元民から感謝されていますが、あそこに働いている

吉田

受刑者自身も自分たちが働いていることに対して誇りを持っているということが感 じられます。 受刑者が単に金儲けのために働いているのではないということ、この仕事をやれると いうことに感謝して作文を書いています。 現在の只見川の作業は受刑者の気持にピッタリしているんじゃないかと思います。従 って能率もどんどん上がるわけです。 仮釈放取り消しした者はありませんか? 工事現場の各会社の労務係の人が各人の保護司の役を引き受けて面倒をみているわ けです。 労務課の人が「出たら来いよう」と言って引っ張るような例もあるわけです。

一力 宮内

予約制というわけですね。それから刑期の長い者はおりますか? 残刑3年6ヶ月を最長基準にしています。

小川 杉田 木村 宮内

慰安・教育 木村 宮内

そこで慰安的なもの、教化的なものをやっておりますか? 一番喜ぶのは映画ですね。映画は教育部の職員が月に1回、16ミリを持っていきます。 このときは受刑者の他に現地で一緒に働いている労働者も舎房に入って見ています。 そうゆうところからも“受刑者”という意識を一般労働者は持っていないという感じ です。 95


小川

木村

宮内

ここにも書いてありますが、私たちが朝仕事に出かけるときに道で出会うと労働者の 皆さんから「ご苦労さん」と声を掛けてくれるのです。私たち受刑者のような者でも 本当に親しみを与えてくれるということを感想文の中に見ることができます。 先日、私は只見川の受刑者が突貫工事をやっているという歌を詠んでいることを東北 放送で放送しましたが、あの心持ちは非常によいですね。それから煙草なんか吸わし てやってもいいのではないかと考える時もあります。米国あたりではどこも煙草を 吸わせているようです。 我々も一番辛いだろうと思うのは煙草が吸えないことですね。傍で働いている外部の 労働者が吸っているのに片一方は吸えないということが非常に苦痛になると思うの です。しかし、これは規則ですので破るわけにはまいりませんので仕方ありません。 450名も仮釈放しましたが一件もありません。

一力 宮内

新聞は見せていますか? 切り抜きをたまに見せています。新聞自体としては見せていません。その他、文芸図 書、これは西本願寺から贈られた本300冊を初めとして、各地から寄贈されたものも 約500冊あり、全部で2,500冊備えてあります。

一力 木村

生のニュースを聞かせて娑婆気を出してはいけないというわけですか? 私はやはり犯罪記事はいけないと思いますね。論説のようなものだけは、余りかたぐ るしいので、やはり経済面とか社会面の良い記事を拾って見せるというのが一番良い と思います。 何か作業を奨励するためにいろいろなことをやっておられると思いますが、それによ

小川 宮内

って作業に対する熱が上がったとかいうようなことがあるでしょうか。 直ぐ響くのは仮釈放審査です。実際には所長の表彰とか、映画の特別巡回、新本の貸 与でしょう。会社の方から奨励パンを貰っていますから、我々を感謝しています。ま た成績の良い場合は、会社の方から表彰状を出して貰っています。

構外作業は中間刑務所へ 小川 杉田

木村 杉田

杉田 宮内 一力

拘禁過剰の状態はどうですか? 一時からみますと大変緩和されまして、現在は全国平均110%位ではないかと思いま す。ですから今日では、過剰拘禁緩和の為の構外作業というものは考えられないので して、構外作業場はどうしても中間刑務所として進むべきではないかと思うのです。 各地の刑務所から集めるということで支障を生じておりませんか? 全国的に受刑者が減っておりますので、只見川作業場に受刑者を送ることがなかなか 難しくなって来ております。それに各所で構外作業を持ちたいという希望が多いため に、只見川への移送が困難になってきているわけです。 出役している受刑者間に感情的なものはありませんか? 関東と関西では随分気風が違いますから、関西部隊は上田、本名、片門。関東は柳津 という分け方をしています。 拘禁過少になっても行刑施設としては、そうゆう構外作業をやらせた方がいいのでし ょうか? 96


木村

私はいいと思います。

杉田

構外作業には、いろいろな点で利害得失があるわけですが、財政面から申し上げます と20億近い刑務作業収入のうち構外作業の収入は約2億9,000万円となっていますか ら、収入源としては、かなり大きなもので従って非常に有利な仕事と言えるわけです。

構外作業と行刑目的 一力 木村

構外作業など余り楽しくやらせたり開放的にしたりすると、行刑本来の目的には反す るのではないでしょうか。 一力さんのご意見は従来の考え方でありまして、我々は今日の行刑というものは、苦 しませるというものではなく、勤労意欲を持った人間を作り上げる。そうした人間 が世の中に出てちゃんとした生活をすれば犯罪も少なくなるし、世の中の秩序も維持 できる。そのような目的が達成されればそれでもう行刑の目的が達せられたと考える のです。それが我々の主張なのです。苦しめるということは無意味であると考えるわ けです。釈放された連中がどこかで仕事を活用してやれるように、会社なり工場なり

小川 木村

一力 館内

木村 宮内

或いは仕事場があるということは非常によいことだと思いますね。私の考えでは、そ ういう制度が出来なくてはいけないと思います。 世界的な傾向としてどんなものでしょうか? 現在はそこまでいっていないでしょうね。理想論としては前から叫ばれているようで すが、外に出て働く場所がないということ、それが一番の問題ですからね。そういう 場所が見つかるということは非常にいいことだと思います。 只見川が完成したときはどこで働くかということが問題ですが、やはり土建業者の方 からの要請でそこに残るわけですかね。 さきほど申し上げましたように、片門で延べ約60万人、柳津で約60万人、本名が約70 万人、上田が約65万人、田子倉は約190万人、その上奥只見になりますと、もっと大 規模なものになり、只見川全部を開発するのに後1兆2,300億円のお金がかかるわけで すから、まだまだ労働力は必要になるわけです。 作業は請負ですか? 実働は8時間ですが、現場の都合により小回りにしますと残った時間遊ぶということ になりますので、かえって悪い影響を与える場合も出て参りますね。

只見川の全貌 小川 館内

只見川の全貌といったものについて簡単に一つお願いいただきたいと思います。 私が先ほど申したように、現在我が国の水力発電は700万kW余りですが、只見川の 未開発電力は170万kWという大きな電源地帯であるのです。なかでも1ヶ所にまとま ってあるのが、田子倉の23万kW、奥只見の30万kWでこのように1ヶ所で20、30万kW というのは我が国ではちょっとなく、せいぜい10数万kWというのが今まで最大のも のであったのです。 もっとも、奥只見の方には30万kWの予定地がありますが、これは人夫が約延べ200万

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人必要とされています。そうゆう大きいものばかりですから、なかなか簡単にはいか ないのです。田子倉だけでも約200億円の金がかかるわけで、そうゆう膨大な資金を 要する関係上その開発に困難を来している状態です。 しかし、その電源地帯を中心とした一大電源開発を行わねば我が国の電力緩和の根 本的解決並びに電力を基盤とした工業の一大振興はできません。電力はやはり不足す るという状態でして、結局今申したように根本的解決は只見川の大開発をやらなけれ ばならないということになるのです。また東北地方は火力発電がないのですが水力発 電に非常に恵まれています。しかし、東北の大部分の電源は福島県に属しております。 水力は豊水期の水が貯水でき一般需要家に大変迷惑をかけたわけでして、豊水期の 水が貯水出来て、渇水期に出すことができれば、その効果は一段と高まるわけですが、 只見川にはこの貯水出来る地点が先ほどの田子倉をはじめ奥只見、尾瀬ヶ原、内川と 大きいのが4ヶ所あり、その貯水量は田沢湖、十和田湖、猪苗代湖の三湖を合わせた ものの1.8倍で1億㌧、電気にしますと、これらの湖の5.5倍の23億kWの発電量がある ので、渇水補給用火力発電の代わりとして非常な偉力を発揮することが出来るのです。 現在、東北の人の1ヶ月に消費する電気の量は250kWほどと思いますが、あの有名 な米国のTVAでは、自然地帯に只見川のようなダムを造り、発電して1人当たり1ヶ 月に2,000kWの電気を使っておりますから、東北も只見川が出来れば大いに電気を使 って生活文化の向上を図り得ると思います。また只見川自身も単に奥地開発のみなら ず、立派な観光資源となり、世界人の耳目を集め得ると思います。 本省の方針 小川 杉田

今後における本省の方針は? 只見川は勿論ですが、構外作業は出来るだけやって行きたいと思いますね、これは財 政的な面ばかりじゃなく、木村先生のお話にありましたように、たとえ拘禁過少にな っても、構外作業は続けた方がよいのではないかと考えられるからです。問題は職員 でありまして、受刑者がどんどん減りますと、結局職員も減るということになるわけ です。そうなりますと刑務所を留守にして皆構外作業に出かければ別ですが、構外作 業へ受刑者を送り得る限界がでてくると思うのですが、その限界までは出役させるこ とが出来るわけでして、また出してもいいんじゃないかと思っております。

しかし、充分考えなければならないことは、職員と受刑者の災害防止という点で、 これは非常に大きな問題ですから、是非とも有効な対策を用意する必要がありますで しょうし、また職員の休養ということも忘れてはならない問題だと思います。 小川 管区長さんから最後に何か・・・・・・・・ 吉田 いろいろと熱心に、また率直にお話を承りましてありがとうございました。只見川作 業隊の運営も結局皆様のご理解とご協力をいただかなければならないのでありまし て、この点何分よろしくお願いします。 小川 それではこの辺で、どうもありがとうございました。 刑政第64巻7号 98

昭和28年7月号から転記


受刑者たちに温かい贈物、只見川電源開発に咲く佳話 膚を刺す寒風を衝いて只見川電源開発工事に従事している宮 城刑務所受刑者の懸命な働きぶりに感激した地元奥会津の人々 が、ただでさえ不足がちな尊い飯米を割って受刑者たちに贈ろう という、これは只見の最上流本名、上田の両発電工事現場に咲い た温かい話題。 正月祝うもち米を・・地元民が敢闘に感激、本社に寄贈を依頼 只見川で一躍時代の脚光を浴びた奥会津、福島県大沼郡 現場で懸命の作業を続ける受刑者たち 横田村の上流にいま本名、上田の両発電所建設工事が夜に 日を次いで進められているが、東北の希望を集めたこの工事に地元の人たちも何とかこの開 発に努力したいと地元有志で奥会津同志会(理事長横田宗久=大沼郡横田村)を結成。陰に 陽に工事の促進に積極的な協力を行ってきたが、この人たちが朝夕接する工事現場の労働者 の中で一際目立つ一団があった。これが本名に270名、上田に170名配置されている宮城刑務 所受刑者の一団だったのである。 彼らの受刑者と見えない明るい表情と懸命な働きぶりを目のあたりに見た会の人たちは すっかり感心して、さる11月28日横田村の本部で理事会が開かれたとき、誰いうとなく只見 開発に挺身している受刑者を何とか慰問してやりたいという話がでて、その方法について協 議したところ「正月用の餅を贈ろう」ということになったが、この話を聞いた人が我々もと 少しずつの米や小豆を提供。中には相当の耕地を工事の犠牲にする人達までが「私の家から も」と米を持ちより、たちまち米2斗、小豆5升が集まった。 「これで受刑者たちに形ばかりだが正月のお祝いをしてもらえる」と喜んだ同会横田会長 から本社社長あてに「貴社刑務所詰記者を介して宮城刑務所長に寄贈の許可手続きを進めて いただきたい」と依頼があったので、本社で早速これを宮城刑務所に連絡したところ同刑務 所でも「このような慰問はここではほとんど前例がない、米飯にも不足がちな地元の方のご 慰問は何よりも有難い」と大喜び。直ちに受領の手続きをとり、これを本名、上田両発電所 工事現場に働く470名の受刑者に配布することになった。

前例のない慰問 宇都宮 宮城刑務所総務部長の話・・このような慰問はほとんど例がないことで本当に有難 い。早速現地へ連絡して上田と本名の両発電所で直接受領するように手配する。今、只見関 係では本名に270名、宮下に104名、柳津に192名、片門に260名働いているが、みな明るく 伸び伸びと働いているようだ。この慰問も皆に分けたいが数量ともにらみ合わせ、地元の希 望通り上田、本名に配布することにした。 横田会長の話・・常任理事会の席上、だれ言うとなく現場で働く受刑者のことにふれたとこ ろ、木枯らしと風雪にいどみ建設に従事している受刑者をみると、罪人などとは少しも考え られない。あれこそ神の姿だろうと一同感激し、なにか我々にできることをしてやりたいと いうことになったが、酒とか煙草は禁製品だし、正月用の餅にしようということになった。 始めは2、3の理事が自分たちだけでも出そうといってくれたが、これは同じ気持ちのなる 99


べく多数の人から集めた方がよいという話になって、みんなから集めることにした。事は些 細なことだが、皆がこのように暖かい気持ちを持っていてくれるのだから東北1,000万人の 希望である只見川建設も容易にできるだろうと有難く思っている。 昭和27年12月15日河北新報より転記

