吉野弘幸「左フックの千両役者」 苦しかった少年時代、運命変えた具志堅用高との出会い「俺もボクサーになる」…後編

スポーツ報知
92年9月、日本武道館で13度目の防衛戦に挑んだ吉野(中央、左は宮田、右は飯田の両トレーナー、吉野弘幸提供)

 物事を前向きにとらえる吉野だが、幼少期はつらく、悔しい思いを背負い生きてきた。

 「あの頃はつらかったし、毎日悔しい思いをしていた。母親がパート先の主人にだまされて住む家も無くなりましたから」。

 父は心臓が弱く入退院を繰り返し、家計は母がパートを掛け持ちして支えていた。吉野が小学校6年の時に父は死去した。苦しい家計ながらも母と楽しく過ごしていたが、中学生になってしばらくすると生活が暗転する。母がパート先の飲食店の主人にだまされ、借金の保証人になると、店は倒産。取り立て屋が家に押しかけるようになった。大声で罵詈(ばり)雑言を浴びせられ、家の外壁には「金返せ」という張り紙を何枚も貼り付けられた。

 「恥ずかしいなんてもんじゃなかった。青戸の慈恵医大病院の並びに自宅があったんですが、病院に行く人みんなに見られていた。中学の友達にも見られてましたから」。

 自宅がなくなるまでは早かった。そこから母のパート先の運送会社の社宅アパートでの生活となった。吉野はそれ以前に父が死去した時点で決心したことがある。「ウチの家計では高校に行くだけの余裕はない。義務教育が終わったら働こう」と。

 運命的な出会いがボクシングへと導いた。1979年1月24日、小学校6年の時だった。父が入院している東京慈恵医大病院に当時の大スター、WBA世界ライトフライ級王者の具志堅用高(協栄)が7度目の防衛戦を終え、検査入院してきた。その事実を知った吉野は、サインをもらおうとノートとペンを持ち自宅から数分の病院に直行した。当然「面会謝絶」だったが、ひとり病室の前に立っていると、事情を知った関係者が面会を許してくれた。具志堅は快くペンを走らせた。手渡されたノートには具志堅用高の名前、その右横には吉野の将来を案じたのか「勉強しろ 弘幸君へ」と書かれていた。12歳の少年はチャンピオンのオーラに圧倒され、とりこになる。

 「当時の大スターですよ。格好良くて。その時、勉強はしませんでしたが、ボクサーになることを決めたんです」。

 具志堅の名を口にするその表情は、40年以上経った今でも憧れの存在ということが見て取れた。

 日本チャンピオンになると防衛を重ね、充実した現役生活を送った。ライバル上山との3度目の対戦に続き、再起戦となった11度目の防衛戦では最大のピンチを迎える。挑戦者は11戦全KO勝ちの佐藤仁徳(仙台)。「仁徳は本当に強かった。とにかくパンチが硬かった」と述懐したファイトの戦前予想は「吉野不利」。それでも超満員になった後楽園ホールで4回に猛攻を仕掛けてTKO勝ちした。今から31年前の日本タイトル戦では破格の350万円のファイトマネーを手にしている。14回防衛した日本王座を返上すると、93年6月にはWBA世界スーパーライト級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)に挑戦(5回TKO負け)した。東洋太平洋王座も手にするが、吉野が大きな話題を提供したのは、ボクシング界を騒がす禁断の行動を起こしたからだった。

 96年12月、東洋太平洋王座の3度目の防衛に失敗すると、会長の渡辺から引退を勧められた。体を心配してのものだが、現役に固執する吉野は拒んだ。当時、競技こそ違えど世の中はK―1ブームが吹き荒れていた。吉野は知人からK―1への移籍を勧められ、悩んだ末に出した答えは「違う世界でボクサー吉野をアピールしてやろう。キックは使わずパンチだけで倒してみせる」とキックボクシングの団体と契約を交わし、活躍の場をK―1のリングに移した。97年9月に大阪ドームでの試合は予告通りキックではなく左アッパーで1回KO勝ち。ボクシング界からのK―1転向第1号と注目を集め、試合の結果は、当時のテレ朝系報道番組「ニュースステーション」でも取り上げられるほど注目を集めた。

 これに対しボクシング界は複雑だった。今でこそ他の格闘技団体との垣根はなくなったが、当時は他の格闘技団体に参加した選手には厳しい罰則を科していた。過去に例をみない行動に業界は「吉野はボクシングを捨てた」とみなし、事実上の絶縁状態となった。K―1に行ったはいいが、ヘビー級がメインの舞台。中量級の吉野にはなかなか活躍の場が与えられず、さらに所属したキックボクシングの団体が倒産する憂き目にあい、ボクシング界への復帰を決断する。

 元日本チャンピオンといえども、簡単にライセンスが再発行されるほど甘い世界ではない。当時の日本ボクシングコミッション(JBC)のルール「他のプロスポーツに関与、従事した者は、JBCの審査を経て発給の可否を決定する」という条項に抵触すると判断され、ライセンスは発行されなかった。ただ、吉野の実績を高く評価するベテラン協会員も多くいた。最終的には1年間謹慎する形で復帰が認められたが、移籍、復帰と前例のない行動は業界全体を大きく騒がせた。

 引退後の2005年3月21日に地元の東京・葛飾区に妻でマネジャーの知子とジムをオープンした。3月21日を選んだのは、日本王座を手にした記念すべき日だからだ。吉野が知子と一緒に暮らし始めたのは世界戦に敗れた93年6月23日の夜から。チャンピオン・コッジの左アッパーで胸骨を折られて苦しむ吉野を看病し、立ち直らせたのも知子の力だ。「今生きてられるのも奥さんのおかげ。本当に感謝しかない」と、妻には頭が上がらない。

 今を楽しみ「素」で生きるのが吉野のスタイルだ。現役時代の愛車はHONDAの高級スポーツカーNSX。56歳の現在は「10年以上乗っている軽自動車。エンジンかけると変な音がするんだよね」と笑う。昔は昔、今は今。そして、こう続けた。「貯金はゼロ。どうしましょう。でも、それでも生活はできる。最終的には『まぁ、いいか。何とかなるさ』で。幸せな人生ですよ」。苦しかった少年時代、心の中に少しの恨みつらみはあったが、そこからは何も得るものが無いことを知った。だからこそ、どんな時でも努めて前を向く。吉野の周りに人が集まる理由が、分かる気がした。(近藤 英一)=敬称略、おわり)

 ◆吉野 弘幸(よしの・ひろゆき)1967年8月13日、東京・葛飾区生まれ。85年2月に17歳でプロデビュー。88年3月に日本ウエルター級王座を獲得すると14連続防衛に成功。14度は同王座の最多防衛記録。その後、東洋太平洋ウエルター級、日本スーパーウエルター級王座も獲得。戦績は36勝(26KO)14敗1分け。身長177センチの右ボクサーファイター。

 ◆エイチズスタイルボクシングジム ウエルター級で日本、東洋太平洋、スーパーウエルター級で日本と2階級で3つのチャンピオンベルトを手にした吉野弘幸が2005年3月に世代を超えたボクシングジムとして開設。日本プロボクシング協会には非加盟だが、選手志望から健康維持まで小学生からシニア世代までが連日汗を流している。住所は東京都葛飾区青戸6―1―13 武藤商事ビル2F 京成電鉄・青砥駅下車2分。平日=午後2時~同10時、土曜=午後2時~同9時、日曜=午後1時~同4時。休館=祝日、祭日、年末年始。

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