本名発電所に大雪崩 車上の一七名を呑む 二名死亡、宮城刑務所只見作業隊トラック 昭和28年4月24日、午前11時45分頃、前田建設(東京)只見川建設所の乗用兼用トラッ ク=運転手=同建設所員角田正雄さん(31)が宮城刑務所只見作業隊の受刑者5名のほか 一般人など計17名を乗せて宮下から四倉へ向かう途中、福島県大沼郡本名村唐桑地内県 道(東北電力本名発電所の上流約50㍍)で前田建設のブルドーザー2台が小さな雪崩の除 雪作業中だったため停車。作業終了を待っていたところ、突然幅20㍍、厚さ3㍍にわたり 雪崩があり、17名はトラックもろとも生埋めとなった。 ただちにそのブルドーザー2台と坂下署員、地元消防団など50名が除雪作業を行ったが、 同乗の宮城刑務所只見作業隊 隊長 青木栄次郎法務事務官(41)=仙台市行人塚70=と横 浜市西区録町3丁目4ノ2、三菱日本重工業横浜造船所工員 石井保さん(37)の2人は死体 となって収容されたほか、前田建設人夫 破石留蔵さんら9名が重傷、2名が軽傷を負い、 角田正雄運転手、鈴木昭七、渡部勝雄両助手と受刑者1名は無事だった。 負傷者は県立宮下病院沼沢分院に収容、手当を加えている。現場は会津若松から11キロ の只見川沿いの切りたった崖道で、いつも雪崩が多い所。丈余の雪は雪崩防止抗などで支 えきれずしかも23日は福島測候所から雪崩注意報が発令中で、付近一帯に小さな雪崩が数 回となくあって同日もブルドーザーが出動していたなど警告されていた最中の出来事だ った。 トラックは幌があったため同乗者の大部分が逃げ遅れ大事にいたったものだが、その瞬 間を目撃した東北電力本名発電所員は「雪崩の傾斜が直角に近かったためにトラックを上 から押し付け、貯水池に巻き込まれなかったのが不幸中の幸いだった。雪崩はそう大きく なかったが土砂が混じっていたためにこんな被害になった」と語っている。また同乗して いた受刑者5名は23日夜、たまたま仙台に出張中の青木作業隊長らにともなわれ宮城刑務 所を出発。田子倉発電所建設現場に送られる途中だった。同刑務所では竹松管理部長およ び医師など10名の所員を現地に派遣した。野崎所長および法務省岡野保安課長も現地に向 かった。 トラックに乗車中の青木事務官はトラック諸共雪に埋没して殉職した。享年41歳。 中尾矯正局長・・青木君は成績が特に優秀で、ちかく栄転をさせることになっていたのに まことに残念なことをした。 涙にくれるばかり死亡した青木さん宅・・雪崩事故で死亡した青木栄次郎氏は昭和6年7月三 重刑務所で看守拝命後、札幌矯正管区予算管理課長、山形刑務所総務部長を歴任、28年宮城 100


刑務所に転勤と同時に只見作業隊長となった人。留守宅の仙台市行人塚70刑務官舎には妻タ ニさん(39)はじめ長女茂子さん(13)=八軒中学一年=次女洋子さん(11)=若林小学校= 3女道子ちゃん(4)長男多喜雄ちゃん(2)がおり、同日午後、悲報を聞いた近所の人々が 寄って妻タニさんを力づけていたがタニさんは「夫は出張で1週間ばかり泊りで昨夜(23)で かけました。4人の幼い子供がいて・・・・」と涙にくれるばかりだった。

昭和 30 年7月 30 日

星霜前のあれこれ

第 31 代宮城刑務所長 H 氏

H 所長の日記より、当時の宮城刑務所の外伝 昭和 30 年 9 月 24 日

矯正友の会設置事情・・当時宮城刑務所は終戦直後の著しい混乱か

ら立ち直りつつあったものの、未だ安定を欠き、逃走事故が後を絶たなかった。かかる事故 の際、永年矯正職員として勤続して、退職後施設近在に住む先輩達が、頼まれたのではなく お家の大事とばかりに、率先して応援に駆けつけ、現職者と苦労をともにする涙ぐましい協 力が随所でみられた。私は改めてこれら先輩後輩の絆の一層の強化を図るために、施設に「友 の会」結成の重要性を痛感し、同所着任直後この計画を関係者に図り、賛成を得たことであ る。 全国で最も早く会を立ち上げる・・かくて同所の「友の会」は、昭和 30 年 9 月 24 日同所倶 楽部で全国に先駆けて創立発足の産声を上げたのである。同日の参加者は吉田綱紀(元仙台 矯正管区長)、石澤信次(元青森刑務所所長)の外、先輩の主だった方 10 余名であった。 その年の申し合わせにより、第一回総会が同年 12 月 10 日同所倶楽部で開催され会員 100 余名中 60 数名が参加した。 当日は、一同揃って所内を参観して、午後 2 時から総会に入り役員を決定、会則を議決し た。顧問に推挙された楠本仙台管区長及び吉田氏が祝辞を述べた。其の後、宴会に移り一同 ご満悦。和気藹々のうちに午後 5 時頃に散会した。当時の会員数は 180 名を超えるとのこ とだった。 同 30 年 10 月以降、新入受刑者には一定期間初頭矯正教育を実施し、その開始初日所長が 対象者に訓話した。 同 31 年4月 1 日保安課の機構を改変し、看守部長の工場担当制を実施すると共に、区長、 係長制を確率した。同年 7 月 23 日、郷土史研究家の山田野理夫氏著「仙台行刑小史」を印 刷して、全職員に配布した。同年 8 月 3 日、舎房内の普通蚊帳を窓蚊帳に変え、水貯のカメ をアルマイトのものに改めた。12 月 27 日大型テレビを講堂に初設置した。

昭和 30 年 8 月 7 日

宮城刑務所只見川作業隊 副看守長 山崎辰巳殉職

只見川作業場の運転手として勤務中の 8 月 6 日。本所への緊急用務のために関作業課長 をジープに乗せて運転中、宮城県柴田郡槻木町付近の国道において、右カーブの路面より突 進してきた大型トラックに行方を遮られ、そのトラックをかわそうとして、ジープのハンド ルを道路の外側に切ったが、間に合わずに衝突した。その際の衝撃で、山崎看守は胸部を強 101


打して瀕死の重傷を負い、付近の病院で応急手当を受け、更に仙台の今野病院で加療に務め たが 8 月 7 日に殉職した。享年 26 歳。

昭和 31 年 8 月 13 日

宮城刑務所のお盆墓参

当日は午前 11 時、宮城刑務所出廷用バスで出発、米ケ袋の松源寺(宮城県監獄署の一般 受刑者の墓)に行き墓参。霊屋下の瑞鳳寺(西南戦争の国事犯の墓地)にも墓参り。更に宮 城刑務所の墓地(保春院)に至り住職三浦誠之(宮城刑務所教誨師)の読経焼香後、同寺の 本堂で休息。午後 1 時に宮城刑務所に帰る。参詣者、長谷場所長、小杉教育部長、三村教育 課長、油谷保安課長、大槻部長、佐藤養治部長、伊藤看守、中川副看守長、収容者代表 3 名。

昭和32年5月2日

ラジオ放送器新設

舎房向けラジオ放送機器を教育部に新設した。6月被収容者に対する給食用豆腐を炊場 で自製することにした。10月17日病舎新築直営工事は32年末に完成したが、着工当時は地 下3㍍から4.5㍍を掘り下げて玉石を入れ地盤を強化する難工事であった。

昭和31年1月12日

消える六角獄舎

六角大学と呼ばれ市民に親しまれている宮城刑務所の六角塔は明治初期の建築なので 老朽化が激しく、また内部構造も不便が多いので取り壊しの計画が具体化した。明治、大 正、昭和の三代に渡って東北名物の六角塔は遂に姿を消すわけである。これに伴いこの古 建築の記録を残そうという声もあり、細部写真にしてのこすのか、模型にするか関係機関 の間で検討されている。 宮城刑務所六角塔は、明治12年に西南戦争の国事犯を収容するために建てられたもので、 当時としては珍しく洋風建築だった。中央に見張りの六角塔が聳え、そこから六棟の舎房 が放射状に延び、中央から監視が届く設計で当時「雲形六出の構え」と古めかしく呼ばれ、 最近は専ら「六角大学」で通っていた。しかし6棟の獄舎には便所がなく、房内にカメを 置いているので不衛生。しかも北側の棟は陽の当たらぬ場所で健康にもよくない。また80 年も経ていて老巧化も甚だしいというもので、新築計画が検討されたのである。

二階階段 獄舎通路

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獄舎の入口


壊すのは惜しい何とか資料を残せないのか・・この六角塔は明治初期の建築様式をとどめ る珍しい建物であるから、何とかして資料を残したいと いう声も強い。文部省では明治以降の建物を重要文化財 に指定することを決定したが、建築学者、歴史学者は、宮 城県では建築学的にも歴史的にも六角塔が最も価値があ るとしている。宮城刑務所ではこうした意見を認めて、将 来のために消えゆく六角塔の沿革、建築技術を調査し写 真や模型で残す計画と並行して進めている。この珍しい 六角塔の設計は誰がしたのか未だに不明であるが、ドイ ツ人だと言われている。最近六角塔の梁についている棟 礼が発見され、これによると工事は当時仙台大町にあっ

六角塔解体作業

た大倉組(現大成建設)が請け負っている。 この建物で興味のあるのは、六角塔には一本の支柱も なくつり天井になっており、1階と2階、及び2階と3階の 間の天井板は全くない。これは下の階のどこからでも監

視することができるように工夫したものである。また各舎房も出入り口が低く、藩政時代 の牢獄の名残を留めている。このような特異な 建築様式は他に類例がなく、行刑史研究家は勿 論、郷土史研究家の間でも注目されていたもの である。 長谷部忠寿所長の話・・現在の舎房は明治12年 に出来たもので、まだ西洋の技術が入ってこな い前に建てられた日本の大建築だ。内部は余り にも日本的で牢獄という感じだが、近代的な刑 務所はアパートといった感じでなければならな 六角塔中央部分 い。予算5億円くらいを見込み、今後5年くらいでやりたいが完成まで10年ぐらいかかるだ ろう。 東北大工学部横山助教授の話・・六角塔は放射状の刑務所建築として規模も大きく珍しい ものなので、私もしばしばその建築様式を調査したことがある。その結果、明治初年の木 造様式小屋組建築としてきわめて貴重なものであることが解った。しかしこの建築様式は 監視面に重点が置かれ、生活環境については力を注いでいなかったから改築も止むを得ま い。ただその前に資料だけでも残せるように文化財関係者の配慮を望みたい。 河北新聞朝刊

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当時の死刑囚の処遇 当時は死刑囚 25 名が在所していた。この驚異的多数収容は東京管内での確定下死刑囚を 同所に併設してある拘置監に受送していたからである。一方同所では当時、一般受刑者(長 期囚と累犯者)1,000 余名(同 31 年 10 月中句には 2,200 名を数えた)を抱えていて、日夜 これらの処遇に当たった職員(現在同所[友の会]会員に名前を列ねている先輩)の苦労は並 大抵ではなかった筈である。 当時の死刑囚は総じて日常の行動も穏やかで心情も安定していたかに見受けられた。其の 陰には同所の死刑囚処遇上特別な配慮の裏付けが見受けられる。即ち、 1.

担当に有能な看守部長を当てて相互信頼の密度を濃くした。

2.

宗教教誨師による個人指導が活発におこなわれた。

3.

休日における一般受刑者に対する講和や映画、演劇の催しも可能な限り第 2 席を設けて 死刑囚に対しても行った。

4.

同 30 年 9 月 19 日から教育部に職員会寄付の資金で慈恵費特別会計を設けて、それに より領置金のない死刑囚に対しても必要と認める際、匿名で差し入れを取り計らった。

5.

同じ頃から小鳥飼育とその籠を房内に置くことを許可した。

6.

同 31 年 7 月 12 日から初めて請願作業を許可して、以来常に半数以上が紙細工に従事 した。

7.

当時刑務協会長の正木亮氏が何度も来所され、その都度死刑囚と座談会を持たれた。同 氏はかつて構内にテニスコート設置の費用を寄贈(「正木コート」と呼んで死刑囚にし たしまれた)。同年 31 年 11 月 26 日には「スマートボール」等を寄贈された事実もあ る。

8.

なかんずく特筆すべくは、当時副看守長の資格で死刑囚専任だった禅僧 中川玄昭師と、 熱心な仏教徒で同所宗教教誨師会長だった外科病院長 岩本正樹氏の存在だった。両氏 の純粋な人間愛に基づく献身的な協力を見逃す事は出来ない。

9.

中川師は、禅宗僧特有の少しも気取らない態度で勤務中死刑囚の監房を個別に巡回して、 大概はあぐら姿で対談して対象者の心情を掴み、その遷善への扶助をされていた。同師 は刑執行の都度立会し日頃愛情を傾け尽くした者の遠い旅たちに黙々と祈りを捧げ、敬 げんに合掌し涙しておられた姿が今でも私の瞼に浮かぶ。ある日、私は同師の自坊を訪 ね、その居間の一隅に死刑執行を受けた者の位牌が数多く安置されてあるのを発見し奇 異の感に打たれたが、仄聞によれば同師は在宅中も朝夕亡き者の冥福を祈る読経を欠か さなかったとのことである。

10.

岩本氏は、仏教教誨師の立場から平素死刑囚の相談役的存在に置かれ一同から慈父の 如く敬慕されていた。同氏は携る多忙な医業に寸暇を見出しては頻度に来所され、死刑 囚相手に「正木コート」でテニスに興じて疲れ、一隅の長椅子に並んで腰掛けて親しげ

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に談笑し合っている姿がよく見かけられた。このように死刑囚との接触は所内では同氏 限り特例として黙認されていた。余談・・当時宮城刑務所は死刑囚 30 余名を収容 余談・・当時、宮城刑務所は死刑囚 30 余名を収容してその処遇に引き回された。その穴を 埋めたのが中川師であり、岩本教誨師氏である。刑務所としてはこの両者の協力により、死 刑囚の心情安定に寄与すべき点が大きかったのではないだろうか。死刑囚が教誨師とテニス をしていること自体異例ではあるが、それを黙認していた刑務所側もまた異例であった。 同 33 年 1 月 28 日、昭和 19 年以後の同所達示集を検討して、改廃又は新たに追加を要す るものを整備してこれを印刷した達示集を全職員に常持させた。信仰心助長のための教誨師 による宗教教誨は総集の場では行わず、予め希望宗派別に登録した個人又はその集まりに対 して力を注ぐように改めた。 お盆には受刑者代表 3 名を伴い、教育部職員数名と共に市 内の松源寺と保春院に或る刑務所墓地とその途上の鹿児島 県人の墓(西南の役で賊徒として懲役刑に処せられ宮城県監 獄署に護送後に獄中で死亡した者の墓)を詣でて、清掃し手 を向けて合唱した。 鹿児島県人七士の墓

余談・・小生の在職中に 3 人の執行が行われたが、直接執行に立 ち会ったことが無いのでその時の様子は分からない。また職員間では執行の際の様子を互い に話すことはダブーになっていた。

昭和 43 年 2 月 1 日

思い出

第 36 代宮城刑務所長 H 氏

私が勤務したのは昭和 42 年 3 月から同 44 年 3 月までであった。同年 2 月 11 日、満 2 年 保安無事故を達成して法務大臣表彰を受けた。宮城刑務所としては初めてであり、また同年 作業成績優秀で法務大臣賞を受けている。同時に刑務所では昭和 26 年度着工した施設改築 工事が最終段階に入り極めて多忙な時期でもあった。 収容者墓地の改葬・・このような状況の中、特に忘れ得な いのは被収容者の墓地の改葬である。私は着任してから墓 参を兼ねて保春院と松源寺の墓地を見ることにした。保春 院の仮埋葬した場所は付近の人達の通路や子供達の遊び 場になっており、松源寺の仮埋葬した場所は、低地で雨後 水溜りが出来て遺骨が露出する状態であった。私はこのよ うな状態を放置することは矯正教育の根源にも触れるモ 収容者合葬墓地 ンダイのような気がして是非改葬したいと考えていた。難 しい問題があって着工が遅れていたが、昭和 43 年 3 月に教育部長として着任した鷹来教流 さんが両墓地を見て是非改葬したいと強い意欲を示してくれたのである。 同時にその頃、保春院においても境内の整備計画があってその意向を内々伝えられており、 そうした気運の中で各課の協力態勢が整い、墓地改葬実行委員会が設置されて急速に墓地改

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葬の計画が進められた。特に宮城県教誨師会から物心両面に渡り温かい協力を得ることがで きて、その年の 5 月 23 日墓地改葬計画が決定されたのである。墓地の改葬工事には工場の 一級受刑者の協力を得ることにしたが、その一級者の一人が「私もこのような状況に置かれ たかもしれない。この発掘作業に出役させてもらって誠に感激した」と話してくれたことが 忘れられない。 遺体の発掘作業・・仮埋葬された遺体の発掘作業は 8 月 19 日から始まり 9 月 21 日に完了 したが極めて困難な作業で、発掘された遺体は、保春院墓地 361 体、松源寺墓地から 110 体、合計 471 体であった。従来の両合葬碑は保春院が指定した場所に移転整備し、その年の 9 月 26 日の当日、保春院本堂で管区長、教誨師会長を始め関係職員及び出役受刑者等多数 参列を得て、保春院住職三浦誠之師の導師の下で厳かに合葬法要が行われた。

昭和 43 年 5 月 15 日

職員殉職者顕彰碑の建立

教育部の中川副看守長が私に対して、職員の間に殉職職員 の顕彰碑を建立したい意見が出ているので考えて欲しい旨の 申し入れがあり、このことは過去にも度々話題になったが、 様々な事情で実現されなかった。他の施設でも碑が建立され ても慰霊祭は勿論普段の管理も届かない例を見ているので積 極的にはなれなかったが幹部と協議したところ、職員の熱意 が極めて強いことを知り、私としても殉職職員 17 名の多きに 顕彰碑

達しており、それらの方々の功績をたたえる必要性は十分承 知していたので、残職員の浄財により顕彰碑を建立することが決定された。碑の皿型は矯正 局の楠富士太郎(技官)に、題字は当時の矯正局長勝尾鐐三氏にそれぞれ依頼した。工事は 順調に進行して、10 月 28 日当日は文字どおりの菊薫る秋晴れで、遺族の方 8 名のご出席を 得るとともに、管区長、在仙矯正施設長及び職員のご参列を得て、塩釜神社宮司押木耿介氏 の司祭の下で厳かに除幕式が行われたのである。 宮城刑務所殉職者名簿 1. 明治 15 年9月7日

宮城集治監 佐野 本修

書記

コレラ感染殉職

押丁

2.

小島 光楽

3.

氏名不詳

4.

氏名不詳

5.

氏名不詳

6.

氏名不詳

7. 明治 17 年 5 月 12 日

塩釜分監

半沢 平蔵

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看守長

囚徒の凶刃にて殉職


8. 明治 29 年 6 月 15 日

雄勝分監

菅野 久左衛門

看守

三陸大津波にて殉職

9.

中津山 忠之進

看守

10.

片山 則次

看守

11.

男澤 義平

看守

12.

山崎 英太郎

看守

13.

今野 久五郎

看守

14.

小塚 斧男

看守

15.

秋山 好義

看守

16. 明治 45 年 4 月 14 日

宮城集治監

安斎 六

看守

囚徒の凶刃にて殉職

17. 昭和 17 年 10 月 30 日

宮城刑務所

宍戸 幸之丞

看守

18. 昭和 19 年 1 月 15 日

多賀城作業場

目黒 久二

看守

作業場事故にて殉職

19. 昭和 24 年 7 月 29 日

宮城刑務所

片平 兵太郎

看守

囚徒の凶刃にて殉職

20. 昭和 24 年 7 月 29 日

宮城刑務所

昆野 博士

看守

張込中の列車事故

21. 昭和 28 年 4 月 24 日

只見川

伊藤 博

看守

作業現場で事故殉職

22. 昭和 30 年 2 月 24 日

只見川

青木 栄次郎

事務官

23. 昭和 30 年 8 月 7 日

只見川

山崎 辰巳

看守

余談・・殉職者は合計 23 人である。その内訳の中で受刑者の凶刃に倒れた職員が 4 名で、 全国の刑務所の中で最も多い人数である。宮城刑務所が如何に凶悪犯を多数収容していたか を物語っている。

昭和47年1月19日

また消える?「明治」宮城集治監

都市の再開発やビルラッシュで危機に立たされている各種文化財。県内でも1世紀近い 風雪に耐えてきた明治の建造物が、保護の手を加えられないまま、次々と消えていこうと している。その一つが我が国の明治建築でも大法的なものと言われている「宮城集治監」。 これまで宮城刑務所や県などが文化庁などに現状保存を訴えてきたが「修復や移転には莫 大な費用がかかる」として解体される見通しが強くなった。 このため、県文化財保護室では写真や設計図を中心とした「記録保存」の方針を固め、 新年度の事業に盛り込む予定だが、建設関係者の間では「我々の手で、何とか原形をとど めて明治村にでも保存したら」との声も出ている。 現状保存を望む動きも・・東北大工学部 坂田講師や県文化財保護室の話では、県内で現 存する明治時代の建築物は、最も古いのは旧歩兵四連隊兵舎を始めとする13件。このうち、 建築物の大きさや構造の特徴から全国的に保存価値が叫ばれているのは宮城集治監だと いう。 同建物は明治12年、当時のお金で約16万円で建てられたと言われる。ペンシルバニア型

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を模した洋風建築。高さ33.3㍍の六角塔を中心に、放射状に6 棟の舎房が並び「雲形六出の構え」といわれ、六角塔から集治 監全体を一望に見渡すことができる。建築技術として、単なる 西欧様式の直輸入ではなく、一時正面には「唐破風(からは ふ)」と呼ばれる日本伝統の装飾も取り付けた和洋折衷様式 で、当時の建築関係者達の苦心のあとが窺えるという。 ところが、同建築物がおもに「西南の役」以来の政治犯の収 容のために造られたこともあって、戦後は手狭になり昭和37 年から改築が行われ、現在はこの六角塔を中心とした舎房は 使われておらず、近いうちに撤去される予定になっている。こ の間、同刑務所関係者や県が文化庁と移転、保存などについて話し合ってきたが、大場県 文化財保護室長は「明治の建物として価値は大きいが、建坪だけでも2,700平方㍍以上も あり、保存にも補修が必要、移転して公開しても維持管理のメドが立たない。」文化庁側 も現状維持保存を断念するとの方針を県に示した。 このため、同保護室では昨年11月末に同建物を実地調査して、写真撮影などをおこなっ た。今後刑務所側と話し合って、当時の設計図面などを譲り受け、写真とともに、新年度 事業として記念保存する方針という。一方同建物の建築工事を担当したある大手建設会社 の仙台支店では「先輩の手塩にかけた記念物をのこしたい」と建物の一部をそっくり払い 下げてもらい、保存しようという案を検討している。同支店では「旧帝国ホテルも解体さ れたままに一向に復元作業が進んでいない。このままだと、明治建築がほとんどなくなる 恐れが大きい。本社とも相談するが、できれば岐阜県の明治村にでも保存しようと考えて いるという。 河北新報朝刊

消えゆく明治の建築・宮城集治監六角獄舎 明治になって、新たに自由刑の採用は収容者の激増をきた し、監獄関係建築の新たなる要求となった。明治4年囚獄権 正、小原重哉が香港、シンガポール等を視察し、帰朝後「監 獄則及び図式」を制定して各府県に配布した。その中で監獄 の構造は石造りとすることを規定し、止むを得ない場合には 煉瓦造りの代用を認めた。その平面形式としては舎房を放射 状に配置することを求めている。この監獄則を忠実に実行す れば建築費の増大を伴うので、当時の大蔵省の認めるところ とならず。明治6年にはその実施が中止された。 六角塔の解体跡地 明治8年、監獄新築に際して、建築費を要しないような配 慮のもとに監獄則に倣うようにとの通達があった。札幌監獄(明治8年10月落成)は監獄 則に準拠して計画され、続いて建築された熊本監獄(明治11年竣工)、松江監獄(明治11 年11月)は平面形式の点とともに監獄則に拠った十字型舎房であり、青森県監獄(明治14 年3月)は丁字型舎房であった。この放射状の配置はその後、明治、大正、昭和にわたる

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日本行刑建築の原型となった。 明治12年に竣工した宮城集治監も、中央に看守所を設け、その周囲に六棟の舎房を放射 状に配した点において、原則的にはこの監獄則に拠って いるとすることができる。しかし、直接には別の手本があ った。 当時集治監と称されたものは、各府県に設けられた監 獄とは成立事情を異にしている。自由刑の採用により収 容者数が激増し、これに対応して応急的な懲役施設がい ろいろな形で設けられていたため、旧態の懲役場の整理、 統合の必要性が生じて来た。それに関連してフランスの 監 獄 則 中央監獄制度に倣って、全国を5ヶ所の区域に分け、宮城、東京、愛知、大阪、福岡にそ れぞれ中央監獄を設置してその区域重罪者を集禁し、軽罪者は府県にある監獄に収容して 経費を節減すべきであるという考えも出てきたが、これは制度として認められることはな かった。 しかし、西南の役の直後で、賊軍に加担した国事犯の数はおびただしく、また全国各地 の獄舎は隘路であるうえに、常習犯と国事犯とを同一の獄舎に拘禁することは問題があり、 取り敢えず西南戦争の国事犯収容の目的を以て宮城集治監の建設が計画されることにな った。また東京付近においても政治事件が頻発して収容者が激増したので、小菅村に東京 集治監を建設することになった。 明治12年4月両集治監が開庁した。東京集治監は、明治12年に煉瓦造りに改築されたの に対して、宮城集治監は創立当初のままの姿を最近まで伝えていた。明治36年3月、監獄 は内務省から司法省の管轄になり、従来の宮城県監獄署は仙台監獄と改称され、明治37年 5月に仙台監獄を廃止して、宮城監獄(宮城集治監)に合併した。更に大正11年に至り宮 城刑務所と改称された。 小原重哉の「監獄則及び図式」に示されてい る明治初期の行刑の考え方はアメリカのペン シルバニア制度に拠っている。厳格な独居制 と完全な沈黙制をとるこの制度は建築家ジョ ーン・ハビルランド設計による。宮城集治監建 ベルギー ルーバン監獄 設に際し、直接手本とされたのは当時新築間も ない評判のベルギーのルーバン監獄であった。 集治監建設当時の建設委員の小野田元煕はその著書「泰 西監獄問答録」(明治22年10月版)の中で「抑我が国洋風の 監獄を構造せしは鍛冶橋の未決監を以て嚆矢とし、尋ねて 明治11年、余石澤謹吾氏等と宮城集治監築造の命を奉し白 国ルーバン中央獄の図に則り工部省の示今日を受けて8万 六角塔内部 余円を以て其の功を竣へたり、当時観る者其規模の宏壮な るに驚き其の監治の便利なるを賛し嘖々絶ゆるなし、余亦私に満足する所ありたし、然り と云う雖も海外に航するに及び猶之か良否を研究せんと欲し、先ずは仏国まさすの未決監

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に至り親く之を観るに只石造と木製の差あるのみにして構造は方に至れば我が国宮城集 治監と大同小異にして、白国ルーパン中央獄の如き固より構造せる者なれば其の図面より 模造せし者なれば其の図面の真物をみたるに止まり、宮城集治監おして石造に化せしめた る者に過きさるなり」と述べていることからも窺うことが出来る。 宮城集治監の建築構造・・集治監は伊達政宗の居城跡地を卜(ぼく)して建設されたもの であるが、中央にルネッサンス式の木造六角の塔状(4層)の看守所を置き、六角形状平 面の各辺に直角に木造2階建ての6棟の舎房を放射状に配したもので、一棟には独居房72 室を配し、他の5棟には雑居房272を納め、塔屋までの高さ約20㍍、総面積は約1,640坪に 及ぶ六角錐状の中央塔屋根はスレート葺き、下層屋根は瓦葺き、各舎房棟は寄せ棟瓦葺き で越屋根を載せる。2階の廊下幅2間のうち3尺の吹き抜けをとり、越屋根から採光が1階ま で達するように設計されている。外壁は下見板張り、ペンキ塗り、上げ下げ窓、洋式小屋 組を用い、特に六角塔の屋根組の構成は力強く壮観である。各棟の間に設けられた出入り 口上には唐破風庇が取り付けられている。 本来、石造りないし煉瓦造りたるべき異形の大獄舎を、木造をもって構築したその構成 力、技術力は、明治初期としての時期を考慮にいれるとき驚嘆に値するものがある。棟礼 によれば、地所選定が明治10年12月、建築着手が同11年3月、落成が同12年8月27日とあ る。 行刑史上は勿論、明治建築史上も遺構として、司法行刑関係者、文化財保護関係者をは じめ、広瀬川風物詩のラドンマークとしてその高く聳えた塔の外観に慣れ親しんできた市 民、県民各層の間にその保存が強く望まれたのであるが、木造のためかかなり老朽化した ことで、その形状が新しい行刑理念に対応出来なくなったことと、特殊な建物である為、 移建に膨大な経費を要する事等の理由により惜しま れつつ昭和48年に解体された。 (上記論文は、昭和48年に六角塔が解体されるこ とになり、解体前に東北大学で建築を専攻している 佐藤巧教授が建築家の学生を引き連れてきて、六角 塔のすみずみまで調査し写真撮影をした。その時の 佐藤教授の調査報告書である。) 六角塔の建築様式について、仙台の建築家と中央 棟 礼

の建築家では下記のように呼び方に違いがある。

1・・「雪形六出の構え(せっけいりくしゅのかまえ)」 仙台案内(庄子輝光著・明治23年刊)・・「宮城集治監は小泉村に有り、同監は12年に 在り、屋宇(おくう)すべて木造を以て『雪形六出』の構えに造り、実に広大壮麗を極め、 中央に六角五層の危楼(きろう・高い建物)あり頗る眺望に富む、名取、宮城の広稲(か とう)を一瞥して眼界の極まる処七が浜の湾より遥か金華山を眺むるに至り、聞くところ に依れば東京鍛冶橋内の監獄及び北海道の樺戸集治監及び宮城集治監はその構造におい

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て毫(ごう)も異なる処なく、その六出の構造は、 西洋各国も亦同一にして、すこぶる蓋し獄署を造る 法なりと云うなどと記されています。 雪形六出・・平面図にしたとき建築の六方放射型が、 雪の六角の結晶そのままであることからきたもっ とも風流な大工言葉であります。雪は全て六角の美 しい結晶をなしますので、これを花にたとえ雪花と いい、六出(りくしゅつ)・六出公・六華(りっか)・ 六花・六つの花(むつはな)などとも表現されます。 写真・・集治監の航空写真、中央の六角形の建物が六角塔で雪の結晶のような形をしている。

2・・「雲形六出の構え(くもがたりくしゅのかまえ)」 宮城集治監の六角獄舎址・重松一義著「図鑑・日本の監獄史」より 明治10年西南戦争賊徒(西郷軍)の拘禁方針として、関西以西には危険があり一切収容 しないとされ、関東一円と東北に分散拘禁が採られた。こうして片平丁の宮城県監獄署に、 西郷軍の半隊長、分隊長以上305名が4回に分けられて護送されてきた。 しかしこの監獄署では獄舎が手狭であることから、折から集治監構想が煮詰まっていた 刑法草案にもあり、これを繰り上げでの建設に踏み切った。用地は仙台南郊、独眼竜政宗 の居城であった若林城南小泉村の広大な地(現在の宮城刑務所の所在地)であった。ここ に明治12年9月ベルギーのルーバン監獄を模した日本一の一大木造建築、六角獄舎が完成 した。 土地の人はこの6棟放射状の獄舎を「雲形六出の構え」と呼んだという。昭和48年取り 壊されたが、獄舎尖塔の避雷針は乾坤巽艮の4字が鉄製で作られ四方を指し示し、乾の方 向に火除けとしてwater(水)なる英文の入った瓦があった。 建設委員長の一等警視補の小野田元煕は直接ベルギーを視察した経験があり、語学に優 れていたことから、こうした文字が記されたの であろう。獄舎六方各翼先端部に置かれた鬼瓦 には「監」の字が大きく刻まれており、獄舎玄 関にあたる入口には京風の御殿のような形式 と手法が凝らされ、獄舎3階の天井部分は西欧 寺院の伽藍と同じで砕頂上部分の梁は鉄製ア ングルが多用され、釣り天井方式となっている。 その階下中央部は直径30㍍の大ホールで、 総欅造りの三層円形監房を見上げるのである。 また欅の階段手すりは鹿鳴館の様式と同じだ 鬼 瓦 と評されたものである。また舎房扉にはX型に 鉄板が組み入れてあり、その厳重さ強固さはこれまでの房扉の比ではなかった。

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取り壊しの前後を知る筆者の目からも、この獄舎は300年は使えたように思われた。取 り壊しに様々な反響があり、元治安維持法違反でここに収容され「帝国反対云々」と落書 きした塩釜の病院長S氏は、何十万出してもいいからその自書した落書きがほしいと云わ れた。遠望の利く六角獄舎を目的として運転してきたタクシーの 運転手は、以来「方向を間違えていかん」とこぼしたという逸話 も聞かされた。もはや見られぬ遺構であるが日本の監獄建築史に 永遠に遺るものであった。 重松一義からの手紙・・「雲形六出の構え」この言葉は監獄誌に 小原重哉が最も早く表現したと記憶しておりますが、内部的には 定着した表現であり、私は雲形は側面、六出は平面を捉えた表現 と理解しており、この六角獄舎をよく捉えた表現だと理解してい ます。雪乃結晶が六角形という知識は極めて疑問で、言語上も六 角型という重複した表現で南画宗の大家で雲型定規という文房 具や文鎮も充分承知している小原の表現は適切と考え、プチコン

六角獄乙舎

式十字型獄舎の変形としても雪の表現を受け容れる余地はありません。 (宮城の建築史では雪、監獄建築史では雲果、はたしてどちらの呼び名が正しいのか、そ れぞれの説も理にかなっているので甲乙付けがたいところである。どちらの説でも宮城集 治監六角獄乙舎は日本近代行刑の模範獄舎として燦然と輝くものであり、その歴史的建造 物の偉大さを後世に語り継いでいかなければならない。) 写真右上・・六角塔獄舎を側面から頂上の避 雷針を見る。当時の建造物としては正に雲を 望むような建物に見えたであろう。 写真右下・・六角塔解体後に、その遺材の欅 を再利用してこけしと、表札を製作して職員 に記念として販売した。 こけしの柔和な笑顔の中には、集治監に収 容された囚人たちの様々な思いが秘められ ているのでは。また獄中で不慮の死を遂げた 囚徒の無念さを察し、時折手を併せて冥福を 祈っている。

昭和 50 年 4 月 1 日

在任中の思い出 第 40 代宮城刑務所長 K 氏

看護婦の採用・・同年6月、2名の看護婦が採用された。男子の拘禁施設に、しかも長期累犯 の当所に看護婦を配置したことは、まさに画期的なことである。保安上の問題、患者が増え るのでは、果たして女性で務まるだろうか、等々種々不安の声もなくはなかったが、保安上 の問題はもとより、患者もそう増えるではなく、むしろ、休養患者の反応は、白衣を着用し た正規の看護婦さんに看護してもらうことに安心したという感謝の声が多く、総じて得ると ころが多かったと思う。もとより、このことは、お二人の人柄と、献身的な職務執行による 112


ものであることは言うまでもない。 クアラルンプール事件・・同年8月4日の4時過ぎ本省から電話が あり、マレーシアのクアラルンプール空港で発生した航空機乗 っ取り事件に絡み、犯人側より、当所在監中の日本赤軍兵士、他 数名をクアラルンプール空港まで連行して引き渡せとの釈放要 求があり、事態の進展が予想されるので待機せよとの命令を受 けた。政府としては、既に犯人側の要求に応ずることになり、翌 8月5日午前6時まで羽田空港に到着せよという厳しいタイムリ ミットであった。 その前に本人達がこれに応ずるかどうか確認を行うことにな り、就寝中の彼らを管理部長室に呼び出して、意思を確かめたと ころ、不安と動揺の中にもこれに応ずるとのことなので官 羽田空港 用車で宮刑を出発したのは、夜中の午前0時30分であった。 赤軍兵士が飛行機に乗るところ。 道中は、宮城、福島、栃木、埼玉を警視庁と警察のパトカー による引継ぎ先導で飛ばし、羽田着午前4時30分は、驚異的な速さと言えよう。短期決戦の 慌ただしさ、マスコミの驚きの対応、職員のご苦労等が今も鮮やかに蘇ってくる。その時の 運転手は渡辺喜代久氏である。 拘置支所の独立・・昭和51年5月14日は仙台拘置支所の看板を掲げた日である。支所への昇 格に当たっては、職員の増員もなく、予算の手当も殆ど皆無に近かったことは、当時として はやむを得ないことながら、今まで一円であった職員を支所と本所に分けねばならなかった こと、独立した警備処遇をどうやってうまく運営していくか、等々難産の苦しみではあった が、今にして見れば支所として昇格独立したことは評価されてよいのではないだろうか。外 来待合室、病舎区に保安分室を設置したのもこの一連の作業であった。 在任中、医務部の医療刑務所支所としての昇格をも強く訴えて来たが、諸般の事情で実現 するに至らなかった。 資料室の整備・・宮城刑務所の歴史は古い。中央政府の直轄のもと、宮城集治監として建設 されたのも東京集治監と並び我が国 最初のものであった。従って、その有 する行刑資料も多い。しかしながらそ れらのものがバラバラに保存されて おり、散逸するおそれもあったことな どから、職員と相談して資料室を開設 資料室に展示されている反則品 したのが昭和51年の秋であった。六角 塔の模型(50分の1)は末永技官の指導による技能受刑者の労作である。六角塔の塔上にあ った風見る付き避雷針は六角塔の聳えていた元の位置に踏み石と共に残すことにしたので ある。その永遠を希ってやまない。 昭和52年4月1日 随想 第41代所長U

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昭和53年3月5日

日曜特番テレビ「衝撃、これが宮城刑務所」放映

当日の午後8時からTBSによるテレビ放映があった。それまでは、行刑密行主義との関 係からも刑務所の実態をテレビで放映するなどは夢想だに考えの及ぶところではなかっ たが、当時は監獄法の改正の期運も高まり法務省においては刑務所の実態をできる限りガ ラス張りにした。国民の行刑に対する理解を深めようと努力し初めた頃であったため、本 省の指導を受けつつ、当時の幹部職員と相談の結果、思い切って放映実施に踏み切ったも のだった。 テレビ制作会社より話のあったのは52年8月である。放映までは実に6ヶ月の時日を要 している。放映にあたって留意した点は、1. 被収容者の人権の保持 2. 警備上の機密保 持 3. 実態放映の限界、の3点であった。施設の管理運営上猫の手も借りたい時にとの声 もないわけではなかったが、思い切って実行することにきめたのは同月17日の刑務官会議 である。 結果は極めて成功裏に終わったが、その反響の大きいのには驚きもした。行刑に関心の ある法曹関係者、学者、事業家、芸能人、そして見知らぬ人からも、個人的に電話や手紙 による通信が多数届けられた。その内容は、 「放映に踏み切った勇気に敬意を表する」 「行 刑の暗い印象を払拭してくれた」「施設が清潔で明るい」「布団が少ないようだが寒くは ないのか」等であった。其の後、行刑を理解しようとする有識者の参観が多くなり、社会 の行刑に対する意識を改めて貰うためには極めて有意義であった。

昭和53年6月12日午後5時15分

宮城県沖地震災害概況

同時間に宮城を中心とする東北一帯に強い地 震が襲った。この地震により仙台市に被害が集 中して27名の犠牲者を出した。その大半はブロ ック塀の倒壊によるものであった。また、ライ フラインも一斉に止まり、交通信号もストップ した。中でもガスの被害が最も深刻だった。 当所の被害状況・・当所では行刑の隔離機能を はたしている外塀の倒壊という。思いもよらぬ 非常事態を引き起こしたのである。明治19年7 炊事場裏

月から同32年3月にかけて自所製煉瓦をもって 建設、80年余の星霜に耐えてきた本所赤煉瓦の外塀、及び大正8年7月から同13年7月にかけ て建設され50年余を経ている仙台拘置支所の無筋コンクリートの外塀が、随所に完全倒壊 (本所約60%、支所約40%)し、末倒壊部分も至るところに亀裂が入り、これらは余震で倒 壊する危険と、また一部については公道や民家側にも倒れる危険が有るなど全壊に等しい状 態となった。 建物の被害・・使用不能になった木造工場、倉庫等があり、炊事場については倒壊の危険が あるということで、急遽柱などの土台を補強した。近時の建築のなる鉄骨造りの工場につい ても、アンカーが飛び出すなどの構造部の損傷や妻壁の亀裂入等が数箇所の工場に見受けら

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れた。その他、木造の一部舎房、医務室、武道場、領置品倉庫、職員待機室、その他の建物 に傾斜や天井壁の亀裂落下、屋根瓦の崩れ等の被害が生じた。 職員の被害・・地震発生時刻が収容者の監房後で夕食もほとんど終わった時間帯で、職員の 退庁前であったために、職員、収容者共に1人の死傷者もなく、衆状も概して平穏であった。 この地震が20分ないし30分早く発生していたら、その時間帯は受刑者が工場から舎房に 還房する時間帯なので大混乱になっていただろう。 警備状況・・当日の宮刑の収容人員は、本所地区853名、拘置支所109名、合計962名。職員 は322名(支所含む)。当日非常登庁出来なかった者18名を除いて全員が非常配置に着く。 午前零時以降は、外塀倒壊警備15箇所、舎房は全部複数戒護、巡警2組増加、監督者は全員 居残り、以上118名で警備に当たった。なお仙台拘置支所の外塀の倒壊箇所にはバリケード と有刺鉄線で応急処置をする。 他施設からの応援、東北管区25名、東京管区35名、初等科研修員60名の臨時応援を受け る。受刑者の緊急移送、東北管内100名、東京管内40名、大阪管内45名、名古屋管内その他 合計350名を全国に分散して移送した。

昭和53年7月20日

全国所長会議における被災状況報告 地震発生時刻・・当日は受刑者の還房が16時45分、人員点 検が17時、夕食17時5分頃、職員点検及び退庁時間が17時 15分から同20分頃で、其の後処遇部門の職員は退庁するわ けです。季節は6月の中頃で、ちょうど気温的にも良い時期 だったと思います。 外塀の倒壊状況・・倒壊の現場を目撃したのはほんの一部 の職員で、ドートいう音がしたことはほとんどの職員は気 付いていましたが、其の後、音がした外塀を見たら倒壊し ていたと云う職員が殆どでした。このような大規模地震の 際には、大方の者は、自分の極く身近な範囲のことしか気 がつかないことが、あとの調査で分かりました。 地震発生時の職員の対応・・地震発生と同時に保安課長(現

処遇首席)退庁点検を受けるために待機していた職員に 「鍵を持って舎房に走れ」という指示を発した。職員は一 倒壊した拘置支所の外塀 斉に舎房に走ったわけですが、待機室から舎房まで約100 左側がバス道路 ㍍の間、廊下が隆起してくるようで思うように走れず、廊 下の手すりに掴まっている者、立ち止まっている者、走ろうとして転んでいる者、様々でし た。独居房に向かって渡り廊下を通らずに地面の上を走って行った職員は、地面が波を打っ た様に隆記してきて、まるでトランポリンの上を走るようであったと話しておりました。 事務職員の対応・・事務所は塀の外にある。当日は総務部の職務研究会の日で17時15分から 会議室に集合した矢先に地震が発生しました。幸い怪我人はありませんでしたが、もし事務 115


所内に留まって居たならば、図書棚、帳簿等の入ったロッカー等、これは相当の重量があり、 これらが全て倒れましたから、これらの下敷きになり相当数の職員が怪我をしたのではない かと思っています。現に総務部長は、木製の書棚が倒れ、幸い椅子の部分で止まったために、 首を倒れてきた書棚と机の間に挟まれて職員の助けを呼んだという事がありました。 これら事務職員は地震発生と共に、制服組は直ちに、倒壊した第二正門の煉瓦を掻き分け て保安課に急行した。その他の職員は自分の部署に帰 り後片付けをした。女子職員は退庁時間だったので正 門付近で余りの揺れの強さにひっくり返り、立てなか ったそうです。 独居房収容受刑者の様子・・地震発生の際は共同室の 方は比較的落ち着いていたそうです。それでも揺れが 激しかったときは一時的に「ワー」と言う歓声が挙が 北側の外塀 ったそうです。それから独居収容者は目の前(20㍍) に外塀があり、その外塀が次々と倒壊するのを目の当たりにして、一瞬余りの恐怖に声が出 なかった様で、職員が駆けつけると、「地震が大きかったから早く出してくれ」「出さない とブッ殺すぞ」「仮錠にしろ」「余震があるはずだ、早く出せ」等、職員を罵倒して一時は 蜂の巣をつついたようになりました。 所長を罵倒・・当時独居には保安上、懲罰、取り調べ中の者83名、その他21名収容しており ました。倒壊後に現場の様子を視察するために、独居南側を歩いていたら独居の受刑者が所 長を見つけて「所長、俺たちを殺す気か」「早く解放しろ」等、ワイワイ騒いでいた。一番 騒いだのが夜間個室、中夜間個室、共同室、精薄者と言った順序でした。 こうして収容者が騒ぐということは、子供だったらこうゆう場合には泣いたり、人にしが みついたりして離れないのと同じで、恐ろしいからであって、これを鎮めるのは早く職員が 収容者の舎房に行って、彼らの目に止まることが一番大事なことと思いました。 職員の激励・・大勢の職員が独居房に駆けつけそれぞれの舎房に行って「大丈夫だ、心配す るな」「怪我はないか」と聞いて回る職員の顔を見た瞬間から、収容者は非常に安心感を見 せ始めました。そして余震に対する安心感を与えるために、仮錠にしてスリッパを房内に入 れてやり、これで余震があれば直ぐに飛び出せると言う気休め程度の安心感を与えました。 共同室収容の受刑者の様子・・当時舎房には夜勤者の 他に配食居残り職員と各階に監督部長が居りました。 このため本鍵は舎房勤務者が所持しておりました。1 階、2階の勤務者は外塀の倒壊を目の当たりにして、 収容者を避難させる事は必至と判断して4箇房を開扉 して収容者を廊下に出し、整列して待つように指示し ましたが、廊下に出た15名余の収容者は整列どころか 一目散に階下の方に駆け出したのです。 独居裏仮塀

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舎房外に飛び出る・・担当は開扉するのを止め仮錠にしたそうです。階下にいた職員も収容 者の避難のことを考えて、廊下側の扉を開けていたそうです。そこへ2階から15名余の者が 駆け下りてきて、職員の止めるのも聞かずに舎房外に飛び出て、このうち5名ほどが土塁の 傍まで行ったところ、土塁の煉瓦塀が崩れ落ちてくるのを目の当たりにして、慌てて舎房内 に戻ってきた。その他の者は廊下付近でそれぞれかがみ込んでしまった。 地震発生時の舎房勤務職員・・地震発生時に舎房勤務職員は、大部分の職員が廊下側の窓の 鉄格子にしがみついていたそうです。事実、揺れが激しくて動けないのが当然だと思います が、この時に素早く雑居舎房を4ヶ房開扉して収容者を房外に避難させようとした職員がい たそうです。あの大揺れの状態でよく開錠出来たものだと後で皆感心しました。 作業中に地震が発生したら・・少なくとも5、6名 の死亡者と数10名の負傷者が出たのではないか というのが私たちの考えでございます。現に今 回の地震は7工場、訓練工場などは、外塀の倒壊 で中に居るということが非常に危険でした。同 じ木造建築の炊事場の残業者に対しては担当が すぐ表に出るように指示しております。 一部の工場が収容者を外に避難させますと、 連鎖反応で大部分の工場が外に避難させること になります。日中ですと面会中の収容者もおり

独居北側

ますし、出廷中の者もおります。倒壊による負傷者の手当、これもまた大変です。外塀が倒 壊していれば収容者は逃走の意思がなくとも一部の収容者の動きに引きずられ、塀外に出て いく者も居りますでしょう。また運悪く工場出役者の還房時間帯に地震が発生したなら大変 なことになっていたであろう。 地震が発生した時の問題点・・隔離機能を果たしている外塀はやはり堅牢でなければなりま せん、報道機関の方は非常に逃走のことを心配して来庁されましたが、外塀の倒壊というこ とは、外部からの侵入ということを含めて非常に不安でありましたので、警察機関に対しま しては、刑務所側は絶対逃走事故は起こしませんので、主として外部からの侵入を防止して くださいとお願いして警備に付いて貰いました。 地震発生時刑務所で一番安全な場所・・地震発生時一部の舎房を開房して収容者を避難させ ようとしたことがありましたが、原則として舎房は仮鍵にして外塀が倒壊している場合は絶 対開扉しないことであります。特に長期刑収容施設は最悪の場合以外、開扉することは問題 があるかと思います。地震の際、刑務所で一番安全な場所は、火災が起きない限り絶対舎房 ではないかと思うからであります。 警察の支援・・地震発生以来、県警本部長を始め県警の部長クラスの幹部も何回も刑務所の 方に来てくださいました。その時の話で、県警では成田派遣の警察官200名を刑務所の外塀 倒壊ということで急遽呼び戻して警備に当たったそうです。警察は地震の際には一般市民の 動揺を抑えることも大事な使命だが、刑務所の外塀倒壊という場合は絶対刑務所の警備が優 117


先すると言って下さいました。関東大震災の時に軍 隊が出動して刑務所の警備に当たった事を思い浮か べ、県警本部長のこの言葉は非常に心強い感じがし ました。 ライフライン電気について・・地震発生とともに電 気は県下一斉に全域にわたり停電しましたが、刑務 所の方向は電力会社の重要区域になっている関係か 印刷工場 ら翌日早朝には送電されました。非常に早い措置で したが、しかし一番有難かったのは、所内及び野外の照 明は自動的に自家発電に切り替わることにあります。こ の自家発電は応急対策や警備面で極めて有効でありま した。 給水関係・・地震当夜は自家発電により高架水槽への揚 水ポンプを運転しましたが、構内の給水管破裂に気づか ず送水を続けたため、受水槽及び沈砂槽に溜まっている 貴重な飲料水を全部消費してしまうという結果になっ 第二正門 てしまいました。 翌朝早く送電されましたので、深井戸ポンプが運転され、かろうじて炊事用水など確保す ることができました。ここでの反省点は地震があった時は、一時送水を止めることによって、 受水槽にある水を確保するということでございます。もしあの時送電されなければ、自家さ く泉の水中ポンプが動かず大変なことになっていたと思います。当所の技官の説明によりま すと、当初の場合、舎房等への送水を止めれば受水槽、沈砂槽等に貯蔵されている水で炊飯、 飲料、それに洗面等もある程度制限すれば3日分はあるとのことでした。 外部連絡・・宮刑には庁舎と管理棟に赤電話(公衆) が2台設置されております。地震後、所内が落ち着 いた時点で、職員が自宅の安否を確認するために電 話を掛ける列ができました。こうした場合、勤務で 電話を掛けられない職員も大勢いたわけです。でき れば職員を指名して職員の自宅に電話して安否を 確認して職員に伝える配慮をすればよかったと思 っています。電話に関することでは官舎地区、及び 工場北側 職員の家族から安否を尋ねる私用電話が多数掛かってきましたが、非常事態に、より重要な 電話連絡のじゃまになりますので、今後心すべきことではないかと思いました。 新婚旅行を中止して駆けつけた職員・・沖縄方面に7日の予定で新婚旅行に行っていた職員 が、沖縄で2夜を迎えた時、テレビニュースで宮城刑務所外塀倒壊の事を知り、急遽旅行を 中止して、那覇から羽田へ、そして羽田からの飛行機が満席のため団体旅行の急行バスに事 情を話して、特別にバスに同車して13日に仙台に帰って来た若い職員が居りました。矯正職

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員としては当たり前のことかも知れませんが、実に立派で非常に嬉しく思いました。 応援職員のお見舞い・・地震の際に全国から警備応援或いは受刑者の引取り等多数の職員が 宮城刑務所に駆けつけてくれました。他の施設の職員が「大変ですねー苦労している職員に ー」と言ってお見舞いを置いていく方が居りました。その他にも、あちこちで沢山この種の お見舞いを頂きました。こうした職員のお見舞いは私たち宮刑の職員の苦労を目の当たりに したものだけに、涙が出るほどその気持ちが嬉しかったです。 移送時の混乱・・地震後宮刑では受刑者の緊急移送を行 いました。それも短期間に350余名を全国に移送したので す。移送の際、それぞれの受刑者が入所時に所持してき た私物を領置倉庫に各人ごとに収納缶に入れて保管して いるのですが、その缶が地震で崩れてしまい、それがバ ラバラに散乱して誰の私物が判明出来なくなってしまっ たのです。移送するに当たり、各人の私物を探すのに時 間がかかり深夜まで居残りすることも珍しくなかったそ

仙台拘置支所正門

うです。会計課の係長の妻が深夜まで勤務している独身職員のために、毎夜の様に夜食のお にぎりを差し入れしたそうです。 地震発生時の仙台拘置支所・・夕方点検が終了 し職員が舎房から引き揚げて、夜勤体制に入っ た5時14分頃、日中は何事もなく平穏な勤務交代 直後に建物を揺さぶった。退庁のために待機し ていた職員は舎房へ走ったので、とっさに「開 錠するな」と指示を出した。頭上の非常ベルが 鳴り出し、ドドッーと地響きと共に書棚や戒具 入れのロッカーが倒れ金属手錠がザラザラ床に 投げ出された。ほんの数十秒の来事だった。

煉瓦塀の撤去作業

外塀倒壊・・机の下に退避した小野看守は金属錠が降って来たので室外に飛び出した。雑務 掛かりの鈴木看守は庁舎外に出たと思ったら、ヘイヘイ言って息を切って戻って来た。(外 塀が倒壊したのだ)揺れが治まって見ると、正門から北側、西側の外塀が面会待合室の裏側 一部を残して一病舎西側付近まで基礎から見事に一直線に地面にたたきつけられていた。通 行人は足を止めて珍しそうにその全容を眺めていた。無筋コンクリートだった。 正門立哨勤務中の日下看守は哨舎から出ようとしたところ、ドアを潰され哨舎に押し込め られて命拾いをした。巡警の斎藤看守は女区側外塀に札をかけて一級舎房側に歩き出したと ころ、かかとすれすれに土煙を上げて塀が倒れてきて難を逃れた。 バリケードで応急処置・・一級舎房、錬成舎房の屋根は大部分崩れ落ちたが収容者にけが人 はなかった。地震当時、津田所長と大沢支所長は仙台矯正管区に出向いて帰庁したばかりで、 本所庁舎前に居合わせたので被害状況を報告し、外塀の応急処置の段取りにかかった。 用度課長に依頼して有刺鉄線を購入しようとしたが、金物屋では下敷きになって取り出せ 119


なかったので職員を増員して掘り出し、何とか日没までに現品が届き、拒馬や木片を持って バリケードを作るまで本所職員と支所職員による人垣を作って警備に当たり、夜9時頃まで かかり懐中電灯などで照らしながら、一部外部の侵入防止柵を作った。 応援職員の仮眠室・・ほかの施設からの応援職員の仮眠室は、一級舎房と錬成舎房を使い浴 場は錬成浴場を使った。地震発生以後、翌日からカンカン 照りと雨降りの繰り返しで、布団を抱えて雨漏りのしない 部屋を探して歩く状態だった。炎天下と寝不足と過労で立 哨勤務者が倒れる日もあった。 本所の高橋看守長と山崎係長が勤務の合間に「おしぼり」 をアイスボックスに入れて立哨勤務者に配って歩いた。こ 拘置支所北側、車が見える

昭和54年9月27日

れが何よりの励ましであった。応援職員は苦労をよそに非 常に感謝していた。

只見川電源開発作業隊殉職・受難者慰霊碑建立経過報告

戦後電源の宝庫としての世紀の注目を浴びた只見川は、福島・群馬両県境にある水芭蕉で 有名な尾瀬を水源として、阿賀川にそそぐ全流域面積4,000万平方㍍、流水量の極めて豊富 な大河である。宮城刑務所では、戦後国力回復を念願する一大産業開発の基礎ともいうべき 電源開発の国策にそって、この只見川流域における電源開発事業に参加し、昭和26年12月、 福島県河沼郡八幡村字坂本に片門構外作業場を開設した。 片門作業場は、只見川の最下流で、阿賀川の合流地点から小流5㌔、会津線(現只見線) 会津坂下から10㌔の地点にあった。昭和26年12月17日、職員5名、受刑者10名が先陣として 出発。その後25名の職員と200名の受刑者が相次いで派遣された。いわゆる只見川電源開発 作業隊の発祥の地である。当時の作業場は「積雪4尺余、荒涼たる冬の山峡に急造の生木で 作ったバラック建ての宿舎は寝具を乾燥する場所もなく、まことに前途多難を思わせる状態 であった」と記録されている。 その後は逐次、柳津、宮下、上田、本名、宮川と上流に向かって作業場を開設し、更に、 これらの各作業場を統括するため昭和27年6月柳津町に只見川作業隊本部が開設され、遠く 分散する作業場間の監督、会社との交渉等々の活動に当たった。しかし、片門、柳津、宮下 各作業場の閉鎖に伴って、本部は川口の地に移され、更に昭和29年には最後の構外作業場と なった田子倉に移されたのである。 昭和30年2月24日、青木本部長は本所との連絡を終え、田子倉作業場に出役する受刑者5 名と護送するトラックに同乗して作業場に向かう途中、本名発電所付近で岩、石を交えた巨 大な雪崩に遭遇し、あたかも受刑者をかばうが如き姿勢で殉職を遂げている。しかしながら この開発作業の陰には、壮烈な殉職をされた本部長 青木栄次郎氏のほか、伊藤博氏、山崎 辰巳氏の3人と作業中不幸にして受難した7人の受刑者の尊い犠牲があったことを忘れるこ とができない。 只見川電源開発作業終了から星霜移りすでに20有余年、ときあたかも宮城刑務所創設100 年を迎えるに当たり、これらの御霊を慰めたいと宮城県教誨師会及び宮城刑務所篤志面接委 員会の発意により、東北電力株式会社及び電源開発株式会社並びに当時電源開発作業に関係 120


された前田建設工業株式会社、西松建設株式会社、株式会社間組の協力を得て、ゆかりの地 片門発電所に慰霊碑が建立され、9月28日建碑除幕式及び慰霊祭が挙行されるに至った。 当日は両会長及び津田所長の手で除幕のあと、故青木本部長及び伊藤博氏のご遺族をはじ め関係者50名が参列し、献灯、献花、献香に続いて津田宮城刑務所長の追悼の言葉、仙台矯 正管区管内施設を代表して仙台矯正管区長が挨拶し、参加者全員が焼香してしめやかに御霊 を慰めた。 慰霊碑は地上2・3㍍、本体は黒御影石、基礎は新 大谷石という立派なものである。この碑は慰霊祭終 了後、両会(宮城県教誨師会・宮城刑務所篤志面接 協議会)から宮城刑務所に寄付され、更に、東北電 力株式会社の格別の好意により、満々たる紺碧の湖 水を一望できる片門発電所の公園地区に永久に建 つことになった。この建碑により、かつて大事業の 意義と、命を賭けてこの事業に参画した宮城刑務所 職員及び受刑者の偉業が、永く後世に伝えられるこ

慰霊碑

とを思うとき、万感胸に迫るものがある。 ここに、謹んで10柱の御霊のとこしえに安らかならんことを、心からお祈り申し上げる次 第です。 (宮城刑務所只見川電源開発作業隊殉職・殉難慰霊碑建立実行委員会)

豚舎の火災 昭和 60 年代に漏電により豚舎より出火して大騒ぎになり、養豚場の一部が焼けて、豚 10 頭程焼け死んだ事があった。其の後、養豚事業による収益金は幹部の接待費に使われて いることが問題視されて、平成になってからは廃止された。しかし、刑務所では毎日のよ うに多量の残飯を市内の養豚業者に引き取ってもらい、金を支払っているのである。現在 も同じようなことをやっているのではないだろうか。

昭和 60 年代の宮刑の夜勤部長 当時、夜勤者は A 班と B 班に分かれて約 20 名が夜 間共同室、個室、病舎、センターに分かれて前半(21:00 ~翌 1:30)後半(1:30~6:00)まで勤務していた。勤 務場所は本所地区(旧若林城跡の土塁の中)と、病舎地 区土塁の西側と離れていた。夜勤監督部長はこの 2 箇 所を巡回して勤務職員の監督していた。

旧保安庁舎

刑場前を通る・・本所地区から病舎地区に深夜、夜勤部長は監督のために原則 1 回巡回に行 くわけだが、その際に必ず通らなければならないのは刑場脇である。日中は絶えず職員が往 来するので特に意識はしないのであるが、深夜 1 人で巡回するとなると如何に仕事とはい え、その恐怖心は並大抵のものではない、刑場前を通ると隧道がありその入口の鉄格子の扉 の鍵を開けて中に入り、トンネルを 50 ㍍程進むとまた出口に鉄格子の扉がある。その鍵を 121


開けると病舎地区と管轄外の仙台拘置支所がある。 病舎地区の巡回が終わると再び来た道を帰るのである。病舎地区に行く時よりも帰りの方 が嫌であった。夏場はいいが、真冬、強風の夜、雨の降る日等は最悪である。当時は執行は 殆どなかったが、平成に入り 1 度だけ執行の日が夜勤だったことがあった。いつもの通りに 深夜に刑場前を通ったが、刑死者の遺体が安置されている場所が、高さ 2 ㍍の木製の仕切の 反対側にあると思うと流石に恐怖心が沸いてきたが、自分に「仕事で巡回しているのだ」と 言い聞かせて、その場を乗り切った。あれほど恐怖心を感じることはもはや無いだろう。

昭和 62 年 4 月 1 日

担当行刑の終焉

昭和 60 年代宮城刑務所には 15 の工場があり、それぞれ大担当と呼ばれるベテラン看守 部長、看守が担当をしていた。当時の工場担当は職員の憧れの的で、工場担当になれば、上 司の目も同僚の見方もそして何よりも受刑者の接し方も違っていた。正に一国一城の主のよ うな存在であった。 受け持ち受刑者 50 人の大工場には無期刑を中心とした長期刑の者が殆どで、処遇困難な 者が多く、長年受刑者を処遇していなければ工場担当は務まらないポストであった。工場担 当は宮刑職員 300 余名の内僅か 15 名だけである。担当になるには現場を 10 数年勤め上げ その中から選抜される狭き門であるために、職員は偉くなるか工場担当になるかそれによっ て職場内の自分の位置が決まるのである。 この長年の宮刑の伝統的工場担当制は、一部の職員が担当として発言力を持ち、その力は 係長、その上の区長も凌ぐ程であり、2~3 年で転勤する幹部にとって、ベテラン担当が平 穏に工場運営していれば何ら問題はなく、下手な口出しをしないのが原則であった。 昭和 60 年代、関東から警備隊長として M 看守長が着任した。前評判では職員にも受刑者 にも妥協を許さず非常に厳しい人であるとの噂であった。宮刑のベテラン工場担当達は「ど んなに厳しい上司が転勤してきても、どうせ 2~3 年で転勤していくのだから、伝統ある宮 刑のこれまでの流れを変えることは出来ないだろう」と高を括っていた。 それでも着任当時は職員も M 看守長の動きを警戒しながら勤務していたが、警備隊長と しての M 看守長は前評判と違って朝夕の受刑者の工場への通役時間帯は通路脇で黙って見 ているだけで、職員にも受刑者にも注意、指示もしなかった。1 ヶ月程してベテラン担当達 は「まったくの前評判倒れだ、ただ立っているならマネキンでも務まる」などと陰口を叩い ていた。受刑者も黙って立っている M 警備隊長を指差しニヤケた態度を取るようになった。 3 ヶ月を過ぎた頃、M 警備隊長が突然急変した。工場巡回した際、無断で離席して交談し ている収容者を現認するや、担当の目前で警備隊員を連行ベルで呼び、保安課に連行して取 り調べにしてしまったのである。更にほかの工場でも軽微な規律違反でも全て保安課に連行 して次々と取り調べにしていったのである。翌日から警備隊長が所内を巡回するたびに、 次々と規律違反が隊長によって摘発されたのである。 驚いたのは工場担当達、今までの上司は軽微な規律違反は見て見ぬふりをしていたが、M 警備隊長は担当の面前から連行していくので担当の立場がなくなり、これまで大担当として 刑務所内で威張っていたが、メンツが丸つぶれとなった。 警備隊員もこれまで工場担当に遠慮して、工場内の規律違反は黙認してきたが、隊長自ら

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規律違反者を摘発するので、うかうかしてられず、下手に所内を巡回して「異常なし」と隊 長に報告するものなら「どこを見て巡回しているのだ。規律違反者を摘発するまで帰ってく るな」と怒られるので、隊員たちもなりふり構わず、規律違反者の取締にあたるようになっ た。数ヶ月後、警備隊の積極的な取締によって宮城刑務所内の規律秩序が保たれてきた。 翌年警備隊長は刑務所の中心である工場区の区長になり、工場区内の職員の人事を動かす 権限を持つようになり、4 月 1 日付けで大担当と言われたベテラン工場担当を更迭して、若 いやる気のある職員を担当にしたのである。この移動は職員を驚かせた。「若造に宮城の問 題受刑者が揃っている工場担当が務まるのか」等、陰口を云う者も多く職員も不安に思った が、M 工場区長が若い職員を全面的にバックアップして支援したので、特に問題もなく工 場は運営された。 M 区長はこれまで工場ごとにバラバラに担当の考えで処遇していた方式を、全工場を統 一した処遇に改め、各工場担当に一日の受刑者の行動日程を提出させ、それをたたき台にし て職務研究会で担当同士討論して、全工場統一した日程表を作成した。それを基に工場間の 格差を無くしたのである。 この大改革により、工場内の規律は目覚しく改善され、規律違反を犯す受刑者も際立って 少なくなり、所内の秩序が維持されて宮刑始まって以来の理想的な施設になった。宮刑の施 設運営の噂は東北、関東の刑務所にも知れ渡り、施設見学者が後をたたなかった。 かつての個人プレー行刑処遇は完全に姿を消し、組織の力による施設運営が処遇の原則を 基本から変えた職員の勝利でもあり、担当行刑の終焉でもあった。

只見川電源開発 「明日から慰霊の旅」 昭和26年から同33年まで、宮城刑務所の受刑者が、福島県地方の只見川で刑務作業の一環 として従事したダム、発電所建設の功績などをしのぼうと、同所刑務所退職職員ら「矯正友 の会」(高橋正男)の会員50人が10月26日、同27日の両日、現地を訪問する。作業中の事故 などで受刑者7人、職員3名が亡くなっており、「仲間の」慰霊の旅でもある。 刑務作業は「只見川電源開発作業隊」の名称で行われた。7年間で、延67万人の受刑者が 7つのダムの発電所建設に従事した。宮城刑務所は昭和54年、創立百周年を記念し、作業隊 が最初に作業場を置いた福島県会津坂下(ばんげ)町の東北電力片門発電所に慰霊碑を建立 している。 当時の、刑務官や護送職員として受刑者と作業に携わった職員の中には、現地を訪問でき ずにいた人も少なくなかった。作業から40年前後がすぎ、当時を知る人も高齢となり「矯正 友の会」として、「同じ釜の飯を食った仲間に手を合わせたい」との声を実現させることに した。旅の発起人は鈴木 孝さん(69)(仙台市太白区八木山本町1-9-6)は、「慰霊をする だけでなく、戦後の経済成長を支えたとも言える作業の功績をたたえていきたい」と話して いる。会では、当時の勤務者名や写真、資料を載せた小冊子の発行を計画しており、協力を 求めている。 平成7年10月25日 河北新報

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只見川慰霊の旅 宮城刑務所OB職員の「矯正友の会」 (高橋正男会長) では、友の会創立40周年にあたる平成7年度秋季総会を、 福島県奥会津の只見川慰霊の旅として企画し、10月26 日、27日の両日、52名の参加を得て開催されました。こ の話は出発前日の新聞にも掲載されたために大きな反 響があり、当日飛び入り参加された方もいました。 只見川水系は、群馬、新潟、福島の3県を源流として、 包蔵水力の豊富さから戦後電源開発の国策で多数のダ 片門ダムより只見川を望む ム、水力発電所が建設され復興の原動力となり、現在な お東北、関東各地への電源地帯の一つとなっています。 宮城刑務所では最下流の片門ダム建設への労働力提供を目的に、昭和26年に「只見川電源 開発作業隊」を発足させました。工事の進捗に伴い柳津、宮下、本名、上田、田子倉と逐次 上流に進出し、隣接水系の宮川とこれらを統括する作業本部を開設、最奥地の田子倉ダムの 発電所の地盤掘削が終了した昭和33年末までに、延67万余人を出役させました。勤務職員も 延4万1千人を越え、我国刑政史上不滅の功績を残したのであります。しかし、国策的大事業 に参加したこの7年間には職員3名、収容者7名にも及ぶ尊い犠牲者があったのであります。 宮城刑務所では昭和54年に宮城集治監創立百周年を迎え、職員から記念事業の提案を募っ たところ「只見川電源開発作業隊慰霊碑建立」が第1位となり、建立実行委員会を発足させ ました。時あたかも前年6月に宮城県沖地震があり、外塀が全面倒壊するなど極めて困難な 時期でありました。しかし、事業は「宮城県教誨師会」と「宮城刑務所篤志面接委員協議会」 に引き継がれ、昭和54年9月、作業隊発祥の地に「慰霊碑」が建立され、除幕式後宮城刑務 所に移管された経緯があります。 その後は毎年管区長・宮城刑務所長が現地を訪れて慰霊祭を行っておりますが、なにぶん 現地は僻遠の地で、建立を熱望した筈の職員も碑前に手を合わせる機会がなく、40年もたつ と関係者も高齢となり、所在さえ知る人も少なくなりました。そこで、矯正友の会としても 昔の仲間にぜひ手を合わせたいとの熱意が今回の企画を実現させました。 最初の訪問地まで大型バスで3時間。会長の発案で総会を車内で開催。会津磐梯山付近か らは、只見について調査したことをもとに旅発起人である会員がガイドを引き受け、慰霊碑 の建つ東北電力片門発電所に到着しました。「立派に出来ているなー」「岩盤まで掘ったの だから川幅はもっと広い感じだった」 「先発隊を連れて最初に来たのはわたしらですよ」 等、40年前を思い起こし、動こうともしない人たち。碑前祭では香華を手向けて長い間合掌 瞑目し、誰もが感無量のようでした。 上流の柳津、宮下、上田の跡地では、弁当を手に車窓から遠望する強行軍。本名では青木 本部長殉職地点で下車。一人の会員が「あっ、あの山だ」と対岸の急斜面を指差すと思わず 手を合わせる会員。山裾のスノーシェルター(雪崩防止屋根)を見つけ「当時からあれがあ ればなー」と悔やむ人。晩秋の本名の風は当時を偲ばせるように冷めたかった。田子倉への 道は遠かったけれども舗装され、「この辺に街があったかなー」と山村の変貌に全員が驚く ばかりだった。発電所では工程順の写真を前に「俺たちが何をしたか初めて解ったよ」「水

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車室は地下三階なのか」「ダムの中にデパートより大きなエレベーターが・・・」と口々に 感想を述べていました。 一気に上がった120㍍のダム堰堤上では、航路を引く遊覧船に「こんなにいい湖になった のか」「宿舎はあのあたりだ・・・」「八巻場長にも見せたかったな」「もっと早く来られ たら家内も連れて・・・」とメガネの下にハンカチを押し込んでいる姿も見られました。 国道252号線のヘアピンカーブを降りるとき「ここはP隊道路と呼ばれ、スコップとつる はしで俺たちが切り開いたところです」と紹介する元隊員もおりました。 総会は済んでいるので夜は懇親会のみ。車内から出来上がっているので、すぐにカラオケ 大会。OB会員の社交ダンスに加えて、女性会員の舞踊にアンコール続出。柳津町民センタ ーでの夜はなかなか更けませんでした。 今回の総会は、 「現地で作業隊の成果を確かめたい」 「亡くなった仲間へ手を合わせたい」 との元職員の願いが実現された慰霊訪問の旅でもありました。 宮城刑務所OB

鈴木 孝

平成9年6月煉瓦塀の中の50年―宮城刑務所と私―扇畑忠雄(東北大学名誉教授) この随想の題を「煉瓦の中の50年」としたが、私が50年もその中 に収容されていたわけではない。50年間煉瓦塀のなかに通って、被 収容者に短歌の話や作り方を指導し、彼らのために情操教育の手伝 いをしてきた者として、たとえ煉瓦塀をへだてたにしろ、その内と 外を50年間も行き来していれば、同一の空間を共有している意識に ならざるを得ない。私が京都から仙台に移り住んだのは戦争末期の 昭和17年で、それから敗戦を経過してすでに50余年みちのくの生活 を送っている。そうした戦後の昭和23年、思いがけず、宮城刑務所 から作歌指導の依頼を受けて以来、「煉瓦塀の中」と縁を持つこと になったのである。昭和の初年から作歌をはじめ、歌誌「アララギ」 扇畑 忠雄 の会員となるとともに、昭和21年に仙台で歌誌「群山(むらやま)」 を発行して作歌活動を行っていた機縁で、その依頼を受けたものと思われる。 扇畑 忠雄・・(1911 年 2 月 15 日 ~ 2005 年 7 月 16 日)歌人、国文学者、東北大学名誉 教授。旧満州の旅順出身。京都帝国大学文学部国文学科卒。 父・孫一は旅順民政部で農林技師をしていた。父の急逝により 8 歳で広島県の祖父母の もとに移住、12 歳で広島市に移った。旧制広島一中を経て旧制広島高校に進学、北島葭江 教授が指導する広高短歌会に所属した。広高在学中の 19 歳の時「アララギ」に入会。アラ ラギ派の歌人となり、斎藤茂吉、土屋文明、中村憲吉に師事。京都帝大卒業後、旧制呉二 中や旧制京都一女の教員を経て 1942 年に旧制第二高等学校教授となり、1946 年東北アラ ラギ会『群山』を創刊。東北大学教授および教養部長を歴任し、万葉集の研究を専門とし た。1983 年 4 月 29 日勲三等旭日中綬章受章。1993 年、『冬の海その他』により第 29 回 短歌研究賞受賞。1996 年には『扇畑忠雄著作集』(全 8 巻)により、第 19 回現代短歌大 賞を受賞。2002 年には歌会始の儀で召人に招かれるなど、歌人として活動した。日本現代 125


詩歌文学館の第 2 代館長もつとめた。 2005 年 7 月 16 日に死去した。死亡原因は扇畑の遺言により非公表となっている。 享年 94。叙従四位。 短歌は私、俳句は高浜虚子門の「ホトトギス」同人阿部みどり女さん(明治19年~昭和 55年)であった。「あなた女性の身で、男ばかりの刑務所によく行かれますね」と冗談ま じりにお尋ねしたところ「そうですね。私はオバアさんだから女と思われていないんでし ょう」と笑っておられた。 阿部みどり女・・本名光子、北海道札幌市で生まれ、父永山武四郎 は、二代目道長官として知られている。鎌倉で「ホトトギス」に投 句し大正4年に初入選。その後、高浜虚子に師事する。昭和6年長女 多美子は、河北新報社3代社長一力五郎(俳号・杜野光)と結婚し ている。昭和7年、河北俳壇投句者を核として主宰誌「駒草」を創 刊、東北、関東を中心に誌友の数を伸ばす。 昭和22年、五郎が急逝し、多美子一家は東京へ移り、みどり女は 1人仙台に残った。しかし、東京へ移った多美子は58歳で亡くなり、 阿部 みどり女 みどり女はその悲しみを胸にひたむきに俳句活動を続ける。仙台には昭和53年まで暮ら し、後、東京にいる多美子の長男一力健のもとに身を寄せ、亡くなるまで俳句を詠み続け た。句集「笹鳴」「微風」が発行されており、茂庭の大梅寺を詠んだ句も収録されている。 昭和32年篤志面接委員に任命・・それから10年ほど前の昭和23年から同所の作歌指導に当 たっているので、今日まで50年の経歴になるであろう。その50年間、毎月1回(大体、月の 最終日曜日)に通ったのだから、ほぼ600回を数えることが出来る。寡聞にして他の施設の ことは知らないが、同一人が継続して従事した例はそう多くないはずである。それも、私が 病気のため中絶することもなく、また、勤務(東北大学教授)上転勤、他出もなく、一貫し て同一地に住み続けた運命のなすわざであったかもしれない。 戦後の刑務所・・当初の昭和23年ころは、戦後間もないことで、ことに仙台は空襲のあとの 焼野原であったが、刑務所も物資不足で公用車もなかったのか、迎えの車は窓に鉄格子がは まり、車体に大きく○刑のマークのついた護送車であった。その車に私一人乗ったまま往復 することが何年かつづいた。

当時の刑務所の護送車

宮城刑務所は、伊達政宗の居城たる若林城(政 宗は、晩年青葉城よりこの若林城に常住した)の 跡に、明治12年集治監として建てられ、西南の役 の国事犯も多数収容されていたという。戦後、国 内はアメリカの進駐軍の管制下にあったので、市 内にはアメリカ兵が往来し、ジープが走り回って いたが、刑務所の門に英語でPRISONと書かれた 標識が掲げられていたのは異様であった。

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次の私の一首(「短歌作品集成」所収、以下引用の歌も同様) PRISONの標かかげて門そびゆ秋の終わらむ天の曇りに はその時の属目である。 当時の刑務所内での歌会の様子・・構内のほぼ中央に六角塔が建っていた。外人技師による 明治建築の六角形五層の建物で、その塔を中心にして舎房の棟が放射状に延びていた。その 塔を上に上がった階上の部屋で20~30名の受刑者と相対する歌会は、そのころ30代の弱年 だった私には緊張を強いる経験であった。短歌についての講話や歌評を重ねるうちに相互の 気持ちもほぐれ、自由に意見を交換することができるようになった。その中には、今まで作 歌などしたことのない初心の者もいたが、何とか31文字の詩を作りたいばかりに、辞書や文 法の本を読んで学習に励み上達するなど、彼らの作歌熱は次第に高まっていった。 歌つくるをただ共通の世界とし一つ歎きを守るむとする 罪なはれ世にはばまれて君らあり限られし自由お歌など作る 煉瓦塀へだえて吾と君ら生く孤独は常に同じかるべし これらの歌にあるように、作歌することが彼ら同士の、また、彼らと私との「共通の世界」 であり、辛うじて作歌の時間だけが彼らにとって「限られた自由」であった。そうしてたと え彼らと私とは煉瓦塀をへだてて住んでいるけれど、「孤独は常に同じかるべし」と相互い 共鳴共感するところがあった。 短歌を作ることにより見えてきた物・・「歌を作るようになって、物をよく見えるようにな りました。また、何でもない物にも心ひかれるようになりました。今では道の石ころなんか 蹴飛ばして歩いていたのが、石ころにも命があり、それが美しいものに思われて来ました」 という彼らの述懐を聞けば、短い詩形の短歌を作ることがカタルシス(常花となっているこ とが実感される)。作歌するようになって、周囲の自然の風物に対する観察が微細になり、 また、人事(肉親、友人や過去の反省、罪科に対する禍根、人間の心理など)についても省 察を深めるようになった、という人間的な成長を語る告白が多く聞かれる。 償いのためのみならずもの創る喜びは人をよみがへらしむ 有形にしろ無形にしろ、「もの創る喜び」は単に贖罪のためばかりでなく、創作するとい う無償の栄為が人間を新しく改革し、蘇生させるという実験を、私は この短歌教室でたしかめることができたように思う。 六角塔の解体・・舎房のあった六角塔が老朽化のため解体されること になった。明治の貴重な建築なので明治村に持っていくという話が出 たが、解体の上移送する費用が高くつくので沙汰止めとなり、空しく とり壊されてしまった。 六角塔の暗かりし房をわが知れり崩されて明るき一劃となる 六角塔解体 この六角塔で短歌や俳句を学んで出所した人たちは、以後再び会う ことがなくとも、年一回の年賀状や暑中見舞状で消息を書き送ってくる人が少なくない。 127


文芸誌「あをば」・・“学びたる歌は忘れずと便りあり北に南に生き凌ぎつつわが生に影を おこして去りゆきし「あをば」の友らいづこにありや” 上記のこの二首目の「あをば」というのは、宮城刑務所で発行されている文芸誌のことで ある。この雑誌は、物資欠乏のため全国的に出版物が制限され、ことに雑誌類は統廃合を勧 告されていた戦争末期の昭和19年7月に創刊されたので、まったく当局の英断といわざるを 得ない。後に小説、随想、詩、川柳の各ジャンルを加えたが、初めは短歌と俳句だけの短詩 型専門の雑誌であった。創刊号は用紙不足していた時代のことで粗雑なザラ紙で、しかも謄 写版(いわゆるガリ版)の印刷であった。戦後、所内の工場で活版印刷することになり、題 号の「あをば」について新仮名遣いを「あおば」に替えようとする案があったが、元通りの 「あをば」を保存して今日に及んでいる。 「あをば」の選歌選評・・短歌と俳句の阿部みどり女さんは、同所と関係を持った昭和23年 から選歌選評を担当し、同じ月々の歌会と共に50年にわたる足跡を残したことは感慨が深 い、歌会での研鑽の成果が「あをば」誌上に刻みつけられている。 この「あをば」は、作品はもちろんのこと、編集、校正、印刷すべて収容者の手に成るも ので、月刊を欠かすことなく50数年(平成9年3月号が第55巻633号にあたる)継続されたの は希有の事例で、他に例を見ないところであろう。なお、この雑誌は所内および関係者以外 には配布されないから、社会的には幻の刊行物であるが、後世貴重な文献となるにちがいな い。 歌人土屋文明氏の宮城刑務所での講演・・所内の歌会でしばしば「アララギ」の歌人 土屋 文明(明治23年~平成2年)の話をしていたので、私が「あをば」に参与してまもなくの昭 和23年8月、所内の歌会における批評と講演を依頼して8月12日実現することができた。講 堂で全収容者約千名を前にして「生活と文学」という講演が行われたが、その最初に万葉集 巻二の有間皇子が無実の罪で処刑される前、松の枝を結んで自ら詠んだ歌二首、 岩代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた返り見む 家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る を挙げ、それを注釈した僧契沖のことばの中から「これらの歌の中に皇子の心の魂となって 宿っているのか、悲しいこと限りない」「これらの歌を後世まで人が知って讚えるのは、も っぱら和歌の徳である」(口語訳)を強調して、受刑者の作歌にもそうした功徳のあること を述べ、作歌は生活の中にこそ生まれるべきことを力説された。 祖父の獄死・・その時、土屋文明の心中には、強盗事件のため刑を受け た祖父が北海道の樺戸集治監に送られ、徒刑囚として明治 20 年獄死 (郊外作業中伐採した大木の下敷きになり死亡)した悲しい出来事が よぎったのではないか。祖父の強盗事件は文明出生以前のことであっ たが、幼年時代耳に入るその噂は衝撃的で村を歩くのもはばかれるほ どだったという。有間皇子の歌を説きながら、その目に光るものを認 めたのは私だけではなく、聴衆も等しく感銘を深くした。 は

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樺戸集治監


土屋文明・・明治 23 年(1890 年)~平成 2 年(1990 年) 明治 23 年、群馬県西群馬郡上郊(かみさと)村(現・高崎市)保渡田(ほどた)の農家 に生まれる。幼少期は伯父の家で育てられ、伯父の膝の上で講談を聞くなど貴重な体験を する。高崎中学在学中から文学を志し、蛇床子の筆名で俳句や短歌を「アカネ」「ホトト ギス」に投稿する。中学の国漢教師 村上成之が根岸派の歌人、俳人であることを知り、成 之に師事し自然主義文学の目を開かれる。卒業後、成之の紹介により伊藤左千夫を頼って 上京、左千夫の家に住み込み短歌の指導を受け「アララギ」に参加する。その後、一高を 経て東大に進む。一高、東大の学友には、山本有三、近衛文麿、芥川龍之介、久米正雄ら がいた。東大在学中から芥川、久米らと第三次「新思潮」の同人に加わり、井出説太郎の 筆名で小説、戯曲を書いた。昭和 5 年斎藤茂吉から編集発行人を引き継ぎアララギの指導 的存在となる。昭和 20 年 戦災に遭い吾妻郡原町(現東吾妻町)川戸に 6 年半の疎開生活 を送る、昭和 28 年 日本芸術院会員、38 年 宮中歌会始召人、59 年 文化功労者、61 年 文 化勲章を受章する。平成 2 年 肺炎及び心不全により 100 歳で死去。 群馬県名誉県民、群 馬町名誉町民、東京都名誉都民。 斎藤茂吉の寄稿・・土屋文明氏と同じく「アララギ」を統率する歌人斎藤茂吉(明治 15 年 ~昭和 28 年)のことも歌会で度々話題にしていたので、「あをば」100 号記念号のために 寄稿を依頼した所、病中で多作はできないが一首だけということで、 とらつぐみ山の木立に啼くときに夜ふけむとしてしきりに寂し が送られ、それで100号を飾ることができた。そうした縁故であった。 斎藤茂吉への追悼歌・・昭和28年2月25日逝去の報を舎内のラジオで聞いて 斎藤 茂吉 短歌会では、早速追悼歌17首(1人1首)ずつ作って和紙に黒書し、1冊に綴 じた上、その冊子を霊前に供えるよう、3月2日東京築地の本願寺で行われる告別式に出席の 私に託された。受付でその仔細を述べ、冊子を渡しておいたところ、式の半ばスピーカーで 呼び出された。この事件を感知した新聞記者から記者会見を受けることになった。翌日の各 紙にこの報道が記事となって掲載され、宮城刑務所の短歌が大きくクローズアップされるこ とになった。「あをば」の歴史の上に、このような2人の歌人とのかかわり合いがあったこと は深く銘記されなければならない。 斎藤 茂吉:(1882 年(明治 15 年)5 月 14 日 ~1953 年(昭和 28 年)2 月 25 日)は、日本の歌人、精 神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。精神科医としては青 山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こ と斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香 はこの北杜夫の娘にあたる。

現代短歌大賞・・私の研究論文評論と短歌作品(昭和5年~平成2年)を編集した「扇畑忠雄 著作集」全8巻が完結したのを機に第19回「現代短歌大賞」を受けることになり、昨年12月 129


東京学士会館でその授賞式が行われた。この賞の対象は著作集および過去の業績ということ であるが、私の意識では「過去の業績」のかなり大きな部分が「煉瓦塀」の中の50年ではな いかと思っている。この授賞を宮城刑務所からも祝福を受け、また、「刑政」からも寄稿を 求められたのは望外の喜びであった。 平成9年6月 刑政108巻6号

平成 23 年 3 月の東日本大震災時の宮城刑務所 当日は火曜日で開庁面業日の日であり受刑者は舎房の中で教育テレビを視聴していた。地 震でかなり揺れたが、宮城県沖地震の時とは違って外塀も鉄筋が入った頑強なもので、土塁 もしっかりしていたので、倒壊するようなことはなかった。工場群も鉄筋コンクリート造り で倒壊する建物がなかった。しかし、工場内には作業材料、作業製品、作業用機械などが散 乱していた工場が多かったので、もし受刑者が作業中に地震が起きたら、これらの下敷きに なって多数の死傷者が出たのでは無いかと推測された。

怜和元年 11 月 13 日

山は博物館・只見川のダム陰に囚人の苦役

奥会津の雪解け水を集め福島県の只見川では太平洋戦争後、復興と経済成長のためにと東 北電力などが次々と水力発電用ダムを作った。工事に駆り出されたのは囚人(受刑者)。宮 城刑務所では現場に宿泊させ、7 年間で全国最大規模の延べ 67 万 6,000 人を動員した。 只見川は尾瀬ヶ原を水源とし、燧ヶ岳や 会津駒ヶ岳の雨を集めながら奥会津を貫流 する。岩手県の山王海や田瀬の各ダムで実 績を上げた宮城刑務所が、最初に只見川に 出役したのは 1951 年 12 月、会津坂下町に ある片門ダムだった。宿舎は「荒涼たる冬の 山峡に急造の生木で作ったバラック建。寝 具を乾燥させる術もない」と記録されてい る。その後上流に向かって田子倉まで計 6 ダ ムと宮川の 1 ダムに作業場を拡大。昭和 58 年 11 月まで最盛期は 1 日約 1,000 人が働い

宮城刑務所の受刑者が作業した現場で最大の田子倉ダム

た。 当時の雑誌「刑政」によると、「作業場はドリルの音、ハッパの音、鉄板のきしむ音、モ ーター音の入り乱れる」と紹介。1、2 月は「吹雪の中で凍傷や怪我と戦いながら過ごした」。 性犯罪者は除き、改善が比較的困難な「B 級」の者が集められたが、働きぶりは良かったと いう。休みは多くて月 2、3 日。ありがたいのは「労働争議が絶対にない」こと。月 1 回の 映画観賞などの余暇もあり「今は苦しませるのではなく、労働意欲を持った人間を作る。そ うすれば世の中に出ても犯罪が少なくなる」と説明している。 近隣住民は犯罪増加を心配したが、大きな問題は起きなかったという。「最初は警察署長 さんが心配して来ていたが、3 ヶ月後には解ってくれたようです」。「受刑者はフグみたい

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なもの。危ないと思って食べてみると美味しい」との発言もある。宮城刑務所の歴史に詳し い元刑務官、柴修也さん(72)は「賃金が安いので建設会社も助かった。山に囲まれている 所なので脱走者も少なかった」と指摘する。 近代的な刑の執行制度になった明治以降、囚人は道路開削や河川改修、農場や鉱山の作業 に就役した。昭和 10 年代の戦時下は、飛行場建設や造船、航空機製造など、戦争のための 労働力とされた。終戦後、刑務所は戦火で荒廃したうえ、戦争 犯罪人収容のため東京拘置所など米軍が接収。収容可能人数が 減ったが、社会の混乱で犯罪が増加し、刑務所は過密状態とな った。 この対策が只見川で行ったような「構外作業」だった。47 年 5 月時点で、全国の従事者 8,789 人のうち、農耕に 23%、造船 に 11%が就いたほか、森林伐採や製炭、製塩もあった。赤城山 や大山、阿蘇では食料不足解消のため原野を開墾。徳島刑務所 は剣山に近い長安口ダム(徳島県)、山形刑務所は朝日連峰に 抱かれた木川ダム(山形県)に出役させた。 一方、奥会津では囚人 7 人が発破の爆風を受けたり、梯子か ら転落したりして死亡した。岩石に体を挟まれて腰骨が折れる などして傷害を負った人もいた。刑務官でも雪崩などで 3 人が 死亡した。苦役が目的ではないとはいえ、「只見川電源開発作 業隊殉職・殉難者慰霊碑除幕式記録」(79 年発行)は「冬季一 丈(約 3 ㍍)余の積雪と氷点下 20 度を超える厳寒、夏は焼くが 如き猛暑。苦労は筆舌に尽くしせぬ思量される。」と指摘して いる。 怜和元年 11 月 13 日

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毎日新聞朝刊


六角塔模型 50 分の 1 (大成建設製作)

昭和47年から宮城刑務所に勤務するようになって刑務所の歴史に興味を持った。何より もわが国最初の集治監ということを知り、その沿革を調べてみた。最初は県立図書館の郷 土資料室、博物館の資料室などを調べてみたが、集治監関係の資料は見つけることができ なかった。 あるとき郷土史研究家の辺見某さんに集治監歴史の話をしたら、「県立図書館の資料室 にあるマイクロフィルム化した明治時代の新聞「仙台日々新聞」に、集治監に関する記事 が掲載されているのでそれを検索するとわかるのでは」との教えを受けた。 早速県立図書館に行き集治監設立当時の新聞記事を読んでみた。確かに辺見さんが教え てくれた通り、新聞記事には集治監そして宮城県監獄署に関する記事が多数取り上げられ ていた。当時の新聞は約8ページあり1日で3ヶ月分読むのが精一杯で、集治監に関する記 事は手帳に書き写し、更に長文はコピーした。 自宅に帰ったあと書き留めた記事をパソコンに打ち込んで残した。約10年かけて、明治 19年までの集治監の記録を調べることが出来た。宮城集治監は明治新政府が威信をかけて 開設した近代行刑のモデル施設であり、開設当時は様々な難局があり職員も多大な犠牲の 中で、日本の行刑制度の礎を築いたことが、新聞記事の中からうかがえた。 今回これらの新聞記事を中心に宮城集治監沿革史を編集してみた。明治時代の新聞記事 を現代風に訳してみたが、能力不足で誤字、脱字が多数あるのをお許し願いたい、更に続 編として大正時代、昭和時代を編纂した。集治監の沿革史を読んでいただき、集治監が地 域に果たした役割等理解していただけば幸いである。 令和2年4月1日

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修也


ふるしろの里

矯正友の会

悠久 (宮城刑務所百年記念誌)

宮城刑務所

矯正職員殉職者名簿

矯正図書館

旧宮城刑務所沿革史

宮城刑務所

矯正風土記

矯正協会

河北新聞 毎日新聞 朝日新聞 100 年の記事に見るー奇談珍談巷談上

朝日新聞社

日本の死刑史

日本文芸社

森川哲郎

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宮城県沖地震写真集

刑務所北側の外塀内側に倒壊する。一部工場内に落ちている。

刑務所北側の外塀、殆ど倒壊している。

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仙台拘置支所道路から内部が丸見えになっている。

一部倒壊した外塀を補修する。

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若林城跡の土塁の上を走る小型ダンプカー。

倒壊し粉々になった煉瓦塀。

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煉瓦塀を全て取り除いた若林城跡の土塁。

刑務所北側煉瓦を取り除く、右下に文書庫が見える。

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北門付近に完成した仮塀。

仮塀土塁の上より撮影する。

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仮塀工事中の様子、外部の建設会社が実施している。

仮塀の枠組み。

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仮塀の外枠。

仮塀の外枠。

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崩れた煉瓦塀を持ち上げる大型クレーン車。

「宮城集治監沿革史 宮城刑務所昭和・平成・令和編」はあくまでも個人の研究であって、 宮城刑務所は関係ありません。間違いや不明な点がありましたら下記のところまでご連絡 ください。

修也(しば しゅうや) 住所: 984-0823 仙台市若林区遠見塚1-12-25

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